「風の便り 」(第156号)

発行日:平成24年12月
発行者 三浦清一郎

ごあいさつ
 時代の変化がめまぐるしく季節の逝くのが速いですね。2012年が終わります。この1年「風の便り」にお付き合いいただきありがとうございました。新しい年も、転ばぬよう、病気をしないよう精進を怠らず書き続けたいと願っております。読者の皆様もどうぞお元気で、良いお年をお迎えください。

学校で言葉を発しなかった子どもがついにしゃべりました
-「場面緘黙症」との戦い-

1 個人指導はしない

 入学以来、約8ヶ月、学校でも学童でも、人前で一言も言葉を発しなかった子どもが11月の終わりについにしゃべりました。感激でした。
 学童保育の指導員の皆さんには個別指導・個人指導はしないよう助言してきました。それでも熱心な指導員はなかなか諦めが悪く、ついつい子どもを1対1で指導している光景を見ました。子どもは貝のように固くふたを閉じて耐えています。ついにその子どもについては、個人指導をしてはならないと厳命しました。
 学校でも、学童でも、個人的に指導しようとする試みはすべて失敗していました。時には、何とか一言でもしゃべらせようと、担任と主任指導員が一緒になって、1時間も指導を続けたという報告も受けていました。
 なぜ個人指導が効果を発揮しないのか、正確な理由は分かりません。しかし、個人に「教育的負荷」をかけ続けても、この種の子どもの場合、かえって益々頑にしてしまう結果が続いていました。

2 潜在する可能性

 言葉を発しなくても、その子は学校へも、学童にもやってくるのです。ある意味で「根性」はあるのです。しかし、最初は、朗唱も、身体運動も、何もしたがりませんでした。もちろん、「きびきびした」ところは全くありませんでした。
 しかし、井関での集団指導は、出来ても、出来なくても、やりたかろうと、やりたくなかろうと他の子どもがやっている中に放り込むことを原則としています。もちろん、当初は、「放り込まれても」、どうしていいか分からずに「立ち往生」しているのですが、気がつく限り小生は、集団と同じ事をするように「強制」しました。跳び箱の最初の場面には、主任指導員と二人で、跳ぼうという気のない彼女の手をつかんで、両側からぶら下げて走って行き、低い跳び箱の向こう側へ放り投げました。彼女は半べそをかきながらも泣き声は立てませんでした。それを何度か繰り返しました。まだ1年生ですから、「不登校」になったらどうしよう、と心配が頭をよぎりました。しかし、同時に、一年生のうちにしゃべれるように出来なければ、後々もっと難しくなると考えました。こういう時は指導の分かれ道です。小生の怒鳴り声にもめげないところは、どこかで自分に向き合ってくれる大人がいることを子ども自身が喜んでいるような気配を感じました。何も出来ないのに仲間と同じように、褒美の「飴」を欲しがり、集団遊びの「ヘビ鬼」は楽しそうに走りました。それが彼女の潜在的可能性のしるしでした。

3 集団の中の同調

 跳び箱の向こうに投げ飛ばして、大声で怒鳴り上げた後も、不登校の心配は杞憂に終わり、その子は翌日もやって来たということでした。
 朗唱の指導では、「その子」のことだけを特に意識した訳ではありませんが、「あ、い、う、え、お」から「りゃ、りゅ、りょ」の発声練習まで全員一斉にやらせました。子どもに腹式呼吸を教えるには、発声練習が一番手っ取り速いことはこれまでの経験から分かっていました。
 本人には、他の子どもと同じように「はっきり言え!」、「声を出せ!」、「もっと口を開けろ!」、「聞こえない!」と怒鳴り続けました。もちろん、少しでも改善が見られた時は、ほめ殺しのように褒めます。
 大分叱りましたが、叱ったのは「その子」だけではありません。姿勢の悪い子どもも、声の小さい子どもも、発音のはっきりしない子どもも同じように叱りました。個人の名を上げて叱る時も、常に、「集団に合わせろ」というように集団を基調とし、集団の中で指導したことにご注意ください。これが「同調」の指導です。
 全指導員の間で、こうした指導が徹底してくると、ようやく、「その子」の口が動くようになりました。もちろん、最初、口は動いても、声は出ていません。練習を続けるとやがて不明瞭な音が出るようになりました。指導員の皆さんも小生に倣って「聞こえない!」、「口を開けろ!」、「声をだせ!」と「集団に向かって」叫び続けるようになります。

4 日本語の「風」、社会学の「社会的風土」、心理学の「集団圧力」

 集団指導の第1関門は、全指導員が同じように指導するように徹底することです。学校の指導でも、学童でも、これが一番難しいことです。多くの皆さんは、子どもを指導の中心に置き、「子どもに寄り添うこと」がいいことだと「洗脳」されているからです。それが現代教育の「児童中心主義思想」です。しかし、「寄り添っても」、「子どもの目線に立っても」、「子どもの欲求を受容しても」、教えるべきことを断固教えなければ、子どもは変わりません。筆者は、指導員に向かって、「指導者こそが主役だ」と叫び続けなければなりませんでした。子どもの向上を褒めることと、「させる」、「教える」、「練習させる」という「他動詞3点セット」が指導の原点です。指導者中心思想が浸透するまで1学期かかりました。子どもたちの中で少しずつこれまで「出来なかったこと」が「出来るようになって」、初めて指導員の信頼を得ることが出来ました。
 指導に当たる全員が一致すれば、効果は何倍にもなります。それが日本語のいう「風」です。「家風」と言い、「校風」と言い、井関元気塾には「塾風」が吹くのです。まだまだ「塾風」は微々たるものでしたが、それでも第1回の夏の発表会が終わる頃には、指導員の姿勢がそろったような気がしました。社会学でいう「元気塾」の「社会的風土」が形成されたということです。社会的風土には社会的雰囲気が醸成されます。お迎えにこられた保護者の見学が徐々に増えてくるのもこの頃からでした。塾に塾風が吹くのも、社会的風土に一定の雰囲気が出来るのも同じことを意味しています。井関元気塾の場合、個々の子どもは、指導に従って「みんなそうする」から「自分もそうする」ということです。もちろん、まだまだ個別の「逸脱行動」は起こりますが、指導についてくる集団を指導し続けると「逸脱者」も徐々に集団行動に「同調」を始めます。

5 集団圧力-ピア・プレッシャー

 緘黙症の子どももそのようにして、言葉は発しないながらも、あらゆる面でみんなに合わせ始めました。9月が過ぎ、10月が過ぎ、集団の朗唱で彼女が口を開けるようになりました。か細すぎて聞き取れませんが、声も出すようになったようです。しかし、まだ一人では一語も発しませんので、無理に指導せずに放置し続けました。
 主任指導員が跳び箱を跳ばせるときに、一人一人の子どもに自分の名を大声で言わせてから助走にはいる指導を繰り返しました。彼女も手を挙げるまでになりましたが、まだ声は出せませんでした。そこで小生は、機会あるごとに、同級生や彼女の周りの子どもに、「彼女に『自分の名前』を言ってから跳ぶようみんなからも言ってくれ」と頼みました。それでも当初はほとんど効果がありませんでした。彼女が頑として名前を言わないので、主任指導員の堪忍ぶくろの緒が切れました。「彼女がルールに従わないのなら、仲間の「お前たちにも跳ばせない」と言ったそうです。仲間に囲まれて責められた「その子」は、辛かったことでしょう。ピア・プレッシャー(友達の圧力)は十分伝わった筈ですが、それでも彼女はまだしゃべりませんでした。

6 圧力の臨界点

 11月に入ってついに彼女が声を発しました。集団圧力が「臨界点」を越えたのだと思います。主任指導員の喜びの報告に接し、筆者も教育理論の成功を確信しました。現場に赴き、半信半疑ながら、主任を横において、彼女に子ども講談「長州ファイブ」の一節を朗誦させてみました。筆者の顔を見ることなく、彼女は終始下を向いて、講談に使用する「バチ」を手に固く握りしめてぼそぼそと語りました。 
 良く覚えていないところは筆者が補いましたが、辛うじて最後まで演じ通しました。仲間との共同練習の中で、耳が覚えていたのでしょう。筆者は、「そうだ!」、「その通り!」、「まだ声が小さい」、「もっとゆっくり」などと、思い切って「合いの手」も入れてみましたが、彼女の念仏のような朗唱は止まりませんでした。この子が人前に出て、リーダーを務めるほど出来るようになったら、人々はどれほど驚くことでしょう。思わず主任指導員と握手をして快哉を叫びました。

7 彼女が跳んだ瞬間

 集団の中でつぶやくように言って来た積み重ねが、とうとう彼女の堅い口を開かせたと思います。主任指導員の作戦で、最後の瞬間は、同じ怠け者同士の同級生を最初にさせてみました。たまにしか来ないライバルへの競争意識もあったのでしょう。「まけてたまるか」という必死の意地が彼女の顔に出ていました。他の子どもたちの褒美はフライドポテト1本ずつでしたが、ライバルには特別に2本やりました。緘黙症の彼女がじろっと筆者を見たのを感じました。朗唱を演じ終わって2本のポテトを手に取った時、紅潮した彼女の頬が印象的でした。褒美のポテトが彼女を緘黙症の崖から踏み切らせたとも言えるような瞬間でした。筆者は、心底感動し、褒めまくりました。自分のことで、大声で叫び、手を打って喜び、互いに握手して飛び跳ねている大人たちを彼女は見たことがなかった筈です。筆者が握手を求めると小さな温かい手がおずおずと差し伸べられました。
 その日、その時を境に、彼女の筆者に対するはにかみやシャイな気持ちが吹っ切れたように感じました。側転の練習も二つ並べたマットのうち、小生の見ているマットの側でやりました。縄跳びに至っては、小生が別の子どもを指導しているといつの間にか小生の目の前に来て跳んでいます。意図的に何度か向きを変えて別の子どもを指導してみましたが、その度に小生の前に来て跳んでいました。彼女もまた社会的承認を求めていたのです。小生は、彼女に惚れられているように感じました。その後の経過はすこぶる順調です。朗唱も跳び箱も他の子どもに伍して普通に出来るようになりました。遂に、彼女は自らの場面緘黙症を克服したのです。

風土の中の教育
1 文化と文明

 単純な分類ですが、筆者は、文明とは「もの」の組み合わせであり、技術の組み合わせであり、それらの総合としてのシステムだと思います。これに対して文化は、文明を形成した人々の背景となるものの考え方や感じ方の総体だと考えてきました。したがって、教育論は文化と文明がないまぜになった社会的装置であり、また個人の営みでもあります。しかし、教育は、人々の考え方・感じ方を土台として生み出される「次世代育成法」ですから、その核心は文化や風土が決定しています。それゆえ、教育は文明論だけでは語れないのです。

2 中央教育審議会会長の教育論

 この度、「文明としての教育」(山崎正和、新潮新書)を読みました。山崎先生は中央審議会会長だからです。
 あとがきで、本書は会長の「所信表明」ではない、と書かれていました。また、会長職は「各委員諸氏の合意を祈ることしか出来ない-しない」とも書かれていました。また、「国の政策は何であれ、選挙で選ばれた内閣と国会とそれを援ける官僚が決めるものであって、民間人からなる審議会にそれを左右する資格はありません」とも書かれていました。
 しかし、周知の通り、「日本の審議会」は政策の「隠れ蓑」です。日本の重大政策の大部分は「審議会」で十分「ご検討もいただいたので」実施するというのが常道です。日本の政治・行政は、「審議会」政治であり、「審議会」行政であることは夙に多くの方々が指摘している通りです。それゆえ、「審議会」が本気で「no」と言えば、行政は当該政策を実行できなくなります。それゆえ、審議会には行政にたてつかない「Yes-man」をそろえることが多いのです。審議会会長の舵取りは極めて重要なのです。そうでなければ、会長の本をわざわざ取り寄せて読む理由もないのです。

3 風土論のない教育論

 本書に対して、共感も疑問もいろいろありました。 最大の疑問は現代の教育問題に触れながら「風土論」がないことでした。筆者はあらゆる理論は「出来ないこと」を「出来るようにする」ためにあると思っています。現在「ない」ものを「ある」ようにすると言っても同じです。この原理を一言でいうと「あるべきもの(なくすべきもの)」は「ないもの(あるもの)」である、ということです。政治でも経済でもあらゆるスローガンは「あるべきもの・なくすべきもの」を謳っています。しかし、「飲酒運転撲滅を!」というスローガンは、飲酒運転が撲滅できていないことを物語っています。「差別のない明るい社会」は、未だに「差別」があり、「明るい社会」は来ていないということを主張しています。シルバーシートには、「お年寄りや身体の不自由な人に思いやりを!」という思想が込められていますが、同時に、その思想が事実上死に絶えたので、シルバーシートを制度化せざるを得なかったのです。
 どのスローガンの背景にも、それを支持する人々の固有の風土があり、文化があり、ものの感じ方があります。
 まして教育の核心部分の考え方は風土が決定しているのです。「可愛い子には旅」にしても、「他人の飯」にしても、「可愛い子」を溺愛するあまり、旅に出すことなど出来なかった背景を彷彿とさせます。まして「他人に預けること」は難しいことだったでしょう。日本の教育に関わった先人たちのすごさは、親の甘さを見抜いてこれらのスローガンを言い続けたことです。教育論が保護者に浸透し、実現していれば、目標スローガンにはならないのですが、「抑止力」にはなった筈です。現在の教育スローガンは、「早寝、早起き、朝ご飯」ですから、中央教育審議会会長はどう感じていらっしゃるでしょうか?

4 「子」を「宝」とする風土の教育論
  -「甘やかし」の「風土病」-

 人間の営みはすべてそれぞれの社会の文化の中で行われます。文化とはそれぞれの歴史が培った社会的風土のことです。それゆえ、子育てにも風土があり、教育にも風土があります。
  日本の風土は「子」を「宝」とする風土です。「子宝」の風土です。日本文化において子どもは常に「宝」でありました。「子宝」の風土では、子どもが一番大事です。したがって、教育学的にいえば、子宝の風土とは「宝(子ども)中心主義」の子育てが行われる社会を意味します。そこでは子どもが主役であり、親の役割は宝物を大事に守り、育てることになります。日本の親が「保護者」と呼ばれるのもそのためです。かくして日本の子育ては、子どもに対する親の「奉仕」と「献身」に帰着するのです。それゆえ、日本においては、「保護」の放棄は許すことが出来ない「風土」への挑戦を意味します。子どもの虐待が世間の怒りを呼ぶのも「奉仕と献身」の理想が背景にあるからです。「いじめ」に対する多くの人の怒りは、いじめが「宝」に対する侮辱だからであり、また、いじめた側の保護者が「知らぬ、存ぜぬ」を通すのは、自分の「宝」だけを守ろうとする「子宝の風土のエゴイズム:我が子主義」があるからです。
 保護者による「奉仕と献身」を原理とする「子宝」の風土は「慈しみの風土」であることは間違いありません。しかし、同時に、「甘やかし」や「我が子主義」の風土ともなりかねないことを意味しています。「慈しみの風土」がその抑制を欠いた時、「わがまま」と「勝手」を増殖する風土病の原因となります。「過保護」や「モンスターペアレント」は、日本文化における教育の「風土病」です。

5 何ゆえに戦後日本では保護や放任の過剰が放置されたのか?

 「子宝」の風土は長い歴史の中で培われたものです。したがって、風土病の原因となる過保護傾向も放任傾向も初めからこの風土に内在したはずです。にもかかわらず長い歴史の中で養育や教育の「さじ加減」が保たれてきたのは、「過保護」と「放任」を抑制する教育思想を格言化し、制度化していたからです。日本の先輩教育者は実に賢かったのです。
 過保護が子どもの自立能力を破壊し、放任が「わがままや勝手」を増殖したのは、戦後教育の中で過保護の抑止システムが破壊されたからです。
  過保護と甘やかしを戒めてきた格言やことわざを見れば明らかなように、「抑止システム」として機能してきたものが、鍛錬・修練・修養の思想でした。鍛錬プログラムは、いわば過保護や放任の「ブレーキ」として機能しました。それゆえ、「過保護」と「放任」が蔓延したのは、鍛錬の思想が衰退し、「抑制のシステム」が衰退したからです。「抑制」のシステムを破壊したものは、欧米の心理学者が唱えたこどもの「受容」論です。 
 周知のとおり「受容」の理論はロジャースが唱導した「非指示的カウンセリング」(Non-Directive Counseling)の思想的根拠であり、戦後教育の中で、日本中の心理学者や教育学者がもてはやした考え方です。「子宝」の風土において、「受容」の理論は、教育における「児童中心主義」の思想とあいまって、風土がつくりあげた過保護の「抑制システム」を破壊したのです。
 間違えないでいただきたいのは、「受容」にせよ、「児童中心主義」にせよ、すぐれた教育理論であり、欧米の風土を前提にすれば、間違いではありません。しかし、日本の風土を前提にすれば大きな間違いになります。教育思想は文化風土の産物ですから、風土が異なれば、教育論も異なるのです。一つの教育論が、ある文化風土に有効であっても、別の文化風土には適用できないことは多々あるのです。「受容」の理論も、「児童中心主義」の思想も、思想上の意義は別として、それを適用する風土との「相性」を吟味しなければならないのです。
 すでに何度も繰り返してきましたが、「子宝」の風土は「子ども中心の風土」です。「子どもは宝」であるという時、親は子どもの欲求を第1に考えるのです。それは「受容」の論理と同じことです。
 しかし、風土が子どもの保護や欲求を優先している以上、その風土における教育は子どもの保護や欲求を優先してはならないのです。「辛さに耐えて丈夫に育てよ」という教育発想は、過保護な風土への予防注射です。
 敗戦に伴う戦前教育の懺悔とアメリカの指導による「児童中心主義」と「受容」の理論の怒濤のような流入は、過保護と放任を放置・助長する極めて有害な機能を果たしたことは明らかではないでしょうか。文明論で論じる教育分析は、風土の特性を見逃しているのです。
 子どもの欲求の「受容」が過ぎて、子どもは「きつい」、「面白くない」、「やりたくない」を繰り返すようになります。子どもの欲求にブレーキが効かなくなれば、子どもの「やり放題」になることは論理的必然です。今や、家庭内暴力や少年の非行は日常の現象となり、公共の乗り物でさえ我が物顔の中・高生が人びとを恐れさせるようになりました。少年犯罪の被害者の悲惨をはじめ、少年のしつけが崩壊した社会的被害は甚大なのです。誰も叱らない、誰も教えない。過剰な「受容」の行き着くところは間違いなく教育の崩壊であり、教育公害の発生源です。

6  「理想」と「現実」の背反

 人間の世界では、通常「理想」と「現実」は背反しています。現実がそうでないからこそ、理想のスローガンが生まれるのです。現実に問題があるのであれば、それを解決したいと思うのは人間の自然だからです。逆説的ですが、社会が子どもの遊びを問題にする時は、子ども達は遊んでいないのです。子どもの規範意識や責任感が問題になる時、子どもの社会参加はほとんど存在しないのです。「あるべきこと」は「ないもの」であり、「あるべきでないもの」は「あるもの」なのです。したがって、教育スローガンが目指している理想と現実実態の背反を忘れると問題の対応に重大な齟齬を生じるのです。 
  日本社会が伝統的に引き継いで来た鍛錬の思想は、すべて同じような背景を持っています。「他人の飯を食わせよ」という格言が生まれた背景には、なかなか「他人の飯」を喰わせることが出来なかった事情が潜んでいます。「世間の風に当てよ」も同じであり、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」も同様です。「若い時の苦労は買ってでもさせよ」には、過保護が高じてぐうたらになった若者の姿が重なっているのです。しかし、重要なことは、「あるべき鍛錬」、「困難のすすめ」を説き続けることによって、学校の教育力も、地域の教育力も成立していました。鍛錬の思想こそが、「過保護」と「放任」の抑止効果を生み出していたということです。鍛錬の思想は、過保護の歯止めであり、甘やかしのブレーキだったのです。
  翻って、戦後日本の子育てや教育は、総体として「鍛錬」を拒否してきました。筆者の説く鍛錬の思想や実践も、いたるところで、「軍国主義」だの「反動思想」と罵られてきました。学校教育に「鍛錬」を導入しようとすれば、「子どもの主体性」や「人権」のスローガンの壁に突き当ります。結果として、現代の教育は、鍛えるべき能力を鍛えず、教えるべきルールを十分に教えていないのです。「児童中心主義」を信奉した学校は、過保護家庭と同じ道を辿りました。今では、学校や教師が世間に「子どもの主体性」を説教する母体となったのです。
  「過保護」にも「放任」にも歯止めがかからないという原因の原因は教育のプロの「無自覚」にあります。家庭は教育の「素人」ですから、当然、風土の特徴に従い、世間の教育論に振り回されます。風土の特徴とは、「子宝」をひたすら大切に守り、事故や怪我のないように育てることです。風土の欠陥を補うのは専門家の任務であり、学校のような教育システムの関係者が責任を負うべきことですが、児童中心主義や受容の理論では子どもの甘やかしを勧めることはあっても、抑制することにはなりません。
 昔も今も、家庭の過保護と放任に歯止めをかけるのは教育のプロの任務です。過保護を抑止するシステムを機能させるのは世間という第3者の他人です。かつては、「ご養育係」や「守役」と呼ばれて来ました。現代の「ご養育係」は教育行政であり、守役は教師です。それゆえ、少年期の鍛練を放棄し、結果的に、少年の危機を招来した教育行政および学校の責任は重大なのです。
  教育関係者の多くは「半人前」が「一人前」に育っていないことを、当然、知っています。しかしながら、多くの学校や教師は、責任は家庭にあるなどと無責任、的外れなことをいい続けています。それでは何ゆえに学校では子どもの鍛錬ができないのでしょうか?「子どもの主体性」や「子どもの人権」論がかくも異常なまでに世間に「繁殖」したのでしょうか?しかも、多くの善意で、すぐれた人びとまで、鍛錬の重要性を忘れ、少年の無気力と不作法になす術がないのはなぜでしょうか?
 第1の原因は、「宝」を甘やかす「子宝の風土」にあります。第2の原因は、風土の歴史が生み出した知恵を否定した戦後の教育総括にあります。第3の原因こそが戦後教育を失敗させた張本人です。それがアメリカから導入した「児童中心主義思想」と「受容」の論理です。最悪なのは、このアメリカ流教育論を「子どもが一番大事である」と主張する「子宝の風土」と結合したことです。中央教育審議会会長の山崎先生にはこの一点が見えていないのです。

§MESSAGE TO AND FROM§
 お便りありがとうございました。いつものように筆者の感想をもってご返事に代えさせていただきます。意の行き届かぬところはどうぞご寛容にお許し下さい。

第2回井関元気塾発表会ご出席のみなさま

 過日は、寒い、忙しい12月の週末に子どもたちの発表会にわざわざお出ましいただきありがとうございました。80点は満点であるとして指導して参りましたが、70点くらいだったでしょうか!
 学童保育に定期的に出席する子どもは約半分、みんなそれぞれにお稽古ごとや塾に忙しい子どもたちです。泣き虫も、いじめっ子もいます。わがままいっぱいの自己中も、各種の障害を持っている子どももいます。それでも集団をまとめて、2学期の短い期間に指導員の皆さんはよくやりました。
 日本語アレルギーがなくなり、子どもの体力と耐性の準備が整いました。いよいよ本格的に学力向上の指導に入ります。理論的には、3学期には学力指導に効果が出る筈だと想定しております。年度末の発表会でどのように保護者の皆さんにご理解いただけるように表現するか、「学力向上」の「提示の方法」が3学期の課題になります。
 次回は、3月2日(土)に行います。継続指導の変化がどのように出るか、ご覧いただけると幸いでございます。

山口県宇部市、赤田博夫・尚子 様

 今回の井関の発表会では、映画の封切り時にお二人からいただいていた「長州ファイブ」の解説書が大いに役立ちました。発表時間を調節するため、シナリオを2度ほど書き直しましたが、原型は長州の5人の先駆者の英国での奮闘ぶり・明治維新での活躍を事細かに叙述したものでした。今回、シナリオにはふりがなを振らず、表現にも手加減を加えませんでした。子どもたちの日本語に対する恐怖心も、人前で発表する事についてのためらいもほぼ吹き飛んだものと想像しております。3学期のプログラムはまだ決めておりませんが、よりパワーアップした舞台表現をお見せしたいものと考えております。

岡山県岡山市 角田みどり 様

 岡山では何から何までお世話になりました。小生にとっては二つの講演とも挑戦でした。「連塾」の皆様の知己を得たのは大きな収穫でした。皆様それぞれにご自分の場所で活躍のこと大いに感ずるところがありました。また、閑谷学校の論語教育や岡山発の学童保育の考え方にも大いに触発されました。何人かの方とは山口大会でお目にかかる約束をしました。再会を楽しみにしております。

過分の印刷・郵送料を頂戴いたしました。御礼申し上げます。

福岡県宗像市 赤岩喜代子 様     北海道札幌市 武川勝雄 様
同      竹村 功 様      福岡県八女市 杉山信行 様
埼玉県越谷市 小河原政子 様     岡山県岡山市 角田みどり 様
福岡県朝倉市 手島 優 様      北九州市 香月利都子 様
山口県防府市 戸田節子 様      長崎県長崎市 武次 寛 様
佐賀県伊万里市 西岡信利 様
新潟県加茂市 山本悦子 様
北九州市 小中輪子 様

156号お知らせ

1 第127回生涯教育まちづくり移動フォーラムin島根

 日時:平成25年1月12日(土)13:00-
 場所: 益田市 市民学習センター 多目的ホール  
〒698-0033 益田市元町11-26   TEL:0856-31-0620
プログラム:
(1)事例発表:浜田満明さん(出雲市立高浜幼稚園長)、柿本和彦さん(NPOおのみち寺子屋)
(2) 基調提案 「少年期の核体験を保証する」(三浦清一郎)
(3)グループワーク  「子どもの体験活動の充実!
~質的・量的な補償とその仕組みづくり(仮)」
(4) 情報交換会 

2 「生涯現役・介護予防いろはカルタ」-完成記念研修会-
日時:平成25年1月26日(土)13:00-15:30
会場:下関社会福祉センター大ホール(山口県下関市貴船町3丁目4-1)
参加費:300円
主なプログラム
1 第1部 「生涯現役・介護予防カルタ」お披露目カルタ大会(40分)
申し込み先着50名様には「生涯現役・介護予防カルタ」を記念品として贈呈いたします。
2 第2部 記念講演:「健康寿命を延ばすために」(60分)(三浦清一郎)
3 第3部 「茶話会」
*申し込み方法:
はがき又はメールにて「再起会」の下記住所まで  
〒750-0041 下関市向洋町1-15-27   永井丹穂子 様宛
mail:

3 第8回人作り・地域づくりフォーラムin山口

日時:平成25年2月16日-17日(土-日)
場所:山口県セミナーパーク(山口市秋穂二島1062、-083-987-1730)
プログラム:事例発表24事例と基調講演、パネルディスカッション

4 第128回生涯教育まちづくり移動フォーラムin 大分
日時:平成25年2月23日-24日(土-日)
場所/プログラム 企画中

編集後記:語りたいことの多かった時代

 教職に就きたかった筆者でしたが、大学紛争の混乱中に米国から帰国し、教職に就くことが出来ず、やむなく臨時採用の役人になりました。思い通りにならぬことはこの世の常で仕方のないことでした。役所が嫌だった訳ではありませんが、私はまだ30代で若く、語りたいことの多かった時代でした。所管大臣に「兼業許可申請」を出して夜学の社会学を担当したのは、誰かに向かってたまらなく語りたい思いが募っていたからです。水道橋にあった共立女子大の夜間教室は都市高速のすぐ横で、窓を開けることが出来ないほどの騒音の中だったと覚えています。役所では、当然、自分一人だけ声上げて語ることの出来ない環境でしたから、教室では、言葉に飢えた者のように語ったものでした。夜学の学生は様々でしたが、良く聴いてくれました。彼女たちもまた学ぶことに飢えていました。九州へ来たあとも何人かの教え子との文通が続いていましたが、物理的距離と時間的距離と人生の距離が離れすぎて、一人ずつ交信が途絶えました。その中に一人だけ、年賀状を送り続けてくれた教え子がいました。筆者が「断」を実行して、年賀状の儀礼を止めた後も送り続けてくれた人でした。返事の代わりに「風の便り」を送りました。彼女とは35年を越える「ふみ」だけの付き合いになりました。過日、「老年学」のご注文があり、メモを添えて送りました。「小生、すでに老い、衰え、あなたと道ですれ違っても気づかないだろうが、『風の便り』を最後まで見届けて下さい」と書きました。すぐに礼状が届き、「すれ違っても気づかないのはお互い様です。これからもよろしくお付き合いください」とありました。若かった時代の名残に、「風の便り」の「死に水」を取って下さる人に巡り会えたのは幸運でした。