「風の便り 」(第158号)

発行日:平成25年2月
発行者 三浦清一郎

2020年の「高齢者爆発」に伴う社会的危機を回避できるか?

1 「高齢者爆発」

  「高齢者爆発」とは、後期高齢者が一気に増大する現象を象徴した表現です。2020年は昭和20年生まれが75歳となり、以後、団塊の世代が続き、爆発的に「後期高齢者人口」が増大します。団塊の世代が一度に定年を迎えることになった2007年問題を遥かに上回る悲惨な事態が日本社会に頻発することを恐れます。
 人生80年時代の高齢者は、人生50年時代の高齢者に比べれば、「8がけ」程度の実年齢である、とはよく聞くことです。具体的には、現代の60歳は昔の48歳、65歳は昔の52歳、70歳は56歳だというのです。
 しかし、それは前期高齢者までのことでしょう。それまでお元気だったみなさまも、自己鍛錬を怠れば、75歳を過ぎると一気に老衰が加速します。テレビが報じる有名人の訃報も、前期、後期の分かれ目を境に急増します。定年期以上に後期高齢期への突入は日本社会を直撃するのです。まして、定年以降をのんびりと安逸を旨として過ごして来た高齢者は急速に健康寿命が尽きます。厚労省の定義に基づく男性の健康寿命は70歳、女性は73歳です。男女とも、後期高齢期突入前に健康寿命が尽きています。以後、高齢者は、自分のことが自分でできなくなり、介護の世話になり、人並みの暮らしを失います。社会を支えて来た巨大な人口が、社会に支えられる「依存人口」に転落するのです。個人の悲惨もさることながら、若い世代の不幸や日本社会の負担は多くの人が口を閉ざして言及を避けている「高齢者爆発」なのです。

2 「年寄り」が国を滅ぼすー絶望的な赤字サイクル

 日本人の健康寿命が後期高齢期を前にして失われることを思えば、前期高齢者と後期高齢者の「医療費」・「介護費」の国家負担率は比べ物になりません。断然、後期高齢者が国家の財源を食い尽くして行くのです。現行の社会保障制度を前提とすれば、現代の福祉システムは崩壊に瀕し、若い世代の老後を保証する国家財源は絶望的な赤字を積み増して行くことになります。少子化を止められず、生産人口が増えない状況では、年寄りが国家財政を滅ぼすと言って過言ではないのです。

3 「ばかばかしい」気分の蔓延

 これまで赤字国債の安全弁は国民個人の勤勉と節約と高い貯蓄率でした。しかし、今や赤字国債が国民の総資産に追いつこうとしています。赤字を軽減するため、当然、政治は紙幣を増刷し、インフレ政策をとるので、個人の預貯金は一気に目減りすることになります。勤勉も、節約も報われることなく、「ばかばかしい」気分は若い世代に蔓延しています。奨学金は返さない、給食費は払わない、年金もかけない、生活保護ももらえるものはもらっておこうという「投げやり」・「自己中」の気分はテレビを見なくなった小生にも伝わって来ます。
 他方で、子どもに鍛錬や我慢を課さない近年の教育(政策)が失敗しているので、ニートも、フリーターも、パラサイトシングルも減少する気配はありません。
 また、男女共同参画の日常施策を考えることのできない男性政治家や行政のトップは、ほとんど適正な少子化の歯止め策や女性の就労促進のシステムを講じることに失敗しています。結果的に、一向に増える気配のない「生産人口」が「増え続ける高齢・依存人口」を扶養し続けなければならないとしたら、「投げやり」で「ばかばかしくなる」気持ちも分かろうというものです。

4 他力本願-企業頼み

 定年が延長され、企業には65歳までの雇用義務が法的に課されました。高齢者の体力低下や労働リズムを考慮しない一律の定年延長政策は確実に企業効率を低下させることになるでしょう。若者と高齢者が同じペース、同じリズムで労働が出来る筈はなく、日進月歩の技術革新に生涯教育を離れた高齢世代が付いて行ける筈はありません。
 現行の労働法令も労働組合も、能力主義の賃金体系を認めることに激しく抵抗するので、止むを得ず企業は自衛のため、全体の賃金水準を押し下げ、高齢者を雇用し続けることになるでしょう。高齢者を雇用し続けなければならない分、若者の就職はさらに難しくなり、社会不安も増大すると予想されます。政治も行政も、高齢者の社会参画や社会貢献を促進する方策を講じないで、企業頼みの他力本願で逃げようとしているのです。ゲートボールやグラウンドゴルフに自由気侭な生涯学習を加えて、高齢者の志や活力が維持できる筈はなかったのです。

5  法も思想も「一律」発想

 一方、高齢者が労働に従事し、所得を得れば、年金が減らされる仕組みが「生涯現役」の生き方を妨害しています。健康保険制度が「健康に努力している人」を顕彰せず、「病気になった人間」に褒美を出す仕組みであるように、日本の年金制度は、「元気で働き続けて、税金を納めている者」を顕彰せず、その年金を減らしてすべて、「横並び」の無為の高齢者として扱おうとする「一律思考」です。
 したがって、「元気な高齢者」と「元気を失った高齢者」、「意欲のある高齢者」と「意欲を失った高齢者」、「社会に依存する高齢者」と「社会に貢献し続ける高齢者」を、すべて同列に扱います。こうした一律発想を変えない限り、生涯現役論は「絵空事」に終わります。高齢期の人間の生き方は人それぞれに志が違い、終末期の戦い方はそれぞれに覚悟が異なるのです。「頑張る者」を顕彰し、「志高き者」に光を当てないことは、青少年教育も高齢者政策も同じです。運動会まで、手をつないでゴールさせる「横一列」を「平等・公平」な民主主義と勘違いしている戦後日本の「蒙昧」です。

6 高齢者「保護」の偏見

 高齢者は、教育においても、福祉においても、基本的に「保護」の対象としてしか認知されていません。高齢者を保護の対象としてだけ認識するのは、若い世代が「老い、衰えて行く自らの老親」を観察した結果、感情的主観に流された「偏見」だと思います。壮健な時代の両親と老いた両親を比べれば、その感慨も分からないではありませんが、「守られた生き物」は確実に弱体化します。彼らの両親もまた同じ道筋を辿ります。「保護」に偏った高齢者観が、高齢者自身を「保護」に慣れさせ、社会にも回りにも甘えさせ、自身を無能化し、自らの自立を妨げることになるのです。
 高齢者はひたすら「守らなくてはならない」という「保護」の偏見が、若い世代をも高齢者自身をも誤らせています。インターネットに登場する世間の「親孝行」観は、「親世代の頑張りに続け」とは誰もいいません。甘ったるく「心配をかけるな」とか「誕生日にはありがとう」を言えとか、「親を労る」ことだけを教えています。高齢者は、もはや子どもの目標にはなり得ないというのでしょうか?
 内閣府がやっているままごとのような生涯現役者の紹介を除けば、日本社会には、高齢者の社会貢献を顕彰し、高齢者の「生きる力」を鍛えるプログラムは皆無に等しいのです。世間は、「高齢者はもう頑張らなくていいのだ」というメッセージに満ちているのです。頑張ったところで誰にも褒められない高齢者は、「頑張ること」を止めるのは自然です。努力することを止めた高齢者が急速に老衰することは「廃用症候群」の証明しているところです。
 高齢者健康プログラムの幼稚性や幼児化した介護現場の教育プログラムは、高齢者保護の偏った思想がもたらした結果です。プログラムを多様化し、鍛えるプログラムを導入し、選択制とし、高齢者の努力を顕彰するような抜本的な見直しが不可欠だと思います。

7 問題は高齢者の無為と安逸をむさぼるライフスタイル

 高齢社会では、高齢者の増加だけが問題ではありません。「何もしない高齢者」の増加こそが問題なのです。老衰とぼけは彼らの間で急速に進行します。「廃用症候群」も「オーバーローディング法」もいまだ国民の常識にはなっていません。問題は高齢者の無為と安逸をむさぼるライフスタイルです。「廃用症候群」についても「オーバーローディング法」についても、すでに論じたので詳細を避けますが、適切な「負荷」をかけ続けなければ、高齢者の機能は衰退し、気力、能力ともに高齢者は滅ぶということです。

8 「死に方」を論議しなくていいか?

 終末医療が膨大な国家支出の原因になっています。一日280億円という試算もあります。制度的に「安楽死」を認めるか、個々の高齢者が「尊厳死宣言」を書くしか回避の方法はありません。終末医療費に付いては、過日、麻生副総理が不適切発言で注目を浴び、自らの発言を取り消したそうですが、表現は下品でも言わんとしたことは間違っていません。日本人の死に方は、国家財源に依存したところが大きいということを指摘したのです。認知能力を失い、判断能力を失い、決定能力も、実行能力も失って、人間の基本機能を亡くした後も、機械によって生かされ続けるという「死に方」を論議しなくていいか、という問題を提起しているのです。
 小生も、「オレをチューブにつないで生きさせるな」と子どもたちに「尊厳死宣言」を渡していますが、果たして現行制度がそれを認めるかどうかは病院と医者のビジネス感覚次第なのです。

9 「望ましい高齢者」像の不在

 日本社会は、様々に青少年を顕彰するシステムや「望ましい青少年」像を工夫してきましたが、「望ましい高齢者」像については考えたこともありません。高齢者の社会貢献を顕彰する仕組みも発想も貧しい限りです。安逸をむさぼり、無為に暮らしている高齢者も、老いてなお税金を払い、社会貢献をして暮らしている高齢者も政治や世間の処遇は同じです。政治は、せめて現行の「ボランティアただ論」を改め、急ぎ「高齢者社会参加基金(ボランティア基金)」や「高齢者社会貢献顕彰制度」を制度化すべきです。

10 幼老共生のプログラムの不在

 「豊津寺子屋」の実践以来、筆者は、高齢者に共通してできることは孫世代の育成・トレーニングに関わることであると書いてきました。それは決して自分の孫のことではありません。他人の孫のことです。高齢者が孫世代の育成に関わるシステムを構築することこそが「幼老共生」です。もちろん、高齢者には養育・教育に関わる研修や自身のトレーニングが不可欠です。また、現行の学校方式では、いたずらに資格論や技術論に走って何もできないことになることも明らかでしょう。
 高齢者が育って来た条件を孫世代育成に生かすためには、おそらく学童保育や子ども会のような放課後の全国的仕組みが必要になります。孫世代の育成に関わることで、彼ら自身が活力を維持し、人生の経験を子どもたちに伝える機会が生まれるのです。しかし、今、安楽余生の真っただ中にある彼らが本気で社会貢献に踏み出すためには、新しい高齢者像と高齢者の研修と社会参画システムが不可欠なのです。

町内会無惨!!-「無縁社会」の個人主義
-行政の下請けをして来た共同体型自治組織の崩壊-

 たまたまその日は、組み内で家に居たのが筆者一人だったらしく、立ち寄られた組長さんの奥様と立ち話をすることになりました。昼間は留守の家が多く、緊急のお知らせの回覧板が回覧板の役目を果たさないので、自分でポスティングをしているというお話でした。
 「ところであなたは団地の役員をなさったことがありますか?」というお尋ねでした。「はい、運悪く家内がくじを引き当てて公民館長をやりました」。「ご経験がおありなのですね!年度末になって、次の役員を募集しているのですが、どなたもなり手が居ません」。「家にいらっしゃることも多いとお見受けしましたが、何かなさっていただけません?」「とんでもありません。そろそろ自治会を抜けようと考えているところです。」「まあ、どうしてですか?熟年の方が引き受けないと自治会はつぶれてしまうのではないでしょうか?」
 「私が何か新しい提案をしたとして、みなさん協力なさいますか?」「300人も子どもが居て、子ども会一つできない団地に自治能力はないと思います」。「あなたやあなたのご主人様はお引き受けになりますか?」「・・・・」。

1 共同体の崩壊は自由な「無縁社会」を生み出しました

 共同体の崩壊は、「共益優先」が「自己都合優先」に変わったということです。換言すれば、「自己中」社会が「共同体文化」を崩壊させたのです。昔を懐かしんで、「おたがい様」の文化に戻れという人もいますが、一度「自己中」の自由と気ままを味わい、「自己都合の優先」を認められた人々が昔に返る筈はないのです。共同体の崩壊によって、住民は「共益の管理」-「共役の供出」という地域社会の義務から解放されました。「共役」の義務のなくなった地域住民は、しきたりや慣習から解放され、個々バラバラに自己都合を追求する自由で、気ままな日本人になりました。自由で気ままな日本人が作った暮らし方が「無縁社会」です。

2 産業構造の激変→共同体の崩壊

 共同体は産業構造の激変によって消滅したのです。日々の稼ぎの根本は個人や個別企業の「技術」や「営業」であり、地域資源も地域住民の共同もほぼ関係がなくなりました。経済の国際化も地球化(グローバリゼーション)も地域共同体を必要としていません。
 従来の共同体は農林漁業を基幹産業とした住民の「共益」を守る仕組みでした水資源も、森林資源も、海洋資源も地域住民の共同財産であり、それ故に住民総掛かりの共同管理を行なって来ました。「共益」の管理は「共役」によって行ったのです。誰もが地域の役割を担っていたのはそのためです。
 おたがい様も、助け合いも、共同防災も、共同防犯も,資源管理の一斉行動も、一律のしきたりや慣習も「共益」を守る共同体文化の一環です。個人の自己都合・わがまま勝手は「共益-共役優先の原理」の前に許されませんでした。
 個人の都合を言い張るものは、「共益」の「分け前」をもらうことはできませんでした。共同体の個人への制裁が「村八部」であったのも頷けます。個人の「自由」(勝手)は許されなかったのです。

3 地域は個人を拘束できない

 現代では当たり前のことですが、もはや地域の名で個人を拘束することは出来ません。共同体が崩壊し、都市型スタイルの生活で「共益」はほぼ消滅しました。「共益」がなくなれば、「共役」の必要もなくなります。地域住民の義務も、一斉行動も消滅します。一斉行動が崩壊した今、自由人の自己都合を束縛する地域総掛かりや地域総出の事業は何ごとにつけ不可能です。
 回覧板も、地域の一斉清掃も形骸化しました。町内会の組織率は農村部でさえ7割前後になり、都市部では半分を切っているでしょう。その町内会活動の大部分は行政の下受けで、惰性ですから、地域問題の解決にも、地域の教育力にもほとんど役に立ちません。役員はくじ引き交代制で、ひたすら任期の終わる年度末を待ち望んでいます。自己都合以外の余計なことはしたくないのです。「共益」-「共役」が残っているのは、水資源の共同管理が必要な米づくりの農村地域だけになったのです。

4 町内会も自治会も共同体の「落とし子」です

 共同体文化を応用した地域組織が「隣組」や「自治会」ですが、共同体が機能しなくなれば、共同体文化に依拠した地域組織も機能しなくなるのは当然です。町内会も自治会も共同体の「落とし子」だからです。
 今や防災や防犯の共同も分業化され、自治消防団は衰退し、共同防犯は保険業界やSECOMのようにビジネス化したのです。形骸化した防災訓練に住民が出て来ないと役員が嘆く訳です。
 二つの震災の教訓をどのように強調しようとも、地域住民が「自らの自由」を「全体のために」「供出」する時代は終わったのです。それゆえ、災害の後始末が落ち着けば、「仮設住宅」で「孤独死」が再び始まるのです。仮設住宅もまた、「無縁社会」の中にあるからです。「震災の教訓」を持ち出そうと、流行りのスローガンの「絆」を持ち出そうと、住民はみんな自分の身は自分で守るしかないと考えています。小生は、できる範囲の人助けはするつもりですが、自分が苦境に陥った時に、地域住民に助けてもらえるとは思っていません。

5 誰も地域の子どものことは考えません

 社会教育・まちづくりの分野では、「地域ぐるみ」で子どもを育てようと言いますが、「無縁社会」に「地域意識」はほとんど存在していません。学校は学校のことしか考えず、保護者は自分の子どものことしか考えません。誰も地域のことは考えません。
 地域全体の子どもを預かっている教育行政が噛まないかぎり、地域ぐるみの教育力を育てることは不可能に近いのです。しかし、状況の深刻さが分かっていない教育行政や学校は「学校支援地域本部」だけを作って「地域支援本部」の設置は考えも及びません。だから保護者は塾やお稽古ごとで放課後の子どもの自衛に狂奔し、教育費が高騰するのです。
 また、男女共同参画の時代と言いながら、行政の「縦割り」を言い訳にして、学校も教育行政も、学童保育の子どもには見向きもしません。福祉行政もまた「オレたちは教育には関係がない」とばかりに「放課後児童健全育成プログラム(児童福祉法第6条:学童保育)」を、「健全育成プログラム」がないままに放置し、子どもは「準軟禁状態のお守り」に任せています。従って、学童保育の子どもたちの保護者もまた、「お守り」の時間を抜け出させて塾やお稽古ごとに行かせるのです。みんな「誰も助けてはくれない」ことを実感しているのです。

6 無縁社会のルールは「自己責任」

 「無縁社会」とは、自由人が自己都合で生きる社会のことです。「無縁」とは「誰も私に干渉しないで!」という意味ですから、頼まれもしないのに誰も他者に支援することのない社会です。「親切」は「お節介」に、「お節介」は「内政干渉」に転化したのです。「個人情報保護法」はそうした考え方の象徴です。「私にかまわないで!」、「あなたに関係ないでしょう!」という法律です。
 自由になった日本人は「自分本位」の「自分流」で生活し、あらゆることを自己都合優先で選択します。友人も職業も、ライフスタイルも楽しみ事も全て居住地域には関係なく選びます。当然、自己選択の裏側は「自己責任」ですから、時代は人々自身の選択責任を問うことになりました
 もちろん、人々の選択の成否は、格差に繋がり、「選択に失敗した人々」、「選ばれなかった人々」の孤独や孤立に繋がります。格差は、生涯学習格差の総合結果として、情報格差・知識格差、経済格差、健康格差、交流格差、自尊格差などを生み出します。
 しかし、「自由人」が招いた結果は自己責任ですから、誰も干渉せず、誰も助けてはくれません。それゆえ、「自己責任」社会は、「自業自得」社会という意味でもあります。「自分本位」社会が、社会的弱者のための「セイフティ・ネット」論にどことなくよそよそしいのはそのためです。

7 いまだ「志縁」は無力です

 もちろん、「無縁社会」の中には、解決すべき問題や助けを必要とする人々が存在します。その場合でも、地域全体は動きません。そうした問題に関心のある特別な人だけが動きます。通常、「自己中」社会は、構成員が「自己中」ですから、多くの人は自分の暮らしに直接的な関係がない限り,「地域」についての問題意識すらありません。
 地域づくりは「関心のある人」だけが頼りです。人々の「関心の縁」が「志縁」です。それゆえ、現代の地域活動は「関心の縁:志縁」を結節点として「この指とまれ」方式で組織化されなければならないのです。しかし、未だ「志縁」は無力です。政治にも、行政にも、人々の地域貢献・他者貢献・社会貢献を顕彰する仕組みも発想もありません。政治や行政はまだ「町内会」でできる筈だと幻想しているのです。
 それゆえ、「地域の絆」はかけ声だけの「虚言」に終わります。「自己中」社会は「身内」、「仲間内」のことにしか関心のない社会です。「絆」は、関心のある人だけの「絆」、「がんばろう日本」は、関心を持ち続けてがんばる少数の人だけの「がんばろう日本」に終わります。以後、高齢社会が進行するに連れて、「組長」の役割を果たすことのできない人々が急増します。そこから「町内会」は崩れ始め、近隣の「無責任と無惨」が始まります。仮設住宅で孤独死が始まるのはそのためです。地域に苦しんでいる人がいたとしてもそれは彼らの自己責任であり、自分たちとは関係ないというのが「無縁社会」だからです。

8 たこつぼ型の「この指とまれ」

 「無縁社会」の地域活動は 決して全員の賛成が得られることはありません。活動者は孤立して「タコツボ」型にならざるを得ないのです。それゆえ、地域横断的にタコツボをつなぐネットワークが重要になります。「協働」や「連絡会議」や「共同研修会」が不可欠になるのはそのためです。現代の「地域づくり」は「志縁づくり」にならざるを得ないのです。「関心のない人」は、最初の段階では、置いて行くしかないのです。
 「風の便り」は「この指とまれ」方式です。毎月の「生涯教育まちづくりフォーラム」も「この指とまれ」方式です。呼んでいただく講演活動も大部分も、「動員することを止めた」「この指とまれ」方式になりました。社会参画は大事ですが、ここまでが筆者のようなじいさんに出来る限界です。

「生涯現役・介護予防カルタ」
-カルタ取りのルールと進め方-

 カルタ取りの進め方については、12月の第126回生涯教育フォーラムで実験し、1月の佐賀市の勧興公民館の大会で実践し、下関のお披露目の大会で確かめました。また、宗像市の助産院の賀久はつ 様はご自分の患者さんと試してみた際のお便りと感想を下さいました。読み札の文言を理解していただくことがこのカルタの眼目です。それゆえ、通常のいろはカルタのように、絵札の文字だけで取った枚数を競うということでは、ほとんど意味がありません。以下は、これまでの実践から学んだ「ルール」と「進め方」の作法です。ご参考にしていただければ幸いです。

1 ゲームは5-6人1組で行います。少なすぎれば熱気が湧かず、多すぎれば熱気が拡散してしまいます。
2 高齢者のように畳に坐ることが難しくなった方々には、長いテーブルを二つ組み合わせて、メンバーは向かい合って坐ります。
3 誰もが2-3枚は取れるように、1人につき3枚の絵札を自分の前に並べます。残りの札はテーブルの真ん中に、各人から距離が均等になるように広げます。
4 ルールは次の通りです。
(1) 読み手は、ゆっくり、明瞭に読み札を2回読みます。
(2) 取り手は、カルタを押さえて、押さえた手を動かしません。離してしまうと失格になります。万一、次点の方の手が上に乗っても、そのままにして、読み手が2回目を読み終わるのを待ちます。
(3) 読み手が2回目を読み終えたら、最初の取り手は、「最後の句」を復唱します。
「最後の句」は、「字余り」の読み札をあるので、いわゆる「下の句」の「7-7」でも、「下の句の最後の言葉」の「7」だけでも構いません。
(4) それが正しく復唱できた時、初めてカルタはその人のものになります。
(5) 最初の取り手が正しく復唱できなかった時、その取り札は「無効」となります。ただし、次に手を重ねている次点の方がいた場合、復唱の権利は次点の方に移ります。次点の方が正しく「最後の句」を復唱できたら、取り札は次点の方のものになります。
(6) 読み手がすべての札を読み終わった時、取り札を一番多く取った方が優勝です。
5 取り手が、取った札から手を離してしまったり、「最後の句」をよく聞いていなかったりする場合が多いので、ゲームを始める前に練習を2回します。
6 ゲームに参加しない方がいたら、審判役として、解説書を持って、各テーブルに付いていただけるとフェアプレーができます。
7 大人のゲームであっても「小さなご褒美」一つで熱気が倍増します。お試しください。
158号§MESSAGE TO AND FROM§
 佐賀市勧興公民館でのカルタ大会、下関でのお披露目の研修カルタ大会、沢山のみなさまのご協力ありがとうございました。また、この間いただいた沢山のお便りもありがとうございました。カルタの増刷は辛うじて下関大会に間に合いました。カルタをご希望の方は小生までお申し出ください。定価千円、郵送料160円でお届け申し上げます。今回は紙数が足りなくなりましたので、諸々の感想は次号に回します。ご寛容にお許し下さい。

過分の郵送・印刷料をありがとうございました。

佐賀県佐賀市 城野眞澄 様
福岡県太宰府市 大石正人 様
福岡県久留米市 鈴木たみ子 様

お知らせ

1 地域発「活力・発展・安心」デザイン実践研究交流会(第128回生涯教育まちづくり移動フォーラムin大分)

1 期  日  平成24年2月23日(土)-24日(日)15:00~17:00
2 会  場  梅園の里:国東市安岐町富清2244、-0978-64-6300
3 大会テーマ:子どもを育て、子どもが活躍するまちづくり
4 基調報告「教育の恊働とコーディネートシステム」
5 実践事例発表:10事例
6 特別講演:2020年の「高齢者爆発」に伴う社会的危機を回避できるか?

2 「学童保育に教育プログラムを入れると子どもの何が変わるのか?」-山口市「井関元気塾」平成24年度最終発表会(第129回生涯教育まちづくり移動フォーラムin山口)

 最終発表会ですので福岡のフォーラム実行委員会と相談の上、共催の「移動フォーラム」に位置づけました。最後の「茶話会」を「研究交流会」として企画しました。簡単ですが、お昼の軽食も準備致します。「風の便り」の読者のみなさまもふるってご参加ください。
 子どもの成果の発表会に留まらず、茶話会の中で参加者の2分間スピーチや指導員との質疑応答、実行委員の論文発表なども組み合わせたいと考えています。どうぞご期待ください。

I 発表会
日時:平成24年3月2日(土)10:00-12:00
場所:山口市立井関小学校体育館(防寒準備にご注意!!)
資料代:100円
申し込み:所属・氏名を添えて事前申し込みが必要です。準備の都合上、当日参加はご遠慮下さい。
申込先:〒754-1277 山口市阿知須1639番地
井関小学校内「井関にこにこクラブ」
電話/Fax:0836-65-1570(14:00以降にお願いします。)
定員:会場の都合により先着100名で閉め切らせていただきます。
発表会終了後は、移動フォーラムを兼ねた「茶話会」を企画(参加費:300円)します。簡単ですがサンドイッチなどの軽食の準備を致しますのでふるってご参加ください。

II 茶話会(移動フォーラム) 12:30-14:00
  コーディネーター 三浦清一郎
(1) 歓迎の挨拶 主任指導員上野敦子
(2) 参加者の2分間スピーチ
(3) 指導員のリレートーク:「この1年で思ったこと、学んだこと」
(4) 「学童保育に教育プログラムを入れると子どもの何が変わるのか?」:研究の目的と成果 九州女子大学准教授 大島まな
(5) 小論文発表:現代の子ども教育論の誤謬 生涯学習通信「風の便り」編集長 三浦清一郎
(6) その他

場所:井関小学校新館二階-多目的ホール
   
3 NPO生涯教育まちづくり支援協会 平成25年度総会

(1) 日時:平成25年4月20日(土)
(2) 場所:未定
(3) 総会終了後第30回生涯教育まちづくりフォーラムを予定しています。
(4) テーマ、報告者等に付いては追ってお知らせ致します。

編集後記
「個性」と「欲求」を同一視し、「主体性」と「欲求」を等値すれば、子どもに「逃げ」も「選択」も許さざるを得なくなる

1 「逃げ」のK君

 学童クラブのK君が、「とびばこ」と「漢字」の練習が辛いと言って涙をこぼしたと教員が言っていました、と帰り際に指導員から聞きました。その日、K君は「学童」には来ませんでした。これまで他の指導プログラムでも何度かあったことですが、子どもは自分の苦手なものから逃げようとします。「逃げ」の原点は「好き嫌い」です。「なぜ、学校は子どもの背中を押してやらなかったのか」と強い怒りを覚えます。筆者だったら、「一緒に行ってみよう。指導員の先生にちゃんと頼んで上げるからね」と言って、学童クラブまで引きずってでも引率したことでしょう。K君の泣き虫・意気地なしは周りの誰もが知るところだからです。そうした引っ込み思案と逃げ腰な態度を克服するのがこの1年の学童指導の「隠れたカリキュラム」です。
 他の子どもたちがみんなあれほど熱中して跳んでいるのに、漢字も競争で「クイズ」に答えているのに、参加さえすれば、簡単に解決できることなのに、「なぜ、K君を応援して、学童まで連れて来てくれることさえしないのか」。学校は自分以外のプログラムは嫌いなのか、それでも教育者か、と思います。学校教員と付き合うとつくづくやる気を削がれます。
 K君のことを知らないで、その日は跳び箱を7段に上げると宣言しました。みんなが歓声を上げて喜ぶのです。そのような雰囲気の中で、「逃げ」のK君は、ますます孤立して到底発表会には出ることが出来なくなるでしょう。発表会に出られなければ、K君はますますみんなから取り残された感を抱き、孤立するでしょう。そういう子どもの「逃げ」の姿勢を暗に学校が増幅しているとさえ感じました。怒りのあまり、責任者の大島准教授に感情をぶちまけました。彼女から返事が来ました。

2 大学まで続いている

・・・・、もしかしたら、「子どもが嫌がることを何もそこまでしなくても・・・」と思われているのでしょうか。小学校時代から中学・高校と「嫌ならしなくてもいいよ」と負荷から逃げることを許されてきた子ども達が、大学生になって教育・保育実習などの負荷に耐えられず、脱落していく様を何人も見ています。実習が近づいてきただけで、気分が悪くなって休む学生もいます。卒業して社会に出るのはあと1-2年、どうやってこの世を生きていくのでしょうか。(結局そういう学生は、就職が決まらないままにニート・フリーターへ、ときには引き篭もりへと道を辿る子もいます。)子どもの言うことを真に受けるということは、その場しのぎに教育を放棄して、その子の成長の先の不幸を想像できないということでしょうか。

3 人生を「生きる力」を鍛えたいのなら、「個性論」と「主体性論」と浅薄な「人権論」を捨てよ!

 保護者が子どもを庇うのは「子宝」を守っているつもりですから、いつも言う通り、日本の風土では仕方がありません。保護者は我が子への愛に、教育上、盲いているのです。その上、保護者は教育の素人です。だから当方の説明が分からなくてもこれまた仕方がありません。
 しかし、教員や指導員は現に他人の子どもを預かって指導しているのです。「個性」と「欲求」を同一視すれば、子どもの「わがまま」も、「好き嫌い」も、「逃げ」でさえも、「個性」だということになります。指導プログラムを無視して、子どもの気持ちを優先すれば、「主体性」と「欲求」を等値することになります。子どもの欲求を優先すれば、子どもの「逃げ」も優先することになります。あらゆることで子どもの「気まま」と「選択」を許さざるを得なくなるのです。そうした教育姿勢が日本の子どもを駄目にしているのです。この1年、井関元気塾は個々の子どもの事情を聞きませんでした。異学年の発達の違いにもできる限り目をつぶってきました。異年齢集団は社会の原型です。構成員の能力も経験もそれぞれに異なります。だから、子どもは異質集団への同調を学び、異質な構成員との協調を学んだのです。プログラムに参加している子どもは、体力も耐性も社会性も礼節も学び、学力も付いているのです。「学童保育」は、子どもが行こうと行くまいと、保護者が行かせようと行かせまいと強制力はありません。各人の選択です。しかし、ひとたび、学童に参加した子どもについては、プログラムの選択を認めませんでした。「逃げ」も「好き嫌い」も認めませんでした。人生を生きる力を鍛えたいのなら子どもの事情を聞かないことです。世間は彼らの好き嫌いを認めません。人生の諸問題に対する「耐性」を鍛えることが指導者の責務です。子どもの勝手気ままを認めないのは、残酷でも、冷たいのでもありません。ましてや、子どもの人権を侵害している訳でもありません。わがままや逃げを阻止することは、教育の第1歩であり、子どもの人権と何ら関係はありません。われわれは子どもの未来を信じて、体力や耐性を鍛えるプログラムを提示しているのです。自分の前に立ちはだかる指導者によって子どもは強くなって行くのです。
 この1年、筆者は、ほぼ毎週山口まで通いましたが、無駄なことをして来たのではない、と信じたいものです!

*原稿を書き上げた時点で、K君を「学童」まで担任が連れて来てくれるようになったと報告がありました。主任指導員の陰の力が大きかったのだろうと感謝しています。