発行日:平成22年9月
発行者 三浦清一郎
自由と気ままの代償?生涯学習概念の破綻
1 病院の指示に従わない患者がいたとしたら
もちろん、健康な市民は日常の健康管理法を、自分の判断で自由に選んで暮らしています。しかし、ひとたび「患者」となった場合には、病院や医師の指示に従って治療に専念するのが社会の通念です。
この時、病院や医師の診断や処方に従わず、自分の思い込みで診断?処方?治療を主張する患者がいたとすれば、社会や病院はその気ままや自分勝手な思い込みを見過ごすでしょうか?患者が病院の指示に従わなくていいという感覚や原理が市民に浸透してしまえば、医療はその目的と成果の大半を失うことになるでしょう。
生涯教育も同じです。市民がすべて患者ではないという事情は、病院の場合と同じですが、仮に、日常の暮らし方に教育診断と処方が必要な「患者相当者」がいるとした場合、その「患者相当者」は「教育診断」にも「教育処方」にも従わなくていいのだ、という感覚や原理が蔓延してしまえば、「患者相当者」の「学習」は自らの意志で、自らがやりたいように決めていいということになります。現に、「生涯学習」概念のもとで、「患者相当者」は教育診断をほぼ完全に無視するようになりました。生涯教育を生涯学習と言い代えることによって、社会教育は公金を投入した目的と成果の大半を失うことになったのです。
2 教育における「患者相当者」の自由と気ままを放置した生涯学習
教育は医学やその他の自然科学ほど論理性や実証性の厳密な学問ではありませんが、それにしても「患者相当者」が専門家の診断や処方に従わなくていいという原理をオープンに認めれば、そもそもの生涯教育の目的を根本から失うことになるのです。現行の社会教育はすでにその使命と目的の大半を失いました。
日本社会が「生涯教育」概念を「生涯学習」概念に代えたということは、教育における市民の自由と気ままを放置したということです。「患者相当者」に限って言えば、原理的に、彼らに対する専門的診断と処方を自己診断と自己処方に置き換えて放置しているということに匹敵するのです。
現に今、日本は高齢社会に当面し、団塊の世代が続々と退職しています。医療費も介護費も高騰を続けています。高齢者が活力を失えば、当然、高齢社会も活力を失います。高齢者の老衰を防止し、彼らの社会的活力を支える強力な教育政策を打つことは誰が考えても普通の「処方」ではないでしょうか。しかし、社会教育は適切な「処方」政策は取れませんでした。学習の主体は学習者自身であり、学習内容は市民が自由に決めるものであるという生涯学習概念の「建前」が立ちはだかって来たからです。
生涯教育を生涯学習と言い代えて学習者の選択権を過信したことは高齢社会の重大な間違いでした。同じことは学校外の青少年教育にも当てはまります。幼少期の基本訓練を子どもと家庭の選択に全面委任したことは「社会教育の自殺」に近い政策でした。今では、「改正教育基本法」にまで家庭教育の自主性を保証し、家庭による「教育期待」を述べるに留まっています。何と無謀な判断でしょうか!医療はもとより、どの職業分野の資格付与も、専門教育・研修も、受けるべき教育内容の診断と決定を学習者の自由意志に任せることはありません。「生涯学習」概念に限って、高齢者や幼少年にとって人生の重要事であっても、学習の必要の有無についても、その中身と方法についても、学習者の自由と市民の選択に任せたのです。無謀を通り越して愚かなことと言わねばなりません。
3 「生涯学習格差」の異常発生
従来から、社会教育は「3割社会教育」と陰口を叩かれて来ました。社会教育に「強制力」は存在しないからです。それゆえ、逆立ちしても、社会教育はパチンコ屋さんには敵わなかったのです。しかしながら、従来の社会教育には専門家集団がいて、学習における「個人の要求」と「社会の必要」のバランスを取るように常に心がけて来ました。特に、公金を投入する社会教育政策においては、時代が何を必要としているか、個人に不可欠な適応・学習課題は何かが問われ続けました。「個人の必要」と「社会の必要」のバランスの課題を無視するに至った元凶こそが生涯学習概念への転換でした。
生涯学習は市民の選択権をほぼ無条件に保証し、「学習」するか否かの選択も、何を学習するかの判断もすべて市民に選択を委任しました。間断なく変化の続く時代にあって、学習を選択したものとしなかったもの、適切な内容を選んだものと選べなかったものの違いは歴然とした人生の質の格差を生み出します。それが生涯学習格差です。まず、知識格差が発生し、情報格差も、健康格差も、交流格差も、生き甲斐格差も発生しました。一概には言えませんが、「生涯学習格差」の多くは幸・不幸の格差になったと想像することは自然ではないでしょうか?生涯学習における自由と気ままの代償が生涯学習格差として発生することは必然・不可避だったのです。
4 本音と建前の分裂
自己責任は国民に選択を委任することの裏側です。「生涯学習格差」が発生したとしても、自己責任が原則である以上、国も地方自治体も政策の責任を感じることはありません。突き詰めれば、「あなた方が自分の好きなようにやった結果です」と言えば、制度的な結果責任論は発生しないのです。病院であれば、患者に責任があるとは、決して言うべきことではないでしょう。病気の悪化が予想される「患者」に対して、助言も処方も与えずに、あなたの責任ですという医師はいないでしょう。患者を放置する姿勢は病院の姿勢でないことは言うまでもありません。
研究者として恥ずべきことですが、生涯学習の自由と気ままがもたらす害悪を筆者も気付かずに見逃して来ました。国も、国の指示に従った地方自治体の社会教育行政も、今日まで生涯学習概念を放置して来ました。高齢化への対応も、少子化・子育て支援の教育方法も国民自身が決めることであるとして、結果的に効果的な対応は全くできていないのが現状です。政策も方針も示されない中で、適切な適応行動や学習を選択しなかったからと言って、政治や行政は国民-市民の自己責任を問うことができるでしょうか?国民はそうした専門的な助言や施策のために税金を払って来たのではないでしょうか。
それでも途中から自由気ままな生涯学習の危険に気付いた行政は、「現代的課題」という処方を提出しました。しかし、生涯学習概念は手つかずにそのままに放置されたのです。
一方で、生涯学習行政は、「皆さんの思うように自由にやって下さい」というメッセージを発しながら、他方で、「今日の“現代的課題”はこれです」と教育上の診断と処方を提示したとして、この種の処方は人々に採用されるでしょうか?「何をやってもいい」という自由な選択を保証された「患者相当者」の誰が「負荷の大きい学習」を選んだでしょうか!市民の意識が「楽」な方に流れれば、負荷の大きい「建前」を選択する人はいなくなります。病院が患者の「治療管理」を徹底するのは患者が自由気ままに流れて養生を怠らないようにするためです。
生涯学習の自由概念は、プログラムを提供する社会教育の職員の側にも、市民が望まないのであれば、無理をしてまでやる必要はないであろうという本音と建前の分裂を引き起こしました。社会教育職員の「専門性」の放棄が起こったのは自然でした。自治体の首長も社会教育部門に専門職を配置する必要を感じなくなりました。市民の要求をプログラム化すればいいだけですから、診断と処方の専門性は不要になったのです。
生涯学習概念の採用に伴うメッセージは、「自由に遊んできなさい。但し、現代的課題の宿題も忘れるな」と子どもにいうのと同じなのです。宿題を付け足したところで、宿題をする義務はありませんと言うのと同じなのです。
生涯学習概念は、その出発点において、「現代的課題」を選択しない自由も保障しているからです。生涯学習に看板を掛けかえた社会教育は、「負荷」の大きいプログラムはもちろん、市民の望まないことは一切できなくなったのです。頻発する青少年の不適応問題にも、体力や耐性の低下にも、各種体験の欠損にも、効果的な対応をすることはできませんでした。高齢者の場合、住民の要求に委ねた生涯学習の結果はさらに深刻でした。住民が望んだ平均値のプログラムは「パンとサーカス」に代表される「安楽余生」のライフスタイルに代表されました。生き甲斐の喪失、定年後のうつ病、アルコール依存症、孤立と引き蘢りなどは退職後の健全な活動の欠如に起因しています。生涯学習システムは、原理的に、高齢者の意志や欲求に反して教育課題を提示する積極性を欠いていたのです。
自由と気ままの代償は、膨大な医療費と介護費、多発する高齢者の不適応問題、活力を失う社会などの現象を引き起こしています。しつけを忘れ、大事なことを教えない子どもの状況も悲惨です。根本原因は、教育の民主主義を掲げた耳障りのいい生涯学習の自由と気ままにあったのです。
「保護責任者遺棄致死」裁判員裁判の教育問題
1 30歳の分別
子どものしつけは崩壊し、教えるべきことは教えず、教えてはならぬことを教えています。
今回の事件に巻き込まれた女性には30歳の分別が欠如しています。そうした娘を見る親にも自己責任や「恥」の分別が欠如しています。恐らくきちんとした幼少年期のしつけをしていなかったのでしょう。被告人のみを責める態度には、我が子に教えるべきことを教えてこなかったことが推測できます。
30歳の人生は自己の選択です。麻薬を使うのも、男と遊ぶのも自己の選択です。
今回の芸能人の「保護責任者遺棄致死」の裁判は、30歳の分別が問われた教育問題でもありました。筆者が亡くなった女性の親だったら裁判の証人には立たず、お騒がせして申し訳ない、公正な裁判をお願いします、と言うに留めるでしょう。
なぜなら、世間に恥を曝したのは分別を欠いた娘自身であり、そうした娘を育ててしまった親として恥じ入るばかりですから・・・。確かに被告人が救急車を呼んでくれたら助かったかもしれませんが、すでに亡くなった娘は帰りません。口惜しいですが、泣き言を言わずに我慢します。あの無責任で自己中のうぬぼれを遊び相手に選んだのはほかならぬわが娘ですから・・。 しかし、証言台に立った親の言動を見聞する限り、幼少期に我が子の「しつけ」に失敗したという自覚があったとは見えませんでした。子どもはどこかで幼少期の教育を引きずるものです。また、大人になった子どもと親との成人期のコミュニケーションの中で人生の生き方や指針が話題になっていたとも見えませんでした。結果的に、娘にもたらされた不幸だけを公的な場で嘆いたり、恨んだりするに留まったのはそのためです。
我が娘の分別を問うことのない親の姿勢は、世間に跋扈する過保護な親たちに子育ての試練を伝えることにはならないでしょう。一人前の条件も、30歳の分別も、自分の始末は自分で付けることであり、自分がもたらした不始末や不幸の原因を他人のせいにしないことです。反対に、この家族は、娘の不始末をすべて他者のせいにして、情緒的哀しみに溺れ、他者の落ち度や怠慢を責めるだけという無責任で恥知らずな「広めてはならぬ態度」を世間に発信しているのです。
娘は帰らず、あれだけの騒ぎになって悲しく、口惜しいことは察しますが、ここまで世間を騒がせた以上、裁判員裁判の場こそががまんのしどころです。日本人は「恥の文化」に生きているという評価が聞いて呆れます。戦後教育は「権利」が先で、「義務」は後だという風潮に流されました。しつけが崩壊したということは、義務と自己責任を教えて来なかったということです。その付けが今回の裁判で露呈したのです。娘が自分で選んで、自分で招いた不始末の不幸は口惜しいことですが、仕方がないのです。だからこそせめて娘の不始末のお詫びは親御さんに立派に言ってもらいたかったものです。騒がせて申し訳ない、我が娘の不始末を恥じ入るばかりだとおっしゃれば、まだ死に絶えていない日本人の美学が真っ当に反応したことでしょう。裁判員も人の子です。被告人には「求刑」より重い罪を主張したことになったかもしれません。
残念なことですが、少なくともメディアの報道には、親御さんのそうした言動の報告はありませんでした。
成人した子どもの事件は親の責任ではありませんが、親子である以上、泣き言に終始する親もまた「反教育的」なのです。30歳にもなった我が子の分別の欠如と不始末を忘れて、不幸はすべて相手のせいで、自己責任はないかのような風潮をばらまく結果になっているのです。
2 裁判員裁判とは何か
今回の裁判は、求刑も軽過ぎ、判決も軽過ぎます。裁判員裁判の意味が本当に分かっているのかと思いました。行為の罪を法律に則って客観的に裁くだけならなぜ裁判員裁判を導入したのでしょうか?裁判官の法律上の見解が民間裁判員の判断より重要度が高いのなら裁判員制度など導入する必要はないのです。裁判員裁判は社会の通念を処罰に反映し、世間に対する教育機能を果たすべきものなのです。
本来、民間裁判員の導入の趣旨は、被告人の行為だけを見ずに、被告人本人の振るまいや態度を見て判断すべきであるということではなかったでしょうか。被害者やその家族が裁判の証言に立つということも、犯罪の行為だけを客観的に見るだけに留めず、被害者の事情や心情も判決に組み入れるということであったと思います。
「罪を憎んで、人を憎まず」というのはプロの裁判官に要求される資質です。しかし、それだけでは市民感情に遠く、教育的でもないということが裁判員裁判導入のきっかけだった筈です。
裁判の終了後に、「被告の行為だけを見て、世間の騒ぎからは自由な判断をしました」とインタビューに答える複数の市民裁判員が紹介されましたが、そんなことが素人に出来るわけはなく、裁判員裁判の趣旨に則れば、すべきことでもないでしょう。市民裁判員の判で押したような模範陳述は、裁判所の教育が行き届いたということでしょうが、愚かなことです。素人の市民に被告人に対する人間的な評価を離れて、行為のみを判定できるのであれば、裁判に民間人を入れることなど余計なことです。裁判員裁判を導入したのは、市民の一般感覚を取り入れて、裁判結果を社会の通念から隔絶したものにしないという目的があった筈です。したがって、裁判員は、行為も被告人も両方を見るべきなのです。客観的に行為に課される法律上の罪だけを見るのであれば、今まで通りプロの裁判官だけでやればいいのです。
「致死」の罪は今回問われないことになりましたが、救急車を呼んでいればどうなったか?一方の医師が90%の確率で助かると言い、他方の医師が30-40%の確率だが助かると証言したということです。法律の解釈上、被告人に有利な低い方に合わせるということがこれまでの判例であったのかも知れません。しかし、その判断はこれまでのことです。二人の医師の救命確率を平均すれば最低でも60%の割合で助かる可能性はあったではないか、と素人は考えます。助かる可能性を残しながら、病人を放置して結果的に亡くなったとすれば「致死」に当たることは当然だというのが世間の感覚ではないでしょうか。今回の裁判員裁判の隠れた意義は「助かる可能性のある病人の側にいたとして、あなたは決して病人を放置してはならない!」というメッセージを世間に発信することです。それゆえ、今回の騒ぎは世間の耳目を集めた教育事象でもあるのです。今回のような判決が確定すれば、「助かる可能性の低い病人は、故意に助けなかった場合でも『致死』の責任は問われない」ということを世間に教えているのです。
「被告人に反省の色が見られず、自己中心的な態度に終始したことは情状酌量の余地はない」、と判決で断言しながら、被告人の「罪」だけしか見ていない裁判は裁判員裁判を導入した教育的意味を理解していないのです。自分勝手で、無責任で、嘘が多いと認定された被告人の罪は、「法律上の罪」に加えて社会に発する「倫理上の罪」が重いのです。裁判所は法律に外れないかぎり、市民裁判員に余計な教育はするなと申し上げたいものです。万が一将来、筆者に裁判員となる機会が廻って来たとしても、現状の裁判官支配が続くのであれば断固「辞退」したいものです。
問題の核心は「孤独」と「孤立」です
1 「自由」がもたらした「孤立」と「孤独」
自由と自己都合だけをを押し進めて行くと他者との衝突や対立は避けられなくなります。「自由」は一つ間違えると「孤立」と「孤独」をもたらすのです。「さびしい日本人」が生まれたのはそのためです。筆者が言う「さびしい日本人」とは、共同体を離れ、自由になった個人が、他者との新しい関わり方を見出せず、また、仕事にも仕事以外の活動にも十分な「やり甲斐」を見出せず、孤立や孤独の不安
の中で「生き甲斐」を摸索している状況を指します。「さびしい日本人」が孤立と孤独をのがれ、生き甲斐を摸索するためには何らかの方法で他者のために生きることをはじめなければなりません。新著「自分のためのボランティア」はその方法の一例を論じたものですが、果たして日本人はそれぞれの解決策を見出すことはできるでしょうか!
2 高齢社会
-衰弱と死に向かい合って生きる長い時間-
メディアが盛んに「無縁社会」と言い始めました。敬老の日が近づき、行方不明の高齢者が増えて来たら、「関係を拒絶する家族」という言い方も始まりました。個人の要求を突き詰めて行くと家族も崩壊するのです。その象徴が高齢者の所在不明です。家族以外の第3者が「遺書」の履行を引き受けたり、老後や葬儀のことを受託するビジネスやNPOの活動も始まりました。背景には葬儀の多様化や死ぬことに対する様々な態度の分化があります。過日は、自分で食事のできなくなった重病患者に「管を通して栄養を補給する」看護を止めて、「平穏死」を唱導する医師のレポートが放映されました。高齢社会は平均の生涯時間が20年になりました。老衰の時間も、死を意識して生きる時間も人生50年時代とは比べものにならぬほど長くなったのです。孤独と孤立の時間が途方もなく長くなる危険性があるのです。
孤独の反語、消滅の反対は永遠です。人間はそれぞれに限りある無常の人生を生きなければならない分、「永遠」になりたいという願望を持つのだいうのが渡辺通弘が理解した「永遠志向」(*1)です。集合墓地に葬られる方の人生の遺言や形見が電子情報となって保存される時代が来たのです。本人の死後に、家族や第3者の誰かが検索して、死者を偲ぶことがあるか否か、は分かりませんが、本人が望めば半永久的に人生の記録-軌跡が保存されるのです。「あなたがそこにいた」という事実は歴史上の偉人たちと同じように電子情報保存装置の中で「永遠」になりうるのです。渡辺氏が指摘した通り、多くの人々は永遠を志向し、歴史になることにあこがれ、自分の生きた証を残したいのです。それだけ孤独」は辛く、「消滅」の予感は堪え難いのです。
3 人生の宿題
人の死に方は人生の秘事です。当然、一定の決まりはなくていいのですが、一人で生きてきた訳ではないので「自己決定」にも他者を配慮する条件が必要です。宗像で実施した「人生をどう終りたいとお考えですか:死に方講座」では参加者に次のような自分との問答をしていただきました。もちろん、自分でも答を書いてみました。その結果、遺書も、尊厳死宣言も書き、今は自分史を書き始めました。
(1) 「自分の死」について考えをお持ちですか?
(2) 他者に「自分の死」をどう伝えますか、伝えるとしてその準備をしていますか?
(3) 「延命治療」を望みますか?
(4) 最後の看病はどなたですか?
(5) どこで死にたいですか?思いどおりになりそうですか?
(6) 自分の所有物の分配・相続は法律と家族に任せますか?
(7) 葬儀のやり方にご希望はありますか?
(8) 「納骨」、「散骨」など墓に関する準備はできていますか?
(9) 死後に残したいメッセージはありますか?誰に、どんなメッセージを残しますか?
(10) 死後の様々なことについて遺言状は書きますか?
4 「寂しさ」からの脱出法
「さびしい日本人」が「さびしさ」から脱出するためには、自分の力で他者と繋がり、新しい生き甲斐と絆を見つけなければなりません。なぜなら、一度捨てた共同体に戻ることは不可能であり、さびしいからと言って昔の慣習に戻ったところで自由な個人は己を縛る束縛と干渉には耐えられないからです。すでに、自由である事を味わった若い世代や女性が共同体文化が残存する“田舎”に住めないのはそのためです。
しかし、人間とは勝手なもので、自由とは厄介なものです。共同体の慣習が束縛や干渉に思われた時は、あれほど鬱陶しかった「みんな一緒」の慣習も、なくなってみると、誰も世話を焼いてくれないという事実だけが残りました。さびしかろうと不安になろうと誰もかまってくれません。鬱陶しかった共同体の慣習が懐かしくなるのはそういう時です。「昔は良かったね」「みんなが協力して一緒にやっていたね」という感慨は時に郷愁であり、時に孤立と孤独、不安と寂寥に対する心情の吐露と言って間違いでないでしょう。
工業と流通を基幹産業とする構造転換は、個人重視の発想とライフスタイルをもたらしました。人々は、共同体の束縛を嫌って「個人優先」を価値として選んだのです。さびしくなったからと言って「相互扶助」と「自由」の二兎を追う事はできません。共同体を拒否したとき、日本人は共同体の有する優しさや相互扶助のシステムを捨てたのです。個人の権利をみんなの共益に優先させ、自己都合優先を生き方の基本に置いた時、自由と孤立を同時に味わうことになることは必然の成り行きでした。新興団地に象徴された新しい居住地区は、「同じ地域に住んでいる」という事実だけが共通で、従来の共同体が有した温かさや優しさのシステムに代わる新しい助け合いの思想は未だに創り出していないのです。自らが主体的に動いて他者と繋がらない限り、誰も世話を焼かず、誰もかまってくれないのです。現に、近隣の交流はなくなり、自立と自由を全うできない大勢の人々が孤立状況の中で立ち往生しています。多くの日本人が「自立」したつもりで「孤立」状況に当面せざるを得なくなりました。近年では結婚のための男女の出会いを行政が予算を使って応援するところまで来ました。「婚活」支援と呼ばれています。「婚活」の「婚」は結婚の婚です。「活」は活動の活です。要は、若者が結婚するための活動を、就活(就職活動)と同じく省略した言い方です。「コンパ」もできない大学生と言われて20年以上が経ちますから、異性と話のできない若者が出るのも当然の現象なのでしょう。現代は、自分が動く能力を発揮しない限り、誰も世話を焼かず、誰もかまってくれません。「自由」がもたらした「孤立」の中で若者も立ち往生しているということなのです。自由とは時に何とも不自由なものなのです。
(*1) 渡辺通弘、永遠志向 ― 大いなる未来への目覚め、-創世記 、1982年
129号お知らせ
第103回生涯学習フォーラムin福岡
日時:2010年10月2日(土)15時-17時(今回は土曜日です。社教センター事業の関係で前回出席者にお知らせした日時とは異なっておりますのでご注意下さい。)
研究発表:テーマと発表者
1 学校を中核にした地域全体の教育力向上方策に関する一考察
―連携から有償「外部委託方式」による地域教育総合経営への試行―
古市勝也(九州共立大学)
2 社会的不適応問題の支援システムと方法 黒田修三(福岡県立社会教育総合センター副所長)
3 生涯学習理念の点検と実践の検証(仮)
-考え方に間違いがなくても実践しなければ人間の願いは実現できない― 三浦清一郎
場所:福岡県立社会教育総合センター(092-947-3511)
第104回生涯学習フォーラムin福岡
日時:2010年10月30日(土)15:00~17:00
研究発表:テーマと発表者
1 テーマ未定 発表者は大島まな(九州女子短大准教授)および赤田博夫(山口市立鋳銭司小学校校長)のお二人に交渉中です。
2 市民による市民のための生涯学習システム 三浦清一郎
場所:福岡県立社会教育総合センター(092-947-3511)
第105回移動フォーラムinやまぐち
1 主催 山口県生涯学習VOLOVOLOの会
2 日時 平成22年11月20日(土)13:00 ~平成22年11月21日(日)11:50 まで
3 場所 山口県セミナーパーク
4 内容
(1) 11月20日(土)13:00~17:00(18:00~第2部)
① 13:00 開会行事 代表あいさつ
(日程説明等:事務局)
② 13:10 自己紹介及び近況報告
③ 14:50~15:05 休憩
④ 15:10 講義-「自由の刑」と退職者の未来計画-
生涯学習・社会システム研究者 三浦 清一郎 先生
⑤ 16:10~16:25 休憩
⑥ 16:30 質疑応答および近況報告
(17:00 ~ 18:00 懇親会準備)
⑦ 18:00 ~ 20:00 懇親交流会
(2) 11月21日(日) 9:00 ~ 11:50
Ⅰ 特別インタビュー 9:00 ~ 10:00
「周南再生塾、創設の思想と方法」
(インタビューイ)山口県周南市長 島 津 幸 男
(インタビュア)生涯学習・社会システム研究者 三浦 清一郎
Ⅱ リレー提案と共同討議 10:15 ~ 11:45
(コーディネーター:三浦 清一郎 )
① 市民学習集団の組織化の効果と意義-たぶせ雑学大学の14年-
たぶせ雑学大学主宰 三 瓶 晴 美
② 放課後「子どもマナビ塾」の教育性、経済性、創造性
前飯塚市教育長 森 本 精 造
③ 「財源補助」の評価視点と補助効果の点検法
山口県きらめき財団 主幹 重 村 太 次
§MESSAGE TO AND FROM§
お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。今回も白内障の手術後の経過が思わしくなく、書くことに難儀をしておりますが、老化は致し方のないことと覚悟をして精進しております。あらためてお見舞いを頂いたみなさまに厚くお礼申し上げます。
福岡県みやこ町 山下登代美 様
過日はみなさまおそろいで「井関元気塾」の発表会にお出かけいただき、その上、主催者の上野敦子さんに励ましのお便りまで頂いたそうで重ね重ね有り難うございました。往時の「豊津寺子屋」には未だ内容・方法ともに及びませんが、自治体の後ろ盾がないまま学童保育に教育プログラムを入れたという点で関係者の発想と努力は今後の日本の子育て支援や男女共同参画の進め方のモデルを示す試みであると評価しております。菅総理は女性の力を社会に生かすと総論ばかりに終始していますが、どう活かすのか、そのために女性が当面している「後顧の憂い」をどう解決するのか具体的な方法論が欠如しているのです。今こそ実践から学んだ女性自身が発言する時なのだと思います。
東京都八王子市 瀬沼克彰 様
この度は厚労省:健康・生きがい財団の事業をご案内いただき誠にありがとうございました。さっそく福岡の同志と相談の上試行計画を立案いたしました。
高齢者の社会貢献こそ高齢者自身の活力も社会の活力も共に生かす道であると主張して参りましたので張り切って参加させていただきます。なにとぞよろしくご指導下さいますようお願い申し上げます。
福岡県宗像市 田原敏美、日隈一憲 様
過日の講演会では若い方々、懐かしい方々両方にお逢いできありがたいことでした。特に、まちづくりに奔走した昔の仲間の壮健ぶりはこの国の高齢者の処遇がつくづく間違っていると思いました。みなさまは議員さんです。せめて宗像市だけでも、まずは学童保育を「学童保教育」に転換して下さい。そして壮健な高齢者を子どもの教育と鍛錬の指導者として招聘するのです。子どもも高齢者もますます元気になり、医療費は減少し、学校教育の「見えない学力」は向上し、幼少年期の不適応問題も減少し、女性は「後顧の憂い」なく社会に参画することができるようになります。保証します。
佐賀県佐賀市 関 弘紹 様
30周年記念出版にご参加いただけるとのこと森本氏からお聞きしました。嬉しく思います。長い間大会を支えていただいたあなたのご参加を得て出版の中身が厚くなります。現在、社会教育は政治的に誠に不遇ですが、この変化の時代に社会人の教育が不要である筈がありません。不要なのは今現在行なわれているプログラムであって、未来の必要に則ったプログラムは個人にとっても国家にとっても不可欠です。あなたがどんな課題を選び出されるか楽しみにお待ちしております。
編集後記 計画立案の3条件
1 3条件とは何か?
3条件とは、①「優先順位を決める」、②「時間軸を想定する」、③「目標実現への貢献率」を考慮することです。
退職後、ようやく精神が落ち着き、個人で仕事ができるようになったことの最大の利点は優先順位と時間軸と目標への貢献率を自分自身で決めることが出来るようになったことです。組織の中にいた時は、自分にとって分かり切ったことでも、その判断を貫徹できないことが多く、常に不満でストレスになりました。やがて70歳に突入し、最後の10年をどう生きるか、生き方の計画立案を思案しなければなりません。カギは上記の3点です。 民主党代表選の政治ニュースを聞いていて疑問に思うことは上記の3点がはっきりしていないことです。優先するべきものは何か、なぜか、いつまでにどうするのかという3条件相互の関連も論理的な説明になっていません。時間軸は優先項目を選ぶそれぞれの立場で、「短・中・長期」の構想に分かれることがあって当然ですが、そこを明確にしないと優先順位と貢献率の関係を明確にすることはできません。前号でも書きましたが、子ども手当は第2子以下に支給した方が少子化防止に有効なのは当然でしょう。また、保育所や学童保育を制度的に拡充し、「保教育」の充実を図った方がそれだけ経済や雇用に効果的であることは、経済や雇用の専門家でなくても分かることでしょう。
子ども手当のお金が貯蓄に廻ってしまえば、経済需要を高めることにも、雇用創出に役立つ度合いも低いことでしょう。高校の無償化政策も直接的な経済や雇用に影響は少ないのではないでしょうか?高速道路の無料化の波及効果についてはよく分かりませんが、環境に悪い影響をもたらすことは疑いないでしょう。どう考えてもこうした政策が雇用や経済浮揚に資する投資効率性は低いのです。農家の所得保障政策も、徹底した自由貿易を実現しない限り、新しい雇用を創造したり、日本の産業構造を変えることにはつながらないでしょう。3つの条件が曖昧のままの政策は「ばらまき」であるという批判はそこから来るのです。
2 最後の10年
政治のことはさておき、年寄りの当面の問題はこれからの人生をどのように生きるかです。
長期的な目標は最後まで意志と感情を失わずに人間としての意識を持って生き抜くことです。期間はまず10年を想定しました。為すべきことの優先順位は、「緊急性」と「関心の度合い」によって決めます。第1順位は、無事古希を迎えることのできた感謝の思いを人生を付き合ってくれた家族や友人に自分史の形でのこすこと、更に欲張って自分史の執筆経験を活かして一般向けの「自分史の書き方-自分史作法」をまとめたいものです。
第2順位は、教育の現場を頂ける間は、講演や講義を続けながら、最後まで研究の仕事を続けることです。研究対象は関心の順に選びたいと思っています。まず来年は30周年記念誌、次は「最後の10年-死と向かい合って生きる時間」、それができたら「市民学習ネットワーク事業の総括」です。この間も出来る限り「風の便り」を書き続けたいと思っています。そこから先は運次第でしょう。日々の戦略は変わりません。従来から提案してきた通り「読み、書き、体操、ボランティア」です。今の自分にとっては研究や教育の仕事を続けることこそが目標実現に最も効率性の高い暮らし方なのです。