発行日:平成21年6月
発行者 三浦清一郎
「生涯現役」とはなにかーその意味と意義
1 キーワードは「元気」,「活動」、「社会参画」です。
「現役」の「現」は「今」、「役」は「役割」または「役目」です。それゆえ、「生涯現役とは、文字通り,「現に,今も、役割がある」という意味になります。当然,役目を果たすにはお元気でなければ務まりません。
時代は疑いなく高齢社会の真っただ中になりました。それでも、人間の寿命から考えて、100歳を超えたような方は極めて稀ですから、ただ「お元気でそこにいるだけでいい」という存在感の重い方々もいらっしゃいます。これら極めて長命な方々は,すでに現世の活動を離れた場合でも,十分に人間としての役割や責任を果たしている存在であることは疑いありません。「長生きも芸の内」とは、「お元気で生き続けることが社会的意義を持つ」という意味に解すべきなのだと思います。今のところ100歳は例外中の例外の寿命の地平線ですから,「ニュースになり得て」、人々の「励みになり得る」のです。まして、しいのみ学園の曻地三郎先生や聖路加病院の日野原重明先生のように超高齢で、しかも現役であるという方々はめったにいらっしゃらない例外です。上記のお二人の例からも明らかなように,「ご長命」ということと「現役」という二つの要素は別々であるところに注目すべきでしょう。
通常,「現役」には役割が伴い,役割には社会的義務と責任を伴います。しかも、それらの役割を果たすために社会的に活動を続けることが前提になります。したがって、「現役」の「役」は、「社会的役割と活動が連続した用語」であると想定すべきでしょう。「生涯現役」とは、社会が設定した定年の一線を越えて,老いてなお「社会的役割と活動に連続して関わっている」ということになるでしょう。
もちろん、社会的役割とは自分以外の他者を前提とし、社会への参画を想定しています。お元気に日々を生き、最後まで自立した活動を続けるということだけでも、困難で,尊いことですが,社会貢献を続けることは更に一層の困難を要します。自分のためだけに限定された活動、家族の中だけで展開される活動だけでは,他者や社会を積極的に支えることはできません。「生涯現役」は、自立の人生を生きたその上に,さらに、社会を支えて,今なお,現役であるということです。まさに凄まじいエネルギーと意志が無ければ可能ではありません。「元気」,「活動」,「社会参画」の3つのキーワードが満たされて初めて「生涯現役」なのです。
2 老後をお元気に生きるだけでは「生涯現役」ではありません
「現役」の反語・対語は「隠居・隠棲」・「引退」などですね。隠居も,引退も特定の対象との関係を止めることを前提にしています。「仕事から引退する」とか「息子に任せて隠居する」と言います。時には,趣味のテニスやゴルフから「引退」するなどとも言いますが,通常は,隠居も引退も、世間や社会を前提にし、労働や社会的人間関係を対象とした「概念」です。年をとっても、お元気で,生き生きと暮らすことは素晴らしいことですが,社会貢献を続けることは更に一段と素晴らしい事です。上記の分析が正しく,社会参画が「現役」概念の前提であるとすれば、老後をお元気に生きるだけでは「生涯健康」ではあっても,「生涯現役」ではありません。広辞苑に、現役とは「常備兵」のこととあり、「ある職務に従事しているもの」とあるのも、「現役」と「社会的役割」は切り離せないということでしょう。
3 「生涯現役」とは,定年や子育て責任の終了後も、「社会参画を持続する生き方」を言います
「現役」とは、「現在,ある職務に従事していること」を意味するということであれば,社会に関わり続けるという意味になります。定年で職を離れた場合でも,当然,社会的「責任」や「役割」と関わり続けるという意味を含んでいます。「現役」か「現役でないか」にこだわるのは、高齢社会を切り抜けるカギの一つが高齢者の社会参画である事は明らかだからです。少子化が続く中で,高齢者が社会への貢献を続けることが出来れば,子ども世代、孫世代への負担を減らすことができます。社会に対する貢献度を問題にするのは、高齢者の幸せの観点だけからではありません。社会の活力と存続に関わっているからです。
「現役」を問題にするからと言って、種々の理由によって,具体的に社会に貢献できない人々の存在を無視するつもりは毛頭ありません。障害や病気によって,自分の意志に関わらず社会に参画できない方々がいらっしゃることは十分承知しています。
それでも、筆者は社会のお役に立つことを重視しています。「役に立ちたい」という思いを尊んでいます。ましてそれを実行に移している方々こそ「一隅を照らす」「国の宝」(伝教大師)であるというお考えに賛同しています。文明の進化,福祉の充実,豊かになった日本のお蔭で人権も平等もほぼ保障されるようになりました。しかし、それは全て社会を支えている構成員の働きがあっての結果です。それを「当然」と思わず,「お蔭さま」と思いたいと思っています。それ故にこそ,「生涯現役」は尊いのです。
それゆえ、障害や老いに関わらず、社会に貢献し続ける方々を正当に評価しないのは問題だと考えています。人権とか平等とか人間の存在に関する普遍的な価値論を持ち出すと,如何なる理由によっても人間のあり方を「評価・区別」する考え方は批判されがちですが,社会を支えている構成員と社会に支えられている構成員は明らかに違うのです。前者がいなければ,後者は存在しようがないからです。これほど自明なことでも「差別主義者」だと言われないかと恐れながら書いています。ましてや,「安楽余生」論のはびこる日本においては,老後は引退して楽しく暮らすのが当然だという風潮に満たされています。結果的に,老いてなお、社会貢献を続ける人々に対する評価は足りないのです。日本はどこかおかしいのではないかと思いながら書いています。
社会との関係を断って,自分だけの生活を主とし,安楽な隠居生活を趣味・娯楽・お稽古事のたぐいで埋めている人々を,本書の「生涯現役」論に含めないのはそのためです。「お元気なだけでは生涯現役とは呼ばない」と言い切っているのもそれが理由です。ニートのような若者を批判して来たのも,そのような若者を庇護し続ける家族を批判して来たのも同じ発想からです。社会を支えている人々と社会から支えてもらっている人とでは違うのです。日本は一方で平等や人権を達成しましたが,他方では、勤労や貢献や奉仕を大切にする心を失っていないでしょうか?自己実現や自分らしさが強調される一方、「お蔭さま」を忘れ,「一隅を照らす方々」を軽視し,安楽な余生や「パンとサーカス・趣味やグルメ」に明け暮れる人々をもてはやし,社会を支えている人々の顕彰を忘れているのではないでしょうか?
言うまでもなく、社会システムは無数の役割と責任で支えられています。「生涯現役」の概念は、社会を「支える」という役割と責任を前提としているということです。それゆえ、筆者の考えでは「生涯現役」とは,定年や子育て責任の終了後も、「社会参加と社会貢献を持続する生き方」を意味します。
4 大人はみんな「自分流」です
もちろん、「参加」の仕方,「貢献の仕方」は,「自分流」です。人生の多様な経験を考慮すれば,「自分流」にならざるを得ないのです。生涯現役のあり方もそれぞれのやり方でいいのですが,一生懸命生きても,趣味を楽しんで生きても,社会との関わりを失えば,「生涯現役」と呼ぶべきではない、のです。安楽余生の福祉や趣味・お稽古事の高齢者教育に慣れ切った日本人には「酷」に聞こえるかも知れませんが,高齢者の生き方はもはや個人的な問題であると同時に,社会の問題ともなったのです。高齢者が余生を無為に過ごすか,あるいは自分のやりたいことだけを、やりたいようにやって,楽をして暮らせば,若い世代の負担を増やす一方です。
日本の高齢社会は,すでに高齢者を社会に「寄生」させることには耐え得ないのです。社会から「隠居」せず、最後まで社会の役割にも、責任にも関わろうとする意志と実践こそが筆者の「現役」論です。
ことわざが言うように「長生きも芸の内」ですから,隠居して生きようと趣味に生きようと,お元気に老後を過ごすことは、消極的な「老衰」に比べれば,実にお見事なことですが,それだけでは筆者の「生涯現役」論には適合しません。ましてや,後進の世代に「負担」をかけて,年金や介護を社会に寄りかかって,自分だけは「パンとサーカス」に耽溺して生きるという姿勢は「安楽余生論」の典型的生き方です。社会への貢献を止めず,ましてや老いてなお納税を続けるということはお見事としか言いようがありません。
5 「生涯現役」は「生涯学習」に接続します
生涯現役と生涯学習は「同義語」ではありませんが,生涯現役は詰まるところ生涯学習に接続します。生涯学習をしているだけでは,生涯現役である証にはなりませんが,より良い生涯現役のために生涯学習は不可欠です。生涯現役は心身の活動を意味し,生涯学習とは心身の機能のよりよい使い方を意味するからです。それゆえ、生涯現役とは人生の最後まで頭も身体も,気も使い続けようとする生き方を意味し、生涯学習とは、心身の最良の使い方の学習を意味します。心身の機能をもっとも有効に使おうとしたとき、研修も,訓練も、勉強も,学習も不可欠であることはいうまでもありません。学習の必要は老いも,若きも同じです。
幼少年期の生きる力の基本は「体力」と「耐性」ですが,高齢者の基本は「頭」=「判断力」と「意志」です。
幼少年期は指導に耐える条件が第1で,高齢期は己の生涯学習を企画し,生涯現役を実践し続ける状況判断と志次第で老後の暮らしが決まります。熟年期の処方が「読み、書き、体操、ボランティア」であることは変わらないまでも、若い時の第1順位「体力」は、熟年期に入ると「意志と意欲」という精神的なものに取って代わられるということに注目する必要があるでしょう。生涯学習にしても,生涯現役にしても,日々の実践処方を実行するか、否かは精神が決定するということなのです。したがって,高齢期の最大の問題は「精神の固定化」だということになります。
6 「生涯現役」も、「生涯学習」も「質」が基本です
肉体の健康も,社会への参画も、気力の充実も、本人の意志と判断を欠いては成り立たないからです。生涯現役の実践は,日々の工夫なしに維持することは出来ません。当然、あらゆる活動の根幹は人間の質に関わっています。心身の健康も、人間関係も,暮らしの経済活動も、余暇時間で楽しむ趣味や娯楽の中身も全て本人の質に関係し,「生涯学習の成否」を反映することになります。人生のあらゆることは一人一人の生き方にかかっています。そして、一人一人の生き方は、全て各人の関心と意欲にかかっています。人々の日々の暮らしを変えるのも、生き方を決するのも、最後は、言葉のもっとも広い意味で、本人の学習に帰結することは言うまでもないことでしょう。
「自分流」の危機
-「格差」の拡大-
自己選択の宿命
生涯学習は個人の向上と幸福に関わっています。「向上と幸福」の条件とは、常識的に、健康と元気と、やり甲斐と「居甲斐」の総合されたものでしょう。この時、「自分流」が生み出す最大の危機は人生の「格差」です。発生源は「生涯学習」です。特に、高齢社会においては、老後の生涯学習が人々の明暗を分けることになります。
生涯スポーツを選んだ高齢者と選ばなかった高齢者では、身体機能維持に関わる明暗を分け、結果的に健康の明暗を分け、人々との交流の機会を持てないので社交の明暗も分けることになります。趣味の余暇活動でも、ボランティアの社会貢献活動でも、生涯学習を選んだ人と選ばなかった人との「格差」は無限大に広がります。総称して、「生涯学習格差」と呼んでいいと思いますが、具体的な中身は、学習した人としなかった人の知識の格差、情報機器の活用をマスターした人としなかった人の情報格差、自らの健康維持実践をした人としなかった人の健康格差、活動を通して仲間ができた人と活動に参加しなかった人の交流格差などが想定されます。これらの「格差」は結果的に、個人の生き甲斐や自尊感情にも「格差」を生じると考えて間違いないでしょう。自分流の生き方というのは自由を前提にしています。そしてこの自由こそが格差発生の遠因です。自由は「選択」を前提にしているからです。生涯学習のスローガンは「いつでも、だれでも、どこでも、なんでも」です。時と所を選ばず,人もテーマも自由ということです。それゆえ、「選択の自由」は「選択の成否」を分けるということになります。
つい最近まで、学校教育は「ゆとり」をうたい文句に,土曜日を休みにしました。(裏の事実は教職員の週休2日制であったことは周知の通りです。)
学校週5日制は「ゆとりと充実」がキャッチフレーズでした。ここにも「ゆとり」が「充実」に繋がるという安易な楽観論があります。もちろん、ゆとりは必ずしも充実には繋がりません。子どもの日々を充実させるためには、充実を実現する条件やプログラムが必要であり,子どもの参加が不可欠です。休みになった土曜日は,その使い方次第で、「充実」にも,反対の「停滞」にもなりうるのです。自由選択が格差を生み出すという原理は同じです。
自分流の最大の欠点は、選択する人と選択しなかった人との明暗を分けることです。自由である以上、選択する人もいれば選択しない人も出るということです。自分流ですから、選択するもしないも、原則的に本人の責任ですが、選択結果の格差が大きくなり過ぎると“自己責任”とか、“自業自得”だということで放置するわけにはいかないでしょう。多くの個人の不幸は必ず社会問題にならざるを得ないのです。閉じこもりや認知症や寝たきりを予見しながら放置すれば、現行システムではつけは社会に廻って来るのです。
それゆえ、社会的に見れば、生涯学習を選んだ国民の多い社会とそうでない社会では、当然、活力に差が出ます。社会の負担も、未来の展望も、子ども達の活力も、技術革新の工夫も、生涯学習はあらゆる面で国際競争の条件を変えてしまうのです。生涯学習の成否は個人の幸不幸を分けるだけでなく、国家の存立にも関わるという点で、生涯学習は立国の条件になるのです。
高齢者の2分法-「悪の生涯現役」
高齢者問題を研究する過程で筆者が考えた分類の仮説は基本的に2分法でした。例えば,老いても、なお、お元気を保っておられる高齢者と病気がちで活力を失いつつある高齢者に分けました。「健康老人」と「健康を損ないつつある老人」という2分法です。
「健康な老人」もまた、2つに分けることができます。日々健康で,老後の活動を活発に行なっている高齢者と、病弱ではなくても,ほとんどの活動を停止して日々を消極的・受動的に暮らしている高齢者です。「活動する高齢者」と「活動を止めてしまった消極的な高齢者」の2分法です。「健康」と「活動」は、当然、同義ではなく,意志が介在しなければ,両者は必ずしも直結しないのです。
さらに、同じ活動でも、その内容において,何らかの形で社会に貢献を続け,社会を支える側に立っている高齢者と、逆に,活動的であっても、年金から医療まで、社会に支えてもらって、「パンとサーカス」三昧で好きに暮らしている気ままな高齢者があります。前者は「貢献する高齢者」であり、後者は「依存する高齢者」です。
健康を基準にしても,活動や社会貢献を基準にしても,高齢者を分けるものは,「活力」と「積極性」の有無です。それゆえ、前回出版した筆者の高齢者問題の著書には「The Active Senior」というタイトルをつけました。当然、いろいろな違いはあっても,「アクティブであること」は、「まえむき」であり、「活力」も「積極性」も「善」であるという前提で考えた事でした。大人はみんな自分流であり,老いてなおそれぞれが前向きに積極的に生きるということは「いいことだ」という前提で書きました。「老い」が「衰え」と同義である以上、積極的姿勢は衰えを予防し得る「善」で,消極性は衰えを加速する「悪」または最低限「マイナス」であると考えたのです。
ところが、近年,鈴木康央氏の研究を読んで心底驚きました。鈴木氏は高齢者を「いい老人」と「悪い老人」に分類しているのです。ご本人も「そんな分類は誰もしたことが無い」と述べておられますが、まさに「目から鱗」の発想で一読の価値があります。
これまで筆者のイメージには心身の機能が衰えて行く高齢者は「労りや配慮の対象」であり、「保護や世話の対象」であり、「弱り行く存在」でした。社会がある種の負担や被害を被るとしても,高齢者の「活力」の喪失であったり,病弱の故の世話の必要の増大というように,やむを得ぬ理由が背景にあるのであろうという分析でした。ところが鈴木氏の分類を読めば,確かに悪い老人は存在するのです。鈴木氏は,悪い老人は「有害」であり,悪い老人が増えると文明は滅ぶと言い切っています。一読後,文字通り,高齢者の見方がかわり、世の中への接し方が変わりました。「悪」にもまた「生涯現役」があるのです。悪事や意地悪を働く性悪老人はまさに「現役」で社会に「害」を及ぼしているのです。老いてもなお,社会との関わりを断たない「生涯現役」が全て「善」だと言うことにはならないのです。
筆者は、定年後の活動を分類して、「自分の趣味や実益を追求する活動者」と「社会に貢献し続ける活動者」に2分して来ましたが、鈴木氏の提案を読めば、活動者は3分法になります。最後は、「社会に害をなす活動者」もいるということです。
鈴木氏は言います。
「いい老人も悪い老人も早起きだ。
しかし、いい老人は一日を感謝の心で過ごし,悪い老人は起きるなり悪態をつき他人や世の中を呪って一日を終る。
・ ・・・・・
いい老人は優しく,控えめだが,悪い老人は自己中心でエゲツない。いい老人は正直だが,悪い老人は疑い深く思いやりがない。
・ ・・・・・
ここのところ、悪い老人が増えている。
意識的にいい老人になろうとしていないから悪い老人になる。『老人社会』が訪れた今,その違いをはっきりと知り,いい老人になろうとすることが,悪い老人にならない唯一の方法である。」(*1)
次に、本書の「悪い老人」の「章」の見出しのいくつかを紹介しておきます。
「悪い老人は悪いことしか考えない」(p.158)
「悪い老人は無意識に悪いことをする」(p.163)
「悪い老人の天敵はいい老人」(p.173)
「老人社会のアウトローが若い人を滅ぼす」(p.180)
「悪い老人が『悪人』と手を結ぶとき」(p.188)
広島県尾道市には「介護サービス」つきの刑務支所が存在する(*2)というくだりを読んでまさに何をか言わんやという感想でした。悪の生涯現役もまた可能であるということなのです。「生涯現役」が歓迎されるべきだとは一概に言えないということです。
(*1)鈴木康央、いい老人悪い老人、毎日新聞社、2004、pp.8-9
(*2)同上、p.38
「100の方法」を実践しても、「100歳までは生きられない」
日野原重明著「100歳になるための100の方法」批判
「100歳になるための100の方法」というタイトルに魅されて,日野原重明先生のご本を図書館から借り出して来ました。表紙を飾る先生のお元気そうなお写真と一行書きに提案された「100のキーワード」は多くの方々に勇気を与えるものと思います。しかし、高齢社会の「生き方」理論、熟年期の生涯学習理論として読んだとき,素朴な疑問がたくさん湧いて来ました。筆者はいまだ男の平均寿命にも達していない“若造”ですから、日野原先生の圧倒的にお元気な活躍ぶりとご長命の前にすくみ上がっているのですが、魅力的なタイトルとは別に,この本にもられた100の提案は、「概念」の上でも「方法論」の上でも、ばらばらでかつ曖昧なところが多いと思いました。恐らくは、出版を担当した編集者の「知恵」で、タイトルが先にできて,100の方法を後からそろえなければならなかったのだろうと想像しています。各雑誌にお書きになったものを組み合わせて作られた本ですから,最初から、「100歳になるための100の方法」という課題意識はなく,テーマ設定もしていないというのが実情であったでしょう。編集者の浅知恵が日野原先生の著者としての誠実さと論理の一貫性を傷つけた一例だと思います。
筆者の感想は以下の通りです。
第一に、「100の方法を実践しても」、「100歳までは生きられない」ことは明らかです。
第二に、無理をしてタイトルにそろえようとしたため、100歳まで生きる条件とは関係のない方法上の項目が含まれています。
第三に、日々守るべきことが100もあったら、どれから先にするか,普通人は悩みます。全部がやれるはずはないからです。そうなれば、「考え方」も「実践方法」も優先順位の決定をしなければならないと思うでしょう。100の方法は少なくても10分の1に整理し直すことが一般人のために必要だと感じました。
本文で語られていることを含めて、ここに語られていることは「日野原先生の生き方」についての感想であって、一般人の「100歳までの生き方」の方法上の理論ではないからです。先生ご自身は「新老人の会」のリーフレットに実りある人生のために“と題して三つの提案をされています。一つ,「愛し愛されること」,二つ,「創ること」、三つ,「耐えること」です。こちらの方が遥かに具体的ですっきりした提案ではないでしょうか。出版社の浅知恵が先生の清名を汚したのではないかと惜しみます。
ご無礼を承知で、筆者の主たる批判と分析を箇条書きで列挙すれば,次のようになるでしょう。
1 タイトルと中身が違う
魅力的なタイトルの命名は,ご本人か,出版社(文芸春秋)かは知りませんが,「100の方法を実践しても」、「100歳までは生きられない」ということです。先生ご自身がご指摘になっているように「寿命もまた運命(第60項)」であり、「寿命とは与えられた時間(第70項)」だからです。努力や心がけだけでは長寿を全うできないことは明らかです。病気にも,事故にも「運」があります。稀に見るご長命を前提にして「寿命は天命である」と言われたら「運」に恵まれない一般人は立つ瀬がありません。寿命が運命であり、天から与えられたものであると考えるならば、「100の方法を実践しても」、「100歳までは生きられない」ということです。
2 実行できなければ方法ではない
特別に実践が難しいことを「方法」として提案しても、「方法論」を提示したことにはなりません。
たとえば「老化するのは当たり前だから楽に受けとめる(第40項)」、「死は終わりではなく,始まり(第81項)」などは、そのように思いたいと思っても凡人には極めて難しいことです。ましてや老いの衰えで日々痛みや病気と戦っている人に「生老病死」の宿命を楽に受けとめよ,と言うのは、まさしく,言うは易く,行うは難し」の典型ではないでしょうか?
死もまた一般人にとっては「終わり」です。それゆえ、「始まり」だと助言を受けても、一体,何が始まるのか,神や仏を信じて来世を信じよ,と言うのであれば、信仰心を持てないものは長生きはできないという意味になるのか。答は決して簡単ではないでしょう。
3 実施目標、実践課題には優先順位が不可欠
100の方法の優先順位が分かりません。当然,ご提案の100の項目は重要度が異なり、全部が同等で、並列ではないと思います。「なるべく大股で歩くように心がける(第33項)」とか、「心あたたかな病院が欲しいという思い(第99項)」などは,他の項目と同じ比重であるとは考えられません。ご助言はそれぞれに大事ですが,普通の人間に全部は実行できません。ご本のタイトルとして「100歳になるための100の方法」は実に「ごろ」がいいのですが,このタイトルを付けたが故に、多すぎる「100の方法」を掲げざるを得なくなったのではないでしょうか?結果的に、「100の方法」では助言が多すぎるだけではなく、論理の構成も,実践すべきことの優先順位も破壊してしまったのです。無理やり100の方法を列挙したことがそもそもの間違いなのです。
4 概念も方法も共通化が不可欠です
ご助言の「概念」と「方法論」については,ご本人の個人的な体験を越えて、実践上の具体的で厳密な定義と方法が必要です。たとえば、「人生に迫力を与えてくれる思い(第65項)」,「これからの生き方の証(第68項)」、「生き方の哲学(第69項)」などを持つことが大事であるとのご指摘ですが,「迫力とは何か」、「証とは何か」、「哲学は具体的に何を指すのか」など、先生ご自身の思いをできるだけ,一般のわれわれと共通化することが必要だと思いました。それが「方法論」ではないでしょうか?
人間はそれぞれに生き方の違う個体です。特に大人は、考え方も生活態度も個性的で、「自分流」に生きる存在であることをお認めになるのであれば,日野原流を抽象化して、一般原理と個別応用法の整理が不可欠ではないでしょうか?圧倒的なご活躍とご長命を前提にすれば,先生の存在感とご活躍の事実が先行して,生半可な論理では立ち向かえません。しかし、明らかなことは、分析モデルは日野原先生ご自身ではなく,普通の一般人に置かなければならないということです。日野原先生が100歳近くまで生きられるにあたってこうした、ということと一般人が100歳まで生きるために何が必要か,ということは当然違うからです。「私はこう生きた」,ということと「みんなもそう生きるべきだ」ということは重なるところと重ならないところが出るのもまた,当然だからです。
5 方法の命はプログラムです
方法の命はプログラムです。概念も方法も日々の暮らしに「翻訳」できて,初めて一般化の役に立ちます。実践のプログラムに応用できなければ、方法と呼ぶべきではないでしょう。
本書における日野原理論は、時に概念が抽象的で、導きだされる意味が特定できないものが多いのです。解釈が多様になればプログラムを特定することはできません。「真心を持って行動する」とか「激しく生きるパッションを持つ」などがその一例です。
「真心」についても、「パッション」についても、具体的なプログラムを特定できない方法を方法と呼んではならないと思います。
「100歳まで生きる方法」には,「基本的には自分の家で死ぬことが一番望ましい(第57項)、「人とお別れができる最後がいい(第58項)」とか、「介護した母からはなかったありがとうのひと言(第86項)」など長寿に関係のない提言も含まれています。
6 例外はあくまでも例外です
個体の特別な個性を一般化することには無理があります。先生は「楽しくやっているからストレスにはならない」とおっしゃっていますが,楽しくやっても,やり甲斐のあることをやっても、普通の人間は,疲れる時は疲れます。「やらされたから」余計に疲れるということはあるでしょうが、「たのしくやったから」疲れない、ということにはなりません。「疲れ」は果たして「気」の持ち方だけの問題でしょうか?
「疲れというのはね,睡眠時間が少ないとか,栄養が足りないとかじゃなくて,やっぱり『気』です(P.182)」。日野原先生には「気があれば疲れない」ということが事実であっても,同じことが一般人に当てはまるとは限らないのです。また、先生は、「健康は上手な順応の仕方が大切なんだと思います。忙しい人とか夜勤の人とか,まず進んでそのスタイルに順応する。(p.183)・・」と指摘されていますが,われわれが「自分一人では生きていない」、という事実を考えただけでも,「自分の状況に順応する」だけでは,ストレスも疲れも癒すことは出来ないのです。加えて、子どもとの共通の時間を持てないとか,妻との対話の時間もないとか,疲労以外の生活問題も発生するのです。先生がお勧めになる「楽しい」ということも、「本当にこうしたい」と思うことも,極めて重要だと思いますが,その「願いを叶えること」も,その「願いの通りに生きて疲れを知らない」、ということも実際には決して簡単ではないのです。
7 生涯学習の視点で日野原提案を読む
-熟年者が活力を保つための6か条-
以下は、僭越を承知の上で、筆者の自分流で日野原提案を生涯学習の視点で、主たる方法論と思われるものに分類してみました。もちろん,先生のご提案の中には、どの分類にも当てはめにくいものも多くあります。それらの項目こそが一般化できない項目;先生の主観的、個性的な生き方です。それゆえ、生き方の教訓や生涯学習の方法論として採用することは出来ません。
筆者が想定したような分類であれば,先生のご提案の具体的背景までは十分に分析できないとしても,大項目だけは、共通項として日々の実践や暮らしの考え方として拾い上げることが出来るのではないでしょうか?
(1) 挑戦と試行
やったことのないことをやる―新しいことを始める
75歳からでも何かあたらしことを始める(第1項)
今までの習慣を多少変えてみることを試みる(第3項)
若い人と同じように生きて行こうとする意欲を燃やす(第9項)
処女地と思って自分の資源を発掘しよう(第11項)
少なくとも10年間新しいことに挑戦しよう(第19項)
(2) 読み書き体操
意識して頭と身体のエキササイズの時間を作ることを心がける(第6項)
二つ以上のことを同時に行なうことは,老化防止の手段(第4項)
(3) 若い人に接する
年をとればとるほど楽しい刺激が必要(第14項)
自分が年をとったら若い人からパワーをもらう(第18項)
老人が他所の子どもにも教えられるシステムを作ろう(第31項)
子ども世代と祖父母世代が同じことを一緒にやる(第48項)
(4) ボランティアと社会参加
共に生きて行けることに感謝する(第12項)
引退しても家に籠らずに社会とのかかわりを持とう(第30項)
(5) 自分の「快適感覚」に正直に
-「楽しいこと」,「望んでいること」,「こうしたい」ということを大事にする。
やってみて気持のいい方をとる(第13項)
年をとればとるほど楽しい刺激が必要(第14項)
自分が望んでやっていることは、身体中が元気になる(第41項)
本当に「こうしたい」というスピリットがあればふしぎな力が湧く(第45項)
(6) 何ごとも目標行動-精神の達成感
どんな状況にあっても日々の行動に目標を持つ(第7項)
若い人と同じように生きて行こうとする意欲を燃やす(第9項)
少なくても10年間新しいことに挑戦しよう(第19項)
精神的な達成感が健康法(第20項)
死とは最後の生き方の挑戦(第22項)
これからどう生きるか真剣に考える(34項)
人生に迫力を与えてくれる思い(第65項)
これからの生き方の証(第68項)
生き方の哲学(第69項)
お知らせ
1 第90回生涯学習フォーラムinふくおか
第1部 論文発表:
「自分自身観の危機:アイデンティ・クライシス-安定の崩壊,均衡の喪失、納得の不在」(三浦清一郎)
第2部 事例研究:
当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。
2 生活のなかの学問:公開講座
むなかた市民学習ネットワーク・サマーセミナー
-新しい実験に,夏休みの8/3(月)-8/7(金)に暮らしの中の社会学・教育学・心理学・女性学・老年学の特別講座を企画しました。講師は三浦清一郎です。-
1 8/7(金)の老年学:「自分らしく生き,自分らしく人生を終わる
-人生の終末のための準備講座-」だけを公開します。ご希望の方はどうぞご参加下さい。予約は不要です。
2 時間帯は休憩を挟んで午前9:30-11:30です。
3 参加費は市民学習ネットワーク事業に準じ、資料代100円、受講料400円です。当日にお支払い下さい。
4 会場は市民活動交流館「メイトム」(宗像ユリックスとなり)です。
(宗像市久原180)
§MESSAGE TO AND FROM§
お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。
沖縄県 大城節子 様
過分のお心遣い有り難うございました。「大人はみんな自分流」の執筆を急いでおります。生涯現役のあり方にしても、現代の「養生訓」にしても原理を取り出して日々の方法論に「翻訳」することの難しさを痛感しております。若い頃に書いた自著を読み返し、その難解さと具体性の欠如に今更ながら呆れております。恐らくは今でもそうなのでしょうが、大学における研究者の論文指導のあり方に大いに問題があると感じております。
福岡県嘉麻市 實藤美智子 様
お便り励みになりました。また、過分の郵便切手を頂きありがたく使わせていただきます。筑豊地区の校長会の研修でお目にかかれるでしょうか?
山口県山口市 赤田博夫 様
セミナーパークの研修が始まりました。あなたの撒いた種が育っています。日本はいまだ共稼ぎ支援のための「学童保育」と少子化防止や男女共同参画のための子育て支援の区別さえついていませんが,やがて養育を社会化し,学校教育と地域における子育て支援が両輪となる「保教育」の時代は必ず来ます。優れた学校経営者が始めなければ始める人がいません。
次回の研修の帰途には寄らせていただこうと考えています。
編集後記-美しき晩年
過日の山口研修の折りに、戦前からの波瀾万丈の人生を生きて来られた先輩とゆっくりとお話しをする機会が持てました。小生も思わず問わず語りに我が来し方をお話しする結果になりました。振り返ってみるとお互いに何といろいろなことがあったことでしょう。
疲れ果て心づくしのもてなしに
問わず語りに語りしことども
来し方を思い出しつつ語りつつ
今日あることのありがたきかな
お別れに先輩がしみじみと言われた、「晩年は美しくしないとね!」という言葉は次の我が執筆の宿題になりました。
「晩年は美しくないとね!」とあなたは言う
何を、どうすれば美しいのか、未だ答え得ず
「美しき晩年」、「豊かな晩年」、「晩節をけがさない生き方」こそ、言うは易く、行うは難い。具体的にこれからどうすればいいのか?生涯学習では、必ず「原理」と「方法」論が問われます。
美しき晩年のために「健康」が大事だと言えば、「病弱の人」の「晩年」は美しくないのか?「活動」が大事だと言えば、「活動」のない晩年は「豊か」ではないのか?法律に違反せず、節度を保って生き続ければ、それだけで晩節を全うしたことになるのか?考えれば考えるほど「美しい晩年」の条件は難しいのです。「人それぞれ」違うだろうということでは答えたことにはなりません。“人間止めますか,それともクスリ止めますか“というポスターの通り、介護現場には,判断力も,選択能力も失った方々が沢山います。介護の現場では、「進歩主義は幻想」,「自立した個人も幻想」と書いてあります。当然,認知症の老人にとって生涯学習も幻想でしょう!更には,「踊りを見せにきたグループに泣かんばかり感激して玄関まで見送り,見えなくなると『今日のは下手じゃったのう』と言う“慰問大好き老人”もいる」そうです(*1)。何たる身勝手で、醜悪な言い草でしょうか。しかし,このような老人でも鈴木氏が指摘した「悪の老人(*2)」に比べればまだマシなのでしょう。心身が老い衰えれば、「美しい晩年」もまた幻想だと思わざるを得ない報告も山ほどあるのです。生涯現役の生き方が多くの人間に可能でないように,介護の現実もまた全ての人間の実相ではないということに注意しなければなりません。
おそらく、生涯現役を希求する人々の心象には「要介護」に「転落」するのではないかという潜在的恐怖があるのだと思います。老いることは「自然に帰ること」,「子どもに回帰すること」だと言われても,「だれもが通る道」だと分かっていても,「現役」として生きて来た自分にとってはまさしく「転落」以外の何ものでもないからです。「大人はみんな自分流」である以上。いろいろな見方があって当然ですが,木をみて森を見ず,小さな森をみて,人間全体の森林を見落すことのないようにしたいものです。あるべき「美しき晩年」は、考えれば考えるほど、難しい宿題をいただいたものだと感じています。
(*1)三好春樹、女と男の老い方講座、ビジネス社、2001、p.184
(*2)鈴木康央、いい老人悪い老人、毎日新聞社、2004