「風の便り 」(第124号)

発行日:平成22年4月
発行者 三浦清一郎

情けは人のためならず-双方向の情緒的交流

1 「世のため」、「人のため」、「自分のため」!?

「シニアライフ大百科」には、ボランティアは「世のため」、「人のため」、「自分のため」と簡潔な定義がありました。定義の簡潔性には大いに賛同しますが、順序がちがうのではないでしょうか?日本型ボランティは、さびしい日本人が辿り着いた結論ですから、まず「自分のため」が先で、続いて「世のため」、「人のため」です。日本型ボランティアは、欧米型ボランティアのように「神との約束」に基づく宗教上の実践を起源とはしていません。他者や社会に役立つ行動であっても、信仰上の「信条」を持たない以上、具体的に自分に返って来るものがなく、自分が納得できない事は続かないのです。前掲書が「自分が出来るボランティアの見つけ方」という特別項目を設けて解説しているのはまさしく「自分の在り方」、「自分にとっての意味」が活動のカギになるからなのです(*1)。
日本型ボランティアの出発点は、文字通り、「情け」は「人のため」ではなく、少なくとも半分はまさしく「自分のため」なのです。
ボランティアであると否かにかかわらず,人間を対象としたあらゆる社会的活動がもたらす反応は双方向的です。あなたの働きかけが相手に受け入れられようと,受け入れられまいと、また、好悪・善悪に関わらず,相手の反応は返って来ます。たとえ、具体的には「無反応」の場合ですらも,「無視された」という「反応」になります。もちろん,ボランティアのように他者の必要に応え,他者の存在に尽くせば基本的に感謝や喜びの反応として返って来ます。ボランティアの実践者にとって,実際の活動の成果に優るとも劣らぬ重要性を持つのが他者の好意的な反応です。他者から放射される感謝や喜びこそが実践者の「役立ち感情」を保障します。自分の思いが相手に通じて感謝や喜びをもって迎え入れられるということは双方向の情緒的交流を意味します。社会貢献や他者への貢献を活動の原理とするボランティアは疑いなく世間や他者の拍手や感謝を最大限に保障するのです。

2 日本型ボランティアの原理-「情けは人のためならず」

共同体が衰退し,共同体的人間関係を失って大量に発生した「さびしい日本人」が、欧米文化を発生源とするボランティアの精神を徐々に受け入れ始めた最大の理由が「双方向の情緒的交流」にあります。換言すれば、ボランティアの社会貢献を通して、他者からの「感謝」と世間の「賛同」を求めたということです。日本型ボランティアの原理こそ「情けは人のためならず」なのです。求めたものは人間の「絆」でした。絆を構成するものは、共感を基盤とする温かい人間交流です。人々はボランティア活動を通して、かつての共同体の共同作業や共同行事が育んだ近隣一体の相互に支え合う“温かい”情緒的交流に匹敵する機能をボランティア活動の中に見出すことができたのです。
事実、多くの人々がボランティア活動を通して己の存在意義を実感していると語っています。働きかける対象との共感的人間関係を確認できているとも語っています。彼らが語るところを聞けば,社会貢献の事実や公共の福祉に役立っているという事実とほぼ同等の重さでボランティアが「自分のための」活動であると認識していることが分かります。すなわち,多くの人々がボランティア活動に関わることによって,初めて,自分が必要とされていること,役に立っていること,感謝の対象であることを自覚しているのです。これらの自覚は,やり甲斐の実感であり、自分の行為の存在理由の自己確認になっていることは言うまでもありません。
日本型ボランティアは生き甲斐のある人生の追求の試行錯誤の果てに辿り着いた結論の一つだったのです。
他者による「感謝」や「承認」は、ボランティア本人の生き甲斐となり、他者との人間的絆の形成に繋がっているのです。換言すれば,ボランティア活動の参加者は、活動成果と交流を通して,人々との共感関係を深めており、翻って働きかける対象の肯定的・感謝の反応によって己の日々の生き甲斐を支えているのです。まさしく「情け」は「人の為ならず」、「自分のため」(*2)でもあるのです。
角田四郎氏は、ボランティア活動を通して「得るものを求めてはいけないか」と問いかけています(*3)。当然、「得る」ものが沢山あるからです。人々は、災害の被災者支援活動の中で、無力感や巨大な共通の目標を通して共感し、同志となり、絆を形成し、感動を共有する過程を生き生きと語っています。日本人もまた、「情け」は巡り巡って「身に廻る」と考えていたのです。人のために尽くすということが、結局は自分のプラスとして返ってくるということは日本人の処世論の根幹にあり,日本型ボランティアの極意でもあったのです。「情けは人の為ならず」に限りません。共同体が課した「報恩」の慣習から離れることができれば、「おかげさま」や「おたがい様」も日本文化の中の自由な相互支援を推奨する思想となり、ボランティアの社会貢献の発想につながったのです。「出世払い」の「恩送り」は、すでに死語となり、現代ではほとんど使われなくなった表現でが、他者への貢献を世代間の相互支援に転換した伝統的な発想です。思想の底流において、国境や世代の境目を意識しないボランティアの精神と共通している一例です。ちなみに「恩送り」とは、恩を受けたご本人以外の第三者へ恩を「送る」という意味です。
筆者の若い頃には、出世払いでごちそうをしていただいた時など,親切をしてくれたご本人へ恩を返す代わりに,次の若い世代を育てることに意を尽くせなどと言われたものでした。「相互扶助」や「報恩」の伝統も共同体から切り離した時、狭い人間関係の「貸し・借り」や「義理」の観念から自由になります。「おかげさま」から「恩送り」まで、不特定な他者への支援という解釈を組み合わせれば、どこか普遍的隣人愛のボランティアスピリットに通じるのではないでしょうか。「おかげさま」や「おたがい様」が地域や世代や国境すらも意識しなくなった時、「恩送り」の処世訓もボランティアの精神と交差するのです。日本型ボランティア文化は、基本的に宗教色を持たない代わりに,共同体の歴史が紡いで来た日本文化の処世訓が生きているのです。共同体につきまとった特有の相互干渉や相互の束縛を払い落し、選択制のボランティアを導入した後、「お蔭さま」や「おたがい様」は世界に通用する普遍的社会貢献思想に昇華し得るのです。英語にも「A kindness is never lost(親切は決して無駄にならない)」という表現があるそうですが、この英語の格言を「『おかげさま』は死なず」とか、「『おたがい様』は消えず」と訳しても,当たらずとも遠からず、というところでしょう。人間の文化は底辺のどこかで繋がっているということなのだと思います。どのような調査項目で調べたのか分かりませんが、日本がボランティア先進国になりつつあるという指摘を時々見受けます。調査項目には「まちづくり」や「環境保護」のような活動が入っているので、おそらく、統計数字の中には、町内会型の共同体文化の助け合いも、個人を起点とした新しい日本型ボランティアも両方がごっちゃに混じっているのだと想像しています。町内会の清掃作業やまちづくりと名のついた行政行事への参加をボランティアだと勘違いすれば、参加人数は相当の数字になるでしょう。しかし、日本型ボランティアの方々はまだまだ少数派です。「参加率では世界第3位、日本人の3-4人に一人がボランティアをしている」(*4)などという記述を見ると“勘違い統計”だと思わざるを得ないのです。

(*1)堀田力監修、シニアライフ大百科、2008-2009年版、法研、平成19年、p.136
(*2)情けは人のためならず
文化庁調査では、このことわざの日本人の解釈は二様になりつつあるそうです。「ためになる」を否定すれば「ためにならない」であり、「下手に情けをかけるな」という解釈になります。一方、「ためにやる」を否定すれば「ためにはやらない」となります。古語は後者であり、親切は「人のためにやるものではない、自分のためだ」が正解だと辞書にあります。日本型ボランティアは「ことわざ」を本来の意味に戻したと言っていいでしょう。
(*3)角田四郎、ひとりでもできる地震・災害ボランティア入門、ふきのとう書房、2006年、p.102
(*4)ボランティア情報研究会、熟年だからボランティア、学習研究社、2002年、p.30

「個性重視の教育」と「没個性化の労働」

1 労働の平準化-均質性と没個性化

現代の特性は「利便性」です。「利便性」の意味は、「労せずして手に入れる」ということです。「労せず」の意味には「容易く」も「安価に」も含まれています。換言すれば、利便性とは「単純化」と「効率性」に重なります。利便性を追求した結果、現代の労働は機械化と自動化によって単純化され、均質化され、平準化されました。流れ作業と分業は仕事を更に分断し、単純化は部分労働をもたらしました。商品やサービスが効率化・高度化した分、労働者は労働プロセスの全体に関わることはますます少なくなり、成果の全体も見えにくくなりました。換言すれば、多くの労働が均一化され、仕事は誰がやっても同じようなものになり、マニュアル化されて行きました。自分が計画に参加していない、プロセスの全体も見えない、自動化され、機械化され、平準化され、分業化され、単純化された労働は「つまらなく」なったのです。人々がこの仕事は自分でなくてもいいのだ、誰がやってもいいのだ、と思うのは当然でした。
一方、商品やサービスの均質化は現代の条件です。利便性の条件と言ってもいいでしょう。jisマークやecoマークのように品質の標準化が求められるのは利便性の象徴です。都市や田舎に関係なく「ユニバーサル・サービス」が言われるのも同じ理由からです。利便性の公平も、均等も、均質も、標準化も、企業や役所の条件になりました。現代の労働は個人の働きの違いを消すことに躍起になって来たのです。労働における個人差の解消は状況によっては没個性化ということです。商品もサービスもあなたが作ろうと私が作ろうと同じものが求められるようになったのです。結果的に、「私でなければならない」理由は消滅して行くのです。現代の労働はそこで働く人々の没個性化を要求していると言っても過言ではないのです。
一方、人々が求める「やり甲斐」は成果が上がること、能力を発揮できること、活動に意義を感じること、人々から認めてもらえることなどの総合的結果です。それゆえ、誰がやっても同じことであれば「やり甲斐」が遠のくのは当たり前のことです。対人的な仕事や高度なトレーニングを必要とする専門職業を除けば、恐らく現代の大部分の労働は没個性的なものになったのです。加藤秀俊氏はやり甲斐の根拠を分析して「誰にでもできる仕事ではなく、自分にしかできない仕事だ、と思うから職業生活には張り合いがある」と指摘しています。「その職業が、誰にでもできるようなものになってしまったときに、ひとはそれにくだらないという形容詞をつける」。「そして、現代社会はくだらない仕事に満ちあふれている」(*1)と指摘しています。加藤氏の指摘通り、労働の「平準化」はくだらない仕事を社会に溢れさせたということになるでしょう。
(*1)加藤秀俊、生きがいの周辺、文芸春秋、1970年、p.242

2 個性にこだわった戦後教育

どこの教員研修に伺っても個性についても質問が出ます。筆者は、「子どもの興味関心に関わらず」、「教えるべきことは教えよ」と主張しているのですが、必ずと言っていいほど子どもの個性を抑圧することにならないか、という抗議をこめた質問がでます。一世を風靡した金子みすずの「みんな違ってみんないい」を前提に子どもの現状を認めるべきだという意見も強いのです。筆者も、もちろん、教育実践において、子どもがそれぞれに「違っている」ことは事実であることを知っています。しかし、それぞれが違うということは教育の結論ではなく出発点です。したがって、「みんな違ってみんないい」となるか,否かは子どもの成長過程について社会の評価を待たなければならないということです。それぞれの「違い」が社会の評価基準に叶って「すべて良い」とはならないというのが筆者の意見です。
質疑の核心は、「個性」とは何か、「個性」をどう考慮するかということになります。「個性」こそ戦後教育がもてはやした指導法の「核」になる概念だからです。

3 個性とは何か-欲求・感性との混同

個性の一般的定義は、”「個体・個人」に与えられた資質や欲求の特性“ということになります。要は、他者との「差異」の総体です。しかし、「他人と違っている自分」というだけでは教育指導上「個性」を説明したことにならないでしょう。単純な「他者との差異」を「個性」と等値し,両者を混同したところに戦後教育の混乱の原因があります。戦後教育は個人の感性や欲求を強調し、個性と混同する過ちを犯したのです。
まず第1に,「資質上の違い」だけを問題にするなら、個々の後天的な努力をどう評価するのか、が問題になります。少年期の「他者との違い」は、本人ががんばれば直ちに発生し、縮小したり拡大したりするからです。努力しない少年が遅れを取るのは当然の結果なのです。
第2に戦後教育の個性論は、感性や欲求を個性と混同しました。各人の持つ「資質」と「欲求」が混ぜ合わさって「違い」が生じるとすれば、「個性」とは、「欲求の現れ方」、「自己主張」・「自己表現」の「在り方」ということになります。即ち、個性=「自己主張」・「自己表現」となります。しかし、当然、すべての自己主張や自己表現を個性として尊重せよとは誰も言わないでしょう。馬鹿げた自己主張も,端迷惑な自己表現もあり、社会に害をなす反社会的な主張も多々あることは自明だからです。それゆえ、第3の問題は、すべての個性を肯定的に評価することは出来ない,ということです。子どもの自己中心的な欲求や身勝手な思いこみを個性と勘違いしてはならないのです。
第4に注目すべきは「他者との違い」の構成要因です。
「自分」と「他者」を区別する最も具体的な要因は、知的能力、身体的能力,判断力、適応力、容貌・しぐさ・表現力などあらゆる種類の「能力」です。次の要因は、短気,大胆、優しさ、思慮深さ,のんびりなどの性格的・精神的要因です。まさしく,性格は人それぞれ違うからです。最後の要因は,個人の好みと欲求です。「タデ食う虫も好きずき」で、それぞれに人間の嗜好や相性は異なるのです。
重要なことは,「能力」を「個性」と等値すれば,必ず社会的評価と選別に結びつきます。また、「性格や精神」と「個性」を等値すれば、好ましくない性格の判定やその矯正問題が浮上します。当然、反社会的な欲求や嗜好についても「個性」と等値してすべてを肯定するわけには行かないことは自明でしょう。「みんな違ってみんないい」という情緒的かつ好意的な発想は,楽観的で耳障りは良いですが、現実の教育場面に適用することは決して簡単ではないのです。それゆえ、「他者との違い」を「個性」として全面承認することは、不適切なだけでなく教育的には不可能なのです。感性や欲求を個性と等値することは問題外です。
要するに、人間には、いろいろ特性はありますが,それほど際立った個性などというものは、めったにあるものではないのです。際立った「個性」は押さえても延び,教えなくても自ら花をつけるのです。その「花」には、時に、毒すらあるのです。「個性」とは,個人の「特性」と「生き方」の総合として人生の最後にあらわれる「他者との差異」なのです。「個性」とは,自分に与えられた運命的な特性と本人の人生のがんばりとが綾なす総体的な生き方に現れる特性の意味です。

4 教育による「個性」の過大評価

一方で、個性の重視が教育的に叫ばれ、他方で、労働が没個性化して行けば、多くの人のやり甲斐の探求は悲惨な結果を招くことになります。戦後教育は個性を単純化して各人の欲求や感性と等値しました。自分の欲求や感性にあった仕事だけがやり甲斐に繋がるという仮説に立てば、誰もができる仕事はやり甲斐には繋がらないということになります。しかし、現代の労働の多くは、すでに誰にでもできる労働に分業化され、単純化され、標準化されているのです。「自分でなければならない」という労働に巡り逢うことは至難のわざなのです。多くの若者が仕事に就いても長続きしないと言われますが、原因の多くは彼らの好き嫌いの過大評価の結果です。景気が悪くなるたびに、失業率が問題になりますが、現代の失業は、現実に、仕事があっても仕事が続かないことによる現象だという、事業主の証言をテレビで見ました。有りもしない「自分に合った仕事」を探し続ける若者群の存在は、現代の教育病理的な現象です。仕事を選り好みすることが失業の一因であるとする事業主の証言は一理ある分析と言えるでしょう。
大学の教員に聞いても、学生の多くは一つのことに長続きせず、仕事を途中で辞めるそうです。しかも、自分に合わないから辞めて来たと平気で言うそうです。彼らがこだわっているのは好きか嫌いか、気に入ったか、入らないかの問題です。個性の問題ではありません。彼らの言う「自分に合わない」とは、「好きでない」ということで、彼らのいう特性とは自分たちの欲求や感性のことに過ぎません。要は好き嫌いの問題であり、「自分でなくてもできることだ」という自分に対する過剰評価の問題なのです。個性を感性に等値し、好き嫌いの問題とごっちゃにしたのは教育です。子どもの感性の過剰評価・過大評価を蒔き散らしたのも教育です。なかんずく、学校教育であり、その影響を受けた家庭教育です。考えるまでもなく多くの平均的な若者のやることなど誰でもできることなのです。
労働の平準化・単純化・マニュアル化は、公平・均質な利便性を追求する現代人の欲求がもたらした結果です。感性を個性と勘違いして教えた教育の結果は、労働への幻滅を増幅する結果になったのです。個性と置き換えられた欲求や感性の過大評価は、労働に対する高望みを生み出しました。労働の在り方に対する個人の期待水準を非現実的に高度化したのです。若者の多くは己の能力や努力も顧みることなく、ないものねだりをすることになるのです。高望みの「ないものねだり」を満足する方法はありません。平準化された労働で高のぞみする個人のやり甲斐要求に応えることはほぼ不可能です。労働形態・内容の平準化と過剰な個性教育を組み合わせた結果、労働のやり甲斐は消滅したのです。かくして、現代人の多くは仕事のやり甲斐を失いました。人生の充実は労働以外のところに求める人が増えたのは当然の帰結だったのです。
産業構造の変化の過程で現代人は共同体の温もりを失いました。そして今、労働の形態と内容の変化は現代人のやり甲斐を奪うことになったのです。高度な専門職業や単純労働化が難しい対人関係の職業に就いた人々以外、多くの人々にとってボランティアは唯一残された「均質でもない」、「単純でもない」、「マニュアルもない」活動なのです。「自分らしさ」や「自分の感性」を探求できる活動なのです。
ただし、ボランティア活動は労働ではありません。食うためには、ボランティア以外の労働で日々の糧を得なければなりません。それゆえ、ようやく、ボランティア活動と労働が融合したのです。それがNPOです。社会も新しい「融合」を認めました。公益的な活動を行政の独占から解き放って市民に解放したのです。「新しい公共」という流行語も生まれました。NPOは、自分のやりたいことがやれて、人並みに飯が食えるという職業なのです。NPOが人々の注目を集めるのは当然なのです。生き甲斐が仕事の中にあった時代が急速に遠のきました。共同体文化を失った「さびしい日本人」に加えて、仕事のやり甲斐を失った「生き甲斐喪失の日本人」も急増したのです。
日本型ボランティアも、それが組織化されたNPOも“つまらない労働”からの脱出という要素を含んでいるのです。

短歌自分史の試み

1 自分史講座の困難と意義

現在私たちは高齢社会の真っただ中にいます。しかも、現代は,高齢者に限らず、自分流の人生の真っただ中でもあります。みんなそれぞれに自分の思うように「自分らしく」生きたいと願うようになりました。自分らしくと言いながらも自分のない人もいるので難しいのですが、少なくとも自らの欲求や快不快を中心に生きるようになったことだけは疑いないでしょう。それゆえ、高齢者はこれまで以上に自分の人生にこだわるのです。自分史が注目されて来たのはそのためです。高齢者を看取って来た医師の話では、人間は人生の最期に近づくと「饒舌」になると指摘しています。語り残すことが多くなるということでしょう。
しかし、社会教育のプログラムを見れば明らかですが、自分史を綴る人々の輪は必ずしも広がっていません。広がらない理由は、過去を「思い出す」という作業も、思い出したことを「整理する」ことも、それを文章に「書いて」、「編集する」という一連の作業は決して簡単ではないからです。
高齢者の活力を維持するためには、頭のてっぺんから足の先まで、人間の諸機能を使い続けることがカギになります。その理論的背景が医学用語「廃用症候群」です。言葉の意味は英語の方がわかり易いのですが、Disuse Syndromeと言って”使わない機能は使えなくなる“ということです。そこで筆者の提案する活力維持:老衰防止のスローガンは「読み、書き、体操、ボランティア」になりました。活動を継続して頭も身体も気も使い続けよう、という呼びかけです。ところが一番難しいことが定年や子育て終了後の「労働」から「活動」への移行です。今回は短歌で綴る「自分史」の作成に注目して見ました。
筆者は過去に2度、公民館を舞台として自分史の作成支援事業を主催したことがあります。人々は大いに興味を示され、でき上がった自分史は街の印刷屋さんにお願いして表装や製本を施し、各自思い思いの立派なものができ上がりました。中には世話になったみなさんにお配りすると言って、100冊も増刷した方がいらっしゃって驚かされました。自分史講座は2度とも継続のご要望は強く、自分に取ってもやり甲斐のあるお手伝いだったのですが、各人の記録したものを「推敲」し、「添削」し、時には「聞き書き」までする支援方法では時間と手間がかかり過ぎてお世話をする方が草臥れてしまうのが大問題でした。私もたまりかねて学生諸君や教職についていた教え子に応援を頼んだりして辛うじてその時のプログラムは無事に為し終えることができました。自分史作成の過程でみなさんが生き生きと過去を語り始め、交流が始まり、宿題をこなしてお元気を取り戻して行く様子が明らかに認められました。自分史は高齢者の「読み、書き」機能をフル回転させるのに最適なのです。また、執筆のプロセスで苦労を分かち合うことも完成の喜びを共有することも仲間との交流を深めるため大いに有効であることが分かりました。完成披露パーティーは大いにもり上がりました。唯一の欠点が作業時間と支援する側の負担が大きすぎることでした。経験上、書くことを生業にして来た人以外、散文自分史の作成は量的・時間的に一人の講師による単独支援はほとんど不可能なのです。
そうこうするうちに、偶然、私は若い頃に手がけて長く遠ざかっていた短歌に戻りました。たまたまメールに添付した私の歌を読んで下さって、しかも褒めて下さる方に出会いました。ありがたい出会い、ありがたい歌との再会でした。褒めていただけば嬉しくなって日常を歌にすることが習いとなり、メモのように綴ってすでに3年が過ぎました。初めは思いつくままに興をそそられたこと、節目になることなどを歌にしていましたが、だんだん日々の記録を兼ねた「歌日記」のようになって行きました。

2 短歌に見る個人史の「濾過効果」

どんなたどたどしい歌にも人生の背景があります。私の拙い歌にもあります。歌を読むという作業は人間の感情をゆさぶるものだからです。そんなことを考え始めた時に、たまたま「昭和万葉集」を開いたことがありました。戦中の巻でした。そこに綴られていた歌の大部分はそれぞれの人生の歴史的事件だったのです。恩師に別れを告げて戦地に赴く学生の歌がありました。妻に後事を託して別れて行く夫もいました。妻から夫への、子から親への、親から子への万感の思いを込めた歌もあり、さりげない日常生活の断片を切り取った写生もありました。

今宵限り分かるる妻が茶を入れて
机の上に置きて行きたり(青木辰雄)

旅立つ人を送る歌もありました。その時々の決意を歌った歌も、戦場の友を歌い、敵を歌った歌さえありました。

戦地より便り来にけりふところの
鏡いだして化粧を直す(山田かつ子)

下記のように、時に、歌は読む者にとって事実の背景についての説明は不十分です。

ひぐらしの一つが啼けば二つ啼き
山みな声となりて明けゆく(四賀光子)

しかし、どの歌にも間違いなく当人にとって切実な背景があり、人生の「事件」だったのです。そして、一番大事なことはそれぞれの詠み手にとって、歌は個々の事件の最も重要なことを凝縮した思いを掬い上げているということです。関係も記さず、会話も残さず、前後の説明を省略し、時代の背景も風景も捨象し、今ここに伝えおくべきエッセンスのみを31文字に込めているのです。第3者に読ませる歴史としては事実情報が不十分であっても、自分が振り返る自分史であればエッセンスは残るのです。私はそれを短歌における個人史の「濾過効果」と名付けてみました。

3 朧効果

歌は思いや事実を詳細に説明する必要はありません。私が綴って来た歌日記も肝心の事実をぼかしておぼろな雰囲気を醸し出しています。歌を読み返せば誰がそこにいたか、どんな話をしたか、事実の全貌については、覚えていることもあれば、忘れてしまったこともあります。しかし、31文字に限定して拾い上げた思いや心象風景は鮮やかに甦って来るのです。それが思い出の中心だからでしょう。散文で書けば、「中心」だけを書くわけには行きません。しかも「自分史」という思いで書き始めれば、小なりと言えども歴史は歴史ですから、普通5W1Hを省略することはできません。散文は文の形式や体裁を整えるだけでも主語も、動詞も、目的語も、省略や抽象化には限界があるのです。さらに、人生にはあらわに書きたくないことも多々あります。事実をあからさまにすれば生きている人に迷惑のかかることもあります。事実の叙述もまた自分の主観の偏りを免れません。多くの自分史が「自慢史」になったり、客観性を欠くことになるのはそのためです。そうした批判を避けるためにも短歌は最適です。短歌は最初から「客観性」を主張しません。「写生」に徹した短歌であっても「風景」や「事物」のどこを切り取って31文字に納めるかを決定するのは「写生者」の主観であることは明らかだからです。言いたいことも、言いたくないことも31文字の中にぼかしておくことこそ「朧効果」なのです。ぼかしながらも歌うという行為は選択の行為です。選択したものと選択しなかったものは自分にしか分かりません。時間が経てば恐らく自分にも分からなくなることもあるでしょう。しかし、短歌にしたことは選択した思いであり、事実なのです。朧であって朧でないことそれを歌に残すことが短歌の朧効果です。その時々の思いを残しておきたい時、歌は抜群の効果と機能を発揮するのです。場所も、時も、状況も、人物も、行為も、会話の中身も、我との人間関係も諸々の浮き世のことは抽象化し、捨象することができるのです。「かの時」も、「かの地」も、「かのひと」も「君」も、「かのもろもろ」を短歌という霧の世界に溶かしてぼかしてしまうのです。歌われた歌の解釈は自由ですが、誰も科学者のように事実を特定することはできません。歌われた風景の中に人はいないかも知れません。しかし、あなたにとっては人がいるのかも知れません。だれがいたのかはあなた以外には特定できません。もちろん、時には、遠い歌の中に誰がいたのか、どんな思いを重ねようとしたのか、あなたでさえ特定しなくていいのです。短歌は「解釈の弾力性」、「誤解の自由」をふんだんに内包しているのです。人生は事実の積みかなった結果ですが、事実の記憶も評価も時に朧なままにしておきたいこともあるのです。短歌自分史は、記憶が明確に切り取った人生の一こまと、朧にしておきたい人生の一こまを共に生かすことができます。朧にしておきたいことは朧のままに、それが短歌の「おぼろ」です。

4 短歌の省力化機能

自分史支援プログラムの中で事実関係を長々と聞き書きし、編集し、個人史にして行く過程は一般人には大変な作業でした。支援者にも大変な作業でした。聞き書きと言っても相手が過去を整然と語ってくれるわけではありません。それは誰のことですか、あなたはおいくつでしたか、それはどこのことですか、というように個人史の事実を5W1Hを中心に解きほぐして行かなければならないのです。しかし、5W1Hを省略して、その時々の心象風景も省いて、一番心に残っていることだけを問うことはそれほど時間もエネルギーも必要としません。記憶は事実の濾過装置です。記憶に残っている断片を集めて、5-7-5-7-7の定型の様式に果てはめるだけであれば、困難は一挙に軽減される筈です。もちろん、短歌の出来映えを問う必要はありません。出来映えにこだわればなかなか前に進まないでしょうが、推敲は後でもいいのです。まず、中核を為す事件や記憶を31文字に納めることが重要です。僅か31文字ですから、そこに納めることのできるものは少量です。31文字に納めることのできる範囲の事実と思いを語ることに限定すれば、作業は選択と精選になります。5-7-5-7-7-のメモを取ると思えば、言葉の作業量は極少になります。短歌はメモでもあり、文章作成の省力化でもあります。しかし、メモはメモでも、短歌文学の素晴らしさは、精選されたメモになるということです。定型の様式にどんな言葉を盛り込むのか、その思考と推敲の過程は人生の思い出を濾過する過程であり、雑事を捨象して当人のこだわりを抽出できる筈です。日本の伝統文化を自分史に結びつけることは多くの人の賛同を得ると期待しています。

§MESSAGE TO AND FROM§
お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。皆さまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。

山口県下関市 永井丹穂子 さま

「頑張ること」と「自然体」の対比のお便りを興味深く拝見いたしました。ご指摘の通り「がんばり」の評価は下がる一方ですね。「いまさら頑張ってどうするの?」と「自然体が一番よい」が時代の流れでしょうか。
しかし、私の近著は「生涯現役」論を手がかりとして、「自然体」礼賛の時代の流れに棹をさして高齢者の「がんばり方」を論じたものです。老化と衰えが「自然」だとすれば、その自然に逆らうことを勧める「読み、書き、体操、ボランティア」は「反自然」です。人間が「ヒト」科の動物から社会的存在の人間となったこと自体が「反自然」であると思います。「自然体」論者は人間の社会性こそが自然の対極にあるという原点を忘れているのです。「弱肉強食」が自然の鉄則であり、共生も人権も、理論的には「弱肉強食」の反語です。共同社会は基本的に反自然なのです。
「がんばる」の「漢字」は「頑に」気や意地を「張る」ことですから、自分が背伸びをして、自然にできること以上の事をするという意味です。振り返ってわが人生色々ありましたが、がんばって生きてきたことだけが誇りです。これからもがんばって生きて行くことを誇りにします。前回の本のあとがきに書いた通りです。たとえ敵わぬまでも老衰に打ち倒されるまでは、がんばって生きます。私に限らず昔の子どもはがんばることをしつけられました。「がんばり」と「勤勉」は日本人の文化的特性です。われわれはこの文化的遺伝(?)を誇りに思うことがあっても、反省することなど無用であると思います。「自然体」礼賛や「スローライフ」の勧めを聞くとイソップ物語の「あり」と「キリギリス」を思い出します。夏の間に遊んでいて冬の老後に助けてくれと言わねばならないキリギリスにはなりたくないものです。社会が「自然体」や「スローライフ」を主張できるようになったのは、「ありの働き」があったからです。自然体など誰にだってできます。がんばることは意志力・気力のある人にしか出来ません。
不登校の子どもにも、引き蘢りの青年にも、「がんばれ」と言ってはいけないのは、彼らにますます己の無能を知らしめ、ますます自己防衛的に落ち込ませることになるからです。彼らの治療法は、世間の白日の下に引きずり出して、有無を言わせず活動を開始させることです。アホな教育論と志を問わない人権論者が柔な日本を作りました。「しつけの回復」も、「教えることの復権」も基本は自らの欲求を制御してがんばることを教えることです。社会はそのように発展して来たのです。だからこそがんばっている人々は尊いのです。

北九州市 西之原哲也 様

複雑な気持でご栄転の知らせを読みました。若松未来ネットの実践研修は終始一貫リーダーが先頭に立たれたから成功した典型的な事例です。新しいお仕事もNPOなど市民の活動に直接関わる分野とお聞きしました。これからの日本も、そこで暮らす日本人も自らの生き甲斐や絆は自らの「市民活動」によって開拓して行かなければならない時代に突入します。共同体文化も、その名残の町内会機能もやがて消滅します。大部分の人々の労働は、自動化され、機械化され、平準化され、マニュアル化され、誰がやってもできるようなものになります。自分の「個性」を発揮し、「特性」を生かし、
「私」でなければできないという種類の労働は確実に消滅するでしょう。大部分の人々は共同体文化の中に「居場所」はなく、現代の労働システムの中にも「やり甲斐」を見つけることが大いに難しくなります。ニートやフリーターは現代の教育が生み出した悲惨な結果ですが、彼らが「生き甲斐」を感じ得るステージが消滅したこともまた疑いのない事実なのです。それゆえ、新たな「日本型ボランティア」やNPOの市民活動がエネルギーのある人々の中に少しずつ広がりつつあります。新しいお仕事はこれまでに倍して重要なお役目になると想像しております。なぜなら日本の政治も行政もいまだ現代日本人の「生き甲斐の探求、絆の形成」についての「渇き」をほとんど全く理解していないからです。

山口県田布施町 三瓶晴美 様

みやこ町の「男女共同参画ハンドブック」の感想をありがとうございました。過分の評価をいただき、作成に関わった委員の皆さんも、一緒に仕事をした自分も報われる「小論文」でした。日本社会の喫緊の課題は、子育て支援と少子化の防止、高齢者の活動ステージの創造と医療費・介護費の軽減、それに女性の社会参画です。
もちろん、これらは社会教育の課題でもあり、更に広く政治の課題でもあります。取り組みを始めれば、必ず行政改革にも、財政再建にも、雇用の創出にも繋がらざるを得ません。新党を結成した老練な政治家には、気力だけがあって具体的現実的な政策がなく、それを揶揄する若い政治家には、金権政治を批判する気力も、政策もないように見えます。政治が愚かなのは国民の愚かさの反映であることは政治学の常識です。『日本人の敵は「日本人」だ』(石堂俊郎、講談社、1995)ということになるのでしょう。若い世代の犯罪のニュースが続いています。おばあちゃんだけを狙う小学生のひったくりグループのことを123号に書きました。鍛錬を怠り、規範を教えない学校教育のつけと「子宝の風土」の家庭教育の破綻がまさに「教育公害」と呼ぶべき現象を生み出しているのです。

愛媛県松山市 仙波英徳 様

メールを拝見するたびに八面六臂のご活躍ぶりに感服しております。あなたのご配慮とコーディネートのお蔭で昨年の「生涯学習フォーラムinふくおか」のメンバーが愛媛を訪問した交流が具体的に実りました。5月の大会で愛媛の皆様にお目にかかれることを一同楽しみにしております。当日の大会会場の“準備指揮官”は過日同行した社教センターの弓削さん、“愛媛ご一行さま歓迎委員長”は「じゃこ天」、「じゃこ天」と騒いだ校長先生になる予定です。また、ご発表の無人島青少年キャンプの事例は大洲青少年の家の分科会で偶然お聞きしたものになりました。近年めったにないタフなプログラムですので各地の参会者の反応を楽しみにしております。

124号お知らせ

1 第29回中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会リーフレットができました。

日時:2010年5月15日(土)10時-16日(日)12時まで
(14日は前夜祭交流)
場所/問い合せ先:福岡県立社会教育総合センター(福岡県糟屋郡篠栗町金出3350-2、-092-947-3511。E-mail:mail@fsgpref.fukuoka.jp)
内容:各県の事例発表28、特別企画:リレーインタビュー「子育て支援」、「社会復帰のカウンセリング」、「市民参画のまちづくり」、「学校と起業の連携」などを予定しています。

2 第100回記念生涯学習フォーラムin福岡の内容が決まりました。

日時:2010年6月12日(土)13-17時
場所:福岡県立社会教育総合センター(前掲の通り)
第1部:リレートーク:「あなたが考える社会教育の現代的課題」
*日本社会が当面している様々な課題を材料として、古市勝也(九共大)、大島まな(九女短大)、森本精造(飯塚市教育委員会)、黒田修三(県立社教センタ―)ほかの方々の問題提起を受けて、リレートークを行います。以下はその切り口の一例です。
①子育支援のために公民館は何ができるのか?
②高齢者の元気を維持し、活力を引き出す方法はあるか?
③学社連携は実現するか、何をするか、誰がするのか?
④長期休暇中の青少年プログラムに何を選ぶか?
⑤社会教育はNPOやボランティアと恊働しているか?
⑥社会教育職員の研修と交流はどうあればいいのか?
⑦その他 (コーディネーター 三浦 清一郎)
第2部:ミニ講演
「日本型ボランティアの誕生-社会教育の新しい挑戦」(仮)
生涯学習・社会システム研究者  三浦 清一郎
* 終了後センターにおいて交流会を企画しております。お楽しみに。

編集後記 「満月に荒れる子ども」
金曜日の英語クラスの教材は微笑ましいものでした。5年生の担任の先生が書いていました。いつもは聞き分けが良く、授業にも集中する自分の生徒が月に1-2回手に負えなくなるほどに授業を混乱させることがあるそうです。気になって調べてみたら満月に近い頃に決まって騒ぎが起こることが分かりました。月は潮の干満に関係し、月夜カニのように甲殻類の脱皮にも関係します。病院が一番忙しいのも満月の夜だと言われています・・・。
先生は、人間の身体の大部分は水で構成されているので、潮の干満への影響と同じように、生徒の情緒的混乱も月に関係があるのではないかと考えたわけです。
ところが友人の科学者が調べてくれたところによると、月と人間行動との関係について様々な観察や実験が行なわれて来たそうです。しかし、両者の間に特定の関係を示す証拠は発見されていないということが結論になったそうです。
先生は今ひとつ納得できないでいるそうです。先生の疑問は、自分のクラスに起こる月1-2回の定期的な「荒れ」は、教師である自分の責任だろうか、ということです。先生は科学の信奉者ですが、この問題ばかりは科学が未だ解き明かしていないのではないかと疑問を呈しています。
最近の天候不順で、われわれの心身もいろいろ振り回されています。日照が足りないだけで気持が暗くなります。雲の低い日は鬱陶しいし、雨が近づけば、頭痛がしたり、足が痛んだりするという方もいます。しかし、時には、春の雨で気持が落ち着き、私の執筆は捗ります。自然状況が人間行動に何らかの影響を及ぼすことはやはりあるでしょうね。