「風の便り 」(第133号)

発行日:平成23年1月
発行者 三浦清一郎

教育行政の「不作為」と学校外教育機能の空白

1 教育行政の不作為

今や、学校への過剰期待、その結果としての学校の肥大化、従来の地縁をもとにした伝統的地域共同体の衰退、地域教育力の崩壊は様々な社会病理の状況をもたらしました。中でも、核家族化が進行した結果、孤立した家庭の養育機能や教育力の低下は、日本の子どもの諸問題を拡大再生産しつつあります。それを象徴する近年のスローガンが「早寝、早起き、朝ご飯」であり、「モンスターペアレント」の登場です。二つの現象は、多くの家庭におけるしつけ感覚と教育常識の崩壊を象徴しています。
一日の始まりの朝ご飯を食べさせないで学校に子どもを送り出すということは、その他の基本的生活習慣やしつけの崩壊を明快に裏付ける雄弁な証言です。「早寝-早起き」に象徴される子どもの生活リズムを指導できないということは、もはや多くの家庭は子どもの成長にとって非教育的或いは時に反教育的環境と化したということです。「早寝、早起き、朝ご飯」が文科省主導の教育運動になったり、県の指導目標になっている現状を恥ずかしいと思わないことが恥ずかしいのです。なぜ生活リズムを取り戻す為の特別・集中的な手を打とうとしないのか、教育行政の感覚を疑います。日本伝統の「子ども宿」の慣習まで逆戻りをしなくても、学校を使えば、「オリエンテーション合宿」や「通学合宿」や「サマーキャンプ」や集中的な「勉強合宿」などの方法はいくらでもあるのです。しかし、小学校の低学年の期間に徹底した生活指導や適応指導を行なったという事例を聞いたことがありません。逆に、愚かな中央行政の指導を盲信して、「早寝、早起き、朝ご飯」の歌など歌って家庭に呼びかけている県がありますが、バカバカしさを通り越して無責任・不作為の極みと言わねばなりません。「おそ寝、おそ起き、朝ご飯抜き」は日本の多くの家庭が「選択」したことであり、登校する子どもを車で送るのはその結果なのです。義務教育の間に基本的生活習慣や生活リズムを確立できなければ、社会規範を教えることなどできる筈はありません。教育行政や学校がいくら口を酸っぱくして言っても、「早寝、早起き、朝ご飯」の指導ができない家庭環境において、基本的生活習慣のしつけや礼節や規範の内面化は極めて厳しいのは当然です。行政も学校も事態の深刻さは十分すぎるほど知っているのです。「家庭でなんとかしてもらいたい」と教員達は20年くらいは言い続けて来ているのです。
学校も教育行政も、そうした家庭環境で、学習の構えはもとより、体力、耐性、協調、協力など集団で生きる力の基本を為す「核体験」の蓄積は望むべくもないことも知っています。知っていて、しつけと基本的生活習慣の確立は「家庭の責任です」と言い続けて来たのです。現在、教育行政や学校が言い続けている「家庭の自己責任」論は、介護が自己責任であった時代、「お宅のおばあちゃんはお宅で責任をもってお世話して下さい」と言い続けて来た福祉行政の「言い草」と同じです。核家族化や老老介護の「悲惨」が国民を「食いつぶし」,高齢者を悲劇に追いやった事実が明らかになって初めて、ようやく介護保険制度が導入されて介護の社会化が行なわれました。現代の多くの家庭に、もはや「介護の自己責任論」が適用できなくなったように、多くの家庭に「教育の自己責任論」を適用できなくなっているのです。
財源のない「ばらまきの子ども手当」の何分の一かを当てれば、軽々と学校による少年期の集団訓練や共同生活のオリエンテーションは可能になります。介護に家族を支える社会化のセイフティ・ネットが必要であったように、現代の少年教育にも類似の「養育の社会化」というセイフティ・ネットが必要になっているのです。現代の家庭の「養育力・教育力」はそこまで凋落しているのです。
体力も耐性も基本的生活習慣も礼節や規範の内面化もできていない子どもに通常の授業は成立しません。先生方は学校という環境に適応できていない子どもに指導はできないのです。学級崩壊も、授業崩壊も小1プロブレムもそうした子どもが引き起こし、本人の学力はもとより、他の子どもの勉学の障害になるのです。小学生を私立学校に送れる家庭には義務教育の悲惨を回避する「選択権」がありますが、田舎に済む家族や普通の経済状態以下の家庭は私立学校を選択することはできません。
それゆえ、問題の解決には義務教育を立て直すほかに道はないのです。3年生を過ぎれば、子どもの習熟度に大きな差が発生します。遅れた子どもはどのような教育的補完の配慮を受けているでしょうか!?学校が終った後の学童保育は教育的補完を考えて来たでしょうか?労働基準法はフレックスタイム制を認めています。日本のどこかに先生方の時差出勤制を採用して「遅進児」の教育的補完に取組んでいる学校があるでしょうか?日本の政治家は「保育を必要とする家庭」ほど「教育的補完を必要とする家庭」になりがちであるという事実を考えた末に、学校外の教育と保育の分業のシステムを存続させているのでしょうか。政治や行政の不作為を理解できないのは筆者だけなのでしょうか!

2 学校外教育の立て直し

産業構造の激変と生活スタイルの都市化が進行して地域共同体が衰退・崩壊したということは、地縁によって形成されていた集団が崩壊したということです。近隣のおじさん、おばさんの教育機能も、地縁の遊び集団も、社会教育関係団体の子ども会までが崩壊しつつあるということです。
共同体の崩壊は、地縁に基づく共同行動の衰退に重なるので、子どもは第1次生活圏で「みんなで共同」、「みんな一緒」の集団体験を欠損し、社会参加体験を欠損し、勤労体験を欠損し、地域の大人との多面的な接触体験を欠損しています。
今や、子どもにとって一番大事なものは、自分たちの欲求の実現となりました。学校を始め子どもの指導に当たっている方々は、子どもたちは一様に自分の気に入らないことに対しては、「きつい」、「面白くない」、「やりたくない」、「やだ」を連発すると言います。その彼らが突然、学校が求める規範に服従できず、カリキュラムが要求する集団スケジュールや共同行動に不適応を起こしたとしても何ら不思議なことではないのです。すでに事態は、子どもに限らず、子どもたちの保護者でさえ、「みんな一緒」の共同行動から解放され、自己都合優先の生活スタイルを確立し、それぞれに自由な私生活をエンジョイしています。それゆえ、保護者もまた子どもの共同行動や集団生活の規範を教えられなくなっている可能性が高いのです。もちろん、保護者は地域や学校のために生きているのではなく、自分のために自己都合優先の原則で生きています。メディアに登場する虐待や育児放棄のニュースの数が増加している現象から推測すれば、「子宝の風土」が風化して、もしかすると子どものために生きようとしない保護者が時代の表舞台に登場し始めているのかも知れません。すでに日本社会には自由な「自分の時代」が来ているのです。
そのような時代の条件に無自覚のまま、近年の社会教育は形式的な子育て支援・家庭教育支援の努力を続けて来ました。結果は周知の通り、何度研修会を繰り返しても、相談会を重ねてきても、「来てもらいたい人は来てくれないですね」というぼやきを繰り返すだけに終りました。義務教育と違って社会教育には教育の強制力はなく、生涯学習の建前の下で市民の選択に任せて来た以上、しつけや教育に無関心な人々に届く筈はなかったのです。この時、義務教育学校と組み合わせた社会教育事業だけが幾分かの成功を納めました。学校と組めば社会教育は住民の信用を得ることができるのです。それが学校と社会教育が協力して実施した通学合宿やサマーキャンプの工夫です。学校と社会教育の協力を私たちは「学社連携」と呼んできました。
学校の教育問題の大部分は家庭と地域を発生源としています。しかし、学校のジレンマは、学校外を発生源とする諸問題が学校に集中したとしても、個別の家庭や地域の「みんな」が支えるという考え方が不可能になりました。地域はバラバラで無関心であり、PTAや保護者会も自己都合優先で自由に振る舞う個々の会員や家庭を束ねる力はもはや希薄になりました。地縁集団からも、PTAからも自由になった個々の家庭は、学校に要望と文句を言う以外為す術がなくなったのです。その典型がモンスターペアレントなのです。
誰も正式に評価の対象としませんが、現代の地域で唯一辛うじてルールへの服従や言動の規律や規範を子どもに強制しているのは、チャンピョンスポーツのクラブ指導者か「塾」の指導者です。それゆえ、「公立学校は今の社会で機能し続けるのか」と問うているのも塾です(*1)。
公立学校には存在しないスポーツクラブや塾の指導規範や指導方式が、陰ながら日本の子どもの協調や学ぶ姿勢を保っているという事実もまた認めざるを得ないのです。
地域集団も、家族も、家庭教育も孤立し、弱体化し、結果的に学校もまたそれが位置する地域との関係が稀薄になって、ますます閉鎖傾向を深めることになっているのです。果たして、これからの学校は社会教育と組んで地域の教育力の再編成の方向に動くでしょうか。また、「生涯学習」の理念の影響下で自分の好きなことしかやらなくなった市民を、社会教育は子どもや地域の共通問題の解決のために機能するシステムに作り替えることができるでしょうか?生涯学習は市民の選択に任せればいいのだと言い続けて来た社会教育行政の理屈は不作為を正当化する詭弁を含んでいます。これからの社会教育行政は、公金を投入する対象を選択し、自らの「教育課題」を再診断して学校外の問題に立ち向かう施策を打ち出せるようになるでしょうか?それとも「生涯学習」理念の陰に隠れて「不作為」を続けることになるのでしょうか?2011年の学校を取り巻く問題はそうしたことを問われているのです。

(*1)濤川栄太、中萬憲明、中萬隆信、塾が日本を変える、1996年,ヒューマン、pp.32~36

時事教育評論5  政治「先物」詐欺-公約不履行と投票行動の詐取-

1 司会者が示した周到な準備モデル

過日一休みしようと思ったとき、偶然妻がテレビ朝日の報道ステーションをつけました。司会の古館さんが張り切って今夜は菅総理をお招きすることができましたと叫んだので見ることにしました。司会者にとっては一国の首相をお招きできたということは名誉なことでしょうから、古館さんはよく勉強し、彼をサポートするスタッフも入念な資料を準備してインタビューに臨みました。教師や指導者にとってとても大事な準備姿勢のモデルを示したと感心して拝見しました。
インタビューは多岐に亘りましたが、筆者が注目したのは民主党および菅総理大臣が国民に約束したことをどのように説明するかという一点でした。
まずは財源問題。総理の説明では、消費税5パーセントの総収入は7兆円で、高齢者の福祉に関する費用だけでも17兆円だという説明でした。それゆえ、選択肢は高齢者の介護その他の負担を増してもらうか、給付を減らすか、国民全体で負担をするために消費税を上げるかということにならざるを得ないということでした。これに対して古館さんは、民主党のマニフェストや菅総理の演説から引いて、公務員の削減や給与引き下げ率は約束と全く違うこと、衆参両院の定数削減も約束したことは何一つ実現していないことを突き、「無駄をなくす」筈の事業仕分けも中途半端に終りそうではないかと資料を示して批判しました。
総理の弁明は、上記の約束の実行には「いろいろ調整の難しいことがあるのでまず検討を始めている」とのことでした。しかし、筆者は、民主党がマニフェストで公開の約束をし、選挙運動を通して、自公政権がやれなかった上記の難問を実行すると説明・宣言したが故に政権交替を支持したのです。民主党になれば、長年の官僚支配や税金の無駄使いや多すぎる議員定数も減らすことができ、新しい風が吹くであろうと希望を託して一票を投じた身としては全く納得しかねる菅氏の説明でした。前政権ができなかった課題は利害が対立する課題であり「難しいことは最初から分かっているのだから、国民に約束する以上はもっと実行可能性を詰めてから言え」とテレビに向って怒鳴りました。古館さんもイライラが募ったことでしょうが、多少顔が引きつった程度で、一国の総理に対して辛うじて礼節を保ちました。
次にTPP(環太平洋自由貿易協定)についても、「平成の開国」などと抽象的文言を振り回して言を左右にする総理に対して古館さんは、日本と競争関係にある他国が相互の関税を撤廃して自由貿易を開始すれば、日本はライバル産業国との輸出競争力を完全に失うことになり、現在の日本国の主要な「稼ぎ」の大部分を失い、国民生活の水準は急落すると指摘し、農業を守るのか、それとも農家を守るのか方針をはっきりさせた上で、当面の対策を講じるべきであると迫りました。ここでもまた「いろいろ難しい条件があるので検討をさせている」という答弁で菅氏は逃げました。TPPは関係国の間でもうすぐ締結されるのですから、「検討をさせている暇などあるのでしょうか」と古館さんは言いました。

2 総理大臣が示した不誠実な言動モデル

近年「先物投資」や「未公開株」の販売で、「必ず値上がりする」と鳴り物入りの説明会まで行なって多くの人々から金を巻き上げた悪徳商法の責任者が次々と逮捕されていますが、菅総理の言っていることは「必ずやる」と言ってやらない「先物投資政治」だったということです。疑いなく民主党は筆者の一票をだまし取ったのであり、勉強家の古館さんの質問をのらくらとはぐらかす態度は、「投票詐取」、「政治詐欺」と呼ぶべき憎むべき不誠実さです。中学生以上の学力があれば、菅氏が古館さんの質問に答えようとせず、はぐらかそうとしていることは十分に分かる筈です。一国の総理大臣が子どもたちに対して何たる教育モデルを提示しているのでしょうか!彼は不誠実な言動のモデルをテレビを通して全国の青少年に曝しているのです!!
意見がそれぞれに異なることは当然のことですから、違ってもいいのです。しかし、彼は質問に正面から答えず、批判をはぐらかし、出来ない事の理由を言わず、約束を守れないことの詫びを言わず、言動の全てが不誠実です。先に愚かな約束をばらまいて、お詫びのしるしに辞めざるを得なかった鳩山前首相と比べて人としての姿勢において劣るのです。「有言実行内閣」などという空文句が聞いて呆れます。その言動が誠実さを感じさせない総理大臣を国のリーダーに頂いて、日々その詭弁を聞かざるを得ないことは誠に情けなく、彼を政治詐欺で逮捕する法律のないことは誠に残念なことです。
菅氏はいつぞや「政権支持率が1パーセントになっても総理大臣は辞めない」と言ったとか。彼は「えらくなりたかった」だけで、市民のための運動に情熱を注いできたのではなかったのです。彼が尊敬して師と仰いだという市川房枝さんは草葉の陰でさぞお嘆きのことだと思います。

読者のお便りに触発されて
必要とされない孤独、邪魔にされる絶望
-高齢者の居場所と浪費の構造-

読者からお便りを頂き、日本の現実にやり切れない気持ちになりました。年老いた親が子どもから邪魔にされる絶望を垣間みたお便りでしたが、同時に福祉を建前に高齢者をだしにして浪費を作り出す構造が厳然と存在することも併せて痛感させられました。自己都合の権利だけを推し進めた人権時代の結末を見る思いです。

お便りは次のように始まります。「友人を病院に見舞い、話を聞いているうちにだんだん帰りづらくなりました。知人は11月の始めに風邪をこじらせ肺炎になって緊急入院、高齢なのでやや手遅れの感がありましたが一月余りの加療でようやく完治したそうです。彼女は健康な時から足が弱い方だったのですが、しばらく臥せっていたのでたちまち足腰が衰え、そのままリハビリ病院へ転院して現在に至っています。」読者はそのリハビリ病院にお見舞いしたのだそうです。
「話を聞くうちに彼女の立場はリハビリではなく年末年始はしばらく家に帰って来ないでということだということだとしょんぼりするのです。『歩かせてもらえば歩けるのだけど歩くことは病院からまだ許可が出ないので車椅子での移動に制限され、それも病院の人手が足りないので食事時のみ』・・後はベッドの上でじっとしているだけなので辛いというのです。」
便りの主は、「歩けるなら歩けば良いし、家でこまごましたことを少しずつするのが一番よいリハビリになるのだから退院を申し出たら?」と促したそうです。
ここからは年寄りの愚痴かも知れませんが、「息子夫婦が肺炎で入院した時にすぐに次の受け皿を手配したので、この病院に転院できたのだから3月までは此処にいないと息子夫婦の機嫌が悪い」のだと涙を流したそうです。「兎に角一日でも早く退院して帰宅するのが今後の為にも一番いいのだけどね。このままここにいたら本当に歩けなくなってしまいますよ」と言ったそうです。しかし、彼女は、「結局、年寄りにはどうにもならないのよ、此処におれるだけおるんよ、しかたなかっ!」と諦め顔で答えたそうです。
先輩の涙を見た読者の哀しみと怒りが若い世代の「自分流の生き方」に向けられるのは当然ですが、それもまた日本人の選択の結果なのです。
「今時の若い子供たちは何を考えているのでしょう。親を邪魔者扱いにして、それも自分達が、自由診療の制度に則って費用全額の負担をかぶって親を入院させているならばまだしも、既に必要なリハビリが完了したあともリハビリ治療の名目を利用して、別の病院へ移し、健康保険の世話になって一割負担で親を2ヶ月も3ヶ月も預けっぱなしにするなんて!医療費、介護費が暴騰しているのはこのようなけしからん若者がいるからです。」お怒りは誠にごもっともです。しかし、これもまた日本の福祉制度が選択したことなのです。
子どもの自由と欲求を放任し、彼らが生きたいように生きることが「善」であるとしたのは親世代の選択です。読者ご自身がお気付きのように若い世代は自分の生き甲斐を追求し、才能を伸ばしながら仕事をすることが「自己実現」であると信じています。その時、年老いて半病人になった親が障害になり、邪魔になるのです。介護保険は老老介護の悲惨が「引き金」になって生まれた介護の社会化の制度ですが、現代の「姥捨て山」の側面も確かにあるのです。「親孝行したくないのに親が生き」は若者の心情の断片を切り取った秀逸な川柳です。日本の親世代は準備と覚悟が不十分でした。読者がご指摘の通り、親世代もまた自己都合を優先し、思い通りに安楽な余生を追求したのです。まさに現在、好き放題に生きた不養生の付けが出始めているのです。病気とまでは行きませんが、体の自由が効かなくなり、心理的に前向きに生きることは何事も面倒くさくなった年寄りは山ほどいます。
いっそ、開き直って、若い者の機嫌を取らずとも、リハビリ病院のようなところへ入ってさえ居ればお金もさして要らず生活はできるのです。あなたがおっしゃったように、3ヵ月後には又新しい病院友だち(リハ友とでも呼びましょうか)と仲良しになって安楽に暮らすことができるのです。日本国民の老後は人権が保障され、セイフティ・ネットもあるのだからと・・・。
あなたがおっしゃったように、本人はもちろん、病院も、施設も、そして若者達も全てが高齢世代の「廃用症候群」の発生・増殖に加担しているところがあるのです。しかし、安楽の果てであろうと、自立の戦いの果てであろうと現代人の最後は悲惨ですよ。手の足りない病院のきまりとスケジュールに支配され、最終的に必要とされなくなった孤独、若い世代の邪魔にならざるを得ない絶望と向き合って最後の日々を送らねばなりません。時々の「見舞い」があったとしても、優しさは「束の間のこと」です。
平均寿命からいうとどちらが先になるかは分かりませんが、もし順番が来たら、あなたのお見舞いに参る所存ですが、それも「束の間」、現代に生きる我々には孤独と絶望に耐える覚悟が必要なのです。

133号お知らせ
1 平成22年度北九州市「若松みらいネット」公開発表会
日程:平成23年2月11日(建国記念日)
会場:北九州市若松区役所3F
時間帯
11:30-12:00 「日本文化の文法-ボランティア募集の方法と間接表現文化」(仮)三浦清一郎
(昼食が必要な方は各自でお弁当をご準備ください。)
13:00-15:30 公開発表会
15:40- 若松みらいネット事業3年間の総括 三浦清一郎、大島まな

2 第108回生涯教育まちづくり移動フォーラムin大分(「活力・発展・安心」デザイン実践交流会:大分大会)

プログラム:まちづくり・子育て支援等を中心としたリレートーク、実践発表など福岡と大分のコラボレーションです。
* コミュニティ・スクールの実践(飯塚市立高田小学校)
* 特別講演:教育における「不作為」と鍛錬の空白(仮)(三浦清一郎)
日程:平成23年2月26日(土)10:30-27日(日)12:00
会場:「梅園の里」、大分県国東市安岐町富清2244(TEL0978-64-6300)
参加費:500円、宿泊・食費別
問い合せ先:事務局:大分大学高等教育開発センター、中川忠宣(TEL/FAX097-554-6027)または東国東デザイン会議事務局、 冨永六男(TEL0978-65-0396,FAX0978-65-0399)

§MESSAGE TO AND FROM§
2011年が明けました。本年もよろしくお願い申し上げます。このたびも登録の更新に当たっていろいろ応援のメッセージをいただきありがとうございました。3人の方のご感想に便乗させていただき、暮れから新年にかけて感じたことをご披露申し上げます。

過分の郵送料・印刷費を頂戴しありがとうございました。

佐賀県佐賀市  城野眞澄 様
広島県北広島町 久川伸介 様
宮崎県宮崎市  飛田 洋 様
佐賀県佐賀市  小副川ヨシエ様
長崎県長崎市  藤本勝一 様
山口県下関市  永井丹穂子様
埼玉県越谷町  小河原政子 様
福岡県宗像市  岡嵜八重子 様
福岡県県岡垣町 神谷 剛 様
福岡県朝倉市  太田政子 様
福岡県筑後市  江里口 充 様
福岡県太宰府市 大石正人 様
大分県日田市  財津敬二郎 様
千葉県県印西市 鈴木和江 様

我々の世代には「元気」をもって何をするのか、が問われているのだと思います

下関市 永井丹穂子 様
新年に活動を再開して多くの方々の2011年にかける抱負をお聞きする機会がありました。
多くの熟年世代は水泳や散歩やダンスやラジオ体操など運動に心がけ健康を保ちたいというお話でした。小さなことにくよくよしないで好きなこと、長年の願いであった旅のこと、続けてきた趣味の活動を一層進めたいというお話も沢山ありました。どなたのお話も最後は元気に暮らしたいというところに落ち着きます。当面はそれでいいのでしょうが、「物足りない抱負」であると感じざるを得ないのは、あなた様を始め先輩世代の数少ない例外的な活動を拝見したからだと思います。
昨年あなたの活動を垣間みて、日本の熟年者施策には「元気」をもって何をするのか、という問いも含めるべきであると痛切に思っています。現代の熟年層は相対的に鍛え抜かれた世代です。にもかかわらず現行の「保護的な福祉」と「安楽余生」を目的とした「生涯学習」政策のために一気に惰弱・惰眠の民となりつつあります。日本の高齢者政策の主眼は保護と福祉におかれていて、自立を忘れています。政治もメディアも高齢者に社会のために働けとは言わず、あなたのように社会のための活動を為さっている人に光を当てる気配は希薄です。当の高齢者自身も自らを保護と福祉の対象とお考えになっていて、「保護」が足りない、という声ばかりが聞こえて来るような気がします。高齢者自身に社会の仕組みを支える貢献者であり続けようという意識は極めて希薄であるように思います。
理論的には、生理学の視点からも、心理学の視点からも、「元気」と「生き甲斐」の源泉は社会的活動と社会的承認であることは間違いありません。にもかかわらず、現代の福祉政策と教育政策が目指しているのは「健康」と「安楽」に留まっていると思います。健康論は「元気」だけを目的化して、その元気をもって何をするのかを問いません。高齢者福祉論の限界ですね。我が「生涯現役」論が往々にして「生涯健康」論や「生涯活動」論に置き換えられるのはそのためであると感じています。人生80年時代の高齢者が昔の「隠居」のような発想しかできなければ、高齢化の進展とともに地域も国も一気に活力を失うことになるでしょう。保護されることに慣れ過ぎれば、甘えた高齢者の要求が国を滅ぼすことになりかねないのです。

熟年層の社会貢献活動に「光」を当てることが先だと思います

北九州市 西之原鉄也 様

「還暦祭」のご報告を興味深く拝見いたしました。自発的な参加者が少なかったのは、「還暦祭」が「光」を発していず、熟年世代に社会貢献の「志」が欠けているためだと思います。
かつて山口県阿知須町(現在の山口市阿知須)に定例の「熟年式」という催しがありました。現在はどのように為さっているか分かりません。筆者は無謀だったかも知れませんが、「熟年式」とは人生の最期の季節をどう生きるかという「志」を問うべき式だと提案し、時の町長さんと大いに意気統合したことがあります。上記の永井氏宛のメッセージにも書きましたが、社会貢献の「志」を問わない「安楽」や「余生」を目的とした「老後論」が横行する現状では、あなたの意を汲んだ人々がお集りにならないのは止むを得ない結果であると思います。政治に国家の行く末を示す「志」が見られない昨今、高齢者だけに志を問えというのは無理であることは重々承知しておりますが、地方の行政も工夫次第で「光をどこに当てあるか」を決定することは出来ると考えています。
政治や行政が社会や他者のために活動し続ける高齢者を顕彰し、「光」を当てない限り、「還暦祭」も「敬老会」も意味を持つ筈はないのです。あなたが始められた「若松みらいネット」のまちづくり企画に参画した高齢者が顕彰されるようなシステムが定着すれば、必ず人々の間に志が生まれ、人々が「光」の下に集まるようになると思います。政治や行政は「公」を担当する機能ですから、その「光」を創造するお役目があるのです。政治は「リーダーシップ」を果たすことはもちろん、そのリーダーシップをもって何を果たそうとするのか、「志」の創造が問われるのだと思います。大阪府の橋本知事や宮崎県の東国原知事は、「現状変革の志」を示して、少なくとも何かの「希望」を創り出しました。民主党による政権交替も同じ作用を果たしたと思いますが、交替後の現政権の結果は無惨な詐欺行為に終っていると別項で論評していますのでご笑覧下さい。志を問わないのであれば、公金を投じる還暦祝いや長寿を寿ぐ敬老会など無用なことだと思います。しかし、そうした催しに人々が参集するようになるためには、そこに集まる方々は単なる「長生き」や「趣味人」ではなく、「社会を支えている大事な人」であるという共通認識ができていることが前提だと思います。天皇陛下が催す「園遊会」が出席者にとって名誉であり、そこへの出席が人々の間である種のあこがれとなりうるのは優れた「貢献者」をねぎらう集いであるからだと思っております。

規範が先です。規範の基は欲求を自己コントロールする耐性です。

広島県北広島町 久川伸介 様

ご報告を胸熱くして読みました。ご指摘の通りです。学力の向上も、学校風土の改善も、規範が先です。規範の基は己の欲求を自己コントロールする耐性です。学校間連携の取組みにおいて「規範の旗」を下ろさなかったのは最善かつ最も困難な選択だったと思います。お見事でした。規範を守ることさえできれば子どもは大抵のトレーニングに耐え、潜在力は必ず花開きます。彼らにとって「できなかったこと」を「できるようにすること」は喜びであり、「機能快」(ビューラー)だからです。お便りにあった子どもの激変が先生にとってどれほど嬉しかったことか、遠くにいる私も胸熱くなる思いで拝読いたしました。今年は廿日市の川田さん、正留さん、子ども会の武内さんなどと「広島移動フォーラム」を計画しています。ぜひ、先生の実践をお聞きしたいものです。冒頭小論の通り、規範の問題も、体力耐性も、学校の問題である以上に教育行政なかんずく中央教育行政の問題なのです。

編集後記
王様の耳はロバの耳 -「床屋」になりたい!
子どもの頃に聞いたミダス王についてのイソップ物語を覚えておられることでしょう。 王様はロバの耳をしていて、それをひた隠しにしていましたが、 床屋だけは本当のことを知っておりました。しかし、固く口止めされていたので誰にも言うことができませんでした。事実を知ってしまった床屋は、 いつまでも黙っている事が苦しくて、苦しくて、とうとう野原の井戸の奥に向かって「王様の耳はロバの耳だ!」と思い切り叫んでしまいました。彼はそれですっきりしたのですが 、やがて井戸の回りに葦が群生し、風のそよぐたびに「王様の耳はロバの耳だ」と聞こえるようになりました。

1 本当のことは人を傷付けます

中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会30周年の記念出版の編集の山場を迎えています。実行委員・執筆者の原稿が出そろい始めました。書名は「未来の必要-生涯教育立国の条件」になる予定です。未来に必要なことは何か、を問うわけですから、温故知新で過去の優れた実践を掘り起こし、現状の問題点・制度上の欠陥を指摘し、それらを着実に修正することができていない今の政治や行政や現状の我々自身の研究を自己否定して何が未来の日本に必要な教育なのかを論じようとしています。筆者は編集長として、必要だと判断したところに「追加」・「補筆」・「修正」を施します。ところが具体的な分析・診断・処方の内容が明らかになると、論文自体が身近な顔の見える人々の仕事や現状を批判している結果になっていることに気付きます。

学校の閉鎖性を批判すると知り合いの校長先生を思い出すのでしょう。「ここまで言っていいのでしょうか?」という感想が出ます。「早寝・早起き・朝ご飯」が家庭教育のスローガンになっているということは、その程度のことすら指導できない現在の家庭の教育力の崩壊を象徴している、と書くと、このスローガンは文科省や福岡県の運動ですからあまり過激な批判はどうでしょうか、と言う消極論がでます。習熟度別学習の観点から遅れている子どもに、現行の労働法の範囲で教員はなぜフレックスタイム制(時差出勤制)を導入して補習をやらないのかと発言すると教員組合を思い出すのでしょう、気まずい沈黙になります。保育と教育のタテ割りをなぜ修正できないのか?保育を必要とする家庭の子どもがより一層の教育的配慮を必要とするのは論理の必然ではないか、と言うと現実にタテ割り行政の中で仕事をしている人々の怒りを買うことにならないか、ということになります。要は政治も行政も日本の未来に具体的な教育指針を出して来なかったからだ、と言うと現職の公務員は「ひるみ」ます。

2 国中の葦をそよがせたい

妻からは、「おまえはATS装置の付いていない暴走車」であると注意されていたにもかかわらず、「そんなことに気を使って知り合いの不興を買うことが心配ならそもそも『未来の必要』などという本を書くことが間違っているのです」と、思わず叫んでしまいました。
「王様の耳はロバの耳」です。
学校が当面する問題の大部分は学校の外の家庭や地域で発生します。多くの家庭でしつけも教育も崩壊し続けているのです。地域の子ども会は次々に消えています。学校が閉鎖的な体質を改めて地域と協力しなければ、地域の教育力など創れる筈はないのです。子どもはゲームばかりやっていて体力も耐性もへなへなです。集団生活の体験が不足しているので、規範が身に付いていない子どもは山ほどいます。それなのに「鍛錬」のプログラムはどこにあるのでしょうか。学力格差を問題にしながら教員は補習教育のシステムすら作ることができていません。学童保育は僅かな指導員が狭い空間に子どもを閉じ込めて管理しているのが現実です。手が足りない上に、愚かな行政が保育は教育と関係がないと思いこんでいるので教育的プログラムはほとんど存在していません。
野原の真ん中に穴を掘ってこれらのことを大声で叫べばやがて国中に葦が生えて風にそよぎ、世の中にさわさわと伝えてくれるのであれば、私も床屋になりたいものだと思うのです。