「風の便り 」(第135号)

発行日:平成23年3月
発行者 三浦清一郎

なぜ自分史なのか
-個人史の意味と特性-

1 垣間見える個人史の目的と動機

 なぜ自分史なのか。その目的と動機は自分史のタイトルや参考書のタイトルの中に垣間みることができます。もとより自分史は全体史に対する個人史の意味ですから個別の人生の記録であることは疑いありません。それでも、なぜ一般人が個別の人生の記録を書くようになったのかという点では目的も動機も人それぞれ多様です。「足跡」とか「航路」とか「道標」とか「歩み」とかと記されたテーマは、基本的に人生の総合的記録に重点が置かれています。また「おとうちゃんとわたし」、「母と娘の記」、「夫婦舟のせや一代記」など特定の人物とのことを書いたものは、配偶者でも、子どもでも、友人でも、職場の縁に繋がる者でも「この人が忘れられない」(*1)という趣旨で、人生の出会いが主題となっているのでしょう。同じように「事件」が主題になっているもの、「時代」が主題になっているものなど素材は多種多様ですが、参考書はそれらを括って、多角的に個人史の意味と特性を分析しています。
 例えば野中・荻須の両氏の著書はタイトルの中に、自分史とは「『生きる』を楽しむ」ものであると表現しています(*2)。また、「ストーリーの社会学」という観点から、自分史を論じた小林多寿子氏は、自分史は他者を意識して「物語られる『人生』」であると結論しています。
 自伝とか日記の類いではなく時代史全体の構成要因である個人の歴史を「自分史」という概念で表現したのは「ある昭和史」を書いた色川大吉氏です(*3)。
 上記小林氏は、彼女のいうところの各人の「物語られた人生」は 福山琢麿氏の「自分史ノート」や「自分史図書館」によって自費出版を勧める「物語産業」の様相を帯び、自分史の普及に大きな影響を及ぼしたと指摘しています(*4)。また、「自分史の書き方」の著者内海晴彦氏は、自分史とは「現在の自分と向き合うために書くものです」と喝破し(*5)、その点では上記の「生きるを楽しむ」ための自分史や小林氏の言う「自分探しの自分史」という視点とも重なります。更に、形式上の厳密な意味では自分史ではありませんが、永 六輔氏が語る「昭和歌謡の自分史」には、「生きる歌があれば、死ぬ歌もある」(p.206)とか、「みんな自分の歌をもっている」(p.220)とか、「しょせん歌、されど歌」(p.76)とか自分史に重なる多くの指摘が出て来ます。自分史もまた、しょせん個人史、されど個人史ですが、それぞれに生きた記録、死の覚悟など「みんな自分史をもっている」のであり「生きるための自分史があれば、死ぬための自分史もある」のです。面白かった逸話は、老健施設に慰問に行った三波春夫さんが、それぞれに自分の歌を歌い出す入所の人々に合わせて歌い興じ、とうとう最後まで自分の持ち歌を歌わなかった、という永さんの見聞録でした。「みんな人それぞれに自分だけの歌がある」(p.236)ということは、みんなそれぞれに自分の物語をもち、自分史をもっているということなのでしょう。三波さんはそれを尊重したということなのです。さすが一流の歌い手さんです。(*6)
 変わり種は辺見 庸氏の「自分自身への審問」でした。この書はインタビュー形式を借りた自作原稿です。自問自答の形で書かれた自己の生に対する分析の試みであると裏表紙に記されていました(*7)。
さらに、小池民男氏の「時の墓碑銘(エピタフ)」は新聞に連載された氏が尊敬する人物への弔辞のようなものでした。小池氏の弔辞は墓に刻むことができるほどに短いので「墓碑銘」とされたのでしょう。「幾時代かがありまして、茶色い戦争ありました(中原中也、p.8)」、「身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司、p.29)」、「この小さなノートを残さねばならない(渡辺一夫、p.56)」、「権力は腐敗する、弱さもまた腐敗する(Eホッファー、p.143)」などのタイトルはどこかの自分史にもあるのではないか、と思わせる感銘深い参考書でした(*8)。
 「教科書が教えない歴史有名人の晩年と死」(*9)も第三者による伝記の一種ですが、晩年の逸話の多くは、他者が個人の最後の歴史をどう見るかという点で、深く自分史作法、個人史の留意点に通じていると思いました。

(*1)竹村健一、この人が忘れられない、太陽企画出版、1999年、本書はもちろん自分史ではないが、人を語ることによって交友を誇り、発想から生き方まで自分を語ろうとしている点で自分史に共通している。
(*2)野中博史、荻須 勲、4400万人のための自分史講座;「生きる」を楽しむ、メディア・ポート、2006年
(*3)色川大吉、ある昭和史-自分史の試み、中央公論社、1975年
(*4)小林多寿子、物語られる「人生」-自分史を書くということ、学陽書房、1997年、 pp.58-65
(*5)内海靖彦、自分史の書き方、柏書房、2000年、p.2
(*6)永 六輔、聞き手=矢崎泰久、上を向いて歩こう 昭和歌謡の自分史、飛鳥新社、2006年
(*7)辺見 庸、自分自身への審問、毎日新聞社、2006年、裏表紙
(*8)小池民男、時の墓碑銘(エピタフ)、朝日新聞社、2006年
(*9)新人物往来社編、教科書が教えない歴史有名人の晩年と死、新人物往来社、2007年

2 「永遠」に近づくための個人史
-なぜ自分にこだわり、その歴史にこだわるのか-

(1)共同体の崩壊と自分の時代の到来

 共同体の人間関係は血縁と地縁と共同組織の縁によって形成されて来ました。当然、農地の耕作から収穫の祭りまで共同作業が密接であった分、人々の結束は固く、人間関係はウエットな温かいものでした。しかし、同時に、共同体は、集団に対する個人の自由な振る舞いに制約を課しました。共同体は共同体の共益の維持を優先し、それに必要な義務や義理を設定し、個人の言動に一定の監視と干渉機能を有していたのです。生活の基本は一斉行動で「みんな一緒の時代」でした。共同体の崩壊は個人を「みんな一緒」の制約から解き放ち、「自分で決めていい時代」をもたらしたのです。
 日本の企業や役所のような組織体も、当然、共同体文化の影響下にありました。飲み会も、冠婚葬祭の世話も、スポーツ大会も、旅行も「みんな一緒」でした。時には社員の家族までが一緒だったのです。それらは「会社共同体」と呼ばれ、ウエットな人間関係を特徴とした組織共同体です。しかし、これらの組織においても個人の主体性と自由を希求する日本人を制止することはできませんでした。職住が分離した組織において、共同体的「相互扶助」機能を維持しながら、あわせて個人の「自由」を追い求めるという「二兎を追う」事は不可能だったからです。

(2) 自分の時代の到来

 現代の最大の特徴は「主体性」の尊重です。個人主義も、個性主義も、自主性も、主体性も、自律も、自立も、自己流も、勝手主義も、時には「自侭」、「わがまま」ですら、みんな「主体性」の別名です。現代は、自分を中心とした生き方を承認し、「主体性」の尊重が幸福の条件であるという考え方が主流になりました。人生を決めるのは「自分」であるという原則が社会を貫徹しています。この流れを総合すれば、「自分主義」と呼ぶことが出来るでしょう。筆者は、この「自分主義」を「自分流」と名付けました。大人はみんな「自分流」を主張するようになったのです。日本人は欲求充足のカギが「自分」にあることに気付いたのです。満足の中心は己の「感性」であることに目覚めたのです。1984年に藤岡和賀夫氏は「さよなら、大衆」(*1)を書き、1985年には博報堂生活総合研究所が「『分衆』の誕生」(*2)を出版しました。前者は「小衆」の概念を提出し、後者は「分衆」という言葉を流行らせました。どちらの書物も大衆の時代は終わったと分析したのです。「大衆の時代」とは「みんな一緒」の時代であり、「画一的」な時代であり、「人並み」の時代であり、物質的消費の豊かさを求めた時代でした。過去の「貧しさ」から脱出しようとしてみんなが懸命に働いた時代でした。しかし、豊かな時代が実現して、耐久消費財が行き渡り始めた頃から、事情は一変します。藤岡氏は「感性の時代」が来た(p.27)と言い、博報堂の研究所は「差異化の時代」が来た(p.43)と指摘しました。振り返って、筆者は「自分の時代」、「自分流の人生」が始まったのだと総括しています。多くの人が「物の豊かさ」から「心の豊かさ」へと言い始めました。

(*1)藤岡和賀夫、「さよなら、大衆」、PHP、1984年
(*2)博報堂生活総合研究所、「分衆」の誕生、日本経済新聞社、1985年

3 歴史になることは「永遠」になることである
 -歴史性こそ最大特性-

 自分史は様々な側面を有しています。それらは個人の生きた記録であり、一人ひとりの人生の評価と総括であり、残るものたちに書き残すメッセージであり、時に遺書でもあるでしょう。それゆえ、メッセージには謝辞や惜別の思いが含まれることになります。そして最後に、自分史はそれぞれが生きた時代を反映せざるを得ないので、個別かつ個人が見た時代の証言にもなります。
 しかし、筆者は自分史の最大特性は個人が残そうとしている証言の「歴史性」にあると考えています。人はなぜ歴史にこだわり、未来に自分の歴史を残そうとするのでしょうか?こうした問いにもっとも率直に、またもっとも哲学的に答えた著書が渡辺通弘氏の「永遠志向」だと思います(*1)。
 渡辺氏は、動物と人間との決定的な差は、「人間だけが死の必然性を感知しているという事実にある」、と指摘しています(p.89)。同時に、人間は生存志向のため生きんがためにあがくことを運命づけられているため死の必然性を甘受することもできないと指摘しています(p.91)。結果的に、人間は死の必然性を受け入れる代わりに歴史の中で「永遠」に生き続けたいという「歴史的実在」(p.503)を目指すのだというのです。歴史に刻まれた証言が個人の存在を記憶し続けることを保障できれば生理学上の個人は消滅しても、個人は歴史の中で永遠に生き続けることができるというのです。そのような人間の願望こそが渡辺氏が言う「永遠志向」です。
 そして社会を構成する個人が歴史的実在となるためには、社会の歴史化が不可欠であり、社会の歴史はやがて細分化され、地方の歴史化となり、やがては家族の歴史化に至ると言うのです。「歴史化」の形態・方法は墳墓や記念碑、記録など色々あるでしょうが、要は人々に記憶され、後日人々が検証することを保証することにあります。簡単に言えば、自分史は個人の一生を歴史化する営みであり、「歴史的実在」として後世に記憶される工夫の延長線上にあります。

(*1)渡辺通弘、永遠志向、創世記、1982年

4 「実在」と「歴史的実在」
   -消滅への恐怖-

  近づく死を意識し始めた高齢者が自分史に限らず、何か己の人生に関わるものを残したいと思うのは、存在の消滅に対する不安の故だと思われます。人間はその歴史の知恵で死が必然であることは知っています。いつか死ぬであろうことは周りを見れば分かっていることであり、特に、高齢者にとって死は間近に迫った時間の問題であります。しかし、これらのことが分かっていても、どこかで人間は己の消滅を諦め切れていず、自分の死だけは覚悟の外にあるのです。死は生きることの終了であり、命の消滅は「実在」の終わりです。やがては己が生きたという事実すらもが消滅し、誰からも忘れられます。それが「歴史的実在」の消滅です。生きた事実が忘れられることが「歴史的実在」の消滅です。それこそが人間がもっとも恐れていることではないでしょうか。壮大なピラミッドからささやかな墳墓に至るまで人間が墓を作って来たのは死者を記憶するためであり、自分が死者となった時に記憶されるためではなかったでしょうか。渡辺氏の言葉を借りれば、墳墓によって「歴史的実在」の事実が記憶されるということです。この観察が間違っていなければ、自分史を「紙の墓標」として福山琢磨が墓に対比した観念を広めたのもまさしく頷けるのです。
 生き方は色々あっても、命は生きるために生まれて来たのであり、死は記憶されるために死ぬのです。歴史上の多くの人々が死に方にこだわり、死に場所を選んだのも彼の一生とその死を記憶されるためなのです。「犬死に」は、意義のない誰にも記憶されることのない死を意味しています。命が終わり、死が来ると言うことは生きる目的を喪失するということですが、個人の生と死が人々の思いの中に記憶され続けるとすれば、人間の心情において、死は必ずしも無に帰することにはならないのです。「永遠志向」とは、本人が意識すると否とに関わらず、生まれて来たことにこだわり、生きたことを愛し、ここにおのれが生きたという「歴史的実在」の証明が死によって中断されることを恐れるのです。生者必滅の自然現象は止むを得ぬこととしても、生きた事実さえが消滅し、誰からも忘れられることこそ、人間が望んだ「生の意味」にとって最も耐えがたいことだからではないでしょうか。

5  生存本能は「生存志向」

 渡辺氏は、生物を哲学的に分析すればその行き着くところは「生存志向」であるとしています。生命体を自然科学がどんなに詳細に研究したところで、「命あるもの」と「命なきもの」の違いは「生きようとする性質」を持っているか否かだと指摘しています。
 かつて世間中の避難を浴びて日本社会から葬り去られた戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏は家庭内暴力などで荒れに荒れて死にたいと喚く若者を海に放り込んだことがあるそうです。若者は死ぬどころか懸命にもがいて生きようとします。当然でしょう。
 また、人参が嫌いだと言って食うことを拒否した少年に人参以外の食べ物を許さなかった結果、空腹の末に塩ゆでにしただけの人参をむさぼり食ったという話も読んだことがあります。こちらもまた当然のことでしょう。人間に限らず命あるものは生きるためにこの世にあるからです。渡辺氏も同じ観察をしています。「人生における究極的な目的としての生を否定する者がいたなら、私はその人に深い水の中に飛び込むことを提案する」・・・「私は生そのものを人生の究極的目的とすることを否定する者の議論は、彼らがもがこうとせずに穏やかに水の底に沈むことにより、その論拠の正しさを証明しない限り信用しないだろう。」(*1)生きるためには死なない努力をするように人間以下あらゆる生物は造られているのです。生きることの目的は「生きること」なのです。何らかの理由で、結果的に自殺する人がいますが、その彼らも死ぬまでは生物の必然として懸命にもがき続けるに相違ないのです。自殺行為は人間の観念や感情が肉体の自己保存本能:「生存志向」に優先した時に起きます。多くは自らを取り巻く人生の事象に追い込まれた結果、感情や精神が生の断念を決定します。覚悟の上の場合もあれば、感情や精神に異常を来たした結果起きることもあるでしょう。それゆえ、自殺とは、生きていることが死ぬことより苦しいと信じた人間の確信や錯覚や幻想に基づいた行為です。筆者は若いころから自殺肯定論者であり、時と場合によってはおのれの信ずるところによる自死もあり得ると常に考えて来た一人ですが、それでも死の瞬間は生きるためにもがき苦しむことは間違いないと確信しています。自殺は人間の観念が己の肉体の「生存志向」を裏切る行為だからです。切腹をして果てた往事の侍たちも、腹を切り裂いた時は、どんなに覚悟していようと自身の命の生きようとする反抗に驚いたのではなかろうかと想像します。痛みや恐怖は命が生きなければならぬと叫んでいるメッセージのはずです。

(*1)渡辺通弘、前掲書、p.45

6 死後の「歴史的実在」の証明

 歴史上、人間は様々な工夫をしておのれの「歴史的実在」を証明しようとしてきました。しかし、貧し過ぎた時代には、墓ですら作ることはできませんでした。その時、死の必然を自覚した人間は例えば血脈の残ることに、自分の生きた証が残ることを重ねて考えました。子どもは血のつながった「歴史的実在」の証明に成り得たのです。また「家名」の存続に歴史の継承を見ようとした時代もありました。こうした心情は、婿養子を取る結婚や財産の継承や家系図のような工夫の中にはっきり見て取ることができます。子孫の繁栄を祈ったり、日常の暮らしの中で、孫やひ孫を可愛がったりするのも、彼らがおのれの血脈に連なるものだからなのでしょう。
 しかし、「歴史的実在」を観察する冷徹な目にはそれらもまた自分の生きた証が長く記憶されるか否かとは関係のないことを知っています。孫を溺愛したと言われる歌人斎藤茂吉は「私が死んだなら、小さい孫どもはさぞ嘆くだろうなどと思うのは、ほしいままな自己的想像に過ぎない。孫どもはこういう老翁の死などには悲嘆すること無く、蜜柑一つ奪われたよりも感じないのである。そこですくすくと育って行く。この老翁には毫末の心配もいらぬのである」。この文章を引用した財前又衛門は「茂吉はあくまで一流の歌人であった。創作者に不可欠な自己の客観化と、自己を突き放す冷徹さを忘れなかった」と論評しています(*1)。茂吉の指摘の通り、血脈に連なる子孫もそれぞれに彼氏や彼女ができれば立ち所にじいさんやばあさんのことなど忘れ果てることは茂吉ならずとも知っていることなのです。仏壇を飾ろうと先祖の墓に詣でようとそれが自分と血脈との連続性を保証しないことは分っている人には分っているのです。荒れ果てた墓も、無縁墓地と化した墓もこの世に溢れていることも承知しているのです。血脈を頼って永遠になることなどできる筈は無いのです。

(*1)財前又衛門、斎藤茂吉、歴史有名人の晩年と死、新人物往来社、2007、pp.253-254

弱者のための学問の氾濫

1 弱者はさらに弱者となる

 医学は病人のための学問です。健康人と比較すれば病者は身体的な弱者ですから、換言すれば、医学は弱者のための学問である、と言っても間違いではないでしょう。辛うじて予防医学が健康人を対象としていますが、これだとて予防の出発点は病気ですから発想の原点は病人です。スポーツ生理学などが想定する健康人がより強くより健康になるという発想は予防医学には稀でしょう。要は、健康人が病人に転落しないようにという観点からの学問に留まっています。同じように、精神や心の病いを対象とした精神医学やカウンセリングもまた健康人を叱咤激励し、鍛錬と修行を勧める教育論と対比すれば、弱者のための学問と言えるでしょう。要するに、現代は弱者のための学問が社会に氾濫し、多くの人がその影響を受けて、「困難と戦う者」を見る目が「弱者」を見る目になっているのではないでしょうか?青少年教育から高齢者教育に至るまで様々な適応指導は保護を前提とすることが多く、弱者支援の立場に立った発想と診断と処方になっています。小生は去る1月末に妻が急逝し、一か月の喪に服した後、前号「風の便り(134号)」で宣言した通り、思いを決して世間に復帰し、一人暮らしの日常を確立しました。後始末や年度末で殺到するいろいろな実務が捌けず日々締め切りに追われ、髪振り乱して奮闘しています。そのため友人知人からの折角のお誘いやご招待をお断りせざるを得ない状況です。多忙を理由に、お詫びとお礼をしたためて丁重にお断りを申し上げると必ずと言っていいくらい「頑張る必要は無いのです」という趣旨の慰めと労りとカウンセリングの類いのお便りをいただくことになります。ようやく最近になって自覚したのですが、妻を失った筆者は、筆者を知る友人知人にさえ社会的弱者としてしか認知されていないということに気付きました。弱者のための学問が蔓延り、弱者のための学問にさらされることにより弱者はより一層弱い方に誘導されています。

2 なぜ「がんばれ」と言わないのか

 私が日々悪戦苦闘していることは事実ですが、それを知った多くの方が「無理してはいけません」、「急に状況から抜け出そうとしてはいけません」、「焦ってはだめです」、「ゆっくり時間をかけてください」、「泣きなさい、いくら泣いてもいいんです」などとお便りを下さいます。家族を失った「喪失感は誰にも埋められない」という方もいました。なぜ状況に負けずに「がんばれ」と言わないのでしょう。
 私は絶えず「仕事を下さい」、「仕事の中で平常心を取り戻しているのです」と書き続けているのです。にもかかわらず、「無理して仕事することはいけません」という助言もいただきました。「今、必要なのは強い意志ではなく喪失感を喪失感と感じ、悲しみを悲しみと感じ嘆き悲しむ時間、ではないでしょうか」という方もいました。
 「気合いを入れ直して前へ進め」と正面から言ったのは筆者の気性を知り尽くしているアメリカにいる娘だけでした。皆様のご親切とやさしさが分からないわけではありませんが、ご助言の多くは見当違いです。労りと慰めだけのお便りをいただくたびに「必要なのは戦いであり」、「オレはそれほど柔ではなく」、「喪失感も必ず埋めて見せる」と思っています。
 今度の大震災でも恐らく被災者の心のケアなどという名目で多くの弱者対策が行なわれることでしょう。その情緒的で・口先だけの弱者対策こそが弱者を再生産していることに気付く必要があるのです。震災から三日間は現地の状況を逐一知りたいと終日テレビを点けていましたが、その後、泣き言やお涙ちょうだいの感想や解説をテレビが流すようになったのにうんざりしてスイッチを切りました。その一方で、イギリスの新聞が「頑張れ!日本、負けるな!日本」という意見広告を載せたのは、真っ当な判断でした。日本は自分を憐れんで落ち込んでいるゆとりなど無いのです。「今がんばらなくて、いつがんばるんだ!」と叫んだおじさんがいましたが、彼が正しいのです。テレビのインタビューを受けた若者が「遠くにいて何もできない自分が情けない、せめて募金ぐらいはする。被災地の皆さん頑張ってください」と言っていたのは健全な教育効果だと涙が出ました。警察官や消防署員や自衛隊員やその他沢山の方々が職務を放棄すること無く殉職している一方、風評に怯えて関東から脱出する人々が増えたと聞き憤慨に耐えません。
 被災地の方ならともかく東京辺りから逃げ出して来た者は追い返すことこそ必要で、飯など作ってやる必要はないのです。息子夫婦には「現在地に留まって仕事を続けなさい。死ぬ時はそこで死になさい」とメールを送りました。辛い状況に陥った者を弱者扱いすればするほど、彼ら自身が自らを弱者にしてゆくのです。そして弱者が日本を滅ぼすのです。
 今の私に必要なのは「哀しみに浸っている時間」などでは断じてありません。よく働き、よく食べ、よく眠り、よく戦い、何よりも前に向かって進もうとする強い意志と艱難に耐え得る我慢強さです。
 かつて大学経営の中で「差別者」と罵られ、「犯罪者もどき」の攻撃を受け、「大学の民主化の敵」の如く呼ばわれた時でさえ、わが精神は正常でした。家族の死が乗り越えられなくて、どうしてこれからの老衰の日々を乗り越えられるでしょうか。前を向いて希望を探さない限り、大震災の被災者はこれからの人生をどうして生きて行けるでしょうか。

3 普通人を強くする心の様相

 日本が頑張らなくてどうして被災地を復興させることができるでしょうか。日本よ、泣いてもいいんだ、悲しみに浸っていていいんだなどと言ってはならないのです。口先だけの慰めも無用です。少なくとも筆者にとって、不幸から立直るために必要なのは「弱者の学問」ではなく、サミュエル・ウルマンが「青春の条件」として指摘した様々な心の様相です。ウルマンはそれらを優れた想像力、逞しい(たくましい)しき意志、炎ゆる(もゆる)情熱、怯懦(きょうだ)を却ける(しりぞける)勇猛心(ゆうもうしん)、安易(あんい)を振り捨てる冒険心であると言っています。要は、「気合いを入れ直して前へ進む手段を講じること」なのです。

4 氾濫する「症候群」の病名

拙著「The Active Senior-これからの人生」にも書きましたが、現代の学問の多くが、病名を発明することで同時に病気を発明し、弱者を拡大再生産しているのです。いちいち解説はしませんが、氾濫する「症候群」名を見て下さい。

(1)  清潔症候群と呼ばれる「自己体臭恐怖」、「醜形恐怖」
(2)  「アダルト・チルドレン」
(3)  「大酒家突然死症候群」
(4)  「高層ビル症候群」
(5)  「燃え尽き症候群」
(6)  「過食症」/「拒食症」で知られる「摂食障害」
(7)  「生き甲斐喪失症候群」
(8)  「空の巣症候群」
(9)  「過剰適応症候群」
(10)  「ピーターパン症候群」
(11)  「出勤拒否症」、「登校拒否」、「学生無気力症」
(12)  「広場恐怖症」
(13)  「休日拒否症」
(14)  「主人在宅ストレス症候群」
(15)  「疲れた症候群」
(16)  「子育て困難症候群」
(17)  「仮面うつ病」、「微笑うつ病」
(18)  「不定愁訴」
(19)  「不安障害」、「恐怖性障害」、「強迫性障害」、「心気障害」
(20)  「薬物、ギャンブル、アルコール、ニコチン」など様々な事物に対する依存症特に定年時におこる依存症
(21)  若年者/定年者の「引きこもり」・「閉じこもり」
(22) 心的外傷後ストレス障害:PTSD(Post -traumatic stress disorder)

 最近の流行は「燃え尽き症候群」と最後の「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」 です。今回の震災でも再び知った風な解説が氾濫することでしょう。
 「燃え尽き症候群」(Burnout Syndrome)は、心理学者によると極度のストレスがかかる職種や、一定の期間に過度の緊張とストレスの下に置かれた場合に発生します。主たる原因は、会社の倒産、残務整理、リストラ、家族の不慮の死と過労などに多いと言われています。「朝に起きられない」、「会社または職場に行きたくない」、「アルコールの量が増える」、「イライラが募る」などの症状が出て、何もしたくなくなるのです。一方、PTSD(Post-traumatic stress disorder)は「心的外傷後ストレス障害」と呼ばれます。何か脅威的なあるいは破局的な出来事を経験した後、長く続く心身の病的反応で、その出来事の再体験(そのことをありありと思い出すフラッシュバックや苦痛を伴う悪夢)が特徴的です。通常はショッキングな出来事を体験しても時間の経過とともに心身の反応は落ち着き記憶は薄れて行きますが、あまりにもショックが大きすぎる時や個人のストレスに対する過敏性が強い時、子どものように自我が未発達な段階では、大きな障害を残すことがあります。ここで「子どものように自我が未発達」というところが重要です。要するに、耐性が低いということです。
 またまた難しい解説用語が続きますが、耐性の低い人間が辛い思い:恐い思いをすると類似した出来事に対する強い心理的苦痛と回避行動を取るようになります。ほんの少しの類似現象でも興奮反応を示したりします。眠れなくなったり、集中ができなくなったり、臆病で過度の警戒心でびくびくしたりします。こうした反応を「覚醒亢進(こうしん)症状」と呼びます。また、事件の苦痛や恐怖を思い出したくないので誰でも自己防衛的に忘れたいと思います。そこから、病的な忘却症状に陥ったりします。前後の記憶を想い出すことを回避したり、完全に忘れたりします。また、こうした状況は当然、幸福感の喪失、感情鈍麻、物事に対する興味・関心の減退、建設的な未来像の喪失、身体性障害、身体運動性障害なども引き起こします。説明を始めると切りがありませんが、要は事件の後遺症に悩まされるということです。

5 「事件」が原因か、「耐性の低さ」が原因か

 しかし、「事件」が原因なのか、「本人の耐性の低さ」が原因なのかは常に曖昧です。「燃え尽き症候群」も、「心的外傷後ストレス障害」も、専門家は常に「事件」を「原因」・「犯人」であるとしていますが、筆者は従来から、半分以上の原因は本人の耐性の欠如にあると主張して来ました。当然のことですが、同じ事件を同じように通っても、打ちのめされて立ち上がれなくなる人と奮起して新しい人生に向かって行く人に分かれるからです。恐らく「分かれ道」は「事件の衝撃度」だけではなく、本人の耐性のレベルにあるのです。
 小生にとって妻の急逝はショックであり、ピンチでありますが、それで以後の人生に踏み出せなくなるほど耐性は低くないということです。“世間よオレを馬鹿にするな!”。日本も大震災から必ず立ち上がります。がんばれ日本、がんばれ清一郎。弱者の学問にだまされるな!と言いたいと思います。

135号お知らせ

1 5月に第30回大会をひかえておりますので、4月の生涯教育フォーラムはお休みです。

2 5月21-22日(土-日)は中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会です。20日(金)の19時からが前夜祭です。過去3年間の参加者には4月上旬にご案内のリーフレットを発送します。新しくご参加の意志のある方は福岡県立社会教育総合センター(092-947-3511)までお問い合わせ下さい。

3 山口県Volovoloの会のみな様 今年の日程が決まりました。6月10-11日(土-日)です。会のもち方、内容等は事務局で鋭意検討中です。

4 特別お知らせ

「e-マナビリンピック」構想
―「NPO幼老共生」が子どもの体力向上特別プログラムを開始します―

(1) NPO幼老共生」初年度活動の始動
 事業名は、「e-マナビリンピック」とする予定です。周知の通り、子どもの体力低下が長期化しています。まずは一番教育効果の見え易いところから取組むことにしました。「小学生を対象とし、運動・スポーツへの動機付け、習慣化を図るきっかけを与え、運動に対する興味・関心を高め、体力の向上を目的とした事業を仕組み、学校教育への支援の一環とする」ことが目的です。

(2) 中身
 小学生が、新体力テスト・スポコン広場・遊びの要素を採り入れたスキルコンテスト等を実施し、自己の記録を把握し、今後の運動・スポーツへの動機付け、習慣化を図り、運動への興味・関心を高めて行きます。

(3) 想定される効果
 効果測定は年4回程度を考えています。NPO会員の活動ステージを常設化し、市民が教育行政や学校と恊働する「新しい公共」の場を創造して行きたいとも考えています。
測定結果は、全県/全国と比較できるようになります。また日常、身体トレーニングに取組む子どもとそうでない子どもの達成度を比べることもできるようになります。現代教育に「体力づくりの処方」を提示することができるようになることを期待しています。

(4) 「NPO幼老共生」では、本事業に関心のある方のご参加、ご支援をお願いしています。本事業に対するご意見やご提案などございましたらご遠慮なくお寄せ下さい。問い合せ先は以下の通りです。
NPO幼老共生まちづくり支援協会理事長 森本 精造 
  
§MESSAGE TO AND FROM§ 遥かな友へ

 東北関東大震災のことお見舞い申し上げます。頑張れ日本、負けるな日本人と念じております。
 また小生の妻の急逝につきましては、お電話・お便り、お見舞い、心にしみる数々のお言葉をいただきありがとうございました。やがて2か月目の命日を迎えます。家は半分も片付かず、後始末の事務処理も山積しておりますが、一人暮らしの日常を立て直しました。改めて覚悟を決め、掲げた目標に向って頑張っています。

声かけて愛でる人なきわが庭に 春風の来て花ひらきたり

「緊張」、「気合い」、「再確認」を合い言葉に今後ともがんばります。どうぞよろしくお見守り下さい。

佐賀県佐賀市 小副川よしえ 様

 激励身に滲みました。応援に恥じぬよう精進するつもりです。佐賀の同志の皆様のお心遣い本当にありがとうございました。古希を越えたこれからこそが真の勝負所と心得ております。毎日、体操で身体を絞り、書を読み、原稿に向かい、講演に全力を尽くして暮らすことを心がけます。5月の30周年記念大会でお目にかかりたく存じます。皆様もそれぞれに御身大切にお過ごし下さい。

福岡県みやこ町男女共同参画まちづくり委員会の皆様

 仲哀トンネルの桜がもうすぐ咲きますね。過日は岡垣町との交流会にご
尽力いただきありがとうございました。みな様の勉強会の講師の件確かに承りました。「孤舟」となりましたこの身へのご温情であることは重々承知しております。この後もよく学んでひたすら書き続けます。

島根県雲南市 和田 明 様

 和田先生、中・四国・九州地区の生涯学習実践研究交流会が遂に30年を迎えます。先生のご尽力を得て初めて島根に正式に参加いただいた日をよく覚えております。その分、我々も老いましたが、社会への参画と貢献を忘れず、健康に留意して生涯現役を目標としています。お便り・ご厚情を励みとし、5月の再会を楽しみに待ちます。

東京都 瀬沼克彰 様

 内閣府出版の「いきいき人生」が届きました。ありがとうございました。自分の周りにも該当する方々は相当数おられますが、慌ただしい中での今年の推薦は遠慮しておきます。来年もあなたが座長で関わられるようであれば推薦申し上げるつもりです。「未来の必要-生涯教育立国論」は著者校正が上がって来たところです。5月の30回大会で世に問いますのでお時間がございましたらどうぞお出かけ下さい。4月上旬には、ご案内のリーフレットをお届けできると思います。

東京都 三原多津夫 様

 「律儀」や「健気」が余り使われなくなって久しい時が流れたような気がします。今回の30周年記念出版は我が身にこれら二つの言葉を課した仕事でした。ところが第1回の著者校正をいただいて仰天いたしました。
 「律儀」も「健気」もあなたのための言葉であったと思い知りました。あなたはどれだけの時間とエネルギーを使って下さったのでしょうか!九州の執筆者一同感激して校正作業に没頭してくれたものと確信しております。他者の原稿を読み、専門分野の表現法に新しい提案をするということは、言うは易く行うは難し、の典型的作業だったと思います。
 ご労苦に報いるためにも、九州からの発信を誰かがどこかで真摯に受けとめてくれることを祈っております。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

編集後記
2槽式の洗濯機

 日曜日は私の家事の日です。一人暮らしのリズムが少しずつでき上がって来ました。食器を洗いながら洗濯機を回し、掃除機をかけながら、乾燥機を回します。飯を炊きながら執筆をし、その合間にゴミの分別を行ない、頭を切り替えるために分別ゴミを集積場に持って行きます。家事の腕前を自慢したように聞こえたか、あるいは、日常の「当たり前のこと」を「特別のこと」のように言うなということか、家庭をもち、仕事もしている女性の教え子から冷ややかに「女は毎日そうしているのです」と軽く突っぱねられ、密かに傷つきました。男が言うとどうしても「特別報告」のようになるのでしょう。以後家事のことはできるだけ言わないことにしました。「変わってしまった女」は真底怒っているのです。
 「男女共同参画ノート」に書きましたが、家事は簡単なことです。昔の子どもはやっていたわけですから、子どもでも教えればできます。しかし、切れ目のない毎日の繰り返しなのです。
 家事はファミリー・サービス(奉仕)です。それゆえ、家事の分担が男女どちらか一方に偏れば、片方は「奉仕する側」となり、他方は「奉仕を受ける側」になるのです。妻が自分のことに熱中している最中に突然“飯はまだか?”などと言われて頭に来るのも分かろうというものです。「妻に定年はないのか!」という叫びも分ろうというものです。恐らく、男性の側は長年家の外で言うに言われぬ苦労をして家族を養って来たという自負があり、「奉仕される側」に坐る事は当然だと思っているのかも知れません。しかし、外部労働における男性の労苦の歴史が事実であったとしても、定年はその事実の終わりなのです。ここからは新しい歴史が始まるのです。まして、共稼ぎで過ごして来たご夫婦の場合は、男が家事を分担しない理由は最初から存在しないのです。
 知人の男性は退職後、妻の家事労働の負担を意識し始め少しずつやさしい気持ちになっていました。彼は未だ心情においても、実践においても到底男女共同参画の心境にはほど遠いのですが、小生が陰に陽に九州の男たちを「男女共同参画の田舎者」と罵けるので多少は意識し始めたのかもしれません。
 ある日、未だに2槽式の洗濯機を使い続けている妻の大変さに気付き、真摯に思いやって全自動の洗濯機に変えたらと提案したそうです。ところが妻はにべもなく「あなたがひとりで洗濯するようになったらどうぞ変えてください」という趣旨の返事をしたそうで男は密かに深く傷つきました。
 何気ない日常の会話のひと時でしたが、日々の実践を伴わない「施し」の労りが無惨に拒絶された瞬間を想像して感無量でした。筆者も、共同であるべき作業をひと事のように手伝いましょうかとか、大変ですねとか、実践を伴わぬ口先だけの思いやりや労りが大嫌いで、常々“やってから言え”と怒鳴り返して来ました。
 それゆえ、今回の話も妻の側に感情移入して聞きました。共同は手伝いではなく言葉の真の意味で協働でなければならないのです。妻には男の提案が日常の家事の分担をしない亭主の「口先親切」に聞こえたのだろうと思います。一方、男はおのれの労りややさしさが通じなかったばかりか、冷ややかに拒絶されたことを実感して「オレが何か悪いことでも言ったか」と妻の反応を誠に理不尽なものとして傷ついたのでしょう。(そうです。妻には、洗濯一つしたことのない亭主の親切ごかしが今更何を言うかと反発したのでしょう。)
 「もういい」、「何も言わん」というのが男の感想でした。男も女もようやく男女共同参画の入り口に辿り着いたばかりなのです。双方共に思い直して、くじけずにこうした問答を繰り返しながら彼らも進化して行くのでしょう。