「風の便り」(第117号)

発行日:平成21年9月
発行者 三浦清一郎

美しき晩年-新規出版の結論
1 戦う晩年

尊敬する先輩の友人が、老後は若い時以上に努力して、美しく生きたいとおっしゃいました。言われてみれば、若い日々は何もしなくてもそれぞれに若さに輝いていました。今は、若さも、春秋も、希望も、友でさえ、多くのものを失いました。
以来、「美しき晩年」とは何か、が筆者の課題になりました。今回、ようやく、一つの結論に辿り着きました。人間が「老いる」とは、「意識すると,しないとに関わらず、加齢に伴う心身の衰えと戦い続ける過程」をいいます。生物の宿命として「戦い」は「負け戦」になりますが、「戦い方」で晩年の在り方が決まります。戦いが不可避であるとすれば,問われているのは,意義ある戦いをできるか,否かになります。
美しき晩年とは「意義ある戦いを戦う晩年」です。「意義ある」とは、もちろん,本書が論じた生涯現役を意味します。「戦う晩年」とはがんばり続ける晩年のことです。頑張り続ける目標と対象は「社会貢献」の実践です。がんばりを支えるのは人間の精神であり、われわれの意志です。言い方は難しいのですが、衰弱して己を失うまでは、「あるべき命」を生きようと全力を尽くし、己を失ったあとは「あるがままの命」を他者に委ねて生きることは出来ないものでしょうか?それを決めるのもまた精神の働きなのでしょう。
子ども時代から青年期にかけて私たちは「生きる力」の基礎を形成し、その力を人生の経験を通して、職業的にも,社会的にも,もちろん私的にも、さまざまに加工しました。培った「生きる力」は家族生活、社会生活なかんずく労働の過程で、さまざまに応用して来ました。加工の方法も、応用の仕方も、もちろん、努力の結果も自分流であったことは言うまでもありません。子どもの「生きる力」は、「体力」に始まり、しつけを通して、人生を生き抜く「行動耐性」と「欲求不満耐性」を形成します。この二つの上に、より高度な教育を施して,職業生活・社会生活のための学力や規範を積上げて行きます。「生きる力」の最終条件は精神力、意志力、あるいは豊かな心などと呼び倣わされて来た感情値(EQ)です。もちろん、豊かな心にも、人間性の向上にも、終わりはなく、完成の具体的な到達点はありません。子どもの場合、教育・訓練は、「ヒト」から人間に向かって、体力→耐性→学力→社会性→感情値(EQ)というように、社会的動物の基礎基本から人間の特性を獲得する方向に向かって形成されます。筆者はこのことを教育の順序性と呼んできました。順序性という以上、子どもの教育は、途中の学力から始めたり、最後の感情値から始めることは事実上難しいということです。それゆえ、現代日本の幼少年教育の問題の大半は、発達の基礎基本が固まっていないまま、学力や習い事に振り回されたことです。なかんずく、行動耐性と欲求不満耐性が欠損したまま、少年期の教育に入ることは決定的な間違いだったのです。典型的な例は、学校の授業に耐えられない「授業崩壊」や「学級崩壊」のような「小1プロブレン」が発生したことです。不登校やひきこもりもその変形であることは言うまでもありません。
一方,高齢者の場合は、教育の順序性が逆転すると論じました。高齢者の「生きる力」の構成要因は子どもと同じですが、それを保持できるか否かは自分次第です。子どもの課題は「向上」ですが、高齢者の課題は、退行の防止、老衰の予防です。この時、「廃用症候群」は、医学用語であると同時に教育用語になります。「使わない機能は衰える」という医学的事実は、「人間の機能は使い続けるべきである」という教育学上の予防の原理に転換するからです。体力から人間の精神に至るまで、それが人間機能である限り、適度の負荷をかけて使い続けなければ「廃物(使用不能)」になるからです。老衰の予防は当然高齢者教育の課題ですが、福祉政策も教育政策も、ほとんど高齢者の予防教育に踏み込んでいないのが実態です。
子どもはしつけや教育という言葉の通り、「他律」を前提にして「生きる力」を養い、彼らの成長とともに緩やかに「自律」に移行させて来ました。しかし、大人の場合、人生は自分流です。労働の季節が終わり、人生の諸々の役割から解放された高齢期は、個人の生き方を拘束する条件は一気に減少します。高齢期は、社会的な「役割演技」の必要が減少して、ますます自分流になるのです。換言すれば、高齢期の生き方の全てが本人の責任に帰するのです。

2 主張する「自分流」

二度目の人生を「楽をして、好きなように暮らせ」という思想は、安楽余生論です。無理をしないで、「パンとサーカス」の楽しみを追いかける生き方は、換言すれば、「がんばることのない」気楽な自分流です。安楽な余生も、気楽な自分流も、己の欲求のままに、快楽原則で生きる高齢者を生み出します。社会に依存だけして,他者に貢献しない人口が増大すれば、社会は活力が低下するのは自然の成り行きです。
日本の社会教育は、生涯教育を生涯学習に転換して、高齢者の選択に任せたとき、生涯学習が安楽余生論の反社会的な発想に転換することを予想できなかったのです。高齢者教育論の深刻な分かれ道でした。老人学級も,高齢者大学も,ほぼ税金丸抱えで実施されながら,高齢者の気ままな学習が主流となり,学習成果の社会還元はほとんど進みませんでした。
高齢者が加齢や病弱によって人間のさまざまな機能を失い、人間からヒトに戻って行くのは、自然の回帰である、何も不思議なことではない、と介護の現場は指摘します。この時すでに、介護の現場もまた、「人間」と「ヒト」とは異なった存在であるということを前提にしているのです。恐らく最後は、私たち人間の多くが、理性や意志を失って、自然の「ヒト」に戻って行くという指摘はその通りでしょう。しかし、戦ってそうなるのと、戦いを放棄してそうなるのとでは大いに異なります。『モリー先生との火曜日』は、アメリカの人気作家ミッチ・アルボンが、学生時代の恩師を看取って綴った人間精神の感動的な記録です。身体的機能のすべてを失いながら、最後まで、「自分のことは自分で決める」と主張して、精神の豊かさと意志の力を失わなかったモリー先生こそ人間による人間の証明であったと思います(*1)。モリー先生の生き方において、人間の証明は精神の働きによることは明らかなのです。
私たちは激動の時代を生きて来ました。技術革新に端を発したさまざまな変化は,変化が変化を呼ぶ連鎖を起こし,情報化,国際化,高学歴化、核家族化、高齢化、少子化等々、個人の暮らしをひっくり返し,国家・社会の在り方をひっくり返してあらゆる関係を変えてしまいました。その中で新しい環境に適応するため,人間は生涯教育-生涯学習を発明しました。変化が一生に亘って間断なく続くとすれば、一生に亘って適応も学習も続けなければならなくなったからです。
いつの時代もそうですが,高齢者はやがて年をとり病気や認知症や死を心配するようになります。残された歳月をどのように暮らすかは人生の最大の課題であったと気付くのです。若かった日々の記憶は鮮明で、つい昨日のことのようですが、気がついてみれば、いつの間にかずいぶん年をとりました。晩年の生き方こそ高齢期に残された宿題だと気付かざるを得ないのです。
私たちの最後について、古人は、「終りよければ全て良し」といいます。「晩節をけがすな」ともいいます。「棺を覆って価値定まる」ともいいます。「健康」が大事だと言えば、「病弱の人」の「晩年」は美しくないのか?「活動」が大事だと言えば、「活動」のない晩年は「豊か」ではないのか?法律に違反せず、節度をも持って生き続ければ、それだけで晩節を全うしたことになるのか?考えれば考えるほど「美しい晩年」の条件は難しいのです。「人それぞれ」違うだろうということでは答えたことにはなりません。
「美しき晩年」、「豊かな晩年」は、言うは易く、行うは難い目標です。高齢期の残された時間を、具体的に何をどのようにして生きればよいのか?生涯学習は、現場の理論ですから、必ず人々が日常生活の中で応用のできる「原理」と「方法」論を提出しなければなりません。分析の視点は、「自分が幸せに感じること」、「他者がよろこんでくれること」、「社会の活力に寄与すること」の3点です。本書の結論は、「生涯貢献の現役として生きようとする実践である」ということになりました。そのためには「生きる力」の保持の努力が不可欠の前提です。自己教育も自己鍛錬の努力も不可欠です。生涯現役の自分流は、がんばらなければ実現不可能です。がんばっても、実現できないかも知れません。人生が不確実性でできている限り、それはそれで仕方がないのです。高齢期の方向目標を「生涯貢献の現役」とすれば、生きる姿勢は目標に向かってがんばることです。生涯現役者が気楽な自分流と最も異なるところです。
自分流の原則に立てば,それぞれがそれぞれの意志で,勝手に生きればいいということになります。おれは「ぶらぶらしていたいんだ」と言えば,それでもいいことになるし、「自然に回帰する」ことも人間仕方がないのだと言えば,それもやむを得ない、ということになるのでしょうか。
今年の敗戦記念日の特別記念番組で、「君を忘れない」という神風特攻隊の出撃までの映画がありました(*2)。間違いなく特攻という締め切りがやって来る人生で、映画の中の若者が懸命に生きようとしていました。与えられた使命を自分に言い聞かせ、自分を納得させ、愛する者や心残りをたくさん後に残して飛び立って行く若者の思いは、さぞや切なかったことでしょう。「君を忘れない」というタイトルは、何となく締め切りが見えても戦い続ける高齢者の人生に重なって見えました。高齢者もまたそれぞれの人生において、だれかに「君を忘れない」と言ってもらいたいのだと思いました。戦わない高齢者は果たしてだれかに「君を忘れない」と言ってもらえるでしょうか。
斉藤弘子氏が編集した「尊厳ある最期」のための参考書も、書名は『「私」が決める死の迎え方』(*3)です。ここでもまた最期を決めるのは「自分」だと主張しています。最期まで自分をつらぬくためには、モリー先生のように主張し続けなければなりません。
斉藤氏は自分の死に方を主張しなさいと奨励しているのです。すでに日本尊厳死協会(03-3818-6563)もできています。遺言や葬儀について自分の思いを依頼する「ウイルバンク」(03-3707-1788)も存在します。「葬送の自由をすすめる会」(03-5684-2671)もできました。
しかし、自分流の難しいところは、「自己主張」することも自分流、「しないこと」も自分流であることです。筆者の前提は、人生は「自分だけで存在しているのではない」、ということです。それゆえ、自分流で生きても「自分のことだけでは済まない」、ということです。人生が「自分のことだけでは済まない」とすれば、他者との関係を表現しなければなりません。生涯現役論は、自己主張以上に他者との関係の表現の形式です。生涯現役にこだわった自分流は、他者と自分の関係を前提にしているからです。自分だけで存在しているのではないということは、「一人では生きられない」ということです。この世は「相互依存」の関係であると言っても、「生かされている人生」と言ってもいいのです。自分だけでは生きられないということが前提であれば、共存を前提にした生き方を選択するしか、論理的な結論はあり得ない筈です。自分を表立って主張するか、しないかは別として、共存を思考する以上、生き方を通して他者との共存・社会参画の意志を表現するしか方法はないのです。生涯現役はその意志表明なのです。
他者との共存を前提とすれば、自分勝手も、自分本位も、社会への依存症も褒められた話ではないでしょう。生涯現役は精神の戦いです。たとえ敗れ去ろうとも、老いの過程は精神と肉体との戦いであることに疑いはありません。生涯健康は日々の精進を要求し、生涯活動は生涯健康が前提であり、生涯現役は生涯を通した活動と社会貢献が前提です。おのれの老いと戦わずしてこれらが手に入る筈はないのです。「老いる」とは、「加齢に伴う心身の衰えと戦い続ける過程」をいいます。美しき晩年とは戦う晩年なのです。

(*1) Mitch Albom,Tuesdays with Morrie,Doubleday,1997,p.155
”小さなことには従います。しかし,考えたり,価値を決めたり,選んだりすることは,他者に任せたり,社会に委ねたりは出来ません。自分で決めるのです。”
(*2) 製作:古川博三、伊地知啓-監督、君を忘れない FLY BOYS, FLY!の映画データベース、1995年
(*3)斉藤弘子編著、「私」が決める死の迎え方、保健同人社
生涯学習の未来学
-これからなにが起こるのか-なにを為すべきか?

(第91回生涯学習フォーラム-30周年記念出版勉強会始まる)
I 設定した問題の中に答はある

1 マニフェストの力-「契約」の力

民主連立政権が発足し、その出発点のニュースを興味津々で見ています。「風の便り」は政治を論じることを自制していますが、今回の政権交替に教育の論理を見た思いがしていますので例外的に論じます。
政権交替は、「設定した問題の中に答はある」ということを証明しました。換言すれば、民主連立政権の改革実施のスピードの速さと規模と徹底した内容は「マニフェスト」の力であると思います。それぞれ実情の異なる地域は、おそらく「マニフェストのつまみ食いをさせろ」とごねたり、主張したりするのでしょうが、マニフェストに依拠した選挙が「契約」であることを理解しない「愚かな地域民主主義」と「地域エゴ」の抵抗に過ぎません。日本国民はマニフェストを選んで、民主連立政権と「契約」したのです。全体契約は、当然、部分要求に優先します。各大臣がマニフェストにあるのだから譲れないと言っている事は正しいのです。全体契約は地方の意志に優先するのです。
民主連立政権がマニフェストに示した「契約」の原理を貫徹できるようであれば、日本は大きく変わることでしょう。良くても悪くても、筆者にとって、論理的には、馬鹿げていることでも(事実そういうものも含まれています)、日本国が初めての「契約」を履行することを筆者は驚きをもって見つめています。
選挙前の多くの方々の感想と同じように、民主党もまた旧社会党の左派から自民党の右派まで、それぞれの派閥の思惑でくっついた烏合の衆で、日本の村社会における派閥や利益誘導型の意志決定方法が変わるとは正直考えていませんでした。しかし、今回は「変わりそうだ」という実感に正直驚いています。これなら子育て支援の「保教育」も、学校の開放も、“箱もの”の建設中止も、高齢者の社会参画も、問題の立て方如何で実現が可能かと期待が湧いて来ます。

2 政治・行政における「契約」発想の不在

生涯学習の「未来学」に関しても、国民になにを約束するのか、というマニフェストの立て方が重要なのだと思います。答は問題の立て方の中にあると確信した次第です。従来の地方政治も、当然、教育行政も勝手に自らに都合のいい方針を決めるだけで、市民や国民との「契約」という手続きを踏んでいませんでした。「契約」手続きが踏まれていれば、「契約」不履行の場合には、政治も行政もその責任を負わなければならないからです。地方議会も、「達成目標」が定かでない「公約」の監視は十分にできませんでした。子育て支援策が子育て支援になっていなくても、誰一人責任を取らなくていい時代が続いて来たのです。マニフェストを出すということすらやっていなかったということは日本の政治・行政に「契約」の精神は存在しなかったということです。
フォーラムが目指している30周年記念出版は、マニフェスト選挙の思想に倣って、生涯学習は国民の将来になにを約束できるのか、あるいはできないのか、を明確に問いたいと思います。名付けて「生涯学習の未来学(仮)」のテーマで分析と協議を続けて行きたいと考えました。たとえば、実行委員会の代表世話人の飯塚市の森本教育長は、マニフェスト方式が採用されるとすれば、教育長職の責任を賭して市民に何を実現することを約束するのか、それは何をもたらし、どんな方法で実行するのか、を明らかにすることです。従来の生涯学習推進行政(もちろん社会教育行政も学校教育行政も)は一度も、市民とも、保護者とも、子どもとも教育上の「契約」をしたことはないのです。生涯学習の未来にどのような問題を設定しするのか、それらの問いの中にすでに答があると信じています。
私は、かつて大学経営に携わった時、日本の私立大学は18歳人口の「パイ」の奪い合いをせずに、社会人や世界の18歳人口を顧客に想定すればいい、という問題を立てました。姉妹校関係の提携に奔走したのはそのためです。また、キャンパスを社会人に開放するという問題設定は、図書館の開館時間から食堂の在り方、キャンパスボランティアの導入まで従来の大学概念を根底から変えなければできなかったことでした。一番の問題は、私が関わった経営方針がマニフェストの「契約」手続きにまで高められていなかったことでした。従って、学校教育法によって、大学の重要な「運営の決定権」は責任を取らなくていい教授会に委ねられていました。今でもほとんどの大学が同じでしょう。大学改革の根本もまた政治改革と同じなのです。改革理念をマニフェストに具体化し、その実行ができなかったら運営者が責任をとって交替する仕組みを実現すれば日本の学問も一気に変わることでしょう。もちろん、現行制度の下で、責任の取りようのない教授会に運営を委ねてはならないのです。
岡田外務大臣は、核の持ち込みの日米密約について、官僚に調査を指示し、大臣命令を発しました。命令に従わないものは「罷免」できるという命令だそうです。ボトムアップという実質的には村社会の利害調整に過ぎない日本の愚かな民主主義をトップダウンで一気に破壊しつつあるのは、「マニフェスト」の力です。どうしようもない村社会でも、マニフェストという契約書さえ掲げれば、村の談合や根回しや陰湿な利益調整の裏工作を封じ込めることができるということなのです。民主連立政権の船出にある種の新鮮な驚きを感じているのは「理念」や政策の力が、村社会の異論を封じているからではないでしょうか!?そのような政権交替を日本人が選択したということにも驚いています。初めて政治に希望を持ちました。「契約」経験のない生涯学習の未来は果たしてどのようなものになるでしょうか。

II これからなにが起こるのか

1 生涯学習「格差」の拡大-社会教育行政の任務放棄

(1) 生涯学習の“衆愚主義”

現代の最大の特徴は「主体性」の尊重です。個人主義も,個性主義も,自主性も、主体性も,自律も,自立も、自己流も,勝手主義も,時には「自侭」,「わがまま」ですら,みんな「主体性」の別名です。現代は、自分を中心とした生き方を承認し、「主体性」の尊重が幸福の条件であるという考え方が主流になりました。人生を決めるのは「自分」であるという原則が社会を貫徹しています。この流れを総合すれば,「自分主義」と呼ぶことが出来るでしょう。本書では、この「自分主義」を「自分流」と名付けました。大人はみんな「自分流」を主張するようになったのです。
「主体性の時代」を自分流で生きた時の最大の危機は「格差」の拡大です。生涯教育を生涯学習に言い換えた時,「格差」の発生は不可避のものとなりました。生涯学習を選択するか、否かを、学習者の判断に委ねたからです。
教育と言う時には,原理的に、「教育を担当する主体」と「教育を受ける客体」の区分が存在します。それゆえ、生涯教育の必要が説かれた時、教育の「主体」は誰か,という問題が浮上したのです。事は生涯にわたって継続する問題であり,中身は「教育」ですから,多くの民主主義国家は神経質になりました。生涯教育には確かに誰かが「生涯にわたって教育を管理する」のではないか、という危惧が含まれることになるからです。
アメリカの生涯教育振興法が生涯学習振興法に名称の変更を余儀なくされたのもそうした議論の結果でした。最終的に,日本も世界の潮流に合わせて,ほとんど全ての公的な「生涯教育」表現を「生涯学習」に改めました。
看板を「生涯教育」から「生涯学習」に変えた、ということは,教育者より学習者を優先したということです。学習の実践も、学習内容も,もはや教育者が決定するものではなく、学習者が決定することになりました。行政主導型で推移して来た日本の社会教育,後の生涯学習振興の力が一気に弱体化したのはこの時点からです。生涯学習社会は、「自己教育」の概念だけを残して、高齢期の教育の概念を拒否した形になりました。
個人の選択原理を前面に出した時から,学習の成果は人々の「選択」に左右されることになったのです。当然、自己教育は本人の意志次第になったのです。
特に,高齢者の学習において,生涯学習と「安楽余生論」が結びついた時,教育を提供する側の主体性はほぼ失われました。生涯学習プログラムは,観光やレジャーのサービス・プログラムと同列に置かれて,消費者の需要に対応する“商品”と化したのです。教育行政や教育産業が生涯学習という新鮮で、国民の耳に快い考え方に転換した時、高齢期の学習は「買い手市場」に移行しました。学習プログラムの編成は、内容的にも、方法の上でも人々の需要に対応する方式に全面移行しました。社会教育分野で「要求対応原則」と呼んできた考え方です。
社会教育が生涯教育と同時並行的に行なわれていた時代には、教育の担当者は,常に,「学習必要」と「学習要求」のバランスをとるトレーニングを受けていました。「学習必要」は、教育者が判断する必要なプログラムを意味しています。「学習要求」は学習者が希望するプログラムを意味しています。しかし、生涯学習概念が社会を支配したとき,「学習必要」の議論は遠のき,「学習要求」の重要性が前面に躍り出たのです。選択するのは「教育者」ではなく、「学習者」である事が建前になったからです。この時から,生涯学習プログラムの選択対象は「パンとサーカス」になる方向がほぼ決まったと言っていいでしょう。過言を恐れずに言えば、高齢者教育の民主主義は、生涯学習という名の「衆愚主義」の傾向を帯びることになったのです。個人に生涯学習の選択権を委ねれば,「快楽原則」が前面に出ます。人々は,「負荷」の大きいものよりは小さいもの,難しいものよりは易しいもの,時間や努力を必要とするものよりは簡便に達成できるものを選ぶことは明らかだからです。生涯学習社会は,教育の必要より個人の選択を上位に置く,政治的な民主主義を教育活動に持ち込んだのです。しかし,教育は政治とは異なります。教育には,歴史や文化や科学の要因が多く含まれ,その内容や方法を世論で決めることは適切ではありません。教育においては、優れた一人の科学者や思想家を育てることが、100人、1,000人の知識や知恵を越えることはいくらでもあるのです。生涯教育も生涯学習も両方が必要です。政治環境を多数決で決めるように、教育内容を多数決で決める事は多くの場面で不適切であり、多くの間違いを含むことになるのです。

(2) 生涯教育を捨ててもいいか?

現に,多くの専門職業分野が、それぞれの分野の構成員の知識・技術の向上を,個人の選択する生涯学習には任せてはいません。専門職業分野も、学会も、生涯にわたる学習の必要は、今でも、「生涯教育」であって、「生涯学習」ではありません。生涯教育には、試験もあり,評価もあり,単位制や段階制の研修もあります。日進月歩の知識・技術を、個人に委ねた生涯学習で維持できないことは明らかだからです。どの専門職業分野でも、自らのレベルを維持し、国際社会の競争に勝ち抜いて行かなければならないのは自明のことだからです。
生涯教育では、教育者の現状診断と処方の論理が明確にプログラムに反映されます。これに対して,生涯学習は、学習者の欲求や需要を優先させるので,相対的に,教育を担当する側の意図を明確に反映させることは困難です。生涯学習は個人の向上と幸福に関わっていますが、その中身と方法を学習者の選択に委ねます。個人の「向上と幸福」の条件は、常識的に、健康と元気と、やり甲斐と「居甲斐」の総合されたものでしょう。この時、「自分流」の生涯学習が生み出す最大の危機は人生の「格差」です。格差の発生源は個人が選択する(あるいは選択しない)「生涯学習」の中身と方法です。特に、高齢社会においては、老後の生涯学習が人々の幸不幸を分け、人生の明暗を分けることになります。
生涯スポーツを選んだ高齢者と選ばなかった高齢者では、身体機能維持の可能と不可能を分け、結果的に健康と病弱の明暗を分けます。定年後の集団活動を選択しなかった人々は「新しい縁」に巡り逢うことはほぼ不可能です。生涯活動の有無は、交流の機会の有無に直結しているのです。当然、老後の社交の明暗を分けることになります。趣味の余暇活動でも、ボランティアの社会貢献活動でも、生涯学習を選んだ人と選ばなかった人との「格差」は無限大に広がります。
これらは総称して、「生涯学習格差」と呼んでいいと思います。具体的な中身は、生涯学習を選択した人としなかった人の知識の格差、情報機器の活用をマスターした人としなかった人の情報格差、自らの健康維持実践をした人としなかった人の健康格差、活動を通して仲間ができた人と活動に参加しなかった人の交流格差などが想定されます。これらの「格差」は結果的に、個人の生き甲斐や自尊感情にも「格差」を生じると考えて間違いないでしょう。自分流の生き方というのは個人の自由を前提にしています。そしてこの個人の自由こそが格差発生の遠因です。自由は「選択」を前提にしているからです。生涯学習のスローガンは「いつでも、だれでも、どこでも、なんでも」です。時と所を選ばず,人もテーマも自由ということです。それゆえ、「選択の自由」は「選択の成否」を分けるということになります。
かくして、自分流の最大の欠点は、選択する人と選択しなかった人との明暗が分かれることです。自由である以上、選択する人もいれば選択しない人も出るということです。特に、高齢期の生涯学習は必ずしも理想のシステムではないのです。
生涯学習は自分流ですから、選択するもしないも、原則的に本人の責任ですが、選択結果の格差が大きくなり過ぎると“自己責任”とか、“自業自得”だということで放置するわけにはいかない事態に立ち至ります。不幸な個人が増えれば、たとえその不幸が本人の責任であっても、必ず社会問題にならざるを得ないからです。閉じこもりや認知症や寝たきりなど、極度の老衰を予見しながら、高齢者を放置し続ければ、現行システムの高齢者福祉の「つけ」は、必ず社会に廻って来るのです。
それゆえ、総論的に言えば、生涯学習を選んだ国民の多い社会とそうでない社会では、当然、活力に差がでます。社会の負担も、未来の展望も、子ども達の活力も、技術革新の工夫も、生涯学習はあらゆる面で国際競争の条件を変えてしまうのです。生涯学習の成否は個人の幸不幸を分けるだけでなく、国家の存立にも関わるという点で生涯学習は立国の条件になるのです。しかし、高齢期の生涯学習が安楽余生論と結合したとき、生涯学習は今のままでいいでしょうか?高齢社会が行き詰まる前に、どこかの時点で、高齢者に、“選択必修”の生涯教育(*)を再導入しなくてもいいでしょうか?いまだ誰も議論さえしていないのです。社会教育行政は従来の任務を放棄したことにはならないのでしょうか?

(*) 最近の議論では、飲酒運転の撲滅には、「アルコール依存症」の治療を義務づけることが必要だということが指摘されています。また、後期高齢者の運転免許証の更新時には「認知症」のテストが導入されることにもなりました。社会的に高負担を発生させる危険性が高い高齢者の「無為」に対処するため、“選択必修”の教育プログラムを義務づける必要はないかという考え方と議論の方向は同じなのです。

2 親孝行の限界-介護の行き詰まり

介護と女性の社会進出の両立は不可能です

女性の社会進出は続きます。女性が望んだことであり、社会が必要としたことだからです。それゆえ、家族における、子育てと女性の社会進出の両立が困難であることは少子化が証明しました。親に「代わって」、社会が養育行為の大きな部分を引き受けなければ、子育てを支援したことにならないというのは、少子化の防止を前提としています。当然、介護の問題も同じです。
親孝行の意識だけで、在宅介護をすることは限界です。
介護の場合は、女性の社会進出との両立が困難であるということに留まりません。物理的、心理的に、限界が来ます。
老いて行く親の側に「老い」がもたらす問題の自覚がない時には尚更のことです。24時間の介護は、介護をする側を著しく拘束することになるからです。問題の大部分は高齢者の側の自覚の有無にあります。

3 子ども主体性論の暴走-規範の崩壊した社会

子どもの欲望を野放しにすれば規範は教えられません

近年の家庭教育の失敗は、子どもの「欲望」を野放しにしたことです。とりわけ幼少年教育の失敗は、いまだ未熟な子どもの「自我」と「欲求」を「社会規範」のしつけで抑制しなかったことです。時には、教育界の影響を受けて、子どもの欲求と「子どもの主体性」を同一視しました。
社会のコントロールが及ぶと及ばないとにかかわらず、幼少年期の子どもは生物学上の欲求のかたまりです。食いたいものを食いたいといい、やりたいことをやりたいといいます。もちろん、その逆もあるでしょう。食いたくないものは食いたくないとだだをこね、やりたくないことはやりたくない、と泣き叫んだりします。
社会規範や日常生活のルールのしつけを、子どもの「主体性を縛るもの」と考えて否定すれば、その瞬間から子どもの行動は制御できなくなります。子どもの欲望は野放しになり、子どもはやりたい放題になります。「好き・嫌い」だけで動く子どもを制御できなければ、礼儀は崩壊し、作法は壊滅します。礼儀作法がすたれれば、やがて集団や個人の約束は成立せず、社会的資源の配分の秩序に混乱が生じることは必然です。霊長類ヒト科の動物もまたジャングルの獣と同じになるということです。当然、家族には後顧の憂いが発生します。
- 家庭生活に秩序を取り戻すためには、子どもにルールを強制し、「社会規範」を内面化しなければなりません。それがしつけであり、保護者や指導者が「教えること」を回復することです。社会生活上の重要な規範は子どもの生まれる前から既に決まっています。それ故、規範の中身について、幼少年期の子どもに相談したり、子どもの意見を聞く必要など毛頭ないのです。幼少年期のことですから、たくさんのルールは不要です。誰もが同意できる主要なものは恐らく以下のようなものでしょう。「親や指導者には敬意を払いなさい」、「他人のものは黙ってとってはなりません」、「弱いものは助けて上げなさい。虐めてはなりません」、「自分のことは自分でやりなさい」、「多少の辛いことがあっても、与えられた責任と役割は果しなさい」。
これらの教えは共同生活から導き出され、社会が受け継いできた人生の基本ルールです。それゆえ、これらの考え方が子どもに教えられていなければ、家庭内暴力も、対教師暴力も、万引きも、いじめも、不作法も無責任も当然の結果であると言わなければなりません。後顧の憂いも必然です。
4 実行できないスローガン:「学社連携」
(1) 外部を拒絶する内向きの組織

学校の閉鎖性と唯我独尊性はようやくその病状を露呈して来ました。文科省は学校評議会やコミュニティ構想を導入しましたが、積年の閉鎖性にはほとんど効果は発揮していない筈です。学校は外部評価につながることは一切受け付けたくないからです。
日本の組織は内向きです。外の人を「よそ者」と規定し、時には外人と呼びます。教職員組合の功罪についてはそれぞ
れの視点によって評価が異なるでしょう
が、こと学校に関する限り最大の「罪」
は、学校を「鎖国状態」にしたことです。外部評価はもとより、外の意見を聞く耳を全く持たなくなったことです。教育行政も日本の組織の一つですから「学校組織」の意識の「内向き」について、何一つ修正を求めなかったことは周知の通り
です。学社連携が成立しなかったのは必
然の結果だったのです。
(フォーラム論文は、本稿の約2倍の分量でしたが、紙数の関係で省略しました。全文が必要な方は、福岡県立社会教育総合センター:福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2:の益田茂先生まで90円切手を同封してお申し込み下さい。)

117号§MESSAGE TO AND FROM§

お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。
福岡県前原市 池田須栄子 様

切手が届きました。先輩の励ましに元気を頂き、張り切って書いて参ります。11/25の午前中は前原市ボランティアの会の講座を担当します。講座は一般にオープンですので是非お出かけ下さい。再会を楽しみにしております。

佐賀県佐賀市 小副川ヨシエ 様

いつぞやはお便りありがとうございました。旧豊津町の男女共同参画の会議と似たような組織が合併したみやこ町にもできて、この2年間、「男女共同参画ハンドブック-ここが知りたいみやこ町」の作成に取組んで参りました。ようやく印刷発注の段階にまで漕ぎ着けました。モデルは、甘木・朝倉女性会議の皆さんが作成された10数年前の労作です。
つきましては、来年の1月以降に、完成後の発表・研修を兼ねて佐賀市女性の会へのご報告をしたいのですが、いかがでしょうか?新委員会の中に、当時のメンバーは数人しか残っておりませんが、旧豊津町以来、佐賀市の皆さんに育てていただいたと思っております。御地でご相談いただけると幸いです。実現できそうであれば「豊津さそり座」の皆さんにも声をかけたいと考えております。

鳥取県米子市 先灘達夫 様

日吉津村の橋田さんから便りが来ました。1月の米子大会に便乗して移動フォーラムを企画したいということでした。あなたのご計画にご迷惑をおかけしないことを条件に是非やりましょう、と返事を出しました。現行の文科省の方針が続けば、政治はもはや社会教育に期待せず、組織も施設も再編成され、時には、地域の自治会などに丸投げされて、社会教育は、ますます弱体化して行くことでしょう。中・四国・九州大会30周年を記念した出版物を企画しています。仮ですが、テーマは、社会教育は将来に何を問われているか、ということです。生涯学習の未来学と名付けております。鳥取の皆さんの議論への参加を切にお願い申し上げる次第です。

山口県H21年度生涯学習活動地域コーディネーター養成講座のみなさん

夏が遠くに行ってしまいました。先日、大島まな先生とお会いして、今年は「現地レポート」が来ないね、と話題になりました。御地での活動はそれぞれにいかがでしょうか-美和のキャンプについては、山口県公民館大会の折りに、田中時子さん、柳沢裕実さんとお目にかかり、成功の報告を伺いました。「阿知須元気塾」からは新聞記事が届きました。向山のその後については田中隆子さんからお知らせを頂きました。
周南や防府はその後どのような展開になっているでしょうか。また、下関(豊田)、上関、長門では新しい動きが出たでしょうか?小郡についても、果たして期待通りに学校が開いただろうかと気にかかっています。私たちにできる事があるようであれば、試しにおっしゃってみて下さい。最大限の努力をするつもりです。今回は、報告の催促を兼ねて購読者以外にも「風の便り」をお届けいたします。ご返事を待っています。
お知らせ
1 第92回生涯学習フォーラムinふくおか
日時:平成21年10月10日(土)15:00-
場所:福岡県立社会教育総合センター(福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2、-092-947-3511)
第1部 論文発表:第91回のご意見を受けた続きをします。
「中国・四国・九州地区実践研究交流会28年に見る生涯学習振興政策の課題」(三浦清一郎)
第2部 事例研究:
未来につなげるべき実践:当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。(発表者未定)

2 第93回生涯学習フォーラムin愛媛
中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会に愛媛県のご参加を得た記念とご挨拶を兼ねて愛媛の「地域教育実践研究会21」に合流するフォーラムを企画しました。久々の修学旅行のつもりでご同行下されば嬉しい限りです。
日時:平成21年11月14日(土)13:00-15日(日)12:30まで
場所:国立大洲青少年の家
実行委員会事務局:kouma@d6.dion.ne.jp,-080-1995-6001,Fax:089-960-1900
詳細情報:http://1st.geocities.jp/chiikikyouiku/をごらんください。

3 第94回生涯学習フォーラムinふくおかは忘年例会も兼ねて12/12(土)の予定です。詳しくは次号でお知らせします。

編集後記:森の啓示-セレンディピティ
次に出版する著書の中心概念は「老いる」とはなにか、でした。参考書を読めども、読めども納得できませんでした。生涯現役を論じるにあたって自分の感覚にぴたっと一致する定義はないのです。やむを得ず、生物学的な味も素っ気もない、しかし、単刀直入に事実を直視した定義を採用していました。「老い」とは「衰弱と死に向っての降下である」ということでした。その他のどの定義よりも「よそ見をしない」叙述に満足していました。しかし、生涯現役論は努力の論であり、戦いの論であり、衰弱に対する抵抗の論です。戦っても、戦っても最後は「負け戦」で、間違いなく「死ぬ」のですが、そこに至るまでは、ボロボロになってもがんばり続ける論です。衰弱するという事実だけを核とする概念では戦うという人間の意志が反映できないという恨みがありました。この時、偶然の直観が言葉になりました。
いつものようにカイザーとレックスの催促で朝の森を散歩していました。針葉樹のアプローチを抜けると、相原の池が満々と水をたたえ、池を廻ってサザンカの階段を上り切ると桜のひろばに出ます。広場は真北に向いていて、城山、金山、孔大寺山、湯川山と四ツ塚が遠くの玄界灘に続いて行きます。森は筆者がこの1、2年昔を思い出して始めている歌の舞台です。
鬱蒼たる森を登りて
ようやくに
晩夏の丘に秋風の吹く

八月の朝の光りの
輝きて
夏から秋へ今渡るなり
その日も歌の言葉を探していました。なぜだか分かりませんがその時に分かったのです。筆者が探していた「老い」とは、「意識するとしないとに関わらず、人間が加齢に伴う心身の衰えと戦う過程」である、と。まさしく森の啓示-セレンディピティとでも呼ぶしかない直観でした。この定義こそが「生涯現役論」を支える老いの解釈足りうることを確信しました。論文は一気に進みました。セレンディピティとは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉です。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」を指します。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことです。それゆえ、「偶察力」と訳される場合もあります。しかし、筆者には「森のめぐみ」でした。カイザーとレックスにいざなわれ、雨の日も、風の日も続けて来た森の散策のお蔭であると確信しています。英語の説明は次のように行なわれていました。
Serendipity: the natural ability to make interesting or valuable discoveries by accident(Longman Dictionary of contemporary English)