「風の便り」(第115号)

発行日:平成21年7月
発行者 三浦清一郎

逆転!-「教育の順序性」

1 子どもは体力-老人は気力
(1) 子どもは体力

子どもと年寄では「生きる力」を養う「教育の順序性」が逆転することに気付きました。子どもは体力から鍛え,年寄は気力、意志力が「生きる力」のカギを握ると考えるようになりました。「生きる力」の構成要因は老若男女同じです。しかし、人間における肉体と精神の発達が連続しながらも,相対的に分離・独立したものであることを考慮すると、子どもと年寄では「生きる力」の構成要因の重要度が逆転し,その鍛え方の順序性が逆転するのです。子どもは「体力」がカギ、高齢者は体力や健康を維持しようという「理解力」と「意志力」がカギになります。
子どもはいまだ霊長類ヒト科の動物である割合が高いですから,生きる条件の基本は体力です。この点他の動物たちと共通しています。脆弱な体力では、人間の子どもも,他の動物たちも生きて行くことは極めて困難になります。まして、生物学的にも社会学的にも社会への依存期間の長い人間の子どもは、一人前になるまでにさまざまな学習とトレーニングが不可欠になります。
私は、子どもの生きる力は体力を基礎工事として、耐性が土台、学力は柱、社会性は壁で、EQに代表される感情の領域は人間性の屋根を形成すると比喩を用いて説明して来ました。もちろん,人間の発達に建築工程のような、「基礎→土台→柱」というような作業工程の厳密な分業や順序性はないとしても,基礎が鍛えられていなければ,学力も、礼節も,人を思いやる感受性も、これら全てを実践する実行力も育てることは出来ないという意味での「教育の順序性」はあるのです。心身ともにへなへなである子どもの現状を鍛え直すことなく、「学力」だけを上げることは困難です。まして昨今の教育界に流行している「豊かな心」を育てることなど夢のまた夢です。基礎工事も土台もできていないのにどうして柱が立ち、屋根を乗せることが出来るでしょうか!薩摩の「郷中教育」が「山坂達者」という心身の行動耐性のトレーニングから始めているのは誠に卓見だったと言わなければならないのです。
子どもの知識,精神に関わる判断力は,彼らの養育過程・教育過程に長い時間をかけ、しつけ-教育-学習-訓練などを通しておいおい育てて行くことになります。この時、養育と教育のあらゆる過程に登場し、集中と持続を支える基が体力と耐性なのです。

(2) 年寄は意志力
一方,高齢者はすでに知識、精神ともに人間が持つべき判断力の根拠を為すものの形成は終わりました。しかし、生物学上の体力は加齢とともに衰弱・下降を始めます。それゆえ、高齢者の課題は,衰弱の防止,下降のスピードを抑止することになります。多くの高齢者学級を見て来た中で,溌剌として気力・体力ともに充実した高齢者は,老後における自らの心身の鍛錬を怠っていない方々であるということに気付きました。そうした方々の現在をあらしめているのは精神であって、体力や耐性ではありません。衰弱と下降を抑制するものは自己鍛錬であることは明らかですが、自己鍛錬を己に課しているのは,個々の高齢者の意志と気力の賜物であることも明らかです。だとすれば、高齢期において,もっとも重要なのは高齢者の意志と精神のあり方になります。体力も耐性も、学力ですらも、精神の命ずるところに従っています。
高齢者はすでに人生のプロセスにおいて、それぞれが心身の各部門の「生きる力」を形成して来ました。しかし、定年期を境目に彼らを支えて来た生物学上の機能は確実に衰え始めます。老いの自覚も、衰えの認識も、精神の働きによって可能になります。「老い」が「衰弱」と「死」に向っての降下である以上,衰えを止めることは何人にもできません。ただし、「衰弱」の速度をゆるめ、病気や事故を予防することはある程度まで可能です。これまで推奨して来た「生涯現役」論も,「読み,書き、体操,ボランティア」の方法論も、「老い」から生じる「衰弱」の抑止を目標としています。
「抑止」には「抑止活動」が不可欠です。この時,高齢者の日々の生き方を決定するものは、彼らの頭脳と精神に蓄積された意志と気力と人生に対する展望です。老後をどのように生きるかを決めるのは,彼らの頭だからです。成長期の子どもにとって最も重要であった体力は、高齢期には精神の支配下に置かれるのです。高齢者の肉体に鍛錬を命じるのは精神であり,活動の継続を実行するのは彼の意志力なのです。高齢者の肉体を放置すれば、衰弱は一気に加速することでしょう。肉体を放置するな,と命じるのも意志力です。高齢者が「生きる力」を維持しようという意志と判断を欠けば,高齢者は滅びるしかなく、社会はそうした高齢者を抱えて活力の喪失と高負担を免れることは出来ないのです。
筆者は「元気だから活動するのではない、活動を続けるからお元気なのだ」という「負荷の教育論」を提唱して来ました。この時、高齢者に活動を命じるものこそが彼らの「意志」なのです。

2 「生きる力」の「構成要因」

子どもの「生きる力」も、年寄のそれも,老若男女、「生きる力」を構成する要因は同じです。

(1) 体力がなければあらゆる生き物は死にます

鳥や獣を含め,あらゆる生き物はその身体機能を維持する「体力」がなくなるとき死にます。鳥は落ち,獣は森の奥深くに帰ります。もちろん,われわれの人生も終わります。命あるものは,体力が尽きた時に命が尽きることを前提とすれば,「生きる力」の第1条件は「体力」であるということになります。
子どもに「生きる力」を育てる時も,高齢者の「生きる力」を保持する時も,第1の対象は「体力」です。もちろん、子どもは体力の錬成、高齢者は体力の維持ということになります。

(2) がまんする力(耐性)が育っていなければ社会生活は出来ません

「がまん」は集中と持続の基本条件です。約束事を守るための基本条件でもあります。がまんの出来ない子どもは勉強も運動も出来ません。なにごとも続けること集中することが出来なければ,あらゆる学習と訓練が困難になります。人間が鳥や獣と別れて社会を作った時,ルールに従い,約束を守ることを前提にしました。社会規範を守るということは,やりたくてもやらない,やりたくなくても役割や責任は果たさなければならないということです。それゆえ、各人の耐性は社会が存続する基盤であり,社会的能力を支えるもっとも重要な条件です。現在,子どもたちに起こっている学級崩壊や授業崩壊や,不登校や引き蘢りの基本原因も欲求不満耐性の欠損であることは明らかです。がまんの出来ない多くの子どもが人間関係や日常環境の「負荷」に耐えられず、状況に適応できないのも「耐える力」が不足しているからです。がまんが出来なければ,思うようにならぬ人生は全てが「辛さ」と「困難」に変わってしまうことは当然なのです。
「新老人の会」の日野原重明会長が75歳以上の高齢者のお元気の方法に「愛し愛されること」,「創めること」、「耐えること」を謳っているのは誠に慧眼だと思います。「愛し愛されること」は「居甲斐」の課題,「創めること」は、活動の継続や精神的固定化防止の課題だと思いますが,最後の「耐えること」は歳をとっても欲求不満耐性と行動耐性は不可欠であるというご指摘でしょう。多くの元気老人もまた日々さまざまなことに耐えていることが想像できます。心身の老衰はもとより,人生は思うに任せぬことをもっとも知り抜いているのが高齢者世代です。しかも、かれらの「耐える力」は,多少の困難は困難と思わないところが達人の達人たる所以なのです。耐える力がなければ,余生は不満だらけの悲惨なものになることは火を見るより明らかです。

(3) 学力が付いていなければ職業の要求には応えられません

学力は高度文明社会におけるあらゆる職業の基本であり、社会生活の基礎です。特に、青少年期の学業は各人の人生を決定するほどに重要ですから、教育と言えば、学校教育を意味するくらいに人々の関心を集めています。学校だけでは足りなくて、塾や予備校での教育は危機意識の高い保護者に支持され、子どもの教育費は家族の大きな負担となっていることは周知の事実です。家計の余裕度を測る目安に、家計に占める食費の割合:「エンゲル係数」が有名ですが、近年では、家計に占める教育費の割合:「エンジェル係数」が話題になるくらいに「学力」に対する関心は高いのです。
しかし、子どもに勉強しろ、と言っても、高齢者には、通常、勉強しろとは言いません。むしろ楽しいこと探してマイペースで暮らしなさい、という助言が主流です。筆者は高齢者の学力こそが、健康の保持にも、生き甲斐の創造にも重要な働きをしていると確信しています。認知症の予防から生活習慣病の予防まで生涯学習がその力をいかんなく発揮するのは高齢者教育においてなのです。

(4) しつけは他者のためであり、共同生活には「規範」が不可欠です

多くの育児書に「しつけ」はその子のためだと書いてあります。子ども中心主義、児童中心主義のつまずきの出発点と言っていいでしょう。社会が他者との共同で成り立っている以上、しつけも規範の教育もその子自身のためである前に、共同のためであり、他者と気持よく暮らすための条件であることは明らかです。「しつけ」は他者のためであり、共同の前提であると認識できないところに現代日本の大きな間違いがありました。幼少年期の教育が子ども自身の個性の発揮や創造性の涵養に力点が置かれるのは、その子自身の発達に目が行き過ぎるからであり、他者との共同を前提とすれば、「為すべきこと」、「やってはならないこと」に力点が置かれる筈なのです。それでなくても子どもを「宝」と認識する「子宝の風土」は、初めから子ども第一主義が貫徹されており、意図的に社会を前面に位置付けない限り、子ども中心に流れることは風土の自然だからです。「うり食めば子ども思うゆ、栗食めばましてしのばゆ」と山上憶良が歌ったのも、子どもが親の意識の第一主題であり、感情の最優先課題であることの象徴だったのです。「子どもは何よりも価値がある」という思想を、「それでも半人前なのだ」という 「抑止力」の認識なしに教育場面に持ち込めば子どもの欲求は野放しになります。戦後日本のしつけは根本的な再点検が必要なのです。

(5) 子どもの終点、高齢者の出発点

人間の人間らしさは「感情値」(EQ)に現れ,具体的には、やさしさや思いやりや共感能力として表れます。また、感情を実践に“翻訳する”媒介は判断と意志の力です。感性と「意志力」が人間らしさの原点と言っていいでしょう。子どもの教育の終点であり、高齢者の生涯学習の出発点になります。
子どもは青少年期に学んだことを基礎にして、人生の経験の中で「感情値」や「意志力」を育てて行きます。これに対して高齢者は現在の「意志力」・「気力」が出発点です。老後の人生の生き方を判断し、実践を命じるのは、彼の意志力と気力だからです

3 子どもは「他律」,高齢者は「自律」

子どもの鍛錬は基本的に教育を原点とする「他律」に依存し,高齢期の鍛錬は自覚と意欲を原点とする「自律」に依存するようになるのです。義務教育は、徹底した子どもの身体能力の育成に重点を置くべきです。翻って、高齢者には運転免許証の交付時に似た健康教育の義務的履修が必要になるかも知れません。
生涯学習の基本原理を国民の選択に任せた以上,高齢期の自己鍛錬は本人の選択によるしかありません。生涯学習を選択した高齢者と選択しなかった高齢者の格差は恐ろしいまでに広がることになります。自己鍛錬を怠らない高齢者と何もしない高齢者では、医療費も,介護費も恐ろしいまでに拡大することでしょう。

4 平均寿命と健康寿命の格差

平均寿命と健康寿命の差を見ただけでも,日本の高齢者政策は失敗である事は明らかでしょう。平均寿命は伸びても,健康寿命が遥かに短いのは福祉政策の失敗であり,高齢者を対象とした生涯学習・生涯スポーツ振興策の失敗といえるでしょう。高齢社会では生涯学習は疑いなく立国の条件に関わるのです。生涯学習に付いても,ボランティアに付いても,政策上の補助金を出して奨励するくらいのことをしなければこの国の高齢者の没落を止めることは出来ないのです。世間が受け入れた「安楽余生」の発想も、福祉分野がとった保護や「パンとサーカス」に傾いた政策も大いなる間違いでした。高齢者の生活保障を手厚くする以上に高齢者の生涯学習・自己鍛錬の奨励に資金を投入すべきなのです。日本の社会教育も生涯学習の振興策も、高齢者に関する限りは、状況の診断を誤り,解決に逆行した重大な錯覚に陥っているのです。

5 教育の順序性(Educational Sequence)

(1)子どもは体力から精神へと鍛えて行きます-子どもは「未熟」が前提です

子どものしつけも教育も、彼らの「未熟」が前提です。しかし、日本の風土は「未熟」以前に、「子宝のかけがえのない価値」に注目しました。日本の親が「保護者」と呼ばれるのは、誠に卓越した発想で、「保護」を親の第1任務とした、ということを意味しています。「子宝」は、まず何よりも大事であり、生活の中心に位置し、何を置いても守るべき存在であったからです。彼らはいまだ自分のことも自分では出来ず、自分のことも自分では決められず、稼ぎには遠く、学用品も日常品も全て保護者が調達しなければなりません。しつけや教育より保護が先行したのです。彼らは発達の途上にあり、「未熟」なのですが、それ故にこそ、自立のトレーニングに増して、保護が先行したということです。過剰な保護は過剰な世話となり過剰な指示となり、優先処遇となり、最大限の受容となって表れたのです。しつけより保護、教育より歓心を買うことが優先することになるのです。
提示した「生きる力」の構造図において、子どもは体力から精神へと鍛えて行きます。「生きる力」の育成を子どもの精神:「主体性」や「自主性」を前提にしてはならないということです。子どもの「生きる力」の下部構造が体力と耐性で,上部構造が学力や感受性になります。体力と耐性は子どもの中で合一して、通常、「行動耐性」とか、「欲求不満耐性」とか呼ばれます。「がまんすること」の基本であり、「集中」や「持続」の基本になります。それゆえ、幼少年期に、体力と耐性がなければ、あらゆる学習・訓練はほぼ不可能です。基礎を固め、土台を置いたあとでなければ、柱や屋根を作るのは無理だということです。

(2)下部構造を鍛える保護者や先生方の視点が決定的に重要になります

教育の「順序性」を決めるのは保護者や先生方になります。それゆえ、下部構造を鍛える保護者や先生方の視点が決定的に重要になります。戦後教育は、「子どもの人権」や「子どもの権利」概念に振り回されて、子どもの自己決定権、自己決定力を過大に評価し、家庭も学校も、下部構造を鍛える発想が誠に不十分でした。肉体に「負荷」をかけることも、精神に「負荷」をかけることも、子どもにとっては「辛いこと」ですから、避けようとするのは当然ですが、避ければ、体力も耐性も育たないのです。子どもの主張や欲求を過大に評価した結果、戦後育児にも、学校教育にも、心身の鍛錬のプログラムが決定的に不足しました。基礎や土台が出来ていないのに、学力や規範意識や豊かな感性を育てることなど出来る筈はなかったのです。欠けていたのは「負荷の教育論」です。

(3)高齢者にとっては教育の「順序性」が逆転します

子どもの教育は、「子どもの必要」の前に「発達上の必要」が存在し、それは「社会の必要」を前提としています。一方、高齢者はすでにそれぞれの能力と環境条件の範囲で、個々人の「生きる力」を育て終わりました。それゆえ、高齢者の課題は加齢とともに衰え始める心身の機能を如何に保持・存続させ得るか、ということになります。保持・存続の方法を決定するのは、高齢者の自覚と精神です。意志力と言ってもいいかもしれません。したがって、子どもと違って、高齢者にとっては教育の「順序性」が逆転します。一度獲得した体力も学力も、養生や学習や老後のトレーニング次第であることは当然だからです。高齢者は上部構造の意志・判断力・人間関係・学力が、老衰する体力と耐性の保持に直結しています。「読み・書き・体操・ボランティア」も全ては意志に基づいた「活動」だからです。子どもの教育が体力や耐性に依存するのに反し、高齢者の学習は、高齢者の意志に依存するのです。高齢者にとっては教育の「順序性」が子どもと逆転するのです。

(4)老後の活力の保持が可能であるか,否かは、本人の意志次第だということです
高齢社会の結論は、生涯学習が高齢者の健康も、活動も、生涯現役としての姿勢と実践も左右するということです。当然、医療費も、介護費も高齢者の自覚次第で大きく変わってくるということです。生涯学習は立国の条件に関わるのです。「パンとサーカス」の生涯学習、「安楽余生論」の福祉政策では高齢社会は乗り切れないということです。人々が「自分流」で生きるようになった現代、どのように生きようと「自己責任」であるという原理は変わらないとしても、最後に泣きを見るのは本人であり、その「付け」を払わせられるのは次世代の人々であることは疑いないのです。

「子守り現役」,「草取り現役」も「生涯現役」の内か
1) 前号の論旨
前号の筆者は、「元気」,「活動」,「社会参画」の3つのキーワードが満たされて初めて「生涯現役」である、と書きました。老後をお元気に生きるだけでは「生涯現役」ではない、とも書きました。たとえ、活発に活動されていたとしても、安楽な隠居生活を趣味・娯楽・お稽古事のたぐいで埋めている人々を,「生涯現役」論に含めない、とも書きました。今回、筆者の「生涯現役論」に異論が寄せられました。

2) 異論の要旨

年をとって、社会からは引退したが,家族の病人のために介護の日々に明け暮れていれば,それは「介護現役」で、「生涯現役」につながるものではないのか?同じように,孫のお守りに明け暮れる日々も、庭や畑の草取りを手伝う日々も,それぞれに「子守り現役」,「草取り現役」ではないのか?当然、こうした発想の延長には,主婦は「家事の現役」を死ぬまで務めているのだという主張が待っていることでしょう。
特に,女性の家事論は、社会的労働に匹敵し,近年の夫と妻の間の年金の分割に付いても、家事の社会的評価・経済的評価が確立したことは周知の事実です。
「子守り」も,「介護」も外部に委託すれば,社会的労働になり,家族内で処理すれば,なぜ「生涯現役」とは呼ばないのか?現行のシステムを前提にすれば,
「子守り」も、「介護」もそれらが家族内で処理できなければ,保育所や託児所の
増設は不可欠であり,介護に至っては,施設介護の社会負担は膨大なものになることも明らかです。家族内労働が社会的サービスの代替機能を果たしていることは疑いないのです。それでも「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」などは生涯現役に含めないのか?
批判の背景を慮って代弁すれば上記のようになると思います。
論理的な整理が実に難しい問題でしたが、筆者の結論は変わりません。「生涯現役」は「共益(公益)」にかかわる概念であり、問題となった「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」などは「私事-私益」の問題だからです。私事は個人の「選択」の問題なのです。

3) 私事は「選択」-私益と共益(公益)

かつて筆者は「豊津寺子屋」の有料化を提案した時、「学童保育」の無償化は「間違い」であると論じました。出産も育児もその基本は「私事」だからです。養育が「私事」である故に,自分のお子さんは自らの手で育てたいという家族(母)がいることはこの時代にあっても厳然たる事実です。
それゆえ,保育所も,学童保育も、もちろん「豊津寺子屋」も、「私事」の「社会化」であることは明らかなのです。福岡市の吉田現市長は学童保育の無償化を掲げたことによって選挙戦を勝ち抜いたと聞き及んでいますが,当選後,やはり,「無償化」は間違っていなかった、住
民におもねる施策ではなかったと考えているでしょうか。
子育てが「私事」である以上、私事を完全な社会負担で実行するという理屈が通る筈はないのです。「社会負担」とは全体が拠出した税金による「負担」という意味です。それゆえ、保育所や学童保育を「ただ」にすれば,すべての養育の責任を保護者が負っている家族に対して、政治も行政も税金の公平還元の原理を説明できるはずはないからです。社会が女性の就労や社会参画を必要としている以上,応分の支援,一定の誘導政策が不可欠であるとしても、母性保護や男女共同参画の旗印の下に「私益」と「共益(公益)」を混同することは間違いです。学童保育の無償化問題はあちこちで社会的摩擦を引き起こしましたが、それらは戦後日本に特有の「エゴ」の肥大化であり,「権利」の暴走の結果です。「私事」の実現を社会に依存して、応分の「受益者負担」の義務にさえ応じたくないという日本人の論理も神経もどうかしているのです。「私益」は原則として自己責任であり,私事は本人の「選択」の問題なのです。

4) 私事の外部化もまた「選択」の問題です

「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」などは「私事」-「私益」の問題です。現代のシステムを前提にすれば,これらの「私事」は外部化することが可能です。現に,自己負担で「外部化」している家族も多いことでしょう。私事は「選択」の問題だからです。
また,これらの家族内の必要事項を果たした上に、社会貢献に関わっている方もいることでしょう。それぞれの時間と労力を工夫して,私益と公益(共益)を両立させている方々も存在する筈です。「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」と同時に、「社会貢献の現役」を共存させている場合です。
草取りも,子守りも私事であり、私事は自分や家族のために限定された活動であり,「私益」の枠を出ることはありません。その意味では,自分のための趣味・娯楽・お稽古事と同じです。追求しているのは「私益」です。
しかし,社会貢献の生涯現役はみんなのお役に立つのです。生涯現役は「共益(公益)」を促進するという一点で私事の活動とは異なるのです。
生涯現役でありたくても、それが叶わぬ人々がいることは分かっております。また、世の中にさまざまな不公平や差別が存在していることも承知していますが,私たちは、税金を納め,さまざまな労役を提供している方々にもう少し尊敬の念を払うべきではないでしょうか。社会を支えている構成員と社会に支えられている構成員は明らかに違うのです。前者がいなければ,後者は存在しようがないからです。筆者が「社会参画」に拘るのもそのためであり、生涯現役が「私益」ではなく,「共益(公益)」を促進することに意義を認めるのもそのためです。
世の中には「主婦」であり,同時に、ボランティアである人が多数います。孫のお守をしながら、社会貢献を志す方々もいる筈です。「私益」の追求と「共益(公益)」の促進を同時に追求しているのです。
前回も論じましたが,生涯を通してお元気なのは、「生涯健康」です。生涯を通して趣味や娯楽を追求しているのは「生涯活動」です。もちろん、「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」も「生涯活動」であることは言うまでもありません。しかし、活動の中に「公益(共益)への貢献」がなければ「生涯現役」と呼ぶべきではないのです。お元気で、活動的であっても、己の「パンとサーカス」の追求にのみ忙しい趣味人を「生涯現役」に含めるべきではないのです。また、老いてなお、「子守り現役」,「草取り現役」、「介護現役」,「家事現役」など家族への貢献を続ける方々は天晴れではありますが、「私益」の追求に留まっている限り、「生涯活動」ではあっても、「生涯現役」の十分条件を満たすことにはならないのです。もちろん、子守りや草取りや介護が多忙の故に、気持ちはあっても社会貢献などできるはずはないではないか、というお叱りのご意見もあることでしょう。しかし、私たちが承知している通り、生老病死を始め、人生には人智ではどうにもならぬ仕方のないことが沢山あるのです。当然日々の実践も、多くの制約条件や「運」に囲まれているのです。かく言う筆者も、己が病気になったり、妻が倒れたりすれば、直ちに「生涯現役」を引退せざるを得ないことは自明なのです。「生涯現役」が、「生涯健康」と「生涯活動」の上に成立していることは明らかなのです。
第90回生涯学習フォーラムレポート
「負荷の教育」論
「熟年者マナビ塾」の存在証明
久々に福岡フォーラムを再開いたしました。事例は福岡県飯塚市熟年者マナビ塾調査(益田茂、福岡県立社会教育総合センター)、論文発表は「自分自身観(アイデンティティ)の形成プロセス(三浦清一郎)」でした。飯塚市は、公立小学校の中に高齢者を対象とした「熟年者マナビ塾」を設置して3年目になります。「マナビ塾」は、高齢者の心身の機能の維持・向上と学校に対する支援活動を同時に遂行するための仕組みとして出発しました。原理は「負荷」の教育論です。「負荷」を感じさせないように「負荷」をかけるのが、支援する公民館関係者の腕の見せ所になります。この度、過去2年間の塾生に対する調査結果の分析がまとまりました。統計上の作業は福岡県立社会教育総合センターの益田茂さんと飯塚市中央公民館の松尾一機さんのお手を煩わせました。結果は表題のとおり、マナビ塾が準備した「活動」が多くの参加者の「生き甲斐」や「活力」を生み出す根源となったことが証明されました。高齢者を対象とした生涯学習事業がそのプログラムと運営方法いかんで、個人の幸福はもとより、医療費の削減にも、健康寿命の伸長にも大いに貢献することが明らかになりました。日本の高齢者「対策」行政を再点検する重要な資料になると確信しております。
I 「マナビ塾」を通して、あなたの日常に「新しいこと」がはじまりましたか?

1 参加者の圧倒的多数(87%)に「新しいこと」が始まっています。

熟年期の活力停滞の遠因は引退により「職業」がもたらす日常刻々の「変化」から遠ざかり,世間との縁が希薄化することによって「多様な交流」・「新しい出会い」から遠ざかることです。それゆえ,日常の生活に「社会的活動」をプログラム化できない限り、生活リズム・スケジュールのマンネリ化は避け難く,活力停滞の遠因となります。それゆえ、「マナビ塾」のような特別のシステムに頼らない限り、常に心身への新しい刺激を得て,本人の興味・関心・挑戦のスピリットを維持することは容易ではありません。「マナビ塾」が、参加者に日常の「鮮度」と「挑戦」をもたらすことが出来なければ,結果として、活力を発電する活動が停滞し、老いとともに心身の機能・エネルギーは低下せざるを得なくなります。それゆえ、設問1は「新しいことに巡り会ったか」、「それはどんなことなのか」、「なぜ新しいと感じるのか」等々になります。

2  新しいことの「具体的内容」はほぼ以下のように分類できます。

(1)生活の新しいリズムとスケジュールを実感している
(2)これまで存在しなかった「交流」・・新しい友人、知人、子どもたちとの関係が始まっている
(3)新しい趣味・活動に楽しみ・喜びを感じている
(4)生活の張り、生き甲斐、やり甲斐、緊張感を感じるようになっている
II  「マナビ塾」活動を通して、これまで「できなかったこと」が「できるようになった」という自覚はありますか?

1 78%の回答者が「出来るようになったこと」は豊富です、と答えました。

設問2は「機能快」の実感を尋ねています。老若男女に関わらず、これまで「出来なかったこと」が「出来るようになる」ことは嬉しいに決まっています。心身両面に亘って、ものごとの達成感,成就感、会得感こそが「機能快」の源泉だからです。「マナビ塾」が「学ぶ」ためのシステムである以上,その大目的の一つは「機能快」を保障することです。「マナビ塾」の役割が各人に評価・認知されるためには、学んだ結果として達成感を裏付けする「証拠」が必要になります。「出来るようになったこと」が絶えず存在し続けることは参加者の「機能快」を保障する不可欠の条件です。したがって、設問2は「出来るようになったこと」は何か、です。

2 「出来るようになったこと」は下記のように分類できます

(1) 読み書きを始め脳の活性化を自覚している
(2) 交流・社交が開始され、質量ともに向上している
(3) 工作・手作業の結果、手先の動作が活性化している
(4) 運動能力・身体能力・行動耐性が向上している

III   「マナビ塾」活動に参加してから、ご自分の元気や活力が向上したと思いますか?

1 「マナビ塾」は「活力」を発電し、「お元気」を創造しています(元気になったと回答した者88%)

設問3は「活動経過」の全体的・全般的評価です。既存の調査法の事例が、ある「定点」で、個別かつ一般的表現で聞こうとしている「感覚的自己評価」を、「活力」に限定して、「活動経過」を振り返って、総括的に質問するものです。当然,回答が「否定的」であれば、本人はすでに活動プログラムから脱落している筈ですが、もし、残留している参加者の中でその大半が「活力」の向上を感じていないようであれば,カリキュラムが悪いか、あるいはまた、その運営が適切でないことを物語っていることになります。それゆえ、設問3は「マナビ塾」は「お元気をもたらしているか」、です。

2 「活力」向上の自覚症状は次のような分野で顕著になっています

(1) 読み書きなど知的能力の向上
(2) 身体的能力の向上
(3) 各種作品の制作など作業能力の向上
(4) 意欲、好奇心、やる気の向上
(5) 生活リズム、生活スケジュールなど時間に対する感覚の変化
(6) 日常生活の行動範囲の拡大

IV   「マナビ塾」活動に参加して、あなたの人間関係は広がりましたか?

1  大部分の参加者(92%)の人間関係は多方面に着実に広がっています。
2  子どもとの交流が新鮮であると指摘されています

熟年期の心理的危機は「孤立」と「孤独」です。「孤立」も「孤独」も人間関係の希薄化と密接に関わっていることはいうまでもありません。人々は引退に伴って「職縁」が切れ,「結社の縁」から遠ざかります。「労働」に代わる新しい「活動」に移行できなければ、過去の人間関係は必然的に途絶えることになります。また、早い時点で、地域社会にデビューすることが出来なければ,スムーズに地縁のネットワークに加わることも出きません。血縁は比較相対的に昔のようには頼りにはならない時代です。それゆえ,熟年期の「孤立」と「孤独」を回避する手だては「生涯学習の縁」や「ボランティアの縁」によって新しい関係を作るしか方法がないのです。「マナビ塾」はまさにこれらの「新しい縁」による出会いを準備する仕組みなのです。したがって、設問4は「新しい出会いはありましたか」、「新しい交流は始りましたか」になります。

V  「マナビ塾」活動に参加して、楽しいと思うことは何でしょうか?

設問5は、「活動」の魅力,カリキュラムの成否を尋ねています。「活動」が心身の活力維持に役立つであろうことは,すでに仮説として想定済みですが,日常に「役立つ」だけでは「マナビ塾」は「十分条件」まで満たしたことにはなりません。人々が「活動」の中から楽しいことを列挙できるようであれば、カリキュラムは成功です。自分の好きな活動に説明を加えて,その理由や感想が書かれるようであればさらに成功の度合いは高いと判断していいでしょう。設問の5は「楽しいことは何ですか」,です。自由記述の回答総数は145項目に昇りました。

沢山の具体的な「楽しいこと」が指摘されましたが、機能的には以下のように分類が出来ます。

(1) 子どもとの交流の新鮮さが楽しい
(2) 新しい仲間との交流・集団活動が楽しい
(3) 学習・創作活動が楽しい
(4) 自分の貢献や向上が楽しい

VI   「マナビ塾」活動に参加して以来、体調不良で「連続して二日以上」病院にお世話になったことはありますか。

1  「はい」は13%でした。

設問6は生活習慣病、老人病、老人性のけがなどの医療費支出調査を目指しています。2日以上の治療を必要とすることは、健康状態も医療費負担も簡単ではないことを示唆しているでしょう。逆に,2日以上の病院通いがなかったということは,健康状態もよく,医療費負担も少なくて済んでいることの証拠になると思います。「マナビ塾」の参加者の多くが相当の長期にわたって“医者いらず”で過ごすようであれば,「マナビ塾」の健康への貢献度は大きいと考えて差し支えない筈です。設問6は「医者いらずで過ごせましたか」,ということになります。

2 教育委員会は高齢者の健康に貢献していることはデータにより明らかです。「マナビ塾」のお蔭で「元気になった」という回答は随所に見られます。高齢者の教育・社会参加活動は、明らかに医療費・介護費の抑制に著しい貢献をもたらしています。教育行政は、高齢社会における教育と福祉の融合プログラムの重要性を担当部局に提案すべきでしょう。

VII  今後「マナビ塾」で「やってみたいこと」、「挑戦してみたいこと」などがございましたらご自由にご提案下さい。

設問7は「特別プログラム」・「選択プログラム」の豊富化と活動企画の「自主編成」の可能性を探ろうとしました。人々にやりたいことがはっきり自覚され,意識化されてくれば,活動の責任者や企画者が生まれてきます。当然、自主活動の機運も高まってくるでしょう。そこまで行けば「マナビ塾」の「自転」が始るのです。「自転」する組織は「自立」し,「自立」を支えるのは参加者の「活力」です。たくさんの注文が出てくるようであれば,「学び塾」の存在も,その活動カリキュラムも,運営方法も「合格」と言って間違いないでしょう。設問7は「活動」内容・方法に「注文はありますか」です。「注文」や「期待」を通して参加者の意欲を見たいと考えたのです。

回答者の半数以上の人々が「具体的にやってみたいこと」を表明しています。自由記述の回答数は82項目になりました。分類すると下記の通りになります。

(1) 第1種の回答は総合的に前向きで、「何にでも挑戦」したいという姿勢が育っています。
(2) 第2種は分野別・具体的な回答です。

i 人間交流の拡大・・先生方や他の塾生との交流を希望する声が沢山あります。

ii 教育貢献の拡大・・多くの方が、子どもとの交流の種類や質の向上を願っています。

iii 学習や創作活動についての回答は極めて具体的ですが、ばらつきも大きく、「パソコン」、「野外活動」、「料理」、「修学旅行」など具体的な希望メニューは多岐に亘っています。

(*)より詳しいデータが必要な方は、郵送料を添えて、福岡県立社会教育総合センター、益田茂先生までご依頼下さい。(-092-947-3511)

115号お知らせ
第91回生涯学習フォーラムinふくおか
日時:平成21年9月19日(土)15:00-
場所:福岡県立社会教育総合センター(福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2、-092-947-3511)
第1部 論文発表:
「中国・四国・九州地区実践研究交流会28年に見る生涯学習振興政策の課題」(三浦清一郎)

第2部 事例研究:
未来につなげるべき実践:当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。(発表者未定)

編集後記
「暴走老人」-「自分流」の裏側
不適応とライフスタイルのすれ違い

勉強の一環で藤原智美さんの「暴走老人」(藤原智美、文芸春秋、2007)を読みました。分析の視点も具体例も実に面白く、教えられるところがいっぱいでした。主たる結論は、老人たちの今は、彼らが若かった日々に身に付けた人生のスタイルや価値観が、情報化を初めとする圧倒的な社会的条件の変化の中で、思い通りに行かぬ人生に心身の不適応が頻発し、その苛立から思わず「切れて」、暴力的、暴発的な行為に出るのではないか、という指摘でした。個人間のライフスタイルも、世代間のライフスタイルも大いに違って来ているからです。なるほど世間は藤原さんの言うような事例に満ちているのです。しかし思い通りに行かぬ人生にも謙虚に適応している老人も多いのです。筆者が思うに、彼らは自分を主張することが少なく、ある意味で「足る」を知っているのです。

「主体性」の暴走

私は、藤原論に大いに共感しながらも、老人の暴走は、現代の子ども論に繋がる「『主体性』の暴走」に起因しているのではないかと感じています。現代の幸福論は、「自分らしく」を掲げ、「思い通りに生きる」ことを勧めているようです。「取るに足らぬ自分」論、「足る」を知ることの「感謝」論は誰ひとり論じていないと言っても過言ではないでしょう。
換言すれば、「自分が何よりも大事」だと、声高らかに言っているのです。「欲求主義」・「自分主義」すなわち「自分流」の人生こそ第一という主張です。人々の好みも、こだわりも、自分勝手な欲求ですらもが、社会の前面に飛び出し、人権を主張し、「主体性」の大義の基に大手を振ってまかり通っています。
当然、誰もが己の「主体性」を主張すれば、限りある資源、限りある空間、限りある時間を共有して暮らしている共同生活・社会生活は、相反する「主体性」の衝突を避けられなくなります。意見の違いはもとより、生活の中の音でも、においでも、風景でも、しぐさやものの言い方まで、自分の身の回りに自分の気に入らない・嫌いなものがある、ということになります。気に入らないことに囲まれて、いちいち「切れて」いれば、共同生活は成り立ちません。藤原氏によると、老人の暴走の多くは、自分のやり方、自分の生き方に合わなくなった社会的条件や他者の生き方への怒りであり、苛立ではないかということです。
しかし、すでに老人になった筆者の目には、「暴走老人」とは、膨張した主体が思い通りにならぬ現実に八つ当たりをしているとしか見えないのです。取るに足らぬ自分と思えば、腹の立たぬことも、「おれの権利」、「おれの人権」、「おれの主体性」と思った途端に、他人との違いは対立に転化するのです。相手が法律や明白な不文律に反したか否かがはっきりしている場合は、腹も立つでしょうが、藤原さんが挙げている「暴走老人」の例は実に些細なことで「切れて」暴走を起こしているのです。
膨張した「主体」にとって、我が思いに反するものは全て主体性への侵害に映るのではないでしょうか。子どもの場合も同じですが、人生の幸・不幸はがまんの基準次第のところがあります。主体性の肥大化は耐性の低下と平行しているのです。がまんのできる事は辛いことではないのです。逆に、がまんができなければ全ての事柄が「不幸」や「辛さ」に転落するのです。「がまん」のレベルが「辛さ」のレベルを決定しているのです。かつて、非行少年の手記を読んだ中に、「ぼくの思い通りにさせてくれないのは、ぼくを愛してくれていないのだ」という趣旨の発言があって驚かされました。まさに「主体性の暴走」と言うべきでしょう。
それゆえ、思い通りに生きて、「自分流」だからいいんだと言うことにはならないということです。自分流は人生の主体が自分ということですから聞こえはいいのですが、己の「主体性」に拘れば、他の「主体」との衝突は増えます。自分だけを主張すれば、みんなと「合流」することはできません。文句が多すぎても、愚痴が多すぎても世間はあなたを避けて、遠巻きにします。主体的に生きて来た筈なのに、誰も受け入れてくれない、誰も気に留めてくれない、とすれば、主体性を主張した意味を失い、共通項を失うのです。孤独と孤立は避けられず、結果的に疎外感も避けられないのです。怒りの原因も、哀しみの原因も、膨張し過ぎた自我・暴走する主体性にあるのではないでしょうか!?