「風の便り」(第119号)

発行日:平成21年11月
発行者 三浦清一郎

拝啓 鳩山総理大臣 殿
「コンクリートから人へ」のスローガンに過疎対策は入っていますか?

1 過疎対策-失敗の連鎖
理屈はともかく過去の政治は国土の均衡的発展に効果のある政策は実行できませんでした。過疎地域はますます生活・環境条件の貧困化に追い込まれています。過疎対策は失敗の連鎖だったのです。恐らく最大の原因は、一方で、国民に居住の自由を保障しながら、他方で過疎地の定住人口を増やそうとした考え方に起因していると思われます。 過疎地域については、これまで3度の過疎対策のための特別措置法が作られ、各種の対策が講じられてきました。今年度期限切れになるのが、10年間の時限立法として、施行された「過疎地域自立促進特別措置法」です。 —
法律の目的は相も変わらず美辞麗句に満ちています。「過疎地域自立促進特別措置法」は、人口の著しい減少に伴って地域社会における活力が低下し、生産機能及び生活環境の整備等が他地域と比較して低位にある地域を過疎地域ととらえ、住民の福祉の向上、雇用の増大、地域格差の是正という従来からの目的に加え、過疎地域に対し、豊かな自然環境に恵まれた21世紀にふさわしい生活空間としての役割を果たすとともに、地域産業と地域文化の振興等による個性豊かで自立的な地域社会を構築することにより、我が国が全体として多様で変化に富んだ、美しく風格ある国土となっていくことに寄与することを目的とする、というものです。
しかし、過疎は止まったでしょうか?止まっていないでしょう!!縦割り行政が縦割り分業の制約の中でいろいろ試しましたが、過疎対策は,高齢者支援や子育て支援に似て、分野を越え、総合的・分野横断型の対策でなければ効果は上がらないのです。住宅を提供しても、牛一頭をプレゼントしても、自由意志を保障した国民を、不便で貧しい過疎地に移住させることは出来ないのです。–
2 過疎地の主張
過疎地は日本の自然を支えています。全国の1割足らずの人口で、広大な国土の過半を支えています。これらの地域は、総括的に日本の自然環境を保全しています。森林・農地の維持・管理を通じ、土砂災害の防止、水源の涵養、食料の供給、二酸化炭素の吸収、自然環境や景観の保全といった重要な役割を果たし、国民全体の社会経済活動の背景となる条件を支えてきました。-しかしながら、生産人口の都市流失と高齢者だけが残されるという現象は一向にとまりません。人口減少が一定の限界を越え、しかも、現代の少子高齢化問題と複合化すれば、学校は消滅し、地域の活力は失われます。過疎問題とは地域活力の低下を意味し、時には、当該地域の自立ですらもが危うくなります。当然、過疎化がその度合いを増せば、過疎地が担って来た多面的・公益的機能の維持が困難になります。過疎地域を守ることは、国土の保全と国民全体の暮らしを支えることになることは、都市住民を含めた国民全体がうすうす分かっていることでしょう。しかし、政治にも行政にも、真の危機意識が欠如し、過疎対策の分析を間違え、国民の積極的な関心を喚起することに失敗しています。何度同じ失敗を繰り返しているのでしょう!定住人口を増加するという政策が効果を上げていないことで過疎問題は今や極限まで深刻化したのです。「限界集落」という言葉の登場が象徴的です。新しい過疎対策においては、都市地域は過疎地域を支えなければなりません。都市住民は今や自分たちが過疎対策の一翼を担うべく、思い切った施策への協力が不可欠であることを再認識する必要があります。それが義務教育を活用した交流人口の定期的な創出です。都市地域が過疎地域を支え始めれば、その後は、相互に支え合う共生社会の形成を目指すことができるようになります。それは過疎地への定住促進策では実現できません。都市は、現代文明のあらゆる「利便性」、「快適性」、華やかな文明の果実を有しているのです。雇用の機会も、文化活動の機会も、都市に集中しているのです。新たな過疎対策の理念は、定住人口の増加ではなく、義務教育のあり方を工夫した交流人口の継続的な流れを作ることです。定住にこだわる限りどんな法律を準備しても、過疎化を止めることはできません。人間というものは、己の「利便性」も「快適性」も捨てません。過疎地の「痛み」も分かりません。何度も書いて来ましたが、「人の痛いのは三年でも辛抱できる」のです。問題の核心は、現代の政治が、都市住民を中心とした日本人に、過疎地域の持つ多面的・公益的機能を意識化させ、国土づくりにおける過疎地域の意義と役割をどこまで明確に自覚・認識させ得るかにかかっているのです。
3 過疎対策も教育の抜本対策ももう待てません
-「農山漁村留学」の義務化による「交流人口」の創造-

「農山漁村留学」の義務化による「交流人口」の創造は、過疎対策と教育改革を結合した施策です。施策の目指している主たる機能は以下の通りです。

(1) 義務教育における小学校5-6年生以上の子どもに、学期単位で「農山漁村留学」を義務づけ、過疎地における「交流人口」を創造する

(2) 過疎地に児童・生徒を受け入れるための校舎・学寮・給食設備の建設等新しい公共事業を創造し、子どもの生活に関連した雇用を創り出す

(3) 「農山漁村留学」におけるカリキュラム上の内容・方法の編成については、学習指導要領の弾力的運用によって地方の教育行政の裁量に任せ、地域の特性に応じた教育を創造する

(4) 「農山漁村留学」によって自然体験、野外活動、集団・共同生活体験、自立体験、親元を離れた困難体験など、現代教育に欠損している人生の「核体験」は全て補うことが可能になる

(5) 「農山漁村留学」には高齢社会における学校支援を志す熟年ボランティアを組織化し、高齢者が蓄積して来た人生経験の表現舞台を設定し、社会貢献のステージを創造し、高齢者の活力と子どもの発達を同時平行的に支援する

(6) 保護者・教員、その他学校支援ボランティアの交流は、当然、都市と田舎との新しい交流を生み出すことが可能となる
「コンクリートから人へ」というのが新しい政権の政策原理だというのであれば、過疎問題は避けて通れない筈です。ダムを見直すことも、道路政策を見直すことも、無駄な箱ものを見直すことも、もちろん重要なことですが、義務教育の方法を抜本的に刷新して、新しい公共事業を過疎地に興すことは可能でしょうか?
昭和50年、国土庁は「セカンドスクール」構想と銘打った調査報告書を刊行しました。 国土庁報告は、教育界の優れた研究者が名を連ねた提言書ですから、当然、文部省においてもその研究成果は読まれたことでしょうが、教育分野の官僚が他省庁の提案に重きを置く筈はなかったのです。セクト主義は当たり前の時代であり、「国益」よりも「省益」が横行し、官庁の縦割りは甚だしく、「省益」優先真っ盛りの時代でありました。かくして、教育施策立案の権限を有さない国土庁提案は日の目を見ることなく埋もれたのでしょう。筆者の知る限り、研究成果を具体化するための政策化の動きは皆無でした。セカンドスクール構想の骨子は、義務教育プログラムの抜本改革と過疎対策を統合する案でした。「セカンドスクール」は「セカンドハウス(別荘)」をもじった和製英語です。国土庁の発想は、義務教育の改革課題への対応と過疎対策をドッキングしようとしていたのです。自然接触体験を欠損し、自発的活動体験を欠損し、親元を離れた共同生活や異年齢集団体験の機会を失った子ども達には、当時も、今も、「日常」を離れた新しい教育活動の舞台が必要です。そうした「必要」に対処するための、当時の文部省の発想は、「青年の家」であり、「少年自然の家」でした。しかし、そのどちらにも国土の均衡発展や「過疎対策」の視点はまったく欠如していました。当然と言えば当然のことですが、縦割り行政の宿命として、当時も、今も、文部科学省は教育のことしか考えていません。地域活性化や国土の均衡発展は文部省の管轄外だということです。縦割り行政の守備範囲が「たこつぼ化」し、官僚の発想がセクト化し、政治家も「族議員化」して、自らが関わる特定領域以外のことは考えず、総合的な問題を分野横断的に考えることができなくなるのです。地域の均衡的発展や過疎対策は、当時の国土庁や農林省、現在の国土交通省の課題であるというわけです。
もちろん、この当時、現在の「生活科」や「総合的学習」の発想は提起されていず、歴史的に積み上げられて来た「合科教育」の視点は忘れられたままでした。また、「子やらい」や「人なし」の伝統も、「子ども宿」や「若衆宿」などの方法論も忘れられたままでした。戦後の教育改革でアメリカから輸入した「児童中心主義」が全社会に蔓延し、保護に傾いた養育思想の中で、子どもを親元から離して人生や社会生活上のトレーニングを行うという発想は全く出て来ませんでした。

4 「交流人口」の拡大–
「セカンドスクール」構想の最大特徴は義務教育に「農山漁村留学」を義務づけることです。これまでの過疎対策は定住人口の増大にこだわり、定期・継続的な交流人口を創り出すことの可能性と重要性を看過していたのです。「セカンドスクール」は、義務教育の改革施策を活用して一定の交流人口を創り出そうとする発想です。この時、都市の住民が理解・共感しなければならない視点は、義務教育を通して国土の均衡発展を補完するということです。もちろん、教育的にも、親元を一定期間離して、子どもの社会的トレーニングを行うことは極めて有効かつ重要ですが、セカンドスクールの最大の意味は、交流人口の創造による国土の均衡発展なのです。日本は「子宝の風土」であり、学校に子どもの「守役」を託して来ました。子どもは社会的活力の源であり、学校は住民の結束の根源です。僻地の学校をつぶせば、地域の活力が消滅するのはそのためです。それゆえ、セカンドスクールの社会心理学的目的は、人口の減少と学校の統廃合によって、コミュニティの精神的よりどころを失う危機に直面している過疎地を支援するということです。定期的な農山漁村留学制度によって、学校の消えそうな地域に都市の子どもを留学させ、学校という活力の拠点を維持することです。また、セカンドスクールの物理的・経済的目的は、児童・生徒の学寮や教員宿舎など、都市の学校と田舎の学校の交流拠点を新しい公共事業として過疎地域に創設することです。-
国土庁の構想では、都市から日帰りで保護者が行き来することのできる日帰り交通の可能距離圏内の地方の学校と協力して宿泊・教育活動の施設を整備するというものでした。当然、セカンドスクールを訪れる子ども達や先生方、時には保護者の皆さんも、過疎地域にとって「交流人口」としての確実な訪問者を確保するということを意味しています。保護者が日帰りで現地を訪問できるという条件を加味したのは、小学校児童の発達段階や親の心情を考慮したものであったことはいうまでもないでしょう。交流人口の拡大は、都市と地方の交流を通して、過疎の町村に雇用の機会や経済効果を生み出す方策です。給食から始まって、宿舎の管理、清掃や児童・生徒の保険・衛生・安全まで、日常生活の万般の世話に関して雇用の機会も増大することになるでしょう。移動用のスクールバスや先生方の出張旅費が義務教育レベルで予算化され、すべての市町村で「セカンドスクール」構想が動き出せば、都市と地方の交流は子どもを核として間違いなく活性化する筈です。セカンドスクールに伴う教育方法の改革がどれほど有効で画期的な成果をもたらすかに付いての論議は本論では控えますが、セカンドスクールの教育的可能性は巨大なものになります。
5 セカンドスクールの教育的可能性
「農山漁村留学」によって自然体験、野外活動、集団・共同生活体験、自立体験、などを補うことが可能になります。子どもの自立はもとより、都市と農村の交流がもたらす、文化、自然、環境、教育の新しい「学び」と「創造」は計り知れないものがあります。「総合的学習」のカリキュラムを始め、親元を離れた長期の生活体験は、現行の短期・小規模で「ままごとのような」野外活動や宿泊体験や通学合宿などを、根本的に刷新し、新しい「子やらい」や「人なし」の包括的プログラムのなかに統合することになります。セカンドスクール構想の場合は、地元の学校と合同・密着が条件です。当然、地元の自治体との協力・交流は不可欠の条件です。自然条件を活用できる都市の学校の利点が多々あることはもちろんですが、地方の学校も都市の学校から様々な刺激を受ける筈です。スク
-ルバスの運行を予算化する以上、田舎の子どもが都会で学ぶ合同の授業も可能になります。当然、都市の子と地方の子が一緒に遊ぶことも、生活を共にすることも可能になります。日本人の「子宝の思想」や義侠心を思えば、その時、都市住民は田舎の子どもにホームステイの提供ぐらいはして下さることでしょう。教師間の交流も可能です。学校支援ボランティアの交流も可能になります。教育的可能性が巨大であるというのはそういうことを全て含んでいるからです。システムが機能すれば、国土の均衡発展はもとより、教育の地域間格差の是正、学校間格差の修正、子どもの欠損体験の補完、過疎地の経済的・文化的支援など多様な機能を同時に果たすことができる筈なのです。-しかし、この仕組みは民主連立政権が言っているような「地方主権」政策で歯の立つような簡単なことではありません。セカンドスクール構想は過疎問題の解決に留まらぬ、義務教育の抜本改革を含む国家全体の重大問題だからです。
問題行動の風土-非行の文化

1 真の原因は「非行容認の文化」

学校の問題行動は、時に学校で発生し、また時に学校外の地域で増殖して学校内に持ち込まれます。
校内の問題行動の解決は教職員の一致した毅然たる集団指導が基本です。一般教職員と生徒指導担当の教員を分けるような分業のシステムではまず非行文化をつぶすことは出来ません。生徒の具体的な問題行動の解決も進みません。荒れた学校の真の問題は、校内にせよ、校外にせよ、生徒の問題行動を生み出し、それらの存在に無関心で、結果的に非行を容認している「心理的風土」の存在だからです。いじめがなくならないのも同じ理由です。問題行動を生み出す心理的風土は、無関心を含め、どこかで非行を容認している人々が存在するからです。生徒の問題行動が頻発する心理的風土を支えているのは、社会と学校を分離し、学校の教育機能を特別視した「非行容認の文化」です。学校外には卒業生の非行少年または非行青年がいる筈です。その背後には、自分の子どもの問題行動を薄々自覚しながら、我が子だけは「まもりたい」とする保護者の「自己中」心理があります。他の大人たちも我が子に直接の被害が及ばぬ限り、「見て見ぬ振り」の「日和見」を決め込んで声を上げません。
教員の中にも、教育現場で起こった問題は教育現場で解決すべきであるという自らの実践も結果も伴わないきれいごとの理想論があり、教育機関の体面にこだわった閉鎖主義があります。これらの人々全部が非行文化の担い手です。子どもたちの問題行動は、学校の「せい」だとして、見て見ぬ振りをしている地域の人々も、学校の問題をひたすら隠し続ける教員達のメンタリティも、それぞれに生徒の問題行動を増殖する心理的風土なのです。
学校の問題行動の芽を摘むためには、暗黙のうちに非行を容認している「心理的風土」を克服して、地域の非行文化の芽を摘まなければなりません。地域において非行文化が蔓延し、卒業生などの問題行動が放置されていれば、校内の問題はいつでも火を噴き、いつまでも沈静化しません。保護者との連携も大事ですが、社会の治安と安全を司る外部機関との連携はもっと重要です。学校は明らかに社会の一部であり、外部機関との連携は学校の中に「社会」を取り入れることだからです。学校は教育の場所であるからと言って、暴力、破壊行為、恐喝、窃盗などの犯罪についての「治外法権」の空間ではないからです。学校が警察や司法と連携することはなんら恥とする必要はないのです。
2 学校が変わらない限り、「保護者」は「頼れる存在」にはなりません
「子宝の風土」の保護者は通常「自己中」で、我が子には「甘い」のです。その他の大人も、また、「自己中」で「渦中の人」にはなりたくないため声はあげません。問題行動が続く学校での批判的意見はいつも「声なき声」となって潜在し、不満は、学校の無策に対して噴出します。問題行動の当事者の親がPTAの中にいることは他の保護者の直接的批判を封じることにもつながります。どこのPTAも同級生の問題行動に断固たる社会的制裁の姿勢を取れないのは、どこかから「我が子の人生に汚点をつけないで!」という当事者の親の声が聞こえてくるからなのです。保護者の事なかれ主義は教員にも伝染します。数年我慢すれば、どこか別のところに転勤できると思えば、教員達はやがて疲れ果てて無気力になり、連帯も団結も出来なくなります。
それゆえ、一般の保護者は、学校が立ち上がり,問題行動を一掃する方針を鮮明にし、具体的に生徒の問題行動指導に踏み出すまでは「頼れる存在」にはならないと思わなければなりません。文科省は「学校支援本部」構想を打ち出しましたが、地域による学校の支援が先ではありません。学校による地域の支援が先なのです。「子宝の風土」の学校は、「子宝」の養育を請け負う地域の「守役」であるが故に尊敬され、子どもの人生を先導する文化的中心であるが故に敬意を持って遇されるのです。学校が本来の学校であろうとすれば、学校地域支援本部など作らなくても日本の地域は必ず学校を支援します。明治以降の学校の歴史を調べてみれば一目瞭然のことです。学校を廃校にして、地域の活力が消滅していることをみても明らかなことでしょう。
3 学校方針の確立と外部機関との連携

学校が一般の保護者を味方につけ、真に問題行動を解決しようとするならば、社会の規範と学校内の規範は同じであることを毅然として宣言しなければなりません。本来、学校の規範は世間の規範のモデルでなければならなかったのです。社会の規範に照らして、生活上の「迷惑行為」は許されません。当然、あらゆる犯罪も許されません。学校の規範に照らした非行や犯罪の取り扱いも違う筈はないのです。そのために、学校は、PTA組織に事前に周知した上で、警察・司法等地域の行政機関と組んで、「非行の風土-非行の文化」の撲滅を宣言しなければなりません。組織の了解を得る論理は、問題行動を起こしている一部生徒が、学習規律を破壊し、多くの“まじめな”生徒の学習権を侵害し、教師の指導力を阻害し、世間に学校発の反社会的行為が波及することを許してはならないということです。学校の宣言は「警察」「児童相談所」などの外部機関との連携を公表することを伴います。学校内の規範は、外部社会の規範となんら区別しないということを周知徹底することが重要です。周知徹底の方法は、学校と外部機関との定期的な連絡協議の場を立ち上げ、その会議録を保護者及び地域社会に公開することです。
自分の子どもの汚点になる学校独自の対処法や具体的な処分には大いに抗議する問題児の保護者も、警察を含めた地域社会が学校に同調し、他者への迷惑行動は断固禁止するという論理にはほとんど対抗できません。
問題行動の沈静化は、学校情報の全面公開、地域の公的組織との連携、教員集団による一致した基準による生徒の集団指導がカギになるのです。学校は、学校の内外を通して「非行の文化」を容認しないということを宣言するのです。学校の宣言は、「見えない教育機能」です。学校が、「他者への犯罪的行為」、「地域への迷惑行為」は断固認めない、という学校発の文化を創造することで地域を支援することになります。その時初めて、地域は学校の方針を支持し、学校を守り、学校文化の庇護者になるのです。もちろん、基本は、情報公開や施設開放も含めた学校の公開であり、教員の“全員野球”であり、地域との連携であり、「守役」の自覚です。「隠し事」をせず、問題行動を公表することが非行の文化に対抗するもっとも有効な方法なのです。

日本文化とボランティア

1 カタカナの日本文化
ボランティアはいまだ適切な日本語訳が作れない外来語です。恐らく,ボランティアが意味する社会的価値は、過去の日本の歴史と文化にほとんど存在していなかった思想と実践なのです。しかし、日本が当面した国際化と高齢化がボランティアを必要とする土壌を創り出し,今や「個」の存在を尊び,「主体」の自律を重んじる日本人の社会貢献を支え,外来語のまま受け入れるようになりました。阪神大震災のような非常時の災害はボランティアの実践が新しいカタカナの日本文化として誕生したことを証明しました。さらに急速な高齢化が現実のものとなり、人生80年時代を生涯現役として生きようとする人々にとって、ボランティア・スピリットは己の活力を維持し,社会への参画を続ける貢献活動に欠かすことのできない思想となったのです。ボランティアは、個人として生き始めた多くの日本人の賛同を得て、全国的規模で、これまで存在しなかった新しい人間関係を創り出したのです。伝統的共同体が崩壊し、「地縁」から発生する「共益維持のための人間関係」が衰退し、個人がバラバラになりつつある日本のコミュニティに新しい「公共」を生み出し、思想と感性を共有する「志縁」の人間関係を生み出しつつあるのです。ボランティアは日本語訳が作れない外来語のまま、主体的な日本人に受け入れられ、新しいライフスタイルとして認知され、日本人の日常を支えるカタカナの日本文化になりつつあるのです。
2 生涯現役を支える精神
ボランティアの行為や活動は、一般的に「奉仕」と訳され、その「行為者」については「有志」、「奉仕者」、「有志活動家」、「任意行為者」、「志願者」などと訳されて来ました。しかし、周知の通り、ボランティアという用語にはいまだに適切な訳語は定着せず、カタカナのまま使われています。日本文化に流入した外来語は、意図的に日本語に訳さないものと訳そうとしてもうまく訳し切れないものとがあります。前者の多くは表現上の“ファッション”であり、外来語のままの方が“格好いい”のです。トヨタも日産もホンダも車の名前に日本語は使いません。当てはまる日本語が無いのではなくて、日本語にしない方が“格好いい”のです。一方、後者は、日本社会にピッタリ当てはまる「概念」や「対象」が存在しないのです。明治期の福沢諭吉先生が、「会議」や「議会」や「会社」や「社会」などの訳語を発明したと言いますが、言葉を作りながら、当該用語に対応するシステムを同時に創らなければならなかった明治維新のプロセスはさぞや大変なことだったことでしょう。
「ボランティア」は恐らく適切な訳語を発明できなかった異文化概念の「典型」なのです。日本の文化にも、奉仕や「布施」や「陰徳」などボランティアに関係する考え方も行為も確かに存在するのですが、どこか「ボランティア」とは発想が異なっているのです。それゆえ、いろいろ工夫をしたあとでも、いまだにボランティアをカタカナで書き続けていることになっているのです。このことは、日本文化にとって重要かつ特徴的なことで、日本の歴史には、ボランティアに匹敵する文化的思想や行為が存在しなかったという証でもあります。
しかし、近年、経済の国際化・地球化の時代が到来して、貿易立国日本は、進んで世界の国々の文物を取り入れ、異文化との付き合いを始めざるを得ませんでした。外国の文物を受け入れているうちに、「レディーファースト」や「スポーツマンシップ」などと同じように、ボランティアの思想と実践も外来語のままに日本社会になくてはならない概念として定着したのです。
事実、年をとって周りを見渡してみると、自分を含めて,友人にもボランティアをしている人が多いことに気付きます。熟年のボランティアは「生涯現役」の社会貢献者であるということです。筆者は、高齢社会の「安楽余生論」を批判し、人生80年の時代に社会への参画を断念してぶらぶら暮らしている熟年の危機を訴えて来ました。それ故、特別に「生涯現役者」や人々のボランティア・スピッリットの気概に惹かれているということなのでしょう。筆者のいう「生涯現役者」とは、老衰で身体がきかなくなるまで社会貢献の志を捨てず、人々の役に立とうとする熟年を意味しています。彼らの魅力は、老いてなお他者の役に立とうとする思想と意志と実践のエネルギーです。ボランティア・スピリットは居住地域に関係なく、所属組織に関係なく、政治上の思想信条にも関係ありません。日本の伝統的共同体が守って来た共益のための相互支援システムや勤労奉仕思想とは発想が根本的に異なっているのです。
これからの日本は,個々人の共生・奉仕の気概なくして高齢社会を乗り切ることはできないというのが筆者の持論です。老いて社会参画の気概を失えば、精神の自律や人間としての魅力を失うということでもあります。若い時ならいざ知らず、年をとってからの生涯現役の生き方は、他者の役に立とうとするボランティアの思想と意志と実践のエネルギーを必要とします。ボランティア・スピリットは生涯現役の精神なのです。
3 ボランティアの概念
ボランティアに関する日本と欧米の社会的風土の最大の相違点は、「個」の概念とそこから派生した個人主義の考え方にあります。欧米の「個」の概念は、常に「全体」と鋭く対立し、個人の権利と全体の福祉は常に葛藤状態に置かれます。
欧米における「個」の考え方は、個人の自立を最大の課題としながらも必ず全体社会の存在を前提としています。社会的存在としての人間は、「全体」なくして「個」ではあり得ないからです。結果的に、両者はそれぞれの存在と利害に関して激しく対立せざるを得ないのです。個人の自立に関わる主張は原則として「権利」の概念として確立されました。これに対して全体社会の中で生きなければならない個人は全体社会を成り立たせるための最小限の役割を果たさなければなりません。それが社会が個人に要求する「義務」の概念です。権利と義務は相互に相手を排除し合う対立概念で、曖昧さを許さぬ論理的で法的な概念です。
この時、ボランティアは、法的で冷徹な権利と義務を規定する社会規範の間にあって、個々人の感情や主観的な判断を伴う“人間味”を付加する考え方です。ボランティアの場合、“人間味”とはキリスト教にいう「よき隣人」の考え方に重なります。ボランティアの精神は、個人の権利と社会的義務の法的な論理の間に割って入る宗教的・主観的・情緒的な隣人愛の表現形式なのです。これに対して日本社会における「相互扶助」や「勤労奉仕」の概念は伝統的共同体が必要とした「共益」を前提とした「おたがい様」や「おかげさま」に代表される持ちつ持たれつの助け合いの精神です。「共益」を前提とするということは、個人の自立に関わりなく、個人と全体は原理的に対立関係にはないという建前・前提があります。個人の利益と全体の利益は相互に重複し、原則として、個人は「共益」に対立するような権利を主張せず、共益を前提とした義務は原理的に個人の権利を侵害しない筈であるということになっているのです。原則として、個人の主体性は共同体の共益に従属し、個人の事情を主張して共同体の利益に対抗することは許されなかったのです。
ボランティアは個人主義を原点とした概念であり、共益や共同を前提とした概念ではありません。ボランティアは、個人と全体が対立する社会において、個人と社会の拮抗をやわらげ,個人を社会(隣人)に結合する概念として登場したのです。
4 神との約束-個人の選択と主体性
社会の最小単位を個人に置き、その個人を全体社会から独立の存在として認知する個人主義の考え方は、大きく一神教;欧米の場合はキリスト教が生み出したものと考えて間違いないでしょう。個人は神の前の個人であり、社会は共同生活上必要となる人工的な仕組みに過ぎません。それ故、社会は個人と全体との「契約」によって成り立つという考え方が提起されたのです。「おたがい様」や「おかげさま」を前提とする共益社会の相互扶助の精神や奉仕の概念と異なり、ボランティアにおける奉仕の概念は個人と共同体との関係から生まれたものではなく、個人と神との関係から生まれたものと思われます。
キリスト教において、人間がこの世にあるのは神の思し召しの結果であり、恩寵の証です。ボランティアは神の恩寵に対する信仰実践としての隣人愛です。神の恩寵と愛に報いるため、人間は力を尽くし、世のため、隣人のために働くという思想です。ボランティアとして登場する個人は、人間同士の相互扶助を前提としているのではありません。「神の意志」への服従を前提としています。神の命じる「隣人愛」を実践するため絶対者の前の個人として立とうとしているのです。
この場合、社会も、隣人も神と人間との媒介物であり、社会に貢献し、隣人に奉仕することを通して神の恩寵に対する信仰実践をするということになるのです。
5 信仰実践としての隣人愛
キリスト教文化圏におけるボランティア活動は、隣人愛の日常的実践です。隣人愛の実践は神の御心に適い、ボランティアも神の御心に応える行為なのです。信仰実践としての隣人愛は教会及びその関係団体の徹底した布教と情宣活動によって、筆者が観察したアメリカ人の日常生活に浸透しています。ボランティア活動は多くのアメリカ人の行動を律する宗教的観念として日々の規範の中に根を下ろして機能しているのです。
どの関連書を読んでも,ボランティアの基本原則は「主体性」であると書いてあります。ボランティアが信仰実践としての隣人愛であるとすれば、思想も行動も神に対する信仰者としての個人に発し,活動が「主体的」であるというのも頷けることでしょう。実践に関わる本人の選択と主体性は、自覚の程度に差異があったとしても、個人の観念の中では自分と神との「約束」であるということができるのです。
これに対して,日本の社会的風土には、人間相互の助け合いの約束は存在しても,「神仏との約束」は極めて希薄であった(である)と言って過言ではないでしょう。確かに、「布施」とか「慈悲」とかの仏教概念は存在しますが、日本人大衆の日常の信仰実践にまで高められたことはありませんでした。布施も慈悲もボランティアと同じような日常的な隣人愛の信仰実践としては普及しなかったということです。「葬式仏教」という言い方がその傍証です。日本人は「他者への奉仕」を神仏と「約束」したことはなく、欧米のボランティアに匹敵する内面的動機は存在しないのです。日本の伝統的共同体は,仲間の助け合いや共益を共有する帰属集団への奉仕は強調しても,宗教的実践として「一般的他者」に対する「隣人愛」を自らに課したことはないのです。日本の助け合いや相互扶助は、個人の帰属する地縁や結社の縁に由来する「仲間うち」のことに限定されてきたのです。それゆえ、ボランティアを「奉仕者」と訳しても「有志」と訳しても、「一般的他者」を対象とする普遍的隣人愛を意味することにはならないのです。換言すれば,日本語にはボランティアの概念を直訳的に表現する歴史的・文化的背景がほとんど存在しないのです。
6 日本文化の中のボランティア類似思想

日本文化の中で欧米のボランティア思想にもっとも近いと思われるのは伝教大師の「一隅を照らす」という発想です。「一隅を照らす」とは伝教大師最澄の『山家学生式』に記されている言葉です。山家学生式では、「国宝とは道心なり」といい、「道心ある人とは,一隅を照らす人」だといい、「己を忘れて他を利する」は、「慈悲の極みなり」と言っています。この場合の「他を利する」とはキリスト教のいう「隣人愛」に匹敵し、宗教の枠を越えて奉仕の対象を人間一般に普遍化することができます。その点で、布施や陰徳の概念より幅広くかつ実践的です。ちなみに「布施」は3種類に分れています。第1は、「法施」で、仏法を説いて聞かせ精神的な施しをするという意味です。第2は、難しい言葉ですが、「無畏施」と呼ばれ、不安を抱いている人に対して安心を施すことだといわれます。第3は、いわゆる日常語の布施で、正確には「財施」と呼び、お坊さんに金品をさしあげることを意味します。
いずれも仏教の枠の中のことで、「他を利する」という普遍概念にはいささか遠いのではないでしょうか。また、「陰徳」を積むという考え方も広く伝わっています。「陰徳積善」という4文字熟語の通り、人の見えないところで善行を積むという意味ですが、調べて行くとあからさまな自己表現を嫌う日本文化の「美学」に近い感性であり反語は「陽徳」です。さらに「陰徳墓」のように陰徳を積んだという記しを残すという点で奥ゆかしい反面どこか偽善の臭いもします。東洋哲学者の安岡正篤氏は、伝教大師の思想を標語化して「一灯照隅 万灯照国」と表現しています。素晴らしい要約だと思います。一人から始まる社会貢献の思想が全員に広がった時、その光りは国家を照らすという意味でしょう。アメリカの国づくりが「フロンティア・スピリット」から「ボランティア・スピリット」へとスローガン化されたように隣人愛を基本とした人々の社会貢献は国家社会の基礎を築くという点で「一灯照隅 万灯照国」の思想と共通しているのです。

7 地縁の衰退と志縁の拡大
戦後日本は戦争がもたらした悲惨な結果から、個人の主権と主体性を何よりの価値として謳いました。結果的に、戦後日本の「個人」は、集団や、全体や、地域や、社会に比して、相対的に重視されるようになったのです。筆者はこうした傾向を「自分の時代」、「自分流の時代と表現して来ました。
日本人の価値観が多様化したと言われる中で、「自分らしく」が価値として突出しています。日常的、具体的には、個人の利害が共益や公益に優先するようになりました。「おかげさま」や「おたがい様」の感覚を忘れ,自分勝手な 日本人が氾濫していると古い世代が嘆く通りです。
戦後の自分主義は、地縁共同体がもたらす干渉や束縛に鋭く反発しました。地縁共同体が発する「奉仕」の要求は、個人の自由を侵害する対立物となったのです。地縁に基づく相互の干渉も,地縁に由来する共同作業や勤労奉仕も大いに憎まれました。国も地方も、地域社会の衰退に危機意識を抱いて、地縁を前提とした共益や公益を立て直そうと,コミュニティの自治や地域づくりを推進しようとしていますが,もはや自分主義を止めることはできません。今や、私益は共益,時には公益に優先しているのです。戦後日本の自分主義は、個人の権利や人権を前面に押し出して日々の暮らしを形成して来ました。自分主義の暮らしとは,端的に言えば、個人の生き方に対する地域の干渉を許さないという思想原理でした。その結果、伝統的共同体は一気に力を失い,地縁による人間関係は崩壊し、地縁に由来する共同作業や勤労奉仕も消滅しました。まつりも伝統行事も確実に消えて行ったのです。社会教育においては、青年団が空中分解し、婦人会が弱体化し、子ども会も次々に崩壊が始まっています。行政の補助機関として多くの行政事務を下請けして近隣をまとめて来た自治組織ですらも衰退が始まっています。
代わりに機能集団としての様々なグループ・サークルが誕生し、各種NPOも一気に誕生しました。これらの新しい集団や組織は共通の「機能」や「志」を共にしています。
同じ近隣に居住していても、気が合わなければ交流は行なわれず、少しくらい住所が離れていても気が合えばいつでも行動を共にする時代が来たのです。換言すれば、地縁や職縁によって繋がれた人間関係が衰退し、思想や感性、あるいは興味や関心を共にする志によってつながった志縁の人間関係が人々を繋ぐようになったのです。ボランティアの思想と感性は、共同体が要求する「相互扶助」や「勤労奉仕」に代わって、日本人の親切や連帯の志を社会的に表現する日常の行動様式として採用され、カタカナの日本文化になりつつあるのです。

お知らせ

1 第94回生涯学習フォーラムinふくおか

忘年例会も兼ねて12/12(土)の予定です。
15:00-18:00(今回は1時間延長です)
(1)事例研究発表:報告者は、古市勝也九共大教授、大島まな九州女子短期大学准教授のお二人の予定です
(2)論文発表:「未来の必要から論じる生涯学習振興政策」(三浦清一郎)です。
(3)懇親交流会は18:30からです。宿泊希望の方は福岡県立社会教育総合センター(092-947-3511)までご連絡下さい。

2 第95回生涯学習フォーラムinふくおか

詳細は次号で発表します。日時は1月23日(土)15:00-17:00、会場は福岡県立社会教育総合センターです。

3 第96回生涯学習フォーラムin米子

米子児童文化センターの15周年事業に便乗して、鳥取県西部のみなさまが集まって下さいます。日吉津村(ひえずむら)の橋田先生を中心に計画が進行中です。冬の日本海の温泉を楽しみながら皆さんで語り合おうという計画です。1月30日(土)夜;大交流会、1月31日(日)午後;米子フォーラムの予定です。

4  第5回山口人づくり、地域づくりフォーラム

今年度は、2月13日-14日(土-日)の予定です。関心のある方は山口県生涯学習推進センター(〒754-0893山口市秋穂二島1602、電話083-987-1730)までお問い合せ下さい。

5  第97回生涯学習フォーラムin若松

若松未来ネットまちづくり研修の実践発表会を見学します。
日時:平成22年2月20日(土)13時-17時
場所:北九州市若松区役所
終了後フォーラム夕食会を企画する予定です。
参加希望者は「北九州市若松区役所まちづくり推進課:093-761-5321に問い合せをして見学許可を受けて下さい。

平成22年(2010年)の更新のご案内(第2回)

1 メールマガジンをご希望の方は「風の便りーメールマガジンを希望する」というタイトルで三浦までメールをお送り下さい。平成22年1月号(121号)から「メルマガ」をお送りします。一切の費用は必要ありません。

2 平成22年(1月-12月)も、これまで通り「風の便り」の実物(ハードコピー)をご希望の方は郵送料と印刷費の合計年間2,000円をお送りください。
§MESSAGE TO AND FROM§
このたびは「風の便り」購読の更新に際し、励まし、ご叱正、近況のご報告等お便りありがたく拝見いたしました。春から夏にかけて研究した「あるがままの命」と「あるべき命」の区別論を主題とした新しい本の第2回著者校正が送られて来ました。恐らく正月明けには世に問うことができるでしょう。次のテーマである「日本文化の中のボランティア」論の執筆にも着手いたしました。前を向いて進んでいる実感がある時、自ずからエネルギーも充実感も湧いて来ます。生涯現役の社会参画を続けることが老後を生き抜くカギになるという持論をますます確信しております。
更新に際し過分の郵送料を頂戴いたしました。慎んで感謝申し上げます。

山口県下関市 永井丹穂子 様
長崎市    武次 寛 様
佐賀県伊万里市 西岡信利 様
福岡県宗像市 山口恒子 様
佐賀市 小副川ヨシエ 様
福岡県宗像市 賀久はつ 様
福岡県八女市 杉山信行 様
福岡県宗像市 牧原房代 様

編集後記
少年の儀式

1 「2分の1成人式」
飯塚市の複数の小学校が取組んだ10歳(4年生)の立志式を拝見しました。正式な事業名は「2分の1成人式」と呼ばれています。4年生の3学期に出てくる学習項目の一つだということでした。20歳の半分まで来た人生の区切りの意味を考えさせたいという行事です。
私も二つの学校を見学させていただき、遠い昔の記憶の彼方にある我が生い立ちを思い出し,少年期の儀式に思いを馳せました。結婚式やお葬式に見るように、少年にとっても,大人にとっても「儀式」は第一に「非日常」のできごとです。第二に、「式典」は儀式の意味付けを反映した「型」を踏まなければなりません。それゆえ、第三に何のための儀式か、何を教えようとしているのか、が明快でなければなりません。入学式が学業の始まりを祝って今後の精進を励ますように、卒業式が学業の成就を祝って新しい門出を励ますように、「2分の1成人式」にも明快な意味を付与しなければならないのです。筆者が「立志式」と呼ぶべきだと考えたのは「志を述べる」という過去の先例に倣いました。二つの学校の当日の式典はそれなりに工夫されて行なわれましたが、以下は筆者の子ども時代への“郷愁”を含んだ感想です。

2 儀式の3要素

「非日常」の式典には、「改まった作法と舞台」、「儀式の意を汲んだ表現と証明」、「当事者の到達点を認知する立会人」の3条件が不可欠です。入場も、退場も、行進も、起立も、礼も、着席も、ものを受け取る時も、逆に差しあげる時も普段とは異なる儀式としての作法と型が不可欠です。子どもの集団行動における同調や規律はまだまだ不十分でした。指導に当たる先生は、テレビで見るシンクロナイズド・スイミングをもう少し参考にすべきだと思います。戦後の学校教育は、運動会から式典に至るまで、儀式の意味や非日常性についての理解が欠落していて、礼節も作法も崩壊させてしまいました。“普段着の卒業式”という言い方に象徴されるような、むしろ儀式を否定する発想がもてはやされて来たのです。
その結果、まっすぐに立つことも、じっと坐っていることも出来ない子ども、間髪を入れず立ったり座ったりできない子ども、注意を集中できない子ども、他者のリズムに同調したお辞儀も発声も言語表現もなっていない子どもが育ったのです。要は、「型」を「踏む」ことが出来ず、集団に適応できず、他律に服することのできぬ、体力と耐性と礼節を欠損した子どもを大量に生み出し続けたのです。社会規範が身に付かず、教室の授業が崩壊するのも無理からぬことなのです。

3 少年期の儀式は「通過儀礼」

式典における子どもの表現行動には一層の注意が必要です。10歳の区切りは民俗学のいう「通過儀礼」を意識するわけですから、当然、決意の表明が行なわれました。決意は「ゆめ」と等値され、「ゆめ」の多くは憧れの職業と等値されていました。「憧れ」は「りっしんべん」に「わらベ」と書くのですから、「ゆめ」を語っていいのです。しかし、その夢をどのように実現しようとしているのかという発想は、先生方の指導がなければ、子どもの意識から欠落します。立志式である以上、「あこがれ」が前面に出て当然ですが、「空虚なあこがれ」を語るだけでは教育の名に値しないのです。「明日」からどのように生きようとするのか、目標には目標に至る過程や方法論が不可欠なのです。また、立志式が「通過儀礼」を兼ねるとすれば、子どもたちは10歳までにどんな課題を解決し、何を達成したのかも併せて問わなければなりません。現代の学校は、学習指導要領の枠外で子どもたちに成就させたい10歳までの達成基準に、果たして、思いを馳せたことはあるでしょうか?

4 感謝を教える

子どもは10歳までの人生を一人で生きてきたのではありません。それなのに、参列した保護者や教師への感謝の言葉が足りませんでした。父や母や祖父や祖母の養育のお蔭でここまで来たのです。教師の指導なくして、「できないことは」「できるように」はならないのです。それ故、これからは「かくかくしかじか」のように生き、「次のようなこと」に努力します、という決意の表明は感謝の言葉と組合わさったとき、必ずや保護者の胸を打つことでしょう。
また、学校が主催した式典ですから、先生方の「祝い」と「励まし」のメッセージも不可欠です。それは子ども自身のためであり、教師自身が己の日々を見直すためでもあります。子どもは指導しな
ければ、「社会の視点」を意識化することは出来ません。式典の中身は、未熟な子どもに任せることなく、憧れも感謝も子どもにあらためて意識化させ、改まった言語表現を駆使して表明できるよう指導すべきだったと思います。先生方がいて、保護者がいて、来賓がいて、上級生の演奏があって、「晴れの舞台」は、当の子どもたちにはさぞ張り合いがあったことでしょう。しかし、10歳(4年生)の当事者だけに注目した結果、やがてこのような儀式が巡ってくる下級生は「立会人」に加えられていませんでした。3年生だけでも加えて、来年は「君たちの番だ」となぜ教えなかったのでしょうか?僅か45分の式典ですが、「立会人」にも当事者と同じ作法や儀礼が要求されます。まさか下級生の担任たちがそれを嫌ったわけではないと思いますが、少年の儀式を立派に為し遂げるまでには、現代の学校にはまだまだ沢山の宿題が残されています。式典を立派にやり遂げる規律と忍耐が確立されていなければ、学習の規律は到底期待できません。学習の規律がない限り、先生方の指導は子どもに到達しません。家庭学習や自学自習なども到底出来るようにはならないのです。式典を拝見すれば、学力のレベルを想定できるのはそのためです。
最後に、保護者のメッセージは、子どもの未来へのタイムカプセルですから、どの子の保護者も参加できるよう無理のない一行書きを基本として、事前に準備をし、先生方のこころ配りのきいた「立志式(2分の1成人式)証書」に添えて子どもに渡してやりたかったものです。

「風の便り」(第118号)

発行日:平成21年10月
発行者 三浦清一郎

「君は君のままでいいか!?」
-カウンセリングの毒-
過日ある小学校の研究発表会の基調講演を担当しました。校長室へご案内いただく時に廊下の壁に大きくかかれた子どもへの呼び掛けに思わず目がとまりました。そこには次のような事が書いてあったのです。

そのままのあなたがいい
誰かの真似なんかしなくていい
あなたはあなた
それでいい

カウンセリングのいう最近流行の「自己受容」のメッセージなのでしょう。金子みすずの「みんな違ってみんないい」」や「世界にひとつだけの花」というヒット曲の続きでもあります。予定外の事でしたが、講演はこの文言についての批判から始めました。
「誰も代わりには生きられない」、「あなたに変わり得る存在はない」ということは筆者自身も痛感している人間存在の「個体性」です。しかし、それは生物の事実を観察した結果であり、一人ひとりの存在する権利を保障するという法律上の「人権」思想のことです。
しかし、学校教育も、生涯学習も、みんなが頑張って何ものかになろうと努力しているとき、「今のままでいい」という呼びかけはまさに教育の放棄です。何らかの理由によって、自信を喪失し、病的な「鬱」にでもかかっている子どもに対する治療の一環であれば仕方がありません。しかし、育ち盛りの子どもを預かっている学校教育の現場が何たる勘違いでしょうか!
教育は霊長類ヒト科の動物に「社会化」の訓練を施して人間に育てて行く営みです。教育は現状を突破して向上を目指す目標行動です。ましてや「いきいきと表現する子ども」を育てる事を研究の目標にしている学校が、子どもの現状を是認して「そのままでいい」、「向上の努力は必要ない」というメッセージを送るのは、教育の自殺としか言いようがありません。未熟な子どもが「そのままでいい筈はない」のです。今「出来ないこと」は、いつか近い将来、「出来るように」しなければなりません。今「分からない」ことも、やがて「分かるように」しなければなりません。それが教育の使命、なかんずく学校教育の使命です。
発展途上にある大多数の子どもは抽象的な文言では、目標を理解できません。努力の目標は具体的に示さなければならないのです。それゆえ、世界中の幼少年教育は、子どもたちに目指すべき歴史上の人物の事績を教えるのです。学校は、子どもがあこがれるべき具体的なモデルを選んで、その人を目指しなさい、と教えるのです。父でも、母でも、先生でも、先輩でも、もちろん歴史上の人物でもいいのです。学びにおける「モデリング」がそれです。自己教育における「同一視」も同じです。「その人のようになりたい」ということは、憧れや敬意をこめて、「優れた他者」に近づこうとする努力です。「誰かの真似なんかしなくていい」とは何ととんちんかんで、愚かなメッセージでしょうか!!「憧れ」とは「りっしん篇」に「わらべ」と書く、と説明して下さった方がいました。幼少年期は「憧れ」の季節なのです。「誰かのようになりたい」と思う時期なのです。漢字を発明した文化はそのことをよく分かっていたのでしょう。
子どもの努力を奨励し、その挑戦を励まし、彼らの向上を一つ一つ確認して行くのが教師の使命です。向上するということは、現在の自分を否定することから始まります。そのために、最も分かりやすい方法が、自分の尊敬し、あこがれる人をモデルとしてひたすら模倣することなのです。教師自らがなぜ子どもの目標になろうとはしないのでしょうか。世阿弥のいう「まず我が型を踏め、然る後に、我が型より出よ」です。子どもを保護の対象としてしか位置付けない人権論や権利論の影響を受けて、日本のカウンセリングは、「クライアント」に対処する臨床・治療上の教育論を、一般の子ども用に普遍化しているのです。まさに「カウンセリングの毒」としか言いようがないのです。その「毒」を信じて、教育のスローガンとし、自らの使命を忘れている教師は何と愚かなことでしょうか!
少年に呼び掛けて、小学校や中学校の廊下に書くのなら、次のように書くべきです。

君の可能性は未だ試されていない
今の自分に甘んじるな
あこがれの人を選べ
あこがれの人に学べ
あこがれの人がやったように
君も自分に挑戦しろ
君はかけがえのない君であるが
今のままでいい筈はないのだ
君の可能性は未だ試されていないの     だ!

戦略なき一生懸命
-学校経営における「訓練された無能力(ヴェブレン)」-
1 学校研究は「努力の証明」
-結果証明の不在-

近年縁あって,ますます多くの学校の指導を引き受けるようになりました。今回は小学校と中学校の指導を引き受けました。学校のご依頼は何時もそうなのですが,研究報告会の総括に伺って、戸惑うことが多いのです。自分は、通常の講演講師とどこが違うのか、何を指導してもらいたいのか、その前に何が問題なのか,どのような「診断」と「処方」を持って学校経営をしようとしているのか、子どもをどのように育てようとしているのか,等々依頼者側の意図が明確でないことが多いのです。
筆者の経験では,上部機関からの補助金を受けて,研究を引き受けた校長先生を除いては、(時には校長先生ですらも)、多くの先生方は,外部評価の存在しない,なれ合いの居心地のいい「村社会」にいます。それゆえ、外部評価に耐え得る組織運営の厳しさや子どもを世間の期待どおりに変容させることの重大さに未だお気付きでないと思うことがしばしばあります。
敢えて,断言すれば,学校の本音は、外部からあれこれ指導なんかしてもらいたくないのです。当該学校の関係上級機関(たとえば指導主事であるとか,教育事務所であるとか,県の教育委員会であるとか)の方々も基本的には教員の仲間うちです。従って、通常、彼らの講評も、“努力と工夫のあとが著しい”というたぐいの“よいしょ”の論評に終始し,玉虫色で、総花的です。掲げた所期の目的は達成し得たのか,否か、子どもは想定どおりに、変わったのか、否かに付いて厳しく追求し、評価することは寡聞にして稀です。
筆者は、補助金を受けて、数年に亘って、体力向上の学校経営をした学校が、子どもの体力を向上させていなかった事例も知っています。その時ですらも、総括評価に登場した教育事務所の指導主事の「美辞麗句」が続き、うんざりしたことを覚えています。この時、講評者の多くは,先生方と一緒に、当該研究事業を企画・指導してきた方々ですから,講評の多くは、自己防衛と身内を意識した“お手盛り”と“手前味噌”の「一生懸命」賛辞論の域を出ないのです。学校研究の多くが、仲間うちの自己満足に終るのは、初めから「結果を問う」という姿勢が欠如しているからです。結果を問わなくていいのであれば、厳しい戦略の吟味は欠如せざるを得ないのです。結果的に,学校経営の評価は,「一生懸命したのか」あるいは「教師の工夫は見られるか」という視点を越えることがなくなるのです。研究事業においてすら、教員の結果責任を問わないとすれば、子どもの停滞を外部要因に責任転嫁する「戦略なき一生懸命」に陥ることは自明なのです。
どこの学校の研究発表資料を見ても,クラスごとの指導案や教材研究のプロセスを列挙し,「目安」や「目当て」を特筆・大書し,教師が如何に努力しているかを示す個別指導記録を載せているだけになります。教員の努力を前面に出せば、子どもが問題行動を起こすのも,成績が上がらないのも,規範が身に付いていないのも,当日の授業に集中できていないことすらも,悪いのは家庭であり、インターネットであり,地域環境であり,地域社会の無関心であり,子どもは現代社会のひずみの結果である、ということになります。こうした「外部要因原因説」こそが,現代の学校を「免罪」してきたのです。そこに「戦略なき一生懸命」を加えれば,「学校は努力を続けているにもかかわらず」「報われない」という「アリバイ」が成立するというわけです。近年、筆者が見聞した大部分の学校経営は,外部指導を極力排除した「仲間内だけが許容する改善努力」に終始しているのです。学校も、学校を指導して来た指導主事群も,その背後にいる教育事務所や教育学部の教員たちも、あいかわらず学校という閉鎖的な村社会の中で,職員会議が許容する範囲の「談合」を繰り返しているだけなのです。昔やったようにしかやれない,仲間うちで許容する範囲でしかやれない繰り返しの方法をヴェブレンは「訓練された無能力」と呼びました。確かに,膨大な時間とエネルギーを割き,先生方も主観的には一生懸命なさっていることは確かです。しかし、研究会で配られる膨大な分量の研究報告書は恐らく誰も読みません。「子どもの現状変える」という明確な戦略と実績報告のない研究報告書を見るたびにヴェブレンの指摘は正しいと思うのです。日産が外部からゴーン社長を受け入れて一気に経営を立て直したような改革は、教育行政も,学校も試したことは稀なのです。筆者は気心の知れた教育長さん方には、「契約条件」を明確にし,現行の学校教員の中から希望者を募って「期限を区切った」「チャータースクール」を試行してみては如何ですか、と提案しているのですが、まだまだアメリカの実験の様子を見ているということなのでしょう。

2 問題は「教える技術」ではありません,「学ぶ姿勢」なのです

学校の研究会を拝見して何時も思うことがあります。問題は個々の教員の「教える技術」ではありません,子どもの「学ぶ姿勢」なのです。換言すれば、「学習規律」が教育の効果を決定する第1要因なのです。
学習者の「学ぶ構え」や「学習意欲」は「指導戦略・指導法」の関数です。本気で学ぼうとしているものは、集中力や意欲が違います。「教え方」や教える方の「熱意」も重要ではありますが、真の問題は、学習の規律を確立する「指導戦略」なのです。学習規律が確立されていない学校では、あらゆる教え方が「空回り」するのです。長年人々の生涯学習に立ち会って来て、年をとれば取るほどそのことがよく分かります。生涯学習は,学習者の意欲なくして成立しないからです。
いまだ学習の動機を持っていない子どもに教える時に、彼らの興味・関心を中核に置く事は重要ですが,常に、興味・関心の側からアプローチを続ければ,やがて興味・関心のあること以外は学ばなくなります。「教え方」を中心に置く考え方の危険性はここにあります。
学校教育には,子どもが興味を持とうが,持つまいが,教えなければならないことは山ほどあり,最初は興味がなくても,やっているうちに興味が湧いて来るものも沢山あるのです。
筆者は,子どものしつけを「回復」し、教える事を「復権」させるということを主張して来ました。子どもの成長・向上において、学ぶ姿勢や学習の習慣は,基本中の基本なのです。学力の「基礎・基本」を強調する学校は沢山ありますが,果たして学習規律の基礎基本を強調する学校はどれほどあるでしょうか?同じように、子どもの「主体性」を強調する学校も沢山ありますが、子どもの「服従」や「教師への畏敬」を標榜する学校はどのくらいあるでしょうか?
学習規律を保とうとする時,最も重要になるのが体力と耐性です。「遊びを続けたくても遊ばない」、「おしゃべりしたくても我慢する」などの「集中」を支えるのは、行動耐性と欲求不満耐性です。学習規律を保つということは,「教える技術」を重視するということではありません。子どもたちに「学ぶ構え」・「学ぶ姿勢」をきちんと育てることを意味しています。筆者が心身の集団訓練から始めるのはそのためです。
そして、子どもの体力と耐性の次に重要な事が二つあります。第一は、「指導者を尊敬させること」、第二は、「学びの型」を教えることです。「指導者を尊敬させること」の基本は、「教えるもの」と「教えてもらう側」の間に、礼節や言葉使いなどの心理的な距離を置くことです。また、学びの型の原則は、「従順」です。教師の指導に従い、モデルのやる通りにやる、時間を守る、静かに坐る,静かに聞く、質問をする,質問に答える,予習,復習、宿題をするなど昔から言われて来たことです。

3 学校経営の戦略とは何か?

組織としての学校はその運営原則において他の通常社会組織と大きく変わるところはありません。また,学校集団は,教育という特別な目的を掲げているとは言え,通常の機能集団と変わるところはありません。それゆえ,組織論一般,運営論一般、通常の企画論,通常の技法や戦術を学校に適用してなんら間違いではありません。
たとえば,組織の目的と一定期限内の達成目標を明確に掲げることは学校に取っても,他の組織に取っても極めて重要です。目的、目標が明確でなければ,与えられた時間で,自らの時間とエネルギーと資源を有効に集中させることが難しくなるからです。もちろん、目標達成の計画立案は,有効で,実行可能でなければなりません。また,計画倒れにならないためには、組織を導くリーダーシップと構成員間のコミュニケーションが不可欠です。目標実現行動の無駄を省き,構成員の意欲や気力を集中させる上で、途中経過を第3者の目で評価してもらうことは,組織に新しい視点や活力を生み出す上でさらに重要です。運営手法としては、マネジメント・サイクルの原理としてすでに多くの組織体に定着している「プラン→実践→評価・調整→修正実践」(PDCA:Plan-Do-Check-Action)の4段階を確実に踏むことです。日常活動では「ホレンソウ」と呼ばれる「報告、連絡、相談」を確実に実行することです。
4 情報公開
-隠し事をしない学校-

学校戦略の3大要素は、「情報公開」、「外部集団との連携」、組織内「PDCA」の実践です。中でも一番重要なのが学校を開くことです。
(1) 情報の公開
-学校の閉鎖体質を一掃する

学校の隠し事は世間の信用を失い、保護者の信頼を破壊します。我が子中心主義のモンスターペアレンツを生んだのは、学校の閉鎖性であり、教員の隠蔽体質です。モンスターペアレンツの自己中の要求に付いても、個人情報を保護した上で、その実態は全関係者に公表するべきなのです。地域の理解を得て、その協力を頂こうとするならば、教師や子どもの問題行動はすべて住民に公開すべきです。もちろん、学校が下した状況診断の結果も、その解決のための処方箋も全て公開すべきです。実態を隠して問題を解決するということは事実上不可能です。特に、社会の常識的規範に照らして、許されないことは全てを公開することです。学校管理職にも、自己満足的な指導に明け暮れて来た教員達にも、最も欠けているのが教育結果に対する「危機意識」なのです。学校は、地域社会の理解を得て、保護者と協力の歩調を取らない限り、教育問題を拡大再生産し続けるのです。
子どもの問題行動を解決し、生活規律や学習の構えを確立できない限り、学力の向上は到底望むことはできません。問題状況の解決は学校単独では難しい時代に入っているのです。
政治もようやく「マニフェスト」の手法を採用する時代になりました。組織体には常にマニフェストにあたる経営方針-経営目標が不可欠なのです。横文字を使って言えば、「ミッション・ステートメント」と呼ばれます。要は、経営体と関係者との契約目標・条件を簡潔に表現した「戦略の説明」です。
学校教育の目標は明確です。それぞれの学校が個別に打ち出したい特性や強調点もあるでしょうが、共通しているのは、「社会規範を身に付けた」・「学力の高い子ども」を育てるということに集約されるでしょう。保護者に知らせるべきは上記の2点を向上させるための具体的な経過情報です。校長のリーダーシップはまず「なにごとも隠さない」ということから始まるのです。

(2) 公開の方法-知らせる手段

「授業参観・学校開放」-「学校便り・学級便り」-「報告会」-「発表会」-「説明会」

i「授業参観・学校開放」
学校は公開の方法に習熟している筈です。第1は、あらゆる機会を活用した学校の開放です。日常の授業参観も、特別研究の公開授業も、施設や機能を地域住民に利用してもらう学校開放などは、手間ひまのかからない現状公開のもっとも有効な手段です。まずは、閉鎖的な学校に外部の人々を入れることから始めるのです。学校は隠し事をせず、住民はいつ行ってもいいんだというルールを確立することが重要です。学校は国民の税金で立てたものであり、施設機能は子どもの活動を想定して工夫してあるのです。学童保育は福祉の事業だから、学校施設の教育以外の目的外利用は認めないなどという管理職はすでに学校のトップに立つべきではないのです。外部の人々に普段の活動を見てもらうことこそが最善の公開なのです。教育以外のサービス業は全部そうしているではありませんか?
もちろん、学校が意図した「公開」には、見ていただく視点を提示することが重要です。たとえば、教職員の礼節、言葉使い、師弟の交流の雰囲気、外部のお客さまに対する子どもの態度、学校環境の整理整頓や美醜の評価を簡単なアンケート様式でお聞きするべきです。ホテルでも、レストランでも、各種のサービス業でやっていることです。

ii「学校便り・学級便り」

手間ひまはかかりますが、定期的な学校からの「便り」は、複雑な問題でも、整理・解説して正確な情報を関係者に伝えることができます。「便り」を蓄積しておけば、学校が直面した問題解決の方法を教育資源として後々活用することも出来ます。日本の学校は他校の失敗や成功の事例から学んでいないように思います。学校は、世間の経験を共用する努力が足りないこともあるでしょうが、学校の閉鎖性は問題状況を開示していないからなのです。

iii「報告会・発表会」

報告会・発表会は、目標の達成度を公表し、保護者、児童・生徒、地域住民など関係者の評価を受けるために開きます。
評価は多角的に、多面的に、多頻度で行なうことで実態がより正確に診断できます。

iv「説明会」

問題状況が発生した時には、間髪を入れず、説明会を開くことが学校の姿勢を示す最良の方法です。説明会の準備には、一番手間がかかりますが、学校の熱意が伝わり、保護者等との双方向のコミュニケーションが可能になります。

5 外部との連携
-頭を下げて力を借りるー

(1) 保護者に頭を下げて力を借りる

学校は、今でも地域の中心に位置しています。「いまでも」というのは、学校の多くが十分にその機能を果たしていない現在においても、という意味です。「子宝の風土」は、「守役」に託して子どもを一人前にするので、子宝の成長を託すべき「守役:学校」を地域の精神的支柱にしようとするのは当然なのです。地域住民の信仰に近い学校への信頼は子宝の風土の最大の特性なのです。学校の統廃合によって、地域の活力が消えて行く現象はすでに多くの過疎地で観察されているのは、地域連帯の象徴を果たして来た精神的支柱が消滅するからなのです。
校長さんを筆頭に、学校の教員達が頭を下げて地域の応援を依頼すれば、必ず地域は応えます。「おやじの会」でも、通常のPTA活動でも、住民一般による学校支援でも、まずは学校が情報を開示し、学校の「志」を示し、子どもたちを向上させる「道筋」と「方法」を提示し、頭を下げて地域の協力を依頼することから始めるべきなのです。
(2) 職員会議の閉鎖性を打破する

学校評議会が出来ても、学校支援会議が出来ても、多くの学校の多くの先生方は、保護者が頻繁に学校に来たり,地域の人を「学校支援」などという名目で自分たちの「聖域」に出入りするのはごめんなのです。
筆者が聞いた限りでは、教員達が考えている地域からの支援は,学校の本務には関係のない「走り使い」のたぐいなのです。いみじくも、中堅の教員が仲間たちと合意した、地域に期待している学校支援の中身は、「掃除」、「マルつけ」、「花づくり」だということでした。この程度であれば,学校に来てもいいが、子どもを指導したり、教室に入り込んだりして、自分たちの領域に干渉しないで、と考えているのです。
それゆえ,現状の支援会議を繰り返しても、指導目的を共有することにはならず、地域との連帯も確立はしません。かくして、各種の学校研究事業は、教員だけがそれぞれに「一生懸命やっています」というアリバイの授業参観と研究報告書づくりに終始するのです。
問うべきは簡単で明瞭です。
子どもの「できなかったこと」は「できるようになった」のでしょうか。いわゆる,問題行動は解決したのでしょうか?子どもは規律や集団行動・共同行動を体得したのでしょうか?それは子どもの演技や発表によって「証明」出来るでしょうか?
先生方の工夫や努力を100並べても,子どもが変わらなければ学校を変革したことにはなりません。「一生懸命やった」という事実をいくつ並べても,子どもも,学校も変わらないのです。原因は「戦略なき学校経営」にあります。そして、筆者のような外部助言者が「戦略」をお示ししようとすると,必ず職員会議で検討しますということになって,協議の結果、「異論もあって、やはりむずかしいようです」ということになり、それで終わりです。全会一致の結論を求め、やる気のない教員に合わせようとする職員会議こそが学校が変われない「元凶」なのです。筆者の経験の中で職員会議をオープンにし、外部の人間の知恵や意見を受け入れて、運営戦略を練ったのは長崎県壱岐市の霞翠小学校だけした。あとは全部落第でした。

(3) 学校の規範を社会の規範に合わせる

戦後日本の学校が一番間違えたことは、世間の規範を学校の規範としなかったことです。時間を守る、礼節を守る、授業に集中する、教えて下さる先生を尊敬するなど学習の規律を維持することが基本です。学校はその単純なことに失敗しているのです。学校の規範を社会の規範と同じようにするためには、教師が根本から考え方を改めるか、教師が出来ない部分を世間の人に助けてもらうしかないのです。
一番大事な家庭学習についても、保護者の協力なしには学習の規律を回復することは出来ないのです。

(4) 外部機関との具体的連携

「霊長類ヒト科の動物」に「説諭」や美辞麗句は通用しません。
子どもは、「霊長類ヒト科の動物」から出発し、社会化によって人間になって行きます。しつけと教育は社会化の基本機能です。それゆえ、社会化の不十分な子ども(人間)は自分の欲求のコントロールが出来ません。言って聞かせて分かるのであれば、人間の世界に法律や処罰は不要なのです。教育上の美辞麗句や説諭は多くの場合、しつけの出来ていない子どもには全く効果がないのです。効果がないことを繰り返せば、指導は信頼を失い、学校の秩序が崩壊します。子どもの問題行動は、児童相談所や警察署と、発達障害は適応指導教室や医療機関と直ちに連携することが不可欠です。特に、子どもの暴力行為や破壊行為に付いては、学校に物理的な処罰が許されていない以上、警察との連携は不可欠です。もちろん、警察にしても、児童相談所にしても、外部機関と連携する方針は、事前に関係者に公表し、周知徹底することが重要です。教育が警察の力を借りることは恥であるという考え方があるようですが、自分たちで問題行動を解決できないまま、多くの児童生徒に迷惑の及ぶことを放置しておくことの方がよほど大きな恥なのです。
他の学校との連携も重要です。小学校は中学校との相互連携、中学校と高校との相互連携は重要です。また、子どもは自らが役割を演じることによって、役割や資質を体得していきます。保育所や幼稚園と組んで遊びの指導や読み聞かせなどをさせることで彼らの自覚は大いに深まります。一方で、子どもの活躍の舞台を準備しながら、他方では、警察と連携して、学校秩序や学習の規律を乱す暴力行為や問題行動には断固とした姿勢で臨むことが大切です。もちろん、これらの活動は、教師全員に周知した校内指導の積上げが前提です。第1は、その場で必ず指導する。第2は学年の関係教師全員で指導する。最後は、管理職を含む学校指導部が指導して、保護者に通知すると言う手順が必要です。予告から結果の報告まで、全てを情報公開することは言うまでもありません。法律上の抗議を回避するためには、個人情報の保護、プライバシーへの配慮は当然おこなわなければなりません。

6 子どもの変容評価
-子どもで見せる現場評価-

(1) 発表会は子どもの晴れ姿を見せる
(2) 集団の「同調」を見せる
(3) 子どもには高い目標を掲げさせて「負荷」をかける
(4) PDCAの中心は目標の達成度評価です

内外の評価者による評価は不可欠です。評価対象は、学校が目指した教育目標に照らして、子どもが変わったか、否かです。

(5) 個人指導よりは集団指導を
-個性よりは協調を-
-主体性より同調を-

現在の学校が、陥りがちの分業や個別指導に囚われてはなりません。生徒指導担当者だけが子どもの問題行動の指導に当たるなどと言うのは最悪の発想です。学校は集団行動のトレーニングの場であり、共同生活の予行演習の場でもあります。全教員は教科指導の前に、生活規律・学習規律の指導者であることを再確認しなければなりません。規律の問題は、全教員が同じ指導基準で、褒めることも、叱ることも実行できなければなりません。許されないことは許されない、やらなければならないことはやらなければならない、ということが規律です。学校規範を掲げ、学習の規律を確立するためには、外部からお招きした指導者を含め、学校に関わるもの全員が指導者にならなければなりません。なかんずく、教員の「全員野球」は絶対不可欠の条件です。ひとたび、指導基準を決めた以上、子どもに対応するときの教員の個人差や価値観の違いを認めないことが管理職の役割です。

(6) 感化論再考

学校集団の「雰囲気(社会的風土と呼ばれます)」ができ上がれば、「感化」や「集団圧力」の機能が作動し、子どもは特別な指導をしなくても、「みんな」そうする-「ぼく」もそうする、という「同調」を始めます。そのようにして、人間社会が持っている常識や不文律ができ上がって行くのです。
誤解を恐れずに言えば、学習規律の確立や生徒指導の根本は、ひとり一人を大切にすることではありません。逆に、学校が要求する規律に例外を認めないことが不可欠です。それゆえ、個人指導よりは集団指導を優先し、一人ひとりの生活環境の背景や個人的事情を認めないことです。その時、初めて、「学校の風土」が形成され、すこしずつ「校風」という見えない「風」が子どもの上に吹き始めるのです。全員の生活規律を確立することが先なのです。
もちろん、引き蘢りや不登校など病的な不適応や耐性の低い子どもには、場面に応じた臨床上の個別指導は必要ですが、その場合ですらも、集団が個人を迎え入れることが出来れば、集団自体が個人を治癒して行くことができます。それが「感化」です。

(7) 学力の診断と重点指導

学力の第1条件は体力です。体力のない子どもは机に向かい続けることが出来ません。第2条件は、集中と持続を保障する耐性です。第3は、他律に従う学習の規律です。第4は、学力不振の実態の正確な診断です。第5が、診断に基づいた重点指導です。「加配教員」(地域の事情に応じて定員以上に教員を配置するシステム)を配置しているところは、時差出勤制を取って学力の不振な子どもの特別指導を組織化するべきです。いくら言っても職員会議も校長さんも教育行政も、時差出勤を制度化できませんね。他の職業分野では時差出勤どころかワークシェアリングまで実施している時代なのですから、要するに、最大の障碍は教育界の「やる気」の問題なのです。子どもの背景を為す環境が問題であると言うのであれば、環境のマイナス面を補う「補修授業」でも、「特別指導」でもするのが世間の常識というものです。「子どもの自尊感情を確立しよう」とか「一人一人の個性を生かそう」とか、「いじめをなくそう」、「差別を根絶しよう」などと教育上のスローガンを何回叫んでも学力は上がりません。学力を上げてやらなければ、子どもは複雑な文明社会で生き抜くことはできません。職業を身に付けて、世間の信用を得なければ差別を跳ね返してゆくことも出来ないのです。しかし、生温い学校の閉鎖性の故に、世間の常識は、学校の常識にはならないのです。なぜ、世間は公立より私立の中学を選ぶのか?それは保護者の公立学校に対する評価の結果ではないのか?教員は自分の問題として考えたことはあるのでしょうか?
生涯学習の未来学
「未来の必要」から論じる
第92回生涯学習フォーラムinふくおか

ようやくフォーラムの討議が軌道に乗ったように思います。報告者の森本精造教育長、司会の大島まな准教授が「未来の必要」から論じるという視点を採用して下さったからだと確信しています。現状のシステムや枠組みを前提として論じている限り、問題を正しく捉えることも、適切な処方を提案することも難しいということがようやく議論の前提になりました。以下は筆者が提出した論文の前半です。
1 分業の固定化・専門の固定化

日本の多くの組織,なかんずく行政組織は、多くの問題を個別化し,専門化と分業化で解決しようとして来ました。ひとたび分業化された解決法は縦割り行政の仕組みの中で必ず固定化して行きます。先例主義はここから始まります。
人々を取り巻く生活課題が変わっても、背景を成す状況が総合化しても、従来の対策は、いつも、分業のたこつぼの中に取り残されてきました。日本のシステムが新しい状況に対応できないのは、分業の固定化・専門の固定化が問題の根源にあります。幼保一元化の問題も,学校の閉鎖性の問題も,高齢者教育も、過疎対策も、子育て支援も、分業化された行政の仕組みや、専門・分化した研究の発想の呪縛から逃れられなくなっているのです。
たとえば,子育て支援と言う以上、「支援」には、「安全の確保」も、「健康の管理」も、「子どもたちの交流」も、「発達支援」の機能も全てが含まれるべきであることは理の当然です。しかし、福祉の保育部門が担当すると決めた途端に、学童保育の分業の枠に閉じ込められることになります。行政分業の枠に囚われると,「保育」以外はやってはいけない、保育以外はやりたくない、という発想に陥るのです。
高齢者の問題も,過疎の問題も,男女共同参画の問題も,行政の担当部局を決めた途端に,担当部局が担当すべきとされている分業化の論理に呪縛されるようになっているのです。もちろん、担当課以外の部局はそっぽを向きます。「オレたちの仕事ではない」という論理、「仕事を増やすな」という論理、「手柄をあいつらにやるな」という論理が一人歩きを始め、他部局の協力は得られないということです。分業化は,ある意味では効率化ですが,別の意味では「セクト化」です。セクト化は「たこつぼ化」です。問題を多角的に見ることをしなくなるのです。総合的な問題、新たに発生した問題を解決できる筈はないのです。

2 行政の分業が発想の「たこつぼ」化を招いた

もちろん、特定の問題には、特定の原因があり、特定の解決法があります。それゆえ、分業化に適した問題の解決法がある事は当然ですが、一方には、分業では解決の出来ない多面的、総合的な問題もあります。日本の政治や行政は、既存のシステムに呪縛され、先例に囚われ、問題は、分業化と専門化で解決できるという信仰に囚われているようです。ひとたびでき上がった分業は,問題別分析に囚われ、木を見て、「森」が見えなくなります。特に新しく浮上した「少子化対策」などの総合的問題には、既存の分業システムでは歯が立つ筈はないのです。ようやく、「少子化担当の国務大臣」を発令するところ迄はきましたが、学校施設の活用は文科省の管轄下にあり、学童保育は厚労省の所管にあり、男女共同参画は総理府が推進しという具合で、担当大臣の下に権限と所管業務を集中させることができないのです。
新しい状況から生まれた新しい問題にどのような解決法が最適であるか,総合的に分析・診断する習慣を失っているのです。行政の分業が発想を「たこつぼ」化し、対応策の分業を固定化しているのです。それゆえ,あらゆる問題は,当該問題に最も近いと想定される行政部門にその解決が委ねられます。行政部門は他の行政部門の機能に助けを求めることは希有のことです。「省益」が一人歩きを始めるのです。文科省の事業は文科省の守備範囲で,厚生労働省の事業はそれぞれの部局の守備範囲でしか,問題設定も,解決策の構想も発想されていません。たとえば,過疎対策です。過疎地に対する総合的対策という意味では,政治も無力,行政も有効な手を打てていません。過疎は急速に進行しています。過疎地には雇用の機会がありません。若者が流出するのは当然です。雇用機会を創り出す思想が無いからです。
事実上,現代の日本では,誰も過疎問題に取組んでいないのではないでしょうか。農林省は,農業分野の特性からしか農村を見ようとしません。国土交通省はいわゆるインフラの観点から,道路とか,ダムという施策しか考えてきませんでした。地方の教育行政にしても,過疎問題や地域文化の問題を無視して,学校の統廃合を生徒数の減少という教育行政の効率の論理でしか考えないのです。
憲法が規定した「居住の自由」がある以上,人口の強制的な移動は不可能です。雇用のあるところに、利便性の高いところに人口は移動します。現代の過疎問題は,交流人口の義務的定期的移動によって解決せざるを得ないのです。唯一の方法は、子どもが少なくなった田舎の学校に、都市部の学校から定期的に子どもを「短期留学」させればいいのです。具体的に論じる事は止めておきますが、子どもの交流は教育上大いに意義があります。そのためには学寮の完備,子どもたちの輸送手段の確保,先生方の出張手当、カリキュラムの学校別自主編成などの工夫が必要になります。換言すれば,学寮整備の「公共事業」が必要になり,都市部と過疎地の交流計画の策定が必要になり,学寮の世話や輸送を担当する新しい雇用を創出する労働政策が必要です。カリキュラムの自主編成を認めるためには、教育行政の地方分権が不可欠ですが、これらを総合的に実行できれば,学校の統廃合を防ぐことができることはもちろん,過疎を止めることができるのです。昭和50年に,当時の国土庁の研究事業として提案された「セカンドスクール構想」には、国土の均衡発展という観点から,教育も,過疎対策も,雇用政策も,地方分権も,公共事業も,多様な分野を組み合わせた知恵があったのです。無視したのは、分業化され、たこつぼ化した当時の縦割り行政です。
民主連立政権は、”不急・不要な“公共事業を停止しようとする英断をしましたが,緊急・不可欠な公共事業の実行を英断して初めて、英断の論理が完結します。過疎対策は待ったなしです。ひとたび、地域の結束と連帯の核となった学校機能を消滅させれば、地域の再生は容易ではありません。「総理府」が機能しなかったのも、「セカンドスクール構想」を顧みることがなかったのも,停滞の根源は、分業が固定化した縦割り行政組織の問題でした。細分化され、分業化された行政の在り方を,建設的に破壊して総合化する発想さえあれば、課題の解決は可能なのです。総合化の戦略は、専門化と分業化の前で窒息しているのです。

3 総合的課題は総合的仕組みを必要とする

問題が総合的であれば,その解決には総合的仕組みが必要になります。
総合的な問題の解決には、「診断」が何よりも大切です。診断の順序を箇条書き的に言うと次のようになります。
「問題」を発見し→問題の背景を精査し→問題間の関連を特定し、→先例や現在の分業システムに囚われず問題解決に必要な仕組みを考える→必要な要素を組み合わせて事業化(プログラム化)する→事業の実施に必要な行政チームを組織化して権限を与える。これだけのことができれば,総合的な事業が,行政の分業を越えて動き出します。

具体例を挙げれば、「むなかた市民学習ネットワーク事業」や「豊津寺子屋」です。飯塚市の「熟年者マナビ塾」もその一つです。スローガンは、事業の性質上,結果的に「一石数鳥」ということになります。なぜなら問題が総合的である,ということは,目標も答も一つではないということです。解決策が複数の要因に亘って総合的でなければ求める答は出ないということです。仕組みの問題が重要になるのはそのためです。
「むなかた市民学習ネットワーク事業」は、総論的には、市民による市民のための生涯学習システムの構想ですが、各論的には、「ボランティアの発掘・養成・研修・活用」であり、「市民教授を活用した社会教育の創造」であり、同様に「学校教育への支援」であり、結果的に生涯学習推進財政の軽減であり、地域内施設の活用であり、「市民交流の促進」による「住民融和の方策」でもありました。
また、「豊津寺子屋」は、家族(女性)のための「子育て支援」であり、子ども自身のための「発達支援」であり、「住民指導者の発掘と養成によるボランタリーなコミュニティ・サービスの創造」であり、「高齢者に焦点化した活動舞台の創出」であり、「世代間の交流の促進」であり、「生き甲斐の創出」であり、「高齢者の活力の維持・存続のための事業」です。学校施設をフル活用することを伴うコミュニティ・スクールの創造でもあります。
「熟年者マナビ塾」の目的も,当然、複合的です。もし、地方政治や教育行政や学校教職員が、現在ほど分業化信仰に陥っていなければ、豊津寺子屋と「学社連携」を同一地平線上に発想したことでしょう。そうなれば、生活科の学習も、総合的学習も一気にその質・量の拡大と高度化につながることは疑いないのです。「学社連携」と言い,「学社融合」と言ったところで教育行政の範囲でしか考えられていないことであり、「市民学習ネットワーク事業」も、「豊津寺子屋」も、既存の分業の仕組みを変えて構造化しなければ、発想できないことなのです。「高齢者の生き甲斐や生きる力を保持する方策」も、「子育て支援と発達支援を組み合わせる方策」も、男女共同参画のまちづくりの政策も、現状の教育行政や行政分業の単一枠の範囲に収まる筈はないのです。
その意味では、臨教審が生涯学習の課題を、当時の総理大臣の下で審議したことは画期的な意義があったのです。生涯教育-生涯学習が文部科学省の分業の枠組みに収まる筈はなかったのです。しかし、総理大臣の下に議論の「場」は設定されても、行政分業の枠組みを変えることはなく、解決すべき問題設定も行なわれませんでした。総理大臣を頂いた折角の総合的検討の機会は、「仕組み」の変更やシステムの弾力化にも至りませんでした。
「むなかた市民学習ネットワーク事業」も、「豊津寺子屋」も、その成功の背景には、総合的な問題は総合的に取り組まなければ達成できない,ということをそれぞれの自治体のトップが理解したという事実があります。政治決断があったが故に可能になった事業です。それゆえ、後日、分野横断的な仕組みと問題の総合性を理解しない「首長」が登場して,現行の行政分業の仕組みに合わせようとしたから、両事業ともに、その潜在的可能性を著しく矮小化してしまったのです。
生涯教育や生涯学習という概念は,人間の一生の時間系列に添って登場する社会的課題や発達課題に対応する「適応」の思想です。変化は生活の全分野に及ぶのですから、教育行政だけで対応できる筈はなかったのです。また、社会教育という呼び名の通り、学校を除く、社会で行なわれる全ての教育活動で行なうことは可能でしたが、社会教育を文部科学省の教育行政の中に閉じ込めて,発想する事も当初から不可能な事だったのです。「社会で行なわれる教育」と「社会教育」とは違うものなのです。しかし,現実の社会教育は文部行政の守備範囲でのみ問題解決が発想されました。それが分業化の論理です。事態が複雑化すれば、行政の守備範囲を超えた対応が必要になる事は日を見るより明らかだったのです。厚生行政には健康教育の必要が発生しました。労働行政には生涯職業教育の必要が生じました。このような明らかな現象を延々と無視して来たところに日本の生涯学習振興策の無謀がありました。そして無策のままに今度は生涯学習振興行政を首長部局に移行させるということが起こって来ているのです。今回の民主連立政権が「国家戦略室」を創設しましたが、組織の原理は、「国家の戦略を総理する」とうことですから、思想的には従来の「総理府」と多く変わるところはないでしょう。唯一の問題は、従来の行政分業を打破して、総合的課題に総合的に対処する発想が可能か、否かが問われることになるのです。
前回福岡県立社会教育総合センターが分析してくれた多くの優れた「交流会」の事例の大部分も,単発の専門化した事業に過ぎません。25年間も続いている宗像市の「市民学習ネットワーク」事業ですら愚かな教育行政が,社会教育と学校教育を分けて考えた結果,市民の優れた人材が学校への関わりを断たれています。分業化した行政は、「たこつぼ」化した発想しか思いつかなくなっているのです。佐賀市の勧興公民館の「コミュニティまつり」の発想が行政分業の「殻」や「枠」を見事に打ち破っているのは秋山千潮館長さんが行政の人ではなく,普通の人間だったからでしょう。そう言う意味では30年近く積上げて来た多くの事例は、個々の試みが優秀であったとしても、行政の分業化に呪縛され,制約された事例が多いのです。
平成22年(2010年)の更新のご案内(第1回)
1 メールマガジンをご希望の方は「風の便りーメールマガジンを希望する」というタイトルで三浦までメールをお送り下さい。平成22年1月号(121号)から「メルマガ」をお送りします。一切の費用は必要ありません。

2 平成22年も、これまで通り「風の便り」の実物(ハードコピー)をご希望の方は郵送料と印刷費の合計年間2,000円をお送りください。

3 12月号は120号になります。お蔭さまで10年元気に書き続けることができました。陰に陽に、お付き合いいただき、ただただありがたく深くお礼申し上げます。メッセージカードを同封します。ご自由に感想をお聞かせ下さい。

4 年をとって、時に体調の不良を感じる時があります。降圧剤の世話にもなり始めました。ボロボロになってもがんばり続ける所存ですが、万一、小生が事故や病いに倒れるなどの場合は、そのまま筆を置きます。頂いた郵送料等の返還はいたしませんが、ご寛容にお許し下さい。
118号お知らせ
1 第93回生涯学習フォーラムin愛媛
中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会に愛媛県のご参加を得た記念とご挨拶を兼ねて愛媛の「地域教育実践研究会21」に合流するフォーラムを企画しました。久々の修学旅行のつもりでご同行下されば嬉しい限りです。
日時:平成21年11月14日(土)13:00-15日(日)12:30まで
場所:国立大洲青少年交流の家
実行委員会事務局:kouma@d6.dion.ne.jp,-080-1995-6001
詳細情報:http://1st.geocities.jp/chiikikyouiku/をごらんください。

2 お詫びと日程の訂正
第94回生涯学習フォーラムinふくおかは忘年例会も兼ねて12/12(土)の予定です。詳しくは次号でお知らせします。(前回は12/19とお知らせしましたが、諸般の事情で一週間繰り上げることになりました。ご迷惑をおかけしましたら、どうぞお許し下さい。)

第1部 論文発表:第92回で飯塚市の森本精造教育長からご発表・ご提案のあった論点を中心に討議を続けます。
テーマは「未来の必要から論じる生涯学習振興政策」(三浦清一郎)です。
第2部 事例研究:報告者は、古市勝也九共大教授、大島まな九州女子短期大学准教授のお二人の予定です
テーマは「未来につなげるべき実践、未来の必要から創造すべき生涯学習のプログラム」です。当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。

3  第95回生涯学習フォーラムin米子

米子児童文化センターの15周年事業に便乗して、鳥取県西部のみなさまが集まって下さいます。日吉津村(ひえずむら)の橋田先生を中心に計画が進行中です。冬の日本海の温泉を楽しみながら皆さんで語り合おうという計画です。1月30日(土)夜;大交流会、1月31日(日)午後;米子フォーラムの予定です。

4  第5回山口人づくり、地域づくりフォーラム

今年度は、2月13日-14日(土-日)の予定です。関心のある方は山口県生涯学習推進センター(〒754-0893山口市秋穂二島1062、電話083-987-1730)までお問い合せ下さい。
編集後記
読者へのメッセージに代えて

おかげさまで「風の便り」はもうすぐ10年になります。大きな変化の10年でした。大学改革の失敗の無念を晴らそうともがき苦しんだ前半の5年でした。それでも「後に未来はない」とようやく悟り、前だけを向いて生きようと決めた後半の5年でした。長かった10年でもあり、あっという間の10年でもありました。多くの読者と晩年のお付き合いが出来た自分は果報者であります。現在の状況をもって、未来のあり方を決めることはできないということですね。まさしく想像もしなかった10年の展開でした。考えれば考えるほど読者の皆様に支えていただいた10年でした。本当にありがとうございました。

夫れ 天地は万物の逆旅なり
光陰は百代の過客なり
而して 浮生は夢の若し

まさしく夢のごとき10年でした。今年中に新しい著書を出版します。タイトルは「がんばるのやめますか、それとも人間やめますか」としました。もうすぐ古希を迎える自分への問いかけのつもりです。この間、実に多くの社会教育の実践の現場に巡り逢うことができました。自分としては20年が限界であろうと考えていた「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」が30年も続くことになるとは望外の喜びです。途中から仲間と始めた「生涯学習フォーラム」も92回を数えました。
「風の便り」は10年一区切りで、筆を置く予定でしたが、ぼろぼろになるまで「がんばって」を書き続けることにいたしました。新著で主張した通り、それが人間の証明であると考えるようになりました。
日常の生きる指針は「The Active Senior」に書いた通り、「読み、書き、体操、ボランティア」です。別名は「負荷の教育論」です。「負荷」をかけ続けている甲斐あって、今のところ、研究の現場に恵まれ、分析も論述も昔に比べて衰えたとは思いませんが、「生きる力」の第1条件であると自ら主張して来た「体力」は確実にかつ著しく落ち始めています。読者の皆様には誠にご迷惑なことでしょうが、もうしばらく筆者の挑戦にお付き合いを頂ければ幸いでございます。あとどのくらい書き続けられるか全く予想も出来ませんが、全力を尽くすことだけはお誓い申し上げます。しかし、無常の人生、不幸にして中途で倒れました場合には、お約束を守れなくなりますが、どうぞご寛容にお許し下さい。

後屈の紅葉を越えた蒼空に
吾を励ますひとひらの雲

「風の便り」(第117号)

発行日:平成21年9月
発行者 三浦清一郎

美しき晩年-新規出版の結論
1 戦う晩年

尊敬する先輩の友人が、老後は若い時以上に努力して、美しく生きたいとおっしゃいました。言われてみれば、若い日々は何もしなくてもそれぞれに若さに輝いていました。今は、若さも、春秋も、希望も、友でさえ、多くのものを失いました。
以来、「美しき晩年」とは何か、が筆者の課題になりました。今回、ようやく、一つの結論に辿り着きました。人間が「老いる」とは、「意識すると,しないとに関わらず、加齢に伴う心身の衰えと戦い続ける過程」をいいます。生物の宿命として「戦い」は「負け戦」になりますが、「戦い方」で晩年の在り方が決まります。戦いが不可避であるとすれば,問われているのは,意義ある戦いをできるか,否かになります。
美しき晩年とは「意義ある戦いを戦う晩年」です。「意義ある」とは、もちろん,本書が論じた生涯現役を意味します。「戦う晩年」とはがんばり続ける晩年のことです。頑張り続ける目標と対象は「社会貢献」の実践です。がんばりを支えるのは人間の精神であり、われわれの意志です。言い方は難しいのですが、衰弱して己を失うまでは、「あるべき命」を生きようと全力を尽くし、己を失ったあとは「あるがままの命」を他者に委ねて生きることは出来ないものでしょうか?それを決めるのもまた精神の働きなのでしょう。
子ども時代から青年期にかけて私たちは「生きる力」の基礎を形成し、その力を人生の経験を通して、職業的にも,社会的にも,もちろん私的にも、さまざまに加工しました。培った「生きる力」は家族生活、社会生活なかんずく労働の過程で、さまざまに応用して来ました。加工の方法も、応用の仕方も、もちろん、努力の結果も自分流であったことは言うまでもありません。子どもの「生きる力」は、「体力」に始まり、しつけを通して、人生を生き抜く「行動耐性」と「欲求不満耐性」を形成します。この二つの上に、より高度な教育を施して,職業生活・社会生活のための学力や規範を積上げて行きます。「生きる力」の最終条件は精神力、意志力、あるいは豊かな心などと呼び倣わされて来た感情値(EQ)です。もちろん、豊かな心にも、人間性の向上にも、終わりはなく、完成の具体的な到達点はありません。子どもの場合、教育・訓練は、「ヒト」から人間に向かって、体力→耐性→学力→社会性→感情値(EQ)というように、社会的動物の基礎基本から人間の特性を獲得する方向に向かって形成されます。筆者はこのことを教育の順序性と呼んできました。順序性という以上、子どもの教育は、途中の学力から始めたり、最後の感情値から始めることは事実上難しいということです。それゆえ、現代日本の幼少年教育の問題の大半は、発達の基礎基本が固まっていないまま、学力や習い事に振り回されたことです。なかんずく、行動耐性と欲求不満耐性が欠損したまま、少年期の教育に入ることは決定的な間違いだったのです。典型的な例は、学校の授業に耐えられない「授業崩壊」や「学級崩壊」のような「小1プロブレン」が発生したことです。不登校やひきこもりもその変形であることは言うまでもありません。
一方,高齢者の場合は、教育の順序性が逆転すると論じました。高齢者の「生きる力」の構成要因は子どもと同じですが、それを保持できるか否かは自分次第です。子どもの課題は「向上」ですが、高齢者の課題は、退行の防止、老衰の予防です。この時、「廃用症候群」は、医学用語であると同時に教育用語になります。「使わない機能は衰える」という医学的事実は、「人間の機能は使い続けるべきである」という教育学上の予防の原理に転換するからです。体力から人間の精神に至るまで、それが人間機能である限り、適度の負荷をかけて使い続けなければ「廃物(使用不能)」になるからです。老衰の予防は当然高齢者教育の課題ですが、福祉政策も教育政策も、ほとんど高齢者の予防教育に踏み込んでいないのが実態です。
子どもはしつけや教育という言葉の通り、「他律」を前提にして「生きる力」を養い、彼らの成長とともに緩やかに「自律」に移行させて来ました。しかし、大人の場合、人生は自分流です。労働の季節が終わり、人生の諸々の役割から解放された高齢期は、個人の生き方を拘束する条件は一気に減少します。高齢期は、社会的な「役割演技」の必要が減少して、ますます自分流になるのです。換言すれば、高齢期の生き方の全てが本人の責任に帰するのです。

2 主張する「自分流」

二度目の人生を「楽をして、好きなように暮らせ」という思想は、安楽余生論です。無理をしないで、「パンとサーカス」の楽しみを追いかける生き方は、換言すれば、「がんばることのない」気楽な自分流です。安楽な余生も、気楽な自分流も、己の欲求のままに、快楽原則で生きる高齢者を生み出します。社会に依存だけして,他者に貢献しない人口が増大すれば、社会は活力が低下するのは自然の成り行きです。
日本の社会教育は、生涯教育を生涯学習に転換して、高齢者の選択に任せたとき、生涯学習が安楽余生論の反社会的な発想に転換することを予想できなかったのです。高齢者教育論の深刻な分かれ道でした。老人学級も,高齢者大学も,ほぼ税金丸抱えで実施されながら,高齢者の気ままな学習が主流となり,学習成果の社会還元はほとんど進みませんでした。
高齢者が加齢や病弱によって人間のさまざまな機能を失い、人間からヒトに戻って行くのは、自然の回帰である、何も不思議なことではない、と介護の現場は指摘します。この時すでに、介護の現場もまた、「人間」と「ヒト」とは異なった存在であるということを前提にしているのです。恐らく最後は、私たち人間の多くが、理性や意志を失って、自然の「ヒト」に戻って行くという指摘はその通りでしょう。しかし、戦ってそうなるのと、戦いを放棄してそうなるのとでは大いに異なります。『モリー先生との火曜日』は、アメリカの人気作家ミッチ・アルボンが、学生時代の恩師を看取って綴った人間精神の感動的な記録です。身体的機能のすべてを失いながら、最後まで、「自分のことは自分で決める」と主張して、精神の豊かさと意志の力を失わなかったモリー先生こそ人間による人間の証明であったと思います(*1)。モリー先生の生き方において、人間の証明は精神の働きによることは明らかなのです。
私たちは激動の時代を生きて来ました。技術革新に端を発したさまざまな変化は,変化が変化を呼ぶ連鎖を起こし,情報化,国際化,高学歴化、核家族化、高齢化、少子化等々、個人の暮らしをひっくり返し,国家・社会の在り方をひっくり返してあらゆる関係を変えてしまいました。その中で新しい環境に適応するため,人間は生涯教育-生涯学習を発明しました。変化が一生に亘って間断なく続くとすれば、一生に亘って適応も学習も続けなければならなくなったからです。
いつの時代もそうですが,高齢者はやがて年をとり病気や認知症や死を心配するようになります。残された歳月をどのように暮らすかは人生の最大の課題であったと気付くのです。若かった日々の記憶は鮮明で、つい昨日のことのようですが、気がついてみれば、いつの間にかずいぶん年をとりました。晩年の生き方こそ高齢期に残された宿題だと気付かざるを得ないのです。
私たちの最後について、古人は、「終りよければ全て良し」といいます。「晩節をけがすな」ともいいます。「棺を覆って価値定まる」ともいいます。「健康」が大事だと言えば、「病弱の人」の「晩年」は美しくないのか?「活動」が大事だと言えば、「活動」のない晩年は「豊か」ではないのか?法律に違反せず、節度をも持って生き続ければ、それだけで晩節を全うしたことになるのか?考えれば考えるほど「美しい晩年」の条件は難しいのです。「人それぞれ」違うだろうということでは答えたことにはなりません。
「美しき晩年」、「豊かな晩年」は、言うは易く、行うは難い目標です。高齢期の残された時間を、具体的に何をどのようにして生きればよいのか?生涯学習は、現場の理論ですから、必ず人々が日常生活の中で応用のできる「原理」と「方法」論を提出しなければなりません。分析の視点は、「自分が幸せに感じること」、「他者がよろこんでくれること」、「社会の活力に寄与すること」の3点です。本書の結論は、「生涯貢献の現役として生きようとする実践である」ということになりました。そのためには「生きる力」の保持の努力が不可欠の前提です。自己教育も自己鍛錬の努力も不可欠です。生涯現役の自分流は、がんばらなければ実現不可能です。がんばっても、実現できないかも知れません。人生が不確実性でできている限り、それはそれで仕方がないのです。高齢期の方向目標を「生涯貢献の現役」とすれば、生きる姿勢は目標に向かってがんばることです。生涯現役者が気楽な自分流と最も異なるところです。
自分流の原則に立てば,それぞれがそれぞれの意志で,勝手に生きればいいということになります。おれは「ぶらぶらしていたいんだ」と言えば,それでもいいことになるし、「自然に回帰する」ことも人間仕方がないのだと言えば,それもやむを得ない、ということになるのでしょうか。
今年の敗戦記念日の特別記念番組で、「君を忘れない」という神風特攻隊の出撃までの映画がありました(*2)。間違いなく特攻という締め切りがやって来る人生で、映画の中の若者が懸命に生きようとしていました。与えられた使命を自分に言い聞かせ、自分を納得させ、愛する者や心残りをたくさん後に残して飛び立って行く若者の思いは、さぞや切なかったことでしょう。「君を忘れない」というタイトルは、何となく締め切りが見えても戦い続ける高齢者の人生に重なって見えました。高齢者もまたそれぞれの人生において、だれかに「君を忘れない」と言ってもらいたいのだと思いました。戦わない高齢者は果たしてだれかに「君を忘れない」と言ってもらえるでしょうか。
斉藤弘子氏が編集した「尊厳ある最期」のための参考書も、書名は『「私」が決める死の迎え方』(*3)です。ここでもまた最期を決めるのは「自分」だと主張しています。最期まで自分をつらぬくためには、モリー先生のように主張し続けなければなりません。
斉藤氏は自分の死に方を主張しなさいと奨励しているのです。すでに日本尊厳死協会(03-3818-6563)もできています。遺言や葬儀について自分の思いを依頼する「ウイルバンク」(03-3707-1788)も存在します。「葬送の自由をすすめる会」(03-5684-2671)もできました。
しかし、自分流の難しいところは、「自己主張」することも自分流、「しないこと」も自分流であることです。筆者の前提は、人生は「自分だけで存在しているのではない」、ということです。それゆえ、自分流で生きても「自分のことだけでは済まない」、ということです。人生が「自分のことだけでは済まない」とすれば、他者との関係を表現しなければなりません。生涯現役論は、自己主張以上に他者との関係の表現の形式です。生涯現役にこだわった自分流は、他者と自分の関係を前提にしているからです。自分だけで存在しているのではないということは、「一人では生きられない」ということです。この世は「相互依存」の関係であると言っても、「生かされている人生」と言ってもいいのです。自分だけでは生きられないということが前提であれば、共存を前提にした生き方を選択するしか、論理的な結論はあり得ない筈です。自分を表立って主張するか、しないかは別として、共存を思考する以上、生き方を通して他者との共存・社会参画の意志を表現するしか方法はないのです。生涯現役はその意志表明なのです。
他者との共存を前提とすれば、自分勝手も、自分本位も、社会への依存症も褒められた話ではないでしょう。生涯現役は精神の戦いです。たとえ敗れ去ろうとも、老いの過程は精神と肉体との戦いであることに疑いはありません。生涯健康は日々の精進を要求し、生涯活動は生涯健康が前提であり、生涯現役は生涯を通した活動と社会貢献が前提です。おのれの老いと戦わずしてこれらが手に入る筈はないのです。「老いる」とは、「加齢に伴う心身の衰えと戦い続ける過程」をいいます。美しき晩年とは戦う晩年なのです。

(*1) Mitch Albom,Tuesdays with Morrie,Doubleday,1997,p.155
”小さなことには従います。しかし,考えたり,価値を決めたり,選んだりすることは,他者に任せたり,社会に委ねたりは出来ません。自分で決めるのです。”
(*2) 製作:古川博三、伊地知啓-監督、君を忘れない FLY BOYS, FLY!の映画データベース、1995年
(*3)斉藤弘子編著、「私」が決める死の迎え方、保健同人社
生涯学習の未来学
-これからなにが起こるのか-なにを為すべきか?

(第91回生涯学習フォーラム-30周年記念出版勉強会始まる)
I 設定した問題の中に答はある

1 マニフェストの力-「契約」の力

民主連立政権が発足し、その出発点のニュースを興味津々で見ています。「風の便り」は政治を論じることを自制していますが、今回の政権交替に教育の論理を見た思いがしていますので例外的に論じます。
政権交替は、「設定した問題の中に答はある」ということを証明しました。換言すれば、民主連立政権の改革実施のスピードの速さと規模と徹底した内容は「マニフェスト」の力であると思います。それぞれ実情の異なる地域は、おそらく「マニフェストのつまみ食いをさせろ」とごねたり、主張したりするのでしょうが、マニフェストに依拠した選挙が「契約」であることを理解しない「愚かな地域民主主義」と「地域エゴ」の抵抗に過ぎません。日本国民はマニフェストを選んで、民主連立政権と「契約」したのです。全体契約は、当然、部分要求に優先します。各大臣がマニフェストにあるのだから譲れないと言っている事は正しいのです。全体契約は地方の意志に優先するのです。
民主連立政権がマニフェストに示した「契約」の原理を貫徹できるようであれば、日本は大きく変わることでしょう。良くても悪くても、筆者にとって、論理的には、馬鹿げていることでも(事実そういうものも含まれています)、日本国が初めての「契約」を履行することを筆者は驚きをもって見つめています。
選挙前の多くの方々の感想と同じように、民主党もまた旧社会党の左派から自民党の右派まで、それぞれの派閥の思惑でくっついた烏合の衆で、日本の村社会における派閥や利益誘導型の意志決定方法が変わるとは正直考えていませんでした。しかし、今回は「変わりそうだ」という実感に正直驚いています。これなら子育て支援の「保教育」も、学校の開放も、“箱もの”の建設中止も、高齢者の社会参画も、問題の立て方如何で実現が可能かと期待が湧いて来ます。

2 政治・行政における「契約」発想の不在

生涯学習の「未来学」に関しても、国民になにを約束するのか、というマニフェストの立て方が重要なのだと思います。答は問題の立て方の中にあると確信した次第です。従来の地方政治も、当然、教育行政も勝手に自らに都合のいい方針を決めるだけで、市民や国民との「契約」という手続きを踏んでいませんでした。「契約」手続きが踏まれていれば、「契約」不履行の場合には、政治も行政もその責任を負わなければならないからです。地方議会も、「達成目標」が定かでない「公約」の監視は十分にできませんでした。子育て支援策が子育て支援になっていなくても、誰一人責任を取らなくていい時代が続いて来たのです。マニフェストを出すということすらやっていなかったということは日本の政治・行政に「契約」の精神は存在しなかったということです。
フォーラムが目指している30周年記念出版は、マニフェスト選挙の思想に倣って、生涯学習は国民の将来になにを約束できるのか、あるいはできないのか、を明確に問いたいと思います。名付けて「生涯学習の未来学(仮)」のテーマで分析と協議を続けて行きたいと考えました。たとえば、実行委員会の代表世話人の飯塚市の森本教育長は、マニフェスト方式が採用されるとすれば、教育長職の責任を賭して市民に何を実現することを約束するのか、それは何をもたらし、どんな方法で実行するのか、を明らかにすることです。従来の生涯学習推進行政(もちろん社会教育行政も学校教育行政も)は一度も、市民とも、保護者とも、子どもとも教育上の「契約」をしたことはないのです。生涯学習の未来にどのような問題を設定しするのか、それらの問いの中にすでに答があると信じています。
私は、かつて大学経営に携わった時、日本の私立大学は18歳人口の「パイ」の奪い合いをせずに、社会人や世界の18歳人口を顧客に想定すればいい、という問題を立てました。姉妹校関係の提携に奔走したのはそのためです。また、キャンパスを社会人に開放するという問題設定は、図書館の開館時間から食堂の在り方、キャンパスボランティアの導入まで従来の大学概念を根底から変えなければできなかったことでした。一番の問題は、私が関わった経営方針がマニフェストの「契約」手続きにまで高められていなかったことでした。従って、学校教育法によって、大学の重要な「運営の決定権」は責任を取らなくていい教授会に委ねられていました。今でもほとんどの大学が同じでしょう。大学改革の根本もまた政治改革と同じなのです。改革理念をマニフェストに具体化し、その実行ができなかったら運営者が責任をとって交替する仕組みを実現すれば日本の学問も一気に変わることでしょう。もちろん、現行制度の下で、責任の取りようのない教授会に運営を委ねてはならないのです。
岡田外務大臣は、核の持ち込みの日米密約について、官僚に調査を指示し、大臣命令を発しました。命令に従わないものは「罷免」できるという命令だそうです。ボトムアップという実質的には村社会の利害調整に過ぎない日本の愚かな民主主義をトップダウンで一気に破壊しつつあるのは、「マニフェスト」の力です。どうしようもない村社会でも、マニフェストという契約書さえ掲げれば、村の談合や根回しや陰湿な利益調整の裏工作を封じ込めることができるということなのです。民主連立政権の船出にある種の新鮮な驚きを感じているのは「理念」や政策の力が、村社会の異論を封じているからではないでしょうか!?そのような政権交替を日本人が選択したということにも驚いています。初めて政治に希望を持ちました。「契約」経験のない生涯学習の未来は果たしてどのようなものになるでしょうか。

II これからなにが起こるのか

1 生涯学習「格差」の拡大-社会教育行政の任務放棄

(1) 生涯学習の“衆愚主義”

現代の最大の特徴は「主体性」の尊重です。個人主義も,個性主義も,自主性も、主体性も,自律も,自立も、自己流も,勝手主義も,時には「自侭」,「わがまま」ですら,みんな「主体性」の別名です。現代は、自分を中心とした生き方を承認し、「主体性」の尊重が幸福の条件であるという考え方が主流になりました。人生を決めるのは「自分」であるという原則が社会を貫徹しています。この流れを総合すれば,「自分主義」と呼ぶことが出来るでしょう。本書では、この「自分主義」を「自分流」と名付けました。大人はみんな「自分流」を主張するようになったのです。
「主体性の時代」を自分流で生きた時の最大の危機は「格差」の拡大です。生涯教育を生涯学習に言い換えた時,「格差」の発生は不可避のものとなりました。生涯学習を選択するか、否かを、学習者の判断に委ねたからです。
教育と言う時には,原理的に、「教育を担当する主体」と「教育を受ける客体」の区分が存在します。それゆえ、生涯教育の必要が説かれた時、教育の「主体」は誰か,という問題が浮上したのです。事は生涯にわたって継続する問題であり,中身は「教育」ですから,多くの民主主義国家は神経質になりました。生涯教育には確かに誰かが「生涯にわたって教育を管理する」のではないか、という危惧が含まれることになるからです。
アメリカの生涯教育振興法が生涯学習振興法に名称の変更を余儀なくされたのもそうした議論の結果でした。最終的に,日本も世界の潮流に合わせて,ほとんど全ての公的な「生涯教育」表現を「生涯学習」に改めました。
看板を「生涯教育」から「生涯学習」に変えた、ということは,教育者より学習者を優先したということです。学習の実践も、学習内容も,もはや教育者が決定するものではなく、学習者が決定することになりました。行政主導型で推移して来た日本の社会教育,後の生涯学習振興の力が一気に弱体化したのはこの時点からです。生涯学習社会は、「自己教育」の概念だけを残して、高齢期の教育の概念を拒否した形になりました。
個人の選択原理を前面に出した時から,学習の成果は人々の「選択」に左右されることになったのです。当然、自己教育は本人の意志次第になったのです。
特に,高齢者の学習において,生涯学習と「安楽余生論」が結びついた時,教育を提供する側の主体性はほぼ失われました。生涯学習プログラムは,観光やレジャーのサービス・プログラムと同列に置かれて,消費者の需要に対応する“商品”と化したのです。教育行政や教育産業が生涯学習という新鮮で、国民の耳に快い考え方に転換した時、高齢期の学習は「買い手市場」に移行しました。学習プログラムの編成は、内容的にも、方法の上でも人々の需要に対応する方式に全面移行しました。社会教育分野で「要求対応原則」と呼んできた考え方です。
社会教育が生涯教育と同時並行的に行なわれていた時代には、教育の担当者は,常に,「学習必要」と「学習要求」のバランスをとるトレーニングを受けていました。「学習必要」は、教育者が判断する必要なプログラムを意味しています。「学習要求」は学習者が希望するプログラムを意味しています。しかし、生涯学習概念が社会を支配したとき,「学習必要」の議論は遠のき,「学習要求」の重要性が前面に躍り出たのです。選択するのは「教育者」ではなく、「学習者」である事が建前になったからです。この時から,生涯学習プログラムの選択対象は「パンとサーカス」になる方向がほぼ決まったと言っていいでしょう。過言を恐れずに言えば、高齢者教育の民主主義は、生涯学習という名の「衆愚主義」の傾向を帯びることになったのです。個人に生涯学習の選択権を委ねれば,「快楽原則」が前面に出ます。人々は,「負荷」の大きいものよりは小さいもの,難しいものよりは易しいもの,時間や努力を必要とするものよりは簡便に達成できるものを選ぶことは明らかだからです。生涯学習社会は,教育の必要より個人の選択を上位に置く,政治的な民主主義を教育活動に持ち込んだのです。しかし,教育は政治とは異なります。教育には,歴史や文化や科学の要因が多く含まれ,その内容や方法を世論で決めることは適切ではありません。教育においては、優れた一人の科学者や思想家を育てることが、100人、1,000人の知識や知恵を越えることはいくらでもあるのです。生涯教育も生涯学習も両方が必要です。政治環境を多数決で決めるように、教育内容を多数決で決める事は多くの場面で不適切であり、多くの間違いを含むことになるのです。

(2) 生涯教育を捨ててもいいか?

現に,多くの専門職業分野が、それぞれの分野の構成員の知識・技術の向上を,個人の選択する生涯学習には任せてはいません。専門職業分野も、学会も、生涯にわたる学習の必要は、今でも、「生涯教育」であって、「生涯学習」ではありません。生涯教育には、試験もあり,評価もあり,単位制や段階制の研修もあります。日進月歩の知識・技術を、個人に委ねた生涯学習で維持できないことは明らかだからです。どの専門職業分野でも、自らのレベルを維持し、国際社会の競争に勝ち抜いて行かなければならないのは自明のことだからです。
生涯教育では、教育者の現状診断と処方の論理が明確にプログラムに反映されます。これに対して,生涯学習は、学習者の欲求や需要を優先させるので,相対的に,教育を担当する側の意図を明確に反映させることは困難です。生涯学習は個人の向上と幸福に関わっていますが、その中身と方法を学習者の選択に委ねます。個人の「向上と幸福」の条件は、常識的に、健康と元気と、やり甲斐と「居甲斐」の総合されたものでしょう。この時、「自分流」の生涯学習が生み出す最大の危機は人生の「格差」です。格差の発生源は個人が選択する(あるいは選択しない)「生涯学習」の中身と方法です。特に、高齢社会においては、老後の生涯学習が人々の幸不幸を分け、人生の明暗を分けることになります。
生涯スポーツを選んだ高齢者と選ばなかった高齢者では、身体機能維持の可能と不可能を分け、結果的に健康と病弱の明暗を分けます。定年後の集団活動を選択しなかった人々は「新しい縁」に巡り逢うことはほぼ不可能です。生涯活動の有無は、交流の機会の有無に直結しているのです。当然、老後の社交の明暗を分けることになります。趣味の余暇活動でも、ボランティアの社会貢献活動でも、生涯学習を選んだ人と選ばなかった人との「格差」は無限大に広がります。
これらは総称して、「生涯学習格差」と呼んでいいと思います。具体的な中身は、生涯学習を選択した人としなかった人の知識の格差、情報機器の活用をマスターした人としなかった人の情報格差、自らの健康維持実践をした人としなかった人の健康格差、活動を通して仲間ができた人と活動に参加しなかった人の交流格差などが想定されます。これらの「格差」は結果的に、個人の生き甲斐や自尊感情にも「格差」を生じると考えて間違いないでしょう。自分流の生き方というのは個人の自由を前提にしています。そしてこの個人の自由こそが格差発生の遠因です。自由は「選択」を前提にしているからです。生涯学習のスローガンは「いつでも、だれでも、どこでも、なんでも」です。時と所を選ばず,人もテーマも自由ということです。それゆえ、「選択の自由」は「選択の成否」を分けるということになります。
かくして、自分流の最大の欠点は、選択する人と選択しなかった人との明暗が分かれることです。自由である以上、選択する人もいれば選択しない人も出るということです。特に、高齢期の生涯学習は必ずしも理想のシステムではないのです。
生涯学習は自分流ですから、選択するもしないも、原則的に本人の責任ですが、選択結果の格差が大きくなり過ぎると“自己責任”とか、“自業自得”だということで放置するわけにはいかない事態に立ち至ります。不幸な個人が増えれば、たとえその不幸が本人の責任であっても、必ず社会問題にならざるを得ないからです。閉じこもりや認知症や寝たきりなど、極度の老衰を予見しながら、高齢者を放置し続ければ、現行システムの高齢者福祉の「つけ」は、必ず社会に廻って来るのです。
それゆえ、総論的に言えば、生涯学習を選んだ国民の多い社会とそうでない社会では、当然、活力に差がでます。社会の負担も、未来の展望も、子ども達の活力も、技術革新の工夫も、生涯学習はあらゆる面で国際競争の条件を変えてしまうのです。生涯学習の成否は個人の幸不幸を分けるだけでなく、国家の存立にも関わるという点で生涯学習は立国の条件になるのです。しかし、高齢期の生涯学習が安楽余生論と結合したとき、生涯学習は今のままでいいでしょうか?高齢社会が行き詰まる前に、どこかの時点で、高齢者に、“選択必修”の生涯教育(*)を再導入しなくてもいいでしょうか?いまだ誰も議論さえしていないのです。社会教育行政は従来の任務を放棄したことにはならないのでしょうか?

(*) 最近の議論では、飲酒運転の撲滅には、「アルコール依存症」の治療を義務づけることが必要だということが指摘されています。また、後期高齢者の運転免許証の更新時には「認知症」のテストが導入されることにもなりました。社会的に高負担を発生させる危険性が高い高齢者の「無為」に対処するため、“選択必修”の教育プログラムを義務づける必要はないかという考え方と議論の方向は同じなのです。

2 親孝行の限界-介護の行き詰まり

介護と女性の社会進出の両立は不可能です

女性の社会進出は続きます。女性が望んだことであり、社会が必要としたことだからです。それゆえ、家族における、子育てと女性の社会進出の両立が困難であることは少子化が証明しました。親に「代わって」、社会が養育行為の大きな部分を引き受けなければ、子育てを支援したことにならないというのは、少子化の防止を前提としています。当然、介護の問題も同じです。
親孝行の意識だけで、在宅介護をすることは限界です。
介護の場合は、女性の社会進出との両立が困難であるということに留まりません。物理的、心理的に、限界が来ます。
老いて行く親の側に「老い」がもたらす問題の自覚がない時には尚更のことです。24時間の介護は、介護をする側を著しく拘束することになるからです。問題の大部分は高齢者の側の自覚の有無にあります。

3 子ども主体性論の暴走-規範の崩壊した社会

子どもの欲望を野放しにすれば規範は教えられません

近年の家庭教育の失敗は、子どもの「欲望」を野放しにしたことです。とりわけ幼少年教育の失敗は、いまだ未熟な子どもの「自我」と「欲求」を「社会規範」のしつけで抑制しなかったことです。時には、教育界の影響を受けて、子どもの欲求と「子どもの主体性」を同一視しました。
社会のコントロールが及ぶと及ばないとにかかわらず、幼少年期の子どもは生物学上の欲求のかたまりです。食いたいものを食いたいといい、やりたいことをやりたいといいます。もちろん、その逆もあるでしょう。食いたくないものは食いたくないとだだをこね、やりたくないことはやりたくない、と泣き叫んだりします。
社会規範や日常生活のルールのしつけを、子どもの「主体性を縛るもの」と考えて否定すれば、その瞬間から子どもの行動は制御できなくなります。子どもの欲望は野放しになり、子どもはやりたい放題になります。「好き・嫌い」だけで動く子どもを制御できなければ、礼儀は崩壊し、作法は壊滅します。礼儀作法がすたれれば、やがて集団や個人の約束は成立せず、社会的資源の配分の秩序に混乱が生じることは必然です。霊長類ヒト科の動物もまたジャングルの獣と同じになるということです。当然、家族には後顧の憂いが発生します。
- 家庭生活に秩序を取り戻すためには、子どもにルールを強制し、「社会規範」を内面化しなければなりません。それがしつけであり、保護者や指導者が「教えること」を回復することです。社会生活上の重要な規範は子どもの生まれる前から既に決まっています。それ故、規範の中身について、幼少年期の子どもに相談したり、子どもの意見を聞く必要など毛頭ないのです。幼少年期のことですから、たくさんのルールは不要です。誰もが同意できる主要なものは恐らく以下のようなものでしょう。「親や指導者には敬意を払いなさい」、「他人のものは黙ってとってはなりません」、「弱いものは助けて上げなさい。虐めてはなりません」、「自分のことは自分でやりなさい」、「多少の辛いことがあっても、与えられた責任と役割は果しなさい」。
これらの教えは共同生活から導き出され、社会が受け継いできた人生の基本ルールです。それゆえ、これらの考え方が子どもに教えられていなければ、家庭内暴力も、対教師暴力も、万引きも、いじめも、不作法も無責任も当然の結果であると言わなければなりません。後顧の憂いも必然です。
4 実行できないスローガン:「学社連携」
(1) 外部を拒絶する内向きの組織

学校の閉鎖性と唯我独尊性はようやくその病状を露呈して来ました。文科省は学校評議会やコミュニティ構想を導入しましたが、積年の閉鎖性にはほとんど効果は発揮していない筈です。学校は外部評価につながることは一切受け付けたくないからです。
日本の組織は内向きです。外の人を「よそ者」と規定し、時には外人と呼びます。教職員組合の功罪についてはそれぞ
れの視点によって評価が異なるでしょう
が、こと学校に関する限り最大の「罪」
は、学校を「鎖国状態」にしたことです。外部評価はもとより、外の意見を聞く耳を全く持たなくなったことです。教育行政も日本の組織の一つですから「学校組織」の意識の「内向き」について、何一つ修正を求めなかったことは周知の通り
です。学社連携が成立しなかったのは必
然の結果だったのです。
(フォーラム論文は、本稿の約2倍の分量でしたが、紙数の関係で省略しました。全文が必要な方は、福岡県立社会教育総合センター:福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2:の益田茂先生まで90円切手を同封してお申し込み下さい。)

117号§MESSAGE TO AND FROM§

お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。
福岡県前原市 池田須栄子 様

切手が届きました。先輩の励ましに元気を頂き、張り切って書いて参ります。11/25の午前中は前原市ボランティアの会の講座を担当します。講座は一般にオープンですので是非お出かけ下さい。再会を楽しみにしております。

佐賀県佐賀市 小副川ヨシエ 様

いつぞやはお便りありがとうございました。旧豊津町の男女共同参画の会議と似たような組織が合併したみやこ町にもできて、この2年間、「男女共同参画ハンドブック-ここが知りたいみやこ町」の作成に取組んで参りました。ようやく印刷発注の段階にまで漕ぎ着けました。モデルは、甘木・朝倉女性会議の皆さんが作成された10数年前の労作です。
つきましては、来年の1月以降に、完成後の発表・研修を兼ねて佐賀市女性の会へのご報告をしたいのですが、いかがでしょうか?新委員会の中に、当時のメンバーは数人しか残っておりませんが、旧豊津町以来、佐賀市の皆さんに育てていただいたと思っております。御地でご相談いただけると幸いです。実現できそうであれば「豊津さそり座」の皆さんにも声をかけたいと考えております。

鳥取県米子市 先灘達夫 様

日吉津村の橋田さんから便りが来ました。1月の米子大会に便乗して移動フォーラムを企画したいということでした。あなたのご計画にご迷惑をおかけしないことを条件に是非やりましょう、と返事を出しました。現行の文科省の方針が続けば、政治はもはや社会教育に期待せず、組織も施設も再編成され、時には、地域の自治会などに丸投げされて、社会教育は、ますます弱体化して行くことでしょう。中・四国・九州大会30周年を記念した出版物を企画しています。仮ですが、テーマは、社会教育は将来に何を問われているか、ということです。生涯学習の未来学と名付けております。鳥取の皆さんの議論への参加を切にお願い申し上げる次第です。

山口県H21年度生涯学習活動地域コーディネーター養成講座のみなさん

夏が遠くに行ってしまいました。先日、大島まな先生とお会いして、今年は「現地レポート」が来ないね、と話題になりました。御地での活動はそれぞれにいかがでしょうか-美和のキャンプについては、山口県公民館大会の折りに、田中時子さん、柳沢裕実さんとお目にかかり、成功の報告を伺いました。「阿知須元気塾」からは新聞記事が届きました。向山のその後については田中隆子さんからお知らせを頂きました。
周南や防府はその後どのような展開になっているでしょうか。また、下関(豊田)、上関、長門では新しい動きが出たでしょうか?小郡についても、果たして期待通りに学校が開いただろうかと気にかかっています。私たちにできる事があるようであれば、試しにおっしゃってみて下さい。最大限の努力をするつもりです。今回は、報告の催促を兼ねて購読者以外にも「風の便り」をお届けいたします。ご返事を待っています。
お知らせ
1 第92回生涯学習フォーラムinふくおか
日時:平成21年10月10日(土)15:00-
場所:福岡県立社会教育総合センター(福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2、-092-947-3511)
第1部 論文発表:第91回のご意見を受けた続きをします。
「中国・四国・九州地区実践研究交流会28年に見る生涯学習振興政策の課題」(三浦清一郎)
第2部 事例研究:
未来につなげるべき実践:当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。(発表者未定)

2 第93回生涯学習フォーラムin愛媛
中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会に愛媛県のご参加を得た記念とご挨拶を兼ねて愛媛の「地域教育実践研究会21」に合流するフォーラムを企画しました。久々の修学旅行のつもりでご同行下されば嬉しい限りです。
日時:平成21年11月14日(土)13:00-15日(日)12:30まで
場所:国立大洲青少年の家
実行委員会事務局:kouma@d6.dion.ne.jp,-080-1995-6001,Fax:089-960-1900
詳細情報:http://1st.geocities.jp/chiikikyouiku/をごらんください。

3 第94回生涯学習フォーラムinふくおかは忘年例会も兼ねて12/12(土)の予定です。詳しくは次号でお知らせします。

編集後記:森の啓示-セレンディピティ
次に出版する著書の中心概念は「老いる」とはなにか、でした。参考書を読めども、読めども納得できませんでした。生涯現役を論じるにあたって自分の感覚にぴたっと一致する定義はないのです。やむを得ず、生物学的な味も素っ気もない、しかし、単刀直入に事実を直視した定義を採用していました。「老い」とは「衰弱と死に向っての降下である」ということでした。その他のどの定義よりも「よそ見をしない」叙述に満足していました。しかし、生涯現役論は努力の論であり、戦いの論であり、衰弱に対する抵抗の論です。戦っても、戦っても最後は「負け戦」で、間違いなく「死ぬ」のですが、そこに至るまでは、ボロボロになってもがんばり続ける論です。衰弱するという事実だけを核とする概念では戦うという人間の意志が反映できないという恨みがありました。この時、偶然の直観が言葉になりました。
いつものようにカイザーとレックスの催促で朝の森を散歩していました。針葉樹のアプローチを抜けると、相原の池が満々と水をたたえ、池を廻ってサザンカの階段を上り切ると桜のひろばに出ます。広場は真北に向いていて、城山、金山、孔大寺山、湯川山と四ツ塚が遠くの玄界灘に続いて行きます。森は筆者がこの1、2年昔を思い出して始めている歌の舞台です。
鬱蒼たる森を登りて
ようやくに
晩夏の丘に秋風の吹く

八月の朝の光りの
輝きて
夏から秋へ今渡るなり
その日も歌の言葉を探していました。なぜだか分かりませんがその時に分かったのです。筆者が探していた「老い」とは、「意識するとしないとに関わらず、人間が加齢に伴う心身の衰えと戦う過程」である、と。まさしく森の啓示-セレンディピティとでも呼ぶしかない直観でした。この定義こそが「生涯現役論」を支える老いの解釈足りうることを確信しました。論文は一気に進みました。セレンディピティとは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉です。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」を指します。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことです。それゆえ、「偶察力」と訳される場合もあります。しかし、筆者には「森のめぐみ」でした。カイザーとレックスにいざなわれ、雨の日も、風の日も続けて来た森の散策のお蔭であると確信しています。英語の説明は次のように行なわれていました。
Serendipity: the natural ability to make interesting or valuable discoveries by accident(Longman Dictionary of contemporary English)

「風の便り」(第116号)

発行日:平成21年8月
発行者 三浦清一郎
新刊「まえがき」
がんばるのやめますか、それとも人間やめますか

教育の分野で仕事をして来た筆者の人間の見方と医学や介護の分野の方々の人間の見方は、一点で根本的に異なっています。前者は常に「あるべき命」を問題にし,生きる「目的」や「目標」から離れることはできません。後者は,人命の尊厳に立脚し「あるがままの命」を受け入れようとする原理に立っています。本書は、もちろん、人間の生き方を問い,高齢期の「あるべき命」を課題としています。それゆえ、「人間」と「ヒト(霊長類ヒト科の動物)」を区別して考えました。教育が鍛えた精神によって「ヒト」は「人間」となり、時に,不幸にして、その精神を失うことによって「人間」はふたたび「ヒト」に返らざるを得ないのです。本書は「ヒト」が「人間」となり、ひとたび「人間」となった「人間」を「ヒト」に戻さないことを教育の重要課題としました。「生涯現役論」は、そのための方法論や努力のあり方を意味しています。高齢社会では、医療や介護の在り方だけが問われているのではありません。人々の「老い方」が問われているのです。
現在、執筆中のタイトルを決めるのに大いにためらいがありました。参考にしたのは20年近く前に見た麻薬撲滅キャンペーンのポスター;「クスリやめますか、それとも人間やめますか」です。「人間」と「ヒト」を区別して書いていいだろうかという心配があり、老衰の方々や認知症の人々に対する差別だと言われないかという恐怖がありました。しかし、人間の精神を論じ、生涯現役の方法を論じ、自分流の意義を論じるためには、「あるがままの命」と「あるべき命」の弁別を避けて通るわけには行かないと判断いたしました。非礼のないよう、誤解の生じないように十分に注意して書いたつもりですが、それでもご不快に感じられましたら、学問の自由に免じてどうぞ寛容にお許し下さい。
老後の養生、精進,自己教育と自己鍛錬の末に「自分」を失うのであれば、それはそれで仕方がありません。人生には仕方のないことはいくらでもあるのです。しかし,「仕方がない」に至るまでに「判断」と「選択」の意志を持ち続ける努力をしたか,否かが問題なのです。
介護の現場の人々が、老衰の後の私たちのことを「ありのままに」受け入れてくれる、と書いてくれています。医療の現場も同じです。誠にありがたいことです。しかし、老衰の果ての「ありのままの人間」を前提にして、人生の老年期に、無理をして「自立」や「生き甲斐」などを求めなくてもいいのだ、という生き方の結論はどうしても納得できませんでした。
人間の自由は意志の自由に由来し、人間の人間たる所以は「精神」の働きにあると考えるからです。人間を肉体の視点のみで分類すれば、「霊長類ヒト科の動物」であると生物学は断言します。ヒト科の動物と人間を繋いだのは、明らかに誕生後の社会化のトレーニングであり、教育やしつけの努力です。適切な社会化と教育が与えられなければ、ヒトが人間に成れなかった事例は「狼に育てられた子(アーノルド・ゲゼル)」をはじめ、実証的によく知られたところです。
高齢期の生き方を変えることは高齢者の人生を変えるに留まりません。若い世代の人生をも変えることになるのです。
若い世代はどんな風に老いて行く両親を見たいでしょうか。両親が自立して,生き生きと生きれば,家族に活気が満ち、社会の活力が向上し,医療費を抑制することが可能となり,介護費は少なくとも先送りすることができます。
人生50年であった時代の「余生」と人生80年時代の「老後」とでは全く状況が違うのです。第一、余生とは“あまった時間”を意味しています。生涯時間が20年に達した時代の「余生」の概念は,高齢期のスタートにおいて、そもそも生き方を「積極的」に発想する姿勢に欠けています。「隠居」,「遁世」、「閑雅」などの暮らしの「美学」は人生50年時代の産物であり、伝統です。
人生80年時代の定年や子育てのあとは、「二度目の人生」が巡って来た、と考えるべきでしょう。最初の人生と2度目の人生は違っていいし,違った方がいいのかもしれません。「二毛作」と呼んでいる人もいて、言い得て妙というべきでしょう(甲斐良治氏)。農業においても,通常、「二毛作」は「同じものは作らない」のです。
人生に「自立」や「生き甲斐」を求め続けるのは、人間の精神の働きです。もちろん「自立」も「生き甲斐」も、人間の精神が生み出した「あるべき人間」の目標追求を意味しています。
当然、いずれは、人間もまた生物の自然として老衰します。人生を戦っても、戦わなくても、誰もが避けがたく衰えて死にます。われわれが人間に留まることを主張して、どんなにがんばったとしても、老衰の果てに、精神の誇りと機能を失い、やがて「ヒト」に戻って「ありのままの自分」に帰らざるを得ないかも知れません。それゆえ、医療や介護の現場が「ありのままの人間」を受け入れて下さることは誠にありがたいのですが、だからと言って、教育の分野までがんばらなくていいということにはなりません。
ひとたび人間として人生を生き始めた以上、精神の自立を願い、生き甲斐を求めるのは人間の人間たる所以です。老衰に至るまで、人間が人間であるために「戦わなくていい」ということにはならないのです。
老後に元気を失い、健康を害し、精神の働きまで停止することは、想像するだに、何と辛いことでしょうか。また、運良く老後を元気に過ごすことができたとしても、それだけでは「生涯健康」ではあっても,「生涯現役」ではありません。生涯に亘って、己の楽しみにさまざまな趣味を継続したとしても、それだけでは「生涯活動」であって、「生涯現役」ではありません。
社会との関わりを抜きに人間の自立や生き甲斐を保障することは極めて困難です。そしてもちろん、高齢期の自立や生き甲斐を保障せずに,高齢社会の活力を維持することもできません。それゆえ、「二度目の人生」で一番大事なのは,「生涯現役」として社会貢献を続けようとする「意志」と「努力」である、という結論になります。

筆者にとっての「生涯現役」とは,定年や子育て責任の終了後も、「社会参加と社会貢献を持続する生き方」を言います。この時、「現役」とは社会に関わり続けるという意味になります。当然,社会的「責任」や「役割」と関わり続けるという意味を含んでいます。筆者が「現役」か「現役でないか」に拘るのは、老後の生き甲斐を支えるカギが社会との関わりにあり、高齢社会を切り抜ける要因の一つが高齢者の社会参画である事は明らかだからです。少子化が続く中で,高齢者が社会への貢献を続けることが出来れば,子ども世代、孫世代への負担を減らすことができます。社会に対する貢献度を問題にするのは、高齢者の幸せの観点だけからではありません。社会の活力と存続に関わっているからです。
社会を支える人も社会に支えられる人も、ヒトの「命」の重さに変わりはありません。しかし、前者が存在しなければ,後者は存在し得ないのです。日本社会は、社会貢献を推奨し,その努力を諦めない人々を顕彰すべきではないでしょうか。人間が人間であり続けるためには,医療と介護がカギなのではありません。教育と労働がカギなのです。
「現役」を問題にするからと言って、種々の理由によって,具体的に社会に貢献できない人々の存在を無視するつもりは毛頭ありません。障害や病気によって,自分の意志に関わらず社会に参画できない方々がいらっしゃることは十分承知しています。自分自身が老衰によって意志を失い、精神の働きが停止する可能性も自覚しています。
それでも、本書は社会の役に立つことを重視しています。「役に立ちたい」という思いを尊く思います。ましてそれを実行に移している方々こそ「一隅を照らす」「国の宝」(伝教大師)であるという考えに賛同しています。文明の進化,福祉の充実,豊かになった日本のお蔭で人権も平等もほぼ保障されるようになりました。しかし、それは全て社会を支えている構成員の働きがあっての結果です。それを「当然」と思わず,「お蔭さま」と思いたいと思っています。それ故にこそ,高齢者の「生涯現役」は尊いのです。
それゆえ、障害や老いに関わらず、社会に貢献し続ける方々を正当に評価しないのは問題だと考えています。人権とか平等とか人間の存在に関する普遍的・法律上の価値論を持ち出すと,如何なる理由によっても人間のあり方を「評価・区別」する考え方は批判されがちですが,社会を支えている構成員と社会に支えられている構成員は明らかに違うのです。前者がいなければ,後者は存在しようがないからです。これほど自明なことでも「差別主義者」だと言われないかと恐れながら書いています。ましてや,「安楽余生」論の蔓延る日本は,老後は引退して楽しく暮らすのが当然だという風潮に満たされています。結果的に,老いてなお、社会貢献を続ける人々に対する評価が不十分になるのです。どこか日本はおかしいのではないかと思いながら書きました。
社会との関係を断って,自分だけの生活を主とし,安楽な隠居生活を趣味・娯楽・お稽古事のたぐいで埋めている人々を,本書の「生涯現役」論に含めないのはそのためです。学業にも職業にも関わろうとしないニートのような若者を批判して来たのも,そのような若者を庇護し続ける家族や社会を批判して来たのも同じ発想からです。社会を支えている人々は、社会から支えてもらっている人の人権も、権利も支えているのです。日本は、一方で、平等や人権の原理の制度化を達成しましたが,他方では、勤労や貢献や奉仕を大切にする心を軽んじていないでしょうか?自己実現や自分らしさが強調される一方、「おかげさま」を忘れ,「一隅を照らす方々」を軽視し,社会を支えている人々の顕彰を忘れているのではないかと恐れます。
高齢者が辿る美しき晩年とは意志する晩年、「戦う晩年」です。「意志」の方向も、「戦い」の目標も、社会参画と貢献です。人間は精神の命じるままに、刀折れ、矢尽きるまで、踏みとどまって戦おうとするのか、否か?そこが「分かれ目」です。精神が老いや衰えと戦う姿勢を持ち続けることができる晩年それが「美しき晩年」です。老後も心身の機能の衰弱を諦めずに、「生きる力」を振り絞って戦い続けることが精神の機能であり、人間のあるべき姿であり、生涯現役論の中核です。本書の正確なタイトルは、「精神の戦い」をやめますか、それとも人間やめますか、という意味になります。
生き甲斐の構造 「居甲斐」+「やり甲斐」=「生き甲斐」

1 「居甲斐」とは何か
生き甲斐は、「居甲斐」と「やり甲斐」から構成されています。どちらも重要な必要条件ですが、高齢期を考えた時、「居甲斐」と「やり甲斐」の両方が揃って初めて十分条件になります。「居甲斐」とは聞き慣れない表現ですが、ずいぶん昔にどこかで読んだことがあって「いい表現」だと思って以来、使っています。「居甲斐」は、“ここに居る甲斐”の意味ですから、あなたを取り巻く好意的な人間関係の総体です。換言すれば、「この人たちと会えてよかった」という人間関係です。「居甲斐」を構成する人間関係は2種類あります。第1は、あなたを対象として、「愛してくれる人」・「必要としてくれる人」・「『あなたと会えてよかった』と言ってくれる人」です。第2は、反対に、あなたの側から見て、「愛する人」・「必要とする人」・「『この人がいてよかった』とあなたが思う人」です。これらの方々は、あなたの心の支えであり、存在のよろこびです。これらの方々は、あなたに拍手を送り、あなたの日常を支え、励まし、癒し、人生の意義を共に確認して
くれます。これらの方々は、世間を代表して、あなたの行為や存在について「社会的承認」を担当するのです。
2 「やり甲斐」とは何か
他方、「やり甲斐」は、人間の行為に関係します。「やり甲斐」は、①活動の成果、②社会的承認を伴う達成感、③あなた自身の機能快の3種で構成されています。行為のないところ,活動のないところに「やり甲斐」は存在しないということです。「やり甲斐」の第1要因は活動の成果ですから、日々の生活に目標の設定,方法の工夫,実行の努力が不可欠です。目標が達成できれば当初期待した成果を手にすることになります。仕事でも趣味でも,やろうとしたことが、思い通りにやれた時のよろこびがやり甲斐の第1条件です。
やり甲斐の第2要因は達成感です。もちろん、成果が出た以上,達成感は一人でも実感することはできます。しかし,通常は,第3者の承認や同意を必要とします。ひとりよがりや自己満足では人間の精神の渇きを潤すことは難しいのです。おのれを誇って、自分の生きているうちに、銅像を建てたり,石碑を建立したりする人がいるのも、おのれの事績を世間に見せて,第3者の同意や承認を求める心理です。心理学者は,人々の拍手や賞賛を「社会的承認」と呼んで、人間が生きて行く上での重要な糧であると論じています。独りよがりでは成功を実感できない社会的動物としての人間の性(さが)だということでしょう。人が社会的承認を必要とした時,最も身近で応援や賞賛を与えてくれるのが,あなたを取り巻く好意的な人間関係です。この時,「居甲斐」と「やり甲斐」が交錯するのです。
第3の要因は「機能快」です。ドイツの心理学者カール・ビューラーが提唱者であるといわれています。日本では大分前に渡部昇一氏が「人間らしさの構造」(*)で人間らしさを構成する要因の一つとして紹介されました。「機能快」とは、人間が自分の持つ能力を発揮したときの快感を言います。
子どもの発達を見ていると、疑いなく彼らが機能快を感じている場面に遭遇します。走れる子どもは走りたがり,歌えるものは歌いたがります。大人の指導に耐えて、できなかったことができたとき、彼らの顔が輝きます。人間には自分に与えられた機能を発揮したいという欲求が内在し、その欲求が実現できた時に感じる快感です。「できなかったこと」が「できるようになること」も、過去と比べて上手にできたときも、ある種の快感を感じることは日常経験するところです。活動の成功には自分の能力が試され、自分自身が課題に応えて、立派に為し遂げたという己の能力の実感が「機能快」でしょう。
(*)渡部昇一、人間らしさの構造、講談社/学術文庫、1977

3 「居甲斐」の危機
「居甲斐」の危機は、一言で言えば、加齢に伴う人間関係の貧困化です。長生きして、生き残れば生き残るほど、自分に先立つ人は多くなります。職場を離れれば、職縁の仲間を失い、子どもが独立すれば子どもとの距離が遠くなり、親を失えば、血縁の絆は一気に弱まります。伝統的共同体が消失した現代の日本にとって、もはや、「地縁」はほとんど頼りになりません。それゆえ、加齢に伴う人間関係の貧困化を放置すれば、あなたを取り巻く好意的な人間群は確実に消滅します。「生涯現役」を志すものは、意識的、計画的に、従来の「縁」に代わる「新しい縁」を探し続けなければならないのです。
「新しい縁」とは活動によって培う縁のことです。高齢期の新しい縁の代表例は、生涯学習を共にした「学縁」、ボランティア活動のように志を同じくすることによって結ばれた縁:;「志縁」、趣味・同好の仲好しが形成する「同好の縁」などです。「新しい縁」の形成に共通しているのは、活動です。活動は、必ず参加者の時間と行動を共通化します。それゆえ、活動の縁は、経験を共有によって培われる縁であり、「同じ釜の飯を食った」ことの縁です。労働が終了したあとの高齢期に、活動を離れれば、新しい縁と出会う機会を失うということです。
4 「やり甲斐」の危機
「やり甲斐」の危機は、定年による労働からの解放、子どもが自立する子育て義務の完了の時点で発生します。職業上の労働も家族生活における子育ても、「社会的に必要とされた」活動という点で共通しています。活動は義務的です。手抜きは許されません。
職業上の労働の中でも、家事労働においても、私たちは、頭を使い、身体を使い、気を使い心身の機能はフル回転していました。課題を成功裡にクリアした時の拍手や、達成感や、機能快はもちろん、手応えのある成果が「やり甲斐」の原点だった筈です。給料も賃金も社会が自分を「必要」としたことの証明でした。家族の無事と幸福と感謝は、家事や育児のエネルギーの原点でした。
それゆえ、定年は、社会から要請され、自分を必要とした労働の終了です。子育ても同じです。定年は、第1部の人生のやり甲斐の対象をほとんどすべて喪失するのです。世間や仲間の拍手も、仕事の達成感、能力を発揮できた時の機能快も失います。もちろん、もはや労働の成果とは縁がなくなります。
平均寿命が80年を越えた人生は食うための労働と、自分らしく・よりよく生きるための活動に分かれます。定年や子どもの巣立ちが労働と活動を分けるのです。それゆえ、定年後に、あるいは子どもの巣立ち後に、「労働」から活動へスムーズに移行できなかった人は、頭を使うことも、身体を使うことも、気を使うことも一気に激減します。使わない機能が一気に衰え、消滅を辿ることは、「廃用症候群」の理論で証明されたところです。もちろん、衰えるのは心身の機能だけではありません。人生の成果も、達成感も、機能快も失うのです。危機への対処策はたった一つしかありません。「活動」に参加することです。気に入った活動がない場合には、自ら自分のやりたい活動を「発明」するしかないのです。
5  総合的対処策
生き甲斐を維持する結論を言えば、「生涯現役」を志すことです。生涯現役の構成要素は、「生涯健康」と「生涯活動」と「社会貢献」です。三つとも日ごろの精進なしには実現できないことです。具体的・総合的対処策
を処方化すれば、「読み、書き、体操、ボランティア」の4つです。「読み、書き、体操」の三つは健康と活動を継続するためのカギです。ボランティアは当然社会貢献活動のカギです。
それゆえ、生涯現役論は、「安楽余生論」に真っ向から対立します。精進の処方を実行に移すためには、意志が必要で、負荷が必要で、絶えざる人間交流が不可欠です。高齢者の「生きる力」は、気力と実行力が支えるのです。生涯現役を実行すれば、上記に分析した居甲斐の要素もやり甲斐の要素も保障できます。高齢期は、友を失い、仕事を失うだけでもさびしいのです。加えて、心身の老いは、老いそのものがさびしいのです。「生きる力」を保持する対処策を実行せずに、老いの試練に耐えられる筈はないのです。
「生涯現役論」こそが唯一の方法であり、処方です。
高齢者のモラトリアム
実践できない自分主義-「分かっちゃいるけど踏み出せない」

(1) 今の自分は「仮の自分」
人間の難しいところは自分の日常に矛盾が顕在化しても、時に、行動を決断できないことです。「分かっちゃいるけど決められない」、「分かっちゃいるけど動けない」ということです。英語ではモラトリアムと呼ばれました。意味は色々あります。一つは、経済学のいう支払猶予令のこと;恐慌などの際に起こる金融の混乱を抑えるため、手形の決済・預金の払戻しなどを一時的に猶予することを意味しています。
もう一つは、ものごとの中断を意味します。「中止」ではないのですが、中断して「延期」するように、実践の執行猶予という場合にも使います。E.H.エリクソンは、モラトリアムとは、「本来、人間になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間」と定義しています。小此木啓吾は『モラトリアム人間の時代』(1978)で、社会的に認められた期間を通過したにもかかわらず、現実に関わることを拒否して、猶予を求める人々を「モラトリアム人間」と呼んで一躍有名になりました。用語の使い方は「優柔不断」の意味を含んで、否定的ニュアンスで用いられることが多いのが特徴です。現在、新しく登場したニートやパラサイトシングルの親子の多くも、心理状態は「モラトリアム」の一種でしょう。「成り行き次第」で定年を迎え、成り行き次第で定年後を過ごしている多くの熟年の人々も、何か始めなくてはと考えているのです。しかし、過去の栄光や未来の不安にしばられて実践の一歩が踏み出せません。これも「今日できる事」を「明日に延ばし続けている」モラトリアムの一種です。とりあえず「今日のところ、今のところはこのままでいい」、「明日のことは明日思い煩う」という心境に代表されます。ニートやパラサイトシングルの親子も、彼らの大部分は、実践に踏み出すこと、それぞれの自立が不可欠であることは分かっています。このまま親依存-子ども依存-社会依存を続ければやがて自分の人生が破綻を来すであろうこともうすうす感づいています。
成り行き任せの高齢者も、心身の衰えを放置すれば、不幸な結末を迎える可能性があることにうすうす気づいています。「不決断」が「危機」につながる恐れがあることは分かっているのです。しかし、現状を脱出する行動に踏み出せないのです。診断はできても、処方を実行しないのは「自分」を確立できず、行動において優柔不断だからです。
(2) 処方の原理

近年の研究は、モラトリアム現象の多様化に伴ってさ まざまな概念を生み出しました。「ピーターパン症候群」は、いつまでも大人になりたくないの夢想の中に生きている人々の病的な症状を指しています。役割も責任も他者の期待も自分の「負担」になるからです。彼らはおとな社会の「負荷」に耐えられない(と感じている)のです。 晩婚の時代、非婚の時代に話題を呼んだ「シンデレラコンプレックス」も現実と向かい合わないという点でモラトリアムの一種です。いつか、王子様があらわれて自分を幸せにしてくれるのを待っている状態を意味しています。王子様が現れないことは薄々気付いているのですが、彼女たちもまた自分の現実に直面することができないのです。「青い鳥症候群」も、いつか見つかるであろう幸福を追って、現実に対応できないという意味で前2者によく似ています。 大人のモラトリアムは、今の自分は本来の自分ではないという仮定の上に立って、自分をごまかし続けているのです。彼らのモラトリアム状態を破壊するのは「現実」です。親に頼れなくなった時、自分が年をとり過ぎた時、成り行きの老後が病気や経済問題で行き詰まった時、もはやモラトリアムではいられなくなります。ニートも、パラサイトシングルも、荒っぽいやり方ですが、彼らを家から追い出せば状況は必ず変わります。家庭内暴力の子どもも同じです。シンデレラコンプレックス嬢も35歳を過ぎれば、自分の夢想と錯覚に気付くことでしょう。モラトリアムは「まだ待つことのできる状況」だから「待っている」のです。若者も、高齢者も、自分の無力と危機を悟れば、動き出します。病気を宣告された患者が、医師の指示通りに動き出すのと同じです。健康なときは、医者のいうことなど歯牙にもかけなかった人が、病気や死の現実を突きつけられれば、一日で日々の生きる姿勢を変えることができるのです。現実を突きつければ人は変わります。外的条件の認識次第で、人は生き方は変えられるということです。「今の自分は問題なのだ」と思った時から人は変わり、解決の糸口が見え始めるのです。自分流を尊重して、関係者の「主体性」にこだわれば、モラトリアムの「出口」はないのです。現在、はやりの「非指示的カウンセリング」は、「積極的傾聴」を基本原理として、クライアントの主体性を尊重します。本人の意志や考え方に問題の根本原因があるのに、本人の「主体性」を尊重し、その意志を受容するという方法に頼る限り、彼らは現実に向き合いません。医者は病気と向き合っていますから、本人の気持を尊重しながらも,病気の治療を優先します。結果的に,本当のことを当人に言うことになります。「現実」を突きつけるとは,そう言うことです。モラトリアムは現実と対決しない限り解決への出口はないのです。高齢期のモラトリアムが心配なのはそのためです。高齢者が現実の課題に気付いた時、すでに人生の時間切れになっている危険性が高いからです。社会は、高齢者のためのボランティア基金を創設し、彼らの社会貢献に必要な費用弁償費を払ってでも、社会参画を促さなければなりません。成り行きの老後の選択、、安楽余生論の高齢者教育は即刻転換しなければならないのです。それにしても政治の示すマニフェストにおける、高齢者支援の発想の貧しさはどうしたことでしょうか。
書評・感想
河合隼雄、「老いる」とはどういうことか(講談社+α文庫、1997)
過日、勉強の途中で有名なユング心理学者;元京大教授、元文化庁長官の河合隼雄さんの「『老いる』とは何か」(講談社)を読みました。読売新聞のコラムに日常の実感をエッセイの形で連ねたものを文庫本にまとめたものでした。筆者は当然「老いるとは何か」の答を求めて本を読みました。
実際は日常のありふれた茶飲み話のような感想が大部分で,論理も矛盾していて、有名人は気楽なもんだ,とつくづく思い、有名人を使って利益を上げようとする出版社も中身の評価に関心などないのだと痛感しました。過日、論評した日野原重明著「100歳になるための100の方法」(文芸春秋)と似たようなものでした。社会心理学では「マスコミの地位付与の機能」と呼びますが、「みんなが見ている」ということが有名人を作り、次に、一度でき上がった有名人像に「実際以上の価値」を付与するというもので、テレビコマーシャルの原理と同じです。「有名人の価値」で「商品」の価値をつり上げているということです。広告業界、マスコミ界が常用する手法です。一度造り上げた「有名人」の虚像を使って、本を売ったり、講演の謝金をつり上げたりする「中央講師団」の手法は、地方の文化を貶め、中央信仰を煽り、地方の財源を吸い上げます。人権講演会でも、男女共同参画の講演でも、いわゆる「客寄せパンダ」という有名人活用の手法がありますので気を付けて観察してみて下さい。
テレビ界に限らず印刷メディアによる本の作り方もまた「地位付与の機能」という同じ毒を食らっているのだと理解しました。有名人の方がそうした商売の手法に手を貸せば、ついつい気楽な“やっつけ仕事”が続くということになるのでしょう。金を払って買った本の期待はずれが続くとすれば、人々が活字離れをするのも無理はないと思いました。その意味では何冊書いても「質」を落とさない宮城谷昌光さんの本が如何に凄いかを改めて再評価しています。
さて「『老いる』とは何か」ですが、あるページには日野原先生との新春対談を引いて、年をとったあとも何か「創(はじ)める」ということは大事だと言い、別のところでは「老人は何もしないからすばらしい」といい、また別のページでは「ぶらぶらしていたい」老人に「何か楽しい生き甲斐を見つけたら」なんていうな、と提案しています。こうした論理矛盾を、名も無き私ごときが批判すると、きっと人間は多面的なのだ,とか、どれも大事なのです、という反論が戻って来るのでしょう。
冗談ではないのです!!高齢社会はそんな生易しいものではないはずです。何もしない老人も、ぶらぶら過ごしている老人も、飯も食えば、風呂にも入り、時には,不幸にして病気になったり,認知症で判断を失ったりします。どの高齢者も諸々の欲求を持ち,日常の要求を持って暮らしているのでしょう。定年後の生涯時間20年の時代に、だれがその欲求を満たすのでしょうか?河合流「老いる」とはどういうことかはさっぱり分かりませんでしたが、高齢者は,自分の健康を自分で守り,生き甲斐を自分で創り出し,自分の人生は自分で守るのです。「クスリやめますか,それとも人間やめますか」の続きは,「がんばるのやめますか,それとも人間やめますか」です。
§MESSAGE TO AND FROM§

お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。

市民学習ネットワーク事業
サマーセミナーご参加のみなさま

セミナーは25名のご参加を得て無事に終了しました。一週間続けて来た下さった方も、遠くから飛び込みで聞きにきてくださった方もありがとうございました。さまざまなご提案を頂き、感想を頂き、その後のお便りまで頂き大いに参考になりました。セミナーの定期的な開催のご要望もありましたが、現状ではいささか難しい状況ですので、次の新しい研究の成果が本になって世に出ましたら、ご批判を頂くためにも、ふたたび公開セミナーを開きたいと思います。再会は冬休みの頃になるでしょうか。皆様にお目にかかる日を楽しみにしております。

佐賀市 秋山千潮 様

お元気にご活躍のことと存じます。過日はお心使いありがとうございました。執筆は生涯現役論の山場に差し掛かりました。参考書を読みあさっているうちに、医療や介護の分野の方々が、人間の最後は「あるがままでいいのだ」とか「自然に回帰して」,「母の懐の中の子どもに返る」という趣旨の事を書いておられて,老後に「自立」だとか、「生き甲斐」だとかを持ち込むなという論調が強いことに大いに反発を感じました。あなたのご活躍を思い出したという次第です。
ようやく、教育学は医学や介護の分野と人生の「終わり」についての視点が違うのだということに気付きました。医学や介護は「あるがままの命」をそのままに受け入れます。ありがたいことです。しかし、教育学は「あるべき命」を主張し、あるべき生き方にこだわります。生涯現役論はその延長線上にあることを自覚したところです。

山口市 上野敦子 様

今夏の発表会にお招きいただきましたが、先約があって、残念ながら出向くことができませんでした。
お便りの発送元が「親鳩会」となっていたのに気付きました。組織化に成功し、着々と力をつけて来ていると想像し喜んでおります。幼少年期は、プログラム次第で子どもが一気に変わります。まずは体力と耐性のトレーニングに集中して見て下さい。その後の全ての活動にプラスの影響が出るはずです。

U.S.A.ペンシルバニア 藤本 徹 様

再会なによりでした。誰も代わりには生きられません。博士論文は孤独で,前例がなくて、一番苦しい作業です。しかし,自分で突破するしかないのです。若い才能のある身に取って日本はまだまだ抑圧的な国です。爺さんたちの政治を見て下さい。爺さんたちの審議会が日本に何をもたらしたかを見て下さい。男女共同参画の現状を見て下さい。日本の政治も,大学も,オバマ大統領やヒラリー・クリントン国務長官を歴史に生み出すことなど到底できる状況ではないのです。ノーベル賞の受賞者もそのほとんどはアメリカの組織とつながった方々です。アメリカに残り,アメリカで勝負し,その後、ゆっくり帰国すべきです。若気の至りで、自分自身がそうしなかった最大の失敗者です。前者の轍を踏まないように!

福岡県宗像市 竹村 功 様

「学童保育」の受託・応札の件の失敗は誠に残念でした。宗像市は、応札条件に,過去の保育業務の経験の有無を評価に含めるということであれば,最初からそのことを応札条件に銘記すべき義務がありました。何たる募集事務の不備でしょうか!あなたのご努力を陰ながら拝見していて,実に口惜しい思いをしております。日本に「保教育」の思想を発信する重要な機会を逸しました。学童保育の経験が問われるならば,豊津寺子屋の立ち上げ運営に関わって来た自分が,なぜ、率先して協力者や顧問として名乗り出なかったかと,今更ながら、悔やんでおります。

116号お知らせ
i 第91回生涯学習フォーラムinふくおか
日時:平成21年9月19日(土)15:00-
場所:福岡県立社会教育総合センター(福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2、-092-947-3511)
第1部 論文発表:
「中国・四国・九州地区実践研究交流会28年に見る生涯学習振興政策の課題」(三浦清一郎)
第2部 事例研究:
未来につなげるべき実践:当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。(発表者未定)

ii 第92回生涯学習フォーラムin愛媛
中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会に愛媛県のご参加を得た記念とご挨拶を兼ねて愛媛の「地域教育実践研究会21」に合流するフォーラムを企画しました。久々の修学旅行のつもりでご同行下されば嬉しい限りです。
日時:平成21年11月14日(土)13:00-15日(日)12:30まで
場所:国立大洲青少年の家
実行委員会事務局:kouma@d6.dion.ne.jp,-080-960-1900
詳細情報:http://1st.geocities.jp/chiikikyouiku/をごらんください。
編集後記「積土の山を成さば風雨興る」
友人が持って来て下さった宮城谷昌光さんの小説に耽溺して,仕事をそっちぬけにした日々が続きました。前にも書きましたが,この作者の日本語の美しさは類をみません。「天空の船」,「子産」,「孟嘗君」,「太公望」,「晏子」,「管仲」,「香乱記」、「楽毅」と紀元前中国史の英雄たちの物語を読み進んできました。まさに手当たり次第、順不同に読みました。ものによっては2回も,3回も読んでいます。繰り返し読むことでようやくこの時代の中国史の概略が分かって来ました。
最近では「奇貨おくべし」を読み終わりました。古代中国を初めて統一した秦の始皇帝の父と言われる呂不韋(りょふい)が主人公です。読み進んできて、文中のいくつかの言葉に心底驚き、これまでの人生でなぜこの一節に出会うことがなかったか、と誠に残念に思います。その一つは荀子が言ったという次の文言でした。「積土(せきど)の山を成さば風雨興り、積水の渕を成さばこう龍生ず」です。「こう龍」の「こう」の字は「虫編」に「交わる」と書きます。何と凄い言葉でしょうか!
私は退職後の執筆と講演の中で,「風の便り」や著書を通して、研究の成果を具体的に世間に訴えて来ました。子育て支援でも,定年者の老後の暮らしでも,子どものしつけでも,男女共同参画でも、実践を前提とした研究の成果を社会教育のプログラムや日常の実践に「翻訳」する努力をして来たつもりでした。最近では「生活のなかの学問」と呼ぶようにしています。しかし,10年が過ぎた今,なぜこれほど現象的に明らかで,論理的に単純なことが世間に受け入れられて、システム化されないのか、という焦りとむなしさを何度か感じています。私は,「実践」を重んじ,「現場性」を大事にしてどの研究もできるだけ現場に即した情報の収集と分析に心がけてきました。それゆえ、論理は「現場」によって試すことができます。賛成でも,反対でもどちらでもいいから,すこしは役に立つのか,立たないのか,「現場」の分析は妥当なのか,それとも間違っているのか,沈黙して無視しないで意見を聞かせて下さい,と関係者にお願いしてきました。しかし,時間ばかりが虚しく流れたという実感です。換言すれば、なぜ積上げて来た研究成果のまわりに「風雨は興らないのか」、という寂しさでした。
しかし、先の荀子の指摘に打ちのめされました。要は、研究者として、私の「土の積み上げ方」が全く足りず、「山」はもとより「丘」にもなっていないということだったのでしょう。丘にも満たぬ低い「積土」に風雨が興る筈はないのです。
例えば自分の前に,世間の承認を得た50冊の書物を積んでいれば,自分の問題提起にも多少の賛否の声は興って来るのでしょう。それこそが「積土山を成さば風雨興る」ということなのでしょう。「積土を志す」以上、社会と絶縁して生きることは出来ません。「風雨興る」という希望の無い隠居生活に甘んじることもできません。つくづく元気で長生きがしたいと思うこの頃です。

「風の便り」(第115号)

発行日:平成21年7月
発行者 三浦清一郎

逆転!-「教育の順序性」

1 子どもは体力-老人は気力
(1) 子どもは体力

子どもと年寄では「生きる力」を養う「教育の順序性」が逆転することに気付きました。子どもは体力から鍛え,年寄は気力、意志力が「生きる力」のカギを握ると考えるようになりました。「生きる力」の構成要因は老若男女同じです。しかし、人間における肉体と精神の発達が連続しながらも,相対的に分離・独立したものであることを考慮すると、子どもと年寄では「生きる力」の構成要因の重要度が逆転し,その鍛え方の順序性が逆転するのです。子どもは「体力」がカギ、高齢者は体力や健康を維持しようという「理解力」と「意志力」がカギになります。
子どもはいまだ霊長類ヒト科の動物である割合が高いですから,生きる条件の基本は体力です。この点他の動物たちと共通しています。脆弱な体力では、人間の子どもも,他の動物たちも生きて行くことは極めて困難になります。まして、生物学的にも社会学的にも社会への依存期間の長い人間の子どもは、一人前になるまでにさまざまな学習とトレーニングが不可欠になります。
私は、子どもの生きる力は体力を基礎工事として、耐性が土台、学力は柱、社会性は壁で、EQに代表される感情の領域は人間性の屋根を形成すると比喩を用いて説明して来ました。もちろん,人間の発達に建築工程のような、「基礎→土台→柱」というような作業工程の厳密な分業や順序性はないとしても,基礎が鍛えられていなければ,学力も、礼節も,人を思いやる感受性も、これら全てを実践する実行力も育てることは出来ないという意味での「教育の順序性」はあるのです。心身ともにへなへなである子どもの現状を鍛え直すことなく、「学力」だけを上げることは困難です。まして昨今の教育界に流行している「豊かな心」を育てることなど夢のまた夢です。基礎工事も土台もできていないのにどうして柱が立ち、屋根を乗せることが出来るでしょうか!薩摩の「郷中教育」が「山坂達者」という心身の行動耐性のトレーニングから始めているのは誠に卓見だったと言わなければならないのです。
子どもの知識,精神に関わる判断力は,彼らの養育過程・教育過程に長い時間をかけ、しつけ-教育-学習-訓練などを通しておいおい育てて行くことになります。この時、養育と教育のあらゆる過程に登場し、集中と持続を支える基が体力と耐性なのです。

(2) 年寄は意志力
一方,高齢者はすでに知識、精神ともに人間が持つべき判断力の根拠を為すものの形成は終わりました。しかし、生物学上の体力は加齢とともに衰弱・下降を始めます。それゆえ、高齢者の課題は,衰弱の防止,下降のスピードを抑止することになります。多くの高齢者学級を見て来た中で,溌剌として気力・体力ともに充実した高齢者は,老後における自らの心身の鍛錬を怠っていない方々であるということに気付きました。そうした方々の現在をあらしめているのは精神であって、体力や耐性ではありません。衰弱と下降を抑制するものは自己鍛錬であることは明らかですが、自己鍛錬を己に課しているのは,個々の高齢者の意志と気力の賜物であることも明らかです。だとすれば、高齢期において,もっとも重要なのは高齢者の意志と精神のあり方になります。体力も耐性も、学力ですらも、精神の命ずるところに従っています。
高齢者はすでに人生のプロセスにおいて、それぞれが心身の各部門の「生きる力」を形成して来ました。しかし、定年期を境目に彼らを支えて来た生物学上の機能は確実に衰え始めます。老いの自覚も、衰えの認識も、精神の働きによって可能になります。「老い」が「衰弱」と「死」に向っての降下である以上,衰えを止めることは何人にもできません。ただし、「衰弱」の速度をゆるめ、病気や事故を予防することはある程度まで可能です。これまで推奨して来た「生涯現役」論も,「読み,書き、体操,ボランティア」の方法論も、「老い」から生じる「衰弱」の抑止を目標としています。
「抑止」には「抑止活動」が不可欠です。この時,高齢者の日々の生き方を決定するものは、彼らの頭脳と精神に蓄積された意志と気力と人生に対する展望です。老後をどのように生きるかを決めるのは,彼らの頭だからです。成長期の子どもにとって最も重要であった体力は、高齢期には精神の支配下に置かれるのです。高齢者の肉体に鍛錬を命じるのは精神であり,活動の継続を実行するのは彼の意志力なのです。高齢者の肉体を放置すれば、衰弱は一気に加速することでしょう。肉体を放置するな,と命じるのも意志力です。高齢者が「生きる力」を維持しようという意志と判断を欠けば,高齢者は滅びるしかなく、社会はそうした高齢者を抱えて活力の喪失と高負担を免れることは出来ないのです。
筆者は「元気だから活動するのではない、活動を続けるからお元気なのだ」という「負荷の教育論」を提唱して来ました。この時、高齢者に活動を命じるものこそが彼らの「意志」なのです。

2 「生きる力」の「構成要因」

子どもの「生きる力」も、年寄のそれも,老若男女、「生きる力」を構成する要因は同じです。

(1) 体力がなければあらゆる生き物は死にます

鳥や獣を含め,あらゆる生き物はその身体機能を維持する「体力」がなくなるとき死にます。鳥は落ち,獣は森の奥深くに帰ります。もちろん,われわれの人生も終わります。命あるものは,体力が尽きた時に命が尽きることを前提とすれば,「生きる力」の第1条件は「体力」であるということになります。
子どもに「生きる力」を育てる時も,高齢者の「生きる力」を保持する時も,第1の対象は「体力」です。もちろん、子どもは体力の錬成、高齢者は体力の維持ということになります。

(2) がまんする力(耐性)が育っていなければ社会生活は出来ません

「がまん」は集中と持続の基本条件です。約束事を守るための基本条件でもあります。がまんの出来ない子どもは勉強も運動も出来ません。なにごとも続けること集中することが出来なければ,あらゆる学習と訓練が困難になります。人間が鳥や獣と別れて社会を作った時,ルールに従い,約束を守ることを前提にしました。社会規範を守るということは,やりたくてもやらない,やりたくなくても役割や責任は果たさなければならないということです。それゆえ、各人の耐性は社会が存続する基盤であり,社会的能力を支えるもっとも重要な条件です。現在,子どもたちに起こっている学級崩壊や授業崩壊や,不登校や引き蘢りの基本原因も欲求不満耐性の欠損であることは明らかです。がまんの出来ない多くの子どもが人間関係や日常環境の「負荷」に耐えられず、状況に適応できないのも「耐える力」が不足しているからです。がまんが出来なければ,思うようにならぬ人生は全てが「辛さ」と「困難」に変わってしまうことは当然なのです。
「新老人の会」の日野原重明会長が75歳以上の高齢者のお元気の方法に「愛し愛されること」,「創めること」、「耐えること」を謳っているのは誠に慧眼だと思います。「愛し愛されること」は「居甲斐」の課題,「創めること」は、活動の継続や精神的固定化防止の課題だと思いますが,最後の「耐えること」は歳をとっても欲求不満耐性と行動耐性は不可欠であるというご指摘でしょう。多くの元気老人もまた日々さまざまなことに耐えていることが想像できます。心身の老衰はもとより,人生は思うに任せぬことをもっとも知り抜いているのが高齢者世代です。しかも、かれらの「耐える力」は,多少の困難は困難と思わないところが達人の達人たる所以なのです。耐える力がなければ,余生は不満だらけの悲惨なものになることは火を見るより明らかです。

(3) 学力が付いていなければ職業の要求には応えられません

学力は高度文明社会におけるあらゆる職業の基本であり、社会生活の基礎です。特に、青少年期の学業は各人の人生を決定するほどに重要ですから、教育と言えば、学校教育を意味するくらいに人々の関心を集めています。学校だけでは足りなくて、塾や予備校での教育は危機意識の高い保護者に支持され、子どもの教育費は家族の大きな負担となっていることは周知の事実です。家計の余裕度を測る目安に、家計に占める食費の割合:「エンゲル係数」が有名ですが、近年では、家計に占める教育費の割合:「エンジェル係数」が話題になるくらいに「学力」に対する関心は高いのです。
しかし、子どもに勉強しろ、と言っても、高齢者には、通常、勉強しろとは言いません。むしろ楽しいこと探してマイペースで暮らしなさい、という助言が主流です。筆者は高齢者の学力こそが、健康の保持にも、生き甲斐の創造にも重要な働きをしていると確信しています。認知症の予防から生活習慣病の予防まで生涯学習がその力をいかんなく発揮するのは高齢者教育においてなのです。

(4) しつけは他者のためであり、共同生活には「規範」が不可欠です

多くの育児書に「しつけ」はその子のためだと書いてあります。子ども中心主義、児童中心主義のつまずきの出発点と言っていいでしょう。社会が他者との共同で成り立っている以上、しつけも規範の教育もその子自身のためである前に、共同のためであり、他者と気持よく暮らすための条件であることは明らかです。「しつけ」は他者のためであり、共同の前提であると認識できないところに現代日本の大きな間違いがありました。幼少年期の教育が子ども自身の個性の発揮や創造性の涵養に力点が置かれるのは、その子自身の発達に目が行き過ぎるからであり、他者との共同を前提とすれば、「為すべきこと」、「やってはならないこと」に力点が置かれる筈なのです。それでなくても子どもを「宝」と認識する「子宝の風土」は、初めから子ども第一主義が貫徹されており、意図的に社会を前面に位置付けない限り、子ども中心に流れることは風土の自然だからです。「うり食めば子ども思うゆ、栗食めばましてしのばゆ」と山上憶良が歌ったのも、子どもが親の意識の第一主題であり、感情の最優先課題であることの象徴だったのです。「子どもは何よりも価値がある」という思想を、「それでも半人前なのだ」という 「抑止力」の認識なしに教育場面に持ち込めば子どもの欲求は野放しになります。戦後日本のしつけは根本的な再点検が必要なのです。

(5) 子どもの終点、高齢者の出発点

人間の人間らしさは「感情値」(EQ)に現れ,具体的には、やさしさや思いやりや共感能力として表れます。また、感情を実践に“翻訳する”媒介は判断と意志の力です。感性と「意志力」が人間らしさの原点と言っていいでしょう。子どもの教育の終点であり、高齢者の生涯学習の出発点になります。
子どもは青少年期に学んだことを基礎にして、人生の経験の中で「感情値」や「意志力」を育てて行きます。これに対して高齢者は現在の「意志力」・「気力」が出発点です。老後の人生の生き方を判断し、実践を命じるのは、彼の意志力と気力だからです

3 子どもは「他律」,高齢者は「自律」

子どもの鍛錬は基本的に教育を原点とする「他律」に依存し,高齢期の鍛錬は自覚と意欲を原点とする「自律」に依存するようになるのです。義務教育は、徹底した子どもの身体能力の育成に重点を置くべきです。翻って、高齢者には運転免許証の交付時に似た健康教育の義務的履修が必要になるかも知れません。
生涯学習の基本原理を国民の選択に任せた以上,高齢期の自己鍛錬は本人の選択によるしかありません。生涯学習を選択した高齢者と選択しなかった高齢者の格差は恐ろしいまでに広がることになります。自己鍛錬を怠らない高齢者と何もしない高齢者では、医療費も,介護費も恐ろしいまでに拡大することでしょう。

4 平均寿命と健康寿命の格差

平均寿命と健康寿命の差を見ただけでも,日本の高齢者政策は失敗である事は明らかでしょう。平均寿命は伸びても,健康寿命が遥かに短いのは福祉政策の失敗であり,高齢者を対象とした生涯学習・生涯スポーツ振興策の失敗といえるでしょう。高齢社会では生涯学習は疑いなく立国の条件に関わるのです。生涯学習に付いても,ボランティアに付いても,政策上の補助金を出して奨励するくらいのことをしなければこの国の高齢者の没落を止めることは出来ないのです。世間が受け入れた「安楽余生」の発想も、福祉分野がとった保護や「パンとサーカス」に傾いた政策も大いなる間違いでした。高齢者の生活保障を手厚くする以上に高齢者の生涯学習・自己鍛錬の奨励に資金を投入すべきなのです。日本の社会教育も生涯学習の振興策も、高齢者に関する限りは、状況の診断を誤り,解決に逆行した重大な錯覚に陥っているのです。

5 教育の順序性(Educational Sequence)

(1)子どもは体力から精神へと鍛えて行きます-子どもは「未熟」が前提です

子どものしつけも教育も、彼らの「未熟」が前提です。しかし、日本の風土は「未熟」以前に、「子宝のかけがえのない価値」に注目しました。日本の親が「保護者」と呼ばれるのは、誠に卓越した発想で、「保護」を親の第1任務とした、ということを意味しています。「子宝」は、まず何よりも大事であり、生活の中心に位置し、何を置いても守るべき存在であったからです。彼らはいまだ自分のことも自分では出来ず、自分のことも自分では決められず、稼ぎには遠く、学用品も日常品も全て保護者が調達しなければなりません。しつけや教育より保護が先行したのです。彼らは発達の途上にあり、「未熟」なのですが、それ故にこそ、自立のトレーニングに増して、保護が先行したということです。過剰な保護は過剰な世話となり過剰な指示となり、優先処遇となり、最大限の受容となって表れたのです。しつけより保護、教育より歓心を買うことが優先することになるのです。
提示した「生きる力」の構造図において、子どもは体力から精神へと鍛えて行きます。「生きる力」の育成を子どもの精神:「主体性」や「自主性」を前提にしてはならないということです。子どもの「生きる力」の下部構造が体力と耐性で,上部構造が学力や感受性になります。体力と耐性は子どもの中で合一して、通常、「行動耐性」とか、「欲求不満耐性」とか呼ばれます。「がまんすること」の基本であり、「集中」や「持続」の基本になります。それゆえ、幼少年期に、体力と耐性がなければ、あらゆる学習・訓練はほぼ不可能です。基礎を固め、土台を置いたあとでなければ、柱や屋根を作るのは無理だということです。

(2)下部構造を鍛える保護者や先生方の視点が決定的に重要になります

教育の「順序性」を決めるのは保護者や先生方になります。それゆえ、下部構造を鍛える保護者や先生方の視点が決定的に重要になります。戦後教育は、「子どもの人権」や「子どもの権利」概念に振り回されて、子どもの自己決定権、自己決定力を過大に評価し、家庭も学校も、下部構造を鍛える発想が誠に不十分でした。肉体に「負荷」をかけることも、精神に「負荷」をかけることも、子どもにとっては「辛いこと」ですから、避けようとするのは当然ですが、避ければ、体力も耐性も育たないのです。子どもの主張や欲求を過大に評価した結果、戦後育児にも、学校教育にも、心身の鍛錬のプログラムが決定的に不足しました。基礎や土台が出来ていないのに、学力や規範意識や豊かな感性を育てることなど出来る筈はなかったのです。欠けていたのは「負荷の教育論」です。

(3)高齢者にとっては教育の「順序性」が逆転します

子どもの教育は、「子どもの必要」の前に「発達上の必要」が存在し、それは「社会の必要」を前提としています。一方、高齢者はすでにそれぞれの能力と環境条件の範囲で、個々人の「生きる力」を育て終わりました。それゆえ、高齢者の課題は加齢とともに衰え始める心身の機能を如何に保持・存続させ得るか、ということになります。保持・存続の方法を決定するのは、高齢者の自覚と精神です。意志力と言ってもいいかもしれません。したがって、子どもと違って、高齢者にとっては教育の「順序性」が逆転します。一度獲得した体力も学力も、養生や学習や老後のトレーニング次第であることは当然だからです。高齢者は上部構造の意志・判断力・人間関係・学力が、老衰する体力と耐性の保持に直結しています。「読み・書き・体操・ボランティア」も全ては意志に基づいた「活動」だからです。子どもの教育が体力や耐性に依存するのに反し、高齢者の学習は、高齢者の意志に依存するのです。高齢者にとっては教育の「順序性」が子どもと逆転するのです。

(4)老後の活力の保持が可能であるか,否かは、本人の意志次第だということです
高齢社会の結論は、生涯学習が高齢者の健康も、活動も、生涯現役としての姿勢と実践も左右するということです。当然、医療費も、介護費も高齢者の自覚次第で大きく変わってくるということです。生涯学習は立国の条件に関わるのです。「パンとサーカス」の生涯学習、「安楽余生論」の福祉政策では高齢社会は乗り切れないということです。人々が「自分流」で生きるようになった現代、どのように生きようと「自己責任」であるという原理は変わらないとしても、最後に泣きを見るのは本人であり、その「付け」を払わせられるのは次世代の人々であることは疑いないのです。

「子守り現役」,「草取り現役」も「生涯現役」の内か
1) 前号の論旨
前号の筆者は、「元気」,「活動」,「社会参画」の3つのキーワードが満たされて初めて「生涯現役」である、と書きました。老後をお元気に生きるだけでは「生涯現役」ではない、とも書きました。たとえ、活発に活動されていたとしても、安楽な隠居生活を趣味・娯楽・お稽古事のたぐいで埋めている人々を,「生涯現役」論に含めない、とも書きました。今回、筆者の「生涯現役論」に異論が寄せられました。

2) 異論の要旨

年をとって、社会からは引退したが,家族の病人のために介護の日々に明け暮れていれば,それは「介護現役」で、「生涯現役」につながるものではないのか?同じように,孫のお守りに明け暮れる日々も、庭や畑の草取りを手伝う日々も,それぞれに「子守り現役」,「草取り現役」ではないのか?当然、こうした発想の延長には,主婦は「家事の現役」を死ぬまで務めているのだという主張が待っていることでしょう。
特に,女性の家事論は、社会的労働に匹敵し,近年の夫と妻の間の年金の分割に付いても、家事の社会的評価・経済的評価が確立したことは周知の事実です。
「子守り」も,「介護」も外部に委託すれば,社会的労働になり,家族内で処理すれば,なぜ「生涯現役」とは呼ばないのか?現行のシステムを前提にすれば,
「子守り」も、「介護」もそれらが家族内で処理できなければ,保育所や託児所の
増設は不可欠であり,介護に至っては,施設介護の社会負担は膨大なものになることも明らかです。家族内労働が社会的サービスの代替機能を果たしていることは疑いないのです。それでも「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」などは生涯現役に含めないのか?
批判の背景を慮って代弁すれば上記のようになると思います。
論理的な整理が実に難しい問題でしたが、筆者の結論は変わりません。「生涯現役」は「共益(公益)」にかかわる概念であり、問題となった「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」などは「私事-私益」の問題だからです。私事は個人の「選択」の問題なのです。

3) 私事は「選択」-私益と共益(公益)

かつて筆者は「豊津寺子屋」の有料化を提案した時、「学童保育」の無償化は「間違い」であると論じました。出産も育児もその基本は「私事」だからです。養育が「私事」である故に,自分のお子さんは自らの手で育てたいという家族(母)がいることはこの時代にあっても厳然たる事実です。
それゆえ,保育所も,学童保育も、もちろん「豊津寺子屋」も、「私事」の「社会化」であることは明らかなのです。福岡市の吉田現市長は学童保育の無償化を掲げたことによって選挙戦を勝ち抜いたと聞き及んでいますが,当選後,やはり,「無償化」は間違っていなかった、住
民におもねる施策ではなかったと考えているでしょうか。
子育てが「私事」である以上、私事を完全な社会負担で実行するという理屈が通る筈はないのです。「社会負担」とは全体が拠出した税金による「負担」という意味です。それゆえ、保育所や学童保育を「ただ」にすれば,すべての養育の責任を保護者が負っている家族に対して、政治も行政も税金の公平還元の原理を説明できるはずはないからです。社会が女性の就労や社会参画を必要としている以上,応分の支援,一定の誘導政策が不可欠であるとしても、母性保護や男女共同参画の旗印の下に「私益」と「共益(公益)」を混同することは間違いです。学童保育の無償化問題はあちこちで社会的摩擦を引き起こしましたが、それらは戦後日本に特有の「エゴ」の肥大化であり,「権利」の暴走の結果です。「私事」の実現を社会に依存して、応分の「受益者負担」の義務にさえ応じたくないという日本人の論理も神経もどうかしているのです。「私益」は原則として自己責任であり,私事は本人の「選択」の問題なのです。

4) 私事の外部化もまた「選択」の問題です

「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」などは「私事」-「私益」の問題です。現代のシステムを前提にすれば,これらの「私事」は外部化することが可能です。現に,自己負担で「外部化」している家族も多いことでしょう。私事は「選択」の問題だからです。
また,これらの家族内の必要事項を果たした上に、社会貢献に関わっている方もいることでしょう。それぞれの時間と労力を工夫して,私益と公益(共益)を両立させている方々も存在する筈です。「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」と同時に、「社会貢献の現役」を共存させている場合です。
草取りも,子守りも私事であり、私事は自分や家族のために限定された活動であり,「私益」の枠を出ることはありません。その意味では,自分のための趣味・娯楽・お稽古事と同じです。追求しているのは「私益」です。
しかし,社会貢献の生涯現役はみんなのお役に立つのです。生涯現役は「共益(公益)」を促進するという一点で私事の活動とは異なるのです。
生涯現役でありたくても、それが叶わぬ人々がいることは分かっております。また、世の中にさまざまな不公平や差別が存在していることも承知していますが,私たちは、税金を納め,さまざまな労役を提供している方々にもう少し尊敬の念を払うべきではないでしょうか。社会を支えている構成員と社会に支えられている構成員は明らかに違うのです。前者がいなければ,後者は存在しようがないからです。筆者が「社会参画」に拘るのもそのためであり、生涯現役が「私益」ではなく,「共益(公益)」を促進することに意義を認めるのもそのためです。
世の中には「主婦」であり,同時に、ボランティアである人が多数います。孫のお守をしながら、社会貢献を志す方々もいる筈です。「私益」の追求と「共益(公益)」の促進を同時に追求しているのです。
前回も論じましたが,生涯を通してお元気なのは、「生涯健康」です。生涯を通して趣味や娯楽を追求しているのは「生涯活動」です。もちろん、「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」も「生涯活動」であることは言うまでもありません。しかし、活動の中に「公益(共益)への貢献」がなければ「生涯現役」と呼ぶべきではないのです。お元気で、活動的であっても、己の「パンとサーカス」の追求にのみ忙しい趣味人を「生涯現役」に含めるべきではないのです。また、老いてなお、「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」など家族への貢献を続ける方々は天晴れではありますが、「私益」の追求に留まっている限り、「生涯活動」ではあっても、「生涯現役」の十分条件を満たすことにはならないのです。もちろん、子守りや草取りや介護が多忙の故に、気持ちはあっても社会貢献などできるはずはないではないか、というお叱りのご意見もあることでしょう。しかし、私たちが承知している通り、生老病死を始め、人生には人智ではどうにもならぬ仕方のないことが沢山あるのです。当然日々の実践も、多くの制約条件や「運」に囲まれているのです。かく言う筆者も、己が病気になったり、妻が倒れたりすれば、直ちに「生涯現役」を引退せざるを得ないことは自明なのです。「生涯現役」が、「生涯健康」と「生涯活動」の上に成立していることは明らかなのです。
第90回生涯学習フォーラムレポート
「負荷の教育」論
「熟年者マナビ塾」の存在証明
久々に福岡フォーラムを再開いたしました。事例は福岡県飯塚市熟年者マナビ塾調査(益田茂、福岡県立社会教育総合センター)、論文発表は「自分自身観(アイデンティティ)の形成プロセス(三浦清一郎)」でした。飯塚市は、公立小学校の中に高齢者を対象とした「熟年者マナビ塾」を設置して3年目になります。「マナビ塾」は、高齢者の心身の機能の維持・向上と学校に対する支援活動を同時に遂行するための仕組みとして出発しました。原理は「負荷」の教育論です。「負荷」を感じさせないように「負荷」をかけるのが、支援する公民館関係者の腕の見せ所になります。この度、過去2年間の塾生に対する調査結果の分析がまとまりました。統計上の作業は福岡県立社会教育総合センターの益田茂さんと飯塚市中央公民館の松尾一機さんのお手を煩わせました。結果は表題のとおり、マナビ塾が準備した「活動」が多くの参加者の「生き甲斐」や「活力」を生み出す根源となったことが証明されました。高齢者を対象とした生涯学習事業がそのプログラムと運営方法いかんで、個人の幸福はもとより、医療費の削減にも、健康寿命の伸長にも大いに貢献することが明らかになりました。日本の高齢者「対策」行政を再点検する重要な資料になると確信しております。
I 「マナビ塾」を通して、あなたの日常に「新しいこと」がはじまりましたか?

1 参加者の圧倒的多数(87%)に「新しいこと」が始まっています。

熟年期の活力停滞の遠因は引退により「職業」がもたらす日常刻々の「変化」から遠ざかり,世間との縁が希薄化することによって「多様な交流」・「新しい出会い」から遠ざかることです。それゆえ,日常の生活に「社会的活動」をプログラム化できない限り、生活リズム・スケジュールのマンネリ化は避け難く,活力停滞の遠因となります。それゆえ、「マナビ塾」のような特別のシステムに頼らない限り、常に心身への新しい刺激を得て,本人の興味・関心・挑戦のスピリットを維持することは容易ではありません。「マナビ塾」が、参加者に日常の「鮮度」と「挑戦」をもたらすことが出来なければ,結果として、活力を発電する活動が停滞し、老いとともに心身の機能・エネルギーは低下せざるを得なくなります。それゆえ、設問1は「新しいことに巡り会ったか」、「それはどんなことなのか」、「なぜ新しいと感じるのか」等々になります。

2  新しいことの「具体的内容」はほぼ以下のように分類できます。

(1)生活の新しいリズムとスケジュールを実感している
(2)これまで存在しなかった「交流」・・新しい友人、知人、子どもたちとの関係が始まっている
(3)新しい趣味・活動に楽しみ・喜びを感じている
(4)生活の張り、生き甲斐、やり甲斐、緊張感を感じるようになっている
II  「マナビ塾」活動を通して、これまで「できなかったこと」が「できるようになった」という自覚はありますか?

1 78%の回答者が「出来るようになったこと」は豊富です、と答えました。

設問2は「機能快」の実感を尋ねています。老若男女に関わらず、これまで「出来なかったこと」が「出来るようになる」ことは嬉しいに決まっています。心身両面に亘って、ものごとの達成感,成就感、会得感こそが「機能快」の源泉だからです。「マナビ塾」が「学ぶ」ためのシステムである以上,その大目的の一つは「機能快」を保障することです。「マナビ塾」の役割が各人に評価・認知されるためには、学んだ結果として達成感を裏付けする「証拠」が必要になります。「出来るようになったこと」が絶えず存在し続けることは参加者の「機能快」を保障する不可欠の条件です。したがって、設問2は「出来るようになったこと」は何か、です。

2 「出来るようになったこと」は下記のように分類できます

(1) 読み書きを始め脳の活性化を自覚している
(2) 交流・社交が開始され、質量ともに向上している
(3) 工作・手作業の結果、手先の動作が活性化している
(4) 運動能力・身体能力・行動耐性が向上している

III   「マナビ塾」活動に参加してから、ご自分の元気や活力が向上したと思いますか?

1 「マナビ塾」は「活力」を発電し、「お元気」を創造しています(元気になったと回答した者88%)

設問3は「活動経過」の全体的・全般的評価です。既存の調査法の事例が、ある「定点」で、個別かつ一般的表現で聞こうとしている「感覚的自己評価」を、「活力」に限定して、「活動経過」を振り返って、総括的に質問するものです。当然,回答が「否定的」であれば、本人はすでに活動プログラムから脱落している筈ですが、もし、残留している参加者の中でその大半が「活力」の向上を感じていないようであれば,カリキュラムが悪いか、あるいはまた、その運営が適切でないことを物語っていることになります。それゆえ、設問3は「マナビ塾」は「お元気をもたらしているか」、です。

2 「活力」向上の自覚症状は次のような分野で顕著になっています

(1) 読み書きなど知的能力の向上
(2) 身体的能力の向上
(3) 各種作品の制作など作業能力の向上
(4) 意欲、好奇心、やる気の向上
(5) 生活リズム、生活スケジュールなど時間に対する感覚の変化
(6) 日常生活の行動範囲の拡大

IV   「マナビ塾」活動に参加して、あなたの人間関係は広がりましたか?

1  大部分の参加者(92%)の人間関係は多方面に着実に広がっています。
2  子どもとの交流が新鮮であると指摘されています

熟年期の心理的危機は「孤立」と「孤独」です。「孤立」も「孤独」も人間関係の希薄化と密接に関わっていることはいうまでもありません。人々は引退に伴って「職縁」が切れ,「結社の縁」から遠ざかります。「労働」に代わる新しい「活動」に移行できなければ、過去の人間関係は必然的に途絶えることになります。また、早い時点で、地域社会にデビューすることが出来なければ,スムーズに地縁のネットワークに加わることも出きません。血縁は比較相対的に昔のようには頼りにはならない時代です。それゆえ,熟年期の「孤立」と「孤独」を回避する手だては「生涯学習の縁」や「ボランティアの縁」によって新しい関係を作るしか方法がないのです。「マナビ塾」はまさにこれらの「新しい縁」による出会いを準備する仕組みなのです。したがって、設問4は「新しい出会いはありましたか」、「新しい交流は始りましたか」になります。

V  「マナビ塾」活動に参加して、楽しいと思うことは何でしょうか?

設問5は、「活動」の魅力,カリキュラムの成否を尋ねています。「活動」が心身の活力維持に役立つであろうことは,すでに仮説として想定済みですが,日常に「役立つ」だけでは「マナビ塾」は「十分条件」まで満たしたことにはなりません。人々が「活動」の中から楽しいことを列挙できるようであれば、カリキュラムは成功です。自分の好きな活動に説明を加えて,その理由や感想が書かれるようであればさらに成功の度合いは高いと判断していいでしょう。設問の5は「楽しいことは何ですか」,です。自由記述の回答総数は145項目に昇りました。

沢山の具体的な「楽しいこと」が指摘されましたが、機能的には以下のように分類が出来ます。

(1) 子どもとの交流の新鮮さが楽しい
(2) 新しい仲間との交流・集団活動が楽しい
(3) 学習・創作活動が楽しい
(4) 自分の貢献や向上が楽しい

VI   「マナビ塾」活動に参加して以来、体調不良で「連続して二日以上」病院にお世話になったことはありますか。

1  「はい」は13%でした。

設問6は生活習慣病、老人病、老人性のけがなどの医療費支出調査を目指しています。2日以上の治療を必要とすることは、健康状態も医療費負担も簡単ではないことを示唆しているでしょう。逆に,2日以上の病院通いがなかったということは,健康状態もよく,医療費負担も少なくて済んでいることの証拠になると思います。「マナビ塾」の参加者の多くが相当の長期にわたって“医者いらず”で過ごすようであれば,「マナビ塾」の健康への貢献度は大きいと考えて差し支えない筈です。設問6は「医者いらずで過ごせましたか」,ということになります。

2 教育委員会は高齢者の健康に貢献していることはデータにより明らかです。「マナビ塾」のお蔭で「元気になった」という回答は随所に見られます。高齢者の教育・社会参加活動は、明らかに医療費・介護費の抑制に著しい貢献をもたらしています。教育行政は、高齢社会における教育と福祉の融合プログラムの重要性を担当部局に提案すべきでしょう。

VII  今後「マナビ塾」で「やってみたいこと」、「挑戦してみたいこと」などがございましたらご自由にご提案下さい。

設問7は「特別プログラム」・「選択プログラム」の豊富化と活動企画の「自主編成」の可能性を探ろうとしました。人々にやりたいことがはっきり自覚され,意識化されてくれば,活動の責任者や企画者が生まれてきます。当然、自主活動の機運も高まってくるでしょう。そこまで行けば「マナビ塾」の「自転」が始るのです。「自転」する組織は「自立」し,「自立」を支えるのは参加者の「活力」です。たくさんの注文が出てくるようであれば,「学び塾」の存在も,その活動カリキュラムも,運営方法も「合格」と言って間違いないでしょう。設問7は「活動」内容・方法に「注文はありますか」です。「注文」や「期待」を通して参加者の意欲を見たいと考えたのです。

回答者の半数以上の人々が「具体的にやってみたいこと」を表明しています。自由記述の回答数は82項目になりました。分類すると下記の通りになります。

(1) 第1種の回答は総合的に前向きで、「何にでも挑戦」したいという姿勢が育っています。
(2) 第2種は分野別・具体的な回答です。

i 人間交流の拡大・・先生方や他の塾生との交流を希望する声が沢山あります。

ii 教育貢献の拡大・・多くの方が、子どもとの交流の種類や質の向上を願っています。

iii 学習や創作活動についての回答は極めて具体的ですが、ばらつきも大きく、「パソコン」、「野外活動」、「料理」、「修学旅行」など具体的な希望メニューは多岐に亘っています。

(*)より詳しいデータが必要な方は、郵送料を添えて、福岡県立社会教育総合センター、益田茂先生までご依頼下さい。(-092-947-3511)

115号お知らせ
第91回生涯学習フォーラムinふくおか
日時:平成21年9月19日(土)15:00-
場所:福岡県立社会教育総合センター(福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2、-092-947-3511)
第1部 論文発表:
「中国・四国・九州地区実践研究交流会28年に見る生涯学習振興政策の課題」(三浦清一郎)

第2部 事例研究:
未来につなげるべき実践:当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。(発表者未定)

編集後記
「暴走老人」-「自分流」の裏側
不適応とライフスタイルのすれ違い

勉強の一環で藤原智美さんの「暴走老人」(藤原智美、文芸春秋、2007)を読みました。分析の視点も具体例も実に面白く、教えられるところがいっぱいでした。主たる結論は、老人たちの今は、彼らが若かった日々に身に付けた人生のスタイルや価値観が、情報化を初めとする圧倒的な社会的条件の変化の中で、思い通りに行かぬ人生に心身の不適応が頻発し、その苛立から思わず「切れて」、暴力的、暴発的な行為に出るのではないか、という指摘でした。個人間のライフスタイルも、世代間のライフスタイルも大いに違って来ているからです。なるほど世間は藤原さんの言うような事例に満ちているのです。しかし思い通りに行かぬ人生にも謙虚に適応している老人も多いのです。筆者が思うに、彼らは自分を主張することが少なく、ある意味で「足る」を知っているのです。

「主体性」の暴走

私は、藤原論に大いに共感しながらも、老人の暴走は、現代の子ども論に繋がる「『主体性』の暴走」に起因しているのではないかと感じています。現代の幸福論は、「自分らしく」を掲げ、「思い通りに生きる」ことを勧めているようです。「取るに足らぬ自分」論、「足る」を知ることの「感謝」論は誰ひとり論じていないと言っても過言ではないでしょう。
換言すれば、「自分が何よりも大事」だと、声高らかに言っているのです。「欲求主義」・「自分主義」すなわち「自分流」の人生こそ第一という主張です。人々の好みも、こだわりも、自分勝手な欲求ですらもが、社会の前面に飛び出し、人権を主張し、「主体性」の大義の基に大手を振ってまかり通っています。
当然、誰もが己の「主体性」を主張すれば、限りある資源、限りある空間、限りある時間を共有して暮らしている共同生活・社会生活は、相反する「主体性」の衝突を避けられなくなります。意見の違いはもとより、生活の中の音でも、においでも、風景でも、しぐさやものの言い方まで、自分の身の回りに自分の気に入らない・嫌いなものがある、ということになります。気に入らないことに囲まれて、いちいち「切れて」いれば、共同生活は成り立ちません。藤原氏によると、老人の暴走の多くは、自分のやり方、自分の生き方に合わなくなった社会的条件や他者の生き方への怒りであり、苛立ではないかということです。
しかし、すでに老人になった筆者の目には、「暴走老人」とは、膨張した主体が思い通りにならぬ現実に八つ当たりをしているとしか見えないのです。取るに足らぬ自分と思えば、腹の立たぬことも、「おれの権利」、「おれの人権」、「おれの主体性」と思った途端に、他人との違いは対立に転化するのです。相手が法律や明白な不文律に反したか否かがはっきりしている場合は、腹も立つでしょうが、藤原さんが挙げている「暴走老人」の例は実に些細なことで「切れて」暴走を起こしているのです。
膨張した「主体」にとって、我が思いに反するものは全て主体性への侵害に映るのではないでしょうか。子どもの場合も同じですが、人生の幸・不幸はがまんの基準次第のところがあります。主体性の肥大化は耐性の低下と平行しているのです。がまんのできる事は辛いことではないのです。逆に、がまんができなければ全ての事柄が「不幸」や「辛さ」に転落するのです。「がまん」のレベルが「辛さ」のレベルを決定しているのです。かつて、非行少年の手記を読んだ中に、「ぼくの思い通りにさせてくれないのは、ぼくを愛してくれていないのだ」という趣旨の発言があって驚かされました。まさに「主体性の暴走」と言うべきでしょう。
それゆえ、思い通りに生きて、「自分流」だからいいんだと言うことにはならないということです。自分流は人生の主体が自分ということですから聞こえはいいのですが、己の「主体性」に拘れば、他の「主体」との衝突は増えます。自分だけを主張すれば、みんなと「合流」することはできません。文句が多すぎても、愚痴が多すぎても世間はあなたを避けて、遠巻きにします。主体的に生きて来た筈なのに、誰も受け入れてくれない、誰も気に留めてくれない、とすれば、主体性を主張した意味を失い、共通項を失うのです。孤独と孤立は避けられず、結果的に疎外感も避けられないのです。怒りの原因も、哀しみの原因も、膨張し過ぎた自我・暴走する主体性にあるのではないでしょうか!?

「風の便り」(第114号)

発行日:平成21年6月
発行者 三浦清一郎

「生涯現役」とはなにかーその意味と意義

1 キーワードは「元気」,「活動」、「社会参画」です。

「現役」の「現」は「今」、「役」は「役割」または「役目」です。それゆえ、「生涯現役とは、文字通り,「現に,今も、役割がある」という意味になります。当然,役目を果たすにはお元気でなければ務まりません。
時代は疑いなく高齢社会の真っただ中になりました。それでも、人間の寿命から考えて、100歳を超えたような方は極めて稀ですから、ただ「お元気でそこにいるだけでいい」という存在感の重い方々もいらっしゃいます。これら極めて長命な方々は,すでに現世の活動を離れた場合でも,十分に人間としての役割や責任を果たしている存在であることは疑いありません。「長生きも芸の内」とは、「お元気で生き続けることが社会的意義を持つ」という意味に解すべきなのだと思います。今のところ100歳は例外中の例外の寿命の地平線ですから,「ニュースになり得て」、人々の「励みになり得る」のです。まして、しいのみ学園の曻地三郎先生や聖路加病院の日野原重明先生のように超高齢で、しかも現役であるという方々はめったにいらっしゃらない例外です。上記のお二人の例からも明らかなように,「ご長命」ということと「現役」という二つの要素は別々であるところに注目すべきでしょう。
通常,「現役」には役割が伴い,役割には社会的義務と責任を伴います。しかも、それらの役割を果たすために社会的に活動を続けることが前提になります。したがって、「現役」の「役」は、「社会的役割と活動が連続した用語」であると想定すべきでしょう。「生涯現役」とは、社会が設定した定年の一線を越えて,老いてなお「社会的役割と活動に連続して関わっている」ということになるでしょう。
もちろん、社会的役割とは自分以外の他者を前提とし、社会への参画を想定しています。お元気に日々を生き、最後まで自立した活動を続けるということだけでも、困難で,尊いことですが,社会貢献を続けることは更に一層の困難を要します。自分のためだけに限定された活動、家族の中だけで展開される活動だけでは,他者や社会を積極的に支えることはできません。「生涯現役」は、自立の人生を生きたその上に,さらに、社会を支えて,今なお,現役であるということです。まさに凄まじいエネルギーと意志が無ければ可能ではありません。「元気」,「活動」,「社会参画」の3つのキーワードが満たされて初めて「生涯現役」なのです。

2 老後をお元気に生きるだけでは「生涯現役」ではありません
「現役」の反語・対語は「隠居・隠棲」・「引退」などですね。隠居も,引退も特定の対象との関係を止めることを前提にしています。「仕事から引退する」とか「息子に任せて隠居する」と言います。時には,趣味のテニスやゴルフから「引退」するなどとも言いますが,通常は,隠居も引退も、世間や社会を前提にし、労働や社会的人間関係を対象とした「概念」です。年をとっても、お元気で,生き生きと暮らすことは素晴らしいことですが,社会貢献を続けることは更に一段と素晴らしい事です。上記の分析が正しく,社会参画が「現役」概念の前提であるとすれば、老後をお元気に生きるだけでは「生涯健康」ではあっても,「生涯現役」ではありません。広辞苑に、現役とは「常備兵」のこととあり、「ある職務に従事しているもの」とあるのも、「現役」と「社会的役割」は切り離せないということでしょう。

3 「生涯現役」とは,定年や子育て責任の終了後も、「社会参画を持続する生き方」を言います
「現役」とは、「現在,ある職務に従事していること」を意味するということであれば,社会に関わり続けるという意味になります。定年で職を離れた場合でも,当然,社会的「責任」や「役割」と関わり続けるという意味を含んでいます。「現役」か「現役でないか」にこだわるのは、高齢社会を切り抜けるカギの一つが高齢者の社会参画である事は明らかだからです。少子化が続く中で,高齢者が社会への貢献を続けることが出来れば,子ども世代、孫世代への負担を減らすことができます。社会に対する貢献度を問題にするのは、高齢者の幸せの観点だけからではありません。社会の活力と存続に関わっているからです。
「現役」を問題にするからと言って、種々の理由によって,具体的に社会に貢献できない人々の存在を無視するつもりは毛頭ありません。障害や病気によって,自分の意志に関わらず社会に参画できない方々がいらっしゃることは十分承知しています。
それでも、筆者は社会のお役に立つことを重視しています。「役に立ちたい」という思いを尊んでいます。ましてそれを実行に移している方々こそ「一隅を照らす」「国の宝」(伝教大師)であるというお考えに賛同しています。文明の進化,福祉の充実,豊かになった日本のお蔭で人権も平等もほぼ保障されるようになりました。しかし、それは全て社会を支えている構成員の働きがあっての結果です。それを「当然」と思わず,「お蔭さま」と思いたいと思っています。それ故にこそ,「生涯現役」は尊いのです。
それゆえ、障害や老いに関わらず、社会に貢献し続ける方々を正当に評価しないのは問題だと考えています。人権とか平等とか人間の存在に関する普遍的な価値論を持ち出すと,如何なる理由によっても人間のあり方を「評価・区別」する考え方は批判されがちですが,社会を支えている構成員と社会に支えられている構成員は明らかに違うのです。前者がいなければ,後者は存在しようがないからです。これほど自明なことでも「差別主義者」だと言われないかと恐れながら書いています。ましてや,「安楽余生」論のはびこる日本においては,老後は引退して楽しく暮らすのが当然だという風潮に満たされています。結果的に,老いてなお、社会貢献を続ける人々に対する評価は足りないのです。日本はどこかおかしいのではないかと思いながら書いています。
社会との関係を断って,自分だけの生活を主とし,安楽な隠居生活を趣味・娯楽・お稽古事のたぐいで埋めている人々を,本書の「生涯現役」論に含めないのはそのためです。「お元気なだけでは生涯現役とは呼ばない」と言い切っているのもそれが理由です。ニートのような若者を批判して来たのも,そのような若者を庇護し続ける家族を批判して来たのも同じ発想からです。社会を支えている人々と社会から支えてもらっている人とでは違うのです。日本は一方で平等や人権を達成しましたが,他方では、勤労や貢献や奉仕を大切にする心を失っていないでしょうか?自己実現や自分らしさが強調される一方、「お蔭さま」を忘れ,「一隅を照らす方々」を軽視し,安楽な余生や「パンとサーカス・趣味やグルメ」に明け暮れる人々をもてはやし,社会を支えている人々の顕彰を忘れているのではないでしょうか?
言うまでもなく、社会システムは無数の役割と責任で支えられています。「生涯現役」の概念は、社会を「支える」という役割と責任を前提としているということです。それゆえ、筆者の考えでは「生涯現役」とは,定年や子育て責任の終了後も、「社会参加と社会貢献を持続する生き方」を意味します。
4 大人はみんな「自分流」です
もちろん、「参加」の仕方,「貢献の仕方」は,「自分流」です。人生の多様な経験を考慮すれば,「自分流」にならざるを得ないのです。生涯現役のあり方もそれぞれのやり方でいいのですが,一生懸命生きても,趣味を楽しんで生きても,社会との関わりを失えば,「生涯現役」と呼ぶべきではない、のです。安楽余生の福祉や趣味・お稽古事の高齢者教育に慣れ切った日本人には「酷」に聞こえるかも知れませんが,高齢者の生き方はもはや個人的な問題であると同時に,社会の問題ともなったのです。高齢者が余生を無為に過ごすか,あるいは自分のやりたいことだけを、やりたいようにやって,楽をして暮らせば,若い世代の負担を増やす一方です。
日本の高齢社会は,すでに高齢者を社会に「寄生」させることには耐え得ないのです。社会から「隠居」せず、最後まで社会の役割にも、責任にも関わろうとする意志と実践こそが筆者の「現役」論です。
ことわざが言うように「長生きも芸の内」ですから,隠居して生きようと趣味に生きようと,お元気に老後を過ごすことは、消極的な「老衰」に比べれば,実にお見事なことですが,それだけでは筆者の「生涯現役」論には適合しません。ましてや,後進の世代に「負担」をかけて,年金や介護を社会に寄りかかって,自分だけは「パンとサーカス」に耽溺して生きるという姿勢は「安楽余生論」の典型的生き方です。社会への貢献を止めず,ましてや老いてなお納税を続けるということはお見事としか言いようがありません。
5 「生涯現役」は「生涯学習」に接続します
生涯現役と生涯学習は「同義語」ではありませんが,生涯現役は詰まるところ生涯学習に接続します。生涯学習をしているだけでは,生涯現役である証にはなりませんが,より良い生涯現役のために生涯学習は不可欠です。生涯現役は心身の活動を意味し,生涯学習とは心身の機能のよりよい使い方を意味するからです。それゆえ、生涯現役とは人生の最後まで頭も身体も,気も使い続けようとする生き方を意味し、生涯学習とは、心身の最良の使い方の学習を意味します。心身の機能をもっとも有効に使おうとしたとき、研修も,訓練も、勉強も,学習も不可欠であることはいうまでもありません。学習の必要は老いも,若きも同じです。
幼少年期の生きる力の基本は「体力」と「耐性」ですが,高齢者の基本は「頭」=「判断力」と「意志」です。
幼少年期は指導に耐える条件が第1で,高齢期は己の生涯学習を企画し,生涯現役を実践し続ける状況判断と志次第で老後の暮らしが決まります。熟年期の処方が「読み、書き、体操、ボランティア」であることは変わらないまでも、若い時の第1順位「体力」は、熟年期に入ると「意志と意欲」という精神的なものに取って代わられるということに注目する必要があるでしょう。生涯学習にしても,生涯現役にしても,日々の実践処方を実行するか、否かは精神が決定するということなのです。したがって,高齢期の最大の問題は「精神の固定化」だということになります。
6 「生涯現役」も、「生涯学習」も「質」が基本です
肉体の健康も,社会への参画も、気力の充実も、本人の意志と判断を欠いては成り立たないからです。生涯現役の実践は,日々の工夫なしに維持することは出来ません。当然、あらゆる活動の根幹は人間の質に関わっています。心身の健康も、人間関係も,暮らしの経済活動も、余暇時間で楽しむ趣味や娯楽の中身も全て本人の質に関係し,「生涯学習の成否」を反映することになります。人生のあらゆることは一人一人の生き方にかかっています。そして、一人一人の生き方は、全て各人の関心と意欲にかかっています。人々の日々の暮らしを変えるのも、生き方を決するのも、最後は、言葉のもっとも広い意味で、本人の学習に帰結することは言うまでもないことでしょう。
「自分流」の危機
-「格差」の拡大-

自己選択の宿命

生涯学習は個人の向上と幸福に関わっています。「向上と幸福」の条件とは、常識的に、健康と元気と、やり甲斐と「居甲斐」の総合されたものでしょう。この時、「自分流」が生み出す最大の危機は人生の「格差」です。発生源は「生涯学習」です。特に、高齢社会においては、老後の生涯学習が人々の明暗を分けることになります。
生涯スポーツを選んだ高齢者と選ばなかった高齢者では、身体機能維持に関わる明暗を分け、結果的に健康の明暗を分け、人々との交流の機会を持てないので社交の明暗も分けることになります。趣味の余暇活動でも、ボランティアの社会貢献活動でも、生涯学習を選んだ人と選ばなかった人との「格差」は無限大に広がります。総称して、「生涯学習格差」と呼んでいいと思いますが、具体的な中身は、学習した人としなかった人の知識の格差、情報機器の活用をマスターした人としなかった人の情報格差、自らの健康維持実践をした人としなかった人の健康格差、活動を通して仲間ができた人と活動に参加しなかった人の交流格差などが想定されます。これらの「格差」は結果的に、個人の生き甲斐や自尊感情にも「格差」を生じると考えて間違いないでしょう。自分流の生き方というのは自由を前提にしています。そしてこの自由こそが格差発生の遠因です。自由は「選択」を前提にしているからです。生涯学習のスローガンは「いつでも、だれでも、どこでも、なんでも」です。時と所を選ばず,人もテーマも自由ということです。それゆえ、「選択の自由」は「選択の成否」を分けるということになります。
つい最近まで、学校教育は「ゆとり」をうたい文句に,土曜日を休みにしました。(裏の事実は教職員の週休2日制であったことは周知の通りです。)
学校週5日制は「ゆとりと充実」がキャッチフレーズでした。ここにも「ゆとり」が「充実」に繋がるという安易な楽観論があります。もちろん、ゆとりは必ずしも充実には繋がりません。子どもの日々を充実させるためには、充実を実現する条件やプログラムが必要であり,子どもの参加が不可欠です。休みになった土曜日は,その使い方次第で、「充実」にも,反対の「停滞」にもなりうるのです。自由選択が格差を生み出すという原理は同じです。
自分流の最大の欠点は、選択する人と選択しなかった人との明暗を分けることです。自由である以上、選択する人もいれば選択しない人も出るということです。自分流ですから、選択するもしないも、原則的に本人の責任ですが、選択結果の格差が大きくなり過ぎると“自己責任”とか、“自業自得”だということで放置するわけにはいかないでしょう。多くの個人の不幸は必ず社会問題にならざるを得ないのです。閉じこもりや認知症や寝たきりを予見しながら放置すれば、現行システムではつけは社会に廻って来るのです。
それゆえ、社会的に見れば、生涯学習を選んだ国民の多い社会とそうでない社会では、当然、活力に差が出ます。社会の負担も、未来の展望も、子ども達の活力も、技術革新の工夫も、生涯学習はあらゆる面で国際競争の条件を変えてしまうのです。生涯学習の成否は個人の幸不幸を分けるだけでなく、国家の存立にも関わるという点で、生涯学習は立国の条件になるのです。
高齢者の2分法-「悪の生涯現役」
高齢者問題を研究する過程で筆者が考えた分類の仮説は基本的に2分法でした。例えば,老いても、なお、お元気を保っておられる高齢者と病気がちで活力を失いつつある高齢者に分けました。「健康老人」と「健康を損ないつつある老人」という2分法です。
「健康な老人」もまた、2つに分けることができます。日々健康で,老後の活動を活発に行なっている高齢者と、病弱ではなくても,ほとんどの活動を停止して日々を消極的・受動的に暮らしている高齢者です。「活動する高齢者」と「活動を止めてしまった消極的な高齢者」の2分法です。「健康」と「活動」は、当然、同義ではなく,意志が介在しなければ,両者は必ずしも直結しないのです。
さらに、同じ活動でも、その内容において,何らかの形で社会に貢献を続け,社会を支える側に立っている高齢者と、逆に,活動的であっても、年金から医療まで、社会に支えてもらって、「パンとサーカス」三昧で好きに暮らしている気ままな高齢者があります。前者は「貢献する高齢者」であり、後者は「依存する高齢者」です。
健康を基準にしても,活動や社会貢献を基準にしても,高齢者を分けるものは,「活力」と「積極性」の有無です。それゆえ、前回出版した筆者の高齢者問題の著書には「The Active Senior」というタイトルをつけました。当然、いろいろな違いはあっても,「アクティブであること」は、「まえむき」であり、「活力」も「積極性」も「善」であるという前提で考えた事でした。大人はみんな自分流であり,老いてなおそれぞれが前向きに積極的に生きるということは「いいことだ」という前提で書きました。「老い」が「衰え」と同義である以上、積極的姿勢は衰えを予防し得る「善」で,消極性は衰えを加速する「悪」または最低限「マイナス」であると考えたのです。
ところが、近年,鈴木康央氏の研究を読んで心底驚きました。鈴木氏は高齢者を「いい老人」と「悪い老人」に分類しているのです。ご本人も「そんな分類は誰もしたことが無い」と述べておられますが、まさに「目から鱗」の発想で一読の価値があります。
これまで筆者のイメージには心身の機能が衰えて行く高齢者は「労りや配慮の対象」であり、「保護や世話の対象」であり、「弱り行く存在」でした。社会がある種の負担や被害を被るとしても,高齢者の「活力」の喪失であったり,病弱の故の世話の必要の増大というように,やむを得ぬ理由が背景にあるのであろうという分析でした。ところが鈴木氏の分類を読めば,確かに悪い老人は存在するのです。鈴木氏は,悪い老人は「有害」であり,悪い老人が増えると文明は滅ぶと言い切っています。一読後,文字通り,高齢者の見方がかわり、世の中への接し方が変わりました。「悪」にもまた「生涯現役」があるのです。悪事や意地悪を働く性悪老人はまさに「現役」で社会に「害」を及ぼしているのです。老いてもなお,社会との関わりを断たない「生涯現役」が全て「善」だと言うことにはならないのです。
筆者は、定年後の活動を分類して、「自分の趣味や実益を追求する活動者」と「社会に貢献し続ける活動者」に2分して来ましたが、鈴木氏の提案を読めば、活動者は3分法になります。最後は、「社会に害をなす活動者」もいるということです。
鈴木氏は言います。
「いい老人も悪い老人も早起きだ。
しかし、いい老人は一日を感謝の心で過ごし,悪い老人は起きるなり悪態をつき他人や世の中を呪って一日を終る。
・ ・・・・・
いい老人は優しく,控えめだが,悪い老人は自己中心でエゲツない。いい老人は正直だが,悪い老人は疑い深く思いやりがない。
・ ・・・・・
ここのところ、悪い老人が増えている。
意識的にいい老人になろうとしていないから悪い老人になる。『老人社会』が訪れた今,その違いをはっきりと知り,いい老人になろうとすることが,悪い老人にならない唯一の方法である。」(*1)

次に、本書の「悪い老人」の「章」の見出しのいくつかを紹介しておきます。
「悪い老人は悪いことしか考えない」(p.158)
「悪い老人は無意識に悪いことをする」(p.163)
「悪い老人の天敵はいい老人」(p.173)
「老人社会のアウトローが若い人を滅ぼす」(p.180)
「悪い老人が『悪人』と手を結ぶとき」(p.188)

広島県尾道市には「介護サービス」つきの刑務支所が存在する(*2)というくだりを読んでまさに何をか言わんやという感想でした。悪の生涯現役もまた可能であるということなのです。「生涯現役」が歓迎されるべきだとは一概に言えないということです。

(*1)鈴木康央、いい老人悪い老人、毎日新聞社、2004、pp.8-9
(*2)同上、p.38

「100の方法」を実践しても、「100歳までは生きられない」
日野原重明著「100歳になるための100の方法」批判
「100歳になるための100の方法」というタイトルに魅されて,日野原重明先生のご本を図書館から借り出して来ました。表紙を飾る先生のお元気そうなお写真と一行書きに提案された「100のキーワード」は多くの方々に勇気を与えるものと思います。しかし、高齢社会の「生き方」理論、熟年期の生涯学習理論として読んだとき,素朴な疑問がたくさん湧いて来ました。筆者はいまだ男の平均寿命にも達していない“若造”ですから、日野原先生の圧倒的にお元気な活躍ぶりとご長命の前にすくみ上がっているのですが、魅力的なタイトルとは別に,この本にもられた100の提案は、「概念」の上でも「方法論」の上でも、ばらばらでかつ曖昧なところが多いと思いました。恐らくは、出版を担当した編集者の「知恵」で、タイトルが先にできて,100の方法を後からそろえなければならなかったのだろうと想像しています。各雑誌にお書きになったものを組み合わせて作られた本ですから,最初から、「100歳になるための100の方法」という課題意識はなく,テーマ設定もしていないというのが実情であったでしょう。編集者の浅知恵が日野原先生の著者としての誠実さと論理の一貫性を傷つけた一例だと思います。

筆者の感想は以下の通りです。
第一に、「100の方法を実践しても」、「100歳までは生きられない」ことは明らかです。
第二に、無理をしてタイトルにそろえようとしたため、100歳まで生きる条件とは関係のない方法上の項目が含まれています。
第三に、日々守るべきことが100もあったら、どれから先にするか,普通人は悩みます。全部がやれるはずはないからです。そうなれば、「考え方」も「実践方法」も優先順位の決定をしなければならないと思うでしょう。100の方法は少なくても10分の1に整理し直すことが一般人のために必要だと感じました。
本文で語られていることを含めて、ここに語られていることは「日野原先生の生き方」についての感想であって、一般人の「100歳までの生き方」の方法上の理論ではないからです。先生ご自身は「新老人の会」のリーフレットに実りある人生のために“と題して三つの提案をされています。一つ,「愛し愛されること」,二つ,「創ること」、三つ,「耐えること」です。こちらの方が遥かに具体的ですっきりした提案ではないでしょうか。出版社の浅知恵が先生の清名を汚したのではないかと惜しみます。
ご無礼を承知で、筆者の主たる批判と分析を箇条書きで列挙すれば,次のようになるでしょう。

1 タイトルと中身が違う
魅力的なタイトルの命名は,ご本人か,出版社(文芸春秋)かは知りませんが,「100の方法を実践しても」、「100歳までは生きられない」ということです。先生ご自身がご指摘になっているように「寿命もまた運命(第60項)」であり、「寿命とは与えられた時間(第70項)」だからです。努力や心がけだけでは長寿を全うできないことは明らかです。病気にも,事故にも「運」があります。稀に見るご長命を前提にして「寿命は天命である」と言われたら「運」に恵まれない一般人は立つ瀬がありません。寿命が運命であり、天から与えられたものであると考えるならば、「100の方法を実践しても」、「100歳までは生きられない」ということです。
2 実行できなければ方法ではない
特別に実践が難しいことを「方法」として提案しても、「方法論」を提示したことにはなりません。
たとえば「老化するのは当たり前だから楽に受けとめる(第40項)」、「死は終わりではなく,始まり(第81項)」などは、そのように思いたいと思っても凡人には極めて難しいことです。ましてや老いの衰えで日々痛みや病気と戦っている人に「生老病死」の宿命を楽に受けとめよ,と言うのは、まさしく,言うは易く,行うは難し」の典型ではないでしょうか?
死もまた一般人にとっては「終わり」です。それゆえ、「始まり」だと助言を受けても、一体,何が始まるのか,神や仏を信じて来世を信じよ,と言うのであれば、信仰心を持てないものは長生きはできないという意味になるのか。答は決して簡単ではないでしょう。
3 実施目標、実践課題には優先順位が不可欠
100の方法の優先順位が分かりません。当然,ご提案の100の項目は重要度が異なり、全部が同等で、並列ではないと思います。「なるべく大股で歩くように心がける(第33項)」とか、「心あたたかな病院が欲しいという思い(第99項)」などは,他の項目と同じ比重であるとは考えられません。ご助言はそれぞれに大事ですが,普通の人間に全部は実行できません。ご本のタイトルとして「100歳になるための100の方法」は実に「ごろ」がいいのですが,このタイトルを付けたが故に、多すぎる「100の方法」を掲げざるを得なくなったのではないでしょうか?結果的に、「100の方法」では助言が多すぎるだけではなく、論理の構成も,実践すべきことの優先順位も破壊してしまったのです。無理やり100の方法を列挙したことがそもそもの間違いなのです。
4 概念も方法も共通化が不可欠です
ご助言の「概念」と「方法論」については,ご本人の個人的な体験を越えて、実践上の具体的で厳密な定義と方法が必要です。たとえば、「人生に迫力を与えてくれる思い(第65項)」,「これからの生き方の証(第68項)」、「生き方の哲学(第69項)」などを持つことが大事であるとのご指摘ですが,「迫力とは何か」、「証とは何か」、「哲学は具体的に何を指すのか」など、先生ご自身の思いをできるだけ,一般のわれわれと共通化することが必要だと思いました。それが「方法論」ではないでしょうか?
人間はそれぞれに生き方の違う個体です。特に大人は、考え方も生活態度も個性的で、「自分流」に生きる存在であることをお認めになるのであれば,日野原流を抽象化して、一般原理と個別応用法の整理が不可欠ではないでしょうか?圧倒的なご活躍とご長命を前提にすれば,先生の存在感とご活躍の事実が先行して,生半可な論理では立ち向かえません。しかし、明らかなことは、分析モデルは日野原先生ご自身ではなく,普通の一般人に置かなければならないということです。日野原先生が100歳近くまで生きられるにあたってこうした、ということと一般人が100歳まで生きるために何が必要か,ということは当然違うからです。「私はこう生きた」,ということと「みんなもそう生きるべきだ」ということは重なるところと重ならないところが出るのもまた,当然だからです。
5 方法の命はプログラムです

方法の命はプログラムです。概念も方法も日々の暮らしに「翻訳」できて,初めて一般化の役に立ちます。実践のプログラムに応用できなければ、方法と呼ぶべきではないでしょう。
本書における日野原理論は、時に概念が抽象的で、導きだされる意味が特定できないものが多いのです。解釈が多様になればプログラムを特定することはできません。「真心を持って行動する」とか「激しく生きるパッションを持つ」などがその一例です。
「真心」についても、「パッション」についても、具体的なプログラムを特定できない方法を方法と呼んではならないと思います。
「100歳まで生きる方法」には,「基本的には自分の家で死ぬことが一番望ましい(第57項)、「人とお別れができる最後がいい(第58項)」とか、「介護した母からはなかったありがとうのひと言(第86項)」など長寿に関係のない提言も含まれています。

6  例外はあくまでも例外です
個体の特別な個性を一般化することには無理があります。先生は「楽しくやっているからストレスにはならない」とおっしゃっていますが,楽しくやっても,やり甲斐のあることをやっても、普通の人間は,疲れる時は疲れます。「やらされたから」余計に疲れるということはあるでしょうが、「たのしくやったから」疲れない、ということにはなりません。「疲れ」は果たして「気」の持ち方だけの問題でしょうか?
「疲れというのはね,睡眠時間が少ないとか,栄養が足りないとかじゃなくて,やっぱり『気』です(P.182)」。日野原先生には「気があれば疲れない」ということが事実であっても,同じことが一般人に当てはまるとは限らないのです。また、先生は、「健康は上手な順応の仕方が大切なんだと思います。忙しい人とか夜勤の人とか,まず進んでそのスタイルに順応する。(p.183)・・」と指摘されていますが,われわれが「自分一人では生きていない」、という事実を考えただけでも,「自分の状況に順応する」だけでは,ストレスも疲れも癒すことは出来ないのです。加えて、子どもとの共通の時間を持てないとか,妻との対話の時間もないとか,疲労以外の生活問題も発生するのです。先生がお勧めになる「楽しい」ということも、「本当にこうしたい」と思うことも,極めて重要だと思いますが,その「願いを叶えること」も,その「願いの通りに生きて疲れを知らない」、ということも実際には決して簡単ではないのです。
7  生涯学習の視点で日野原提案を読む
-熟年者が活力を保つための6か条-
以下は、僭越を承知の上で、筆者の自分流で日野原提案を生涯学習の視点で、主たる方法論と思われるものに分類してみました。もちろん,先生のご提案の中には、どの分類にも当てはめにくいものも多くあります。それらの項目こそが一般化できない項目;先生の主観的、個性的な生き方です。それゆえ、生き方の教訓や生涯学習の方法論として採用することは出来ません。
筆者が想定したような分類であれば,先生のご提案の具体的背景までは十分に分析できないとしても,大項目だけは、共通項として日々の実践や暮らしの考え方として拾い上げることが出来るのではないでしょうか?

(1) 挑戦と試行
やったことのないことをやる―新しいことを始める

75歳からでも何かあたらしことを始める(第1項)
今までの習慣を多少変えてみることを試みる(第3項)
若い人と同じように生きて行こうとする意欲を燃やす(第9項)
処女地と思って自分の資源を発掘しよう(第11項)
少なくとも10年間新しいことに挑戦しよう(第19項)

(2) 読み書き体操

意識して頭と身体のエキササイズの時間を作ることを心がける(第6項)
二つ以上のことを同時に行なうことは,老化防止の手段(第4項)
(3) 若い人に接する

年をとればとるほど楽しい刺激が必要(第14項)
自分が年をとったら若い人からパワーをもらう(第18項)
老人が他所の子どもにも教えられるシステムを作ろう(第31項)
子ども世代と祖父母世代が同じことを一緒にやる(第48項)

(4) ボランティアと社会参加

共に生きて行けることに感謝する(第12項)
引退しても家に籠らずに社会とのかかわりを持とう(第30項)

(5)  自分の「快適感覚」に正直に

-「楽しいこと」,「望んでいること」,「こうしたい」ということを大事にする。

やってみて気持のいい方をとる(第13項)
年をとればとるほど楽しい刺激が必要(第14項)
自分が望んでやっていることは、身体中が元気になる(第41項)
本当に「こうしたい」というスピリットがあればふしぎな力が湧く(第45項)

(6) 何ごとも目標行動-精神の達成感

どんな状況にあっても日々の行動に目標を持つ(第7項)
若い人と同じように生きて行こうとする意欲を燃やす(第9項)
少なくても10年間新しいことに挑戦しよう(第19項)
精神的な達成感が健康法(第20項)
死とは最後の生き方の挑戦(第22項)
これからどう生きるか真剣に考える(34項)
人生に迫力を与えてくれる思い(第65項)
これからの生き方の証(第68項)
生き方の哲学(第69項)

お知らせ

1 第90回生涯学習フォーラムinふくおか

第1部 論文発表:
「自分自身観の危機:アイデンティ・クライシス-安定の崩壊,均衡の喪失、納得の不在」(三浦清一郎)

第2部 事例研究:
当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。

2  生活のなかの学問:公開講座
むなかた市民学習ネットワーク・サマーセミナー

-新しい実験に,夏休みの8/3(月)-8/7(金)に暮らしの中の社会学・教育学・心理学・女性学・老年学の特別講座を企画しました。講師は三浦清一郎です。-

1 8/7(金)の老年学:「自分らしく生き,自分らしく人生を終わる
-人生の終末のための準備講座-」だけを公開します。ご希望の方はどうぞご参加下さい。予約は不要です。
2 時間帯は休憩を挟んで午前9:30-11:30です。
3 参加費は市民学習ネットワーク事業に準じ、資料代100円、受講料400円です。当日にお支払い下さい。
4  会場は市民活動交流館「メイトム」(宗像ユリックスとなり)です。
(宗像市久原180)

§MESSAGE TO AND FROM§

お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。
沖縄県 大城節子 様

過分のお心遣い有り難うございました。「大人はみんな自分流」の執筆を急いでおります。生涯現役のあり方にしても、現代の「養生訓」にしても原理を取り出して日々の方法論に「翻訳」することの難しさを痛感しております。若い頃に書いた自著を読み返し、その難解さと具体性の欠如に今更ながら呆れております。恐らくは今でもそうなのでしょうが、大学における研究者の論文指導のあり方に大いに問題があると感じております。

福岡県嘉麻市 實藤美智子 様

お便り励みになりました。また、過分の郵便切手を頂きありがたく使わせていただきます。筑豊地区の校長会の研修でお目にかかれるでしょうか?

山口県山口市 赤田博夫 様

セミナーパークの研修が始まりました。あなたの撒いた種が育っています。日本はいまだ共稼ぎ支援のための「学童保育」と少子化防止や男女共同参画のための子育て支援の区別さえついていませんが,やがて養育を社会化し,学校教育と地域における子育て支援が両輪となる「保教育」の時代は必ず来ます。優れた学校経営者が始めなければ始める人がいません。
次回の研修の帰途には寄らせていただこうと考えています。
編集後記-美しき晩年
過日の山口研修の折りに、戦前からの波瀾万丈の人生を生きて来られた先輩とゆっくりとお話しをする機会が持てました。小生も思わず問わず語りに我が来し方をお話しする結果になりました。振り返ってみるとお互いに何といろいろなことがあったことでしょう。

疲れ果て心づくしのもてなしに
問わず語りに語りしことども

来し方を思い出しつつ語りつつ
今日あることのありがたきかな

お別れに先輩がしみじみと言われた、「晩年は美しくしないとね!」という言葉は次の我が執筆の宿題になりました。

「晩年は美しくないとね!」とあなたは言う
何を、どうすれば美しいのか、未だ答え得ず

「美しき晩年」、「豊かな晩年」、「晩節をけがさない生き方」こそ、言うは易く、行うは難い。具体的にこれからどうすればいいのか?生涯学習では、必ず「原理」と「方法」論が問われます。
美しき晩年のために「健康」が大事だと言えば、「病弱の人」の「晩年」は美しくないのか?「活動」が大事だと言えば、「活動」のない晩年は「豊か」ではないのか?法律に違反せず、節度を保って生き続ければ、それだけで晩節を全うしたことになるのか?考えれば考えるほど「美しい晩年」の条件は難しいのです。「人それぞれ」違うだろうということでは答えたことにはなりません。“人間止めますか,それともクスリ止めますか“というポスターの通り、介護現場には,判断力も,選択能力も失った方々が沢山います。介護の現場では、「進歩主義は幻想」,「自立した個人も幻想」と書いてあります。当然,認知症の老人にとって生涯学習も幻想でしょう!更には,「踊りを見せにきたグループに泣かんばかり感激して玄関まで見送り,見えなくなると『今日のは下手じゃったのう』と言う“慰問大好き老人”もいる」そうです(*1)。何たる身勝手で、醜悪な言い草でしょうか。しかし,このような老人でも鈴木氏が指摘した「悪の老人(*2)」に比べればまだマシなのでしょう。心身が老い衰えれば、「美しい晩年」もまた幻想だと思わざるを得ない報告も山ほどあるのです。生涯現役の生き方が多くの人間に可能でないように,介護の現実もまた全ての人間の実相ではないということに注意しなければなりません。
おそらく、生涯現役を希求する人々の心象には「要介護」に「転落」するのではないかという潜在的恐怖があるのだと思います。老いることは「自然に帰ること」,「子どもに回帰すること」だと言われても,「だれもが通る道」だと分かっていても,「現役」として生きて来た自分にとってはまさしく「転落」以外の何ものでもないからです。「大人はみんな自分流」である以上。いろいろな見方があって当然ですが,木をみて森を見ず,小さな森をみて,人間全体の森林を見落すことのないようにしたいものです。あるべき「美しき晩年」は、考えれば考えるほど、難しい宿題をいただいたものだと感じています。
(*1)三好春樹、女と男の老い方講座、ビジネス社、2001、p.184
(*2)鈴木康央、いい老人悪い老人、毎日新聞社、2004

「風の便り」(第113号)

発行日:平成21年5月
発行者 三浦清一郎

大人はみんな自分流

中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会第29回大会のフィナーレは人生の先輩である4人の方にご登壇いただいたインタビュー・ダイアローグ;「生涯現役の方法」でした。みなさん大先輩であるにもかかわらず、すこぶるお元気で,社会的活動にも、個人的活動にも縦横無尽に活躍されている強者ばかりでした。インタビューのポイントは、老いてなお,生き生きと社会貢献を続けていらっしゃる「方法論」をお聞きするということでしたから、日々の精進と実践法をお尋ねしたのですが,それぞれに超ご多忙で,“いろいろ細かいことを気にしている暇などない”、“前進あるのみ”という総合的なご意見でした。
結果的に,司会者の質問などもいちいち気にしている暇はない,というかのごとく、それぞれが自由自在に語り始め,踊りだす人まで居て,わずか1時間のインタビューでしたが,当方だけが疲れ果て,終わった時には汗びっしょりでした。
大会終了後にいただいた関係者の感想には次のように書かれていました。“あの4名の方々を選んだ時点で、大成功!!でしたね。強烈な存在感と説得力、イヤー参った!!ってとこですね。司会者もたじたじ。まだまだ彼らの域には達していないということで・・・とにかくお腹の底から笑うことができました。あの会場を埋め尽くす大勢の人間が、共通の笑いを共有できたことが、何よりも素晴らしいと思いました。”
また,別の方からは,“、特別企画では司会者が汗だくになりながら、思うように論点を深められないお姿を初めてみました。やはり、アラウンド75の先輩方は凄すぎますね。限界を超えていますね。(記録が難しいので)今後は70歳以下にしていただければありがたいです。“

人生の達人たちはそれぞれに生き方も、発想も、質問への応え方も極めて個性的な「自分流」なのです。筆者の結論はそこに落ち着きました。

1  変化の連鎖-適応の条件、立国の条件

(1) 生涯現役は生涯学習に接続する

生涯現役は詰まるところ生涯学習に接続します。生涯現役とは生涯にわたった社会との関わり,生涯にわたった心身の活動を意味します。そして、生涯学習とは生涯にわたった心身の機能の健康で,効率的で,より意義のある使い方を意味しているからです。それゆえ、生涯現役とは人生の最後まで、頭も、身体も,気も使い続けようとする生き方を意味し、生涯学習とは、それら心身の機能を最適・最大にするための学習を意味します。心身の機能をもっとも有効に使おうとしたとき、研修も,訓練も、勉強も,学習も不可欠であることはいうまでもありません。だんだん衰えて行く熟年期において,肉体の健康も,頭脳の活性化も,気力の充実も工夫なしに維持することは出来ないからです。当然、生涯現役者のあらゆる活動の根幹は本人の質に関わっています。
この時,心身の健康も、人間関係のあり方も,暮らしの経済活動も、余暇時間で楽しむ趣味や娯楽の中身も、全て本人の質に関係し,「生涯学習の成否」を反映することになります。人生のあらゆることは一人一人の生き方にかかっています。そして、一人一人の生き方は、生涯を通した「学び」にかかっており,「学び」は全て各人の関心と意欲にかかっているからです。人々の日々の暮らしを変えるのも、生き方を決するのも、最後は、言葉のもっとも広い意味で、本人の生涯学習に帰結することは言うまでもないことでしょう。

(2)  変化の時代

さらに、現代は「変化の時代」です。変化は生活の全分野に及び,変化しないものはないと言っても過言ではないくらいになりました。生涯学習という言葉も,生涯学習を支えるシステムもそもそも「変化」が生み出したものです。変化の推進力は「技術革新」にありました。高齢社会は平均寿命の伸長によってもたらされ,平均寿命の伸長は保健医療技術の革新によってもたらされました。ところが、高齢化は,介護や孤立や老後保障の問題を生み出し,若い世代の負担を一気に増大させました。変化は「連鎖」せざるを得ないのです。
一方、情報機器分野の技術革新は、コンピューター利用の日常化をもたらし,今や情報機器を使えないことは現代を生きることが困難であるまでにわれわれの日常に浸透しています。この時、高齢者が情報機器の活用を学ばなければ,彼ら自身はもとより,国家の大いなるハンディキャップとなることは火を見るより明らかでしょう。
生産の分野でも日本の技術革新の成果は,それぞれに組み合わされ,総合化されて,生産力と生産技術を向上させました。その結果,日本の製品は性能も,耐久性も、価格も世界の製品をしのいでいるのです。それゆえ、日本の製品は世界の市場で歓迎され,日本は貿易立国として今日の地位を築いて来たのです。もちろん、貿易立国は世界との交流が不可欠になります。経済はもとより,暮らしの全般において、日本人の考え方,感じ方を世界との交流を前提としたものにしなければなりません。国際化が教育の新しい課題として登場したのは、当然のことだったのです。このように一つの分野の変化は別の分野に影響して,次々と新しい変化を引き起こします。
変化の時代とは,変化が連続し,拡散し,ますます変化   のスピードを増して行く時代を意味します。
変化が生涯にわたって連続するようになると,昔ならった知識や技術の多くは通用しなくなります。こうした現象を知識や技術の「陳腐化」と呼んでいます。要するに、もはや古くて,時代の要求にあわず、使い物にならないという意味です。「陳腐化」は、考え方や制度にも及びます。したがって、政治にも,行政にも,メディアにも,老後の暮らしにも,男女共同参画にも,子育て支援にも及びます。
今までの暮らしが絶えず変わって行く時代には,新しいやり方,新しい仕組みに適応しなければなりません。適応に失敗すれば,取り残されます。周りの条件がめまぐるしく変わっているとき,自分だけが変われなければ、生き残ることが難しくなります。人間の一生に渡って変化が続く時代には、同じく一生に渡って、変化への適応を続けなければならないのです。 変化は基本的に、人間の願望がもたらすものですから、上手に取り入れて使えば、人間の願いを叶えてくれます。
人間の願望を製品に反映できなければ、製品は買ってもらえません。技術革新に遅れた企業が倒産するのはそのためです。個人も同じです。変化に遅れれば、さまざまな点で暮らしが難しくなり、大げさに言えば、それぞれの願いの実現を阻害します。
情報化の時代に情報機器が使えないと暮らしは極端に不便になります。医療保険情報に遅れれば、日々の健康管理に落ちが出ることになるでしょう。生涯学習は変化に適応することを目的として発明された考え方です。考えの核心は、個人も組織体も、変化する暮らしの要因を素早く読み取って、新しい知樹や技術や考え方やシステムに切り替えるための学習支援です。生涯学習は、変化の時代には,個人が生き残る条件であり、国家の立国の条件なのです。
部分的に問題はありましたが,これまでの日本は変化への適応に成功しました。国民がきちんと勉強して来たということを意味します。変化がますますそのスピードと度合いを増している今日、生涯学習はますます不可欠になって行きます。個人にとっても、国家にとっても、これからが生涯学習の勝負のしどころになります。
2 人生に「安定」はありません

人間の心身は常に変わり続けます。一人一人の個人を取り巻く人間関係も、社会的条件も、本人の生物学上の発達の条件も、刻々と変わります。変化の中で生きることは人間の宿命であり、言い換えれば、人生に「安定」はないということです。私たちは自分を取り巻く他者とも、社会環境とも、常に関係し、交渉し、影響を受け、周りの変化に対応しなければなりません。心身の機能の変化についても同じです。身の回りのどれ一つが変わっても、われわれは昨日までの安定を失い、人生は変化の中に投げ込まれます。
褒められても、叱られても、好かれても、嫌われても、元気になっても、元気をなくしても、仕事が旨く運んでも、運ばなくても、昇進しても、昇進できなくても、あらゆる変化は私達から「安定」を奪い去ります。まして、社会的条件の変化は私たちの意志や努力に関係なく、人生を変化の中に放り込みます。あらゆる変化は「人間と環境との不均衡状態」を生み出すということです。私たちは褒められれば嬉しくなり、気持が高揚します。叱られれば逆のことが起こるでしょう。好かれた場合も、嫌われた場合も似たようなことが起こるでしょう。
人間関係の変化も、社会的条件の変化も、大なり小なり、私たちの心を波立たせます。やって来る変化が多様である分、人生の波立ちもさざ波から大波までさまざまです。「波風を立てるな」という言い方があるように、波は安定を損ない、人間と環境との対立や摩擦や矛盾を意味しています。変化が不均衡状態を生み出すということは、自分を取り巻く状況に対立や、摩擦や、矛盾が起きるぞ、ということなのです。
私たちは、当然、対立にも、摩擦にも、矛盾にもそれなりの対応をしなければなりません。対応策は二つに一つです。一つは、自分の都合に合わせて環境を変えること、もう一つは環境の変化にあわせて自分を変えることです。前者は、環境の改善であり、後者は環境変化への適応と適応のための学習です。本稿の目的は「環境の改善」ではありません。「環境変化への適応と適応のための学習」のための「仕組み」を学ぶことです。もちろん、自分が変わると、結果的に相手も変わってくれて、人間関係の環境が改善されるというような場合も稀にはあります。理屈の上では、「環境の改善」も、「環境変化への適応と適応のための学習」の「仕組み」も両方が同時平行的に行なわれればそれに越したことはないのです。しかし、通常は、「環境の改善」は物理的にも、時間的にも、技術の上でも極めて困難で,手強いのです。環境の改善は大事ですが、なかなか個人の手に負える代物ではないのです。あまり良いたとえではないのですが,家の構造が歪んで動かなくなった戸や障子のことを考えてみて下さい。柱が歪んだ家を直すには大変なお金も技術も必要ですが、障子を削って取り敢えず開け閉めが出来るようにすることはほんの少しの技術があればできます。環境は「柱の歪んだ家」にあたると考えてみて下さい。そして「自分を変えること」は「戸障子を削って柱に合わせること」にあたると理解しておきます。
3 大人はいつもたいてい不満です
私たちはだれでも自分を取り巻く環境の中で暮らしています。環境には、自然環境もあれば、人間的・社会的環境もあります。言い換えれば、人生は個人と環境との絶えざる相互作用です。私たち自身も変わるし、環境も変わるので、この相互作用の過程が、安定した状態を保つことはまず出来ません。私たちは努力して環境を改善したり、自分を環境に合わせたりして、個人と環境の間の均衡と安定を図ろうとしますが、「いい状態」はなかなか長続きしません。ある課題を解決したと思ったその時にはすでに別の課題が生じつつあるのです。折角達成した安定」はたちまち新たな疑問や不安に取り巻かれて行くのです。私たちの存在は心身ともに自転車の運動に例えることができます。自転車はそれが動いている限り均衡を保つことができます。しかし、停止と同時に自転車は均衡を失います。私たちの心身も環境に適応して変化を続けることによって安定を求めようとします。「適応」するということは「調節」するということです。その意味で人生は絶えず変化する川の流れのようです。満足した途端に何らかの変化が生じて、安定は不均衡に、満足は不満や不安に変わって行きます。大人はいつもたいてい、大なり小なり、不満だったり、不安だったりするのです。不満や不安の原因は「変化」です。環境の変化が不満であったり、環境の変化に旨く適応できないことが不安を引起こしたりするのです。したがって、私たちには常に、環境への働きかけや環境への適応行動を続けなければならないのです。もちろん、適応行動は必ず学習を含みます。なぜなら、変化に上手に適応するためには、何が変化したのか、変化は自分に取ってどんな意味があるのか、私たちの環境認識は間違っていないか?環境認識が間違っていないとして、ではどうすればいいのか?問題を解決するためにはこれらの問いに全て答えなければならないのです。
自転車は止まると倒れます。われわれの心身も変化を止めた時は死に繋がるのです。私たちは一生を通して絶えず変化し続けます。身体が変わっても、外部環境が変わっても、私たちの気持の持ち方を調節しなければなりません。調節は適応であり、適応もまた内的な変化であることは言うまでもありません。「心変わり」もまた変化なのです。かくして、私たちは無数の変化に取り囲まれ、無数の適応と調節を行ない、生涯を通して、自分に最適の安定を求め続けて行くのです。
それゆえ、問題はなぜ、そしてどのように変化が起こるのか、どうしたら旨く適応や調節が出来るのか、を明らかにしなければなりません。変化を上手に解き明かせなければ、日々の生活に不満と不安がつきまといます。人生は常に
適応と調節を駆使して環境との均衡を学習しなければならないのです。*1

* 1 このような考え方を提起したのは主として欧米の研究者です。例えば、「不協和の理論(Theory of Dissonance)を唱えたフェスティンガー(L.Festinger)、認知理論のピアジェ(Piajet)、人格発達論のリーゲル(K.F.Riegel)などです。解説は拙著成人の発達と生涯学習、ぎょうせい、昭和57年、pp.16~47を参照して下さい。

4  見方も、考え方もバラバラです
私たちは同じ出来事をそれぞれに解釈します。似たような経験から全く違った意味を引き出します。たしかに、環境は客観的に存在するのですが、一人一人に取っての意味はバラバラです。それゆえ、環境実態も大事ですが、環境の「受け止め方」はもっと大事なのです。
一人一人に取っての環境は、個人と環境とのかかわり合いですから「経験」と置き換えても言いでしょう。環境の受け止め方が異なるということは、経験の解釈がそれぞれに異なるということです。私たちは環境に反応するのではありません。「私たちが受け止めた環境」に反応するのです。大切なのは「経験」と「その解釈」です。
大人はみんな「見方」も「考え方」も,「生き方」も自分流です。好きな食べ物から男女共同参画まで大人の発想と態度は千差万別です。ファッションのスタイルから生活習慣病まで大人はみんな自分の生きたいように生きています。人生で受けた教育が多様であれば多様な分だけ大人の視点はさまざまです。辿って来た人生の経験経験が多様な分だけ大人の解釈も,生き方も自分流になります。自分流とは主観的にこれでいいんだと納得して生きているということです。「納得」は「安定」を意味し、自足して「足るを知る」ということですから、素晴らしいことなのですが、一方では、変化への対応が遅くなり、新しいことに踏み出さないというマイナスも含んでいます。人生は自転車のように止まると倒れます。社会も人間関係も常に変化を続けています。変化によって生じる問題を解決し、自分を取り巻く社会環境との平衡を保つためには止まるわけにはいかないのです。
長い人生の中で,大人が一度思い込んだことはなかなか変えることができません。失業とか,病気とか、事故のように,自分の環境からよほど強い強制力が働かない限り大人の生き方は変わりません。感性や感情のあり方も若い頃からの蓄積の結果ですから,少しくらいの警告や助言は受け付けません。ふりこめ詐欺や安直なもうけ話に引っかかるのも事前の思い込みや生活態度が大いに関係しています。英語では“年老いた犬に新しい芸は仕込めない(There is no new tricks for an old dog.)”と言いますが、生涯学習にとってこのことわざは間違いです。もちろん,年をとった犬にも新しい芸を仕込むことはできます。犬も人間も年を取って学習が不可能になるならば,生涯教育の意義も,生涯学習の可能性も失われます。逆に,認知症の進展や変化への不適応は年寄が学習を放棄した場合であることが多いのです。心理学も,医学も、スポーツ生理学も使わなくなった人間の機能は時間の経過とともにその働きを失って行くと警告しています。「使わない機能は駄目になる」ということは、医学用語では「廃用症候群」と呼ばれています。
但し,上記の英語のことわざが、年をとった犬は若い犬より訓練が遥かに難しいという意味ではまさしくその通りです。年取った犬もまたこれまで生きて来た経験をもとに自分流で生きているからです。
教育学は「変革」は「形成」より難しいと言っています。

5  大人はみんな自分流
(1) 存在の個体性と認識の自己中心性

大人は過去の経験を踏まえて,見たいものだけを見て,聞きたいことだけを聞く傾向があります。人間は他者と切り離された個別の存在です。人間が「個体」で生きているということは,自分のことは分かっても,なかなか他者のことは分からないということです。怪我をしても,病気をしても,誰にも代わってもらえません。筆者はこのことを「人間存在の個体性」と呼んできました。個体は他者の痛みをわが痛みとして感じることはできません。「痛み」が最も分かりやすい例ですが、よろこびも,哀しみも,怒りも,焦りも、人は基本的に他者と共有することは出来ないということです。あらゆる教育や学習に「体験」-「体得」が大事なのはそのためです。教育原則の第1は「大人も,子どもも自分でやったことのないことは出来ない」ということです。私たちは自分のやったことは己の肉体・全感覚を通して理解し―実感し、個体を通して判断します。心身の全体が理解し,技術などは「身に付く」と言います。それが「体得」です。想像力も,理解力も,共感も,同情も,自分の個体の体験を基にして作られるのです。世界も,人生もたくさんの情報に溢れていますが,人間はそれらを全部吸収するわけでも、理解するわけでもありません。特に大人は自分の過去の経験に基づいて自分に必要で,意義のある情報だけを取捨選択します。その時,われわれの個体が蓄積して来た過去の経験は情報収集のフィルターの役目をします。自分に関係のある情報だけを拾い上げ,関係のないものは無視するのです。「見たいものだけを見る」とは,「自分の関心のある物だけに目が行く」,ということです。「聞きたいことだけを聞く」というのも同じです。物理的に強制しない限り,自分に関係があり,関心を引く音だけが聞こえて来るのです。
その意味で大人は極めて「自己中心
的認識者」であり、「自己中心的な
学習者」です。

(2) 自分の目-自分の経験-記憶の仕組み

私たちは「自分の目」-自分なりのフィルターを持っていることはすでに述べました。それが「自分自身観」です。
全ての経験は自分自身観というフィルターを通して本人の経験として記憶されます。見たいものだけを見、記憶に値するものだけを記憶しているのはそのためです。
それゆえ、大人の研修や学習支援においては、ご本人の経験に関連づけて指導することがもっとも印象に残ります。私たちは私たち自身に関係のないことは覚えていないし、興味も持たないからです。大人も子どもも学習支援の原則は同じです。「やったことのないことはできません」。だからやってみることが大切です。自分がやったことはよく覚えています。本人に発表させ、本人が実験し、本人が実習することが大切です。
「教わったことのないことは分かりません」。だから、理由もやり方も丁寧に教えなければなりません。但し、教えた結果は本人に復唱させることが大事です。聞いただけでは素通りしてしまうことも、自分自らが繰り返しておくと大分記憶に残るものです。それゆえ、「やったこと」も、「教わったこと」も、本人自身の反復と練習がもっとも重要になります。「練習しなければ決して上手にはならない」のです。教育心理学の教科書には、本人の興味や経験に関連づけて教えなさいと書いてあります。自己に関連づけるとよく記憶できるということです。逆に、自分の関わったこと以外はよく覚えていないということにもなります。筆者はこの10年英会話のボランティア講師として毎週公民館の大人の学級を指導して来ました。教材は生徒さんが選ぶのですが、それを咀嚼して,英会話の素材にし,生徒さんとのやり取りを繰り返すのは指導者の私です。結果的に,上手に指導しようと努めれば努めるほど,指導者が反復する度合いは多くなります。結果的に,指導者が一番物覚えが早くなります。
このことが分かって以来、英語を上達するためにも,ボケないためにも、指導は続けようと思っているこの頃です。繰り返しになりますが、私たちは自分を中心に生きているということです。自分の経験に拘り、自分の都合に拘り、ものごとを自分に関連づけて理解し、記憶するのです。いい指導者で居たいと思えば思うほど,教材を自分のものにしなければなりません。指導者が上達するのは道理なのです。

(3)  目標の「自己設定」-評価の「自己納得」

自分のみたいものだけを見、聞きたいものだけを聞くという成人の特性は,個人の人生にさまざまな影響をもたらします。
身の回りの条件を自分に都合のいいようにだけ解釈していれば,いつかは人間関係も,状況判断を間違えかねません。見るべきものを見,聞くべきものを聞かないと研修や学習の成果も上がりません。大人が自分らしく生きることは大事なことですが,「自分流」にもメリットとデメリットの2面性があるということです。
大人は自分流で自信を持って生きている分,自分の基準にあわないものには関心を持たず,自分が納得しないものは受け入れません。それゆえ,大人の研修や学習指導には「自己納得の原則」が不可欠です。どんなに価値があろうと,科学的に証明されたものであろうと,大人は自分が納得しないものには耳を貸さないということです。詐欺の被害者や頑固爺さんの言い分を聞いていると,なんでこんな分かり切ったことが承服できないのか,と思うこともあるのですが,それが大人の自分流でもあるのです。人種問題から男女共同参画まで、問題が複雑になればなるほど、時に,大人の答は、過去の教育成果や経験を引きずっていて、初めから決まっているのです。
それゆえ、指導に当たっては,指導者の目標を押し付けても旨く行きません。指導目標を本人が納得できるよう説明上の工夫や配慮が大事になります。指導目標と各人の学習目標が重なるように設定することが重要です。設定された研修の枠からはみ出さない限り,参加者自身が自己目標を決めることは最も効果があります。自分が決めた目標は当然本人が納得しているからです。評価の視点の同じです。自分で決めた評価の基準には文句が出にくいということです。
それゆえ、大きな目標を立てておくといろいろな角度からの解釈が可能になるので、納得してもらいやすくなります。大目標は「まちづくり」とし、「まちづくり」のために何が必要かはそれぞれが判断するというような工夫です。あるグループは自然公園を活用した健康づくりプログラムを工夫しました。別のグループは商店街の空き店舗を活用した子育て支援と商店主による生活講座を企画しました。別のグループは忘れられていた歴史的文化財の復活に取組みました。研修の内容も方法も多岐にわたって,まとめは不可能に近いことでしたが,研修参加者は大いに張り切ってプログラムの実践に取組んだのです。
また、先に例に挙げた、英語のディスカッショングループの教材選択も一定の条件をつけて学習者の選択に任せています。時には指導者の思惑に外れた資料が出て来るときもありますが,本人の熱意はもとより,他の学習者もいずれは自分の番が回って来るので、他者が選択した教材を尊重して不平は出ていません。指導する側がお仕着せで教材を決定した場合には必ずいろいろな注文や不満が噴出することは多くの経験者が語っています。
もちろん、学習成果の評価についても,他者の評価よりは,自分が納得できるか,否かが問題の中心です。自己評価は「甘く」なったり,自慢評価になったり,客観性を失う危険もありますが,各人の評価基準をつきあわせることで極端な「主観性」や「偏り」は予防することができます。自分の評価が世間の評価と一致したときが成人指導の“幸福”ですが,そうは問屋が卸さない場合が多いことは周知の通りです。
大人はみんな自分流ということは、大人の研修は自己目標、自己納得、自己評価が指導の基本だということです。

「主体性」問答
-幼少年教育の最大矛盾-

福岡県みやこ町の「男女共同参画ハンドブック;ここが知りたいみやこ町」の執筆・編集が最終協議の段階に入りました。甘木・朝倉女性会議の太田初代代表からのご提案もあり,「思春期」の子どもについては特別に取り出して,保護者への解説の章を儲けることで意見が一致しました。
思春期問題を調べて行くうちに,課題はドラッグや援助交際や引き蘢り等々の社会現象に留まらず、子どもの「主体性」をどこまで認めるかという保護者・教育者の判断であることに気付かざるを得ませんでした。
結論は次のようになります。
1 現代日本の育児論・教育論は子どもの主体性・自主性を尊重することが育児や教育の根本原理であるかのように主張する。

2 子どもの主体性を認めれば,子どもの拒否権も選択権も認めなければならない。

3 「主体性」を突き詰めて行けば,援助交際も売春もドラッグですらも、原理的には,本人の「主体的行動」の結果であるということになる。子どもの「意志」だから尊重せよ、と言い続けるならば、教育者に子どもの「主体的行動」を止める論理は成り立たない。

4 現代の教育が子どもの「意志」を全面的に受け入れるならば,教育は崩壊せざるを得ない。

5 みやこ町のハンドブックには、子育てにおいて、子どもの「意志」は最初から制約せよ,と書かなければならない。特に,思春期の問題行動が始まってから,子どもの「主体性」を制約することは不可能に近い。

第28回大会の懇親会でたまたま近くに坐った熊本の先生と問答になりました。
先生:いつかは自分で生きて行くのだから、子どものうちから自主性や主体性を育てる事は大事だと思います。

三浦:大事ですけど“さじ加減と条件次第”ですね。

先生:主体性を制限せよ、ということですか?

三浦:そうです。自主性も主体性も大切ですが、幼少年期の子どもの自由は指導者(保護者)の決めた「枠」の中に限定すべきです。その「枠」を設定する時のさじ加減が大事だという意味です。キーワードは「ほどほど」です。子どもの個性と発達段階の違いがあるので一概に「自由度」や「制限の程度」を決める事はできません。

先生:主体性と人権は同じですか?

三浦:人権は基本的に法律用語ですが、教育の場面では同じだと考えるべきでしょう。

先生:そうなると幼少年期の主体性を制約するという事は人権を制約するということになりませんか?

三浦:なります。主体性も人権も人間の欲求が基本です。その「欲求」を制限するべきだと申し上げているのです。

先生:しかし、人権は平等に保障しなければならないと思いますよ!

三浦:法律上はその通りだと思います。しかし、教育上は「欲求の中身」を考慮しなければならないと思います。
世間が論じている「人権」が人間の欲求のどの範囲までを取り上げているか、が問題です。人権の前提が「生存の欲求」や「安全の欲求」を意味しているのであればおっしゃる通り平等に保障しなければなりません。しかし、「やりたい事はやりたい」・「やりたくないことはやりたくない」という欲求までを含んでいるのならば大きな間違いです。後者は単なる「わがまま・勝手」ですが、欲求の一部であることは疑いありません。

先生:人権とわがまま、主体性と自分勝手をだれが選別するのですか?

三浦:それはあなたでしょう。指導者のお役目です。

先生:選別の基準は何ですか?だれがそれを決めるのですか?

三浦:基準設定の原則は、「共益」と「公益」に反していないか、否か、だと思います。「共益」と「公益」の基準は時代と社会が決めます。要は、本人を含めて、みんなのためになるか、否かを判定する事です。学校においてわがまま勝手の児童が他の子どもの勉学の妨害をすることを許してはならないでしょう。

先生:そう言われても「公・共益」の判断を任されるというのは「荷」が重すぎるのではないでしょうか?

三浦:その判断ができないというのなら教員はプロだと言ってはならないと思います。また、その判断をしなくていいのであれば、教育は塾でも家庭教師でもだれがやってもいい筈です。もともとはそうだったのですから・・・。

先生:われわれの本業は教科担任制ですから、教科の指導と中身が問われるのであれば、納得できますが、しつけや児童の言動は親の役割、家庭教育の責任でしょう。

三浦:原則はその通りですよ。国によっては、学校は思想・心情、態度・振る舞いについて余計な事を教えるな、というところもあるくらいです。しかし、家庭教育が崩壊に近く、集団教育の現場で、勉学の秩序と規律が保てないときはどうしますか?塾が勉学の規律を保っているのに、学校が保てないのは、義務教育の側の考え方に問題があるのではないでしょうか?両者の違いは、学校が子どもの主体性を優先しているのに対し、塾は塾の主体性を優先するということではないでしょうか?塾の指導を妨害する子どもは,退塾させるということです。
塾は、塾の責任において、自主性とわがままを選別しているということになります。

先生:学校はだれの責任で選別することになるでしょうか?

三浦:教職がプロだと主張するならば,一人ひとりの教員に始まって、実体的には,職員会議や校長先生のご判断ということになるのではないでしょうか?

先生:なかなか一致しないでしょうね。

三浦:基本的生活習慣や社会規範の習得や集団行動の「訓練」に手を焼いているのは、教育行政や教員の意思統一が出来ないという背景があるのだと思います。

先生:保護者のお考えとぶつかりますね。

三浦:子どもの意志や欲求を尊重することが子ども自身のためになるという保障はどこにもありません。反って、子どもの不利益になることも多い筈です。学校はそのことを明確に保護者に伝えるべきだと思います。

先生:個々の学校でできる事でしょうか?

三浦:学校が出来なければ出来るところはないでしょう。共益と公益の基準に照らして、子どもを変えることが出来れば,保護者は納得しますよ。おやりになっている校長先生もいらっしゃいます。

先生:教師主導ということになりますね。

三浦:「子ども中心」から「教師中心」へ,現代の学校には、まさにそのことが求められているのです。ポイントは、子どもの自己決定権を認めれば、その拒否権も認めなければならない、という一点です。拒否権を認めて教師の指導は可能でしょうか!?
113号お知らせ第90回生涯学習フォーラムinふくおか

1 論文発表:
「自分自身観の危機:アイデンティ・クライシス-安定の崩壊,均衡の喪失、納得の不在」(三浦清一郎)
2 事例研究:
当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。

§MESSAGE TO AND FROM§

お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。
広島県廿日市市 川田裕子 様

中国・四国・九州地区の大会のお蔭で久々の再開ができました。子ども達の貯金のお話をお聞きし、相変わらずの奮闘ぶりを想像しております。大きく成長した“ビッグフィールド”の子ども達と親しく話をする時間が飛んでしまって残念でした。仲間がいなくて大丈夫か、懇親会にはとけ込めるか、などと気にしていましたが、各地の仲間をつないでいるうちにいつの間にか夜更けでしたね。来年から四国の愛媛のご参加が決まり、交流の輪が広がった嬉しい大会でした。

島根県雲南市 和田 明 様

お元気なお姿に接し、励まされました。第28回大会で、“生涯現役の方法”を特別企画に取り上げたのもやや自らの気力・体力に自信を失い、先達の教えを請いたいという思いがありました。「読み、書き、体操、ボランティア」の処方は変わらないまでも、若い時の第1順位「体力」は、熟年期に入ると「意志と意欲」という精神的なものに取って代わられるということを理解しつつあります。処方を実行するか、否かは精神が決定するということなのでしょう。

熊本県熊本市 田上明利 様

お便りありがとうございました。28回大会では熊本の先生方とユックリお話しができて何よりでした。確かに今年の熊本からのご参加は例年より少なかったですね。当方の広報不足ということも関係していると思います。そこで「熊本移動フォーラム」のご提案です。長崎の先生方とも同じご相談をしているところですが,大会広報を兼ねて,福岡との合同勉強会はいかがでしょうか?
移動フォーラムは、どこの県でも、町でもいいのですが、当該地域の催しに便乗して当方の研究グループが遠足を兼ねて出かけて行く研修会です。いつも福岡へお出かけいただいているので,われわれも出かけようという趣旨も含んでいます。しかし、誰もいないところへ研究会を出前しても仕方がないので、他の事業に便乗する方法を採っています。その際,福岡のメンバーをご自由にご活用下さい。通常、私は当該事業に関連した「フォーラム論文」を執筆し、討議の材料を提供するようにしています。時期と時間は問いません。出かける先の事業日程に合わせることにしております。したがって、福岡のメンバーは、出席の可能な者もいればその時に塞がっている者も出ます。事前に相談の機会をご配慮いただけると多くのメンバーが参加できます。
福岡では定期的に、大体月1回から2ヶ月に1回の割合で企画する自由な研究会です。ご提案まで。

福岡県朝倉市 太田政子 様

論文のような分厚いお便りが届きました。ぎりぎり「風の便り」にも間に合いました。ご感想の多くは巻頭小論;「大人はみんな自分流」と重なりました。
“老いて行く我がすがたをさらけ出し,老いて行く我が生活を認めて,楽しみながら今を一生懸命生きる”。“これが最高の日々の精進と実践と思う”。“今日の全力は明日の最善に繋がる”。すべて同感ですが,たった一点先輩の定義と筆者の定義に重要な違いがあります。「現役」の対語は「隠居」とか「引退」です。それゆえ、がんばって「生きているだけ」では「現役」にはなりません。社会から「隠居」せず、最後まで社会の役割にも、責任にも関わろうとする意志と実践;それが私の「現役」論です。それにしても80歳を越えてなお,大会で紹介されたNPOの発表を全てお聞きになって、作戦を立て,「女性会議」の破壊と改革を構想するあなたにはどことなく小泉純一郎元首相の面影が彷彿としています。恐れ入りました。

過分の郵送料をありがとうございました。

島根県雲南市 和田 明 様
島根県益田市 渋谷秀文 様

編集後記
青嵐の窓辺

第28回中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会の最終日は風の強い日になった。三々五々、参会者が散って行く。“さよなら”や“また逢おう”があちこちで飛び交う。いつもの事だが一期一会の宴の後の寂しさは例えようもない。人はこのように集い、やがて目的を果たしてそれぞれに散って行く。「人に会う」ことは確かに「力仕事」であるが,この「力仕事」を通らないと元気にはなれない。事例発表もまたそれぞれに「力仕事」だった。人生は、生きるための「負荷」に耐えることこそが明日の熱源を生み出す秘訣であると再確認した次第である。
この大会を、実践者を「つなぐ舞台」にしようと徹してきたことは決して間違いではなかった。人は人によって気力を充実させ,人は人との交流を通してエネルギーを創造する。出会いの「触媒」こそが「発表事例」であった。ある意味でアカデミズムとの縁を切り,実践者以外は大会に登場させない,という原則を守ったことも成功の一因であった。28年もの間、手弁当・手づくりの「交流会」が続いて来た最大の秘密がそこにあるだろう。そして不登校や引き蘢りやニートの人たちの最大の不幸もまた彼らの生活の中に手応えのある実践と人間交流が存在しないということにあるのだろう。「人間」という漢字を発明した人々はまさに人は人の間で生きるという事実を理解していたに違いない。今年は古い参加者の中に家族連れが4組もいらっしゃった。自分が感じて来た“手応え”や“つながり”の新鮮さを言葉だけで家族に説明し,伝えることはどれほど難しいことだろうか!百聞は一見に如かず、とお考えになったのだと思う。また、ご本人は出席が叶わなかったのに,今年もまた,恒例の競り市に土佐の打ち物包丁が届いていた。高知の小松先生からに違いない。小松先生もまた遥かに青嵐の篠栗を遠望していらっしゃったに違いない。
会場となった福岡県立社会教育総合センターのロビーには、西側に木々の茂ったみどり溢れる大窓がある。センターの職員は大忙しで働いていたが、私は最後の方をお見送りした安堵感で疲れ切って窓辺のソファーに坐った。大会の終わりに青嵐の窓辺に坐ることはここ数年の習いになった。行く人来る人、大会はそれぞれの人生の「交差点」である。元気でいて、ふたたび,一年後に五月の花に逢いたいと思うごとく,来年もまた、このみどり溢れる窓辺に坐りたい。

大会を無事為し終えて
青嵐の轟々たるや
我が胸に吹く

「風の便り」(第112号)

発行日:平成21年4月
発行者 三浦清一郎

市民による市民のための生涯学習システム

行政施策の一環として、市民が市民のために働くということだけであれば,各種のボランティア活動も,人材活用事業も決して珍しい事業ではない。しかし、市民が相互に市民の学習を支え合うということになると,行政主導型で進んで来た日本の社会教育では稀な事例になる。まして,行政の手を離れて活動が自立している事例となると極めて数は少なくなる。福岡県飯塚市の「熟年者マナビ塾」や同みやこ町の「豊津寺子屋」はその一例であるが,それでも完全に行政の支援や管理を離れているわけではない。近年ようやく活気を帯びて来たNPOの諸活動にしても,財源に行き詰まり、活動が孤立して法人の抹消に動き出したものも少なくない。あらゆることを行政に依存して来た「お上の風土」の民主主義は社会教育関係団体の事例に限らず一筋縄では行かないのである。行政支援が希薄になって来た途端、子ども会も婦人会も一気に質量ともに活動が低迷しているのは周知の事実であろう。行財政が逼迫して来た現在、真に自立した「市民による市民のための生涯学習システム」の意義はますます大きくなる。25年の長きに亘って持続し,今や,ほぼ完全に行政から独立した「むなかた市民学習ネットワーク」事業のあり方は,結果的に,生涯学習の民主主義を実現し,市民主導の生涯学習システムの原点と成り得るのである。

1 原始の学習

正規の教育システムが誕生する以前は、知っている人が「知らない人」に教え、「できる人」が「できない人」を訓練しました。教育も学習も現場の必要に迫られました。それゆえ市民相互教授システムは原始の学習方法なのです。必要に応じて必要なことを自由に学ぶことは、教育が職業として成立するまでは「学習」の交換であり、相互の教授システムと呼ぶべきものだったでしょう。
原始の学習の原則は,必要に応じて,「誰が教えてもいい、誰が学んでもいい」ということになります。それゆえ、ウィリアム・ドレイブスがアメリカの「自由大学」の哲学を凝縮したスローガンも「誰が教えてもいい、誰が学んでもいい」ということになりました(*1)。
市民による市民のための生涯学習システムの誕生は筆者が「学習者の変質」という視点で概念化して来た「生涯学習革命」を象徴する具体的な形です。生涯学習革命とは市民が教育と学習の主役になる時代を意味しています。その時、市民は、もはや「鑑賞者」にも「見物人」に留まらず、自らが「プレイヤー」となり、「創造者」となり、「教授者」にもなりうる時代を指しています(*2)。原始の学習形態は「教育者」と「学習者」、「指導者」と「被指導者」が明確に分離していませんでした。当然、教育も専門職業として分化してはいませんでした。「できるもの」が「必要なもの」に教えていた筈です。したがって、教育も指導も、必要に応じ、「いつでも、どこでも、誰でも、なんでも」の形で行なわれていたに相違ありません。
一方,「市民学習ネットワーク」が出発した当時;25年前の状況は、教育・指導の専門・分化が進み,教育機能を効率化した結果、教育者や学校を特権化し,教育者や学校の同意がなければ,市民の学習は行えないところまで教育制度は形骸化していたのです。教育制度はいわゆる「制度疲労」を起こしていたのです。
社会教育の分野も同じでした。「おしえるもの」と「おしえられるもの」は職業によって2極分化し,一般市民はあくまでも「学習者」,「鑑賞者」,「見物人」の枠の中に閉じ込められていたのです。職業や人生経験を通して一般市民が特定事項に通暁していたとしても,教育行政や学校などの専門機関の「お墨付き」がない限り他の市民を指導することは不可能でした。それこそが教育の「縄張り」であり,既成の指導者の「特権」でした。時代は教授する者と教授される者を峻別する教育分業の時代でした。当然、当時の市民は教育の客体に過ぎなかったのです。
それゆえ、「宗像市民学習ネットワーク」事業は,結果的に,形骸化した当時の教育文化への挑戦になりました。突破口は「生涯学習」の思想の登場でした。

(*1) William Draves,  Free University, AP Follett, Chicago, 1980、p.15
(*2) 三浦清一郎編著,市民の参画と地域活力の創造、学文社、平成17年、p.22

2  モデルはアメリカの「自由大学運動」と「学習交換」

「市民学習ネットワーク事業」はアメリカの「自由大学運動(Free University Movement)」と「学習交換(Learning Exchange)をモデルとして誕生しました。市民が市民を指導するシステムの事業化としては、恐らく、日本で初めての実験事業であったと思います。事業の基本は、市民が先生になり、必要とする別の市民に指導する仕組みを独立採算で廻すことが理想の原理です。“市民による市民のための生涯学習“とは後から考えるとそういうシステムの構築を目指していたということです。大元のアメリカでは、I.イリッチの「脱学校化の社会」(*)などが大いに論じられた時代でしたが、九州の小都市においては、「脱学校化」も「脱制度化」も表立って論じられることは全くありませんでした。当時の宗像市の大問題は、ベットタウン化に伴う人口増とそこから生じる新旧住民の和合であり、住民相互のコミュニケーションのステージを如何に創造するかということでした。背景の理屈はどうあれ、生涯学習を推進することによって新旧住民が仲好しになれればそれで”よし”としたのです。実践の動機はともあれ,市民学習ネットワーク事業の原案の作成に関わった当時の福岡教育大学の社会教育研究室では、初めて理論研究の成果を実践に「翻訳」する機会を得たことになりました。ここから“研究と実践の幸福な往復運動“が始まることになりました。
折しも、福岡県の関係者が協力して、日々の社会教育実践を研究の素材として、実践を向上させ,また,実践への応用や現場の反応を手がかりに研究を進化させようという趣旨の「生涯学習実践研究交流会」を発足させたのが昭和57年でした。「市民学習ネットワーク事業」は第1回大会から第5回大会まで連続5年に渡って実践研究の発表:事業経緯の報告と分析を続けました。

* イヴァン・イリッチ 、東 洋他訳『脱学校化の社会』東京創元社 昭和 63 年

3   5人集まれば「学級」成立

「市民学習ネットワーク」では5人集まれば「学級」が成立しました。当時の公民館補助事業の基準学級の人数が50人・年間20時間以上というような規定であったことを考えれば、「5人」という最低基準定数は破格の条件でした。企画の段階の議論では、人数が少ないほど市民の交流の「密度」が濃くなるとか、市民指導者の指導ストレスや同格の市民に対する抵抗感も少なくて済むであろうという説明もありました。しかし、学級の最少基準人数を低く設定した最大の直接的動機は、素人先生を囲んで、10人、15人の参加者を確保することは果たして大丈夫か,ということでした。10人以上の学級編成を義務づければ、学習そのものが成立しないのではないかという懸念がありました。
当時は、教授も指導も分業化されていた時代であり、教育の素人が専門家の領域を「侵して」、同等の事ができるとは想定出来なかった時代でした。
行政に対する説明の理屈としては、当時、世界の最先端といわれていたスエーデンの生涯学習の振興に関する法律が5人を最少の学級人数として講師の派遣をすると謳っていることを根拠として提出しました。
しかし、時代は研究者の予想を超えたスピードで動いていました。市民の「生涯学習革命」が始まっていたのです。これまでの「鑑賞者」は、「創造者」となり、自ら絵筆を握り、文を書き、舞台で演じるようになっていったのです。また「見物人」は、自ら「プレーヤー」となり、生涯スポーツは爆発的に普及しました。「スポーツ担当社会教育主事」というような職名も発明されました。人気のない科目はともかく、多くの領域で「市民学習ネットワーク」事業の参加者は遥かに予想を上回りました。結果はおおむね嬉しい誤算でした。

4 「市民学習ネットワーク事業」の構成要因

この事業には6本の「柱」があります。
「有志指導者」、「学習者」、「運営委員会」、「認定講習会」、「有志指導者連絡会議」、「コミュティ学習新聞」の6つです(*1)。
主役はもちろん「有志指導者」と「学習者」です。「市民による市民のための生涯学習」という時の市民とは「有志指導者」であり、「学習者」だからです。
事業の準備が整ったあと、運営の仕組みは当分の間、社会教育振興協議会の委員を中心に構成する「市民学習ネットワーク運営委員会」に託しました。有志指導者や学習者の成長はずっとあとのことになると予想したからです。社会教育振興協議会は行政の補助金と管理支援で成り立っていた組織であり、その「孫請け」に入るということは,行政の間接管理下に置くということを意味していました。教育活動そのものは市民が自律的に行なうとしても,お金も,事務管理も、まだまだ行政に依存しなければならない時代でした。
各学級の運営は、指導に当たる「有志指導者」とクラスから選出された「学級長」、「会計係」、「会場係」の3名の合議による徹底した自主運営方式にしました。
市民のための生涯学習は市民による自主運営の学級で行なう仕組みにしたのです。当初の認定講習は大掛かりでした。カリキュラムは以下のような項目でした。
(1) 市民相互学習の意義と進め方
(2) 青少年の学習活動の特徴と指導者としての心構え
(3) 成人の学習活動の特徴と指導者としての心構え
(4) 学習指導の方法
(5) 学習プログラムの作成
(6) 指導後の反省と評価

認定講習受講後指導者には「有志指導者」としての資格が与えられますが、資格は2年間しか有効でありません。それゆえ、2年毎に更新研修と新しい指導者の発掘と認定が繰り返され,今日に至っています。

(*1) 竹村 功、三浦清一郎、小都市における人材ボランティア活用事業の企画立案についての方法的考察、第1回九州地区生涯学習実践研究交流会発表資料、昭和57年

5  広報活動が成功のカギ

市民学習ネットワーク事業は広報を重んじました。従来の「教化」・「行政主導型」の社会教育プログラムと異なって、市民主導・相互補完型の生涯学習は、発足当初は、市民にとって極めて馴染みの薄いものだったからです。まずは、事業の思想と原理を市民に知っていただき、「有志指導者」にとっても、市民学習者にとっても仕組みと雰囲気を分かっていただくことが先決だったからです。しかし、市民教授システムである以上、広報活動もまた市民の手で担わなくてはなりませんでした。1年目の「コミュニティ学習新聞」:「学習とであいのひろば」もまた市民ボランティアによる取材・編集で発行していました。初めのころは月1回の発行記事を集めるだけでも大変な作業でした。手づくりの広報紙を行政広報と一緒に全戸配付する仕組みは当時の宗像市の理解抜きには実現し得なかったことです。
25年が過ぎた現在でも「むなかた市民学習ネットワーク事務局(宗像市市民活動交流館内)」には、嘱託・専任の担当者が配置され、ボランティアの編集員さんと協働して広報を作り続けています。幸いなことに事務局の資料棚には第1号からの広報紙が保管されていました。市民学習ネットワーク事業の出発点は最初の数年の広報紙をひもとく中からその歩みが浮かび上がって来ます。

6  発足時の仕組みと状況

「市民学習ネットワーク」は文字通り「無」から作り上げたものですが、世間的に通りがいいように、形態・形式の上では市内の「社会教育関係団体」で構成する「社会教育振興協議会」を推進母体とする形を作って発足させました。発足時の「有志指導者」は89名、利用可能施設は自宅を含めたあらゆる場所を想定していました。未だ、「箱もの」の整備が遅れていた時代でした。事業に先立って学習施設調査が行われ、公立の公民館を含め、農協・銀行・寺院・商工会・電電公社(当時)の会議室など民間施設管理者の理解も得られていました。昭和46年、当時の文部省「社会教育審議会」の答申において、日本に生涯教育(学習)の思想が正式に採用されて以来、十数年が過ぎていたとは言え、民間事業所の協力は当時としては画期的なことだったでしょう。宗像市の積極的な推進姿勢が周りの人々に共感の雰囲気を創り出していたことは明らかでした。
事業の特性を表すキャッチフレーズとして、「コーヒー一杯で学習を」「5人揃えばOK」、「学習者が主役」、「手づくりのカルチャーセンター」、「全国初の草の根学習」、「学習するコミュニティの創造」などの文言が広報紙:「コミュニティ学習新聞」の紙面に踊っていました(*1)。市民教授システムの出発点は24学級でした。

*1 コミュニティ学習新聞「学習とであいのひろば」昭和58年4月創刊号-5月号

7 「受益者負担」の原則-「珈琲一杯で学習を!」

「コーヒー一杯で学習を!」は市民学習ネットワーク事業の学習者募集のキャッチフレーズでした。25年前一杯のコーヒーは300円でした。企画の段階で大きな抵抗があったのは、学習者に応分の負担を求めるという「受益者負担」の原則でした。当時,生涯学習は行政主導・行政丸抱えの政策がとられていました。その中で、受益者負担制度は、行政関係者の理解を超えていて、決して歓迎されませんでした。“素人が教えるのに,市民からお金をとる”などということが出来るはずはないというのが大方の感想であったと思います。「コーヒー一杯」は受講料を意味し、1回300円(平成21年現在400円)の負担を市民にお願いしたからです。今日では想像できないかも知れませんが、当時の社会教育は、材料費実費を除いてほとんど全てが「ただ」の時代でした。社会教育の多くは未だ「啓蒙」、時に「教化」の雰囲気の漂う時代でした。「おんぶにだっこの社会教育」、お上からの情報伝達やお上が選んだ講師陣の解説を聞く「承り学習」が主流でした。
教育の建前は,社会教育と学校教育は車の両輪と言いながら、実質は限定された市民を対象とした「3割社会教育」が実態の時代でした。
「啓蒙」・「教化」の意味合いがあるのであれば、「お上の経費負担は当然」という発想と「金を取ったら市民は来ない」・「金を払ってまで学習する人はいない」・「市民の素人先生になぜ金を払うのか」等々の考え方が綯い交ぜになって、受益者負担原則の導入には心理的な抵抗が大でした(*1)。もちろん、当時の右肩上がりの日本の成長の中で、行財政が現在のように逼迫するなどということは到底予測出来ませんでした。
しかし、新規構想の事業提案としては,結果的に、受益者負担の構想は行政の財源を頼らないという意味を持ったため,当局と交渉する上で大きな力になりました。出来るか,否かの問題は別として、受益者負担構想は大いに市役所幹部の心証をよくした要因でもあったと思います。
また、何よりも,25年後の現在のような財政逼迫状況でも活動が継続出来るという意味で時差を伴って判明した重要な成功条件でした。受益者負担を原則にしていなかったならば、事業の新設・離陸も、現在の活動の継続も到底不可能だったことでしょう。自立した生涯学習は未だ遠い感触の時代でした。
受講料はボランティアで教えて下さる“市民教授“への「費用弁償」に当てたわけですが、ここでも「ボランティアに費用弁償は要るのか」、「そもそもボランティアはただであるべき」だというような「ボランティアただ論」が論じられました。また、反対に,教師の専門性の観点から、教えていただく「先生方に2,000円の交通費しか払わないのか」という伝統的な「指導者特別視」とでも呼ぶべき考え方が存在し,右も左も「抵抗勢力」でした。社会教育においても市民対等の発想は存在せず、「教えるもの」としての「講師」は専門職業の縄張りに守られた特権的な存在だったのです。
しかし、企画会議は逆転の発想をしました。それは「お金を払ってでも学習したい」人々を発掘しようということであり、「身銭を切って」いるからこそ学習の選択にも、継続にも、評価にも真剣さが増す筈である、ということでした。もちろん、「ボランティアただ論」は日本の「誤解」であり、活動に要する基本費用を社会の側が提供しないで持続的で責任のある学習指導は不可能であるという判断で一貫していました。
また、免許状や教員資格は教育制度における職制上の工夫に過ぎず、未来の生涯学習においては、「できる人」が「必要としている人」に教えることになんの問題もないという思想で一貫していました。むしろ、教育を専門領域に限定し、経験上の知識・技能を素人の市民が教えてはならないという教職のセクト主義こそが生涯学習を阻害する条件であるという主張こそが「市民学習ネットワーク」事業の基本姿勢でした。25年が過ぎてこの思想は正しかったことが証明され、市民学習ネットワーク事業における「市民教授システム」も、学習における受益者負担の原則も見事に定着しました。学習領域にもよるでしょうが、今では、「コーヒー一杯分」の料金で学習ができるのは格安であるというように評価が変わりました。学習に限らず「自己責任」の思想も日本人の間に浸透し、さらに行政は財政難に喘ぎ、今では市民の利用に際し,公立公民館の使用料まで取るしまつになっています。

(*1)前掲紙昭和58年6月号
事業の浸透と受益者負担に対する抵抗感を薄くするため従来通りの減免規定を導入したのも苦肉の策でした。子ども会、老人会のような団体活動に対する割引と学校における活用の受講料免除を2本の柱にしました。割引率は以下の通りです。
15-39名・・4千円
40-59名・・6千円
60名-・・・・8千円
学校教育に導入の場合は無料

8  「有志指導者」連絡会議

市民教授システムに戸惑ったのは学習者だけではありませんでした。最も戸惑ったのは指導に当たった先生方(「有志指導者」と命名していました)だったことでしょう。それゆえ、当初は応援と団結のための「有志指導者」連絡会議を年3回の頻度で開催していました。会議の主催者は「運営委員会」でした。第1回「連絡会議」は1984年の8月8日に開催されました。その記録には、指導上の具体的な問題が数多く提起されています。
例えば、「学習者による学級運営が旨く進まないのでオリエンテーションの仕方を工夫が必要であること」、「指導に関わる材料費の負担に学習者の不満が出ていること」、逆に、「指導上の用具などを取り揃えることが“有志指導者”の負担になり過ぎていること」、「研究成果や完成した作品の社会的発表の機会が欲しいこと」などが指摘されています(*1)こうした実践上の指摘は徐々に事業システムの中に組み入れられ、現在の「学級運営の仕組み」や「発表会」の形に進化して来ました。

(*1) コミュニティ学習新聞、昭和58年9月号

成人指導の心得-その1
「成人学習者」の特性と指導の原則

1  自己中心的学習者

(1) 「自分自身観」

成人は過去の経験に基づき、「自分」というものができ上がっています。心理学的には程度の多少はあっても,「アイデンティティ」が確立しているということです。アイデンティティは通常「自己同一性」と訳されますが,それでは何のことか分からないでしょう。私は自己流ですが,「自分自身観」と訳しています。「自分とは何か?」という問いに「自分で答えた答」です。要するに,人生について,世の中について,自分について,自分が出した答の総体です。「価値観」に似ていますが,更に広いあらゆる感性を含んだ自分についての定義です。それゆえ、「自分自身観」は他人のことはどうでもいいのです。換言すれば,自分が、「これが自分だ」と考えている自分の価値観・感性の総体とでもいうべきでしょうか。
この「自分自身観」は人生のあらゆる現象を識別するフィルターの役目をします。経験豊かな成人は「見たいもの」だけを見、「聞きたいことだけ」を聞きます。このような成人学習者に、彼の考えに反する新しいことを教えるのは至難のわざです。未だ人生が白紙に近い子どもに男女共同参画を教えることは比較的容易ですが,女房より自分の方が偉いのだと信じ込んでいる亭主に男女共同参画を教えることは不可能に近い難事だということです。彼の耳には男女共同参画も,女性の自立も,子育て支援も,妻の悲鳴も聞こえないのです。英語でSelective Deafnessと言う表現がありますが、字義通りに訳せば,「選択的聴覚障害」ということになるでしょう。時に人間は、自分が納得していないこと,自分自身に都合の悪いことは聞こえないように出来ているのです。見れども見えずも同じことです。自分自身観の興味・関心のフィルターに引っかからないものは見れども見えないのです。
科学的に証明されたことも,日常の経験的事実も,彼自身が納得しなければ,「何言ってやがるんだ」のひと言でおしまいです。「自分勝手」という意味では無く,成人は「自分流」でしか物事を見ないということです。言い方を変えれば,成人学習者とは,自分自身観に基づいて世界を見る「自己中心的な学習者」なのです。

(2)  自己目標設定と自己評価の原則

自分のみたいものだけを見、聞きたいものだけを聞くという特性は,学習にも適用されます。それ故,成人は自分が納得しないものは受け入れません。成人の学習指導には「自己納得の原則」が不可欠です。どんなに価値があろうと,科学的に証明されたものであろうと,成人は自分が納得しないものには耳を貸さないということです。なんでこんな分かり切ったことが承服できないのか,と思うこともあるのですが,それが大人の限界です。時に,答は初めから決まっているのです。
それゆえ、指導に当たっては,指導者の目標を押し付けても旨く行きません。指導目標を本人が納得できるよう説明上の工夫や配慮が大事になります。指導目標と各人の学習目標が重なるように設定することが重要です。
それゆえ、大きな目標を立てておくといろいろな角度からの解釈が可能になるので、納得してもらいやすくなります。大目標は「まちづくり」とし、「まちづくり」のために何が必要かはそれぞれが判断するというような工夫です。もちろん、学習成果の評価についても,他者の評価よりは,自分が納得できるか,否かが問題の中心です。自分の評価が世間の評価と一致したときが成人指導の“幸福”ですが,そうは問屋が卸さない場合が多いことは周知の通りです。自己目標、自己納得、自己評価が成人指導の基本です。

2  経験豊かな学習者

(1) 「個人差」の多様化

成人の人生経験は多様です。結果的に知識も,技術も、考え方も,生きる姿勢も多様です。過去の経験は,学習にプラスの場合もあれば,マイナスの場合もあります。経験が多様である分,個人差も多様になります。したがって、子どもの場合に比べて、学習集団を一律に扱うことは出来ないということです。実際には,決して簡単ではありませんが,小グループに分散したり、一人一人の事情に耳傾けながら、「個別学習援助の原則」に配慮することが重要になります。

(2) 過去の経験の学習への「干渉」

人々の過去の経験がこれからの学習にプラスに働くと想定できる場合は何よりの幸せです。過去の生活体験を重視し,それを参考にしたり,引き合いに出したり,応用したりすれば,指導はより具体的なものになります。学習者にとっても過去の経験と比較・対照できればより理解がしやすくなります。良きにつけ,悪しきにつけ,成人の指導には過去の経験を十分に配慮した「生活体験重視の原則」が不可欠です。
ところが,過去の体験は,未来の学習にとって全てが参考になるわけではありません。過去に身に付けたことが,新しい学習の阻害条件となる場合も多いのです。それが学習への「干渉」です。「学習への干渉」とは、過去の経験が新しい学習を邪魔することです。従来の価値観や,思い込みや,無知や,誤解が災いして、新しい知識も考え方も受け付けないのです。一度身に付いたやり方,考え方,感じ方を払拭することは容易ではありません。技術的には自己流で身につけた「くせ」などが一例です。ゴルフのスイングでも,泳ぎ方でも,コーチに修正されている方々をご覧になったこともあるでしょう。
また,やり方や考え方では,“柳の下にどじょうがいる”と思い込んだり、“アツモノに懲りてなますを吹く”ほど臆病になるのも一種の干渉です。
子どもの場合には、人生経験が浅い分だけ,この種の思い込みはありません。それゆえ,子どもはタブラ・ラサ:「白紙」の状態であると言われ,「干渉」や「抵抗」が少ないので、新しい学習が入りやすいのです。だからこそ,幼少年の教育は初めが肝心なのです。何もないところにあるべきことを育てて行くことを、教育学は「形成」と呼びます。ところが大人の学習には、時々,2段階が必要になります。最初は,「今までのものを否定し,払拭する過程」、つぎに、「新しい考え方を受け入れる過程」です。これまでの自分を変えるわけですから,教育学では、一般に「変革」と呼びます。「変革」は「形成」より困難であると言われるのはそのためです。

3  機能主義的・現実主義的学習者

(1) 問題解決学習の原則

成人学習者は「学習者」であると同時に「生活者」です。純粋に,学習のための学習、興味・関心を満たすための学習も存在しますが,通常は,生活のなかから学習の課題が生まれて来ます。当然、課題は解決されなければなりません。成人が関わる学習の多くは「問題解決学習」なのです。翻って,問題の解決に導けない指導者は尊敬されず、学習は評価されないということになります。成人の学習が「機能主義」的であるとはそういうことです。成人は現実と戦っています。彼らは「現実主義的学習者」なのです。それゆえ,学習は道具であり,手段であり,別の目的を達成するための「機能」に過ぎないのです。
生涯学習の多くは,ものの原理を研究する「理学部」であるよりは,原理の応用を研究する「工学部」に似ています。「原理・原論」より「応用・解決」を求めているからです。それゆえ,学校教育をそのまま当てはめても社会教育にはなりません。「教えるべきこと」よりは「学びたいこと」を優先しなければならないのです。成人学習において,「象牙の塔」における学問のための学問が歓迎されないのはそのためです。成人は「ハウ・ツー」を決してばかにしません。多くの場合,分かりやすい,すぐ使える「ハウ・ツー」こそが成人学習の目的になるのです。

(2) 学習成果応用の原則

成人にとって学んだことは生活に生かして初めて価値があります。心理学から園芸講座まで学習成果を生活に応用することが原則です。それゆえ,大部分の学習成果は自分に返って来ます。学習成果は「私益」です。生涯学習に受益者負担の原則が大事なのはそのためです。従来の行政主導の社会教育は多くの学習機会を税金丸抱えで実施して来ました。学習者の得るところは大きかったと思いますが,税金を投じた学習の成果は社会に還元されることは皆無に近かったのです。「私益」は特別の工夫をしない限り、「共益」や「公益」には繋がりません。「機能主義的学習者」は自分に役立つ機能を求めています。社会や他者のことよりは自分のことが先です。「現実主義的学習者」の学習の目的は「私益」です。それゆえ、彼らに「共益」や「公益」への貢献を求めることは求める方の考え方に無理があります。社会教育や生涯学習の学習成果を社会に還元することを意図するならば,初めからその意図を表に出して講座を組まない限り、実現しません。
それはフルタイムで,給料をもらって,市民の役に立つことを考えている役場や市役所の職員の仕事です。昨今,はやりのボランティアの振興にしても,学習成果の社会還元にしても,簡単に「機能主義的学習者」を動かすことはできません。まず「塊より始めよ」です。自分たちが先頭に立つこと無く,「まちづくりボランティア」とか「市民協同」とか行っているところに現状の最大の問題があります。「市役所」とは「市民の役に立つことを考えて実践する人々のいるところ」です。日本社会にもボランティアは,当然可能ですが,持続的で責任あるボランティア活動を推進するためには、社会が物心両面で支援することが不可欠です。市民の貢献を評価し,具体的な支援を謳った「ボランティア振興法(条例)」の制定が前提です。役所のかけ声だけで,旺盛に自分の暮らしの改善を求めている「現実主義的学習者」が役場や市役所の下請けに甘んじることはないでしょう。

112号 お知らせ

1 第28回中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会
会場:福岡県立社会教育総合センター
(〒811-2402福岡県篠栗町金出3350-2、JR九州篠栗線篠栗駅下車、
-092-947-3511)
日時:前夜祭-2009年5月15日(金)19:00-
事例発表-5月16日(土)10:15-17:00
特別企画-5月17日(日)9;00-12:00

2  拙著新刊「「『変わってしまった女』と『変わりたくない男』? 男女共同参画ノート」完成しました。3冊以上ご注文の方は東京の出版社から直送の手続きをとりますのでご希望の方はお知らせ下さい。

3  6月に入りましたら福岡県立社会教育総合センターにおいて「生涯学習フォーラムin福岡」を再開します。「中・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会;28年の歴史に学ぶ」、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。

§MESSAGE TO AND FROM§
お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。

鳥取県大山町 山田 晋 様
お便りに保育園の立派な卒園式に多くの親が感動して、「大人の背中を見て子どもは育つ」時代から「子どもの背中を見て大人が育つ時代」の到来かも、とありました。同感ですね。子どもを変えて見せて,初めて大人が変わるのかも知れません。学校が地域を支援するのか,それとも地域が学校を支援するのか。
私は,学校が変って,その結果,子どもが変わった時だけ,家庭も地域もみんな変わって行くと考えています。学校が中心の国だということがユニークな日本の特性ですね。

山口県宇部市  赤田博夫 様
山口県セミナーパーク研修生同窓会のお世話ありがとうございました。思いがけない方々の飛び入り参加も得て,充実した研修になったと思います。各人の活動報告に夢中で耳傾けていたらあっという間の夕暮れ,折角の青海島の海を眺めることも忘れていました。研修とはかくあるべきですね。林さんのご好意によるFM放送への出演も新鮮な刺激でした。後期高齢者の熟年ディスクジョッキーがなぜにあれほどお元気なのか、日々の勉強、リスナーとの社会的交流が人間の活力を維持・向上させていることが実感として分かりました。
後輩として大いに期するところがありました。「動くこと」,「やってみること」「犬も歩かねば,棒にもあたらない」ですね。

編集後記;「じたばた」がカギ
新年度はどこも忙しい。現役のみなさんは今年度の仕事の準備中であり、人事異動があり、入学式があり、初心者研修が始まり、新事業の打ち合せが終わるのは今月末のことであろう。
この時自由業は辛い。注文が来ないからやることがない。当然、遠い先のやることはあるのだが、当面の具体的な宿題は全て完了し,新しい「締め切り」はない。「締め切り」がなければ凡人は動けない。年度末の忙しさにかまけて4月の活動を準備していなかったため行く所もない。忙しく駆け回っているであろう知人に会いに行く理由も見つからない。「小人は閑居して不善をなす」、とまでは落ち込まないが、閑居して無為・不調に陥ることは防ぎようがない。週2回の英語ボランティアの指導だけが唯一の救いであった。
そんな時、歯医者さんで待たされて、時間つぶしに雑誌を見た。今年のプロ野球はどこが勝つかという専門家の解説記事が載っていた。結論は、各チームのピッチャー次第であるということであった。中でも調子が悪くなった時に、とにかく“自分でじたばたしてなんとか本調子に戻ろうともがき苦しむピッチャーの多いチームが勝つだろう”ということであった。“俺のことが書いてある”と思った。不調と暇に振り回されて“じたばた“の努力が足りないと言われたようだった。4月の第1週から“じたばた”を始めて見た。市民学習ネットワーク」の事務局を訪ねて、25年前の資料を読み始めた。福岡県立社会教育総合センターへも足を運んで、初期のころの九州地区生涯学習実践研究交流会の発表資料も調べてみた。少しずつ原稿が進んだ。巻頭小論はその一部である。不調のときの“じたばた”を止めない。野球に限らず、“今日の全力は明日の最善に繋がる”ということなのだろう。
4月18-19日にようやく外出・講義の機会が巡って来た。山口の研修生のみなさんとの同窓会である。長門市でFM放送のシルバー・ディスクジョッキーをなさっている方のお誘いで日曜の朝の2時間番組に出演させていただいた。また、同窓会では,「成人学習者の特性」について講義を担当した。執筆中の原稿の展望が開け,自分の本分に立ち返る効果があった。現場は誠にありがたい。現場がなければ,自分は早晩老いて死ぬ,と確信した新年度であった。