「風の便り 」(第139号)

発行日:平成23年7月
発行者 三浦清一郎

まちづくりプログラムの原点-コミュニティ自治の崩壊-

コミュニティ自治の形骸化

 長年の友人たちもそれぞれの職業から引退し、過去の経験を生かして様々なコミュニティ活動に関わるようになっています。この度二人の友人が居住地区の役員となり、「コミセン方式」という住民自治を前提としたまちづくり計画を点検する役目の依頼を受けました。お二人は、資料を読み返し、会議に出て、討議を重ねたそうですが、実態が分って来るに連れて、1年交替の役員が疲れ切って、どの角度から見ても「コミセン方式の自治」は機能していないのではないか、という感想に達したようです。感想には彼らが点検した結果から導き出された具体的な質問が付いていました。さすがに元市役所の幹部職員ですから質問が実に的確で当方の分析に大いに役立ちました。以下は筆者の「総論」と「質問を手がかりにした分析」です。

I 「総論」-コミュニティ自治の基本条件

1 あらゆる計画には方向目標と達成目標が不可欠です

 計画には進むべき方向を限定する「方向目標」と一定期間内に何をどこまでするのかを限定する「達成目標」があります。これらの二つがそろって計画になります。
 まちづくりの場合は、「どんなまちをつくりたいのか」、「どんなまちであれば暮らし易いのか」、その「理想像」が方向目標です。そして、「この1年あるいはこの3年で具体的に何をどこまで実現しようとするのか」、それが達成目標です。二つの目標の機能は旅をする時の地図に似ています。カーナビが目的地に向かって、経由地の地図と時間を示すのに似ています。

2 事業計画の目的は「活動内容」と「方法」を決めることです

 地図の目的は行程を決める事です。行程とは時間と経由方法を決める事です。地図がなければ旅が難しくなるように、事業には事業計画が不可欠であり、その中身は事業行程表で示すのが普通です。計画における二つの目標が明確で具体的でないと「活動内容」と「方法」を決めることはできません。
 多くの自治体の言うまちづくり論は二つの目標が明確ではありません。目標が書かれている場合でも、「環境にやさしく、人にやさしく」とか「緑豊かで、文化の香る」とか、その多くは曖昧かつ情緒的な言葉で語られています。
 特に達成目標は全て具体的な場面や状況を想定できるようなものでなければなりません。「こうした場合にはこうなる」、「このような時にはこうする」という具体例が挙げられるようにしておかなければなりません。関係者は目標達成のために行うべき「活動」とその「方法」を想定しなければならないからです。

3 中身と方法はふつう5W1Hで表します

 具体的な目標は、それを実現するための具体的な活動内容と方法に「翻訳する」ことが必要です。活動内容と方法を併せて「事業」とか「プログラム」と呼びます。達成すべき目標が二つ以上ある場合にはそれぞれの事業計画(プログラム)を立てなければなりません。目標Aを実現するためにはだれが、いつ、どこで、なにを、どのようにするかを決めなければなりません。このように中身と方法はふつう5W1Hで表します
 目標B以下も同じです。「事業」には「人・もの・金」が不可欠ですが、まちづくりでは「だれ」がするのか、が中心課題です。そこにお住まいの住民の意志と意識が最も重要だということです。

4 まちづくり・コミュティ形成の目標はより良い暮らしの条件を作ることです

 よりよい暮らしの条件を整えるとは、住民の要望・希望に応えることです。マズローの人間欲求の分析に示されたように、人間の欲求には基本的な欲求から高度な欲求まで順序と段階があります。
 マズローはこれを次のような順序で表し、「基本」から「高度」の順に並べて、人間欲求のハイラーキー(段階性)と呼びました。

マズローの段階説

i「生存」→ii「安全」→iii「帰属・愛情」→iv「承認と尊敬」→v「自己実現」

 上記の人間欲求を日常生活の諸活動に置き換えれば、第1は、地域住民の助け合いによる弱者の保護と安全、第2は、地域が自発的に関わる教育や美化や防犯・防災等全体環境の保全と安心の確保、第3と第4は、地域住民が日常的に参加できる行事、交流、そこで発揮される儀礼や礼節など彼らの団結や連帯意識の向上に繋がる活動です。最後の「自己実現」はかならずしもまちづくりやコミュニティ自治の暮らしとは関係がないので考慮しなくてもいいでしょう。「自己実現」とは己の能力・機能を総動員して願ったように生きるということですから極めて個人的な目標になります。

5 「目標」は診断の「指標」を意味します
 
 目標に照らせば現状の診断基準が決定できます。目標は裏返すと「評価」の基準になるということです。「そのようにしたい」というのが目標で「そのようになっているか」というのが評価です。それゆえ、一つ一つの具体的目標はコミュニティの現状を診断する際の評価基準になります。
 たとえば、社会的に不利な条件に置かれている人々(高齢者、しょうがい者・病弱者、保護が欠けている子ども、単身家族、買い物難民など)に対する具体的な助け合いの配慮はありますか?
 コミュニティの防犯・美化・環境保全に対する意識や活動はどういう状況ですか?
 幼少青年に対する地域の教育や交流に対する配慮や活動はありますか?人々が希望する交流や行事は組まれていますか?それは本当に人々が希望している活動ですか?等々。

6 診断に基づき処方を決めます

 診断は「何が足りないのか」、「何を為すべきか」を明らかにしてくれます。診断結果を具体的な活動プログラムに組んだものが処方です。
 処方は、必要と不足に応じて活動計画に翻訳します。弱者に対する配慮が欠けていて、助け合いの仕組みが必要であれば作らなければなりません。それが事業計画・活動計画です。

7 診断にも処方にも「評価」が不可欠です

評価は通常マネジメント・サイクルの中に組み込まれています。日本語では計画立案-実行-評価-計画修正のプロセスを繰り返すことです。企業が発明した知恵ですが、今ではどの種類の事業にも使われるようになりました。英語ではPlan-Do-Check-Actionの4段階で表されます。

8 肝心の「人」が欠如

 ところが現代のコミュニティは「無縁社会」と呼ばれるように、連帯や協調の仕組みや人間関係が崩壊に近いのでまちづくりに関わってくれる「人」が最も欠如しています。「人」を確保できなければ、どんな計画を立てても実行することはできません。人がいなければ、何も動かないのです。
 もちろん、現代のコミュニティの人々に「能力」はあります。欠如しているのは「関心」と「意志」です。それゆえ、現代のコミュニティ自治には、目標が明確でない形骸化した活動プログラムだけがあって役員が事業消化のために惰性的に動いていることが多いのです。「処方」は実行されなければ処方にならないのですが、現代のコミュニティに実行はできないでしょう。「がんばろう日本!」のスローガンが踊っている震災の被災地でも仮設住宅の孤独死を避けられないということはこれまでの日本型コミュニティ論は破産しているということです。共同体が崩壊すれば、誰も生活の共同、協調、助け合いの事を考えませんから「無縁社会」の条件が整うということです。

9 共同体が崩壊したとき共同体を支えてきた共同体文化も消滅しました

 コミュニティ自治の最大の問題は自治を担うべき「人」の存在です。そうした「人」がいないところでどんなに精緻な計画が練られても動かないのです。
 日本のコミュニティ自治の政策は、従来の「伝統的共同体」の文化や仕組みが一定程度町内会や自治会組織に残っているという「錯覚」の上に企画された案です。ところが共同体が崩壊するということは、共同体文化を拒否して自由な個人が誕生し、自由な個人は今や「自己都合を優先して」、町内会にも自治会にも拘束されたくないと考えるようになったのです。町内会の役員がくじ引きや輪番制の1年交替になるのは「やりたくないこと」を「しぶしぶやっている」からです。仮に、特別熱心な役員が就任しても動員される側の住民はありがた迷惑で反応せず、そうした場合には役員の交替ができなくなってボス化します。かと言って「彼に代わって自分が引き受けよう」という人は共同体崩壊後の無縁社会にはすでに存在しないのです。名誉職型の役員は行政から委託される「お金」の使途を決める権限を持っているので、コミュニティに「新しい風」は吹かなくなります。筆者にも地域の公民館長と有志から提案のあったコミュニティの子育て支援プログラムを当該地区の高齢ボスのわからずやにつぶされた経験があります。共同体が崩壊したとき共同体を支えてきた共同体文化も消滅しました。被災地の仮設住宅で高齢者が孤独死するのは、被災者自身もすでに共同体文化の中で暮らしているのではなく、自由でさびしい無縁社会の文化で暮らしているからです。

10 コミュニティ政策はNPOやボランティアの養成から始めるべきなのです

 日本ではすでに共同体を発想の根拠としたコミュニティ政策は機能しないと考えるべきなのです。
 それではコミュニティ自治は不可能でしょうか?いいえ、コミュティの暮らしに関心を持って動いてくれる人々に任せれば十分可能なのです。それが新しい日本人の組織であるNPOやボランティアなのです。各人が自己都合を優先して自由気ままに生きる無縁社会で生起する問題を全て行政が担当することは不可能になりました。無縁社会はNPOやボランティアに「新しい公共」を任せて「志縁社会」に移行すべき時が来ているのです。行政をスリム化して今後ともコミュニティ自治の政策を進めて行こうとするのであれば、先ず行政は、町内会への委託金政策を止めて、地域の「新しい公共」(公的な機能を代替できる民間活動)を担う志のある人々に条件をつけて、予算を渡し、NPOやボランティアの養成から始めるべきなのです。

II  コミュニティ自治の現場から
   -寄せられた質問-

1 昭和44年国民生活審議会調査部会コミュニティ問題小委員会の報告「コミュニティ生活の場における人間性の回復」が我が国のコミュニティ政策の原点と言われていますが、その後自治省の指導で全国的に進められたコミュニティ政策は成功したのでしょうか?

 全国的な動向について詳細を知っている訳ではありませんが、「コミュニティ政策」と名の付くものは「無縁社会」の到来によってほぼ完全な失敗に終ったことが明らかになったのではないでしょうか。

(1)失敗の理由は、従来の「農村型伝統的共同体」が崩壊した時、共同体文化は町内会や自治会に受け継がれたと錯覚したことに第1の原因があります。大元の共同体が消えれば、そこから波及した共同体文化もやがて消滅します。町内会や自治会に、共同・共生の機能が受け継がれる筈はないのに、町内会・自治会を強化すれば、共同・共生の機能も復活できると錯覚してコミュニティ創造の政策を立てたのだと思います。

(2)また、創造すべきコミュニティは従来の共同体が有した共生や共同とは全く違うべきものである筈なのに、「新しい共生」の概念を示すことができなかったことも失敗の理由の一つだったと思います。

(3)共同体は産業構造の変化によって消滅しました。農林漁業における共同作業の不可欠性が共同体および共同体文化を支えて来たのですが、第2次第3次産業が日本経済の主力になった時、生活場面における共同は不要になり、共同体組織も共同体文化も消滅したからです。

(4)共同体を支えて来た産業基盤が希薄化した以上、当然、町内会は共同体にはなり得ず、市民も「自己都合」を優先して、共同体の拘束や干渉を拒否したのです。共同体文化の消滅は、ムラ組織やしきたりの束縛から逃れて、「自己都合を優先させ、自由に生きたい」と願った日本人の願望の実現でもあったのです。

(5)共同体から解放された個人は自由人となりました。自由人はどのように暮らす事も自由ですが、共同体崩壊後の新しい地域社会では誰も助けてくれません。それゆえ、地域の共同・共生の機能は自由を得た個人が連帯・協力して新しい仕組みを作らない限り、「人間性の回復」も「人間の暮らしに必要な条件」も生み出せる筈はなかったのです。町内会や自治会は居住地域が共通であれば、そこから連帯や共生が生まれるという仮説の上に強化策が取られて来ました。しかし、新しい自由な日本人にとって、お互いの志も考え方も分らないのに、ただ居住地域が同じであるという理由で仲良く共同・共生の暮らしを築くべきだという考え方はほとんど意味をなさなかったのです。自由人は「志縁」によって繋がるのです。自由人は町内会に「人間性の回復」を求めてもいません。町内会型の発想を強化することでコミュニティを生み出すことはできなかったということです。

2 本市では小学校区範域のコミュニティを組織化し、推進しています。町内会と小学校区コミュニティの関係はどのように整理すればいいでしょうか。

(1)コミュニティ概念は通常、人間の直接的コミュニケーションが可能かどうかで分類されて来ました。社会学的には「第1次生活圏」と「第2次生活圏」のちがいです。しかし、車社会が実現した今では厳密な区別は余り意味をなしません。

(2)混乱の原因はコミュニティ政策の中で広域で解決した方が効率的で適しているものと、従来の町内会のような相対的に狭いface-to-faceの人間関係を保つことのできる範域で取組んだ方がいい問題をごっちゃにして政策化した事にあります。防犯とか防災、環境保全や交通体系などは広域で取組んだ方が効率的で地域格差を生まないで済みます。しかし、高齢者・しょうがい者・買い物難民などの支援や子どもの教育・指導・遊びの支援などは第1次生活圏でなければ、住民はお互いの顔を憶える事すらできないでしょう。祭りや生涯教育・学習のプログラムなどはその中間にあり、中身によって広域がいいものと狭い範域がいいものとに分かれます。

(3)町内会規模に適したプログラムは他地区の住民が関心を持つことはないということです。特定地区に適した活動は、広域コミュニティ住民全体の共感を得ることは難しくなるのです。逆に、広域実施に適した事業は、町内会範囲の住民にとって自分から遠い、関係の薄い他人事の行事になるでしょう。

(4)コミュニティ政策は目的と機能によって、或いは問題別に範囲を限定して「自助」、「共助」、「公助」の区分を明確にして進められるべきだったと思います。

(5)問題は町内会範域か小学校区の範域かではなく、この課題は誰にどの範域で解決を依頼するか、という対策の立て方にすべきだったのだと思います。

3 各地区コミュニティは「協働」と称して市から委託される行政サービス業務のため、過重負担に苦しみ、自治会の区長などと兼務するコミュニティ役員はそのほとんどが悲鳴を上げている状態です。このままでは市が協働、共生、自律の3つの基本理念で進めているコミュニティ政策は破綻することになるのではないでしょうか?

(1)日本の「協働」は、役所の省力化と公務員の削減が目的になっているので、「丸投げ」になるか「責任転嫁」になりがちです。協働はNPOやボランティアが力を付け、彼らの活動に潤沢な資金が提供され、第3者による達成度評価と会計監査が厳重に行われる時にのみ成功します。

(2)協働は本来公私に跨がる分野に最も適しています。「私」の部分は民間がやるのですが、「公」の部分は当然行政が担当します。

(3)コミュニティ政策は住民の福祉の向上という点で私的な領域を多く含んでいますが、安全、防災、環境保全、次世代育成などの面で公的な課題も沢山含んでいます。後者は民間に「全面委託すべき領域の課題」ではありません。

(4)公的な課題まで民間に委託するという点で御市は間違っただけでなく、委託事業のフォローと真の「協働」をしなかった点で2重に間違ったと思います。

(5)行政職員は公的事業のプロです。市民は公的な課題を行政や政治に委託するために税金を払っているという原点を忘れれば「協働」は「丸投げ」となり、本末転倒にならざるを得ないのです。行政が主体的にかかわらないコミュニティ政策は初めから破綻要因を含んでいるのです。「公助」のない協働はあり得ないとお考えください。

4 組織・制度上は「コミュニティ・ワーキング会議」、行政施策上の「コミュニティ基本構想」、「本市における市民参画、協働及びコミュニティ活動に関する条例」が設置されました。各地区には「コミュニティ運営協議会」という組織が作られました。すでに5年が経過していますが、計画や活動の進行管理や検証は行われていません。どこに問題があったのでしょうか?

(1)組織的・制度的には極めて正当な進め方だと思います。恐らく、国が設定したマニュアルがあってそれに則って政策を進めたものと思います。しかし、市民の意見を聞き、市民を主人公にしておく事は、生涯学習の場合も、地方自治の場合も民主主義理念の根幹に関わる重要事項になりました。同時に市民の決めた事は市民自身の責任ですから、「皆さんの意見を聞いてご要望の通りにやりました」という弁明が成り立ち、コミュニテイ政策が失敗に終った場合でも、行政を「免罪」することになった事は明らかです。

(2)事業計画に明確な目標、具体的な達成事項のスケジュール表がない事、公金を投入した委託事業の評価・検証を公的なセクターが責任を持って行っていない事、したがって計画の見直しが後手になる事などは行政が想定した「協働」が機能していないということであり、住民自治の明白な限界です。自助、共助だけで「協働」はできないということです。

(3)プランー実行-評価-修正(plan-do-check-action)はプロの常識です。民間に「丸投げ」したコミュニティ政策にはそれがなかったということです。住民自治を隠れ蓑にして市役所が計画立案の作業と責任を回避し、委託費に使われた公金投資の「費用対効果」の検証を怠ったということです。

5 本地区では住民によるワークショップやアンケート調査の要望をまとめて「計画」が作成されています。抽象的・理想的・情緒的な活動目標が多く、時間とエネルギーを投入して見直すだけの価値があるのだろうかと疑問に思います。

見直しの必要は間違いなくあります。但し、以下の諸点にご留意下さい。

(1)住民自治は住民意向と等値されて来ました。そして間接民主主義原理の下では、住民意向は代表者や立候補者の意向と等値されざるをえません。アンケート調査で出た要望が活動案にならざるを得ないのはそのためです。100人の素人が集まって意見を出しても一人の優れた専門家の診断や処方が優れている場合は多いのです。第1次の計画はプロが作るべきだったのです。プロの作成した計画を学習し、検討し、修正し、検証する過程を住民にお願いするべきだったのです。

(2)ご指摘の通り、計画案は漠然としていて抽象的です。いろいろな解釈が可能であり、具体的に掲げられた理想を実現するために何をいつまでにどんな方法で取組むのかが明確でないのです。だから検証のしようもないのです。

(3)見直し作業の行程を医療に例えれば次のようになります。検証(診断)→計画案の修正(処方)→実行(治療)→第2次検証(経過後の再診断)。
御市のコミュニティ政策の住民委託には手抜きがあり、無理があったのです。検証する場合も、第1次検証は本来プロか外部第3者の診断に任せ、その結果を公開して住民に第2次検証、第2次評価をお願いし、次の事業課題を抽出するべきです。「何をすべきだったのか」が分かれば誰にでも検証はできます。それが明確でないから実行も、スクラップアンドビルドもできなかったのだと思います。

(4)検証の外部委託には予算措置は不可欠です。第1次検証は概略でいいのです。その結果を住民に公開すれば沢山の意見が出て来ます。第1次検証作業に時間をかける必要はありません。計画書で住民の意向が分りさえすれば、プロが話を聞けば立ち所に評価のポイントが分かる事です。第2次検証には基本的に茶菓子代以外の予算はいりません。公開して住民に説明して行けば意見は出ます。ただし、診断したプロに説明業務を依頼する場合は予算が必要です。

6 本市では、「まちづくり計画は、地域の課題を『自分たちで行うもの』、『行政で行うもの』、『協働で行うもの』にわけ、その解決に向けた役割分担を明確化し、地域づくりの方向性を示すために「コミュニティ基本構想・基本計画」を定めています。ところがわが地区の計画には、役割分担の記載がありません。見直しを行う場合には、本来の趣旨に沿って実施すべきと思いますがいかがでしょうか?

御市の基本構想は全く正しい発想です。しかし、事実上実行されなかったというところに最大の問題があります。

(1)既存のコミュニティ政策には、「自分たちで行うもの」、「行政で行うもの」、「協働で行うもの」の役割分担の記載が抜け落ちているので混乱が生じ、役員に過剰な負担がかかっているのです。

(2)御地区の計画に上記の区分の記載がないのは計画策定に関わった前任者の重大なミスであり、御地区を担当した行政職員の重大なミスです。

(3)3つの分業区分はコミュニティ自治を目指す政策にとって最も重要な思想です。

139号お知らせ
1 第111回生涯教育フォーラムin福岡

日程:7月16日(土)15:00-17:00
場所:福岡県立社会教育総合センター(福岡県糟屋郡篠栗町金出、-092-947-3511)

*事例発表: 「福岡テンジン大学」の企画、実践、波及効果、 岩永真一(いわながしんいち) 、(福岡テンジン大学学長、NPO法人グリーンバード福岡チーム 事務局長)
*論文発表: 「無縁社会」から「志縁社会」へ―日本におけるコミュニティ政策の停滞と「志縁グループ」育成の不可欠性 三浦清一郎(月刊生涯学習通信「風の便り」発行・編集長)

(*フォーラム終了後に第30回記念大会反省・懇親会を行いますのでお時間の許す方はふるってご参加下さい。)

2 長崎移動フォーラムが実現します

 長崎県の社会教育主事OBを中心とした関係者が生涯教育の活動団体「草社の会」を結成しました。近県の有志で応援しようということで移動フォーラムを企画いたしました。会場は長崎市を一望する山の上の「稲佐山観光ホテル」です。日本三大夜景に数えられる1000万ドルの眺望だそうですからご期待下さい。秋の予定を調整して皆様お誘い合わせの上ぜひご参加下さい。

*日程: 10月29日(土)の午後-夜とだけ決まっております。翌日は希望者を長崎探訪にご案内いただけるそうです。
*会場: 稲佐山観光ホテル(長崎市)
プログラム:「草社の会」と相談しながら企画が進行中ですのでお楽しみに!

3 生涯教育移動フォーラムin廿日市

 前回もご案内いたしましたが12月は広島移動フォーラムです。忘年会シーズンですので前もって日程を調整の上ふるってご参加下さい。6月の山口移動フォーラムには広島から4人の方がご参加いだだきました。次は山口からも行きます!と約束が飛び交っておりました。再度日程をお知らせし、現在検討中ですが大凡のプログラムの予告をしておきます。
日時:平成23年12月10日・13:00-11日・12:00(土-日)
会場:(発表・協議:広島県廿日市市大野図書館、交流会:大野町4区集会所) 
主要プログラム:
1 パネルディスカッション-子どもの学校外活動の意義・方法・視点 
2 紙芝居/茶会                 
3 三つの課題のワークショップ:「育たない―繋がらない-続かない」から「育てる-繋げる-続け通す」へ
4 交流会
5 インタビュー・アンケート「一人前になれない現代っ子」
6 講演:現代の欠損体験

4 第112回生涯教育フォーラムin飯塚
第112回は会場の都合で日程と場所だけを決めました。詳しい時間帯と内容は追ってお知らせ申し上げます。

日程:8月27日(土)時間未定
場所:福岡県飯塚市穂波公民館(福岡県飯塚市秋松408-0948-24-7458)

健康寿命の尽きる時

 少し前になりますが、医療現場に詳しい友人で読者のお一人がリハビリ病院に知人を見舞った訪問記を寄せて下さいました。「健康寿命が尽きる時」を予言したレポートですので、下敷きにさせて頂いて2020年の「高齢者爆発」を予想してみました。2020年は昭和20年生まれ(1945年生)が75歳になる年です。
 筆者はこれを「社会的津波」と呼んできました。なぜなら、団塊の世代の健康寿命(男性約72歳、女性約76歳)が尽きて、医療費、介護費とも若い世代の負担が一挙に増大し始める時だからです。

1 安楽の「慣性」-「惰性」の自然発生

 友人を再び見舞いました。あれほど家に帰りたがって、しかも、子どもに歓迎されないから家に帰れないと涙ながらに訴えた友人は、ようやく病院内の杖歩行ができるようになったと大喜びでした。これでとりあえず院内は自由にあちこちいけるので電話のある場所も分かったし・・・と。
 お正月はどうしましたか?家に帰ってもすぐに戻らんといけんから帰らなかった、ここもええよっ、皆親切だしぬくいし、食事の心配も気兼ねもないから、風呂では指の先まで洗ってくれるし・・・。おやおや彼女も段々この安楽の世界に慣れてきたなと感じました。丁度話の途中に看護師さんが来て、○○様お熱を測りましょうと会話が中断しました。その後も○○様、敷布を整えましょう等々ホテル以上に補助職員が出入りして至れり尽くせりです。これではここが天国と思い直すのも当然かもしれません。人間の習性、安きに流れるの典型を見た感じでした。リハビリ病院ですら当に「廃用症候群」製造所と化しているのです。やがて来る期限切れの予告で退院を余儀なくされた場合、自立能力と自律心が無くなって一番困るのは彼女の筈ではないでしょうか。
 初めてお見舞いをした時、歩けるのに、どうして入院させるの?・・・一日も早く帰って家の前の広場で自分ひとりで歩く練習がしたい!と涙ながらに話した彼女は何処へ行ったのでしょうか?『ここはええよう、みんな親切で、ようしてくれる、こんなにいいところは無い』。これから先自分の体が思うように動かず、自由にならない辛さが待っているのは明らかだと思うのですが、至れり尽くせりの世話をしてくれる束の間の病院天国に友人は酔いしれていました。
 もう彼女は自立できないだろうと思うと、お見舞いの帰りは、気が重く、足も重くなりました。「支える世代」と「支えられる世代」の双方にとって一番いい方法は何なのでしょう。
 自立能力を奪いかねない現代の『互助制度』の矛盾を感じながら自分の方が打ちのめされてトボトボと帰宅しました。彼女が重症の『廃用症候群』にならないうちに退院できることを願っていますが、友人はすでに気持ちに戦う姿勢を失っているのです。
 自宅に帰ることを若い世代から歓迎されない友人の例のような療養状況を「社会的入院」と呼びます。何処の医療機関もが抱えている問題なのです。自立能力と自律心を失った患者を家族が完全に見放した時には、患者の引き取り手は無くなり、病院にとってもそれこそ大変なのです。それでも本人には年金が入っているので、それを看護部病棟で管理して毎月の雑費や一部負担金をだす例もあるそうです。遠くに住む子供たちが年金まで取り上げないのがせめてもの救いですが、入院または入所している方が死亡した場合、問題は更に悲惨さを増します。子供または血縁の方に不幸を知らせると残ったお金で全て処理をしてください。身の回りのものは捨ててください、それで結構ですと・・返事が来たりします。一度も見舞いに来ない場合もあるそうですから、今の老人病院は本当に「姥捨て山」になったのです。第一次病院で救急、応急処置をして「回復の見込みなし」、「社会復帰は無理」と判断されたら次に救うべき患者のためにすぐにベットを空けなければならないので、当該患者は転院させ、二次病院で2~3ヶ月の療養期限まで入院し、その後は介護保険に切り替わり、高齢者の場合は老健施設へ送られます。そこも駄目になったら特別養護老人ホームへと段々社会から遠い場所に移動し、最後の土壇場で再び老人病院へ移されて、「千の風」になるのです。この間に子どもを始め、どれだけの家族と接触ができるかによってその人の運命は変わってくるのです。
 このように身動きが取れなくなる前に高齢者といえども自立していかなければならないのですが、至れり尽くせりの病院天国では自立は難しいでしょうね。

2 人間存在の不思議-心身の耐性の形成メカニズム

 上記のレポートはお便りを下さった方がご自身の未来を遠望し、筆者の未来も予見し、2020年の高齢者爆発の行方も予告しているのです。衰える高齢者の医療費や介護費を担うのは,現行システムでは若い世代になりますが,2020年、戦後生まれの人々の健康寿命が尽き始める頃に日本の財政は破綻するでしょう。
 現代の養生の核心は「安楽」ではなく、頭も使い、気も使い、身体も使い続けるために、読み、書き、体操、ボランティアを己に課し続けるべきなのだと改めて納得せざるを得ませんでした。少なくともリハビリ病院は現代の生涯健康教育・トレーニングセンターの機能を付加すべきだと思いました。

 安楽な暮らしに一度慣れたらそこから出られなくなります。体力だけでなく、気力や精神の働きが安楽に慣れて堕落し、「負荷」をかけることが辛くなってしまうからです。
 精神にも「慣性」があるのです。仕事や子育てで働いていた時は、日々「頭を使い」、「身体を使い。「気を使って」心身の機能はフル回転でした。定年後或いは子育て完了後はこの「回転」の度合いが著しく落ちたり、時には止まったりするのです。病気や怪我をして安静の生活が続くと心身の機能の回天は完全に停止します。
 筆者の私生活でも、怠け心に任せて長い休憩の後は寝転んだソファーから立ち上がることも机に向う事も億劫になります。差し入れのどら焼きを頬ばって、テレビの映画などに耽溺して、ごろごろと楽をして暮らせば、読む事も、書く事も億劫になります。恐らくそうした暮らしが続けば、「億劫」どころか、読み書きの能力そのものが失われるでしょう。
 高齢者が「勤勉」と「自身のトレーニング」を忘れれば、「慣性の法則」が働き、心身の回転力が落ち、活動の「弾み」がなくなるからです。
 一度止まった自動車が動き出す為には「ローギア」で発進しなければならないように、「慣性の法則」は精神にも働くのでしょう。
 「継続」・「勤勉」・「摂生」・「養生」などが大事なのは、一度ついた「弾み」を維持して、精神の慣性を失ったり,落したりしないためです。高齢者のために書いた我が元気の処方は「読み、書き、体操、ボランティア」です。
 日本の高齢者の多くが福祉にはびこる「安楽余生」論に毒されて老後の処方を誤っています。
 考えてみて下さい。結核の予防には人工的に培養した結核菌を注射するのです。それがBCGです。BCG(結核菌)を注入すれば、本能的に命を防衛しようとする人体に「抗原抗体反応」(侵入する細菌との戦い)が起こるように促し、人体の免疫耐性を高めるのです。要するに人体の防衛機能が働くよう意図的に「負荷」をかけているのです。
 老衰予防の原理も同じです。衰えが始まった高齢者にも適度の「負荷」を与えることは心身の元気(機能の維持)に欠かすことはできないのです。時に,病原菌が健康な人間を作るのです。子育て論の格言に「辛さに耐えて丈夫に育てよ」というのがあります。「辛さ」は心身ともに人間の強度を増すことができ、「安楽」は人間を惰弱に導くのです。人間はつくづく不思議な生き物です。

§MESSAGE TO AND FROM§

 「恐るべき君等の乳房夏来る」(西東三鬼)
 夏が来ました。皆様のお便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。

長崎県長崎市 武次 寛 様

 森本代表から「草社の会」の移動フォーラムの企画案をお聞きしております。何なりとお申し付け下さい。全面的に協力申し上げます。いよいよ皆様の活動ステージが出来上がりつつあることを何よりも喜んでおります。ご健闘を祈ります。

東京都八王子市 瀬沼克彰 様

自治のジレンマ

 貴重なご示唆をいただきありがとうございました。偶然のタイミングなのですが、ある自治体のコミュニティ政策の評価についての質問が来ました。状況をお聞きすると市民にあらゆる選択権を移譲した「生涯学習」概念と同じジレンマが「コミュニティ自治」のまちづくり政策でも起こっていることが分かりました。巻頭に拙文を掲載しました。
 崩壊に瀕していのは「コミュニティ・センター」という拠点施設を各地区に建設し、「協働」の名目で「住み良い地域づくり」の課題を「まちづくり協議会」に委託するといういわゆる「コミセン方式」です。コミュニティ政策を住民自治で遂行しようとする時、行政は公的な課題の遂行責任を地域に負わせることになります。

名ばかりの「協働」

 「協働」に行政が協力しなければ、地域への完全委託や丸投げになり、「協働」は名ばかりの「協働」になります。地区住民は選択権のみを渡されて、行政や専門家からのガイダンスがなくなります。素人集団が実施するプログラムにPlan-Do-Check-Actionのマネジメントサイクルはまず機能しません。住民の本業は行政の下受けではないからです。委託金の名目で費消される税金はコミュニテイの形成に効果的に資することはなく、一部の役員だけが過剰な負担に呻きながら、前年踏襲の行事を繰り返して消化するだけで、新しいコミュニティどころか無縁社会は無縁社会のままに留まります。NPOもボランティアも十分に育っていない日本の風土で従来の町内会や自治会発想で「まちづくり協議会」を組織化しても、1年交替で渋々出て来る受動的な役員に主体的で公共の福祉に繋がる診断-処方-取り組みを期待するのは、自由で気ままな生涯学習者に「現代的課題」の学習を期待するのと同じ過ちを犯していると考えざるを得ないのです。

山口県長門市 藤田千勢 様

集中と選択-そのための思い切った「断・捨・離」

 お便りを頂きながら返事がひと月おくれになりました。老いの身の「断・捨・離」を実践しておりますのでご容赦下さい。一人暮らしのあり方に様々なご助言や激励、お見舞いやご心配を頂きますが、すでに若い時のようにご返事を差し上げる心的エネルギーが衰退しております。時間とエネルギー;何よりも集中力が欠けて来ているのです。朝起きて計画した事が一日の終わりに実行できていない辛さを味わい始めています。
 この「風の便り」やフォーラムの論文のように、「為すべき事」を決めて実行するためには、若い時のやり方をすべて「断・捨・離」しなければなりません。ご無礼を承知で、自分に限界を課す事を実行し始めたつもりです。それでもまだ机に向い、原稿に集中する時間とエネルギーを十分に確保することができていません。庭仕事や家事も徐々にアウトソーシングしています。物理的には楽になる筈ですが、気力が追いついて行きません。次の本の原稿もすでに完成予定が1か月も遅れております。これが「老い」ですね。いずれ「老い」の教科書を書きたいと願っておりますが、健康も、活動も、仕事も、夫婦間の事も、子ども達との関係も、友人知人との交流も、もちろんご近所やコミュニティの交際も、恐らく主題は「集中と選択」:いかに人間関係と生活環境の「断・捨・離」を実行して「体力」と「気力」を自らが設定した生き方に集中するか、ということになると予想しております。

大分県日田市 小野忠士 様

「小見出し」-「短文型」の文体

 138号の文体についてのご提案ありがたく拝読いたしました。似たような感想を福岡の友人からも頂き、すこしずつ文体の改造を試してみようと思います。139号でもご示唆いただいた「小見出し」-「短文型」を多用した書き方にして見ました。また現在執筆中の次の著作に付いても筆者がシンポジュームの司会等で使っているインタビュー・ダイアローグ(小さな質問を多用した対話形式)の方法を文章に応用してみました。成功したか、否かは読者の判断を待たねばなりませんが、ご批判を頂ければ幸いです。

編集後記 何かいけないことを言ったろうか!

 久々に若い母親で満杯の育児講演会に招かれました。いつものように「負荷の教育論」を論じ、子宝の風土の過保護の風土病を論じ、「『君は君のままでいい」筈はないではないか」と論じ、教育方針を決めて、子どもの目指すべきことを高く掲げて教えれば、教育の風が吹く、それが家風であり校風であり時には社風ですらあり得るのだと説きました。
 その時、幼い子が親に憧れるようなら教育もしつけも心配ない、父のようになれ、母のようになれと教えよと説きました。
 講演会にはいつも関係の著書を持参するのですが、その日は子育て関係に加えて「変わってしまった女と変わりたくない男」を1冊だけ持参しました。それを買い求めた若い母親が「お話よく分かりました。離婚の決心がつきました。ありがとうございました。」と言って深々と頭を下げ、あっけにとられている筆者に背を向けて歩き去りました。
 帰宅してDan BerggrenのMountain AirのCDを聴いていたら、「昨日までの人生にドアを閉めて、誰かに属して生きるのではなく、生まれて初めて自分の人生を生きる、もうここへは戻らない」、というMis’ Coleという「家を捨てた妻の歌」がありました。
 若い母も昨日までの人生にドアを閉めたのでしょうか。私は何かいけないことを言ったのでしょうか!?

あなたに見せたい風景がある4

三つ指カイザー

わが家は3びき暮らしです
カイザーとレックスはお見送り
玄関に三つ指で控えます
行って来るぞ
今夜は少し遅くなるぞ。
カイザー、あとは頼んだぞ
レックス、父さんのいうことをよく聞きな
家のなかでしーしーするんじゃないぞ
灯りは中と外と一つずつ点けておくよ
カイザーはへの字
横一文字に口を結び
沈黙と貫禄が支配する
心細いレックスは一歩前
じゃあな
ウーウークー
頼んだぞ
ウーウークー
一歩表に出れば
轟々たる台風の外風
積乱雲に月が映えて
純白の一人きり
今夜の留守番はさびしかろう
わが家は3びき暮らしです