「風の便り 」(第140号)

発行日:平成23年8月
発行者 三浦清一郎

「未来の学校」は「地域の学校」

 恒例の飯塚市穂波地区の教育講演会で各学校の指導状況とその結果が教務主任の先生方から保護者の前に公開されました。すでに10年以上も続いた研究会ですが、情報を公開して市民と学校が共有することで着実に進歩を遂げています。それだけでも日本の学校の閉鎖的な現状からすれば特筆すべき事例です。
 学校からの報告の後は教育講演が予定され、筆者は光栄にも研究会が開始された最初から講師を務めて来ました。今回は企画当番校の高田小学校の城谷校長先生から「未来の学校」というテーマが投げかけられました。未来の学校は、穂波地区の研究会が実践している「情報公開」を前提とすることだけは確かですが、「現在」の状況に対比される「未来」の学校のあるべきイメージは何か。日本社会は学校に何を求め、学校はどんな条件を必要としているのかを論じなければなりません。しかし、日本の学校は、「現在」に不満を感じていません。現状に不満のない未来論は、何を論じても空論になることを避けられません。もちろん、筆者が論じる「未来の学校」論も空論にならざるを得ません。政治も行政も、特に権力を仕切っている男たちは、日本に「未来の学校」が必要だとは考えていないからです。

1 自己責任時代の学校
-家庭や地域で発生する子どもの問題は学校の問題ではありませんー

 未来の学校は残念ながら未だその片鱗を見せるに留まっています。しかし世界を探せばいくつかの明確なヒントとモデルがあることは確実です。日本の学校が未来の学校を論じないのは、現状で特に不自由をしていないからです。個々の教員は別として、学校は何も困っていないのです。もちろん、学校を統括すべき教育行政も基本的に困っていることはありません。子どもや家庭・地域には重大な教育問題が山積していますが、現在の分業体制の下では、それらは教育行政や学校が負うべき責任ではありません。家庭やしっかりせよ、地域は連帯と協力を取戻さなければならない、と言っていれば済むのです。自己責任の時代なのです。

2 自己責任時代をもたらしたのは共同体の崩壊です

 伝統的共同体が崩壊した今、日本社会は自由な個人の自己責任体制を原則とするようになりました。自由な個人の前提は、自由な判断、自由な生活、自己都合の優先を原理とし、人間関係もしつけの問題も自給自足と自己責任を原則とします。個人の権利を保障した自由社会のあらゆる組織の特性は自給自足と自己責任です。権利の裏側は義務であり、自由の裏側は責任ですから当然のことです。かくて、個人はもとより、家庭も地域も、問題の解決は自己責任の時代に生きているのです。

3 干渉を嫌えば、誰も世話してはくれません

 孤立してあなたが淋しくなっても、あなたが自分で人間関係を開拓しない限り、人は余計な手助けはしません。うっかりすると配慮は干渉となり、世話はお節介になりかねないからです。あなたの自由を侵害し、あなたの自律的な判断に介入することを恐れるのです。自由人が他者の干渉を嫌えば、誰も世話してはくれません。
 したがって、自分で人間関係を築いて行ける人は問題ありませんが、それができない人、交流に失敗した人は孤立することになります。引き蘢りや孤独死は自己責任社会の「自由の裏側」なのです。
 学校は子どもが当面する問題も、家庭が当面する問題も知っています。広く社会を勉強して視野の広い先生方は地域の問題も知っています。しかし、自己責任社会は己の分を守って他者の領域に介入しないことが原則です。
 それゆえ、問題を診断して、家庭に呼び掛けたり、期待したりしますが、個人の問題解決を学校が自ら引き受けることはしません。日本の学校は、現状の役割分担の枠を越えて、子どもや家庭の教育問題のために「未来の学校」を問うことは稀なのです。子どもに重要な人生上の体験が不足していても、耐性が低くても、時には学力の低迷さえ学校の責任ではありません。先生方は学校の任務は教科教育であり、学習指導(愚かな人々は学習支援と言って子どもの主体性と自己責任を強調します)の一部を家庭に任せ、塾の力を借りることを学校の堕落とも矛盾とも思っていません。愚かな人々は学習支援と言って子どもが主体性と自己責任をもって自ら学習する者だと強調しています。学習しないのはあたかも子どもの責任であるかのように言うのです。
 それゆえ、分らない子どものための居残り学習や補習事業は稀になりました。同和教育には学力保障の問題を解決するための学校に組み込まれた推進員制度があって、特別の教員が割り増しで配置されています。しかし、彼らが時差出勤制をとって放課後の子どもの補習を担当したとはついぞ聞いたことがありません。「学力保障」の理念や声高な議論は飛び交いますが、補習を実行する具体的プログラムは中々聞こえてきません。実際に被差別地域の環境や生活条件が低学力に関係しているというのなら、学校は当該地区の子どもを対象として徹底した補習教育のプログラムを組んで、子ども自身に高度文明社会を生き抜く学力を付けてやることこそが差別を跳ね返す力になる筈です。しかし、ここでも、日々特別プログラムを組んで、具体的な学力保障の教育的プログラムを実践し、かくかくしかじかの効果を上げているというような報告をついぞ聞いたことがありません。

4 養育の社会化

 個人主義・自由主義を原則とする社会では、しつけや養育の問題は家庭や地域が自己責任において判断し、子どもが自由に選択する個人的問題であり、自由裁量・自己責任の問題です。政治が少子化対策の名目で「子ども手当」をばらまくのもそうした発想の延長です。お金をもらっても個人が子どもの養育や発達を必ず保障できるとは限らないことは政治も行政も知っているのですが、人気取りでやっていることですから止めません。幼少年期の保育と教育を統合して、「養育」を社会化し、家族中でも母親の負担を軽減しなければ少子化は止まりません。男女共同参画も進みません。その時学校が「社会的養育機能」の拠点になることは言うまでもありません。未来の学校の重要機能の一つです。

5 問題家族も問題地域も立ち往生しています

 現在、自由裁量・自己責任で最も困惑しているのは、しつけや教育に無関心な家庭であり、そうした家庭の子どもです。もちろん、地域は単なる住宅の寄せ集まりとなりましたから、地域が当面する問題を自己解決する力は全くありません。それが無縁社会の特徴です。共通目的も明確な共通利益もない地域は、自由裁量・自己責任を旗印とする個人主義には全く歯が立たなくなりました。人々は地域の他者の目を気にすることはあっても基本的に地域の干渉は全く許さない環境で暮らすようになっています。子ども会のような地域の教育的な機能を担った組織が全くその役割を発揮できなくなったのは、個人主義は他の干渉を忌避したからです。自由な個人の自由裁量・自己責任の原則に立った暮らしは、事故や急病以外、原理的に地域を必要としなくなったのです。その事故や急病ですらも、普段が普段ですから地域を当てにすることは原則として出来ないのです。

6 教育の必要もプログラムの原理も変わりません

 社会のあらゆる環境条件が変わっても「人間性」は変わらず、したがって「教育の基本」も変わりません。共同体が崩壊して、地域も人間の暮らし方も変わってしまいました。しかし、人間性は変わらず、人生の基本も変わっていません。それゆえ、人間の発達原理も、成長の条件も昔と今で全く違いはありません。やったことのないことはできず、教わっていないことはできないという教育原則は変わらず、繰り返し練習して初めて上達するという鍛錬の条件も昔と同じです。しつけと教育を経て「霊長類ヒト科の動物」は人間になって行くことも何ら変わりません。
 家庭や地域がしつけや教育に無関心であれば、「ヒト科の動物」はまともな人間に育つ筈はないのです。
 誰も干渉せず、誰も手を貸してくれない自由裁量・自己責任の暮らしの中で子どもは放置されて身体だけ大きくなります。幼少期に「早寝、早起き、朝ご飯」が強調されざるを得ない状況は、背後にどんな事情があるにせよ、子どものしつけと教育の崩壊を意味しています。しつけと教育の過程を経ずに身体だけ大きくなった子どもは社会生活も集団生活もできません。
 半人前の子どもに地域も家庭も明らかに困惑しています。学校もその影響を受けます。斯くして集中力・持続力の欠如、規範の不在・集団生活への不適応、日常の礼節や勤勉の「型」の崩壊など子どもの発達支援上の問題の大部分は学校外で発生します。また、一度発生したこれらの教育病理上の症状は回り回って学校の授業や教室の集団生活を破壊しかねませんが、授業崩壊や学校崩壊が現実のものとなるまでは、学校も教師も「家庭よしっかりしてくれ!」、「社会教育は何をしているのか!?」、「これでは学校の本来任務である教科教育が成り立たないではないか!」と言っていれば済むことなのです。この時、問題を理解し、対応策を実行することが可能な家庭だけが子どもを塾に送り、中学校は私立を選択し、スポーツ少年団で規範や耐性の指導を受けるのです。経済的に豊かな地域の学校の子どもの平均点がいいのも、問題行動が少ないのも、当然、「学校の力+塾やスポーツクラブの力」の結果です。もちろん、ここも自由裁量・自己責任の原則ですから、対応策を取らない(取れない)家庭の子どもは教育病理上の症状を抱えたまま身体だけ大きくなるのです。小1プロブレムを解決できなかった学校は、そのまま中1プロブレムを引きずることになるのです。

7 自由裁量・自己責任原則の一時棚上げ

 授業が成り立たなくなり、学級が崩壊するとさすがに被害を受ける子どもの関係者が黙っていないので、その時初めて問題は全体の問題になり、自由裁量・自己責任の原則は一時棚上げになります。初めて学校は今のままでいいのかが問われ始め、現在の学校が批判と分析の対象になるのです。「未来の学校」論はこのようにして登場するのだと思います。

8 現在の学校が捨ててきたものは何か

 学校は世間を代表して「しつけとトレーニング」の責任を負った他者依存システムでした。教師が人々の敬意と尊敬を集めたのはそのためです。家庭は「保護」、世間が「しつけとトレーニング」という「子宝の風土」の役割分業は 個人主義・自己責任社会の到来で崩壊しました。
 学校が「一人前」の訓練を放棄すれば、小一プロブレムから中一プロブレムまで、授業崩壊から学級崩壊まで自己責任社会の「つけ」は最終的に教育を崩壊させ、学校を機能不全に陥れます。「未来の学校」が問われるのはその時です

9 「未来の学校」は「地域の学校」

幼少年教育を立て直そうとするなら「未来の学校」は「地域の学校」にならなければなりません。「地域の学校」とは地域の問題も引き受ける学校という意味です。地域に在る個別家庭が問題に当面しているなら「地域の学校」はそれらも引き受けるということです。
 具体的には次のようなことを引き受けることになります。
* 子どもの成長の「核」となる体験の欠損は、子どもの健全発達の重大阻害要因となります。それゆえ、学校は「欠損体験」は教育的に補完すべきですが、教育的補完ができないのは「プログラム」と「連携」が欠落しているからです
 子どもに起こっている「欠損体験」の関係者の共通理解を促進し、教育の共通目標を確立することが「未来の学校」の第1任務になるでしょう。
*現状は家庭も地域もバラバラです。長期休暇や放課後には子育て支援や社会的条件の格差を是正するため「保教育」、サマースク-ル、補習授業等が不可欠になります。当然、実行のためには学校と社会教育の連携,福祉政策の統合、学校支援ボランティア制度の確立などが前提条件になるでしょう。しかし、男たちが仕切って来た政治や行政では保守・革新の区別なく実行できなかったということが明らかです。
*教育に関わるすべての学校間の連携も不可欠になります。しつけを見直し、青少年の社会規範を打ち立てるためには、幼保から中学校までの共通教育理念の確立と社会規範指導が必要になるでしょう。小中一貫教育の政策も学力だけでなく、どんな子どもを育てるのか子ども像を巡って理念と方法を再吟味する必要があります。
*教育問題を少し離れますが、高齢者の健康を維持し、活力のトレーニングを続けるためには、高齢者が子どもの成長を応援するシステムづくりが有効です。高齢者による青少年教育の支援システムの構築、教育ボランティアの養成と活用のシステム化、そのための予算化とプログラムの創造が不可欠になります。その時、幼老共生のステージは「未来の学校」になる筈です。

10 「地域の学校」は地域の信頼が条件です

 成長も発達もその意味するところは子どもの現状を望ましい方向に変えることです。学校への信頼は子どもを変えることから得ることができます。成長と発達を総合的に統括することが学校の本来の職務だからです。成長と発達を総合的に統括するとは「しつけとトレーニング」の教育権を学校が行使して、所期の目的を達成することです。
 そのために上記の学校間連携が不可欠になるのです。教育成果の大部分は「系統的積上げ」によってもたらされるからです。

「聞き書きボランティア」の募集と養成

 新刊「熟年の自分史-人生のラストメッセージを書こう」を書き上げ学文社に提出して来ました。いろいろ参考書を勉強する中で、最後の結論は、自分史を書くことは「語り草」になることで在る、というところに行き着きました。「読み書き自分史ぼけ防止」という標語にも行き着きました。しかし、問題は書くことは力仕事で一般人にとって決して「簡単ではない」ということです。東京から帰りの車中、「聞き書きボランティア」の募集と養成を考えればいいではないかということに気付きました。以下はその前後の思考の試行です。

1 自分史を書くことは「語り草」になることです

 人生を納得したい人は自分史を書くべきです。お墓を作る代わりに自分史を書くというのは「自分の時代」の新しいライフ・スタイルだと言ってもいいでしょう。
 誰の人生も平坦・平穏ではありません。誰もが様々な自分なりの戦いを戦って今日まで生きたのです。高齢社会の到来によって、人々の老後は自身の衰えや日々の無聊との戦いが長くなりました。人生80年の時代が実現して、人々の「生涯時間」は平均20年にもなりました。自分史は長い老後の戦いの「武器」ともなり「証」ともなります。
 そして幸運にも自分史が読み手を得ることができれば、ささやかといえどもあなたの実在の「歴史的証明」になります。あなたが死ねば、生物学上の実在は消滅します。余り長い時を経ることなく遺族や友人たちの間でもあなたが居たという記憶は薄れることでしょう。しかし、あなたの生きた歴史を作法通りに残すことができれば、その記録はあなたの死後も読み継がれ、未来の読者の記憶に残る可能性が大きくなります。自分史は現代の「語り草」の資料と成り得るのです。かつて人々が来世のために「名を惜しんだ」のは「語り草」になるためです。電子技術や情報機器の発展は個人史の作成技術を誰にでも保証し、長期保存を可能にしました。私たちの個人史もまた数歩「永遠」に近づく機会を与えられる時代が到来しているのです。あなたの人生も適切に記録すれば未来に語り継がれる歴史になり得るのです。それゆえ、あなたの読者を想定し、墓に加えて、あるいは墓の代わりに自分史を書くのです。自分史を書く端的な目的は未来の「語り草」になることです。あなたの死後、あなたの墓参をして下さる方々がおそらくあなたの自分史の潜在的読者であり、未来の読者です。

2 書くことは重労働

しかし、書くことはまさしく重労働です。気負わずに話すように書けばいい、と言われても、中々話すようには書けないし、書いても重複したり、落ちがあったり、筋が通らないことが多いのです。これまでも「下手に書きなさい」、「名文美文を手本にするな」という「ふだん記」運動(*1)や子どもを主たる対象とした「生活綴り方教育運動」や労働運動の一環としての「生活記録運動」などがありましたが、こうした運動が起こったということ自体一般人が「書く」という作業の難しさを浮き彫りにしています。そこで誰もが書き易いように書くべき内容を項目化・様式化した「自分史ノート」が考案され、今では沢山の種類が出回っています(*2)。小林寿美子氏が「物語産業」と呼んだのはビジネス化した自分史文房具の販売や自費出版産業の隆盛です(*3)。しかし、「自分史ノート」に促されて書いても、子どもの夏休みの日記帳のようで、それがあなたの自分史だと思えないことも多いのです。とにかく書くことは簡単ではないのです。
 そこでお勧めしたい書き方は、思い出の断片を一つ一つカードに書いて行くメモ形式の「材料集め」から始めることです。書く材料の集め方は思い出の「連想ゲーム」とでも呼ぶべき方式です。
 筆者は若い頃にこの方法を学び、著述の上でどれくらい助けられたことでしょう。自分が読んだり、学んだりした個別の情報を繋いだり、まとめたりするときの筆者にとっては宝物のような方法です。普通ブレーンストーミング法と呼ばれる課題や情報の収集法と収集した情報を組み合わせる整理の技法と組み合わせて「KJ法」と呼ばれています。集めた情報から自分の考えを紡ぎ出すための発想法です。
 筆者は今でもものを書く時は常にKJ法のお世話になっています。KJ法のKとJは、発明された川喜田二郎先生のローマ字のお名前の頭文字を繋いだ名称です。先生には一度もお目にかかったことはありませんが、筆者にとって、まちがいなく「恩師」のお一人です。

(*1)橋本義夫、『誰もが書ける文章-自分史のすすめ』講談社現代新書、1978
(*2)福山琢磨の創始による「自分史マニュアル・メモリーノート」が発端。「自分史作り方教室」を全国各地で開催。「自分史ノート」の例、ex.1自分史ノート(博善舎)、書き込み式自分史サブノート(詳伝社新書)、生きてきた証を綴る自分史ノート(日本文芸社)
(*3)小林寿美子、前掲書。
(*4)川喜田二郎、 発想法 - 創造性開発のために、中公新書 、1967年

3 「聞き書きボランティア」の不可欠

 筆者は過去に2度自分史講座の担当をしたことがあります。自分史の執筆支援は2度とも継続のご要望が強く、自分に取ってもやり甲斐のあるお手伝いだったのですが、各人の記録したものを「推敲」し、「添削」し、時には「聞き書き」までする支援方法では時間と手間がかかり過ぎてお世話をする方が草臥れてしまうのが大問題でした。当時の私もたまりかねて学生諸君や教職についていた教え子に応援を頼んだりして辛うじてその時のプログラムは無事に為し終えることができました。自分史作成の過程でみなさんが生き生きと過去を語り始め、交流が始まり、宿題をこなしてお元気を取り戻して行く様子が明らかに認められました。自分史は「教育的負荷機能」であり、高齢者の「読み、書き」機能をフル回転させるのに最適なのです。また、執筆のプロセスで苦労を分かち合うことも完成の喜びを共有することも仲間との交流を深めるため大いに有効であることが分かりました。完成披露パーティーは大いにもり上がりました。唯一の欠点が作業時間と支援する側の負担が大きすぎることでした。筆者も疲れ果てて2回で講座の開催を断念しました。
 この挫折経験から、書くことに慣れ親しんできた人以外、散文自分史を完成にまで導き得る指導・支援は、量的・時間的に一人の講師の力では極めて難しいと考えています。
 筆者が経験したようなことが各地で起こったのでしょうか、近年、「聞き書きボランティア」(*)の運動が、自分史を書きたい人にも、それをお手伝いする人にも極めて重要な役割を果たすことが注目され始めました。近年、日本聞き書きボランティア協議会も発足しています。
 この会は、義親を看取った一人の女性の思いから始まったそうです。「協議会」を紹介するインターネットの冒頭には次のように記されていました。

拙い文章だといわれます
ただひたすらに、耳を傾け言葉を拾った、それがすべてだからです
温かい本だといわれます
送った時の笑顔が見たい、それが思いのすべてだからです
現在では、ここから発展して、大都市では「聞き書きボランティア」の養成講座も行われています。似たような試みが広がり、長崎や宮崎でも始まっています。
 語り手は、話すことでご自身の人生を振り返り、自分がしてきたことの意義に気付いたり、「まだ、やれることがある」ことを自覚します。一方、聞き手のボランティアは、単に自分史作成の応援をするに留まらず、クライアントの話の内容から様々なことを学ぶという相互学習の視点も付加されています。聞き書きを通して学習するという理論的背景には、例えば、バイスティック(Biestek, Felix Paul 、1912-1994年 )のケースワーク理論があります。
 筆者は今度3度目の自分史講座に挑戦します。福岡県小郡市の宮原夕起子氏の多大なご支援を頂き実現しました。また、九州女子大の大島まな准教授の応援も頂くことになりました。それでも重労働になることを予想しています。
そこで初めて思い立ったのが宗像市の市民による市民のための生涯学習支援事業:「市民学習ネットワーク事業」における「実験:聞き書きボランティア」の募集と養成です。「聞き書き自分史作成指導ボランティア」を新しく募集し、筆者自身が実際の自分史講座の中で聞き書きと文章構成支援の方法を実習して行きたいと考えています。筆者の自分史支援はKJ法の応用ですのでコツさえ憶えれば誰でも支援が出来る筈です。東京からの車中自分の思いつきにいささか興奮して帰りましたが、事務局や運営委員会の組織的な合意を取り付ける問題もありますので上手くできましたらご喝采
§MESSAGE TO AND FROM§ 

 八月や天神に降る蝉しぐれ

 あっという間に8月が来ました。皆様のお便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。

福岡県宗像市 竹村 功、田原敏美、古野 浩、吉川 尊 様

 いただいた紅白の蘭が玄関を華やかに彩りました。誰にも来ていただかない初盆ですが、私は勉学に集中してダイアンの側におります。

40年前のあなたの写真
銘々膳に飾ります
あなたは若く
覚悟の光りに輝いて
異国の苦労の味も出て
老いた私を見つめます
友人たちが花を手向けてくれました
言葉に窮し、思いに窮し
夕餉の支度にかかります

積乱雲の日曜は
夕べの凪ぎと黄昏れが
近所を静寂につつみます
3個100円の茗荷を買って
庭の紫蘇の葉2枚をちぎり
みじんに刻んで薬味とし
島原そうめん湯で上げて
水でさらして氷を添えて
追い鰹のたれに
おろし生姜
あなたの前に坐ります
夕餉の支度ができました。

山口県 C.F. 様

先月からですが、養父の長年の虐待が発覚して保護された娘を預かりました。この年で孫年齢の、それも今どきの高校生の里子は、どんなに頼まれてもと、ずいぶん躊躇しました。しかし、折りしも東日本大震災で両親を亡くした、150人余りの震災孤児の受け入れを全国里親会では検討しており、地元で、あと僅かな月日で高校の卒業が叶う生徒一人が受け入れられなくては、何の為の役目か、資格か!・・・と、自分を鼓舞し、家族を説得して受諾しました!児童相談所、警察、学校・・・と、公的機関のお堅い頭がチラホラ混じる方々を相手に、彼女が本来在るべき姿の自分を取り戻し、来年3月には自立が出来るように、生活支援しながら、社会への適応能力を高めてやる為に、粉骨努力しております!既に年齢的に人格形成は出来ているでしょうが、理不尽な扱いを受けながらも我慢して耐えて来たこの子に、この世に生きる本当の意味を考えさせ、幸せを感じる心を取り戻させてやりたいと思います!
 涙が出なかった彼女が、時たま涙をこぼすようになりました!ある事で、学校から心無い待遇を受けても我慢している事を知って、私は思わず涙が
あふれました!悲しいとき、悔しいとき、腹が立ったとき、涙は自然に出るものだと教えました!高校生年代の「友情」に大きな違和感を覚え、親との確執を考えさせられる事も・・・。高校生の親を再び体験させてもらって、少々疲れますが、好奇心も湧いて来ています。彼女のお陰です!これからまた、充実した一日が始まります! 今度は、いつ先生にお目にかかれるでしょうか・・・?

 あなたにはこういう「凄み」がおありなのです!ただただ感服!天晴れの一語に尽きます。秋のアメリカへの旅が終わったらお目にかかりたいものです。

福岡県宗像市 田原敏美 様

 男女共同参画の分っていない九州で、男の作ったジャム、ひとしお美味さを味わって頂いております。あなたが作り続けるのであれば来年もお願いします。生き延びてご馳走になります。

神奈川県葉山町 山口恒子 様

 初めてシルバー人材の方に家事を依頼してみました。しばらくはいろいろな方との出会いを摸索してみます。
 自立を捨ててアウトソーシングする目的は、家事負担の軽減が半分、仲好しになるのが後の半分です。日本では従来「遠い親戚より、近くの他人」と言い習わして来ましたが、「無縁社会」の到来で「近くの他人」は完全に崩壊しました。わが私生活では「ボランティアの縁」に加えて、「日常生活支援の縁」を摸索し始めるつもりです。お盆が明けると庭の手入れをお願いしております。どことなく教員時代に新学期の新入生に会う興奮があります。荀子のいう「積土の山を為せば風雨興る」の文言は私も紙に書いて机の正面に張っております。

山口県山口市 上野敦子 様

 手紙で苦言を呈しましたが、地域の協働は気の合う人物だけとの交流を意味しません。男女共同参画の分らない男たちは山ほどいます。若い者を見下すタテ社会の遺物も沢山います。行政の権力を傘に着て、実践の意味を見ようとしない者もそこら中にいます。自分の子どもしか見えない保護者も山ほどいます。奉仕者が特権者に変わる場合も山ほどあります。言うべきことは言い、戦うべきは戦って、困難を切り抜け、子どもを変えて見せるのがあなたの力です。ヨコミネ式の子どもの規範と体力の錬成、あなたの奮闘を見に参ります。

 志縁の情け―志縁の開拓

 一人暮らしは時間に逼迫します。筆者も男女共同参画が持論ですから、料理も、掃除も、洗濯も家事は一通りできますし、自分でやって来ました。しかし、一人で何役もこなすのはどうしても物理的に時間が不足します。研究会の準備をし、論文を書き、毎月の生涯学習通信を編集し、発行し、英語のボランティアを続けながら本の執筆も続けようと思うと時間もエネルギーも枯渇します。そこで家事のアウトソーシングです。初めてシルバー人材の方々に家事をお願いして実験を開始しました。

1 ボランティアの縁

 一人暮らしは人の情けが身に滲みます。海釣りの大好きな学習者から釣果のイカや鯵を頂戴し、料理法も教わり、自分で刺身にしたり、塩焼きにしたりして、ご馳走になりました。お礼を申し上げ、次の「戦果」もよろしくお願いしますなどと軽口も叩けるようになりました。
 また、英語と韓国語を勉強している方が、日韓親善ゴルフの通訳をしたお土産に頂いたと韓国海苔の差し入れがありました。これまでもそうした機会はあった筈ですが、一人暮らしになる前は「余計なお世話」だと控えめに遠慮なさっていたのでしょう。更に何人もの方から、疑いなく、一人暮らしの朝飯の侘しさをご想像になった結果だと思いますが、小分けされたスープ、佃煮、ジュース、などもお中元の贈り物で届きました。男性からも女性からも最近は夕食の差し入れが届き、お便りには食い物、休養,安眠など私の返事の有無にかかわらずこまめに忠告が届きます。

2 遠い子ども、遠い親戚は力になりません

 子ども二人の内、一人はアメリカ、一人は東京ですから年老いたおやじの緊急の場には間に合いません。彼らはそれぞれに親思いで気持ちの上では大いに救われていますが、実際には、彼らもまた家を持ち連れ合いを持ち、子を持って日々奮闘しているのでそうそうおやのことばかり思っていることはないでしょう。いまだ親孝行の概念が健在であり、家制度も存続していた昭和の戦前の歌が「昭和万葉集」(*)に出ておりました。

老いたまう父母を思いて発ち来しがあわれ父母さえ思うときなく(福川徳一、昭和万葉集巻6*1)

 親孝行の価値が残っていた戦前ですら上記の歌の通り子どもはその日の仕事と生活に追われて親を思う余裕はなかったということです。
まして現代においておや、ということでしょう。

(*1)昭和万葉集、歌集。20巻、別巻1、講談社、1979-1980年にかけて刊行された。

3 週間「無事の便り」

 子どもたちとの安否確認のやり取りは週に1回毎日曜日に送る「週間無事の便り」を発明しました。それに着実に子どもたちからの返事が来たとしても、やり取りは3-4日に一度ということになります。親の元気を確認して子どもが自分の生活に没頭すれば、一週間は空白になります。最後の葬式を出すのは子どもたちだとしても1週間の空白があれば、絶対に緊急の場には間に合いません。
 こうした一人暮らしの条件を考えていた折りも折り、友人の友人が足を骨折して緊急入院するという事態が発生しました。私の友人が獅子奮迅の活躍で入院迄のすべてを整えました。その後も遠い地に生活基盤を持っている病人の家族は日常の介護はできません。以後、また、我が友人が日々のお世話をなさっています。我が友人は幸いなことにご病人を尊敬する「志縁の人」だったからです。
 このようなお世話は「近くの他人」では出来ません。また、「近くの他人」がお世話をしてきた「お互い様」の原理は「個人主義」・「自分主義」の自己都合優先の時代のなかで消滅し、介護保険やデイ・サービスとしてビジネス化したのです。
 友人とその友人に発生した突然の骨折事件は、筆者にとって重要な他山の石となりました。

4 勉学「無事の便り」

 友人の友人の突然の事故を教訓に、筆者は信頼する二人の友人に特別にお願いして子どもたちの住所・連絡先をお教えして、緊急時の仲介をお任せしました。
 当然、私の方からは、毎日「勉学無事の便り」をお二人に送ることにしています。始めて見たら自分を律する大事なコミュニケーションになりました。日々の感想や勉学の推移を報告しています。事故も孤独死も世間への迷惑を最少限に留めたいものです。これが「志縁の人間関係」です。ご近所だからと言って、通常の他人にはお願いできません。また、引き受けても下さらないでしょう。無縁社会の反語は志縁社会であるという小論を書いたことがりますが、無縁社会の孤立を救ってくれるのもまた志縁の人間関係なのです。

140号お知らせ
1 第112回生涯教育フォーラムin福岡

日程:8月27日(土)13:30-15:30
場所:福岡県飯塚市穂波公民館(-0948-24-7458. 住所:〒820-0083飯塚市秋松408.)
発表者 嘉麻市生涯学習課中央公民館係長  伊 藤 喜 浩 氏
内 容: 公民館の特性を活用した学校支援の体制づくり
     ~「夏休みときめき学習」を通して~
論文発表: 三浦清一郎(生涯学習通信「風の便り」編集長)
  テーマ 「近くの他人」の崩壊~無縁社会を生き抜く方法

2 第113回生涯教育フォーラムin福岡
日程:9月17日(土)15:00-17:00
内容は交渉中です。

3 第114回生涯教育フォーラムin長崎

日程: 10月29日(土)
会場: 稲佐山観光ホテル

4 生涯教育移動フォーラムin廿日市

日時:平成23年12月10日・13:00-11日・12:00(土-日)
会場:(発表・協議:広島県廿日市市大野図書館、交流会:大野町4区集会所) 

「一人暮らし」のアンケート-「はい」が半分なかったら滅びます―

壁に標語を張りました。一枚目には「為すべきを為さざれば必ず悔い在り」と書きました。2枚目には「音楽体操日に3回」、「思いついたら即実行」と書きました。3枚目には「感謝を忘れず」と書いています。一人暮らしを律するのは自分です。

1 「読み、書き、交流、情報収集」-勉強していますか?

 人生の基本で、人間に一番大事なのは体力です。年齢に関係なく「生きる力」の基本は体力です。しかし、熟年期の人間行動のあり方を決定するのは頭です。脳生理学や精神医学によれば、精神も心の持ち方も頭が決めます。人生のすべてを判断するのはあなたの頭です。高齢期に不可避的に衰えるのは肉体であって、頭は必ずしも同じようには衰えません。頭を鍛えるには読んで、書いて、見て、話して、新しいことを試しながら、日々の勉強を続けるしかありません。あなたは自分の老後をどう生きたいのか、決めるのはあなたの精神です。勉強のテーマは「何をしたいのか」、「どう生きたいのか」、「どんな風にするのか」等々を考えて決めます。あらゆる人生の問題の解決には必ず勉強が必要です。勉強とは頭を鍛えることです。基本は「読み、書き、交流、情報収集」です。

2 一年の達成目標を決めていますか?

 達成目標を持たなければ計画も努力も必要を感じないでしょう。達成目標がなければ、どこまで進んだかが分りません。個人の生活にもPlan→Do→Check→Actionの評価サイクルは不可欠です。
 年寄りに「安楽」を勧め、「目標」や「事の成否」にこだわらず、のんびりとマイペースで暮らしなさいという助言はナンセンスです。「安楽余生」は人間を滅ぼします。元気だから活動するのではありません。活動するから元気を維持できるのです。活動には、日々の小目標、月々の中目標、半年単位くらいの長期目標が不可欠です。但し、半年以上長期に亘る目標は命が持たないかも知れません。
 がんばっても幸せになるとは限らず、努力しても高齢者は衰えて、いずれ滅びます。だから頑張らなくてもいいのだということにはならないでしょう。頑張らなければ心身は確実に衰え、健康寿命を失って、周りも不幸に巻き込んで早晩滅びます。
 もちろん、目標も活動も自分流でいいのです。

3 身体を意識的に手入れしていますか?

 熟年期は毎日の体操が不可欠です。毎日の散歩でもいいでしょう。内臓のことは分かりませんが、人間は連続した感覚体の総合ですから、体操は全身の老衰予防になり得ます。衰えは関節、筋肉、バランス、柔軟性などから始まります。日々己に一定・適切な負荷をかけ続けなければ、心身の機能は確実に急降下します。意識的な手入れとはまず衰えそうな身体部分の運動を入念にすることから始めます。

4 人と仲良くしていますか?

 老後こそ人脈を生かし、人脈を築かなければなりません。現役時代の人脈のほとんどは退職後に破産します。それゆえ、活動しない人に人脈はできません。老後の新しい縁は「活動の縁」です。「活動の縁」は、「同好の縁」「学縁」、「志の縁」などに別れます。趣味や生涯学習やボランティアなどが熟年期の社交を作るのです。

5 活動は「選択的に」、「マイペースで」、「継続して」やっていますか?

継続するには疲れないことです。継続の条件は、適切な中身の「選択」と適切な活動の「ペース」です。疲れないようにやるのがペースメイキングです。Slow but Steadyは、長年の人生経験から導き出される年寄りの知恵です。続けて行くことで、年寄りでも若者に負けない条件を作れるのです。

6 自分に関わる家事は自分でできますか?

男女共同参画は年齢に関わりなく21世紀の必修事項です。男女共同参画を身に付けていない男性はこれから結婚は出来ません。年寄りは日々の暮らしに行き詰まります。
 夫婦者も「変わってしまった女」の合意を得ることができないから、熟年離婚の危機を招きます。何より女性に対してフェアでありません。一人暮らしの自立とは家事の自立の代名詞と言っても過言ではありません。家事を日頃から自分でできるようにしておくことが自立のトレーニングのスタートです。

編集後記
反省・打ち揚げ・懇親・喪失・引き潮

 梅雨が明け、第111回生涯教育まちづくりフォーラムが無事終って季節は真夏になりました。わが家には一昨年頂いたカサブランカの白い花がたわわに開き、夏の讃歌が聞こえるようです。今回のフォーらむには、山口も、大分も、佐賀も、いつも来て下さる常連さんのお顔が見えず寂しい会になりました。いい論文が書けたつもりだったのに、論文発表の気合いが入らず、あらゆる会合は出席者が作っていることをあらためて痛感させられました。
 フォーラムのあとは第30回中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会の反省と打ち揚げを兼ねてささやかな懇親の宴をもちました。狭い店内には他のお客さまがいらっしゃるのでお互いのスピーチもならず、ぎゅうぎゅう詰めで身動きもならず、感情を共有する懇親はできましたが、論理を分かち、人々の思いを知り、次に備えて教訓を得る反省の会にはならなかったと思います。これまで何百回と日本型懇親を重ねて来ましたが、歳を取り、時間と体力のなくなった小生は、先日の会をもって懇親の儀は「打ち止め」とすることにしました。「ひきどき」です。「潮が満ちて来て日々の憂いを流し、潮が引いて行って半日の時間を奪い去る」というのはDan Berrgrenの「水の詩人」の歌詞ですが、わが人生も引き潮に入りました。もはや時間もエネルギーも足りません。
 一方、先輩の友人は人の誘いを断り切れず、「いまだ『断』ができない」とメールを残して炎熱の街へ義理の付き合いに出かけました。友人のぼやきは「他山の石」。義理の社交、情の交流だけに終る懇親は、以後「断」と決めました。

あなたに見せたい風景がある

哀れかな 美しきかな
何百のモンシロの舞い
見し夜明けかな

田の中に水の流れる
豊かにも
静寂彩り夏の夜明けぬ

人は寂寥に添えますか
人は寂寥には添えない
人は人にしか添えない
それも稀にしか添えない
雨降りしきり
雨の静寂は耐えるしかない
孤独な勉学に励むしかない
今夜はハーモニカを吹こう

吉備路

燦々と夏の光りが振りそそぎ
今日は吉備路の一人旅
久々にもらえた仕事です
欅どおりの青葉を揺らし
いと涼しげに風が行き
遅い朝食のレストラン
光りの届かぬ隅に坐り
窓の向こうの街を見る
そうじのおばさんの赤い被り
行き交う日傘の白い胸

あなたのいない寂寥は
私を果敢なげにするのでしょう
みんなの笑みがやさしくて
ウエイトレスの言葉も温かで
思わずほろりとなったりして
レモンティーが胸に沁みるのです
昔はあなたと来ましたね
時の流れが隔てます
あなたは彼岸に笑みて立ち
私を待つような気がします