発行日:平成22年12月
発行者 三浦清一郎
「無縁社会」の反語は「志縁社会」-自由な個人と共同体文化-
1 離れたいけれど離れられない
伝統的共同体が衰退し、日本人の大部分は共同体の「成員」から「個人」になりました。今や個人は共同体の指示にもしきたりにも従う義務はなく、共同体の干渉や束縛から自由になりました。しかし、「自由」とは思いのほか「不自由」であることに気付かざるを得ませんでした。自由な個人は、自らのよって立つ価値を確立し、自分のライフスタイルは自分で決めなければなりません。個人の権利や自立に目覚めたものの、自分の思った通り自立的に生きるためには「自律の」実力が必要です。結果は全て自己責任です。また、うっかり自由に振る舞い始めれば、世間から自分勝手で、協調的でないと批判を浴びることもあります。共同体の束縛やしきたりからは自由になったものの、共同体を離れたあと他者とうまくつながれない人々が多いのはそのためです。それゆえ、多くの人々は共同体の干渉や束縛から離れた後も、共同体的人間関係から完全に離れるわけには行かないのです。共同体は衰退しても、共同体の感性も、共同体的人間関係も未だ私たちの日常に広く存在しているからです。伝統的共同体崩壊後の生活実態と残存する共同体文化の間に「タイムラッグ」が生じているのです。それゆえ、あらゆるところに新旧両タイプの日本人が同時存在しているのです。
自治会も、子ども会も、PTAも、婦人会も、多くの職場の人間関係も、「みんな一緒」の共同体文化を広く反映しています。共同体文化が残存している以上、そこに「どっぷり浸かった」人はもちろん、「離れようとしている」人も、「すでに背を向けている」人も、摩擦や衝突を避けて世間で生きるためには、義理でもいやいやでも、ある程度は旧来の文化と付き合って行かなければならないのです。
離れたいけれど離れられないというのが現状です。
2 自由は「わがまま」、自立は「生意気」
主体性に目覚め、自由を主張し、自立を自覚した人々にとって、共同体文化の価値や慣習はあくまでも義理と慣行上の付き合いです。共同体文化の価値感や慣行が完全消滅していない以上、文化を敵に回した消耗戦はやりたくないのです。主体性を「わがまま」、自由の主張を「生意気」と非難されないために多少の妥協は仕方がないのです。協力はしたくないが敢えてエネルギーを消耗する反対行動も起こさないのです。したがって、多くの人々の姿勢は積極的「不協力・不服従」ではなく、消極的で省エネの「非協力・無関心」になりがちです。多くの町内会において新年度の自治会役員や子ども会役員の選出がくじ引きになったのはそのためです。これらの人々は「顔役」にはなりたくなく、また「顔役」の支配を受けたくもないのです。これらの方々は共同体的人間関係の中で暮らしていながらも共同体になじめない人々です。かといって、自立して自分でボランティア的な人間関係に飛び込んで行くこともまだ出来ません。主体的・自律的に生きるためには、強力な自立の意志と実力が必要だからです。
3 「無縁社会」の反語は「志縁社会」です
共同体文化を残している近隣コミュニティには、個人の自立を支援する空気も、そうした個人に賛同する風土も形成されていません。自由な個人は自分で友だちや仲間を見つけることができなければ立ち所に孤立します。都市部に「無縁社会」が発生するのはそのためです。共同体が消滅し、ほぼ完全に自由になった個人が他者と繋がることができずに漂わざるを得ないのが「無縁」ということです。「無縁社会」に対する文字通りの反語は「有縁」の社会でしょうが、共同体が衰退したあとの「縁」とは何で繋がる縁でしょうか?筆者は、それこそが「志の縁」を結節点とする「支援社会」であると主張して来ました。換言すれば、自由な個人は自由意志を持って、自分と波長の合う「志」の似通った仲間を探すほか他者と繋がり、自分の居場所を探す方法はないのです。現代の社会教育はそのような個人を糾合してコミュニティを支える集団を育てる任務を負っている筈でした。生涯学習の「学びを共にした縁」も、伝統的共同体が消滅した後の「空白」は新しい活動集団で埋めることができると期待されました。生涯学習は生涯ボランティアに発展するという錯覚の楽観論を教育界が唱えたのはそのためです。
しかし、生涯学習の選択権を個人の市民に依拠した結果、市民は目先の楽で楽しい「パンとサーカス」のプログラムに走りました。社会教育は「教育の大義」を失い、凋落しました。もちろん、生涯学習が生涯ボランティアにつながるという「楽観論」は「勘違い」に終りました。
日本社会における個人を起点とする人間関係は未成熟です。共同体の庇護を受けている限り、個人の自己責任は生じませんが、共同体を離れれば全てが自己責任です。自分が人生を決定し、自分がその責任を引き受ける個人主義は外来思想として日本に受け入れられて以来,未だ歴史が浅く日本社会において未だ十分な「時の試練」を受けていないのです。それ故,自由な活動者を含めて多くの日本人に様々な戸惑いがあるのです。自由な個人の行動を受け入れる側にも心理的風土,制度的仕組みの上で、さまざまな拒否要因・未成熟要因が存在します。それゆえ、共同体にもなじめず,さりとて志縁を求めてグループやサークルに飛び込むことのできない人々は、進むことも退くことも出来ず「さびしい日本人」のまま無縁社会の真っただ中に立ち尽くしているのです。
中でも、ボランティアは個人の自由意志から出発して新しい人間関係を築こうとする現代日本の実験なのです。この実験において日本人は自立した個人として自分の選択と判断を基に社会に関わり始めているのです。ボランティアは適切な訳語が作られなかったほどに日本にとっては異国の概念でした。当然、異国の外来文化の匂いが強く,その歴史はまだまだ浅いものです。それ故、現在、日本のボランティアを支えているのは、個人の自立を摸索する、総じて活力のある人々です。換言すれば、個人の自立と活力がボランティアの条件になっているのです。これらの積極的な人々をもっとも落胆させるものが受け入れ風土の未成熟なのです。伝統的共同体文化が残存しているところは往々にしてボランティアに対しても自立した個人に対しても冷ややかで、ボランティアの導入を妨げる心理とシステムが存在します。理由は明確です。自立した活力のある個人は既存の集団に無条件で同意することはありません。主体的なボランティアは共同体的集団の論理と心理に簡単に同調もしません。活力のある個人ボランティアが登場することは、時として、活力のない集団や職場にとっては自動的に「批判的な存在」となる場合が多くなるのは当然のことでしょう。ボランティアの導入によって、自分たちの仕事ぶりや職場の人間関係の実情が第3者の目に歴然と曝されてしまうという不安や恐れが潜在しているのです。自由は「わがまま」、自立は「生意気」という反感と批判こそがボランティア受け入れ風土の未成熟のしるしなのです。
時事教育評論4 三つのいじめ
1 文科省の手引き
群馬県桐生市で子どもの自殺があり、続けて千葉県で、更に札幌市でも子どもの自殺がありました。桐生の子どもは混血の故にいじめられたところがあるようで、わが家の事情とも重なり、娘や息子が戦った日々を思い出しました。
相次ぐ子どもの自殺事件を受けて、文科省は<子どもの自殺>発生時の対応の手引きをまとめました。(1)遺族の気持ちに寄り添うこと(2)子供たちの心のケア(3)日常活動の早期の平常化(4)自殺の後追い防止の4点でした。特に、校長には学校に不都合なことでも事実と向き合う姿勢を求め、正確な情報発信を促しています。換言すれば、如何にこれまでの学校が事実をかくそうとする傾向があったかを文科省が指摘したということでしょう。今回もまた、いじめはあったと思われるが。「自殺との直接的因果関係」は認められないということになるのでしょう。結局死んだ子どももその親も報われないということになります。文科省の認識に欠如しているのは四つの視点です。第一は人間世界に「いじめ」は常に存在するという事実を軽視していることです。第二は、子どもは天使でも、無邪気な生き物でもなく、自らの欲求や性癖をコントロールする社会性の発達が未熟な成長途上にある自己中心的な「半人前」であるということです。それゆえ、強力な「指導」が不可欠であるということです。第三に追いつめられれば、子どもも大人も自殺するという事実の重さに配慮が足りません。被害者の「人権」こそ優先されるべきなのです。第四は、教育行政と学校は「いじめ」は「悪」で、「反人間的」で、「卑怯者のやることだ」という教育界の社会的風土の形成に失敗しているという事実認識が欠如しているのです。
2 いじめは人間性の一部です
もしかすると読者には認め難いことかも知れませんが、いじめは人間性の一部です。人間は人間である前に霊長類ヒト科の動物です。縄張りを争い、弱肉強食で生きてきた生物のDNAを身体のどこかに引き継いでいます。しかも、人間だけが、前頭葉に心理学・生理学の言う「殺傷本能:Killing Instinct」を有する動物です。他の動物と違って、生きるための「食」の獲得にとどまらず、人間自身をも、多の動物をも自らの娯楽や欲望のために殺します。しつけや教育や法や処罰によって社会はこうした人間本能を押さえ込もうとしてきたのです。
猛獣でも意図的に同類を殺害することはないと言われているのに、人間は何と多くの殺人を重ねてきたことでしょうか!いじめも、暴力も、殺人ですら人間世界からなくすことはできないのです。
それゆえ、余り遠くない近年まで、国によっては、凶悪犯罪者の前頭葉摘出手術(ロボトミーと呼ばれます)が行なわれて来ました。前述のKilling Instinctを除去するロボトミーを行なうと凶暴な人間の言動が穏やかになることが知られています。しかし、前頭葉の働きは創造性や感性を司る器官ですから、人間を人間らしくする根源機能でもあります。それゆえ、ロボトミー(前頭葉を摘出する手術)は、人間性に反するものとして現在は国際的に禁止されています。かつてアメリカのアカデミー映画賞を受賞したジャック・ニコルソン主演の「カッコウの巣の上で」はロボトミーの残虐性を訴えた作品でした。
かくして人間は、社会がよほどしつけや規範によって抑制しない限り、人間の殺傷本能が身勝手で残虐な行動に駆り立てることになるのです。
今や家庭のしつけは崩壊の危機に瀕し、子どもの耐性、社会性は著しく低下しました。また、学校は、道徳や伝統的な価値や生き方の美学を「型」として教えることを止めてしまいました。子どもに「共生」や「人権」の思想を理念的に教えることができると錯覚しています。おとな社会でも出来ないことをどうして教室が子どもに教えることができるでしょうか!現代の学校にいじめは「卑怯」だという感性はないでしょう。いじめたら「タダでは済まない」という雰囲気も、処罰の実践も存在しないでしょう。男女共同参画の思想が浸透して、みんなで一人を「いじめ」ることは「男らしくない」とか「女の腐った」ものだと言うことはタブーになりました。いじめは通常陰湿で外に分からないように行なわれるので担任が気づくことは稀であり、仮に、教師が気付いたとしても、いじめの存在は担任や学校の恥になるので、学校には気付きたくないという心情が働くでしょう。保護者が訴えても、時に本人が訴えても余り真剣に取り合わないのはそういうことが関係していると思います。また、暴力的ないじめや集団的な嘲笑の事実が明らかになったとしても、加害者に対する処罰はほとんど行なわれることはありません。加害者の人権論が説かれれば、処罰は説諭や叱責の範囲を越えることはないのです。筆者の子ども時代にも、もちろん、いじめっ子はいましたが、男女を問わずぶん殴られて、「2度とするな」と誓わせられました。残りの子どもはそういう子どもを「他山の石」として育って来たのです。正常な教育環境には他者に対する「いじめ」や「暴力」行為を見逃さず、タダでは済ませないという大人社会の空気があったのです。そういう時代ですら「いじめ」はあったということに注目するべきでしょう。今や、いじめっ子がこっぴどく「叱られる」ことも、先生の前で「誓わせられる」ことも、「懲りる」こともなくなったのです。我が校には「いじめ」は存在しないなどということを想定すること自体、教員の現状判断も、人間観も、半人前の子どもの観察力も誠に危ういのです。人権教育をしているからとか、子どもの個性と人間性は素晴らしいのだというような学校の子ども観こそが学校や教師の無知の証です。いじめは人間社会に何時も存在します。おとな社会にも、教員社会にも存在します。したがって、その被害者も存在します。大部分の子どもはかつてのわが家の子どもたちのように戦って切り抜けてきたのです。
3 スポーツに見倣え!
野球には審判がいて、相撲には行司がいます。争い事には裁判官が付きます。通常、人間世界のトラブルには客観性と公正を担保するため第3者の判定員が付きます。公務員の内部問題と学校のいじめだけはいつも例外で、内部の人間が調査をし、内部の人間だけで問題状況と因果関係を判定します。野球や相撲に例えれば、当事者であるプレイヤーが審判を兼ねるようなものです。
日本相撲協会もようやく己がやっていることの自己矛盾に気がつき、外部の第3者の意見を取り入れる仕組みを受け入れました。相撲に行司役がいて、相撲協会に行司役がいないということはおかしいということに気がついたのでしょう。
どのような業務でも、内部調査と判断だけでは、当然、客観性と公正を担保する事はできません。民主党が鳴り物入りで始めた「事業仕分け」も自公政権の政策や事業を判定していた時には、第3者の審判の位置を辛うじて保ち得て、国民の喝采を浴びました。しかし、ご覧の通り、民主政権の予算編成に判定の対象が移って来るとこんどは政権内のプレイヤー同士の審判になるので内部の言い争いが始まりました。「事業仕分け」はこれで終わりだという声も出始めました。冗談ではありません!「事業仕分け」は始まったばかりなのです。原口前総務大臣にいたっては「長い間議論して決めた事の意義が分からないようでは仕分け人を仕分けしろ」などと暴言まで吐きました。選手が審判に辞めろと言っているのと同じです。
民主党の事業仕分けは、いまだプレイヤーが審判を兼ねている矛盾に気付いていないのです。当事者がいくら意義を感じている事でも第3者には別の意味が生じるのは世の常です。そこを受け入れなければ評価の客観性と公正は担保できません。党内でどれほど長く議論して来ようと、第3者が見て「だめ」だというものは素直に再考してみるべきなのです。
これまでの学校のいじめ問題処理はプレイヤーが調査・判断する典型です。今度の群馬県桐生市の小学生自殺事件は、保護者が何度も学校に我が子がいじめられているので善処して欲しいと申し込んでいました。親はどこかで「混血」の我が子がこの国の「みんな同じ」文化に受け入れられるかどうかを心配していたのでしょう。
「よそ者」差別、「外人」差別はこの国の国民的性癖です。「内」をひいきして、「外」に冷たいのは日本文化の特性です。アメリカに暮らしてみると、実に新鮮ですが、私はアメリカ人のルームメイトと寝起きを共にし、アメリカ人の同僚と公平・対等に処遇されました。
これに対して、日本は留学生を留学生会館に「隔離」して、日本人学生と起居を別にする国です。帰国子女も言葉のアクセントがどこか「違う」というだけで「外の人」にしてしまう「内だけで固まる」文化があるからです。個性を教育の価値として標榜しながら、自分と違う人間を嫌うという社会的病理があるのです。 桐生市の事件では、インドネシア人の母を持った子どもは同級生の冷たい仕打ちに耐えました。さらに彼女は、日本文化が「よそ者」を差別するという特性を理解できない教員達に囲まれて過ごしました。日々の心細さはいかばかりだったかと想像して誠に同情を禁じ得ないものがあります。
事件後、学校も、教育委員会も「いじめ」はあったと渋々認めました。しかし、「いじめ」と小学生の自殺に直接の因果関係があったとは思えないと結論を出しました。またまた、プレイヤーが外部第3者の調査も受け入れずに、勝手な審判結果を保護者にも、世間にも提出しているのです。恐縮な言い方ですが、そうした結論の出し方は学校のまやかしであるばかりか、日本文化のまやかしでもあるのです。恐らく、多くの日本人が「留学生会館のどこがわるいの」と尋ねるのでしょう!?
自分史作法 -自制と節度の美学-
来年度はある自治体で自分史の講座をもつことになりそうです。嬉しいことです。すこしずつ準備を始めようとメモを整理し始めました。今回は日本文化に照らした作法の問題を取り上げてみました。
1 「秘すれば花」
日本の文化は「慎ましさ」を礼賛し、「控えめ」を推奨しています。「能ある鷹は爪を隠す」というのが「望ましい人」の行動原理を代表しています。才を誇ってはならないということです。似たようなものに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」があり、「下がるほどその名は上がる藤の花」があります。功績を上げた人、美しき人は「謙虚」だからこそその美徳が一層輝くのだ、という意味です。
要するに、日本では、自己を抑制することは「美しいこと」であり、謙譲は「美徳」であり、遠慮がちや控えめは「奥ゆかしい」ことなのです。こうした原理を裏側から読めば、臆面もなく自己主張をし、己を誇り、才を主張することは美しくないばかりか、文化の原則に反する「悪」なのです。
日本文化の物差しに従えば、ストレートにものを言うことは、往々にして美しくなく、「がさつ」であり、「非礼」なのです。すなわち、「悪」なのです。たとえ言わんとすることが「正しいこと」でも、「本当のこと」でも、あるいは「当然のことでも」直接に主張したり、指摘することは多くの人の眉をひそめさせることが多いのです。日本人は「そこまで言わなくてもいい」と感じるのでしょう。直接的な主張はどこか「はしたない」思いがつきまとうのです。主張して当然のことについても多くの人が自己主張を控えるのはこのためです。会議や交渉ごとで「声の大きい」方が勝つのも周りが遠慮するからですが、「声の大きい」人々が嫌われるのも同じ原理が働くからです。どのような主張であれ、「自己主張」は「図々しくて」「はしたない」という日本文化の物差しが言動を左右しているのです。
このように間接的表現文化の特徴は表現の「抑制」というところにあります。したがって、ブレーキの利いている表現はおおむね「善」であり、逆に、自由で、率直で、正直な表現はおおむね「悪」と判断されます。「秘すれば花、秘せずば花なるべからず」(*1)は世阿弥の名言です。日本文化における「抑制」の要求はひとり言語的な表現に留まらず、様々な領域の具体的な行為・行動にまで及びます。自分史も当然文化の抑制の対象です。(*1)世阿弥 「風姿花伝」、岩波文庫 昭和33
2 「謝辞」と「別れ」と「伝言」の作法
人生は自分の人生ですが、自分史は自分だけの歴史では終りません。人生を振り返ったとき、自分史の主人公はまぎれもなく「自分」なのですが、それでも「オレががんばった」、「私が切り抜けた」と自分一人で生きてきたかのような過去への感慨をお持ちの方はまだ「自分史」を書かない方がいいと思います。「おかげさま」が身に滲みて来ないと自分史は「自慢史」や「自嘲史」になり、日本文化の文法を裏切ることになるからです。
自分史もまた読者を必要とします。その多くは「未来の読者」です。
稀には、絶対に家族にも家族以外の第3者の眼には触れさせない、自分の日記のようなものであり、読者は自分自身のみである、というような方もいらっしゃいますが、そう言う方は出版は為さらないことでしょう。お書きになったものは、生前に処分しておかないと「自己愛(ナルシスト)」の方は何を書いても結局は自慢史になるだろうと思います。日本文化の中で生きて来た以上、くれぐれも自慢史や自嘲史を死後に残さぬよう心がけたいものです。
自分史を書いてみると一見平穏だったと思う人生にも実に様々な岐路があり、いろいろな方が立ち会って下さったことに気付きます。自分だけががんばって生きて来られた筈はないのです。
また、年をとって振り返ると、あっという間に過ぎ去った人生は短いようで実に多くの事実の積み重ねであることを思い知らされます。忘れ難かった事件を書いてみると、その背景に無数の「中ぐらいの事件」が積み重なり、更にその向こうに、普段は思い出すこともない「小さな事件」が折り重なっています。どの事件にも必ず他者が関係しています。
平凡な感想ですが、平和な時代の一生にも何といろいろなことがあったものだと感慨が湧いて来ます。高村光太郎の「秋の祈り」の一節に「我が一生の道程を胸迫って思い、憤然として祈る、祈ることばを知らず・・」とあります。
長い人生を振り返れば、時々、このような思いが湧いて来るのです。
3 「事件史」から始めよう
書き方にはいろいろなアプローチがありますが、自分史は文字通り「歴史」ですから、まず「事件史」から書き始めてはいかがでしょうか。自分史の参考書を読むと「子ども時代」から始めよ、とか「ふるさと」の紹介から始めよという助言が多いのですが、筆者は「事件史」から始めるべきだと思います。どこから書き始めるべきかというルールはありませんが、書けるところから始めることが原則です。「書けること」とは「覚えていること」であり、「忘れ難いこと」です。
あなたの人生の無数の事実の中から、「忘れ難い事件」、「鮮明な記憶のある事柄」を選んで書き始めるのです。「あなたのそして私の人生の方向を決定した「岐路の選択」も当然大事件の一つです。
事件史は、「事実の積み上げ」と「事実に関するあなたの感想」で構成されます。事件史の原則は歴史の背景と条件を正確に書くことから始まります。それゆえ、事実の積み上げとは新聞の事件記事のように、まず記録を残そうと選んだできごとの「5W1H」を書くことです。WもHも英語の頭文字で、「いつ:WHEN」、「どこで:WHERE」、「だれが:WHO」、「何を:WHAT」、「なぜ:WHY」「どのように:HOW」やったのかということです。5W1Hの原則に従って記録してみると、「あの時にはこういうこともあった、「あの場所ではあの人にも会って、助けていただいた」、「あの時はそう思ったのだが、時間をおいてみると別の理由も無意識の中にあったのだ」などと気付くのです。それが「事件の連鎖」です。
「事実の連鎖」とは記憶の連鎖です。一つの事件の背景と条件が明らかになると、「連想ゲーム」のように「中位の事件」も、それに連なる「小事件」も記憶の中で繋がって来ます。「連想ゲーム」を引き起こす鍵が5W1Hです。
事件の5W1Hが出そろったら、次は「事実に関するあなたの感想」をメモして行きます。「感想」の最初は「嬉しかった」、ありがたかった」、「失敗だった」などというあなたの気持ちの断片でいいのです。「断片の感想」が書けたら、その次に「なぜそのように感じたのか」を考えてみればいいのです。「事実に関するあなたの感想」もまた「連想ゲーム」の要領でいいのです。「過去のできごと」の感想を積み重ねて、あなたの人生感や評価を紡ぎ出して行くのです。もちろん、過去の事件はいいことばかりではありません。辛いこと、苦しかったこと、思い出すのも嫌なこと、忘れていたかったことまで思い出させられます。
過去のことはすでに取りかえしはつきませんが、それでも悲しくなり、腹が立ち、ああも出来た筈だ、こうも出来た筈だと後悔や恨みも反芻しなければなりません。辛すぎる思い出が蘇って来ると恐れる人は自分史を書いてはいけないのかも知れません。それでも書くことや語ることは、人間に様々な効果をもたらします。それらは思い出の浄化であり、その時は飲み込んだ怒りの告発であり、時には事実や心情の告白であり、忘れていた記憶の甦りであり、密かな誇りの回復であり、感謝の言葉であり、未来への伝言であり願いであり、時にはお詫びであるかも知れません。自分史には実にいろいろな働きがあるのです。
4 4種類の記録
自分の体験では書いてみて良かったと思うことの方が多かったというのが実感ですが、自分史には通常4種類の記録があります。第1は「書きたいこと」、第2は「書きたくないこと」、第3は「書かねばならないこと」、第4が「書いてはならないこと」です。それゆえ、自分史の作法とは上記4つについてのあなたの自制と節度を意味します。
最も陥り易い罠は自分史が自慢史や自嘲史になることです。それゆえ、「書きたいこと」だからと言って何でも書いていいということにはならないのです。次の問題は「思い出したくない過去」についてです。書きたくないことは当然書かなくていいのですが、自分の中にくすぶって、釈然としない気分が続くとき、吐き出してしまうとすっきりすることがあるものです。誰も過去を変えることはできませんが、過去の整理をして「できごと」の解釈を変えることはできます。書いてみて自分なりの整理が出来ることで人は「浄化」されることがあります。カウンセリングで問題を他者に話してみたら気持ちが楽になるという状況と似た機能です。書いてみて、自分も読み返したくはなく、親しい人々にも読ませたくはないと思ったら自分史から消せばいいのです。
第3の問題は、特別書きたい気持ちはなくても残された人のために書いておかなければならない問題があるときです。通常、この種のできごとは微妙でかつ重要です。書きたくないのはそのためであり、書いておかねばならないのもそのためです。過去にわだかまりやしこりを残さないためにも、あなたの見た事実や感じ方を出来るだけ冷静かつ客観的に記録することが大事です。
第4の問題は、残された人を傷つけたり、未来に争いや災いの種を残すようなことはどんなに書きたくても書いてはなりません。 このように自分史には自制と節度の作法が不可欠なのです。家族でも友人でも、もちろんあなたとは無関係の第3者に対しても謙虚さと自己抑制こそが想定する読者への礼儀です。それゆえ、自分一人で人生を生き抜いてきたと思う人は、自制や節度のブレーキが効きませんので、書かない方がいいでしょう。
自分史には様々な事実や心情が含まれますが、どの事件も、どの思いもあなたお一人だけが関わったということはまずあり得ないでしょう。どなたも真空の社会で生きて来た筈はありません。人間は人の間で生きて来ざるを得なかった筈なのです。もしもあなたが一人の力で生きてきたと思うのであれば自分史を残すことも余り意味はないでしょう、読者はあなたお一人だということになるからです。高齢者が書く自分史の3大要素は「謝辞」と「別れ」と「未来へのメッセージ」です。どの事件にも、どの思いにも謝辞があれば、未来の読者との「橋」は繋がります。年を取って書くお礼の言葉はその大部分が「別れ」の挨拶を兼ねています。いろいろな別れがあることは分かりますが、さわやかに別れるのが大人の分別というものでしょう。さわやかな別れが言えないことも当然あると思いますが、自身の心情を吐露したつもりでも。泣き言や、恨み言は愚痴や未練に聞こえます。「気が済まない」というお気持ちが分からないわけではありません。一言言っておけば「気が済んで」胸のつかえが下りるという浄化作用のあることも分かりますが、日本人の「美学」の基準に適わないのです。控えめで抑制が利いていて、読むものの「察し」を促すところで止めておくしかないのです。その種の事件は我慢して書かないことが分別というものです。人間は誰も他者の代わりには生きられません。どんなにあなたに近い人でもあなたに代わって哀しみを悲しみ、痛みを耐えることはできません。痛みも苦悩も個体で存在する人間には代替不可能なのです。“人の痛いのなら三年でも辛抱できる”のです。確かに“おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざなり(兼好法師)”ではありますが、未来のどこかであなたの自分史はあなたの知らない人が読むかもしれないのです。
前に書いたように自分史は「紙の墓標」でもあり、「タイムカプセル」でもあるのです。
132号お知らせ
第107回「生涯教育まちづくり移動フォーラム」in飯塚」
フォーラムに先立って13:30-15:00はNPO「幼老共生まちづくり支援協会」の成立総会を行ないます。関心のある方はご自由にご参加下さい。
日程:平成23年1月22日(土)
研究発表:テーマと発表者
1 「未来の学校」 益田 茂(福岡県立社会教育総合センター)
2 「市民による市民のための生涯学習システム
-生涯学習社会と言いながらなぜ市民の知識と技術を生かさないのか-弓削暢彦(福岡県立社会教育総合センター)、野見山和久(同左)
コーディネーター:三浦清一郎
場所:飯塚市穂波公民館(-0948-24-7458. 住所:
〒820-0083飯塚市秋松408.)
平成22年度北九州市「若松未来ネット」公開発表会
日程:平成23年2月11日(建国記念日)
会場:北九州市若松区役所3F
時間帯
13:00-15:30 公開発表会
15:40- 若松未来ネット事業3年間の総括
第108回生涯教育まちづくり移動フォーラム」in大分
(「活力・発展・安心」デザイン実践交流会:大分大会)
プログラム:まちづくり・子育て支援等を中心とした特別講演、リレートーク、実践発表など福岡と大分のコラボレーションです。
日程:平成23年2月26日(土)10:30から27日(日)12:00まで
会場:「梅園の里」:大分県国東市安岐町富清2244(TEL0978-64-6300)
参加費:500円、宿泊・食費別
問い合せ先:事務局:大分大学高等教育開発センター;中川忠宣(TEL/FAX097-554-6027)または東国東デザイン会議事務局 冨永六男(TEL0978-65-0396,FAX0978-65-0399)
§MESSAGE TO AND FROM§
購読更新の方々へ
いろいろ応援のメッセージをいただきありがとうございました。今回は132号をお送りし、いよいよ来年は12年目に入ります。
高齢社会の活力維持の提言で常々「お元気だから活動するのではなく、活動を続けるからお元気なのです」と主張して来ました。
今回の更新のお便りを読み返し、「元気だから『風の便り』を書けたのではなく」、ご支援を頂いて、「『風の便り』を書き続けて来たので元気を保つことができた」ということをあらためて認識しています。2011年も現場を離れることなく、教育と社会システムのあり方に付いて分析を続けます。
過分の郵送料・印刷費を頂戴しありがとうございました。
福岡県宗像市 牧原房代 様
大分県日田市 安心院光義 様
佐賀県多久市 横尾俊彦 様
〃 上 中川正博 様
〃上 林口 彰 様
〃上 田島恭子 様
福岡県八女市 杉山信行 様
福岡県朝倉市 手島 優 様
香川県高松市 横溝香代子様
神奈川県葉山町 山口恒子 様
福岡県宗像市 竹村 功 様
山口県周南市 大寺和美 様
東京都 菊川律子 様
福岡県太宰府市 大石正人 様
福岡県宗像市 田原敏美 様
〃上 赤岩喜代子様
北九州市 小中倫子 様
福岡県宗像市 大島まな 様
福岡県宗像市 久保誠一 様
一日も早いご回復、そして英語クラスへの復帰をお待ちしております。季節の変わり目ですので重々ご自愛の上ご養生ください。
大分県日田市 安心院光義 様 財津敬次郎 様
毎回の生涯学習フォーラムを支えていただき、感謝に堪えません。お陰をもちまして100回を越えることができました。福岡県内にも近県にも少しずつ参加者が広がって来ました。2月の最終週末は大分大会です。どうぞお誘い合わせの上ご参加下さい。
福岡県宗像市 賀久はつ 様
この度はお仕事の蓄積が認められ叙勲の栄に浴し誠におめでとうございました。古人は「年を重ねるだけで人は老いない、理想を失う時はじめて老いが来る。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時精神はしぼむ」といいました。お手本に倣って頑張ります。
山口県長門市 藤田千勢 様
私も眼の不自由をぼやいて暮らしておりましたが、人生には思いがけないことが起こるものですね。ひたすら前を向いてお進みになるお便りに接し、さすがと感服しております。山口大会では再会がかなうでしょうか?お互いSlow, but steady、で参りましょう。
広島県廿日市市 川田裕子 様
来年の広島移動フォーラムの件お決めいただいて山口フォーラムを実行した甲斐がありました。広島の皆様のご参加を得て、討議も交流も実り多いものになりました。小学生から大学生まで、若い世代を堅実にお育てになっていることに一同感服いたしました。帰りの列車をご一緒した大分大学の谷村さんは大分大会にもご参加いただけるとのことでした。大分の皆さんも広島が育てた未来の女性リーダーであることはご存知ないでしょうね!
島根県雲南市 和田 明 様
日本海の贈り物有り難うございました。お元気にお過ごしのご様子安心しました。先生が最初の島根県の実行委員をお引き受けいただいてから長い歳月が流れました。来年はなんと第30会の大会になります。近県の皆さんと30周年記念論文集の編纂に没頭しております。資料を振り返っている中で、掛合町の「多根尋常小学校;めだか学級」の事例が出て参りました。学校開放の先駆けでしたが、日本の学校は未だ地域にその門戸を開きません。「子どもの縁」と「学校」を核として地域を再生して行く方法しか残されていないのではないか、という結論に近づきつつあります。
132号編集後記
裏切らないトレーニング、裏切る欲望
幼少年にとっても高齢者にとっても筋肉のトレーニングは必ず結果が出ます。筋肉トレーニングは決して裏切りません。筋肉ほど分かり易くはありませんが、頭脳のトレーニングも必ず結果が出ます。脳トレの成果は大川市の特養ホームの研究が証明しているところです(*)。精神のトレーニングの結果証明は難しいことですが、これは「風の便り」を書き続けた自分自身が実感しているところです。基本的にトレーニングは結果を裏切りません。そのトレーニングを裏切るのが人間の欲望です。
この度飯塚市の内野小学校の永水正博校長先生から学校キャンプの報告書を頂きました。子どもたちを「お客さま」にする1泊2日の「接待キャンプ」を3泊4日のトレーニングキャンプに変えたそうです。当然、この柔な時代、反対論も多かったそうですが、校長の固い意志が突破口を開きました。子どもは明らかな変化を見せました。結果を前にして反対論も影を潜めました。特に、幼少年期のトレーニングは決して教育意図を裏切りません。裏切るのは関係者の「欲望」です。「楽をしたい」という子どもの欲望も、「波風を起こしたくない」という行政の欲望も、「仕事を増やしたくない」という教員の後ろ向きの欲望も、「子どもにきつい思いをさせたくない」という親の欲望も時に結果を無に帰します。校長先生お見事でした。
*福岡県大川市の特別養護老人ホーム「永寿園」では、「学習療法」と名づけられた方法で、痴呆性高齢者に毎日10~20分の計算 と音読指導を始めてから、高齢者の中に言語の回復を含む大きな変化が見られたと報告しています。痴呆に挑む 、川島 隆太/ 山崎 律美、公文出版、2004年