発行日:平成24年11月
発行者 三浦清一郎
現行の教育行政論理への異論・反論I
-教育長協議会基調提案-
都道府県教育長協議会-社会教育部会の基調提案にお招きいただきました。格式張った理詰めのレジュメを提出しましたが、さざめいている熟練のみなさまのお顔を見た途端、瞬時に「理詰め」ではだめだと理解しました。彼らは県のトップ、有名人に接し慣れています。筆者は既に忘れられた無名の老研究者、会場に緊張感はありませんでした。そこで、現状の行政施策の論理に喧嘩を売るような提案に切り替えました。「人間は霊長類ヒト科の動物として生まれ、しつけと教育によって人間になります。教育行政が無策だから、子どもの多くは未だ人間になってはいません。ひとたび、人間になった我々も年を取って教育を怠れば、やがて人間の機能を失い、ヒト科の動物以下に戻り、人間を止めることになります。生涯学習論で人間は育てられず、高齢者の人間機能を維持することも出来ません。教育行政が無策だから、高齢者の老衰もボケも止められないのです。」と吠えました。皆さんのお耳が立ち、お顔が筆者の方を向きました。
2度目の座敷に呼ばれるまでは、真の評価は分かりませんが、担当事務局によると教育長諸氏は面白がっていたと感想が届いたので、作戦は成功したという事でしょう。
提案の材料には、ある県の行政幹部が発信した愚かしい「生涯学習」の振興政策についての通信を事前に読んでいましたので、異論・反論の材料に使わせてもらいました。教育機能をないがしろにして社会の生成のサイクルを維持できる筈はないのです。
1 「人材の育成」などできていない
異論の第1は、現代版社会教育の「定義」です。文科省幹部と懇談したS県の幹部によると、社会教育とは、「地域社会で、地域の公(おおやけ)、を担う人材を育成していくこと」であるということでした。しかし、現行の社会教育は、「生涯学習」と等値され、「人材の育成」など全くできていません。公教育の一翼を担う「社会教育」は、公金を投入するという一点をもって、国民の「学習すべき課題」を重点的に取り上げるべきであって、人々の「学習したい課題」にのみ振り回されるべきではなかったのです。
2 中身を問わない振興行政
異論の第2は、中身を問わない振興行政です。生涯学習の振興は、確かに、「学習機会」の拡大、「学習の利便性」の向上には大いに貢献しました。スローガンは、「いつでも、どこでも、誰でも」学ぶことのできる「継続学習」の制度的保障です。「利便性」の向上という点では、コンビニの流通革命、宅配便の輸送革命、インターネットなどの情報革命と同じです。スローガンも、「いつでも、どこでも、誰でも」という点で同じでした。
しかし、コンビニや宅配便やインターネットが普及しても「利便性」が向上するだけで、消費の「中身」には関係ありません。学習も同じです。利便性が向上しても学習の中身は問えません。この点、教育長諸氏は、公民館や生涯学習センターの現状をお分かりですから分かっていただけたと思います。
3 「楽習」で「必要課題」の解決はできない
異論の第3は、「楽習」で「必要課題」の解決はできない、と申し上げました。「楽習」は「学習したい課題」の「必要条件」であっても、「学習すべき課題」の「十分条件」ではなかったことも明らかでした。「楽習」で社会の「必要課題」の解決ができる筈はなかったのです。
4 「教育診断」機能も「教育処方」機能も存在しない
異論の第4は、生涯学習には、「教育診断」機能も「教育処方」機能も存在しないと申し上げました。
「生涯学習」概念の下で市民は好きなことだけを学び、「負荷の大きい必要なこと」は後回しにします。病院は「健康人」に干渉はしませんが、「患者」には診断と処方を与えます。教育界も「教育的に自立している市民」に干渉してはなりませんが、「患者相当者」に教育診断と教育処方をしなくていいか、ということが問われます。「生涯教育」概念に戻さない限り社会教育行政が子どもや高齢者や教育を必要とする人々に教育処方を講じることは不可能になったのです。現に、子どもはへなへなで、規範は身に付いていず、高齢者の平均寿命と健康寿命の落差は医療や介護の財源を直撃していると申し上げました。
5 「現代的課題」は付け足しである
第5は、異論というより反論として、生涯学習に付け加えられた「現代的課題」は、教育を忘れた中央教育行政の付け足しであると申し上げました。
「生涯学習」概念の導入によって、「必要課題」の欠落は誰の目にも明らかです。「生涯学習概念」そのものを修正することなく、「現代的課題」の視点を追加しても、「負荷」の大きい学習課題を、「楽習」にならされた市民が選択する筈はなく、必要課題の学習は全く機能しませんでした。行政は「現代的課題」を追加することによって、自らが放棄した教育機能の免罪としたとしか思えません、言いました。会場がシーンとなりました。不愉快だったのでしょうか!?
6 「学校の子どもは応援する」が、「地域の子どもは応援しない」のか!?
異論の6は、「学校支援地域本部」事業に付いてです。この事業のメッセージは、「学校の子どもは応援する」が、「地域の子どもは応援しなくていい」ということにならないか、と申し上げました。生涯学習発想は、政治における民主主義の原理と同じものです。それゆえ、社会的に選択権を認められない児童・生徒を擁する義務教育学校等を生涯学習システムから切り離す結果をもたらしました。
従前は、「生涯教育」体系の中に位置づけられた義務教育学校等は、「生涯学習」概念の導入で「学校外教育」の対象から外れ、関係者の意識において、社会教育との連携も地域との連携も極めて難しくなりました。「地域」への支援を忘れた「学校支援地域本部」などというおざなりの発想を出さざるを得なくなったのはそのためです。
7 未開拓の公教育分野
異論の7は、井関の実践例を出しました。男女共同参画を推進する事業は、生涯教育の課題であり得ても、生涯学習の課題になることはほとんどありません。学校外の幼少年教育こそ家庭の養育を支援し得る生涯教育に与えられた未開拓の公教育分野だった筈です。保育の現場に教育プログラムを導入できれば、子育て中の女性の社会参画を支援することが可能になり、恐らくは「少子化」を抑制することも可能になります。女性の社会参画を推奨する多くの施策が社会教育行政に存したにもかかわらず、社会教育は幼少年期の教育機会を逸し、「家庭教育支援」などという実質的に支援になり得ぬ座学や講演会に膨大な時間と予算を使って来たのです、と申し上げました。
8 「生涯学習格差」の異常拡大
異論の最後は、行政が無視している「生涯学習格差」の異常拡大です。この30年、社会教育行政は教育の未来像を提示する代わりに、国民の要求に応えることが政策立案であるかのように考えるようになっていないでしょうか?市民の「要望」に応えるという点で「生涯学習」概念はその典型です。しかも、その「要望」が趣味・お稽古ごとに集中したため、「なぜ公金を投入して趣味や稽古ごとにサービスしなければならないのか」という疑問は当然の結果です。社会教育の「ヒト、モノ、カネ」が激減したのも当然の結果です。
社会教育行政は未来の国民が真に必要とすることに応えるべきであって、現在の国民の欲求に追随する「生涯学習」を教育政策の柱に据えたことは間違いだったのです。そして「生涯学習」の代表的副作用が「学習」を「選択した人」と「選択しなかった人」の「生涯学習格差」だったと思います。格差は、今や、知識格差・情報アクセスの格差、健康格差、交流格差、自尊感情や生き甲斐の格差などに広がっています。高齢社会は、多くの方々が、既に健康を失い、経済的ゆとりも、身の回りの友人も失っています。自己責任論だけでは生涯学習や生存競争が生み出した「格差」を埋めることはできないのです。これからの社会教育の役割は「病院」の機能に似てくると思います。多くの人々に診断と治療が必要になり、多くの健常者が支援の手を差し伸べない限り、病者・困窮者・孤立者・孤独者等は生きるすべを失うと思います。社会教育・生涯教育無用論は、自己責任社会の支援無用論に重なっているのです。「無縁社会」を招いたのは、ゆとりある人々の自由の主張と自己責任論です。生涯学習は自己責任を原則としますが、現代社会への適応に失敗した人々に対して、「選択を誤り、努力しなかったあなたが悪いのです」と言うだけで済むでしょうか?
現行の教育行政論理への異論・反論II
「診断」も「処方」も間違っています-「アンビシャス広場」
1 アカウンタビリティの欠落
ある教育関係者の集まりで、偶然遭遇した方でした。「あなたが三浦さんですか」と問われ、「『アンビシャス』に批判的だと聞きましたが、どういうことでしょうか」、と唐突に質問が降ってきました。県庁内の筆者の知人の名前を何人か上げられ、彼らから聞いたのです、といきなり本題に入られましたのでいささかびっくりしました。
元、当該事業の担当であったとお聞きしたので、当方も率直にお答えすることにしました。「少年教育の事業としては珍しく県独自で巨大な公金を投入しているにも関わらず、現状診断は不十分、処方も間違っています。当然、結果を出しているとは思えないからです」とお答えしました。広報や報告書を拝見しても、「アンビシャスは何を達成しようとしているのか、何を達成したのか」が見えないということです。最終的に、この事業は「公共投資のアカウンタビリティ」(結果の説明責任)を果たしていない、と申し上げました。2、3具体的事例のやり取りもしたのですが、「見方が一面的ですね」、「誠に残念です」というご感想でした。それでは箇条書き的に書いてご説明し、筆者の見方が「一面的かどうか」を読者にご批判いただきたい、というのが本稿の趣旨です。
アンビシャス事業は、地域の「少年の遊び」を支援する福岡県の壮大な総合的事業です。狭義の地域コミュニティ(第1次生活圏あるいは小学校区)に、子どもの遊び場(「アンビシャス広場」)を作り、子ども集団や遊びを創り出すことを中心課題とする事業です。
この事業は事業の前提となるべき「診断」も「処方」も間違いであり、しかも、政治主導の事業の「名を売る」ため、県費の補助を受けるのであれば、各地の類似の事業も「アンビシャス運動」の看板を掲げよと主張した点で誠に独善的な事業にならざるを得ませんでした。また、この事業との競合が想定される「放課後子ども教室」の国庫補助金を県が辞退した結果、市町村で国の補助金を活用して、新しい発想で子どもの居場所を作るべく構想していた人々の夢や事業の可能性まで潰してしまう事態を招いたのです。筆者は、たまたま不幸にして、上記の二つの点で、間接的な被害者になったので、「批判」の思いが強くなっていることは否めませんが、筆が走り過ぎぬよう自制して書くことにします。
2 地域における学童期の子どもの自由時間の過ごし方を中心課題としているのに、「子育て支援」や男女共同参画の視点が全く欠如しています。
法律も整備され、今や男女共同参画の時代です。経済格差の拡大している時代でもあります。女性の労働力なしには社会が成り立たなくなっている時代です。共働きの家庭は増えることはあっても減ることはありません。女性の就労・社会参画は女性の希望であり、少子化時代の国家の必要でもあります。両親が働けば、家庭の養育・保育の機能は欠けがちにならざるを得ません。保育所も学童保育も不可欠になるのはそのためです。しかも、未だに、全員を受け入れることが出来ず、待機児童は多く、学童保育はすし詰めのお守りをしているに過ぎません。「アンビシャス事業」は時代のそうした状況が全く見えていないのです。現在、筆者が関わっている「学童保育」の教室には、全校生徒のほぼ半分が来ています。子どもたちは保護者が迎えに来てくれる5時過ぎまでは地域に帰ることも出来ないのです。もちろん保護者の職業が多様化していますから、地域によっては土曜保育も、日曜保育でさえも実施しています。昔のように全部の少年たちが地域で自由に遊べる時代はとっくの昔に終わっているのです。
2 なぜ「税金で建てた学校」を活用しないのか?
もちろん筆者の個人的見聞は限られていますが、多くのアンビシャス広場に子どもの姿はまばらです。放課後や週末の少年の遊びの舞台になぜ膨大な公金を投入して「広場」を作る必要があるのか?なぜ、学校を開放して活用しないのか、理解に苦しみます。少子化・空き教室の時代になっているのに、教育行政や校長・教員が学校施設を占有し、地域の活用を阻んでいることは承知していますが、政治主導の本事業がその気になりさえすれば、活動場所として学校を開けさせることぐらい雑作もないことでしょう。知事の要望を入れない校長がいるとは考えられません。現に筆者も小さな町の町長さんと組んで町内すべての小学校を放課後の「寺子屋」活動に活用させてもらった経験があります。安全の面からも、子どもと保護者の利便性の面からも、経費がかからないという点でも、「学校はコミュニティの学校である」という発想を定着させる意味でも、放課後の子どもの活動に学校を利用することは大いに意味があるのです。学校で行われる「遊び場広場」に学童保育の子どもたちが合流すれば、そこには保育の指導員も存在し、地域の小学生全員を対象とした事業が出来るのです。
上掲の通り、先の教育長協議会にも提案いたしましたが、文科省は、学校の子どもを応援する発想は大事にしても、地域の子どもを応援する発想は大事にしていないのです。地域のボランティアを動員した「学校支援地域本部」事業のお返しに、県独自で「学校を活用した地域支援」事業の発想をしてみてはどうでしょうか。地方の時代だとみんなが言うようになりました。学校を活用して地域の子どもを応援する発想が中央にないのであれば、福岡県が実施すればいいだけの話ではないでしょうか?まさしくアンビシャス事業は辞儀通りの“アンビシャスな”事業であり得た筈なのです。
3 プログラムもなく、恒常的指導者も存在しないーなぜ「生活」を見ないのか?
アンビシャス事業は、事業の前提となる子どもの現状認識が出来ていません。それゆえ、事業には目指すべき具体的な子ども像が欠落しており、子ども像に沿ったプログラムも指導者も構想されていないのです。現代は、日本が貧しかった時代、子どもが日々の暮らしの家庭労働に参加し、相応の役割や責任を持っていた時代とは違います。
今や、職住分離は徹底し、大部分の保護者は子どもに働く自分の「後ろ姿」など見せることは出来ません。また、地域は無縁社会であり、人々は自己都合優先で暮らしており、子ども会のような地域の教育力も崩壊に瀕しています。当然地域の子ども集団も自然消滅し、子どもの生活時間は、学校と塾とテレビとゲームで消費されています。現代の子どもは集団を形成することも、自分たちで遊びを創造することも出来なくなっているのです。いくらお金をかけて「ひろば」を作っても、プログラムも指導者も存在しない「ひろば」を生かすことは出来ないのです。「ひろば」があって、見守りの大人がいれば、子ども集団や自発的な遊びが生まれるというのは現代教育の「迷信」です。
現代の子どもは、労働を知らず、苦労を知らず、仲間との共同を知らず、仲間集団の遊びすら知りません。結果的に、体力も、耐性も、ルールを守る遵法精神も、協力して責任を果たす規範意識も衰えています。彼らに育てるべき資質は、上記のような「一人前の社会人の条件」です。生活を教えなければならないのに、遊びだけに注目し、その遊びですら、プログラムも指導者も置かず放任していれば、教えることは出来ません。多大な公金を投入しながら、アンビシャス事業にはそうした教育上の認識と展望がほとんど全く欠如しているのです。診断も処方もないとはそういう事業状況を意味しています。
4 ボランティアを「ただ」で使い続けて、ボランティア文化を醸成することは出来ない
事業評価は結果で決まります。事業の評価を美辞麗句と情緒的な言葉で飾っても公金投入の説明責任を果たしたことにはなりません。当該事業は子どもをどう変えたのか?体力や耐性や規範意識は育っているのか?子ども集団は形成されたのか?地域の教育力は復活しているのか?報告書を読んでそれらが分からなければ公金投入の説明責任を果たしたことにはなりません。アンビシャス事業の「バッジ」が校長先生の机の引き出しに眠っていることも見聞していますから、事業の顕彰が不十分であることは明らかです。
熊本県阿蘇郡の産山村が、子どもの社会貢献をプログラム化したように、現代の子どもには社会貢献の実習やボランティアとしての初期体験が不可欠です。一度、現場に立って指導してみれば、すぐ分かることですが、彼らはへなへなで、その上に「自己中」で、わがままです。少しでも「負荷」の大きい課題には、「きつい」、「やりたくない」、「面白くない」を連発して、「やだ」と言います。過保護、飽食、放任の現代は、たとえ遊びであっても指導者がいなければ子ども集団を組織化することは不可能です。その「有志」の「指導者」を「ボランティアただ論」で、「ただ働き」をさせることは行政の「甘え」であり、「おごり」です。この事業の関係者が、筆者が関わっていた「豊津寺子屋」の見学に御出でになって、「オレたちは一銭ももらっていない」と大見得を切っていらっしゃっいました。そうした方々のはたして何人が今もボランティア活動を続けていらっしゃるでしょうか?「汝の隣人を愛せよ」というキリスト教文化の伝統ある欧米諸国でさえも、ボランティア支援やボランティア基金を法制化しているのは、市民の社会貢献を顕彰せず、「ただ働き」に終わらせたら、持続可能な活動は出来ないということを経験的に学んでいるからです。「ボランティアただ論」に依拠した事業は何処でも人材の確保が「じり貧」に陥っています。伝統的地域共同体の時代は終わりました。お宮を守るような特別な伝統を持つ地域は例外として、「勤労奉仕」の時代も終ったのです。県主導の事業が、子どもの健全育成といえども、地域の方々に奉仕を求めるのは時代に逆行しているのです。県の事業が、ボランティアの貢献に光を当て、その活躍を顕彰し、応分の「費用弁償」の仕組みを作ることが出来れば、高齢者の社会参画も、若者の社会貢献もどんどん広がって行くでしょう。市民の社会参画を「ボランティアただ論」が阻害しているという事実に気づかない点でもアンビシャス事業は「小衆」の登場も、「分衆」の誕生も、NPOの必然性も見えてはいないのです。
「偶然」や「運」に頼れば論理は崩壊する
-見応えのある映画の条件-
1 カードと将棋
隠遁中に乱観して沢山の映画を見たことは前号に書きました。中にいくつかサスペンス映画と呼ばれるジャンルのものがあり、最後まで見たものもあれば、途中で消したものもあります。途中で消した映画はろくに題名も覚えていませんが、「犯人の追跡」や事件の「謎解き」が「偶然」や「運」に頼ったものが多いということに気づきました。
人生にも歴史にも偶然や運は確かに存在します。しかし、長い人生や歴史が左右されるほどに沢山の偶然や運は存在しません。偶然や運に頼って日々の問題も、人生の悩み事も解決できる筈はないのです。
将棋の名人羽生善治は、カードゲームと将棋を比較して次のように言っています。『カードゲームには「運」の要素が強い。プレーヤーは偶然や運をどう活用するかで勝負が決まるが、組み合わせによっては、すばらしい幸運やどうにも成らない不幸な運も巡ってくる。将棋にはそれがない。負けは自分の負けであり、敗因は偶然によるものでも運によるものでもない。「運」で自分に言い訳は出来ない。将棋の魅力は、厳しいけれども、あくまでもフェア・プレーに徹しざるを得ない勝負の特性にある』。
納得、ですね。
サスペンス映画に限った事ではないでしょうが、映画の面白さは、99パーセントシナリオの論理性で決まると思います。将棋と同じように、主人公の失敗も成功も、追跡も逃走も、緊張も戦慄も、悲しみや喜びでさえ、偶然や運に頼らない論理の積み重ねによって生み出されるストーリーにあると思いました。
2 偶然を許さない論理
犯罪の動機を重視した松本清張の小説や理詰めで主人公の人生を分析せざるを得ない法廷ドラマが面白いのは、偶然や運に頼らず、論理から外れる事を許さない物語の展開が厳しくてフェアだからだろうと感じました。
戦記物の「ウインドトーカーズ」は、サイパン島攻略の日米の激戦を描いた映画でしたが、暗号の解読を恐れたアメリカ軍が、すべての軍事暗号をナバホインディアンの言葉に翻訳して戦術を組み立てて行くというストーリーでした。ウインドトーカーとは文字通り「風と話す人々」ですが、これはナバホ族のことをさしています。映画の冒頭に、日常生活の中で、自然に祈り、風と話している人々の生活が紹介されていました。
ナバホ族の通信兵は、万一、負傷して日本軍の捕虜になるようであれば、暗号の秘密が知れてしまうので、「捕虜になる前に殺せ」という指示を受けた白人の上官がペアに組まれます。戦略も戦術も非情の「論理」で出来ています。一つでも見落としがあれば、戦いに破れます。ナバホ族の部下と気持ちが通じ合った白人の上官は、自分が彼を殺さなくて済むように、懸命の援護を行い、通信兵を庇って最後は自分が戦死します。紛れもなくそれが戦場の論理的帰結なのでしょう。個人の思いに関わりなく、戦略も戦術も非情です。負傷しながらも、生き残ったナバホの兵は故郷に帰還しました。彼は、高い崖の上でナバホ族の感謝の儀式を行い、風と話します。幼い息子に「自分を殺す任務を担っていた上官」のことを「いい人だった、忘れてはならない」と言って聞かせる場面がラストシーンでした。
映画が終わって、「太平洋戦争において、ナバホの暗号は一度も解読される事はなかった」という文字が画面に出ました。秘術を尽くして戦うという点で、戦争は将棋に似て厳しくてフェアです。
日本軍がアイヌ語を暗号に使ったら、アメリカ軍は解読できたでしょうか。しかし、同時に、日本人は、差別し抜いて来たアイヌの人々を軍務の重要機密に携わらせるだけの度量と寛容さを持ち合わせていたでしょうか、などと思いながら見ました。勝利が論理的帰結であるように、敗北もまた論理的帰結なのです。アメリカ映画界はさすがです。見応えのある映画でした。
不登校児の母に答える
1 「他動詞」で子どものしつけが出来ますか?
教育の3原則の通り、子育ては、生きて行く上で大切な事を、「やらせる」、「教える」、「練習させる」の「他動詞3点セット」です。訓練期間の間は、「子どものいい分に耳を貸してはならない」のです。それゆえ、子どもを「宝」とする風土の保護者にはなかなか出来ないことなのです。古人が、「他人の飯」と言う通りです。
いつもの通り、持論の少年教育の提案をしたら、ご不満だったのでしょうか。講演終了後に、不登校児の母上とおっしゃる方からご質問がありました。「かわいがって育て、気立てもいい子なのになぜこのようになるのでしょうか」?「不登校は悪い事でしょうか」?
残酷ですが、小生は、本当のことを言わねばなりません。
現行のシステムの下では、不登校は「悪いこと」です。「あなたもお困りの筈です」。「お子様は将来、年金から始まって健康保険でも、介護保険でも、事によったら生活保護に至るまで、社会の負担になる可能性が大きいのです」。
不登校の原因は、「可愛がって育てたからです」。日本の保護者にとって「可愛がる」とは、ほぼ「子どもの言い分を聞く事と重なります」。裏を返せば、「人生の指導をして来なかった」という事です。おそらく、あなたの「いい子」は、「あなたが子どもの言い分を聞いている限り、従順で、反抗しないという事ではないでしょうか」?しかし、家の外の世間は、彼の「言い分」を聞きません。「友達仲間も、学校の仕組みも、彼の思うようにはなりません」。
2 子どもの視点より社会の視点に立てますか?
言い分の通る我が家と言い分の通らない学校では、彼にかかる「負荷」が違うのです。強くなれない子どもは、常に自らの選択肢で「負荷」の小さい方を選んで来た子どもです。保護者もその選択を容認してきました。強く成れなかった子どもが不登校に陥るのは、学校という世間の「負荷」に耐えられなくなるからです。
現在日本を覆っている「児童中心主義」は、子ども優先の思想です。「子どもの目線で」とか、「子どもに寄り添う」とかの発想は、子どもは宝であるとする「子宝の風土」の思想に一致します。
筆者が、提案しているのは、子どもを中心に置かないで、「社会の視点」を優先させ、指導者の意志を優先させる指導です。少年期の教育の根幹は「思い通りにならない人生に耐え得るだけの体力と欲求不満耐性」を育てる事です。
指導を「学習支援」などと置き換える愚かな教育者がいなくならない限り、また、子どもの欲求を抑制する事を「人権の侵害」と置き換えるような未熟な人権主義者がいなくならない限り、「欲求不満耐性」は育てる事が出来ません。体力や耐性の育成は、「自分の欲求」を抑え、「辛いこと」に耐えさせ、子どもの心身に「負荷」をかけることです。古人は、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」といい、「可愛い子には旅」と言ってきました。「いじめ」も、「不登校」も、「引きこもり」も、少年犯罪も子どもたちが自らの未熟な欲求を抑える事が出来ず、思い通りにならない人生の「負荷」に耐えられないから起こっているのです。ニートやフリーターに加えて、いじめや少年非行や若者の犯罪の増加は、現代の家庭教育が生み出し、学校教育が抑制し切れていない「教育公害」です。
あなたのお子さんは、あなたが老い、衰えた後どのように生計を立て、社会に参加して行くのでしょうか?小生にその答えは出せません。しかし、昔から、「若い時の苦労は買ってでもさせよ」と言います。お子様は、「一刻も早く家を出して」、「殴ろうと蹴ろうと結構ですから、どうぞ一人前にしてやって下さい」とお願いの出来る「他人の監督下におく事」をお勧めいたします。あなたとあなたのご主人にお出来になるでしょうか」?
「半落ち」
我々は霊長類ヒト科の動物として生まれ、「ヒト」は、特別な事故や病気を除けば、教育(社会化)によって人間となり、年を取ったあとも、教育と学習によってかろうじて人間であり続けることが出来ます。多くの場合、老衰は「廃用症候群」の結果であり、「ボケ」はその典型です。広い意味で、「教育・自己教育」の欠如の結果です。
1 人間を止める
「半落ち」は、隠遁の一週間に見た日本映画の題名です。題名から想像して、最初は、刑事物かと思いました。ところが、主題は「認知症」や「骨髄移植」(臓器移植も含むことになるのでしょうが・・・)と人間の生き方の問題でした。刑事や検事や弁護士の職業上の「価値観や感性」のあり方を交えて、観客を最後まで飽きさせずに引きつけるのはシナリオの出来と監督のなみなみならぬ腕の冴えだと感じ入りました。
しかし、小生の興味は、拡散するストーリーの中の、一点に集中しました。それは認知症の妻の懇願を入れて、彼女を絞殺した現職の警察官の思いと、認知症の父を介護する裁判官の「愛情のあり方」が交錯し、裁判の量刑に反映しているということです。
筆者は、「植物人間状態」や「重度の認知症」を「人間を止める」と表現してきました。出発点は、何十年も前に、警視庁が麻薬撲滅作戦に使ったポスターの文言です。そこには、「クスリ止めますか、それとも人間止めますか」と書いてありました。当時、麻薬中毒患者は、最終的に「廃人」になると言われていました。「廃人」とは、文字通り「人を廃する」ことです。認識能力を失い、判断能力を失い、その結果人生の決定も実行も出来なくなった人を、ポスターの制作者は、重度の麻薬中毒患者に重ねて「人間を止める」と表現したのです。
2 「耐えている人間」の価値判断
筆者は、施設における職業的介護者による認知症高齢者の虐待は、対象の患者さんに「人間であることを感じられなくなった」ことから始まる虐待であると論じてきました。患者に「人間」を感じられれば、職業的介護人が虐待することは一気に減少する筈であるとも書きました。要は、「人間とは何か」その「条件」とは何かが問われるということです。
重度の認知症患者は、上記の通り、認識能力を失い、判断能力を失い、従って決定能力も実行能力も失います。介護者の語りかけも感情もほとんど通じなくなります。介護者は患者から人間的反応を得ることが出来なくなるのです。
映画の中の裁判では、弁護士の必死の努力にもかかわらず、被告人が自らを罰する意志を通して一切の弁明をしなかったので情状酌量の余地がなくなりました。それでも、被告人の「自首」や逮捕後の一貫して神妙な態度が考慮されて、「執行猶予」がつく筈だと弁護士も、周りの関係者も、見ている筆者も、信じていました。しかし、「執行猶予」は付かず、実刑4年の判決が決定しました。
判決文を担当した若い裁判官は認知症の父の介護をしていました。既に家の中で暴れたり、徘徊の症状が出ている父の背中には、住所・氏名・電話番号を縫い付け、夜は、父子が並んで隣同士に寝て、息子は自分の手に父の手を紐で結んでいました。まだ若いのに、妻は独り寝を強いられているのです。
しかし、裁判官自身は昼間は勤務でいないのですから、主たる介護人は日本社会のご多分に漏れず、彼自身ではなく妻であることは言うまでもありません。彼が妻の意見や感想を聞く場面は映画にはありませんでした。監督も恐らくはシナリオライターも、介護する女性の気持ちにまで気の回らない「男」なのでしょう。
ワンカットのシーンに、日向の庭で、老いた父が背中に住所電話番号を背負って、無心に草むしりをしていました。若い裁判官は無言でその背中を見つめていました。彼が書いた判決文に、この風景や状況が反映されない筈はないであろうと思いました。
被告人が、いかに妻を愛し、妻を哀れみ、彼らの人生にどんな事情があったにせよ、また、何一つ弁明しない被告人の態度がいかに反省に満ちていても、若い裁判官は「酌量」の余地を認めませんでした。「執行猶予」が付かなかったのは、認知症の父を看取るという苦悩に「俺は耐えている」という若い裁判官の思いのためだと感じました。しかし、「耐えているのはお前だけではない、被告人も同じだ」と、筆者はむしろ被告人の方に肩入れして見ていました。人生における「重度認知症」の評価・解釈の違いが対比された映画でした。3人の裁判官が裁いた裁判でしたが、3人とも男でした。女性の裁判官がいたら判決は違っていただろうか、と思わせる映画でもありました。
筆者は、万一の場合でも、自らの「認知症の介護」を家族にさせようとは考えていません。有り難いことに施設も整ってきました。介護に備え、貯金も心がけて、日々節約しています。
自分の身に置き換えると、「人間を止めてしまった父」は、娘や息子にとって辛い存在であることは疑いをもちません。家族の虐待もたびたび書物で読むところです。子どもたちには、「重度の認知症に陥った父を介護するな」ということは、既に何度も小生の日常の通信で送っています。
§MESSAGE TO AND FROM§
お便りありがとうございました。いつものように筆者の感想をもってご返事に代えさせていただきます。意の行き届かぬところはどうぞご寛容にお許し下さい。
福岡県宗像市 賀久はつ 様
ご丁寧なお便り痛み入りました。「水子」の取り扱いも所により、大学などの専門機関により大きく異なることがよく分かりました。日々ご自身を厳しく律して暮らしているご様子が彷彿として、我が身に置き換えて姿勢を正しております。
東京都 瀬沼克彰 様
沢山の公開講座資料をありがとうございました。昨今はすっかり大学との縁が切れました。教え子の質問に答えているうち、いつの間にか開放講座も、姉妹校制度も、契約研究員も昔語りになっているのに気づいて慌てます。昔語りをしないと決めた以上、もはや自分には大学のことを語る資格はない、と自重しています。
島根県浜田市 白砂公民館 様
西条柿届きました。お心使いありがとうございました。お返しと言っては何ですが、出来立てのカルタをお送りいたします。これを使って熟年期のみなさまが遊んでいただけると、日常の暮らしの姿勢が整うように工夫しております。カルタ取りは一等、二等と小さなご褒美が出せるように工夫した上で試みて下さい。
長崎県長崎市 藤本勝市 様
再会の機会を得、互いの壮健を確認し、嬉しい限りでした。老年学で強調した通り、「読み書き体操ボランティア」を怠らぬことだけを自らに命じて暮らしております。かつて、助けていただいた大会も来年は32年目を迎えます。また、長崎県はあなたの後輩の皆さんが奮起して、独自の研究会:「草社の会」を組織しました。健康と日程が許す限り応援に出かけたいと願っております。また、どこかでお目にかかる日を楽しみにしております。
ご都合が許すようでしたら、来年の篠栗でお会いしましょう。
神奈川県葉山町 山口恒子 様
驚くべきことですが、一人暮らしに慣れました。一人暮らしは会話のない生活です。時々、暗闇に怯えて、家中の電気をつけたりします。人間と話さない分、犬たちや植物と話すようになりました。小春日和のぬくもりの中で、庭に育てた花の美しさが心に滲みて行くのを感じます。
室内の掃除だけをシルバー人材の方にお願いしておりますが、その他の炊事、洗濯、日常事務はすべて一人でこなしております。「孤食」も苦にならなくなりました。むしろ、レストランへ出かけた時の喧噪の中の孤独の方が身にしみます。同じ理由なのでしょう、すっかり街の雑踏が嫌いになりました。今年は街路樹の黄櫨が見事に色づきました。窓いっぱいの紅葉を楽しんでおります。
過分の印刷・郵送料をありがとうございました。
長崎県長崎市 藤本勝市 様
神奈川県葉山町 山口恒子 様
福岡県宗像市 賀久はつ 様
長崎県佐世保市 左海道久 様
お知らせ
1 「学童保育に教育プログラムを入れると子どもの何が変わるのか?」-山口市「井関元気塾」第2回発表会
日時:平成24年12月8日(土)10:00-12:00
場所:山口市立井関小学校体育館(防寒準備にご注意!!)
資料代:100円
申し込み:所属・氏名を添えて事前申し込みが必要です。準備の都合上、当日参加はご遠慮下さい。
申込先:〒754-1277 山口市阿知須1639番地
井関小学校内「井関にこにこクラブ」
電話/Fax:0836-65-1570(14:00以降にお願いします。)
定員:会場の都合により先着100名で閉め切らせていただきます。
第126回生涯教育まちづくりフォーラム
1 期 日 平成24年12月15日(土) 15:00~17:00
2 会 場 福岡県立社会教育総合センター
〒811-2402 福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2
TEL 092-947-3512 FAX 092-947-8029
*【特別企画】生涯現役・介護予防カルタの企画者に聞く!
『リハビリ・サ-クル「再起会」の日常活動から生まれたカルタ』
発表者 下関市リハビリ・サークル「再起会」
代 表 永井 丹穂子
聞き手 NPO法人幼老共生まちづくり支援協会
理事長 森本 精 造
*【生涯現役・介護予防カルタの披露】:カルタ大会~優勝者にカルタ進呈
3 第127回生涯教育まちづくり移動フォーラムin島根
日時:平成25年1月12日(土)13:00-
場所:交渉中
(1)事例発表:浜田満明さん(出雲市立高浜幼稚園長)、柿本和彦さん(NPOおのみち寺子屋:交渉中)
(2) 基調提案 「少年期の核体験を保証する」(三浦清一郎)
(3)グループワーク 「子どもの体験活動の充実!
~質的・量的な補償とその仕組みづくり(仮)」
(4) 情報交換会
編集後記-無常の月日
蕭々と風湧き立ちぬ夜明け前
耐え難ければ名を呼びにけり
春から夏へ、夏から秋へ、そして花の世話をしているうちに、今年はもう秋から冬へ季節が移ります。日本人は四季の変化を人生の変化に投影し、「無常」という概念を大事にしてきました。みんなそれぞれに新しい目標に向かって変化を求めながら、同時に、現在の健康や人とのつながりの「無常」を恐れて暮らしています。便りの最後には、「お変わりなく、お元気にお過ごしください」と書くのが慣わしになっていますが、「変わらないこと」は不可能ですね。
筆者の1年は「井関」に明け、「井関」に暮れようとしています。今にして思えば、心身が衰えないよう、ぼけないようにと、「教え子」の思いやりだったかもしれません。今年のように、定期的、重点的に、しかも1年の長きに渡って子どもを直接指導するのは、大学院時代以来45年ぶりのことです。時代は変わっても、「人間性」は変わりませんね。子どもの成長や変化を我が身のことのように喜んで過ごしました。しかし、それは「無常」ということでもありました。子どもが日々変化・成長する一方、小生は衰え、彼らの輝くような少年時代も刻々と移ろいます。
日常の「無常」を慈しみ、一人暮らしに慣れたつもりですが、夜半に目覚めて、晩秋の風の音が耐え難く身に滲みる日があります。