発行日:平成23年4月
発行者 三浦清一郎
「体力」とは何か、「体調不良」とは何か
-分析の細分化と診断のタコつぼ化-
お知らせに載せたように来る5月7日(土)からNPO法人「幼老共生まちづくり支援協会(以下「幼老共生」と略す)」がいよいよ子どもの体力向上の試みに着手します。筆者は子どもの体力にも、高齢者の体力にも大いに興味があります。それゆえ、この事業の展開を注意深く見守っています。
しかし、問題は、専門家の間でも「体力」や「体調」の概念が全くはっきりしないのです。
1 「体力」とは何か
体力は「攻める体力」と「守る体力」に二分されるという点では大方の研究者の見解が一致しています。「攻める体力」とは別名「行動体力」と呼ばれ、「守る体力」は「防衛体力」と呼ばれます。ここから先が混乱するのですが、「行動体力」は更に二分されます。第1分野は、タイミング、バランス、柔軟性など身体行動の調整を司る「サイバネティックス系」の体力と言います。第2分野は、筋力、スピード、パワー、持久力などを司る「エネルギー系」の体力と言います(*1)
更に厄介なのは人間行動が必要とするエネルギーの「量」によって「行動体力」を3段階に分類します。初めの2段階分類は「働きのちがい」による分類ですが、次の3段階分類は、「運動量のちがい」あるいは「エネルギーの消費速度のちがい」による分類です。「行動体力」の3段階分類とは以下の3つです。
(1)「非乳酸性能力」(ハイパワー)
(2)「乳酸性能力」(ミドルパワー)
(3)「有酸素性能力」(ローパワー)
他方、「守る体力」=「防衛体力」の方は「働きのちがい」によって3種類に分けられます。
第1は、細菌等の侵入に備える「免疫」
第2は、温度の変化に対応する「恒常性」維持機能
第3は機械的な衝撃に耐える「強靱性」
です。(*2)
当然、幼児期・少年期は体力育成の準備過程であり、熟年期は衰える体力の維持・存続過程ですから、多量のエネルギーを一時に必要とする激しい運動は危険だということになります。もう一つ重要なことは、人間の身体的発達は「神経系」の発達が先行し、筋肉や関節のようないわゆる身体部分はあとになるということです。
専門書は何も言っていないのですが、子どもの場合、「神経系」の仕組みが身体部分より先に出来るということは、恐らく高齢者の場合には、身体より先に「神経系」の衰えが始まるのではないかと推定しています。
筆者も古希を過ぎましたから神経系の衰退状況を自覚させられています。日々バランスを失ったり、物を落したり、目測を誤ったりすることが頻発するようになり、それは神経系の衰えが原因ではないかと想像しています。思ったように身体が動かないという「ロコモーションシンドローム」も恐らくは衰えが始まった神経系に身体の筋肉や関節が力やスピードの調整が出来ない事が原因だろうと推定できます。
上記の分類用語を使って言い変えると運動の調整を司る「サイバネティックス系体力」の方が、発達も衰退も先で、筋力やスピードを司る「エネルギ-系の体力」はあとになるということです。幼児期も熟年期も「サイバネティックス系」の調整能力の向上・保存がより重要な意味を持つということになります。特に、幼児期は神経系が司る調整力が発達する時期ですから、タイミング、バランス、柔軟性などの基になる能力を構成する「走る」、「跳ぶ」、「投げる」などの基本技能を遊びの中で体得することが重要になります。高齢者は逆に「走る」、「跳ぶ」、「投げる」などの基本技能を失わないよう日常繰り返して練習を続けておくことが大切になります。
子どもの外遊びや手先の器用さが子どもの能力の向上に密接にかかわっているのは、神経系の発達が知識や技能の向上に直結しているからだと推定できます。
現代の子どもが、豊かさと利便性を背景にして、「歩かない」、「働かない」、「遊ばない」というように肉体的に「楽」をしているのは神経系の発達を大いに妨げ、遅らせていると考えて間違いないでしょう。現代の教育は子どもの日常に「集団の外遊びのカリキュラム」を組み込んで補完すべきなのですが、学校も教育行政も未だに子どもを取り巻く環境の激変に対処すべき教育処方の発想には到達していません。特に、学習指導要領と狭い学力観に囚われた多くの学校は子どもの体力向上カリキュラムの重要性に無自覚です。今回のNPO「幼老共生」の「e-マナビリンピック」事業が注目さるべき所以です。但し、上記NPOも単に体力を測定・診断するに留めず、「外遊びをした子ども」や「意識的・目的的に体力錬成に取組んだ子ども」と「そうでない子ども」の比較を行ない、両者の体力差の発生原因にまで迫ることができると問題の所在は更に明確になるだろうと思います。
(*1)谷本満枝、体力、運動能力、技能とは、高木・荒木編著,幼児期の運動遊び、不昧堂出版、1999,p.56
(*2)田畑泉、中高年者の体力・体組成の特性、田島・武藤・佐野編 中高年のスポーツ医学、南江堂、1997,p.11
2 「体調」とは何か
保健室登校の子どもは相変わらず「体調」が悪いと言って授業から逃避します。一体「体調」が悪いとはどのような症状を言うのでしょうか。
「体調」はふつう4つの視点から分析されます。健康の視点と言い換えてもいいのかも知れません。過日、自分自身の体調不良で、本論に当てはまる状況に遭遇したので改めて整理してみました。
筆者の日常は起き抜けの原稿執筆、次に軽い朝食、そして散歩と続きます。毎朝の散歩は2匹の犬を連れて3キロほど川べりや公園の森を歩きます。帰ったら軽いテンポの音楽に乗って「タコ踊り」のような自作自演の体操をします。以前はまじめにラジオ体操をしていたのですが、物足りないのと面白くないので「音楽付きタコおどり体操」に変えました。運動量がちがい、工夫の余地があり、踊ることの面白みが加わるので大いに気に入っています。犬たちまでだっこして踊ってくれとせがむようになりました。
ところが先日散歩から戻った時に、玄関で立ちくらみがしました。用心して横になり、朝の2度寝をしました。立ちくらみは収まったものの、終日、仕事はほとんど出来ませんでした。さしたる明確な理由もないのに、身体が重く、気持ちに前向きな姿勢を失い、投げやりになり、不安や寂寥感に苦しみました。
こういう状況に陥った時の筆者の治療法は「じたばた」動くことです。とにかく、何でもいいから目の前の掃除・洗濯、料理、散歩、事務手続き、友人への便りなど手当り次第に働くことです。「動けば」「何かが変わる」と信じてこれまでは大体うまくいっていました。
ところが今回は何をやっても気分は晴れません。思い切って映画館にでも出かけてみれば結果は違ったかも知れませんが、そこまでの気力と積極性もありませんでした。症状はやや「重傷」でした。ついていないことに、退職者の悲哀で、その日は終日、一本の電話もなく、手紙もなく、メールさえありませんでした。いわゆる「無用人」の孤独に襲われたということです。悪いことに体調不良と世間から見捨てられたような孤立感が重なる憂鬱な日になったのです。
専門書によると「体調不良」の症状には通常4種類あります。
i 「自律神経異常の症状」
第1は、「自律神経異常の症状」と呼ばれます。「手のひらの汗」、「動悸」、頭痛」、「吐き気」、「耳鳴り」、「立ちくらみ」、「頻尿」などの症状が現れます。散歩から戻った時の「立ちくらみ」は第1症状に近かったのでしょう。
Ii 「生体リズム異常の症状」
第2は、「生体リズム異常の症状」です。「寝付きが悪い」、「途中で何回も目が覚める」、「一日中続く眠気」などが症状です。この時の筆者の状況は、前の晩に「途中で何回も目が覚め」ました。手洗いに行ったあとの「寝付きもよくありません」でした。「立ちくらみ」だけでなく生体リズム異常の症状もあったということです。
Iii 「脳機能低下障害」
第3は、「脳機能低下障害」です。この場合の症状は「集中力の低下」、「イライラ」、「意欲の低下」、「健忘」などです。
筆者は昼寝のあと、いつものようにリチャード・クレーダーマンのピアノに合わせてタコ踊りの体操で汗をかき、自らを叱咤して辛うじて机に向ったのですが、「集中力が低く」、書いたり、調べたりする「意欲が湧いて来ません」でした。「書けるテーマ」から始めよう、とかすでに書いたものを推敲しておこうなどと工夫はしたのですが、全く進みませんでした。
iv「エネルギー生産性低下」
第4は、「エネルギー生産性低下」と呼ばれている現象です。こちらの症状は「持久力の低下」、「強い疲労感」などが特徴です。勉強や読書が辛くて「じたばたして」他の代替的活動に逃げようなどという発想そのものが「意欲が乏しい」ことの証拠になるでしょうが、その日は掃除、洗濯、草取りなどの家事に手をつけることもしませんでした。要するに、当日の自分は4つの体調不良の視点すべてに当てはまって機能しなかったということなのです。何もしたくないので、ソファーにひっくり返って犬たちを抱いてTV映画を6時間ぐらい見ました。その合間に冷蔵庫の残り物をかき集めて茶漬けで飯を済ませました。
TVの見過ぎで疲れ果てていざ寝ようとした時の気分は徒労感・罪悪感・無力感に加えて寂寥や孤独や焦燥感が入り混じって最悪でした。
3 部分分析の危険性
翌日、起床時の気分も相変わらず不調でした。そこで先輩のメル友に終日、メールのやり取りをしていただくよう特別にお願いしました。交信は、当方から思いつくままに愚痴や怒りや感想を書き送り、返事を下さいとお願いするのです。その都度、先輩は「きちんと飯を食え」、とか、「TVや草取りは時間の浪費ではなく、気分転換と休養だと思え」、とか、「人間は思い通りにはなりません」とか、「焦ったところで書けないものは書けない」とか、「愚痴が面白い」とか、「怒りに同感!」とか、約束通り、当方の通信に「関係のある返事」も「関係のない返事」もいただきました。専門書で調べた上記の体調不良の診断基準はその時のメールの中身として当方がお送りしたものでした。
終日、10回くらいのメール通信を交わしたあと、いつの間にか筆者の4つの体調不良サインすべてが氷塊したかのように治りました。この間もちろん他の方々からのメールもやっと到着し、英語のボランティアに関する電話もいただき、講演の依頼も来ました。「無用人」は「有用人」に変身して一気に憂鬱が吹っ飛びました。「今泣いたカラスがもう笑った」ように、気分爽快で前日の状況が嘘のようです。
そこで問題が発生します。
仮に、筆者が上記の専門的知識に惑わされて病院などに出かけていたら、立ちくらみに関する検査、不眠症の検査、意欲・やる気の消滅に関する鬱や燃え尽き症候群の検査などが行なわれるのではないでしょうか?しかし、立ち直ったのはメル友との交信のお蔭であることは間違いないのです。「体調不良」と言っても「仕事を放り出して気晴らしをすればなおり」、「山歩きや水泳で身体を動かせば」治るものも多いのです。
学問上の研究結果として上記の4つの「体調不良」の判断基準・視点は正しいと思いますが、現実に応用するには誠に難しい問題なのです。人間の症状を分解し、部分分析をしても総合的な存在としての人間に当てはまるとは限らないのです。この一文を書くについては「生体リズム」という新しい概念を習うことになったのですが、これもまた様々な説があるようで到底整理しきれませんでした。下記は参考文献の一例です。
*三池輝久、生体リズムと不登校、学会出版センター、1999年
**甲賀正聡、生体リズムで心と体の健康づくり、芽ばえ社、2001年
***若村智子編著、生体リズムと健康、丸善 、2008年
教育時事評論7「経験則」依存の危険性-「社会的津波」が来ます!
1 「経験則」依存の危険性
先月は突然、未曾有の東北関東大震災が発生し、家にいる間中テレビを点けっぱなしにして刻々の各局の報道を見比べて暮らしました。
過去の経験にこだわれば被害は拡大すると心配しましたが、案の定、気象庁、政府関係者東京電力、テレビ局を始め各地の多くの住民の方々に最悪の判断ミスが起こったと思います。過去の状況を知っていればいるほど、その知識が新しい状況への対処法を制約します。失敗体験も、成功体験も「経験則」には有効性も危険性もともに含まれています。
今になって、想定外の大きさとか、想定外の速さなどと異口同音の感想が出て来ていますが、地震国日本の専門家の油断と言わざるを得ません。
過去に「そうであった」から、今回も「その延長上に起こるであろう」と予測するのが、経験則を基準として判断するということです。経験則を基準とした時の「有効性」は、過去の事象を参考にして予測が可能になるということです。逆に、その「危険性」は新しい「学習」に対する過去の経験の「干渉」が起こることです。経験の「干渉」とは、具体的には、人々が過去に囚われて「昔考えたようにしか考えられず、昔やったようにしかやれない」ということです。換言すれば、昔経験したことが基準となり、したがって、昔考えたことの延長線上でしか考えられず、昔やったことの延長線上でしか対処できないという現象が起こるということです。
テレビに出て来た30代くらいの男性は、「親の世代は津波が起こったとしても、ここは高台だし、ここは明治の大津波の到達点より大分奥だから、大きな地震だとしてもここまで波は来ないであろうと言っていた」と証言していました。この人が語った親の世代の判断こそが「経験則」に頼った「学習の干渉」です。当日全てのテレビ局は過去のどの地震よりもエネルギーの大きい地震であると叫んでいました。しかし、問題はメディアが伝える地震の「大きさ」の理解の仕方・受け取り方にあります。証言者が語っているように、明らかに昔を多少なりとも知っている人々は経験に則って過去の最悪事態を基準としたのでしょう。過去最悪の場合でも、「あの程度だったのだから」、「その時の基準線から距離もあり、高台にあるわが家までは来ないであろう」という思考法が経験則に依拠した思考法です。要するに経験則の危険性は過去の単純な延長線上でしか問題を判断できないということです。過去の津波の経験者や昔のことを聞いて知っていた人は、経験則に囚われて、今回の津波の状況を想定し、被害状況を甘く見たということです。宮古市の田老地区の高さ世界一の10mの防波堤も過去の最悪津波を基準にして設計されたものであるということでした。
筆者がテレビを見ていた限りでは、テレビは繰り返し「高いところへ避難してください」と勧告していました。しかし、災害予防に素人のアナウンサーの勧告は、冷静で、切迫感と説得力に欠けていました。パニックを引き起こさないよう「冷静さを保ちなさい」ということが放送の方針であったかも知れません。アナウンサーの傍らに控えた専門家も、「直ちに!です」、「何も取りに戻ってはいけません!」、「車も家も放棄して直ぐに高台に登りなさい」と「絶叫」してはいませんでした。専門家が「絶叫し」、若い女性アナウンサーが「泣いて懇願していれば」、助かった人が何百人か何千人かは増えたのではないでしょうか!?
今回のような未経験の大惨事において、専門家は、過去の知識や経験は全く役に立たないという経験則に依存した思考法の危険性を強調する事を忘れたと思います。人的被害が拡大したのはテレビやラジオの退避勧告に切迫性、緊急性、説得力が不足したことも一因だったと思います。情報を伝える側の彼らもまた惨状を予想し得なかったため「泣き叫び、絶叫するような退避勧告」は行なわなかったのです。今回の結果を少しでも想定できたならば、冷静に高台に退避せよと繰り返すだけに終る筈はなかったのです。もちろん、メディアの警告にも関わらず、過去の津波被害を知っている住民の多くがテレビやラジオの忠告を言葉通りに受け取らず、過去の惨事を基準として、まさか「ここまでは来ないだろう」とか「未だ来ないだろう」とか、結果的に状況を甘く見たということも犠牲を大きくした要因であったろうと思います。
2 「社会的津波」が来ます!
津波に限らず、全く新しい事態に昔の経験則だけで立ち向かうことは危険であり、困難だということです。
その意味では少子化も国際化も高齢化も社会的条件変化の大津波であると言って間違いはないでしょう。自然災害の津波に対比して、社会的津波の多くは、われわれの生活現場に到達する時間の振幅が大きく、発生から結果が出るまでの時間的距離が長いので実感が薄いかも知れませんが、その「破壊力」はまさしく「時間周期の長い」社会的津波と考えるべきでしょう。
2020年には、昭和20年生まれの方々が75歳に達します。高齢化の衝撃(老衰人口の増加と社会的負担)は「爆発的」になるでしょう。それゆえ、少子化に伴う生産人口の縮小の影響も「爆発的」になります。「高齢化」も「少子化」も早晩社会福祉の防潮堤を破壊する大津波になるということです。
人々が長時間労働の弊害を理解できず、男が男女共同参画を実践できず、政治や行政が養育の社会化の緊急性を理解しなかった時、男たちの無知は社会的津波を引き起こしてやがて甚大な被害をもたらすことになります。また、青少年教育の抜本的な転換を図れなければ、ニートやフリーターや引き蘢りなど青少年の社会的な不適応の解消ができず、個人にも家族にも大きな社会的不幸の波が増幅して押し寄せることになると思います。耐性が低く、労働を厭い、自ら稼ぐことのない彼らはやがて無年金世代に転落し、我が国の福祉システムは崩壊の危機に瀕することでしょう。
筆者は社会的な大津波が来るぞ、と大声で叫んでいるのですが、こちらは「災害」が襲って来る時間的周期が長いため、「切迫感」は伝わらず下手をすれば筆者自身が「狼が来るぞ」と叫び続けた“狼少年”になってしまいそうです。
しかし、少子高齢化も男女共同参画の遅延も青少年教育における鍛錬の欠如も必ず社会的な大津波になって襲って来て、日本社会に大打撃を与えることになります。過去の経験則は役に立たないのです。
とりあえずは、大至急、学校教育における青少年の鍛錬を確立し、社会教育における高齢者の社会参画とボランティア教育を立て直し、保育と教育を統合した働く女性のための「保教育」のシステムを全国に確立しなければならないのです。
それらは「社会的津波」に対する防波堤なのです。
自分史の「承認機能」
自分史は日記と違って必ずどこかで「読者」を想定しています。読者を前提としない歴史は通常存在しないからです。自分史の場合、「読者」は単なる「読み手」ではなく、自分の人生の「承認」に関わる存在になるのです。それが自分史の「承認機能」です。
承認機能には「自己承認」と「他者承認」(「社会的承認」)の2種類があります。人は自分史に様々なものを求めますが、書くことによって自分の人生を納得し、読者の承認よって、その納得と満足を更に一層強固なものにしようとするのです。人は人生の納得を求めて自分史を書くと言っても過言ではないのです。
1 自己承認
自己承認とは自分が納得し、満足することを言います。自己承認の評価者・採点者は自分です。自分が自分の基準に従って自己を評価することです。自己承認とは「自己採点」に合格することです。
自己承認は「自分が理想とする自己像」が採点基準になります。
単純に言えば、今の自分は期待する自分に近いか、今の自分に満足しているか、ということです。自己採点をして見て、「合格・満足」という結果が出れば自己承認しているということです。自尊感情とか自己肯定とも言われます。自分史を書いてみると分りますが、当然、「書きたいこと」しか書きません。このとき「書きたいこと」とは「自分が納得したいこと」と同じ意味です。それゆえ、自分史とは自分の人生を納得するために書くものでもあるのです。それが自分史の自己承認機能です。
余り単純化すると、心理学者に叱られますが、劣等感の強い人や、情緒不安定な人は自己を承認することが難しい場合があります。反対に過大な自己評価をする場合もあります。私の人生は全て失敗だったというような極端な「自信喪失」や、反対に何から何まで自分が頑張ってうまく行ったという「うぬぼれ」がこれに当たります。
また、精神に異常を来して、思い込みが強くなり過ぎたりすると、勝手に「幻想の他者」を造り出して、自分を認めなかったり、逆に、一人合点の自己評価をすることもあると言われています。それは心の病気なのですが、本人は、他者に承認してもらいたいという欲求が高じて、実際には、自己承認の問題であったりするのです。自己承認と他者承認が交錯する錯誤が起こったりするのです。
とにかく自己承認は人間が生きる上で必要不可欠な条件になります。自分の現状に自分自身が納得していないと欲求不満は溜まる一方だからです。他人が認めてくれなくても自分の日々に納得し、自分に自信があれば生きられるからです。
それゆえ、 自分にあまり多くを望まないことは欲求不満に対する自己防衛になります。多くを望めば、失望する可能性もまた多くなります。
日本文化が説く「足るを知る」ことや「謙虚」・「控えめ」を守って多くを望まないことは自分に満足して生きる大事な方法なのです。自尊感情や自己承認なくして安定した健全な精神を保つことは難しいのです。日本文化が、総じて欲望の抑制を強調し、自己表現においても控えめ、遠慮、謙譲などの姿勢を奥床しいと評価したのは、多くを望まなければ少ない不満で済むという原理を知っていたからなのでしょう。自己承認や自己満足の意思表示は日本文化の美的基準に照らして歓迎されるところではなかったので、あまり表立って論じられたことはなかったのです。
それでも長い人生の最期になれば、人は来し方を振り返り、総括し、どこかで自分を承認したいと望むようです。医師が人間は年をとると「饒舌」になると指摘した本を読んだことがあります。「饒舌」とは自己承認の別名と言っていいでしょう。日本人の表現に「建前」と「本音」の甚だしい落差が生まれるのも、日本文化が自己承認をはっきりと表に出すことを禁じているからでしょう。しかし、今や、「自分の時代」が来て、それぞれが自己を主張して自由に生きられる時代になりました。結果的に、「取るに足らない自分」は「かけがいのない自分」に変わりました。自分史が生まれたのはそのためであり、自己承認が難しくなったのもそのためです。「取るに足らぬ自分」であれば、自分史を書く理由も生ぜず、「取るに足らぬ自分」の一生を納得することもさほど難しいことではなかった筈だからです。
自分史を書くことは、人々が意識して「かけがいのない自分」を承認するための作業となったのです。いい思い出、懐かしい人々、楽しかったことなどを記憶の中で濾過して行くのが自分の幸福を守る方法だからです。自分史は「あるがままの人生の記録」ではなく、「自分が納得し、自分に生きる勇気を与える記録」の性格を強く持っています。本質的に自分史は人生の最終段階で自分を守るための防衛機能に近い承認機能を発揮するのです。その第1が自己納得・自己承認の機能です。但し、書くときの作法が重要なのは日本文化の表現抑制原則や間接表現文法を守らないと「自慢史」に転落し、読者を失うことになるからです。読者を失えば他者に承認してもらう機会と機能を失います。人間は他者承認と自己承認の微妙なバランスの上に生きているのです。
2 他者承認
他者承認とは自分以外の人から評価を貰い、褒めてもらうことです。心理学では「社会的承認」といいます。人間が生きる勇気を持つための重要な機能です。他者承認には通常2種類あります。
第1は「他者が他者の視点で見つけてくれる自分」です。
第2は「自分が他者に承認してもらいたい自分像」に他者が同意することによって承認してもらうことです。
前者は文字通り、他者が他者の視点で発見し、承認してくれる自分ですが、後者はデール・カーネギーが「重要人物たらんとする欲求」と呼んだものです(*)。もちろん、この場合、当人の願望と事実は必ずしも一致しません。自分は「重要な存在」であると思っても、他者の評価は異なる場合が多いのです。それゆえ、後者は自他の採点基準が一致することが条件です。どちらの他者承認も評価は相手が決めることであり、あなたがじたばたしても通常相手の評価は変わりません。それゆえ、自分の関与は相対的に薄くなります。他者はあなたが予想もしなかった評価をすることになるかも知れません。
自分が想定している自分は「自分自身観」といいます。「自分とは誰か」という問いに対して「あなた自身が答えた答の総体」です。これに対して「他者が評価するあなた」とは「パーソナリティ」と呼ばれます。それゆえ、「自分自身観」と「パーソナリティ」は通常、中々一致しないのです。「自分が見る自分」と「人が見る自分」では違うということです
「重要人物たらんとする欲求」になると食い違いはさらに大きくなります。思い通りの自分を認めて貰いたいという気持ちが強くても、決めるのは相手です。それゆえ、あなたと相手との関係が重要になり、時に相手に振り回されます。「重要人物たらんとする欲求」には他者承認と自己承認の両方が関わるのです。自分が自分の美点だと思うことを自分だけが認めて、他者に認めてもらえない時、人間はその「落差」に傷つきます。「落差」が大きければ自信を喪失して落ち込みます。それゆえ、発想を逆転させて、相手が認めてもらいたいと思っていることを褒めて・認めてあげることが「人を動かす」原理であるとカーネギーは見抜いたのです。
中々他者は自分が思っているほどには自分を評価してくれません。それゆえ、私たちは自己を欺瞞をして、他者も自分の価値を分ってくれている筈だと思いこみます。それを「うぬぼれ」と言います。自分史が「自慢史」になるのはそういう時です。
他者が承認してくれることは自分にとってとても嬉しいことですが、自分が思っている自分を他者が同意してくれることは更に嬉しいことなのです。人間の究極の願いは自己評価と他者評価が一致することなのです。或いは究極の不幸は両者が全く一致しないことなのです。
前者は他者が認知してくれる自分の価値ですが、後者は自分が他者に認知して貰いたい自分の価値です。両方とも「褒めてもらう」ことで満たされるのですが、中身は大きく異なります。
もちろん、自分史は、自己承認にも、他者承認にも、両方に関わります。しかし、他者承認こそが真の「承認」の原点です。自分史が「読者」を必要とするのはそのためです。
*人を動かす,デール・カーネギー,創元社,1999
人間の持つ最も根強い衝動は,「重要人物たらんとする欲求」です。それゆえ、相手が自分を「重要な人物」であると思えるように正しく相手の欲求を満たしてやることができれば,その人の心を手中に収めることができるとしました。
136号お知らせ
第110回生涯教育移動フォーラムin山口
1 日 時 平成23年6月11日(土)13:00~6月12日(日)11:50
2 会 場 山口市湯田「かんぽの宿」
3 プログラム
第1部 基調提案
i NPO法人「幼老共生」創始:子どもの体力アップ支援事業
「e-マナビリンピック」の思想と方法
理事長 森本精造
実行委員長 大庭公正(飯塚東小学校長)
(1) なぜ今子どもの体力なのか?
(2) 高齢者の社会参画をどう作るか?
ii 中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会30周年記念出版座談会:生涯教育立国論が問うたものは何か
九州女子大准教授 大島まな
iii 消滅する人生-人はなぜ「自分史」を書くのか
生涯学習通信「風の便り」編集長 三浦清一郎
iv 特別高座:永田昭善氏口演デビュー(仮題)「落語の世界へようこそ」
第2部 リレートーク『 (仮題)我々ができる被災地救援の方策とは』
第3部 参加者全員による22年度下半期の活動報告
*お願い:山口以外からご参加の皆様は「かんぽの宿」(083-922-5226)まで事前予約をお願い申し上げます。また、参加状況把握のため、事務局の赤田博夫校長先生(090-9065-6220)へもご一報いただけると幸いです。
NPO法人「幼老共生まちづくり支援協会」第1回子どもの体力アップ支援事業
「e-マナビリンピック」の第1回実施計画が決まりました!
「NPO幼老共生」では、今後会員はもとより、その他本事業に関心のある方のご参加、ご支援をお願いしていきます。また、本事業に対するご意見やご提案などございましたら書面にてお寄せ下さい。問い合せ先は下記の通りです。ご参加、見学を歓迎いたします。
1 実施日時
5月7日(土) 8時受付、9時-12時(新体力テスト)
2 測定内容
中身は文科省が設定している8種目の体力テストです
① 50m走
② たち幅跳び
③ 反復横跳び
④ ボール投げ
⑤ 20mシャトルラン
⑥ 握力
⑦ 上体起こし
⑧ 長座体前屈
3 会場
飯塚市立椋本小学校(〒820-0077福岡県飯塚市椋本16-2、TEL:0948-24-4752)
4 対象/参加費
対象は小学生、参加費は100円です。
5 申し込み
当日8時受付開始です。
6 測定結果は、『個人別記録認定証』と福岡県立スポーツ科学情報センターが発行する『個人別体力・運動能力評価表』として参加者に当日お渡しします。
7 問い合せは、NPO法人「幼老共生まちづくり支援協会」理事長 森本 精造
〒820-0704 飯塚市阿恵315-2
携帯 090-2583-4901
メールアドレス morimoto@oks.or.jp
8 第2回目は 8月6日(土)を予定しています。
§MESSAGE TO AND FROM§
春が来て樹々や花々が息を吹き返しました。勉強の合間に草取りをしているのか、草取りの合間に勉強をしているのか分らぬような日常が続いています。東北・関東の被災地にも同じように春が来て、同じように草木が芽を出しているのだろうと想像しています。被災地の方々にとって「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」というのはさぞお辛いことと拝察しております。冬を越した芍薬が赤い芽を伸ばしました。妻が急逝し、わが家も森閑として「人同じからず」となり、懸命に「一人を慎む」べく戦っております。詩集「あなたに見せたい風景がある」を編み始めました。
福岡県甘木市 太田政子 様
お便りありがとうございました。留守電も、お便りも身に滲みました。ご返事が泣き言にならぬよう時間を置きました。相変わらず、学文社の好意に報いるべく原稿に向かっております。衰え行く心身の機能に対しては、「読み、書き、体操、ボランティア」の戦略を持って立ち向かっています。書けないときもあり、書きたくないときもあり、時々逃げ場がなくなり閉口しておりますが、弱者のための学問の世話にならぬよう、「見る前に跳べ」、「考える前に動け」とつぶやいて暮らしています。男の平均寿命から言えば、最後の10年になると思いますが、熟年の教科書がないことに気付きました。次は「自分史作法」を書き、その次の執筆は「熟年の教科書-最後の十年の教育処方」にしたいと思います。来年の花に逢えるかどうかも定かでないのに、もう少し寿命はあるだろうと捕らぬ狸の皮算用をしています。5月の30周年記念大会にはお出かけいただけるでしょうか?
沖縄県うるま市 平 正盛 様
伊計島のガイドブックが届きました。あと10年若く、目の不自由がなければ飛んで行きたいところです。美しい海、興味あふれる歴史、島興しのご成功を祈ります。ありがとうございました。
大分県日田市 安心院光義 様
いつもお便りを頂戴し励まされております。老人は社会と関わる機会がなければ、数日も誰とも話をしない時があるのです、などと講演で喋っておりましたが、まさにそのことが自分の身に起こりました。
3月の終わりから4月の初めは、卒業、入学、転勤など世間は最も忙しい時期ですが、その喧噪をよそに、わが家には5日間誰も来ず、電話もなく、僅かなメールだけが外界と繋がる日々を経験しました。日本語を忘れるのではないかと思ったほどでした。共同体が早晩消滅すると書いて来ましたが、現状の福祉や高齢者教育の有様では高齢者の多くが早晩社会と絶縁して言葉を忘れるのではないでしょうか。
福岡県宗像市 久保誠一 様
この便りが出る頃にはご退院でありますように!生物の晩年は生老病死との戦いです。戦いを続けるか否かは自分との戦いですが、時々気が滅入って気合いが入らなくなります。ようやく4月の英会話教室が始まり、皆様とお会いでき、私も息を吹き返しました。
一人暮らしというものは、飯を余分に炊いて冷凍し、差し入れや頂き物で茶漬けを食っていると外に出ることもなくなります。あなたに続いて英語は「ぼけ防止」とおっしゃる方が増えて来ましたが、私にとっても活力の源になりつつあります。社交と生涯学習が決定的に重要な時期に入ったということだと思います。今年こそはキング牧師のI have a dreamの演説文を諳んじて見たいと思います。一日も早いお帰りを一同お待ち申し上げております。
山口市 上野敦子 様
しょうた君が我が教育論を証明してくれることを念じています。あなたのような読者を得て「風の便り」は幸せでした。目がますます不自由になり、書くことが辛いのですが、実践のために読んで下さる人がいる限り書き続けようと改めて思いました。いつの日かしょうた君に会いに行きますのでよろしくお伝え下さい。
長崎県香焼町 武次 寛 様
長崎県における社会教育主事のOB会結成の知らせを永渕先生が福岡県実行委員会に報告してくれました。一同喜んでおります。市民の気ままな生涯学習だけで「社会の必要」に応える施策を打つことはできません。大会30年を記念する出版の中で、ようやく私も自分の間違いを正すことができました。
福岡県の筑後市や長崎県の大村市は最後まで「社会教育」の旗を降ろすことはなかったとお聞きしてますます我が身の不明を恥じております。応援します。どうぞがんばってください。
編集後記
あなたに見せたい風景がある1
独りぼっちの鳩が啼く
春爛漫の光りの中で
独りぼっちの鳩が啼く
お隣の梶栗さん家の屋根に来て
日課のように鳩が啼く
私の机を見おろして
ジヨーポッポ
ジヨーポッポ
鳩が啼く
ひとりだひとりだとひとりごと
もみじがそよぎ
山吹揺れて
さみしいさみしいとひとりごと
ジヨーポッポ
ジヨーポッポ
鳩が啼く
梶栗さん家はお留守だよ
私も一人留守番で
さみしいさみしいと独り言
Skype:グローバル時代のテレビ電話
-「生物学的実在」と「歴史的実在」-
便利な時代になったものです。スカイプを使えば、アメリカにいる娘の家族と無料のテレビ電話ができます。筆者の留学時代は国際電話が高額であったため、3年間外国にいた間に一度も父に電話することさえありませんでした。手紙は書きましたが切手代も馬鹿にならぬ額でした。奨学金をいただいて家を出、日本を出る以上、「志を得ざれば、ふたたび此の地を踏まず(野口英世)」の心境に近い思いがありました。当人もキャンパスの中のたった一人の日本人として、頼りない肩に日本を背負った気でいたのです。
しかし、今や外国は日常の延長線上になりました。それが国際化-グローバリゼーションということなのでしょう。
今では、実物とめったに逢うことのない外国在住の孫でもTV電話を通して日本の祖父もその実在に触れることができます。しかし、私はスカイプのような饒舌な現代のテクノロジーを通してありふれたどうでもいい日常の出来事の話をすることが苦手で言葉が続かなくなってしまいます。「スカイプは億劫なのだ」と言う私を娘は叱って、苦手であろうとなかろうと日常の祖父の姿を孫たちに見せておくことは遠く離れた祖父の役割だといいます。しかし、私は違うような気がしています。娘は「生物学的実在」としての祖父と未来の孫たちが接する「歴史的実在」としての祖父を混同しているように思います。TV電話を通して見た祖父はどう気取ってもありふれた異国の老いぼれ爺さんです。溌剌と意気に燃えて仕事をしている姿ならともかく、老爺との会話のイメージなどは孫の成長とともに立ち所に消え失せてしまうでしょう。しかし、両親が語って聞かせる祖父の物語や祖父自身が書き残したものを、後に孫たち自身が日本語に習熟して読むようになれば、彼らはそこで「歴史的実在」としての祖父に逢うことになるのです。
まして急逝した妻の存在は、ほとんど生活を共にしたことのない幼い孫たちの記憶に残る筈はありません。それゆえ、私は最近「あなたに見せたい風景がある」という詩集を編み始めました。祖父が亡き祖母に何を見せたかったのか、何を聞かせたかったのか、孫たちがやがて日本語に習熟してくればそのイメージや想像力の中に祖母の「歴史的実在」の姿が浮かんで来ることを信じています。「生物学的実在」は束の間の人生として土に帰って消滅しますが、「歴史的実在」は孫たちの人生に記憶されて生き続けるのです。孫たちが語ればその子どもたちにも語り継がれるのです。娘にはおまえを育てた父の思い出を語れ、それこそが孫と祖父の出会いであると言いました。
人々が意識しているか否かは別として、自分史はそれぞれの人生の「生物学的実在」が消滅した後でも、人々の生きた証が「歴史的実在」として後の世に残って行くことを夢見て書かれるようになったのだと思うようになりました。尊敬する渡辺通弘氏はそれを人間の「永遠志向」(*)であると喝破したのです。
(*)渡辺通弘、永遠志向、創世記、昭和57年