「風の便り」(第116号)

発行日:平成21年8月
発行者 三浦清一郎
新刊「まえがき」
がんばるのやめますか、それとも人間やめますか

教育の分野で仕事をして来た筆者の人間の見方と医学や介護の分野の方々の人間の見方は、一点で根本的に異なっています。前者は常に「あるべき命」を問題にし,生きる「目的」や「目標」から離れることはできません。後者は,人命の尊厳に立脚し「あるがままの命」を受け入れようとする原理に立っています。本書は、もちろん、人間の生き方を問い,高齢期の「あるべき命」を課題としています。それゆえ、「人間」と「ヒト(霊長類ヒト科の動物)」を区別して考えました。教育が鍛えた精神によって「ヒト」は「人間」となり、時に,不幸にして、その精神を失うことによって「人間」はふたたび「ヒト」に返らざるを得ないのです。本書は「ヒト」が「人間」となり、ひとたび「人間」となった「人間」を「ヒト」に戻さないことを教育の重要課題としました。「生涯現役論」は、そのための方法論や努力のあり方を意味しています。高齢社会では、医療や介護の在り方だけが問われているのではありません。人々の「老い方」が問われているのです。
現在、執筆中のタイトルを決めるのに大いにためらいがありました。参考にしたのは20年近く前に見た麻薬撲滅キャンペーンのポスター;「クスリやめますか、それとも人間やめますか」です。「人間」と「ヒト」を区別して書いていいだろうかという心配があり、老衰の方々や認知症の人々に対する差別だと言われないかという恐怖がありました。しかし、人間の精神を論じ、生涯現役の方法を論じ、自分流の意義を論じるためには、「あるがままの命」と「あるべき命」の弁別を避けて通るわけには行かないと判断いたしました。非礼のないよう、誤解の生じないように十分に注意して書いたつもりですが、それでもご不快に感じられましたら、学問の自由に免じてどうぞ寛容にお許し下さい。
老後の養生、精進,自己教育と自己鍛錬の末に「自分」を失うのであれば、それはそれで仕方がありません。人生には仕方のないことはいくらでもあるのです。しかし,「仕方がない」に至るまでに「判断」と「選択」の意志を持ち続ける努力をしたか,否かが問題なのです。
介護の現場の人々が、老衰の後の私たちのことを「ありのままに」受け入れてくれる、と書いてくれています。医療の現場も同じです。誠にありがたいことです。しかし、老衰の果ての「ありのままの人間」を前提にして、人生の老年期に、無理をして「自立」や「生き甲斐」などを求めなくてもいいのだ、という生き方の結論はどうしても納得できませんでした。
人間の自由は意志の自由に由来し、人間の人間たる所以は「精神」の働きにあると考えるからです。人間を肉体の視点のみで分類すれば、「霊長類ヒト科の動物」であると生物学は断言します。ヒト科の動物と人間を繋いだのは、明らかに誕生後の社会化のトレーニングであり、教育やしつけの努力です。適切な社会化と教育が与えられなければ、ヒトが人間に成れなかった事例は「狼に育てられた子(アーノルド・ゲゼル)」をはじめ、実証的によく知られたところです。
高齢期の生き方を変えることは高齢者の人生を変えるに留まりません。若い世代の人生をも変えることになるのです。
若い世代はどんな風に老いて行く両親を見たいでしょうか。両親が自立して,生き生きと生きれば,家族に活気が満ち、社会の活力が向上し,医療費を抑制することが可能となり,介護費は少なくとも先送りすることができます。
人生50年であった時代の「余生」と人生80年時代の「老後」とでは全く状況が違うのです。第一、余生とは“あまった時間”を意味しています。生涯時間が20年に達した時代の「余生」の概念は,高齢期のスタートにおいて、そもそも生き方を「積極的」に発想する姿勢に欠けています。「隠居」,「遁世」、「閑雅」などの暮らしの「美学」は人生50年時代の産物であり、伝統です。
人生80年時代の定年や子育てのあとは、「二度目の人生」が巡って来た、と考えるべきでしょう。最初の人生と2度目の人生は違っていいし,違った方がいいのかもしれません。「二毛作」と呼んでいる人もいて、言い得て妙というべきでしょう(甲斐良治氏)。農業においても,通常、「二毛作」は「同じものは作らない」のです。
人生に「自立」や「生き甲斐」を求め続けるのは、人間の精神の働きです。もちろん「自立」も「生き甲斐」も、人間の精神が生み出した「あるべき人間」の目標追求を意味しています。
当然、いずれは、人間もまた生物の自然として老衰します。人生を戦っても、戦わなくても、誰もが避けがたく衰えて死にます。われわれが人間に留まることを主張して、どんなにがんばったとしても、老衰の果てに、精神の誇りと機能を失い、やがて「ヒト」に戻って「ありのままの自分」に帰らざるを得ないかも知れません。それゆえ、医療や介護の現場が「ありのままの人間」を受け入れて下さることは誠にありがたいのですが、だからと言って、教育の分野までがんばらなくていいということにはなりません。
ひとたび人間として人生を生き始めた以上、精神の自立を願い、生き甲斐を求めるのは人間の人間たる所以です。老衰に至るまで、人間が人間であるために「戦わなくていい」ということにはならないのです。
老後に元気を失い、健康を害し、精神の働きまで停止することは、想像するだに、何と辛いことでしょうか。また、運良く老後を元気に過ごすことができたとしても、それだけでは「生涯健康」ではあっても,「生涯現役」ではありません。生涯に亘って、己の楽しみにさまざまな趣味を継続したとしても、それだけでは「生涯活動」であって、「生涯現役」ではありません。
社会との関わりを抜きに人間の自立や生き甲斐を保障することは極めて困難です。そしてもちろん、高齢期の自立や生き甲斐を保障せずに,高齢社会の活力を維持することもできません。それゆえ、「二度目の人生」で一番大事なのは,「生涯現役」として社会貢献を続けようとする「意志」と「努力」である、という結論になります。

筆者にとっての「生涯現役」とは,定年や子育て責任の終了後も、「社会参加と社会貢献を持続する生き方」を言います。この時、「現役」とは社会に関わり続けるという意味になります。当然,社会的「責任」や「役割」と関わり続けるという意味を含んでいます。筆者が「現役」か「現役でないか」に拘るのは、老後の生き甲斐を支えるカギが社会との関わりにあり、高齢社会を切り抜ける要因の一つが高齢者の社会参画である事は明らかだからです。少子化が続く中で,高齢者が社会への貢献を続けることが出来れば,子ども世代、孫世代への負担を減らすことができます。社会に対する貢献度を問題にするのは、高齢者の幸せの観点だけからではありません。社会の活力と存続に関わっているからです。
社会を支える人も社会に支えられる人も、ヒトの「命」の重さに変わりはありません。しかし、前者が存在しなければ,後者は存在し得ないのです。日本社会は、社会貢献を推奨し,その努力を諦めない人々を顕彰すべきではないでしょうか。人間が人間であり続けるためには,医療と介護がカギなのではありません。教育と労働がカギなのです。
「現役」を問題にするからと言って、種々の理由によって,具体的に社会に貢献できない人々の存在を無視するつもりは毛頭ありません。障害や病気によって,自分の意志に関わらず社会に参画できない方々がいらっしゃることは十分承知しています。自分自身が老衰によって意志を失い、精神の働きが停止する可能性も自覚しています。
それでも、本書は社会の役に立つことを重視しています。「役に立ちたい」という思いを尊く思います。ましてそれを実行に移している方々こそ「一隅を照らす」「国の宝」(伝教大師)であるという考えに賛同しています。文明の進化,福祉の充実,豊かになった日本のお蔭で人権も平等もほぼ保障されるようになりました。しかし、それは全て社会を支えている構成員の働きがあっての結果です。それを「当然」と思わず,「お蔭さま」と思いたいと思っています。それ故にこそ,高齢者の「生涯現役」は尊いのです。
それゆえ、障害や老いに関わらず、社会に貢献し続ける方々を正当に評価しないのは問題だと考えています。人権とか平等とか人間の存在に関する普遍的・法律上の価値論を持ち出すと,如何なる理由によっても人間のあり方を「評価・区別」する考え方は批判されがちですが,社会を支えている構成員と社会に支えられている構成員は明らかに違うのです。前者がいなければ,後者は存在しようがないからです。これほど自明なことでも「差別主義者」だと言われないかと恐れながら書いています。ましてや,「安楽余生」論の蔓延る日本は,老後は引退して楽しく暮らすのが当然だという風潮に満たされています。結果的に,老いてなお、社会貢献を続ける人々に対する評価が不十分になるのです。どこか日本はおかしいのではないかと思いながら書きました。
社会との関係を断って,自分だけの生活を主とし,安楽な隠居生活を趣味・娯楽・お稽古事のたぐいで埋めている人々を,本書の「生涯現役」論に含めないのはそのためです。学業にも職業にも関わろうとしないニートのような若者を批判して来たのも,そのような若者を庇護し続ける家族や社会を批判して来たのも同じ発想からです。社会を支えている人々は、社会から支えてもらっている人の人権も、権利も支えているのです。日本は、一方で、平等や人権の原理の制度化を達成しましたが,他方では、勤労や貢献や奉仕を大切にする心を軽んじていないでしょうか?自己実現や自分らしさが強調される一方、「おかげさま」を忘れ,「一隅を照らす方々」を軽視し,社会を支えている人々の顕彰を忘れているのではないかと恐れます。
高齢者が辿る美しき晩年とは意志する晩年、「戦う晩年」です。「意志」の方向も、「戦い」の目標も、社会参画と貢献です。人間は精神の命じるままに、刀折れ、矢尽きるまで、踏みとどまって戦おうとするのか、否か?そこが「分かれ目」です。精神が老いや衰えと戦う姿勢を持ち続けることができる晩年それが「美しき晩年」です。老後も心身の機能の衰弱を諦めずに、「生きる力」を振り絞って戦い続けることが精神の機能であり、人間のあるべき姿であり、生涯現役論の中核です。本書の正確なタイトルは、「精神の戦い」をやめますか、それとも人間やめますか、という意味になります。
生き甲斐の構造 「居甲斐」+「やり甲斐」=「生き甲斐」

1 「居甲斐」とは何か
生き甲斐は、「居甲斐」と「やり甲斐」から構成されています。どちらも重要な必要条件ですが、高齢期を考えた時、「居甲斐」と「やり甲斐」の両方が揃って初めて十分条件になります。「居甲斐」とは聞き慣れない表現ですが、ずいぶん昔にどこかで読んだことがあって「いい表現」だと思って以来、使っています。「居甲斐」は、“ここに居る甲斐”の意味ですから、あなたを取り巻く好意的な人間関係の総体です。換言すれば、「この人たちと会えてよかった」という人間関係です。「居甲斐」を構成する人間関係は2種類あります。第1は、あなたを対象として、「愛してくれる人」・「必要としてくれる人」・「『あなたと会えてよかった』と言ってくれる人」です。第2は、反対に、あなたの側から見て、「愛する人」・「必要とする人」・「『この人がいてよかった』とあなたが思う人」です。これらの方々は、あなたの心の支えであり、存在のよろこびです。これらの方々は、あなたに拍手を送り、あなたの日常を支え、励まし、癒し、人生の意義を共に確認して
くれます。これらの方々は、世間を代表して、あなたの行為や存在について「社会的承認」を担当するのです。
2 「やり甲斐」とは何か
他方、「やり甲斐」は、人間の行為に関係します。「やり甲斐」は、①活動の成果、②社会的承認を伴う達成感、③あなた自身の機能快の3種で構成されています。行為のないところ,活動のないところに「やり甲斐」は存在しないということです。「やり甲斐」の第1要因は活動の成果ですから、日々の生活に目標の設定,方法の工夫,実行の努力が不可欠です。目標が達成できれば当初期待した成果を手にすることになります。仕事でも趣味でも,やろうとしたことが、思い通りにやれた時のよろこびがやり甲斐の第1条件です。
やり甲斐の第2要因は達成感です。もちろん、成果が出た以上,達成感は一人でも実感することはできます。しかし,通常は,第3者の承認や同意を必要とします。ひとりよがりや自己満足では人間の精神の渇きを潤すことは難しいのです。おのれを誇って、自分の生きているうちに、銅像を建てたり,石碑を建立したりする人がいるのも、おのれの事績を世間に見せて,第3者の同意や承認を求める心理です。心理学者は,人々の拍手や賞賛を「社会的承認」と呼んで、人間が生きて行く上での重要な糧であると論じています。独りよがりでは成功を実感できない社会的動物としての人間の性(さが)だということでしょう。人が社会的承認を必要とした時,最も身近で応援や賞賛を与えてくれるのが,あなたを取り巻く好意的な人間関係です。この時,「居甲斐」と「やり甲斐」が交錯するのです。
第3の要因は「機能快」です。ドイツの心理学者カール・ビューラーが提唱者であるといわれています。日本では大分前に渡部昇一氏が「人間らしさの構造」(*)で人間らしさを構成する要因の一つとして紹介されました。「機能快」とは、人間が自分の持つ能力を発揮したときの快感を言います。
子どもの発達を見ていると、疑いなく彼らが機能快を感じている場面に遭遇します。走れる子どもは走りたがり,歌えるものは歌いたがります。大人の指導に耐えて、できなかったことができたとき、彼らの顔が輝きます。人間には自分に与えられた機能を発揮したいという欲求が内在し、その欲求が実現できた時に感じる快感です。「できなかったこと」が「できるようになること」も、過去と比べて上手にできたときも、ある種の快感を感じることは日常経験するところです。活動の成功には自分の能力が試され、自分自身が課題に応えて、立派に為し遂げたという己の能力の実感が「機能快」でしょう。
(*)渡部昇一、人間らしさの構造、講談社/学術文庫、1977

3 「居甲斐」の危機
「居甲斐」の危機は、一言で言えば、加齢に伴う人間関係の貧困化です。長生きして、生き残れば生き残るほど、自分に先立つ人は多くなります。職場を離れれば、職縁の仲間を失い、子どもが独立すれば子どもとの距離が遠くなり、親を失えば、血縁の絆は一気に弱まります。伝統的共同体が消失した現代の日本にとって、もはや、「地縁」はほとんど頼りになりません。それゆえ、加齢に伴う人間関係の貧困化を放置すれば、あなたを取り巻く好意的な人間群は確実に消滅します。「生涯現役」を志すものは、意識的、計画的に、従来の「縁」に代わる「新しい縁」を探し続けなければならないのです。
「新しい縁」とは活動によって培う縁のことです。高齢期の新しい縁の代表例は、生涯学習を共にした「学縁」、ボランティア活動のように志を同じくすることによって結ばれた縁:;「志縁」、趣味・同好の仲好しが形成する「同好の縁」などです。「新しい縁」の形成に共通しているのは、活動です。活動は、必ず参加者の時間と行動を共通化します。それゆえ、活動の縁は、経験を共有によって培われる縁であり、「同じ釜の飯を食った」ことの縁です。労働が終了したあとの高齢期に、活動を離れれば、新しい縁と出会う機会を失うということです。
4 「やり甲斐」の危機
「やり甲斐」の危機は、定年による労働からの解放、子どもが自立する子育て義務の完了の時点で発生します。職業上の労働も家族生活における子育ても、「社会的に必要とされた」活動という点で共通しています。活動は義務的です。手抜きは許されません。
職業上の労働の中でも、家事労働においても、私たちは、頭を使い、身体を使い、気を使い心身の機能はフル回転していました。課題を成功裡にクリアした時の拍手や、達成感や、機能快はもちろん、手応えのある成果が「やり甲斐」の原点だった筈です。給料も賃金も社会が自分を「必要」としたことの証明でした。家族の無事と幸福と感謝は、家事や育児のエネルギーの原点でした。
それゆえ、定年は、社会から要請され、自分を必要とした労働の終了です。子育ても同じです。定年は、第1部の人生のやり甲斐の対象をほとんどすべて喪失するのです。世間や仲間の拍手も、仕事の達成感、能力を発揮できた時の機能快も失います。もちろん、もはや労働の成果とは縁がなくなります。
平均寿命が80年を越えた人生は食うための労働と、自分らしく・よりよく生きるための活動に分かれます。定年や子どもの巣立ちが労働と活動を分けるのです。それゆえ、定年後に、あるいは子どもの巣立ち後に、「労働」から活動へスムーズに移行できなかった人は、頭を使うことも、身体を使うことも、気を使うことも一気に激減します。使わない機能が一気に衰え、消滅を辿ることは、「廃用症候群」の理論で証明されたところです。もちろん、衰えるのは心身の機能だけではありません。人生の成果も、達成感も、機能快も失うのです。危機への対処策はたった一つしかありません。「活動」に参加することです。気に入った活動がない場合には、自ら自分のやりたい活動を「発明」するしかないのです。
5  総合的対処策
生き甲斐を維持する結論を言えば、「生涯現役」を志すことです。生涯現役の構成要素は、「生涯健康」と「生涯活動」と「社会貢献」です。三つとも日ごろの精進なしには実現できないことです。具体的・総合的対処策
を処方化すれば、「読み、書き、体操、ボランティア」の4つです。「読み、書き、体操」の三つは健康と活動を継続するためのカギです。ボランティアは当然社会貢献活動のカギです。
それゆえ、生涯現役論は、「安楽余生論」に真っ向から対立します。精進の処方を実行に移すためには、意志が必要で、負荷が必要で、絶えざる人間交流が不可欠です。高齢者の「生きる力」は、気力と実行力が支えるのです。生涯現役を実行すれば、上記に分析した居甲斐の要素もやり甲斐の要素も保障できます。高齢期は、友を失い、仕事を失うだけでもさびしいのです。加えて、心身の老いは、老いそのものがさびしいのです。「生きる力」を保持する対処策を実行せずに、老いの試練に耐えられる筈はないのです。
「生涯現役論」こそが唯一の方法であり、処方です。
高齢者のモラトリアム
実践できない自分主義-「分かっちゃいるけど踏み出せない」

(1) 今の自分は「仮の自分」
人間の難しいところは自分の日常に矛盾が顕在化しても、時に、行動を決断できないことです。「分かっちゃいるけど決められない」、「分かっちゃいるけど動けない」ということです。英語ではモラトリアムと呼ばれました。意味は色々あります。一つは、経済学のいう支払猶予令のこと;恐慌などの際に起こる金融の混乱を抑えるため、手形の決済・預金の払戻しなどを一時的に猶予することを意味しています。
もう一つは、ものごとの中断を意味します。「中止」ではないのですが、中断して「延期」するように、実践の執行猶予という場合にも使います。E.H.エリクソンは、モラトリアムとは、「本来、人間になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間」と定義しています。小此木啓吾は『モラトリアム人間の時代』(1978)で、社会的に認められた期間を通過したにもかかわらず、現実に関わることを拒否して、猶予を求める人々を「モラトリアム人間」と呼んで一躍有名になりました。用語の使い方は「優柔不断」の意味を含んで、否定的ニュアンスで用いられることが多いのが特徴です。現在、新しく登場したニートやパラサイトシングルの親子の多くも、心理状態は「モラトリアム」の一種でしょう。「成り行き次第」で定年を迎え、成り行き次第で定年後を過ごしている多くの熟年の人々も、何か始めなくてはと考えているのです。しかし、過去の栄光や未来の不安にしばられて実践の一歩が踏み出せません。これも「今日できる事」を「明日に延ばし続けている」モラトリアムの一種です。とりあえず「今日のところ、今のところはこのままでいい」、「明日のことは明日思い煩う」という心境に代表されます。ニートやパラサイトシングルの親子も、彼らの大部分は、実践に踏み出すこと、それぞれの自立が不可欠であることは分かっています。このまま親依存-子ども依存-社会依存を続ければやがて自分の人生が破綻を来すであろうこともうすうす感づいています。
成り行き任せの高齢者も、心身の衰えを放置すれば、不幸な結末を迎える可能性があることにうすうす気づいています。「不決断」が「危機」につながる恐れがあることは分かっているのです。しかし、現状を脱出する行動に踏み出せないのです。診断はできても、処方を実行しないのは「自分」を確立できず、行動において優柔不断だからです。
(2) 処方の原理

近年の研究は、モラトリアム現象の多様化に伴ってさ まざまな概念を生み出しました。「ピーターパン症候群」は、いつまでも大人になりたくないの夢想の中に生きている人々の病的な症状を指しています。役割も責任も他者の期待も自分の「負担」になるからです。彼らはおとな社会の「負荷」に耐えられない(と感じている)のです。 晩婚の時代、非婚の時代に話題を呼んだ「シンデレラコンプレックス」も現実と向かい合わないという点でモラトリアムの一種です。いつか、王子様があらわれて自分を幸せにしてくれるのを待っている状態を意味しています。王子様が現れないことは薄々気付いているのですが、彼女たちもまた自分の現実に直面することができないのです。「青い鳥症候群」も、いつか見つかるであろう幸福を追って、現実に対応できないという意味で前2者によく似ています。 大人のモラトリアムは、今の自分は本来の自分ではないという仮定の上に立って、自分をごまかし続けているのです。彼らのモラトリアム状態を破壊するのは「現実」です。親に頼れなくなった時、自分が年をとり過ぎた時、成り行きの老後が病気や経済問題で行き詰まった時、もはやモラトリアムではいられなくなります。ニートも、パラサイトシングルも、荒っぽいやり方ですが、彼らを家から追い出せば状況は必ず変わります。家庭内暴力の子どもも同じです。シンデレラコンプレックス嬢も35歳を過ぎれば、自分の夢想と錯覚に気付くことでしょう。モラトリアムは「まだ待つことのできる状況」だから「待っている」のです。若者も、高齢者も、自分の無力と危機を悟れば、動き出します。病気を宣告された患者が、医師の指示通りに動き出すのと同じです。健康なときは、医者のいうことなど歯牙にもかけなかった人が、病気や死の現実を突きつけられれば、一日で日々の生きる姿勢を変えることができるのです。現実を突きつければ人は変わります。外的条件の認識次第で、人は生き方は変えられるということです。「今の自分は問題なのだ」と思った時から人は変わり、解決の糸口が見え始めるのです。自分流を尊重して、関係者の「主体性」にこだわれば、モラトリアムの「出口」はないのです。現在、はやりの「非指示的カウンセリング」は、「積極的傾聴」を基本原理として、クライアントの主体性を尊重します。本人の意志や考え方に問題の根本原因があるのに、本人の「主体性」を尊重し、その意志を受容するという方法に頼る限り、彼らは現実に向き合いません。医者は病気と向き合っていますから、本人の気持を尊重しながらも,病気の治療を優先します。結果的に,本当のことを当人に言うことになります。「現実」を突きつけるとは,そう言うことです。モラトリアムは現実と対決しない限り解決への出口はないのです。高齢期のモラトリアムが心配なのはそのためです。高齢者が現実の課題に気付いた時、すでに人生の時間切れになっている危険性が高いからです。社会は、高齢者のためのボランティア基金を創設し、彼らの社会貢献に必要な費用弁償費を払ってでも、社会参画を促さなければなりません。成り行きの老後の選択、、安楽余生論の高齢者教育は即刻転換しなければならないのです。それにしても政治の示すマニフェストにおける、高齢者支援の発想の貧しさはどうしたことでしょうか。
書評・感想
河合隼雄、「老いる」とはどういうことか(講談社+α文庫、1997)
過日、勉強の途中で有名なユング心理学者;元京大教授、元文化庁長官の河合隼雄さんの「『老いる』とは何か」(講談社)を読みました。読売新聞のコラムに日常の実感をエッセイの形で連ねたものを文庫本にまとめたものでした。筆者は当然「老いるとは何か」の答を求めて本を読みました。
実際は日常のありふれた茶飲み話のような感想が大部分で,論理も矛盾していて、有名人は気楽なもんだ,とつくづく思い、有名人を使って利益を上げようとする出版社も中身の評価に関心などないのだと痛感しました。過日、論評した日野原重明著「100歳になるための100の方法」(文芸春秋)と似たようなものでした。社会心理学では「マスコミの地位付与の機能」と呼びますが、「みんなが見ている」ということが有名人を作り、次に、一度でき上がった有名人像に「実際以上の価値」を付与するというもので、テレビコマーシャルの原理と同じです。「有名人の価値」で「商品」の価値をつり上げているということです。広告業界、マスコミ界が常用する手法です。一度造り上げた「有名人」の虚像を使って、本を売ったり、講演の謝金をつり上げたりする「中央講師団」の手法は、地方の文化を貶め、中央信仰を煽り、地方の財源を吸い上げます。人権講演会でも、男女共同参画の講演でも、いわゆる「客寄せパンダ」という有名人活用の手法がありますので気を付けて観察してみて下さい。
テレビ界に限らず印刷メディアによる本の作り方もまた「地位付与の機能」という同じ毒を食らっているのだと理解しました。有名人の方がそうした商売の手法に手を貸せば、ついつい気楽な“やっつけ仕事”が続くということになるのでしょう。金を払って買った本の期待はずれが続くとすれば、人々が活字離れをするのも無理はないと思いました。その意味では何冊書いても「質」を落とさない宮城谷昌光さんの本が如何に凄いかを改めて再評価しています。
さて「『老いる』とは何か」ですが、あるページには日野原先生との新春対談を引いて、年をとったあとも何か「創(はじ)める」ということは大事だと言い、別のところでは「老人は何もしないからすばらしい」といい、また別のページでは「ぶらぶらしていたい」老人に「何か楽しい生き甲斐を見つけたら」なんていうな、と提案しています。こうした論理矛盾を、名も無き私ごときが批判すると、きっと人間は多面的なのだ,とか、どれも大事なのです、という反論が戻って来るのでしょう。
冗談ではないのです!!高齢社会はそんな生易しいものではないはずです。何もしない老人も、ぶらぶら過ごしている老人も、飯も食えば、風呂にも入り、時には,不幸にして病気になったり,認知症で判断を失ったりします。どの高齢者も諸々の欲求を持ち,日常の要求を持って暮らしているのでしょう。定年後の生涯時間20年の時代に、だれがその欲求を満たすのでしょうか?河合流「老いる」とはどういうことかはさっぱり分かりませんでしたが、高齢者は,自分の健康を自分で守り,生き甲斐を自分で創り出し,自分の人生は自分で守るのです。「クスリやめますか,それとも人間やめますか」の続きは,「がんばるのやめますか,それとも人間やめますか」です。
§MESSAGE TO AND FROM§

お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。

市民学習ネットワーク事業
サマーセミナーご参加のみなさま

セミナーは25名のご参加を得て無事に終了しました。一週間続けて来た下さった方も、遠くから飛び込みで聞きにきてくださった方もありがとうございました。さまざまなご提案を頂き、感想を頂き、その後のお便りまで頂き大いに参考になりました。セミナーの定期的な開催のご要望もありましたが、現状ではいささか難しい状況ですので、次の新しい研究の成果が本になって世に出ましたら、ご批判を頂くためにも、ふたたび公開セミナーを開きたいと思います。再会は冬休みの頃になるでしょうか。皆様にお目にかかる日を楽しみにしております。

佐賀市 秋山千潮 様

お元気にご活躍のことと存じます。過日はお心使いありがとうございました。執筆は生涯現役論の山場に差し掛かりました。参考書を読みあさっているうちに、医療や介護の分野の方々が、人間の最後は「あるがままでいいのだ」とか「自然に回帰して」,「母の懐の中の子どもに返る」という趣旨の事を書いておられて,老後に「自立」だとか、「生き甲斐」だとかを持ち込むなという論調が強いことに大いに反発を感じました。あなたのご活躍を思い出したという次第です。
ようやく、教育学は医学や介護の分野と人生の「終わり」についての視点が違うのだということに気付きました。医学や介護は「あるがままの命」をそのままに受け入れます。ありがたいことです。しかし、教育学は「あるべき命」を主張し、あるべき生き方にこだわります。生涯現役論はその延長線上にあることを自覚したところです。

山口市 上野敦子 様

今夏の発表会にお招きいただきましたが、先約があって、残念ながら出向くことができませんでした。
お便りの発送元が「親鳩会」となっていたのに気付きました。組織化に成功し、着々と力をつけて来ていると想像し喜んでおります。幼少年期は、プログラム次第で子どもが一気に変わります。まずは体力と耐性のトレーニングに集中して見て下さい。その後の全ての活動にプラスの影響が出るはずです。

U.S.A.ペンシルバニア 藤本 徹 様

再会なによりでした。誰も代わりには生きられません。博士論文は孤独で,前例がなくて、一番苦しい作業です。しかし,自分で突破するしかないのです。若い才能のある身に取って日本はまだまだ抑圧的な国です。爺さんたちの政治を見て下さい。爺さんたちの審議会が日本に何をもたらしたかを見て下さい。男女共同参画の現状を見て下さい。日本の政治も,大学も,オバマ大統領やヒラリー・クリントン国務長官を歴史に生み出すことなど到底できる状況ではないのです。ノーベル賞の受賞者もそのほとんどはアメリカの組織とつながった方々です。アメリカに残り,アメリカで勝負し,その後、ゆっくり帰国すべきです。若気の至りで、自分自身がそうしなかった最大の失敗者です。前者の轍を踏まないように!

福岡県宗像市 竹村 功 様

「学童保育」の受託・応札の件の失敗は誠に残念でした。宗像市は、応札条件に,過去の保育業務の経験の有無を評価に含めるということであれば,最初からそのことを応札条件に銘記すべき義務がありました。何たる募集事務の不備でしょうか!あなたのご努力を陰ながら拝見していて,実に口惜しい思いをしております。日本に「保教育」の思想を発信する重要な機会を逸しました。学童保育の経験が問われるならば,豊津寺子屋の立ち上げ運営に関わって来た自分が,なぜ、率先して協力者や顧問として名乗り出なかったかと,今更ながら、悔やんでおります。

116号お知らせ
i 第91回生涯学習フォーラムinふくおか
日時:平成21年9月19日(土)15:00-
場所:福岡県立社会教育総合センター(福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2、-092-947-3511)
第1部 論文発表:
「中国・四国・九州地区実践研究交流会28年に見る生涯学習振興政策の課題」(三浦清一郎)
第2部 事例研究:
未来につなげるべき実践:当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。(発表者未定)

ii 第92回生涯学習フォーラムin愛媛
中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会に愛媛県のご参加を得た記念とご挨拶を兼ねて愛媛の「地域教育実践研究会21」に合流するフォーラムを企画しました。久々の修学旅行のつもりでご同行下されば嬉しい限りです。
日時:平成21年11月14日(土)13:00-15日(日)12:30まで
場所:国立大洲青少年の家
実行委員会事務局:kouma@d6.dion.ne.jp,-080-960-1900
詳細情報:http://1st.geocities.jp/chiikikyouiku/をごらんください。
編集後記「積土の山を成さば風雨興る」
友人が持って来て下さった宮城谷昌光さんの小説に耽溺して,仕事をそっちぬけにした日々が続きました。前にも書きましたが,この作者の日本語の美しさは類をみません。「天空の船」,「子産」,「孟嘗君」,「太公望」,「晏子」,「管仲」,「香乱記」、「楽毅」と紀元前中国史の英雄たちの物語を読み進んできました。まさに手当たり次第、順不同に読みました。ものによっては2回も,3回も読んでいます。繰り返し読むことでようやくこの時代の中国史の概略が分かって来ました。
最近では「奇貨おくべし」を読み終わりました。古代中国を初めて統一した秦の始皇帝の父と言われる呂不韋(りょふい)が主人公です。読み進んできて、文中のいくつかの言葉に心底驚き、これまでの人生でなぜこの一節に出会うことがなかったか、と誠に残念に思います。その一つは荀子が言ったという次の文言でした。「積土(せきど)の山を成さば風雨興り、積水の渕を成さばこう龍生ず」です。「こう龍」の「こう」の字は「虫編」に「交わる」と書きます。何と凄い言葉でしょうか!
私は退職後の執筆と講演の中で,「風の便り」や著書を通して、研究の成果を具体的に世間に訴えて来ました。子育て支援でも,定年者の老後の暮らしでも,子どものしつけでも,男女共同参画でも、実践を前提とした研究の成果を社会教育のプログラムや日常の実践に「翻訳」する努力をして来たつもりでした。最近では「生活のなかの学問」と呼ぶようにしています。しかし,10年が過ぎた今,なぜこれほど現象的に明らかで,論理的に単純なことが世間に受け入れられて、システム化されないのか、という焦りとむなしさを何度か感じています。私は,「実践」を重んじ,「現場性」を大事にしてどの研究もできるだけ現場に即した情報の収集と分析に心がけてきました。それゆえ、論理は「現場」によって試すことができます。賛成でも,反対でもどちらでもいいから,すこしは役に立つのか,立たないのか,「現場」の分析は妥当なのか,それとも間違っているのか,沈黙して無視しないで意見を聞かせて下さい,と関係者にお願いしてきました。しかし,時間ばかりが虚しく流れたという実感です。換言すれば、なぜ積上げて来た研究成果のまわりに「風雨は興らないのか」、という寂しさでした。
しかし、先の荀子の指摘に打ちのめされました。要は、研究者として、私の「土の積み上げ方」が全く足りず、「山」はもとより「丘」にもなっていないということだったのでしょう。丘にも満たぬ低い「積土」に風雨が興る筈はないのです。
例えば自分の前に,世間の承認を得た50冊の書物を積んでいれば,自分の問題提起にも多少の賛否の声は興って来るのでしょう。それこそが「積土山を成さば風雨興る」ということなのでしょう。「積土を志す」以上、社会と絶縁して生きることは出来ません。「風雨興る」という希望の無い隠居生活に甘んじることもできません。つくづく元気で長生きがしたいと思うこの頃です。