「風の便り」(第113号)

発行日:平成21年5月
発行者 三浦清一郎

大人はみんな自分流

中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会第29回大会のフィナーレは人生の先輩である4人の方にご登壇いただいたインタビュー・ダイアローグ;「生涯現役の方法」でした。みなさん大先輩であるにもかかわらず、すこぶるお元気で,社会的活動にも、個人的活動にも縦横無尽に活躍されている強者ばかりでした。インタビューのポイントは、老いてなお,生き生きと社会貢献を続けていらっしゃる「方法論」をお聞きするということでしたから、日々の精進と実践法をお尋ねしたのですが,それぞれに超ご多忙で,“いろいろ細かいことを気にしている暇などない”、“前進あるのみ”という総合的なご意見でした。
結果的に,司会者の質問などもいちいち気にしている暇はない,というかのごとく、それぞれが自由自在に語り始め,踊りだす人まで居て,わずか1時間のインタビューでしたが,当方だけが疲れ果て,終わった時には汗びっしょりでした。
大会終了後にいただいた関係者の感想には次のように書かれていました。“あの4名の方々を選んだ時点で、大成功!!でしたね。強烈な存在感と説得力、イヤー参った!!ってとこですね。司会者もたじたじ。まだまだ彼らの域には達していないということで・・・とにかくお腹の底から笑うことができました。あの会場を埋め尽くす大勢の人間が、共通の笑いを共有できたことが、何よりも素晴らしいと思いました。”
また,別の方からは,“、特別企画では司会者が汗だくになりながら、思うように論点を深められないお姿を初めてみました。やはり、アラウンド75の先輩方は凄すぎますね。限界を超えていますね。(記録が難しいので)今後は70歳以下にしていただければありがたいです。“

人生の達人たちはそれぞれに生き方も、発想も、質問への応え方も極めて個性的な「自分流」なのです。筆者の結論はそこに落ち着きました。

1  変化の連鎖-適応の条件、立国の条件

(1) 生涯現役は生涯学習に接続する

生涯現役は詰まるところ生涯学習に接続します。生涯現役とは生涯にわたった社会との関わり,生涯にわたった心身の活動を意味します。そして、生涯学習とは生涯にわたった心身の機能の健康で,効率的で,より意義のある使い方を意味しているからです。それゆえ、生涯現役とは人生の最後まで、頭も、身体も,気も使い続けようとする生き方を意味し、生涯学習とは、それら心身の機能を最適・最大にするための学習を意味します。心身の機能をもっとも有効に使おうとしたとき、研修も,訓練も、勉強も,学習も不可欠であることはいうまでもありません。だんだん衰えて行く熟年期において,肉体の健康も,頭脳の活性化も,気力の充実も工夫なしに維持することは出来ないからです。当然、生涯現役者のあらゆる活動の根幹は本人の質に関わっています。
この時,心身の健康も、人間関係のあり方も,暮らしの経済活動も、余暇時間で楽しむ趣味や娯楽の中身も、全て本人の質に関係し,「生涯学習の成否」を反映することになります。人生のあらゆることは一人一人の生き方にかかっています。そして、一人一人の生き方は、生涯を通した「学び」にかかっており,「学び」は全て各人の関心と意欲にかかっているからです。人々の日々の暮らしを変えるのも、生き方を決するのも、最後は、言葉のもっとも広い意味で、本人の生涯学習に帰結することは言うまでもないことでしょう。

(2)  変化の時代

さらに、現代は「変化の時代」です。変化は生活の全分野に及び,変化しないものはないと言っても過言ではないくらいになりました。生涯学習という言葉も,生涯学習を支えるシステムもそもそも「変化」が生み出したものです。変化の推進力は「技術革新」にありました。高齢社会は平均寿命の伸長によってもたらされ,平均寿命の伸長は保健医療技術の革新によってもたらされました。ところが、高齢化は,介護や孤立や老後保障の問題を生み出し,若い世代の負担を一気に増大させました。変化は「連鎖」せざるを得ないのです。
一方、情報機器分野の技術革新は、コンピューター利用の日常化をもたらし,今や情報機器を使えないことは現代を生きることが困難であるまでにわれわれの日常に浸透しています。この時、高齢者が情報機器の活用を学ばなければ,彼ら自身はもとより,国家の大いなるハンディキャップとなることは火を見るより明らかでしょう。
生産の分野でも日本の技術革新の成果は,それぞれに組み合わされ,総合化されて,生産力と生産技術を向上させました。その結果,日本の製品は性能も,耐久性も、価格も世界の製品をしのいでいるのです。それゆえ、日本の製品は世界の市場で歓迎され,日本は貿易立国として今日の地位を築いて来たのです。もちろん、貿易立国は世界との交流が不可欠になります。経済はもとより,暮らしの全般において、日本人の考え方,感じ方を世界との交流を前提としたものにしなければなりません。国際化が教育の新しい課題として登場したのは、当然のことだったのです。このように一つの分野の変化は別の分野に影響して,次々と新しい変化を引き起こします。
変化の時代とは,変化が連続し,拡散し,ますます変化   のスピードを増して行く時代を意味します。
変化が生涯にわたって連続するようになると,昔ならった知識や技術の多くは通用しなくなります。こうした現象を知識や技術の「陳腐化」と呼んでいます。要するに、もはや古くて,時代の要求にあわず、使い物にならないという意味です。「陳腐化」は、考え方や制度にも及びます。したがって、政治にも,行政にも,メディアにも,老後の暮らしにも,男女共同参画にも,子育て支援にも及びます。
今までの暮らしが絶えず変わって行く時代には,新しいやり方,新しい仕組みに適応しなければなりません。適応に失敗すれば,取り残されます。周りの条件がめまぐるしく変わっているとき,自分だけが変われなければ、生き残ることが難しくなります。人間の一生に渡って変化が続く時代には、同じく一生に渡って、変化への適応を続けなければならないのです。 変化は基本的に、人間の願望がもたらすものですから、上手に取り入れて使えば、人間の願いを叶えてくれます。
人間の願望を製品に反映できなければ、製品は買ってもらえません。技術革新に遅れた企業が倒産するのはそのためです。個人も同じです。変化に遅れれば、さまざまな点で暮らしが難しくなり、大げさに言えば、それぞれの願いの実現を阻害します。
情報化の時代に情報機器が使えないと暮らしは極端に不便になります。医療保険情報に遅れれば、日々の健康管理に落ちが出ることになるでしょう。生涯学習は変化に適応することを目的として発明された考え方です。考えの核心は、個人も組織体も、変化する暮らしの要因を素早く読み取って、新しい知樹や技術や考え方やシステムに切り替えるための学習支援です。生涯学習は、変化の時代には,個人が生き残る条件であり、国家の立国の条件なのです。
部分的に問題はありましたが,これまでの日本は変化への適応に成功しました。国民がきちんと勉強して来たということを意味します。変化がますますそのスピードと度合いを増している今日、生涯学習はますます不可欠になって行きます。個人にとっても、国家にとっても、これからが生涯学習の勝負のしどころになります。
2 人生に「安定」はありません

人間の心身は常に変わり続けます。一人一人の個人を取り巻く人間関係も、社会的条件も、本人の生物学上の発達の条件も、刻々と変わります。変化の中で生きることは人間の宿命であり、言い換えれば、人生に「安定」はないということです。私たちは自分を取り巻く他者とも、社会環境とも、常に関係し、交渉し、影響を受け、周りの変化に対応しなければなりません。心身の機能の変化についても同じです。身の回りのどれ一つが変わっても、われわれは昨日までの安定を失い、人生は変化の中に投げ込まれます。
褒められても、叱られても、好かれても、嫌われても、元気になっても、元気をなくしても、仕事が旨く運んでも、運ばなくても、昇進しても、昇進できなくても、あらゆる変化は私達から「安定」を奪い去ります。まして、社会的条件の変化は私たちの意志や努力に関係なく、人生を変化の中に放り込みます。あらゆる変化は「人間と環境との不均衡状態」を生み出すということです。私たちは褒められれば嬉しくなり、気持が高揚します。叱られれば逆のことが起こるでしょう。好かれた場合も、嫌われた場合も似たようなことが起こるでしょう。
人間関係の変化も、社会的条件の変化も、大なり小なり、私たちの心を波立たせます。やって来る変化が多様である分、人生の波立ちもさざ波から大波までさまざまです。「波風を立てるな」という言い方があるように、波は安定を損ない、人間と環境との対立や摩擦や矛盾を意味しています。変化が不均衡状態を生み出すということは、自分を取り巻く状況に対立や、摩擦や、矛盾が起きるぞ、ということなのです。
私たちは、当然、対立にも、摩擦にも、矛盾にもそれなりの対応をしなければなりません。対応策は二つに一つです。一つは、自分の都合に合わせて環境を変えること、もう一つは環境の変化にあわせて自分を変えることです。前者は、環境の改善であり、後者は環境変化への適応と適応のための学習です。本稿の目的は「環境の改善」ではありません。「環境変化への適応と適応のための学習」のための「仕組み」を学ぶことです。もちろん、自分が変わると、結果的に相手も変わってくれて、人間関係の環境が改善されるというような場合も稀にはあります。理屈の上では、「環境の改善」も、「環境変化への適応と適応のための学習」の「仕組み」も両方が同時平行的に行なわれればそれに越したことはないのです。しかし、通常は、「環境の改善」は物理的にも、時間的にも、技術の上でも極めて困難で,手強いのです。環境の改善は大事ですが、なかなか個人の手に負える代物ではないのです。あまり良いたとえではないのですが,家の構造が歪んで動かなくなった戸や障子のことを考えてみて下さい。柱が歪んだ家を直すには大変なお金も技術も必要ですが、障子を削って取り敢えず開け閉めが出来るようにすることはほんの少しの技術があればできます。環境は「柱の歪んだ家」にあたると考えてみて下さい。そして「自分を変えること」は「戸障子を削って柱に合わせること」にあたると理解しておきます。
3 大人はいつもたいてい不満です
私たちはだれでも自分を取り巻く環境の中で暮らしています。環境には、自然環境もあれば、人間的・社会的環境もあります。言い換えれば、人生は個人と環境との絶えざる相互作用です。私たち自身も変わるし、環境も変わるので、この相互作用の過程が、安定した状態を保つことはまず出来ません。私たちは努力して環境を改善したり、自分を環境に合わせたりして、個人と環境の間の均衡と安定を図ろうとしますが、「いい状態」はなかなか長続きしません。ある課題を解決したと思ったその時にはすでに別の課題が生じつつあるのです。折角達成した安定」はたちまち新たな疑問や不安に取り巻かれて行くのです。私たちの存在は心身ともに自転車の運動に例えることができます。自転車はそれが動いている限り均衡を保つことができます。しかし、停止と同時に自転車は均衡を失います。私たちの心身も環境に適応して変化を続けることによって安定を求めようとします。「適応」するということは「調節」するということです。その意味で人生は絶えず変化する川の流れのようです。満足した途端に何らかの変化が生じて、安定は不均衡に、満足は不満や不安に変わって行きます。大人はいつもたいてい、大なり小なり、不満だったり、不安だったりするのです。不満や不安の原因は「変化」です。環境の変化が不満であったり、環境の変化に旨く適応できないことが不安を引起こしたりするのです。したがって、私たちには常に、環境への働きかけや環境への適応行動を続けなければならないのです。もちろん、適応行動は必ず学習を含みます。なぜなら、変化に上手に適応するためには、何が変化したのか、変化は自分に取ってどんな意味があるのか、私たちの環境認識は間違っていないか?環境認識が間違っていないとして、ではどうすればいいのか?問題を解決するためにはこれらの問いに全て答えなければならないのです。
自転車は止まると倒れます。われわれの心身も変化を止めた時は死に繋がるのです。私たちは一生を通して絶えず変化し続けます。身体が変わっても、外部環境が変わっても、私たちの気持の持ち方を調節しなければなりません。調節は適応であり、適応もまた内的な変化であることは言うまでもありません。「心変わり」もまた変化なのです。かくして、私たちは無数の変化に取り囲まれ、無数の適応と調節を行ない、生涯を通して、自分に最適の安定を求め続けて行くのです。
それゆえ、問題はなぜ、そしてどのように変化が起こるのか、どうしたら旨く適応や調節が出来るのか、を明らかにしなければなりません。変化を上手に解き明かせなければ、日々の生活に不満と不安がつきまといます。人生は常に
適応と調節を駆使して環境との均衡を学習しなければならないのです。*1

* 1 このような考え方を提起したのは主として欧米の研究者です。例えば、「不協和の理論(Theory of Dissonance)を唱えたフェスティンガー(L.Festinger)、認知理論のピアジェ(Piajet)、人格発達論のリーゲル(K.F.Riegel)などです。解説は拙著成人の発達と生涯学習、ぎょうせい、昭和57年、pp.16~47を参照して下さい。

4  見方も、考え方もバラバラです
私たちは同じ出来事をそれぞれに解釈します。似たような経験から全く違った意味を引き出します。たしかに、環境は客観的に存在するのですが、一人一人に取っての意味はバラバラです。それゆえ、環境実態も大事ですが、環境の「受け止め方」はもっと大事なのです。
一人一人に取っての環境は、個人と環境とのかかわり合いですから「経験」と置き換えても言いでしょう。環境の受け止め方が異なるということは、経験の解釈がそれぞれに異なるということです。私たちは環境に反応するのではありません。「私たちが受け止めた環境」に反応するのです。大切なのは「経験」と「その解釈」です。
大人はみんな「見方」も「考え方」も,「生き方」も自分流です。好きな食べ物から男女共同参画まで大人の発想と態度は千差万別です。ファッションのスタイルから生活習慣病まで大人はみんな自分の生きたいように生きています。人生で受けた教育が多様であれば多様な分だけ大人の視点はさまざまです。辿って来た人生の経験経験が多様な分だけ大人の解釈も,生き方も自分流になります。自分流とは主観的にこれでいいんだと納得して生きているということです。「納得」は「安定」を意味し、自足して「足るを知る」ということですから、素晴らしいことなのですが、一方では、変化への対応が遅くなり、新しいことに踏み出さないというマイナスも含んでいます。人生は自転車のように止まると倒れます。社会も人間関係も常に変化を続けています。変化によって生じる問題を解決し、自分を取り巻く社会環境との平衡を保つためには止まるわけにはいかないのです。
長い人生の中で,大人が一度思い込んだことはなかなか変えることができません。失業とか,病気とか、事故のように,自分の環境からよほど強い強制力が働かない限り大人の生き方は変わりません。感性や感情のあり方も若い頃からの蓄積の結果ですから,少しくらいの警告や助言は受け付けません。ふりこめ詐欺や安直なもうけ話に引っかかるのも事前の思い込みや生活態度が大いに関係しています。英語では“年老いた犬に新しい芸は仕込めない(There is no new tricks for an old dog.)”と言いますが、生涯学習にとってこのことわざは間違いです。もちろん,年をとった犬にも新しい芸を仕込むことはできます。犬も人間も年を取って学習が不可能になるならば,生涯教育の意義も,生涯学習の可能性も失われます。逆に,認知症の進展や変化への不適応は年寄が学習を放棄した場合であることが多いのです。心理学も,医学も、スポーツ生理学も使わなくなった人間の機能は時間の経過とともにその働きを失って行くと警告しています。「使わない機能は駄目になる」ということは、医学用語では「廃用症候群」と呼ばれています。
但し,上記の英語のことわざが、年をとった犬は若い犬より訓練が遥かに難しいという意味ではまさしくその通りです。年取った犬もまたこれまで生きて来た経験をもとに自分流で生きているからです。
教育学は「変革」は「形成」より難しいと言っています。

5  大人はみんな自分流
(1) 存在の個体性と認識の自己中心性

大人は過去の経験を踏まえて,見たいものだけを見て,聞きたいことだけを聞く傾向があります。人間は他者と切り離された個別の存在です。人間が「個体」で生きているということは,自分のことは分かっても,なかなか他者のことは分からないということです。怪我をしても,病気をしても,誰にも代わってもらえません。筆者はこのことを「人間存在の個体性」と呼んできました。個体は他者の痛みをわが痛みとして感じることはできません。「痛み」が最も分かりやすい例ですが、よろこびも,哀しみも,怒りも,焦りも、人は基本的に他者と共有することは出来ないということです。あらゆる教育や学習に「体験」-「体得」が大事なのはそのためです。教育原則の第1は「大人も,子どもも自分でやったことのないことは出来ない」ということです。私たちは自分のやったことは己の肉体・全感覚を通して理解し―実感し、個体を通して判断します。心身の全体が理解し,技術などは「身に付く」と言います。それが「体得」です。想像力も,理解力も,共感も,同情も,自分の個体の体験を基にして作られるのです。世界も,人生もたくさんの情報に溢れていますが,人間はそれらを全部吸収するわけでも、理解するわけでもありません。特に大人は自分の過去の経験に基づいて自分に必要で,意義のある情報だけを取捨選択します。その時,われわれの個体が蓄積して来た過去の経験は情報収集のフィルターの役目をします。自分に関係のある情報だけを拾い上げ,関係のないものは無視するのです。「見たいものだけを見る」とは,「自分の関心のある物だけに目が行く」,ということです。「聞きたいことだけを聞く」というのも同じです。物理的に強制しない限り,自分に関係があり,関心を引く音だけが聞こえて来るのです。
その意味で大人は極めて「自己中心
的認識者」であり、「自己中心的な
学習者」です。

(2) 自分の目-自分の経験-記憶の仕組み

私たちは「自分の目」-自分なりのフィルターを持っていることはすでに述べました。それが「自分自身観」です。
全ての経験は自分自身観というフィルターを通して本人の経験として記憶されます。見たいものだけを見、記憶に値するものだけを記憶しているのはそのためです。
それゆえ、大人の研修や学習支援においては、ご本人の経験に関連づけて指導することがもっとも印象に残ります。私たちは私たち自身に関係のないことは覚えていないし、興味も持たないからです。大人も子どもも学習支援の原則は同じです。「やったことのないことはできません」。だからやってみることが大切です。自分がやったことはよく覚えています。本人に発表させ、本人が実験し、本人が実習することが大切です。
「教わったことのないことは分かりません」。だから、理由もやり方も丁寧に教えなければなりません。但し、教えた結果は本人に復唱させることが大事です。聞いただけでは素通りしてしまうことも、自分自らが繰り返しておくと大分記憶に残るものです。それゆえ、「やったこと」も、「教わったこと」も、本人自身の反復と練習がもっとも重要になります。「練習しなければ決して上手にはならない」のです。教育心理学の教科書には、本人の興味や経験に関連づけて教えなさいと書いてあります。自己に関連づけるとよく記憶できるということです。逆に、自分の関わったこと以外はよく覚えていないということにもなります。筆者はこの10年英会話のボランティア講師として毎週公民館の大人の学級を指導して来ました。教材は生徒さんが選ぶのですが、それを咀嚼して,英会話の素材にし,生徒さんとのやり取りを繰り返すのは指導者の私です。結果的に,上手に指導しようと努めれば努めるほど,指導者が反復する度合いは多くなります。結果的に,指導者が一番物覚えが早くなります。
このことが分かって以来、英語を上達するためにも,ボケないためにも、指導は続けようと思っているこの頃です。繰り返しになりますが、私たちは自分を中心に生きているということです。自分の経験に拘り、自分の都合に拘り、ものごとを自分に関連づけて理解し、記憶するのです。いい指導者で居たいと思えば思うほど,教材を自分のものにしなければなりません。指導者が上達するのは道理なのです。

(3)  目標の「自己設定」-評価の「自己納得」

自分のみたいものだけを見、聞きたいものだけを聞くという成人の特性は,個人の人生にさまざまな影響をもたらします。
身の回りの条件を自分に都合のいいようにだけ解釈していれば,いつかは人間関係も,状況判断を間違えかねません。見るべきものを見,聞くべきものを聞かないと研修や学習の成果も上がりません。大人が自分らしく生きることは大事なことですが,「自分流」にもメリットとデメリットの2面性があるということです。
大人は自分流で自信を持って生きている分,自分の基準にあわないものには関心を持たず,自分が納得しないものは受け入れません。それゆえ,大人の研修や学習指導には「自己納得の原則」が不可欠です。どんなに価値があろうと,科学的に証明されたものであろうと,大人は自分が納得しないものには耳を貸さないということです。詐欺の被害者や頑固爺さんの言い分を聞いていると,なんでこんな分かり切ったことが承服できないのか,と思うこともあるのですが,それが大人の自分流でもあるのです。人種問題から男女共同参画まで、問題が複雑になればなるほど、時に,大人の答は、過去の教育成果や経験を引きずっていて、初めから決まっているのです。
それゆえ、指導に当たっては,指導者の目標を押し付けても旨く行きません。指導目標を本人が納得できるよう説明上の工夫や配慮が大事になります。指導目標と各人の学習目標が重なるように設定することが重要です。設定された研修の枠からはみ出さない限り,参加者自身が自己目標を決めることは最も効果があります。自分が決めた目標は当然本人が納得しているからです。評価の視点の同じです。自分で決めた評価の基準には文句が出にくいということです。
それゆえ、大きな目標を立てておくといろいろな角度からの解釈が可能になるので、納得してもらいやすくなります。大目標は「まちづくり」とし、「まちづくり」のために何が必要かはそれぞれが判断するというような工夫です。あるグループは自然公園を活用した健康づくりプログラムを工夫しました。別のグループは商店街の空き店舗を活用した子育て支援と商店主による生活講座を企画しました。別のグループは忘れられていた歴史的文化財の復活に取組みました。研修の内容も方法も多岐にわたって,まとめは不可能に近いことでしたが,研修参加者は大いに張り切ってプログラムの実践に取組んだのです。
また、先に例に挙げた、英語のディスカッショングループの教材選択も一定の条件をつけて学習者の選択に任せています。時には指導者の思惑に外れた資料が出て来るときもありますが,本人の熱意はもとより,他の学習者もいずれは自分の番が回って来るので、他者が選択した教材を尊重して不平は出ていません。指導する側がお仕着せで教材を決定した場合には必ずいろいろな注文や不満が噴出することは多くの経験者が語っています。
もちろん、学習成果の評価についても,他者の評価よりは,自分が納得できるか,否かが問題の中心です。自己評価は「甘く」なったり,自慢評価になったり,客観性を失う危険もありますが,各人の評価基準をつきあわせることで極端な「主観性」や「偏り」は予防することができます。自分の評価が世間の評価と一致したときが成人指導の“幸福”ですが,そうは問屋が卸さない場合が多いことは周知の通りです。
大人はみんな自分流ということは、大人の研修は自己目標、自己納得、自己評価が指導の基本だということです。

「主体性」問答
-幼少年教育の最大矛盾-

福岡県みやこ町の「男女共同参画ハンドブック;ここが知りたいみやこ町」の執筆・編集が最終協議の段階に入りました。甘木・朝倉女性会議の太田初代代表からのご提案もあり,「思春期」の子どもについては特別に取り出して,保護者への解説の章を儲けることで意見が一致しました。
思春期問題を調べて行くうちに,課題はドラッグや援助交際や引き蘢り等々の社会現象に留まらず、子どもの「主体性」をどこまで認めるかという保護者・教育者の判断であることに気付かざるを得ませんでした。
結論は次のようになります。
1 現代日本の育児論・教育論は子どもの主体性・自主性を尊重することが育児や教育の根本原理であるかのように主張する。

2 子どもの主体性を認めれば,子どもの拒否権も選択権も認めなければならない。

3 「主体性」を突き詰めて行けば,援助交際も売春もドラッグですらも、原理的には,本人の「主体的行動」の結果であるということになる。子どもの「意志」だから尊重せよ、と言い続けるならば、教育者に子どもの「主体的行動」を止める論理は成り立たない。

4 現代の教育が子どもの「意志」を全面的に受け入れるならば,教育は崩壊せざるを得ない。

5 みやこ町のハンドブックには、子育てにおいて、子どもの「意志」は最初から制約せよ,と書かなければならない。特に,思春期の問題行動が始まってから,子どもの「主体性」を制約することは不可能に近い。

第28回大会の懇親会でたまたま近くに坐った熊本の先生と問答になりました。
先生:いつかは自分で生きて行くのだから、子どものうちから自主性や主体性を育てる事は大事だと思います。

三浦:大事ですけど“さじ加減と条件次第”ですね。

先生:主体性を制限せよ、ということですか?

三浦:そうです。自主性も主体性も大切ですが、幼少年期の子どもの自由は指導者(保護者)の決めた「枠」の中に限定すべきです。その「枠」を設定する時のさじ加減が大事だという意味です。キーワードは「ほどほど」です。子どもの個性と発達段階の違いがあるので一概に「自由度」や「制限の程度」を決める事はできません。

先生:主体性と人権は同じですか?

三浦:人権は基本的に法律用語ですが、教育の場面では同じだと考えるべきでしょう。

先生:そうなると幼少年期の主体性を制約するという事は人権を制約するということになりませんか?

三浦:なります。主体性も人権も人間の欲求が基本です。その「欲求」を制限するべきだと申し上げているのです。

先生:しかし、人権は平等に保障しなければならないと思いますよ!

三浦:法律上はその通りだと思います。しかし、教育上は「欲求の中身」を考慮しなければならないと思います。
世間が論じている「人権」が人間の欲求のどの範囲までを取り上げているか、が問題です。人権の前提が「生存の欲求」や「安全の欲求」を意味しているのであればおっしゃる通り平等に保障しなければなりません。しかし、「やりたい事はやりたい」・「やりたくないことはやりたくない」という欲求までを含んでいるのならば大きな間違いです。後者は単なる「わがまま・勝手」ですが、欲求の一部であることは疑いありません。

先生:人権とわがまま、主体性と自分勝手をだれが選別するのですか?

三浦:それはあなたでしょう。指導者のお役目です。

先生:選別の基準は何ですか?だれがそれを決めるのですか?

三浦:基準設定の原則は、「共益」と「公益」に反していないか、否か、だと思います。「共益」と「公益」の基準は時代と社会が決めます。要は、本人を含めて、みんなのためになるか、否かを判定する事です。学校においてわがまま勝手の児童が他の子どもの勉学の妨害をすることを許してはならないでしょう。

先生:そう言われても「公・共益」の判断を任されるというのは「荷」が重すぎるのではないでしょうか?

三浦:その判断ができないというのなら教員はプロだと言ってはならないと思います。また、その判断をしなくていいのであれば、教育は塾でも家庭教師でもだれがやってもいい筈です。もともとはそうだったのですから・・・。

先生:われわれの本業は教科担任制ですから、教科の指導と中身が問われるのであれば、納得できますが、しつけや児童の言動は親の役割、家庭教育の責任でしょう。

三浦:原則はその通りですよ。国によっては、学校は思想・心情、態度・振る舞いについて余計な事を教えるな、というところもあるくらいです。しかし、家庭教育が崩壊に近く、集団教育の現場で、勉学の秩序と規律が保てないときはどうしますか?塾が勉学の規律を保っているのに、学校が保てないのは、義務教育の側の考え方に問題があるのではないでしょうか?両者の違いは、学校が子どもの主体性を優先しているのに対し、塾は塾の主体性を優先するということではないでしょうか?塾の指導を妨害する子どもは,退塾させるということです。
塾は、塾の責任において、自主性とわがままを選別しているということになります。

先生:学校はだれの責任で選別することになるでしょうか?

三浦:教職がプロだと主張するならば,一人ひとりの教員に始まって、実体的には,職員会議や校長先生のご判断ということになるのではないでしょうか?

先生:なかなか一致しないでしょうね。

三浦:基本的生活習慣や社会規範の習得や集団行動の「訓練」に手を焼いているのは、教育行政や教員の意思統一が出来ないという背景があるのだと思います。

先生:保護者のお考えとぶつかりますね。

三浦:子どもの意志や欲求を尊重することが子ども自身のためになるという保障はどこにもありません。反って、子どもの不利益になることも多い筈です。学校はそのことを明確に保護者に伝えるべきだと思います。

先生:個々の学校でできる事でしょうか?

三浦:学校が出来なければ出来るところはないでしょう。共益と公益の基準に照らして、子どもを変えることが出来れば,保護者は納得しますよ。おやりになっている校長先生もいらっしゃいます。

先生:教師主導ということになりますね。

三浦:「子ども中心」から「教師中心」へ,現代の学校には、まさにそのことが求められているのです。ポイントは、子どもの自己決定権を認めれば、その拒否権も認めなければならない、という一点です。拒否権を認めて教師の指導は可能でしょうか!?
113号お知らせ第90回生涯学習フォーラムinふくおか

1 論文発表:
「自分自身観の危機:アイデンティ・クライシス-安定の崩壊,均衡の喪失、納得の不在」(三浦清一郎)
2 事例研究:
当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。

§MESSAGE TO AND FROM§

お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。みなさまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。
広島県廿日市市 川田裕子 様

中国・四国・九州地区の大会のお蔭で久々の再開ができました。子ども達の貯金のお話をお聞きし、相変わらずの奮闘ぶりを想像しております。大きく成長した“ビッグフィールド”の子ども達と親しく話をする時間が飛んでしまって残念でした。仲間がいなくて大丈夫か、懇親会にはとけ込めるか、などと気にしていましたが、各地の仲間をつないでいるうちにいつの間にか夜更けでしたね。来年から四国の愛媛のご参加が決まり、交流の輪が広がった嬉しい大会でした。

島根県雲南市 和田 明 様

お元気なお姿に接し、励まされました。第28回大会で、“生涯現役の方法”を特別企画に取り上げたのもやや自らの気力・体力に自信を失い、先達の教えを請いたいという思いがありました。「読み、書き、体操、ボランティア」の処方は変わらないまでも、若い時の第1順位「体力」は、熟年期に入ると「意志と意欲」という精神的なものに取って代わられるということを理解しつつあります。処方を実行するか、否かは精神が決定するということなのでしょう。

熊本県熊本市 田上明利 様

お便りありがとうございました。28回大会では熊本の先生方とユックリお話しができて何よりでした。確かに今年の熊本からのご参加は例年より少なかったですね。当方の広報不足ということも関係していると思います。そこで「熊本移動フォーラム」のご提案です。長崎の先生方とも同じご相談をしているところですが,大会広報を兼ねて,福岡との合同勉強会はいかがでしょうか?
移動フォーラムは、どこの県でも、町でもいいのですが、当該地域の催しに便乗して当方の研究グループが遠足を兼ねて出かけて行く研修会です。いつも福岡へお出かけいただいているので,われわれも出かけようという趣旨も含んでいます。しかし、誰もいないところへ研究会を出前しても仕方がないので、他の事業に便乗する方法を採っています。その際,福岡のメンバーをご自由にご活用下さい。通常、私は当該事業に関連した「フォーラム論文」を執筆し、討議の材料を提供するようにしています。時期と時間は問いません。出かける先の事業日程に合わせることにしております。したがって、福岡のメンバーは、出席の可能な者もいればその時に塞がっている者も出ます。事前に相談の機会をご配慮いただけると多くのメンバーが参加できます。
福岡では定期的に、大体月1回から2ヶ月に1回の割合で企画する自由な研究会です。ご提案まで。

福岡県朝倉市 太田政子 様

論文のような分厚いお便りが届きました。ぎりぎり「風の便り」にも間に合いました。ご感想の多くは巻頭小論;「大人はみんな自分流」と重なりました。
“老いて行く我がすがたをさらけ出し,老いて行く我が生活を認めて,楽しみながら今を一生懸命生きる”。“これが最高の日々の精進と実践と思う”。“今日の全力は明日の最善に繋がる”。すべて同感ですが,たった一点先輩の定義と筆者の定義に重要な違いがあります。「現役」の対語は「隠居」とか「引退」です。それゆえ、がんばって「生きているだけ」では「現役」にはなりません。社会から「隠居」せず、最後まで社会の役割にも、責任にも関わろうとする意志と実践;それが私の「現役」論です。それにしても80歳を越えてなお,大会で紹介されたNPOの発表を全てお聞きになって、作戦を立て,「女性会議」の破壊と改革を構想するあなたにはどことなく小泉純一郎元首相の面影が彷彿としています。恐れ入りました。

過分の郵送料をありがとうございました。

島根県雲南市 和田 明 様
島根県益田市 渋谷秀文 様

編集後記
青嵐の窓辺

第28回中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会の最終日は風の強い日になった。三々五々、参会者が散って行く。“さよなら”や“また逢おう”があちこちで飛び交う。いつもの事だが一期一会の宴の後の寂しさは例えようもない。人はこのように集い、やがて目的を果たしてそれぞれに散って行く。「人に会う」ことは確かに「力仕事」であるが,この「力仕事」を通らないと元気にはなれない。事例発表もまたそれぞれに「力仕事」だった。人生は、生きるための「負荷」に耐えることこそが明日の熱源を生み出す秘訣であると再確認した次第である。
この大会を、実践者を「つなぐ舞台」にしようと徹してきたことは決して間違いではなかった。人は人によって気力を充実させ,人は人との交流を通してエネルギーを創造する。出会いの「触媒」こそが「発表事例」であった。ある意味でアカデミズムとの縁を切り,実践者以外は大会に登場させない,という原則を守ったことも成功の一因であった。28年もの間、手弁当・手づくりの「交流会」が続いて来た最大の秘密がそこにあるだろう。そして不登校や引き蘢りやニートの人たちの最大の不幸もまた彼らの生活の中に手応えのある実践と人間交流が存在しないということにあるのだろう。「人間」という漢字を発明した人々はまさに人は人の間で生きるという事実を理解していたに違いない。今年は古い参加者の中に家族連れが4組もいらっしゃった。自分が感じて来た“手応え”や“つながり”の新鮮さを言葉だけで家族に説明し,伝えることはどれほど難しいことだろうか!百聞は一見に如かず、とお考えになったのだと思う。また、ご本人は出席が叶わなかったのに,今年もまた,恒例の競り市に土佐の打ち物包丁が届いていた。高知の小松先生からに違いない。小松先生もまた遥かに青嵐の篠栗を遠望していらっしゃったに違いない。
会場となった福岡県立社会教育総合センターのロビーには、西側に木々の茂ったみどり溢れる大窓がある。センターの職員は大忙しで働いていたが、私は最後の方をお見送りした安堵感で疲れ切って窓辺のソファーに坐った。大会の終わりに青嵐の窓辺に坐ることはここ数年の習いになった。行く人来る人、大会はそれぞれの人生の「交差点」である。元気でいて、ふたたび,一年後に五月の花に逢いたいと思うごとく,来年もまた、このみどり溢れる窓辺に坐りたい。

大会を無事為し終えて
青嵐の轟々たるや
我が胸に吹く