「風の便り 」(第137号)

中国・四国・九州地区
生涯学習実践研究交流会30周年記念特別号

発行日:平成23年5月
発行者 三浦清一郎

中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会30周年記念出版執筆者座談会

生涯教育立国の条件

(本稿は記念出版「未来の必要-生涯教育立国の条件」の執筆者を中心に行った座談会の記録です。ボリュームの関係で書籍本体から省略せざるを得ませんでしたので生涯学習通信「風の便り」誌上を借りてここに公開するものです。)

座談会開催当時の参加者の所属、職名は以下の通りです。

執筆者・座談会参加者一覧

赤田 博夫(山口市立鋳銭司小学校 校長)
大島 まな(九州女子短期大学 準教授)
黒田修三(福岡県立社会教育総合センター 副所長)
鴻上哲也(伊万里市立立花小学校 教頭)
関 弘紹(佐賀県教育委員会 主幹)
永渕美法(九州共立大学 准教授)
古市勝也(九州共立大学 教授)
正平辰男(純真女子短期大学 特任教授)
益田 茂(福岡県立社会教育総合センター 主任社会教育主事)
三浦清一郎(生涯学習通信「風の便り」編集長、社会教育・社会システム研究者)
森本精造(NPO法人幼老共生まちづくり支援協会 理事長)
弓削暢彦(福岡県立社会教育総合センター 社会教育主事)

何が、なぜ問題だったのかー「未来の必要」は何か

司会(古市):
座談会の目的は、過去の社会教育実践を分析して、日本社会の「未来の必要」を導き出そうということです。討議の視点は二つあります。第1は、三浦編集代表が提起した「生涯学習」概念を巡る問題、第2は、われわれの大会が過去30年にわたって蓄積してきた「生涯教育-生涯学習実践研究」が示唆しているものは何かです。討議を始めるにあたって、三浦さんから改めて問題提起をお願いします。

三浦:記念出版の序文と第1章に整理しましたので説明を省いて、問題点だけを箇条書きで整理します。第1は、社会教育の衰退は「生涯学習概念」の登場によって、「教育」発想が「学習」発想に置き換えられたことが原因だということです。自分自身もつい5年前まで「生涯学習概念」を信奉していたので恥じ入るばかりですが、生涯学習が言われ始めて以来、社会教育(生涯教育)施策は社会の「必要課題」を放置する結果を招いたということです。
第2に政策上の失策だと判断した事柄を順不同に列挙すると次のようになります。
* 社会教育を生涯学習と等値した結果、公的な社会教育の大部分が個人の趣味・お稽古事・実益追求活動の支援に終始しました。そのような現象が明らかになった後も、教育行政は「生涯学習概念」そのものを修正することなく、「現代的課題」などを追加することでお茶を濁してきました。
* 義務教育学校は生涯学習概念の導入以来、生涯教育体系の外に置かれることになり、社会教育との連携も地域との連携もほとんど全くできませんでした。「学習」を基軸とした概念が支配的になって、教育行政は学社連携を前提とした社会教育の条件整備も、方針提示も皆無に近かったと思います。
* 地域の生活課題が複合化しているのに、行政のタテ割りは一向に改善されず、子どもの保育と教育は分裂し、高齢者の生涯学習活動と健康維持活動はほとんど連動していません。
* 地域の共同体が崩壊し、少子・高齢社会が到来したにもかかわらず、ボランティア=奉仕=「ただ」論に固執し、高齢者の活躍の舞台づくりも、幅広いボランティアの養成にも失敗しています。
* 全国にも、われわれの大会の歴史の中にも、優れた実践モデルは多々あったにもかかわらず、広がらず、普及しませんでした。なぜでしょうか?

I 教育行政発想を「学習」から「教育」へ

古市:確かに「生涯学習」の概念は、国民が学習行動の結果成熟していくということを前提にしてきました。私も生涯学習の結果、レベルの高い国民が育って行くはずだと大まかにとらえていました。
教育行政も確かに、社会教育の観点から「必要課題」、「現代的課題」、「地域課題」、「生活課題」というような社会的な課題解決施策の取り組みをするのだと言ってはきました。しかし現状は、果たして「社会的課題」への取り組みは充分だったでしょうか。三浦提案は教育診断も教育処方の提示も極めて貧しかったという指摘です。

永渕:ある本で読んだのですが、人の死に関して、たとえば運動不足や喫煙の習慣が原因であると分かっていたとしても、原因と結果の間に長い時間経過がある場合は、犯罪にはなりません。逆に、原因の結果への影響が短時間の時は、死亡原因の責任が問われるのです。
三浦提案の通り、教育処方を守らない高齢者は老衰が速く進み、うつ病になるかもしれませんが、原因から結果が出るまでの時間的経過が長いために「原因責任」を問われてこなかったのだと思います。「生涯学習概念」の下では社会的必要に関する教育処方は出せなかったのですが、「原因」が「結果」に至るまでの時間の関係性によって「学習」概念の「是非」についての評価も責任も問うことはなかったということだと思うのです。
それゆえ、教育処方と医療処方の最大の違いは、「患者または患者相当者」の命に影響が出る時間が長いか、短いかの違いだと思います。教育処方は通常長期戦ですが、医療処方は相対的に短期戦です。三浦提案はもっともだと思うのですが、世間に聞き入れられない最大の理由は、原因が結果に至るまでの「時間的長さ」であると思います。医療の処方のように、それを守らなければ患者の病気は重くなり、やがて死ぬだろうという切迫性に欠けているのだと思います。
健康処方でも、教育処方でも、処方を守らなかった一定量の人たちの犠牲が出るというクリティカル・ポイント(臨界点)を越えない限り受け入れられないと思います。

三浦:個人が提示された教育処方を採用するか否かについては、まさしくご指摘の通りだと思います。しかし、私が論じているのは、個人の選択行為ではなく、公金を使って教育行政が行なう社会教育施策の決定のことです。社会教育行政は税金によって給料をもらっている「専門領域」の公務員がやっていることです。彼らのサービス対象は「個人の要求」ではなくて、「社会の必要」であるべきだということが指摘の基本的趣旨です。しかし、実際には、生涯学習推進の看板の下に行なわれた社会教育は、個人の要望に応えることに終始し、社会の必要に応えることにはなっていないと言っているのです。そのような結果をもたらした最大の原因が、「市民が好きなことを好きなようにやればいい」という「生涯学習概念」であったと言っているのです。「生涯学習概念」は政治や行政の「不作為」を論理的に承認する結果をもたらしたのではないでしょうか。

大島:三浦提案の再確認ですけど、社会教育行政は個人が選択する学習を推進することより、社会的必要課題に対応する教育プログラムに公的資金を投入せよということですか?

三浦:個人の必要と社会の必要を厳密に線引きできないということはあるでしょうが、大まかにはご指摘の通りです。財政難の現在では公金支出の社会的意義と公金投資の「費用対効果」を一層厳密に問うべきだということです。

大島:くどいようですが、個人が選択するものでも、それが社会的課題に結びついていれば公金投入の意味があるということですね。

三浦:もちろんです。そもそも社会教育が成人学習者の選択に干渉することは間違いです。しかし、公的社会教育が提供する選択肢は社会的課題を重視すべきだと言っているのです。ボランティア指導者の養成事業などはあなたのご指摘に当てはまるものでしょう。

永渕:もう一つ確認させてもらうなら、最初、生涯学習の考え方を普及させるにあたって、出だしとしては間違っていなかったかもしれない。趣味・お稽古事といったところから生涯学習を動機付け、水路付けしたことは間違っていなかったかもしれないけれど、それが強くなりすぎたが故に、社会的課題が放置されざるを得なかったという理解でいいのでしょうか。

三浦:自分も間違ったので、「後悔先に立たず」ですが、私はその出発点こそ間違っていたのではないかと考えるようになりました。最大の理由は社会教育行政の「不作為」を承認する結果になったからです。
当時から「3割社会教育」と陰口を叩かれていた社会教育行政が、なぜ個人の「パンとサーカス」の「楽しみ事」に公的な支援をしなくてはならなかったのか。学習の主体は国民だという「民主主義」の発想と、社会教育行政が果たすべき役割は別ものであったという自覚に欠けていたと反省しています。「国民主権」は民主主義の政治原理ですが、その政治原理を教育原理と等値して、しかも、行政主導型の日本の社会教育施策に取り入れたことこそ間違いの始まりだったと思います。松下圭一氏の「社会教育の終焉」は社会教育行政不要論を説きましたが、結果的に、「生涯学習概念」はその後押しをしたのです。その後の生涯学習推進行政は一部リピーター学習者の行政依存を生み、生涯教育の視点に立った教育処方はほとんど全く提示できなくなったのです。司会者が指摘したように現代社会のあるべき課題は遅ればせながら提起されましたが、「学習は皆さんの選択です」という前提の下で「現代的課題を宿題としてやっておいた方がいいですよ」といったところで誰がやりますか?生涯学習は「快楽原則」に流されてみんな自分の思いのままに「好きで」「楽なこと」だけをやったのです。

古市:「ある程度効果」という問題もあるのではないでしょうか?たとえば個人の趣味・お稽古事の類いの学習活動でもやらないよりはやった方が、個人の元気にも、医療費の削減にも「ある程度」は効果を得た部分もあるわけで、全部否定することは難しいのではないでしょうか。ようやく最近、個人の学習成果の活用や「新しい公共」への貢献ということが盛んに言われるようになりました。とりあえず生涯学習で育った学習者が次なるステップで、社会に向けて、公的な課題に向けて活動を展開するように持っていくことが求められているのではないでしょうか。学習者の拡大と平行して、学習成果の検証や方向付けをしていくことが大事な時代になったということではないでしょうか。

三浦:私が一番心配しているのは、そういうことを言いながらすでに20年以上もの歳月がむだに費やされたということです。現に、社会教育は、人員も施設も予算も、すべて削減されてきています。それは、高度な政治判断です。財政難・不景気のせいばかりではありません。社会教育は世の中の必要なことをやれていないからだと思います。近年「知の循環型社会」というようなことが言われ始めましたが、学習成果をどのように「循環」させるかの方策と予算を提示しない限り空論に終ることになるでしょう。

鴻上:三浦提案のいう「患者相当者」というところに注目したのですが、「患者相当者」に対して必要な手立てや必要な支援を社会教育が行うことができれば、間違いなく社会教育の評価につながってきただろうと思います。私も、「患者相当者」が社会にたくさんいると思っています。しかし、患者相当者は自身に自覚がないため、その存在は潜在化していてなかなか見えない。あるいは見えたとしても、その人に社会教育を受けさせるということが困難であるということがあります。
具体的に言いますと、今、私は学校に身を置いていますが、学校の中に特別支援教育というのがあります。最近は、特別支援学級に在籍していなくても、普通学級で学習をすることが事実上困難な子どもがたくさんいます。しかし、本人にもその家族にも問題の自覚はありません。それゆえ、潜在化しています。事実は「患者相当」の広範性発達障害やADHDという、専門的な教育が必要な子であるということがようやく分かってきて、学校でもその手立てが取られるようになりつつあります。社会教育においても、三浦提案の「患者相当者」は潜在化して相当数存在すると思います。彼らに教育の必要性を自覚してもらって、必要なプログラムに参加していただくようなシステムが社会教育に一番求められているのではないかと思います。

三浦:その通りだと思います。私は、現代日本社会の子どもの多くが「患者相当者」だと思っています。高齢者も同じです。以前、公明党の提案で「地域振興券」という事実上の「買い物券」が配られたことがありましたが、あれと同じ発想で、「患者相当者」に対する「生涯教育・健康教育・地域活動・生涯スポーツ」の振興券というようなものを配ることができるシステムを作ってはどうかと考えています。もちろん、この場合は、好きな「学習」ではなく、必要な「教育」を受けていただくことになります。たとえば70歳を過ぎて、身体活動のプログラムへの参加を促す健康教育・地域活動振興券みたいなものが配られるというところまで最終的には行くと、私は思っています。
なぜ社会教育が評価を受けないのかというと、それは社会に対する貢献度が絶対的に低いからだと思わざるを得ないのです。

古市:なるほど分かりました。そうなると、小学生にとって6-7泊ぐらいの合宿なら教育効果があると分かっているわけですから、1学年に1回は全員に青年の家のような施設の宿泊研修を利用させるというような方法も可能になりますね。これまでの青年の家や少年自然の家は選択権を利用者任せにしたということで「生涯学習格差」が発生したという現状分析もできます。全員が平等に体験できるように教育の一環として義務化していくことも大事でかつ可能であるということですね。

大島:患者相当者の診断基準をどう考えたらいいでしょうか?医学だったらいろんな基準があるし診断の方法もありますが、社会教育においては誰が「患者相当者」なのかを判断することがとても難しいと思います。鴻上さんのご指摘の通り、特殊学級の子は一定の診断基準で判定されていますが、普通学級の子で、事実上「患者相当者」をどのように判断するのでしょうか?
また、実は、日本の子どもはほとんど、ある意味で患者相当者ではないかと思うわけです。だから、最初に現状診断する時にどういう視点を持って診断するか、近年の社会教育には診断基準や物差しが存在しなかったということでしょうか。

三浦:ご指摘の通りです。厳密な判断基準を提示することは難しいと思います。しかし、私の関心は、「診断の科学性」を問う以上に、教育処方に基づいたプログラムを提供する方にあります。受講するか否かは「振興券」のような誘導策でお誘いするしか方法はないと考えています。しかし、「生涯学習概念」では、「患者相当者」の主体性にまかせて放置するわけですから、教育診断と処方に基づいてきちんとトレーニングを受けるという考え方も仕組みもそもそも原理的に可能ではないのです。

大島:現在、多くの人々が子どもの状況を嘆いています。しかし、生涯学習の原則に立つ限り、社会も家庭も問題に対処する効果的なプログラムは実行し得なかったですね。

森本:振り返ってみて思うのですが、今までたくさんの事業をやってきました。その事業もその時には「社会の必要」をテーマに掲げ、プログラムを組み、参加を募り、学習者はそれぞれの立場で選択して参加してもらったと思っています。
しかし評価は、参加者数評価の域を出ず、その人たちが研修から戻ってどうしたかという、事業の「費用対効果」的な評価をやっていなかったというのが現実ではなかったでしょうか。

大島:現状診断があってプログラム化したわけですから、その最初の診断がいかに改善されて、「患者相当者」が「健康体」に戻ったかということを検証していく視点を社会教育が持っていなかったということだろうと思います。三浦提案を受けて実施した山口や北九州でのまちづくり研修は、診断も処方も「社会的必要」を評価基準としていたので参加者に課題を課したということだと思い当たります。

森本:私たちがやってきた社会教育行政の事業もその時々の国民的課題をテーマにしてきましたが、結果として課題の分析が不十分で、「患者相当者」的な人を集めてやったとしても、それをどう評価し検証していくのかという、一連の教育実践の「診断」と「処方」が明確ではなく、やはり生涯学習は自由でいいんだという考え方に引きずられてきていました。「教育」としての評価がなかったということです。
第31回目の大会から会の名称を「生涯学習」から「生涯教育」に、また福岡で続けてきた「生涯学習フォーラム」を「生涯教育まちづくりフォーラム」に変えていきたいと考えたのはそのためです。社会教育に専門的に関わってきた経験から、やはり気ままな学習よりは問題解決型の教育の方が大事だと思わざるを得ません。しかし、そのことを地域の人や患者相当者たちにどう伝えて行けばいいのかは課題です。
「生涯学習」ではうまくいかなくて、やはり「生涯教育」ですよということは、よほど噛み砕いて上手に説明しないと理解してもらえないのではないかと感じています。

三浦:論理的に区別していただきたいのですが、私は「生涯学習概念」の全部をダメだと言っているのではないのです。社会教育行政は社会的必要に応えることを最優先して「生涯教育」を選択すべきであると言っているのです。
個人がそれぞれご自分で選択してやる学習活動を生涯学習と呼ぶことは一向に構わないし、医療との比較でいえば、健康な人が自分の健康管理を自由に企画しておやりになることと同じです。医療機関が健康人に干渉しないように、社会教育行政も一般人の学習に干渉する理由はないのです。しかし、近未来の日本社会に重大な影響をもたらすことが分かっている「へなへなの子ども」や「急激に老衰する退職者」や「社会的な不適応に陥った人々」に対して、「皆さんのお考えで自由に進めて下さい」という生涯学習の原理を適用して放置することはできないと言っているのです。

森本:今度、NPOを立ち上げましたが、その看板を「生涯学習」から「生涯教育」に切り替えるにあたっては、「学習」から「教育」への転換の意味をはっきりさせて伝えていかなければならないと責任を感じています。昭和46年、日本に生涯教育の概念が入ってきて、それが昭和60年前後、今度は生涯学習に切り替わっていきます。その時社会教育関係者は諸手をあげて喜びました。すぐに、社会教育を生涯学習に置き換えた経緯があります。今、公民館等の社会教育施設はほとんど満杯です。しかしその利用実態を調べてみれば一握りのリピーターが満杯にしているのです。満杯になっているものだから関係職員は安心しているのです。生涯学習という概念で社会教育を置き換えた時、学習者は確かに増えました。公民館はフル稼働しています。何となく社会教育関係者は、よくやっている、いいじゃないかと思ってしまったのだと思います。しかし、実態はまちづくりにも、その他の社会的課題の解決にも役立っていないのです。その辺りをもう少し丁寧に伝えないといけないと思っています。今回私たちが提起しようとしている「未来への必要」では、そのことが非常に重要な意味合いを持つと感じています。

関 :生涯学習が住民・学習者を主役にしたことで「学習」が盛んになったことは確かだと思います。だから社会教育行政の関係者は、「学習」の中身を吟味せずに学習者自身が主役になるのだと勘違いしたのだと思います。私もその一人でした。公民館や社会教育プログラムの参加者が増えて、やっぱり生涯学習の時代がきたのだと思いました。「生涯学習概念」は諸刃の剣です。今になって担当の私が言われていることは、県民や市民が主体的に学習しているのにどうして行政が余計なことをする必要があるのだ、ということです。
すでに社会教育がやろうとする教育処方まで否定されるようになったのです。行政の上層部は、なぜ県民の方々の学習権に行政が介入するのだ、公金投入の必要もないし、社会教育の職員もいらないではないか、市民の自由にしていただいていいではないかと言われます。

黒田:最近、市町村などの現場で社会教育行政がどのような方針や計画で進められているのか見えづらくなったという気がします。原因は二つあると思います。第1は、従来の補助金行政が消滅して社会教育のソフト事業のモデルが提示されなくなり、市町村では施策や事業の基軸をどこに置くのか、なかなか見出せなくなってきたのではと考えています。第2は、私も含めて生涯学習の登場により社会教育が主たる対象とした団体や集団の育成という組織的な学習が、ほぼ完全に個人が選択する学習支援に切り替えられた時、「個人学習支援に終始する社会教育」で社会教育行政は本来の任務を果たすことをできるか否かを十分に咀嚼できなかったということです。

三浦:客観的にはその通りだと思いますが、「生涯学習概念」に振り回されたのは個々の社会教育職員の責任ではないですよ。十分な吟味をしなかったのは、生涯学習を推進した国の教育行政や私を含めた専門研究者の責任です。

永渕:最近、ホームレスの人たちに保護的に対処していたアプローチを、ホームレスの方たち自身に起業の精神を持たせるようなアプローチに変えた実験事例のニュースを見ました。社会教育も継続的に、社会で生きる実践家を育てる方針に転換すべきではないでしょうか?知識の享受だけでなく自立や社会的活動に参加できる実践力を育てるのが社会教育にとって必要なのかなと思いました。要は、自分たちで課題解決の処方を考えて、自分たちで実践できる人たちを、数は少なくても地道に育てていくというのが、社会教育に課されていることではないかと思います。
さらに言えば、一昔前は、子ども会、青年団、婦人会、老人会など、地域で学習し、地域に貢献するグループがありましたから、リーダーを養成すれば、そのグループに戻り、手腕を発揮できました。もともと、それらの団体は、地縁によって成立している団体ですから、伝統的コミュニティが崩壊すると同時になくなるのは必然だったのですが・・・。今は、リーダーを養成しても、リーダーシップを発揮するグループそのものがないのです。ですから、現代は新しいグループを創りだすステップを組み込むことさえ、社会教育の課題になる気がします。

森本:県と市町村の社会教育行政では任務にかなり違いがあると思います。県の社会教育事業は、各種のリーダー養成事業あるいは地域の必要に対応する各種モデル事業の提供などが不可欠です。一方、市町村の社会教育行政は、とにかく地域のために「動ける人」を住民に“見えるように”育てていかなければ「役割」と「機能」を認知してもらえないと思います。
社会教育の意義は、特定の学習者だけを支援するだけでは見えないのです。公金を使う理由の説明がつくような事業でないと意味がないと思うのです。

Ⅱ 課題解決型実践者・活動者の育成

永渕:ご意見の通りだと思いますが、一番大事なのは実践力がつくかということだと思います。実践的な手法を身に付けた人たちを育てることができれば、次の実践はその人たちが広げて行くのではないでしょうか。問題は現在の社会教育に、実践力のあるリーダーを育てるという視点がないことだと思います。モデル事業もそうしたリーダーの活躍のステージとして発想してはいかがでしょうか?

森本:問題の根本は市町村の職員の専門性です。それがなければ、いくら県が要請しても市町村は動かないのです。自分たちの活動の場を作りきれないのです。あなたの言う「実践力」も机上の空論になるのです。
補助金行政華やかな頃は、曲がりなりにも社会教育事業は、補助金の根拠となる必要課題をベースにした事業でした。しかし、行政は「生涯学習概念」に依拠して住民の要求に応えることが事業だと考えるようになったのです。住民要求に対応して、みんなが喜んでくれれば「それでいい」という社会教育行政に変質したのです。
そういう社会教育行政の雰囲気の中で、市町村職員は3年か4年に1回は替っていきます。専門職員であるべき社会教育主事も同じ部署に長く置いておけるような状況ではありません。市町村担当職員の力量が一番問題だというのはそういう意味です。

永渕:だからこそ県行政の役割が一層重要になるのではないでしょうか。県行政の指導で現場で使えるプログラムを企画立案して、それを市町村に帰って実施し、そこで躓いたらふたたび県行政に持ちかえって再検討して修正して再度挑戦できるようにする。その過程で市町村職員の力量を育てるということをやる。行政職員の「On the Job Training」です。市町村で、先輩の手法を後輩に伝える時間もない今、新しいシステムを作らなければ、いつも素人に近い職員だけで、手探りでやることになってしまうのではないでしょうか。コンサルティング会社があるように、県行政あるいは社会教育総合センターの中にコンサルティングの専門家集団を常備しておけば、コンサルティングをしながら市町村の職員を育てるようなことがやれるのではないでしょうか。
ちなみに、船井総合研究所の川原氏は、「どんなに優秀な社員が集まっている会社に、優れた戦略があったとしても、戦略を実行・定着させるためのプロセスにまで踏み込んだコンサルティングをしなければ強い企業にならない」と指摘しています。社会教育のコンサルティングもそうあってほしいと思います。

三浦:それが実現したら凄いですね。
しかし、「生涯学習概念」を信奉している限り、そういうことはできないと言っているのです。コンサルテーションには何のために何をするかという明確な目的意識が不可欠です。しかし、生涯学習というのは原理的にみんながそれぞれ好きなことを好きなようにやればいいんだということを思想とする考え方だから共通の目的を掲げようとしないのです。関さんが上から「住民の学習に任せておけばいいではないか」と言われると指摘したように、生涯学習は住民が自主的に選択して学習することが「建て前」ですから、行政は余計なことをするなということになるのです。

古市:学習者が成熟して主体的、自主的に成長して社会的な必要課題にも取り組むだろうという、おぼろな期待というか、夢を持っていたような気がします。しかし、現状では今皆さんから出たように、決してそうはならず、逆にいろいろな課題が出てきたと思います。ただ、今日のことで一つだけ確認しておきます。生涯学習がこれまでどんな役割を果たしてきたかという点では、25周年でわれわれがとらえた、学習者の拡大や生涯の学びの促進など、ある程度の成果はあります。何にもしていないのではなく、自主的学習を促進したり、医療費を減らして貢献したりなど、いろいろな効果があったと思います。
ただ、今見えてきた新しい課題は、生涯学習の原理に則って、学習者の要求を聞くだけでいいか、ということだと思います。地域づくりや他者への支援など社会的貢献のプログラムを提示しなくてよかったのか。後者が抜け落ちたために社会教育は評価を受けられない状況を招いたのではないかという気がします。
社会教育法の中では、「指導監督はしてはならない」という原則があります。
社会教育は課題意識を持って学習者を「指導」するということにためらいもあったのではないでしょうか?行政の無境界化が進行した現在、かつて社会教育が提起した必要課題を重点的に取りあげ、予算を計上したのは、教育外の行政部局であったという繰り返しがあったような気がします。

三浦:私は、法律上は当然、「指導監督はしてはならない」でいいと思います。だから、個人が自由に行なう生涯学習支援に公金を出さなければいいのです。関さんのご経験の通り、行政を指揮する側に、社会が必要とする教育課題は何かという自覚がないまま、「生涯学習概念」を鵜呑みにすれば、「余計なことはするな」、「住民に任せておけばいい」、という発想になるのだと思うのです。

古市:そうすると、社会の必要課題に対応するにあたって今の社会教育法でいいのか。平成2年にできたいわゆる「生涯学習振興法」のままでいいのか、改正された教育基本法の中に生涯学習の理念が盛り込まれ、あのような規定の仕方でいいのか。もっと公的機関の積極的な関わりを明確にしなくていいのかなどの問題が出てくるのではないでしょうか?先ほど永渕さんが言われた実践者の育成についても日本の社会教育は、全く手がけなかったわけでも、実践モデルがないわけでもありません。しかし、優れた実践やモデルは繰り返し登場したにもかかわらず、広がらず、定着しなかったということは事実だと思います。公民館等への政策提言も、モデル事業推進のための予算措置や人的配置など中央行政の明確な姿勢が打ち出されればもっと違ってくると思います。学校教育に対して社会教育は予算も人的配置もけた違いに少なすぎます。わが国はもっと社会教育の強化を図ると日本の教育全体が変わると思います。

三浦:だからこそ「生涯学習振興券」のような例を挙げたのです。社会教育は、要するに、非権力行政ですから、あなたはこれを学びなさいという「指導監督」はすべきではありません。また、教育処方は医学のように、科学的な診断や処方に基づいた厳密な指示は出せないのです。
しかし、高齢者の活力維持に健康体操や各種のボランティア活動が役立つことは明らかであり、高齢者の社会参画が地域の問題解決に役立つということも理論的に分かっているはずです。分かっていても、生涯学習の発想では、皆さんがお決めになることです、と言って、実践者の養成が手薄になり、活動のステージも用意せず、モデル実践の推奨もしないということになるのです。

森本:迂闊なことでしたが、社会的効果の問題は、お金があるときはよく見えなかったと思います。財政難になって初めてお金の使い方が厳密に問われ始めました。気がついたら、子どもたちがいろいろな事件を起こすようになっていました。当然、学校教育や青少年団体は今のままの形でいいのかが問われるようになります。生涯学習の成果は成果として認めながら、それだけでいいのか、残してきたものや落としてきたものがあるのではないかということを明確に再診断すべき時がきたと思います。

正平:厳しい言い方をすれば、生涯学習の概念は、われわれが進めてきた社会教育に停滞と混乱をもたらした以外に何もないというふうに立論して議論を始めたらはっきりするのではないかと思います。古市さんが言われたように、社会教育の実践の中には、生活の中の厳しい課題に着手して、確かに有効な手立てと成果をあげてきた事例もあります。あるのはあるけれど、いくら質のいいものであっても、モデル事業にとどまって量を伴わなければ効果は見えないのです。いくら理論と成果に裏打ちされた実践であっても、素晴らしいことは確かであっても、お薬の「試供品」で根本的な治療はできないのです。われわれが今までやってきたものは「試供品」のようなモデル事業ではなかったかと思うのです。中でも私が最も後悔しているのは、先ほど永渕さんが言われた、必要だと判断したプログラムを示し、ノウハウを提示し、人々に実践を促して期待した効果が見えた分はあるけれど、では、そうした実践を継続的に担う地域の人々を育てていくということを一貫して社会教育はやってきたのかどうか。地域の人々に訴え、志や企画力や実行力を高めていくような仕事を、社会教育行政も、われわれもやってこなかったのではないでしょうか。

森本:かつては、青年団とか婦人会とか子ども会のリーダー養成講座などはやはり意味があったと思います。彼らは地元に帰っていろいろな活動をリードしました。時代の流れかもしれないけれど、それがあっという間に消えていってしまったということがありますね。

正平:永渕さんが期待したような地域の実践者は育っていないのです。今度の平成の大合併で経験したように、それぞれの地域の潜在的指導者たちは何かを起こすだけの力を蓄えていかなかったと思います。行政の大変革に戸惑い、立ちすくんで、新しい歩みを始めるにはあまりにも貧弱な力しかもっていなかったということが明らかになったのではないでしょうか。

古市:生涯教育が日本の教育行政の指針になりつつあった時、「国は俺たちを一生教育するつもりか、」というようなご意見が出ましたね。そして、それに対して「臨時教育審議会」は、「生涯教育」を「生涯学習」に切り替えて使い始めました。「生涯学習」概念を採用したということは、学習の主体は学習者であるという宣言でした。
それゆえ、今後生涯学習を再度逆転して生涯教育に切り替えるとすれば、私はやはり、法的な整備が必要になると思います。教育基本法の中に生涯に亘る学習が大事であるという理念が入ったことはまず第一歩ではないでしょうか。しかし、いわゆる「生涯学習振興法」など生涯学習をどう扱うかという法的整備はこれからです。

三浦:「学習」概念を「教育」概念に代える法律の改正ができれば、必要施策の実行は当然強力になりますが、現状では時間がかかり過ぎて難しいでしょうね。
私は、当面は個人学習は「生涯学習概念」で、社会教育を含む教育行政は「生涯教育概念」でというように2本立てで行くしかないだろうと思います。それゆえ、「生涯学習」概念だけを教育基本法でうたったことは大きな間違いであったと思っています。

森本:生涯学習を採用したあとは、やはり教育の発想がいろいろなところで抜け落ちていったと感じます。たとえば社会規範などは、教育の発想を入れないと教えることはできません。教えなかったら規範意識は育たないですよね。

正平:規範に限らず、体験も、コミュニケーション能力も、体力ですら教育抜きに育てることはできないでしょう。

三浦:学習を優先することの危機は、「選んだ人」と「選ばなかった人」の格差を放置することになることだと思います。

Ⅲ 「生涯学習格差」の発生

正平:教育の名で、時に、強制が必要となる理由は、「適時性」の問題があるということです。教室で私語をしてはいかんというのは、小学校3年生までの達成課題です。授業中に先生のお話は集中して聞きましょうという意志と態度を形成しておかないといけないわけです。
20歳になった学生たちを相手に私語を静止して授業を成立させるのは私には難儀なことです。

三浦:教育の概念を捨ててしまうと、子どもに限らず、どの時点で何を教えるかという、目標と方法が設定できなくなります。「生涯学習概念」の最大の問題はそこだと思います。また、25周年の時も「副作用」の自覚はありましたが、学習を国民に任せた時の最大の問題は「生涯学習格差」の発生だと思います。やる人とやらない人の差が拡大して、社会問題が発生した時、「やらなかったあなたが悪い、あなたの自己責任です」、では済まないと思います。

鴻上:学校が子どもたちに学習すべき課題を十分に達成させていない理由の一つは「教育する」ことに対する「ためらい」だと私は思います。具体的な態度や能力を身につけさせようと思っても、多くの教員は手立てや内容についてのイメージが沸かないのです。正平さんが指摘された授業への集中と学習態度の持続はまさしく教育課題なのですが、教育意志が希薄であれば教えることはできません。森本さんのいう規範意識も同じです。生命への畏敬の念を教えることや自律的・自発的実践者を育てるということについても同じです。教育課程、カリキュラムで指示されているものについては教えることができるのですが・・・・。

森本:教えなければ分からないのに教えていないということだと思います。

三浦:価値や生き方を学校が教えるべきではないという雰囲気が支配しているということでしょうか?

鴻上:共同生活の規範や最小限の礼節などは、社会教育がいろいろ蓄積してきた成果があります。学校の中にも総合的な学習などに取り入れられています。しかし、その社会教育が教育をしなくなったわけですから、学校教育への影響は大きいと思います。社会教育は世間で行なわれる教育ですから、それが消滅するということは、社会的な教育意志が稀薄になるということだったのではないでしょうか?

三浦:なるほどね。松下圭一氏の言う市民に任せればいいのだという「社会教育の終焉」論の副作用が明確になったということですね。

鴻上:松下圭一さんのお名前が出ましたけれど、やはり松下圭一ショックというのは、地方自治体の首長たちに対しての影響力が大きかったような気がします。行政主導で、市民の学習権を保障するというのはおごりであるという感覚で、社会教育から撤退したのです。今回のような議論を重ねて、首長たちが、やっぱり社会教育は大事なんだよということを再認識していただくような働きかけが必要ではないでしょうか。
今では生涯学習が総合行政化され、社会で行なわれる教育の意義や独自性が軽視され、行政職員に対する指導も全く不十分です。

古市:生涯学習施策は一般行政化しています。ですから、教育行政は生涯学習へのこだわりを捨てて、社会教育の看板の下で再度社会が必要とする教育を担うんだということに切り替えてはどうでしょうか?もちろん、その時は社会教育法をもう一度きちんと確認して、地域の「社会的課題」の解決を目的とした施策のあり方や展開方策を再検討することが大事だと思います。

黒田:社会で教育を行なうという根本的な考え方はすでに社会教育関係の職員には通じにくくなっているのではないでしょうか。当センターで職員研修をやっても、そもそも社会教育とは何のためにやるのかという基本的な議論になるとなかなか興味を示してくれないようです。具体的な支援技術や方法論についてはよく聞いてくれるけれど、肝心要の、なぜ、何のためにやるのかということになるととたんに関心が薄れるようです。地域住民や地域社会が今どんなふうになっているのか、おそらく、社会教育行政の一番大切なところは診断にかかわる部分ですね。その部分が抜けているのです。ここを徹底的にやる必要があると思います。社会教育の現場では、「社会教育か生涯学習か」という議論は、それほど興っていないと感じています。社会教育実践の中で、もう一度社会教育行政が診断をきちんとやって、目的を明らかにして行けば、まだ社会教育が生き残る芽はあるのかなというような気はしています。

三浦:それゆえにこそ今回「学習」から「教育」へと提起しているのです。市民の選択的学習に任せれば、「格差」はますます広がり、誰も止められません。
要は、社会教育法の規定のように、学校外の社会でも教育をするという行政姿勢が必要になるのではないでしょうか。問題は職員研修のあり方ではなく、中央や県の教育行政の哲学や教育姿勢が問われているのだと思います。

大島:それは社会教育に戻せばいいという単純な発想ではないですね。社会の必要課題を考えてみると、子どものことにしても高齢者のことにしても複合的な課題がほとんどですよね。教育行政とか社会教育だけでは扱えない課題が人々の生活課題です。
生涯教育も生涯学習も教育行政のとらえ方はタテ割りで狭かったですね。課題を解決するためには、たとえば子育て支援でも福祉や労働などいろんな部局と教育行政とが一緒に当たった方が機能的なのに、法的にも行政施策の上でもタテ割り行政を抜け出せないままに、生涯学習、生涯学習とだけ言ってきました。他部局との連携も、課題の優先順位もできていなかったと思います。
唯一の希望は「必要課題」に関心を持って下さる市民が少しは育っているということではないでしょうか?自分たちでいろいろやってみて、社会的なテーマを見つけて、ボランティアやNPOという形で成長してきている人々との協働に可能性があると思います。市民はタテ割りで動いてはいません。世の中全体では、生涯学習の多くは「パンとサーカス」に帰結したかもしれないけれど、一方では社会貢献の意識を持った少数の人たちも育ってきたので、そういう民間のグループをいかに支援し、彼らといかに協働していくかというのが大切なのだろうと思います。

古市:私も賛成です。学習者の拡大という点では、生涯学習はある程度の効果はあったけれど、ご指摘のようにその限界も明らかになりました。行政的にもようやく学習成果の活用という視点が出てきました。しかし、学習者が主体的にまちづくりの行動を起こすにはほど遠い状況です。そうなると、今までの生涯学習ではなくて「教育概念」が必要なのだということをもう一度確認しなければならないと思います。行政機構は今後まだまだ変わっていくような気がします。今や「まちづくり」というキーワードは首長部局がもっていますから、地域の「社会的課題」を解決するための連携ネットワークをどう作るのかという視点が必要になってくると思います。

森本:本稿の中川論文が提起しているエリア・コーディネート機能というのはまさにそこを指摘しているのだと思います。現在、各地各様のまちづくり推進協議会ができていますが、まちづくりの発想から「学校」が意外と抜け落ちていますね。原因は、これまでの生涯学習が学校を対象外に置いて特別扱いしてきたことにあると思います。学校を抜きにしたまちづくりの発想は大きな弊害をもたらしたと思います。

Ⅳ 「生涯教育」体系の中の学校の位置づけ

三浦:いよいよ各論に入りますね。森本さんの指摘はまさにその通りだと思います。生涯学習の方から見ると学校抜きで展開してきたのですが、社会教育の側から見れば学校は一貫して参加を拒否してきたと思います。「生涯教育概念」を守っていたら、学校は間違いなくその体系の中に位置付けられたと思います。
子どもたちが当面する問題の、おそらく9割ぐらいは学校の外で発生しているのに、学校は学校の外の問題に対処する体制に全くなっていないのです。旧穂波町の「子どもマナビ塾」とか飯塚市の「熟年者マナビ塾」とか、あるいは旧豊津町の学童保育と校外教育を統合した「豊津寺子屋」の最大の意味は、学校外のシステムが学校の問題に陰ながら対処し得たということにあると思います。
学校教育を支援する意味でも、学校外で発生している子どもの問題は、地域の力を借りて、地域と学校が組んで取り組めるような「学社連携」のプログラムこそが不可欠になっているのだと思います。

正平:日本の産業構造で、第1次産業が1955(昭和30)年に4割を超していたのが今は5%ぐらいになっています。かつて、第1次産業が大きな比重をもっていた時代に行われていたことは、親と子が共に働く共働です。一緒に田畑で仕事をするプロセスで親から子に伝えられてきたものは、質・量ともに大変大きなものだったはずです。それが、完全にと言ってもいいくらいに消滅した時、一体、学校教育はどういうことになるのか。それに代わるものを準備しなくていいのか。それを丹念に検証して手立てを施してこなかった長年にわたるつけが、今集中して表れていると私は思っています。

森本:教育長をさせていただいた経験から言えば、学校教育はそういう社会的条件の変化をほとんど考えていないですね。また、そうしたことに時間とエネルギーを使う余裕もなくなっています。他方、社会教育の分野では、学校の内部事情がよく分からないから正平分析のような全体像は見えていないのです。教育行政は、建て前では学校と社会教育が協力して一緒にやらなければと言いますが、例外的なモデルプログラムがあるだけで、一般化するのは難しいですね。

正平:ただ、福岡県の場合は、20年くらい前に森本さんが本庁で手掛けられた高齢者の人材派遣事業、それを出発点にして通学合宿や「いきいきスクール」事業、さらに子育てグループの支援事業が始まりました。地域の力を学校にという観点、あるいは地域の人の力を「学校を核にして育てよう」という観点、これは「学社連携」の思想として、ずっと貫かれていたと私は思います。

森本:たまたま2、3日前の新聞に飯塚市の小学校の学力が全国平均を上回ったと出ていたのですが、「子どもマナビ塾」や「熟年者マナビ塾」の存在が貢献したという評価は表に出てきません。社会教育が学校や学校外でやったことが、子どもの成績や日常の「生きる力」に本当に影響しているのかどうかは一度も検証していないのです。評価をしてこなかったからものが言えないというところが寂しいですね。

関 :校外活動の教育的評価が欠けているのは学校も同じですよ。塾も、通学合宿も評価の対象にはなっていません。逆に、「(塾なんかに)行きよるから授業中に眠くなるとたい」、という叱責が象徴しているように、学校は自己中心的にしかものを見ていません。子どもたちの学力が上がったとしても、指導法が改善したからとか、宿題の出し方が良くなったからとか、校長のマネジメントが良くなったからということで、「見えない学力」の意義は全然顧みられていません。子どもの成績こそ総合的に見なければいけないのに、学校は自分たちのやっていることだけしか見えないのです。

大島:学校は、現状診断が適切にできていないということですよね。だから、社会が感じる必要課題と学校が感じる必要課題は違うということになり、対処法も自ずと違ってきます。学校外での対処は自分たちには関係ないと思っているのだと思います。

三浦:「学社連携」問題の本質は学校ではなく、学校教育行政ですよ。森本教育長の施策はその証明です。文科省行政が抜本的な「学社連携」改革をやったら、学校はあっという間に変わるのです。政治や行政の姿勢が変われば、学校は変わらざるを得ないのです。

古市:法的な制度化・施策化が必要なのですね。それを提言する時期はきているような気がします。

益田:実態は、学校に対する期待が大きすぎるのではないでしょうか?
家庭や地域の教育力の低下が指摘される中で、学校に対する期待だけがどんどん大きくなっているのも事実だと思います。先ほどから皆さんが論じた学校教育の目標が、日本の場合は心や人格まで育てなくてはいけないというところまできています。何もかも学校に押しつけているから、学校は、何もかも背負わなくてはならなくなっているのです。

大島:学校への過剰期待と過剰要求こそ問題であるということでしょうか。

益田:現状はそうです。学校の先生は子どもたちの日常の生活指導に追われ、勤務時間外も多くの先生が遅くまで学校にいます。先生方の多くが子どもに関するあらゆることを知っておかねばならないと必死で思っているのです。私も学校現場にいるときはそう思っていました。子どもが外で何か問題を起こしたら、私たち学校の先生が一番に行くのだと。親に話し、地域に話し、問題解決するのは私たち教師の責任だと思っていました。そのように教えられてきたと思います。教師はそうあるべきだと。

森本:それも確かだと言えます。また一方で教職員は外部と関わることを回避してきたというところもあるのではないでしょうか。

益田:森本前教育長は学校と社会教育の分業をある線で明確に仕切りました。そうした配慮を前提にすれば、状況は変わると思います。
子どもの発達や成長を総合的に考えたら、学校は外部のすべての要求と期待に応える必要があるのかどうかと、私は社会教育総合センターにきて強く思い始めました。学校が負うべき責任は、子どもの学力と基本的な社会規範だと強く感じるようになりました。現在、学校に期待されているそれ以外の役割は他に任せて、学校はスリム化するべきではないでしょうか。だからこそ、社会教育との連携が重要になるのだと思います。
社会教育が引き受けるものを明確に提示しない限り、「学社連携」は学校の先生方に理解してはもらえません。先生方は夜遅くまで残ってがんばっているのに、これ以上地域と連携しろとまで言うのかと思うでしょう。
だから、逆に、学校の先生方に理解してもらえるアウトソーシングの代替案を提示できれば、抜本的なシステム改革を提案するチャンスは十分にあると思います。

古市:学校への期待があまりにも集中してきているというのは、皆さん感じていると思います。解決案の一つは今出たように、学校機能の一部を外部化したらいいのではないか、ということがあります。外部化できるところは外部化して、先生方が教育に集中できるような体制を作るということは必要でないかと私自身も感じています。

正平:外部化というときに、それを進めていく型や想定される効果を示さないといけないですね。外部化の原理原則が大事だと思います。

大島:学校に責任感があって情熱があって長い時間をかけても、必ずしも子どもたちがよくなるというわけではないですよね。外部化も同じではないでしょうか。私は飯塚市の八木山小学校や壱岐市の霞翠小学校のように、短期間に子どもたちが劇的に変わった事例を見てきました。同じ時間の中でも、やり方次第で子どもたちは濃密な体験ができるのだということが分かります。学校教育も、外部化する事業もそこのところをどう作り出していくのかという視点と戦略が大切だと思います。

正平:私が実際にやってみて、これはよかったなと思う外部化体験の例がひとつあります。それは一人の熱意ある学級担任の決断から始まった取り組みですが、かつて庄内小学校では、修学旅行に行く前に、子どもたちにバスの中で歌う歌集の作成作業やその他の事前学習の時間が確保できず、止むにやまれず修学旅行準備のため、学級丸ごと一週間生活体験学校で合宿させたのです。
テーマは、「6年生の長崎修学旅行を成功させる」としました。歌集を作るだけでも、選曲して、印刷して、切って、綴じてと、ものすごく時間がかかるわけです。それを1週間の合宿でずっとやったわけです。学級担任には、決してお泊りいただかないように、様子を見ていただく分はいいですが、5時以降は全部生活体験学校でやりますから、といって徹底的に1週間を事前準備に当てたあとで修学旅行に行きました。修学旅行は大成功でした。1週間もまくら投げした後に、旅館に行ってまくら投げをするような子はいませんからね。今、振り返っても貴重な取り組みだったと思います。私の大学で、他人と寝泊まりした経験のある学生は修学旅行以外何もないというのが実態です。他人と寝泊まりするのは修学旅行が初めてだという多数の子どもを預かって引率すれば問題が起こるのは当然です。修学旅行の目的を達成するために必要な集団行動の様式も規律もまるで身についていないような子どもを、修学旅行に連れて行くわけですから、学校の教員が疲れ果てるのも当然です。外部化とか連携という時の内容と方法は具体的な課題について一つ一つ子どもにどんな体験が必要かという視点で方法と中身を検証していかなければならないと思います。

大島:連携効果の検証ができて初めて、必要であれば地域の力を活用したり、少年自然の家などの長期の宿泊体験プログラムを活用したり、社会教育との連携が可能になるということですね。
先ほどの森本さんのご指摘は、学校教育はもとより社会教育も連携の効果測定や機能証明は手薄であったということですね。

V 教育機能を外部化する際の前提条件

黒田:外部化には本体と委託先とのバランスの問題があるのではないでしょうか。いくつかの公民館の指定管理状況を見たのですが、すごく頑張っていて驚きました。中には、教育行政が直営でやっていた時より中身が充実しているところがありました。そこでは、指定管理を受けた職員たちが、横の連携を取りながら一緒に学習会をやるなど、切磋琢磨しながら頑張っていました。しかし、それに反比例するかのように、教育行政本体の力が落ちてきているのではないかと感じました。人員は削減され、公民館との協力や連携はだんだんと弱くなってきていました。外部化することの、本当の難しさを感じました。どの部分をなぜ外部化するのか、外部化効果はどう評価するのかなど全体のシステムをきちんと考えないと危険だと感じました。

三浦:企業は、アウトソーシングという言葉だけを単独で使いませんね。必ず、「戦略的」アウトソーシングというように使いますね。だから、どんな目標があって、プラスの部分はどのように企業に戻ってくるのか。要するに、委託するところの方が専門的なスキルが高い、委託することによって経費が節減できる、委託することによって自分の本来の業務に専念できる、そういう明確な「戦略」がなくてアウトソーシングするということはあり得ないのです。しかし、「生涯学習発想」に依拠して社会教育を考えたのでは戦略性など立つわけがないのです。

森本:飯塚市でも図書館を指定管理にしています。職員は変わりませんが、トップだけが何人か変わりました。それでも、以前よりはサービスが良くなっています。だから評判も悪くないのです。ただ、結果を聞きながら多くの人が喜んで来るような図書館を作ればいいのかという課題はもっています。公民館の場合はどうでしょうか?お客さんがたくさん来るだけでいいのでしょうか?社会教育施設の場合、アウトソーシングをして何をするか、が問題です。地域の課題解決に役立つかなどの視点は捨てられないと思います。利用率だけを高めていくことが戦略になっても意味があるだろうかと思いました。

三浦:産業構造が変わり地域が変わり家庭が変わり、結果的に子どもが変わり、多くの高齢者は行き場さえ失っています。社会的条件も、私たちの暮らしのスタイルも変わっているのに、そこから発生する問題にアウトソーシングで対応できますか、という問いを発しないで外部委託はできないと思います。今議論している戦略性とは、学校や社会教育が掲げる目的を効果的かつ迅速かつ経済的に解決できるか否かを検証せよという意味だと思います。

関 :自分が見聞している行政は、お金の削減のことばかりが関心事で、事業の成果や地域がどう変わったかという視点は持っていません。私の知っているところでも、公民館が一つ、指定管理から市の直営に戻されました。お金が安いというだけで外部委託したものだから公民館として機能しなくなったということです。私の地域でも、いくつかの公民館については館長が地域と結びついて活動の企画をしているので非常に活発なのですが、残りは人集めの講座や貸し館機能を中心にやっているので、公民館機能の地域間格差がますます大きくなっています。

森本:だからこそ、社会教育課や生涯学習課の職員の力量が問われていくと思います。福岡県立社会教育総合センターで、今後どのような講座がもたれていくのか、県行政は何をするのかなど人材育成が鍵になることは間違いないと思います。大島-赤田論文が提起したのは問題解決力を育てるということだと読みましたがいかがでしょうか。

鴻上:市民の信託を受けた存在としての地方自治をめざしていくという原点に立って考えると、市民に対してどのようなスタンスで向かっていかなければならないのかが自ずと決まってくると思います。
従来の行政依存体質は明らかに限界に来ています。市民自身の問題解決能力が問われる時代が来ていると思いますが、誰がそれを育てるのでしょうか。
社会教育の機能を復活させる意義はそこにあるのではないでしょうか。
先ほどは学校に対する過剰期待の指摘がありましたが、一方で保護者が学校を軽視していることも事実です。
教師たちがよかれと思ってやったことが評価されず、疲労感に打ちのめされ、多忙感だけが残ってしまう実態もあります。
学校に対する地域の信頼感を高めていくためには、教師の力量を高めることが基本だとは思いますが、社会教育とのそれこそ戦略的連携が可能になれば、地域や保護者の見方も変わって来るはずです。校長のマネジメントについても、特色ある学校づくりについても、地域や保護者の協力を得るという点でも、社会教育と互恵的な連携が組めれば、両者にとって望ましい状況を作り出すことができるのではないでしょうか。

古市:問題は連携や外部化をどう制度化するかになりますね。個別の成功事例もモデルシステムもありますが、それらを連携や外部化の視点から制度化するところまではまだいっていません。森本さんが試みられた飯塚市のように、学校の中に公民館を併設するなどして社会教育と一体となって運営する仕組みなどが制度化されれば、学校はまちづくりの大きな拠点になり得ると思います。

Ⅵ タテ割り分業の壁-教育事業の連携と協働と評価

大島:後半は司会が交替します。前半では主として「生涯学習概念」の功罪について論じました。後半は各論に踏み込んで「未来が必要とする実践」の中身と方法について論じていただきたいと思います。すでに基本方向は前半の討議の中で確認されました。
その第1は、社会教育は「社会の必要」を正確に「診断」し、効果的な「処方」を提起しなければ役割を果たしたことにはならないという指摘がありました。
第2に、「診断と処方」を実施するにあたって「タテ割り行政の壁」があるという指摘がありました。
第3に、社会教育行政は人々の生涯学習を指導・監督しないと決めている以上、何らかの具体的な誘導施策が有効ではないかという提案もありました。
第4に、「社会の必要」に対応せよと言いながら、社会教育事業は評価と検証を行なっていないという反省も出されました。
第5に、青少年の育成一つをとってもこれまでの行政施策に明確なビジョンと実践の意思がなかったという批判も出ました。
第6に、社会教育の視点からも、学校教育の視点からも「未来の学校」の議論が抜け落ちているという指摘が出ました。

 後半はますます自由に、KJ法を行うようなつもりで、いろいろな視点で意見や構想を出して頂きたいと思います。

鴻上:三浦論文が指摘したように、学童保育で話題に上がった、福祉行政と教育行政の分業の弊害についてですが、学校からの相談や情報提供が子どもの保護に活用されていないケースをよく聞きます。児童虐待とかネグレクトの情報はいち早く学校の耳に入ります。当然、学校は民生委員や家庭教育相談員に連絡します。そして、「実際に傷跡とかあざとかありますのでくれぐれもよろしくお願いします」と連絡するのですが、多くは「教育指導」も「保護の処置」も取られないで止まってしまいます。
学校側として問題があることが分かっているのに何もできない無力感を感じます。教育機能を福祉行政の中に生かすことができれば、そうした保護者は先に論じられた「患者相当者」ですから、集中的に教育相談や、家庭教育のトレーニングをするといったことができるのではないでしょうか。

大島:「患者相当者」とおっしゃいましたが、虐待やネグレクトも医療のいう「予防」と「治療」の2段階があるだろうというお考えですね。

三浦:永渕さんが指摘したように原因から結果に至る「時間」感覚が医療とはだいぶ違うけれども、「教育的予防」と「教育的治療」という段階の区別は成り立つと思います。たとえばですが、子どもの「欠損体験」の自覚は予防につながり、その教育的補完は治療に相当すると思います。

森本:児童相談所は県立県営の機関ですが、何もないときに個々の家庭に介入することはできません。裏を返せば、「予防」は学校ができる事なのです。学校は保護者の最も近いところにいるのですから、やろうと思えば親と話ができます。しかし、今のお話のように、学校は報告と情報提供だけして事が終わったような気になっているのです。問題が多発して来たのでこれからは学校の中に専門的に対応できる人を配置していく必要があると思います。「未来の学校」には社会教育主事のような、地域問題に対処する専門性のある人を学校に配置し、学校の先生たちの手が届かないところの隙間を埋めるようにしていくシステムが問われているのではないでしょうか?しかし、専門分化は「たこつぼ」化や「縄張り」化が怖いですね。必ず任せっきりになってしまうのですよ。

黒田:スクール・ソーシャルワーカーをモデル的に配置された校長先生にお聞きしたのですが、一番大切にしているのはケース会議だといわれました。ケース会議で配置されているソーシャルワーカー、スクール・カウンセラー、学級担任それ以外に多くの教職員に入ってもらう。そのケース会議は非常に役に立っているというお話でした。学校の組織的対応を事前に規定しておけば森本さんのご心配も少しは対処できるのではないでしょうか?

三浦:新たな予算を伴う話は実現までの時間がかかり過ぎますよ。
問題の核心は学校の意識と意志ではないでしょうか?企業のいう「プロジェクト別委員会」を作れれば現状でもある程度の対応はできるはずです。学校が提起して、担当機関間の連携とか協力が可能になれば、「児童問題特別委員会」をつくり、児童委員や民生委員や相談所の職員や学校の先生がメンバーになる事はできるはずです。しかし、学校は作ろうとは思ってないし、教育行政には予想される虐待問題に対処して学校を動かすシステムもないのではないでしょうか。
「未来の学校」は、学校外で起こりうる問題に対処する意志をもつか否か、が問われるのです。意志のないところに連携も協働もあり得ないと思います。古市論文、中川論文が分析していますが、島根県雲南市では学校に「地域教育コーディネーター」を配置して「協働対応システム」の効果を上げていると指摘しています。複合的課題には組織を挙げて対処するぞ、という教育行政の意志を明確にする必要があるのではないでしょうか。

大島:学校が話題になりましたが、複合的な事業は、目的に応じて領域を超えたプロジェクトチームが組めるかどうかが重要だということだと思います。予防に当たるのは、「学校」か福祉システムか」という議論になりがちですが、「社会の必要」に対する視点・発想・姿勢こそが第一関門だということですね。

森本:その通りですが、まず学校は何ができるかという発想が欲しいですね。

三浦:学校以上に、政策決定を下すトップに総合的なアプローチをしようとする姿勢がないとどの機関も動きが取れないと思います。

鴻上:黒田さんの紹介した事例は校長先生が広く社会を経験した社会教育のご出身だったということが重要な気がします。おそらく上部機関も校長先生の動きを承認・奨励しているのだと思います。

大島:それにしても学校は校長先生次第ですよね。校長先生だから地域にも、家庭にも話ができてそこからプロジェクトが動いていく。

森本:重要なのは、人とシステムの両方が問題解決のために動くということだと思います。

Ⅶ 鍛錬教育の欠落

永渕:学校が「治療」にどの程度参加すべきか、という問題も重要だと思いますが、学校本来の仕事で最も欠けているのは子どもの基本的トレーニングができていないということではないでしょうか。

三浦:鹿児島のヨコミネ式幼児教育を見学に行ったのでしたね。

永渕:百聞は一見に如かず、です。幼児期の鍛錬の成果はすごいですよ。

正平:生活体験学校に関わって以来の持論ですが、近年の子どもにもっとも欠けているのは、勤労体験と困難に耐えるということですよ。学校は多様なカリキュラムを組むことができますが、自分のためはもとより、人のために働くことを教えて来ただろうかと思います。

大島:生活体験学校に来る子どもを見るとそれがわかるということですね。

正平:それこそ百聞は一見に如かず、ですよ。教えなければ、子どもは何もできない「烏合の衆」です。

森本:飯塚市は「2分の1成人式」を小学校に導入しました。10歳までが勝負だと判断したから「10歳までの子育て講座」も開講しました。三浦さんのいう「させる、教える、練習させる」という教育の3原則を学校と家庭の両方で同時進行させなければトレーニングはできませんね。

大島:学校は今でも手いっぱいですから、それこそ社会教育の出番ではないのですか。

森本:学校と組まない限り今の社会教育で少年の「鍛錬プログラム」は無理でしょう。

三浦:「生活体験学校」だったらできるのですが、これも学校と組まない限り「選択制」になりますから、「来る子」と「来ない子」に分かれて全体のレベルアップにはならないと思います。

永渕:古市さんが言ったように、学校に予算を付けて必修にすればできるのではないでしょうか。

大島:正平さんが「鬼」の役を引き受けていたから、「生活体験学校」の厳しいプログラムが成立していたので、「鬼」のいない現代の学校に必修の「鍛錬」プログラムが成立するでしょうか。

三浦:幼児期から始めればできると思います。私が調べた限りでは、ヨコミネ式には必ずしも「鬼」はいないですよ。「できないこと」が「できるようになる」というカール・ビューラーの「機能快」に着目して、先生方の「承認」と「賞賛」を組み合わせているのだと思います。規範の「枠」が成立していれば、必ずしも「鬼」は必要ではないのです。日本人が重んじた「家風」などという発想がそれです。

赤田:昔自分たちが鍛錬を受けたようにはできなくても学校と保護者が合意すれば、今の学校でもかなりのことができると思います。それこそ「校風」を創るということです。

永渕:福岡県古賀市の青柳小学校や長崎県壱岐市の霞翠小学校などの実践は現代の小学校でも「できる」ということを証明していると思います。

三浦:「できる」とは思いますが、時間とエネルギーを最少限にするためには、森本さんのいう「10歳までの子育て」を幼小連携、保小連携で進めることだと思います。その時初めて、生活体験学校やヨコミネ式のようなモデルも生きると思います。

正平:子どもの言うことに振り回されて、その欲求に応えてやることが教育だ、などという考え方の下では何を言っても実行は難しいですね。たとえ、地味でも、一握りの子どもであっても勤労、困難、集団、共同を核とした「生活体験学校」のプログラムを通った子どもは世間に出しても大丈夫だということを証明したいものです。

大島:課題は「児童中心主義」の教育思想ですね。私も宿題をするつもりで学生時代の教科書を読み返してみましたが、子どもの主体性、子どもの自主性が教育論の中心を成していました。問題は指導者が何を選んでどう指導するか、になりますね。先生方が子どもの「自主性」と「鍛錬」を両立させてお考えになるかどうか、が分かれ道になると思います。

三浦:戦後教育を支えて来た「児童中心」の理念を批判し、一部は否定することになりますから、幼少年期に「鍛錬」プログラムを導入するという提案は最も難しい未来の教育課題だと思います。

Ⅷ 総合化プロジェクトの重要性

永渕:基本のトレーニングが不足しているから子どもが総じて弱く、不適応の問題の頻発につながっていると理解しています。その時、先ほどからのお話はすでに現状の家庭教育の問題は、専門家といえども「個人的対応」では限界があるという事ではないでしょうか?黒田論文が取り上げた佐賀県の谷口氏が実践しているスチューデント・サポート・フェイス(以下SSF)のように、総合的なチームサポートが不可欠な時代になっていると思います。SSFの特性は、相談対応者がクライアントの来訪を待たないで、こちらから出かけて行く「アウトリーチ」方式、さまざまな分野の専門家を組み合わせた「チーム対応方式」で成果を積み上げて来ました。心理学から法律や生活保護まで複合的な専門プロジェクトでなければ、機能しないことを知っているわけです。
1つの学校でそうしたチームを持つことは不可能ではないでしょうか。だから、地域にSSFのような対応組織が1つでもあれば、先生方もずいぶん連携して楽になり、効果もあるのではないでしょうか?
なぜそうしたアプローチがとれないのでしょうか。

三浦:黒田さんが未来に提案しているのはまさにその点です。SSFの谷口さんがやろうとしていることは、複合問題に対応するには複合的プロジェクトをつくることしかないということです。企業だったら専門家を糾合して「問題解決プロジェクト」をつくるでしょう。学校が閉鎖組織の典型ですが、教育とか福祉とか分業化された自己完結型の行政もまた閉鎖組織なのだと思います。閉鎖組織には外部機関との連携や協力の意識が発生せず、協働の発想が湧かないのです。

大島:複合的問題を協力して解決しようという発想がなければ、つなぐことも、補うことも、機能のネットワークをつくることもできないということだと思いますが、閉鎖組織の典型とまで言われた「未来の学校」はどうすればいいのでしょうか。

森本:残念ですがSSFのような方式を歓迎するような発想は学校にはないでしょうね。鴻上さんの報告にあったように、既存の組織に依存して報告するところにとどまるのです。

関 :教育長とか教育委員会とか校長先生のシステムを動かす人々のマネジメント力がつくづく大事だと思います。先ほどから言われているSSFは不登校対応でも引きこもり対応でも事実すごい成果を上げています。しかし、行政にいる多くの人にとって、彼らは「うさんくさい人たち」であって、「おいしいとこだけを持っていく人たち」と思われているので関係者のSSFに対する評価も非常に低いのです。実績と成果を目の当たりにした個々の先生方の評価は高いのですが、行政が認知しませんから、永渕さんのいう組織的力が発揮できないのです。トップの評価判断や指導力が浸透していないのです。
(*2010年11月、SSFの活動が評価され、総理大臣表彰を受けました。)

Ⅸ 評価をシステム化していない行政

三浦:原理的には簡単な問題ですよね。通常の教育相談事業やカウンセリングと比較して、クライアントの社会への「復帰率」とか、問題の「解決率」を見れば相談効果も「費用対効果」も歴然としています。それを認めようとしない行政の仕組みこそが問題なのです。

森本:上層部が広く目配りして、評価してやらないといけない問題なのですが、必ずしも評価できていませんね。

大島:実績も効果も上げているのに、正当に評価されていないということは、評価結

果の伝え方に問題があるということでは
ないのでしょうか。

関 :一例ですが、SSFの対象の子どもたちは夜中に起きているのです。注目に値する仕事だと思うのですが、SSFは彼らに各種のサイトを見てもらい、青少年に被害や悪影響を及ぼすようなものを全部調査してもらって警察や役所に報告しました。
効果は抜群でした。非常にいい取り組みだったのですが、予算がなくなりプログラムは中断してしまいました。
SSFの成果がメディアに紹介されると、行政の受けとめ方は「俺たちもやったはずなのに」という風になってしまうのです。
「やったか、どうか」ではなくて、「効果を上げたか、どうか」の問題であるはずなのに、子どもの側に立った評価や効果測定の視点が存在しないのです。

森本:申し訳ありません。行政が外野の「手柄」を認めたがらないという話ですね。(笑い)

大島:大会30年の歴史を見ても、いいモデルがあるのに広がらないとか、優れた実践が先例をつくったのだからもっと活用すればと思うのですが、実際には広がりもなく、活用もされていませんね。

永渕:トップの勉強不足や意欲が足りないということはないのでしょうか。

関:間違いなくあると思います。

三浦:飯塚市がある程度変わったのは、森本前教育長が評価や効果測定の視点を示して診断や処方の実施を指示されたからですよ。企業だったら、効果が上がると分かったらトップの指示で必ず実行するでしょう。予算も人間も増やしますよね。迅速な対応措置がとれなければ株主総会をクリアできないでしょう。株主総会に当たるものは議会のはずですが、そこに評価がなかったら前に進みませんね。
外部評価の論理が行政や学校には働かないのです。当時の市長が「株式会社飯塚市」を作るとおっしゃったスローガンは効果測定を徹底するという意味だと思ったのですがね。企業と行政の違いでしょうか。

大島:やってもやらなくても明確な評価がなく、どういうことをやっても給料とか組織の存続には関係がないという仕組みの宿命でしょうか。

黒田:公共の仕事というのは自分の力量の範囲内で考えてしまうので、診断は自分たちでします。外部に任せるとしても、処方の部分だけを任せます。本当の意味での協働の仕組みを開拓していく気持ちは私自身も含めて、反省の念を込めてですが、少ないなあと思います。自分たちの能力の範囲内でしか事業のレベルは決められません。自分たちの能力の範囲内で決めたことの一部だけを委託するというやり方に限界があるのだと思います。

X 家庭の危機と「育児と教育」機能の社会化

正平:問題が発生するたびに、対処する人を配置していくという解決法は嘘っぽい気がしますね。まずは現状の仕組みの中で最善の努力をするという発想がないのではないでしょうか。学校カウンセラーも、ソーシャルワーカーも、その方たちの仕事を作ってあげているという意味では意義があると思いますが、多くの問題の根底にあるものは「相談の必要性」などではなく、問題の根源に対応することです。相談で問題の解決ができるのか、相談の教育効果は高いのか、その「立証」が問われているのです。
鴻上さんが紹介した事例とは違うのですが、親が子どもを放棄して逃げ出していたことがありました。自分たちだけでは生活できないような小学生が何日も自分たちだけで暮らしていたのです。家に行った担任は腰が抜けるほどびっくりしました。直ちに社会福祉協議会に連絡をとり、家庭サービスのヘルパーと民生委員に行ってもらって家の中を片づけてご飯が食べられるように家の中を整えました。子どもが何かおかしいということに担任が気づいたこと、そして機敏に動いた担任教師が窮地におちいった子どもを救った事例です。
別の事例でも、置き去りにされた子どもたちをとりあえず生活体験学校に連れてきて、定型外臨時の3泊4日の通学合宿を実施し、福祉事務所に連絡をして対処しました。生活体験学校が存在したことも幸運でしたが、生活体験学校の歴史の中で、予想だにしなかった「番外の通学合宿」でした。
事件が起きてから福祉施設に行くまでの間、子どもの暮らしはどのようにすれば守れるのか。地域にはその仕組みと手立てがないのです。子どものための施設はたくさんありますが、そこで暮らせる居住性のある施設はまずないでしょう。そういう意味では生活体験学校は通学合宿だけをする施設ではないのです。

大島:鴻上さんからは事件が起こることが分かっているのに対処できない、正平さんからは事件が起こった時に対応する仕組みや条件が整っていないというご指摘がありました。
根本は子どもをちゃんと育てていくにはどうしたらいいのかということでしょう。家庭教育の問題を抜きにすることはできないと思います。

正平:事件対処も、子育て支援も、システムの問題もさることながら、親に影響力のある人を見つけてきて、その人を介して働きかけるというやり方でないと何も動きません。

大島:ご提案は、ある意味、家庭だけの力では対応できないということですね。現代の育児は、「子育ての社会化」というところに行き着くと思います。先ほどの生活体験学校の例も、親ができないことを社会がカバーしたということだったと思います。総論的には、子育て支援・母親支援のシステムを地域にどう創るかという問題につながって来ると思うのですが・・・。

三浦:その通りだと思います。生活体験学校の事件をお聞きしてますます地域の教育と福祉の事業は一緒にならざるを得ないと思います。森本さんが旧穂波町でなさった「子どもマナビ塾」、私が旧豊津町で企画した「豊津寺子屋」も、地域の人材を活用しました。自分の子どもが世話になっている以上、親は地域の人々と向き合わざるを得ないのです。しかも、保育と教育を同時並行的に提供して子どもを鍛えようとする発想は、いつでも教育と福祉を統合する思想的根拠になり得るのです。だから、「子育ての社会化」というのは「保教育」原理で支援の仕組みを統合しなければならないのです。幼児期からの養育を社会化して保護者が安心して働ける「保教育」の環境を整えれば、皆さんが安心して子どもを産めるようになり「少子化」も防止できます。「女性の社会参画」も進みます。「生産人口の減少」を補うこともできるのです。

永渕:どちらも企業で言えばいわゆるベンチャー事業で、結果は十分成功したのですが、行政の仕組みには反映しなかったですね。森本さんはどうお考えになるか分かりませんが、そういう意味で行政には連携・協力の発想が希薄なだけでなく、「ベンチャー」の思想もないと思います。あれだけ成果を上げているSSFの相談事業を評価しないのも「ベンチャー発想の欠如」の故だと思います。

XI まちづくりのシステムをどう作るか

森本:協働の仕組みの作り方に工夫が必要な
  のかなと思います。
最近、飯塚市の高田小学校はコミュニティ・スクールの委託を受けているのですが、地域の自治会長がコミュニティ・スクールの運営協議会のメンバーに入って下さったそうです。自治会長が常に学校に来てくださり、「俺たちは学校のために何したらいいのか」と言ってくれるそうです。
自治会長自身が支援を申し出ているということは、それだけでもうこれまでとは違う仕組みですよね。
「未来の学校」を発想していく上で学校を地域の中心に置く事は極めて大事だと思います。今、コミュニティ・スクールは全国で629校と言われています。福岡県春日市の発表では地域と組めば学校の先生は結果的に楽になると言っています。最初1~2年は担当係が忙しいが、その後ものすごく楽になるそうです。

三浦:高田小はコミュニティスクール・プロジェクトを受けることで、「まちづくり」を意識しているでしょうか。

森本:「まちづくり」をめざしたからかどうかはわかりませんが、高田小学校が中心になって地域づくりが進んでいることは間違いないと思います。

大島:学校が地域づくりの中心になり得るとしても、地域の課題に応えるためにはますます社会教育との連携が重要になるということではないでしょうか。

森本:私の言いたいことはまさしくそういうことです。高田地区というのはもともと協力的な地域です。しかし、「学社連携」が大事であると言ったとしても、学校が動かなければ地域も動けないわけです。だから学校が地域づくりのキーパーソンになるということなのです。社会教育は果たしてそのことを意識しているでしょうか。

大島:「学校支援地域本部」事業が典型ですが、地域の人が学校のために一生懸命やるという仕組みは各地にできつつありますが、逆に、学校が地域のために何かできるようになるのでしょうか。地域の人が学校のために動けば、先生方が楽になり、それが地域づくりにつながるだろうということは総論として分かりますが、今まで議論になってきたような具体的な子どもの課題、地域課題に組織的に取り組めるようになるでしょうか。

森本:学校が仕掛けて地域が学校のために動いてくれることはできると思います。しかし、学校が地域のために動くというのは難しいですね。難しいけれども、裏を返せば、それこそが「未来の学校」の課題だと言えないでしょうか。社会教育との連携を実現して、地域課題に取り組む仕組みを作らなければならないということです。今のところ学校の方は全く意識していないでしょう。地域の人もそこまでは期待していないかも知れません。しかし、民間の力を活用する「新しい公共」という発想も、地方では学校が中心になる仕組みが有効なのです。学校経営はもとより「学社連携」の方向を考え直す時期に来ているのです。現在、学校の動きとは、管理職が会議に出席する程度でまだまだ具体的連携は難しい状況です。

永渕:経済同友会から出された「合校」(*1)の発想が有効になるのではないでしょうか。益田さんが指摘したように学校の役割を学力育成に特化してそれ以外の教育課題は社会教育とか地域で対処していくという考え方だと思います。コミュニティ・スクールの発想とも多くの点で重なっているのではないでしょうか。
「学社連携」の戦略は「合校」構想に集約されると思います。社会教育の出番も福祉行政との連携も「合校委員会」(仮)で提案できるのではないですか。それができればSSFみたいな民間の組織とも新しい提携ができるようになると思うのですが・・・。

(*)「合校」については、記念誌森本論文の(*1)を参照

益田:いつかそういう未来が来るかも知れませんが、現状で一気にできる事ではないですね。

正平:学校が地域にできることの第1は、三浦さんがいつも言われるように、あの広大な敷地と広大な校舎、たくさんの教室など学校の物理的教育資源をいかに地域に使ってもらうか、ということですよ。地域との良好な関係はそこから始まると思います。
神戸市の学校公園構想が日本で初めて本格的な学校の地域開放を行った事例だと思いますが、その小学校を見せて頂きました。また、京都駅の近くの陶化(とうか)小学校では小学校の教室を校区の社会福祉協議会の会議に使っていました。学校資源の地域開放こそが学校が地域のためにあるということの証明になるのですよ。

三浦:学校は「ハード」の教育資源を占有していますから、その開放は間違いなく学校の地域貢献の第1歩ですね。飯塚市の「子どもマナビ塾」や「高齢者マナビ塾」は、ハードの資源に加えて教育機能も開放したわけですからさらにすごいことだと注目しています。

森本:学校が地域を変えることができるか否かは、成果次第ですね。三浦さんが前に関わられた壱岐の霞翠小学校の場合も、学校の努力の成果が出て、子どもたちの変化に触発された地域や保護者が動くんですね。

永渕:それは頑張らない学校は地域を変えら
  れない、と言っていいのでしょうか。

森本:一般論で言えばそうなります。学校が子どもを変えない限り地域は動きません。どんなことでもいいのです。学力でも体力でも地域の皆さんに見えるものを変えていくことを管理職が仕掛けて結果を出せば、風が吹くのです。そうすれば学校に何かあったときに地域が味方になってくれるのです。自治会長も「誰が言いよるとな」、「何があるとな」と言ってくれるのです。そういう風が吹き出したら、誰も何も言えないですよ。その時初めて学校は子どもを中心とした地域づくりに絡んでいくことができるのです。

三浦:学校が鍵になるのに、学校はもとより社会教育も必ずしも意識していないというところが難しいところですね。

永渕:ますます教育行政のリーダーシップが重要になるということでしょうか。

三浦:その通りだと思います。

大島:高田小学校地区も、壱岐の旧勝本町も昔ながらの雰囲気と制度がまだ残っているところですよね。都市化が進んですでに共同体が崩壊しているところはどうすればいいのでしょうか。「未来の学校」の条件も異なると思いますが・・。

三浦:そういう地域こそNPOやボランティアと組んで永渕さんが指摘した「合校」構想が有効になるのではないでしょうか。それは現在の自治会や町内会制度に乗っかることとは全く違うことだと思います。
新しい協力集団を発掘するということは一校長の判断でできることではありません。教育長や首長からの提案や指示が決定的に重要になります。「未来の学校」の「進化論」でいえば、高田小学校の事例は「共同体時代」の学校づくりで、学校の中に「子どもマナビ塾」や「熟年者マナビ塾」を同居させたまちづくりは「共同体衰退後」の方法だと思います。両者を同列に論じることはできないのではないでしょうか。

森本:認めたくないのですが、地域が崩壊している、あるいは崩壊しつつある現実は確かですね。
子ども会を始め地域組織が機能しなくなっている以上、全体としてはやはり市民の有志を集めて、新しい組織を作ってやっていく形になるのだと思います。その時、学校を核とした「学社連携」が最も有効であると考えるようになったのです。

大島:学校も行政も地域共同体が衰退傾向にあることが分かっていても、学校も社会教育も既存の組織や仕組みに依存して何とか効果を上げようとしているということだと思います。高田小学校はたまたま共同体型の条件が残っていたということで、同じ手法は他の地区には使えないですね。学校と地域の関係を新しく作り出すために意図的に何か仕掛けるということとは全然違いますね。

正平:モデル事業を論じるにしても、「未来の必要」を提起するにしても、どこにでも当てはまるような理論としくみを発想しないとだめですね。

XII 「子どもの縁」を活用したまちづくり

森本:小学校をベースにして学校を地域に関わらせ、そこから新しいコミュニティの関係を作っていくことが絶対重要だと思っています。「子どもの縁」は強いですよ。子どもたちをベースにして学校と地域が協力して新しい組織づくりを行うことが大事です。小学校の後はそれぞれの進路も考え方も多様化してしまうので、地域と学校が一緒にというのは難しくなるのです。

大島:有志が集まるというのは、何か共通のテーマがあって集まるのですよね。より多くの人が意義を感じて力を結集できるのが「子どものために」というテーマでしょうか・・・。

森本:そういうことです。受益者負担でも旧穂波町の「子どもマナビ塾」が成立し、学校が施設を開放し、子どもの安全に一役買うとまで宣言したのは、目標が「子どものため」だったからだと思います。

三浦:「豊津寺子屋」も同じ背景があったと思います。「子宝の風土」にとって、「子どものため」というスローガンは誰にも異議を唱えさせない文化的価値に支えられているのだと思います。学校はなぜその価値や感情を逆手に取って地域に出ないのでしょうね。

森本:子どもをベースにして新しい組織を作っていく視点は非常に重要だと思います。だから高齢者の活動・活躍の出番を用意するための事業でも、やり方の原点は「高齢者のため」ではなく、「子どものため」ですよ。「子どものため」を看板にして、地域の中に子ども支援・子育て支援の機会をどれだけ作れるかが勝負です。子どもと地域を結ぶにも、子どもと高齢者をつなぐにも学校ははずせないと言いたいのです。

大島:子どもたちのためだったらということで人々が立ち上がる。

森本:子どもの出番があるような祭りは人が集まるのです。

三浦:「子どものため」を掲げて、「学校がやるんだったら」皆さんが賛成します。長い伝統の中でこの国の学校には求心力があるのですよ。

大島:学校はなぜそのことが十分に分かっていないのでしょうか。学校がやるんだったら・・・という人々の期待が・・・。

森本:そこに問題があるのです。教師がやるかどうかは別として、学校の看板を使えば、全員に参加させることができるのです。学校が噛んで、子どもがそれぞれの出番と役割のある活動をシステム化できれば、周りも、親も寄って来ます。もはや共同体が衰退した現在、地域の子ども会では難しいのです。

大島:学校は地域と協働して「子どもの出番」のあるシステムを作りなさいというご指摘ですね。

三浦:発想はその通りだと思います。しかし、学校の閉鎖的な現状を考え、学校に社会教育と組んで、地域との積極的な関わりを持ちなさいと中央教育行政が言ったことはないでしょう。それゆえ、ほとんどの学校は今まで通りでいいと思っているのですよ。中央行政に「学校の地域貢献」や「学社連携」の発想が欠如しているかぎり、森本教育長をもってしても学校の地域貢献を推進することは難しかったということです。

大島:そうなるとどこから手をつけたらいいのでしょうか?もちろん、皆さんの診断の通り、現状の子ども会は衰退の一途をたどると思います。子ども支援の活動には発達支援や鍛錬の思想が欠如しているだけでなく、子育て支援の発想も欠落しています。親の助けにはならず、子どもの変化も見られないでしょう。子ども会に限らず、子育て支援の発想を持たない「子ども支援事業」は、現在の保護者が当面している教育の必要から隔絶していると思います。子どもの必要と親のニーズに応えるのは何なのでしょうか。

三浦:学校や保育所以外で、親が一番必要不可欠としているのは学童保育です。だから、森本提案のように学校が動かないとすれば、政治が決断して行政のタテ割りを排し、学童保育の中に教育プログラムを入れることが第1歩です。それができれば、高齢者はもちろん地域の人たちの出番ができる。それが「放課後子ども教室」の発想だったはずです。しかし、学校が正式に噛んだ旧穂波町の「子どもマナビ塾」でさえ、放課後の教育と学童保育を統一できませんでした。
大会発表事例の中でかろうじてそれができたのは山口市阿知須の「井関元気塾」だけです。この30年で一例しかないのです。

大島:政治家は子育て支援や保育の充実が大事だと言いながら、現実の施策に視点が及んでいないですよね。実は、学童保育や保育の充実が優先的な社会的ニーズだと思ってない人がたくさんいます。男女共同参画が話題になると「女が家にいないと子どもはきちんと育たない」と言われる方が必ずいます。だからこれ以上保育を充実させたらますます「家にいる女性」が減るので困る、というのですね。思想の壁が施策の壁になっています。
幼保一元化の話が出ていますがどうな
  るでしょうか。

三浦:幼保だけが一元化しても学童保育に教育発想は入らないでしょうね。しかし、まずは幼保一元化ができれば「保育」の活動と「教育」の活動を融合できるのです。

大島:山口市の井関小学校の学童保育があれだけ子どもたちを変えて、校長先生もその成果を認めていながら、看板が「学童保育」なので子どもの全員が対象とはならない。他の学童保育にも広がらない。放課後子ども教室は実行できていない・・・。

関 :行政のあり方を変えないで、保育のシステムだけを改善するには限界があるのです。国や県の考え方を変えないと「保教育」というのは無理だと思います。

大島:「豊津寺子屋」は学童保育をも取り込んでいますね。

三浦:1~6年まで希望者全員を対象とし、補助金をもらっていないので制度上は学童保育ではありません。しかし、実質的な「学童保教育」ですよ。

関 :行政的には保教育の思想で再編成・統合ができれば行政経費も安くなるのです。私も依頼を受けて、知っている限りの情報を提供しました。しかし、トップもトップに近い人々も最後は下手に学童保育はいじりたくないと判断するのです。

三浦:看板は学童保育でいいんですよ。教育発想を入れて、高齢者の協力が得られるようにやり方さえ変えれば高齢者の居場所も、社会貢献も実現するのです。だから仕組みを柔軟に運用できればある程度の対応はできるのです。

大島:他の子どものことを考えても、全児童対象がいいですね。高齢者を活かしていく舞台にも成り得ます。
最近では学習の成果を社会に還元するということが課題になりました。「知の循環型社会」とか言っていますが、知の学びっ放しの状況で超高齢社会を乗り切ることはできないのではないでしょうか。

鴻上:その「学びっ放しの学習」ですら低下していますよ。内閣府の生涯学習の調査で「学習希望率」が低下しているのです。「生涯学習」を希望している人は、昭和63年度に50代で75%くらい、20年後の平成20年度には70代の人たちは50%で同世代の希望率が25ポイントも低下しています。「知の循環」の意気も上がらないのではないでしょうか。

大島:生涯学習の鮮度が落ちたと考えないといけないのでしょうか。ひょっとするとすでに自分で趣味の活動とかされている人が増えて、行政等が行なう既存の講座・教室には参加したいとは思わないのかも知れませんね。

XIII 社会参画の動機づけの不可欠性-「評価」と「予算化」

永渕:モチベーションというか学習の動機づけを強化する施策が必要ではないでしょうか。高齢者にとっても「褒美」のようなものが必要だと思います。運動して医療費の削減に貢献した人には何かメリットがあるような仕組みが必要だと思います。学習の成果を生かしてボランティアをしたり、年をとっても労働に関わったりしている人は「扶養される側」でなくなります。徳島の「葉っぱビジネス」で「やり甲斐」や「活力」を取り戻している高齢者を見れば、高齢者を社会的に評価・承認するプログラムは重要だと思います。

三浦:まさにその通りだと思います。その意味でボランティアに対する「費用弁償」は「弁償」にとどまらない、「貢献」に対する社会の感謝と承認の意味を持つのだと思います。

永渕:そういうことは教育行政が発想する生涯教育の中だけではやれないのではないでしょうか。従来の教育発想の範囲内で、地域全体に貢献できるプログラムは発想できるでしょうか。

森本:学校と社会教育が組めればいろいろできますよ。学習の部門と学習成果の還元部門とに分けて考えれば一気に広がります。
どのような形でも市民の地域貢献活動には、「褒美」とか「費用弁償」は大事だと思います。「奉仕」の伝統の中で、高齢者にも本音と建て前の問題があります。高齢者の人たちは「お金はもういらない」と言うけれど、お金を出すと「いや」とは言いません。ボランティア奉仕論の美辞麗句に縛られているのです。

三浦:職員一人分の給料が5百万円として、1回の費用弁償を5百円とすれば延べ1万人、千円とすれば5千人の地域ボランティアの費用弁償が可能になりますよ。

大島:ボランティアの費用弁償問題は行政の中で議論されているのでしょうか?

森本:意識は極めて希薄だと思います。

正平:生活体験学校を作って10年ぐらいの間、お金を受け取らないボランティアの方々のお金をすべて預かり、通帳管理し、子どもの食事などで特別なことを行うための費用として活用した時代があります。子どもから徴収したお金を補てんしたり、ボランティアの忘年会等を行う時の費用の一部にも利用しました。「費用弁償」を全くしない時には、お金が欲しいと思っている人は来なくなってしまう。

鴻上:SSFのように実績を上げているNPOやCSOの成果に対する評価を行政がしっかりやるべきだという指摘がありましたが、政治や行政が民間の実績をきちんと評価して、彼らの活動を支援するプログラムを予算化できれば、市民県民の見方がずいぶん変わってくると思われます。学習成果の社会還元についても事情は同じだと思います。評価と予算化をしないで「知の循環型社会」をめざすというのは無理ではないでしょうか。

大島:「知を循環させる」という提案をした行政こそ市民を代表する目をもって公金使用の社会的承認や評価を表に出すべきだと思いますね。

関 :NPOが育たないのも、そこから提案された優れた事業が社会的に広がって行かないのも、評価と予算化の視点が欠如しているからだと思います。

大島:評価システムができれば、官民を問わず、淘汰によって、残る事業と残らない事業が出て来るということですね。

関 :そういう認識は残念ですがないですね。

森本:行政はうまく行かない場合を想定するとなかなか一歩を踏み出すことができないのです。少なくとも今まで通りなら、効率は上がらなくても失敗はないということです。

大島:頑張っている所をどう支援するのか、どう育てるかということと成果をどういうふうに見てやるか、それらをどううまく活用するかということに関する「評価委員会」はできないものですかね。

森本:近年、政府が言い出した「新しい公共」という考え方は行政が担当しているさまざまな公的業務をNPOとか企業に「アウトソーシング」していくことだと思います。NPO等を作っておくことは必ず生きますよ。NPOなら行政と対等に話をすることができます。

正平:行政のスリム化で「アウトソーシング」は進むと思いますが、いろいろな委託事業をどのような仕組みでどういう観点で評価するか、これからはますます重要な問題になりますね。
 若い人々の活躍を「うさんくさい」と切って捨てるような、理由も、評価主体も分からない恣意的な評価が支配するようだったら何にもならないですよ。

三浦:鍵は「情報公開」だと思います。正平さんのご提案を受ければ「評価・情報公開委員会」を作ることだと思います。委託事業は契約内容を公開すべきだと思います。教育分野で言えば、カウンセリングでも、学校開放事業でも、学童保育に教育プログラムを入れた場合でも、最初に事業の目的があって、その目標を実現するために何をどう教えるか・育てるか、を公開して市民の評価を受けることが重要だと思います。

大島:学校は情報公開の結果反応にかなり敏感ですね。

森本:学校が現状を1つ1つ公表し始めたら学校は間違いなく変わります。

三浦:益田論文が言及している飯塚市の研究会で「教育マニフェスト」を出すという意見が出ました。教育マニフェストはまさに社会との契約、宣言文の情報公開です。時間を追ってその中身を審査していけば学校に限らず、生涯教育事業は必ず進化すると思います。

大島:社会的条件が変われば、対応する社会的事業も変わるべきですから、評価のシステムを通して入れ換えて行くということですね。

関 :そこですね。行政は何のために「市民協働」を打ち出したのか、「何ができて」、「何ができていない」のか。評価抜きで数だけそろえようとするので、結果が残っていないのです。

黒田:委託者は行政ですよね。ところが委託して、従来の担当者が現場実践から離れると「委託の意味」も「委託の中身」もわからなくなるというジレンマがあるのではないでしょうか。たとえば、図書館の指定管理が進んでいますが、一方では、図書館のことを肌でわかる行政職員が激減していく、だから数字でしか評価ができなくなるという危険性をはらんでいるのではないでしょうか。

三浦:そういう時は「相撲協会」の不祥事処理と同じように、外部評価委員会を作ればいいのではないですか。なぜ行政は分からないままに、自分たちだけでやろうとするのでしょうか。外部にはそれぞれの分野で評価をできる人がいます。もちろん、その方々を永続的に使ってはいけないと思いますが、特別委員会として、この問題はこの委員だけ、あの問題はあの委員だけとし、その仕切りは公務員がして、評価は情報公開するという仕組みが大事だと思います。

森本:外部の人を入れて審査して、指定管理者でやっていこうとするときに、うまく行かなかったり、つぶれたりしたらどうするのかという話になります。反対するためにいろんな意見が出ます。外部評価を受け入れないことも起こります。その時は「次にまた、評価をして変えればいいじゃないか」とは行政の担当者として非常に言いにくい。今となって考えれば、ご指摘の通りだと思いますが、その時は、「先が見えない行政」なのかと批判されることに対する自己擁護の気持ちがあった気がします。

三浦:事業の改廃については、行政部門の責任者が言っているのではなく、外部委員の見解と評価ですから、十分言えることだと思います。相撲協会は外部委員の提言を聞くことで立ち直ると思います。しかし、外部委員を無視すればつぶれると思います。

大島:評価の中に第三者の視点を入れていくことですね。

三浦:スポーツにならうということです。プレーヤーと審判は分けるべきなのです。

森本:システムのポイントは「予算」です。外部審査を受けて、学校に予算を付けることができ、地域の高齢者を活用することを条件にすれば状況は一変しますよ。

赤田:学校は予算をもらえばすぐにでもできます。現在、学習支援ボランティアで地域の高齢者の活用を行っています。私の小学校は6学年1クラスずつで、1学期モデルケースとして3学年に導入してみました。2学期以降他の学年でも算数と国語の授業に入って頂いています。今のところ無償のボランティアで行ってもらっています。
弓削:結果はいかがですか?

赤田:大成功ですね。
1学期から登録していただいているので、夏休みにボランティア高齢者と教職員の意見交流を行い、2学期以降どのようなプログラムを作っていくのかということで打合会を行いました。
授業は明らかに充実しました。こんな形でいいのであれば「学社連携」は十分可能です。お金さえあればもっと人集めができて、高齢者の活躍のステージを作れます。

大島:先ほどからでている「褒美」の問題はいかがでしょうか。

赤田:お金は大事です。「学社連携」の予算があったらもっともっとやれますよ。

弓削:赤田校長先生の姿勢が大事だと感じました。自分が中学校にいた時は、学校と地域のつながりが見えませんでした。地域から要求されれば、学校が全力で対応しなければならないという感じでした。部活動でも生徒指導でも学校は手一杯で、限界でした。学校をもう少し地域に開放して、地域と一緒にやって行く取り組みが必要だったのではないかと今になって思います。

赤田:今の小学校のカリキュラムの決まりでは、4時には子どもを帰さないといけません。昔のように放課後に遅れた子を居残りさせて個別に勉強を教えるということが不可能になっています。人数の少ない学校でもやはり学力差は歴然とあります。だから、学習支援ボランティアにちょっと背中を押してもらうだけで子どもは変わるのです。学力は山口市の中心部と比較しても遜色ないまでに上がりました。
学校で地域の人と関わるので、「豊津寺子屋」の子どものように、地域に出かけたときにあいさつができるようになってきました。学校と地域の一体的経営-学社連携は今後ますます重要になっていくと思います。

大島:結びの結論が出ました。ご協力ありがとうございました。

お詫び
第110回生涯教育移動フォーラムin山口は会場、日時、宿泊所全て変更になりました。

変更後は以下の通りです
研修会場:
6月11日(土) 1:30 ~山口市湯田温泉5-1-1
カリエンテ山口(山口県婦人教育文化会館) 
(TEL:083-922-2792)
6月12日(日)  9:00 ~山口市天花1-2-7
山口菜香亭(TEL:083-934-3312)

宿泊場所:山口市湯田温泉 セントコア山口
(TEL:083-922-0811 FAX:083-922-8735)

山口県外からご参加のお客さまには変更により誠にご迷惑をおかけいたしますが、必ず事前に事務局の赤田博夫校長先生(山口市立鋳銭司小学校)(090-9065-6220)へご一報ください。

§MESSAGE TO AND FROM§ 

 お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。
 
 埼玉県越谷市 小河原政子 さま

 学生時代の寮生活はベッドとベッドがくっつきそうな5人部屋でした。もの入れはベッドの下の収納スペースだけでした。寄り添って生きる以外生きようのない術を学んだ時代でした。今は逆に離れて生きることを学んでいます。
 年寄りのなすべきことは「断、捨、離」であるべしという先輩の口癖に共感し、以来年賀状を止め、あらゆる同窓会、冠婚葬祭の出席を止め、家財を捨てに捨てています。井上陽水の歌の通り、「友だちが出来た時も余り深い仲にならぬよう」心がけています。
 今、自分史に関する著書をまとめているのですが、自分史は納得できない人生を何とか納得しようとする人間のやるせないあがきのように思えて来ました。「自分死」という言葉も見つけました。男性の平均寿命から想定して最後の10年の戦いに入りました。

佐賀県多久市 林口 彰 様、田島恭子 様

 ご厚情に感謝申し上げます。長いご無沙汰の時間が流れました。お元気にご活躍のご様子何よりとご挨拶状を拝見いたしました。その後、「孔子の里ジュニアガイド」事業はどのように発展したでしょうか?学習の成果を世に問い、本人に問うことこそ教育の課題であることを証明してくれた事業でした。われわれは生涯学習の看板の下で「学ぶべき学習」と「学びたい学習」の相克の自己矛盾を感じながら「教育活動」をして来たのでした。
 果たして今後、日本の教育は生涯学習から生涯教育へ舵を切れるでしょうか?支えていただいた大会の30周年記念出版を通して、社会が必要とする教育こそが社会教育の基本課題であるという原点にようやく自分の論理を戻すことができたような気がしています。

島根県益田市 大畑伸幸 様

 ご栄転おめでとうございます。いよいよ小なりと言えども頂点にお立ちになりました。
綺羅星セブンの時代に宣言していたことを実現するチャンスですね。ただし、この世の中、作用には必ず反作用が伴いますので重々ご用心下さい。かと言って、余りご用心に過ぎますとふと気がついた時には、すでに爺さんになっていて、実践の意欲も気力も実力すらも消え失せますのでくれぐれもご用心下さい。そうした例を沢山見て来ました。あなたの場合、大車輪のできるうちが実行の時です。楽しみです。

東京都 瀬沼克彰 様

 「高齢者の生き甲斐就労の機会創出に関する調査研究事業」の報告書をありがとうございました。NPO「幼老共生」の皆さんにもご披露いたします。ますますのご活躍をお祈りし、九州も負けないように頑張って参ります。

編集後記  「時間観」

 若い時代の時間は「足し算」。「もういくつ寝るとお正月」、「6年になったら修学旅行」、「来年は結婚」、「秋には長子誕生」などのように若者はその日を待ち焦がれます。
 中年期を過ぎると「引き算」。年齢に応じて「時間観」が変わると言ったのはアメリカの心理学者ノイガルテンです。
 中年期を過ぎると「子どもたちが巣立つまで2年しかない」、「定年まであと3年」、「今年はもう古希」というように時間に追われ、時間を惜しみ、人生に残された時間を数え始めます。「今年の実行」を来年にしようか、と逡巡する先輩に「あなたに来年はありません」と申し上げたのも「時間観」は刻々と変わるからです。体調が思わしくなくなれば「今年の実行」も「来年の実行」もなくなるでしょう。高齢者の行動には今日か明日しかないのです。高名な「千曲川旅情の歌」で藤村は、「昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ、この命なにをあくせく明日をのみ思い煩らう」と歌いましたが、若菜集は藤村22歳の時の出版です。彼には疑いなく「明日」や「来年」が実在したのです。幸か不幸か、古希に達した筆者に「悠々自適」はありません。井上陽水が「今日を駆け回るも、立ち尽くすも、蒼い空の下」と歌っていますが、私は時間に追われて「駆け回る」しかありません。また、彼は「思うがまま」は「暮らすこと」、「思いのほか」は「生きること」と歌っています。「悠々自適」は「思うがまま」、「思うがまま」は「暮らすだけ」です。なんとか私は「暮らし」を越えて「思いのほか」に生きたいのです。

あなたに見せたい風景2

ゴールデンウイーク

一面のすみれ
可愛く賑やかで
川のみぎわを埋めた菜の花
明るく華やいで
もう白いぼんぼりに変わったたんぽぽ
寂しそうです
薄くれないの八重桜が風に舞います
軽々と泳ぐ鴨の群れ
何を話しているのでしょう
水の中でつくねんと山を見る白鷺
意志の固いひとりぼっちですね
白い列車が風になって消えて行きます
みなさんお出かけです
田んぼの畦は草刈りで忙しく
ひばりが音頭をとっています
春ですね
切ないですね