発行日:平成21年12月
発行者 三浦清一郎
専門発想の「たこつぼ」化
高齢者プログラムの局所化-山口研修の教訓-
山口研修生が集う生涯学習の同窓会はようやく“遠足気分”を抜けた人生の実践研究交流会に育ちました。皆さんとの議論の中で,学問の「たこつぼ」化は行政の縦割りにも似て,「視野狭窄」状態に陥っていると感じましたので小さな論文を書いてみました。筆者の興味を引いた実践は、多額の補助金を頂いた「認知症の予防」事業でした。プログラムに関わる研修生の熱意も,エネルギーも見上げたものですが,実践を支える基本論理の整理は全く不十分だと痛感しました。以下は実践者に礼を失しないよう気を付けて分析した筆者の「老衰対処」論です。
1 「廃用症候群」の教育的意味
医学用語「廃用症候群」は、「使わない機能」は「廃れる」という意味です。それ故、教育論理や治療の処方に翻訳すれば、人間の諸機能は生涯にわたって適切に「使い続けよ」ということになります。筆者が「負荷の教育論」と呼んできたのも同じ主旨に基づいています。
前著作「Active Senior-これからの人生」において、筆者は、定年後または子育て終了後に、一気に人々の老衰が進むのは「労働」の終焉から新しい「活動」を開始する熟年期のライフスタイルへの移行に失敗し,心身の機能を使うことが激減することに起因していると結論付けました。換言すれば,「元気だから活動するのではありません,活動しているからお元気を保っているのです」ということになります。「活動こそ元気の源」といい続けているのは、「活動を通して人間の諸機能を使い続けよ」という意味です。もちろん、このことは下関市の田中隆子氏が奮闘している「認知症予防」の事業に限ったことではありません。人間の老衰現象全てに当てはまる処方です。彼女が依拠した増田式認知症予防の発想は、認知症を老衰の全体から切り離し,局所的に捉え,心身の機能を「部位」によって分断しているのです。学問的には専門・分化と呼ぶのでしょう。増田方式を考えだした増田未知子氏は,その治療法から想定して、老衰は頭に始まるとお考えになったと思いますが、頭に限られる筈は無いのです。当然、認知症も,認知能力だけが衰えるのではありません。全体の老衰の中で,特に使っていない頭の老化が顕著に出るものと考えるべきでしょう。それゆえ、老衰の予防は,認知症だけを予防するのではありません。老後の心身の機能の低下を全機能に亘って予防するのです。インターネットを調べてみれば、「園芸治療」と呼ばれる認知症の治療法も出て来ます。「園芸」活動が認知症の治療に効果があるのなら園芸と同じような働きを要求する他の活動にも同じような効果がある筈であると想定すべきでしょう。老衰防止とは、あらゆる人間機能の保持を目指すのです。研修を積んだ山口の皆さんは、行政の縦割りは問題であるとしながら、事、老衰防止の予防になると「縦割り」「局所的」対処法に疑問を持たないのは何とも不思議な気がしました。予防治療の一環と位置付けられているとは言え、いい年をした大の男がシーツを使った玉入れやじゃんけんゲームなど、人生に関係のない遊戯などやれたものではないと呆れ果てて毒づいたという次第でした。
2 処方は「全方位的」
老衰防止の処方は「全方位的」です。日常の活動に翻訳すれば,「読み・書き・体操・ボランティア」です。活動の中身は人それぞれですが,頭も身体も気も総合的に使い続けなければなりません。それが個人の心身の機能を保持する基本トレーニングだからです。老後の活動は,当人の心身の機能に依拠し,活動を支える機能は当人の活動が生み出し続けるのです。活動は「発電機」のように,活動によって活動エネルギーを生み出し,自らが生み出したエネルギーによって活動を支え続けるのです。活動を局所的に分断すれば,生み出されるエネルギーも分断されます。総合的な人間は頭だけでは生きられません。身体だけでも、当然、思うようには生きられません。もちろん、精神だけが残っても辛い人生になることでしょう。老衰は人間全体の衰えであり,予防も老衰全体を予防する発想に立たなければなりません。「廃用症候群」の命題は全方位的なのです。それ故,推奨さるべき「活動」は、総合的・社会的な活動でなければならないのです。小学生に「知徳体」の向上が謳われるように、高齢者の老衰防止も「知徳体」の全体です。
しかしながら,ボランティア文化の根付いていない日本の現状には,熟年者の社会的活動をささえるステージがなく、ボランティアを推奨する仕組みもなく、「社会を支えている人」と「社会に支えられている人」を区別的に評価するシステムも不在なのです。社会を支えている人と社会に支えられている人は明らかに違うのです。前者が存在しなければ,後者は存在し得ないからです。社会に貢献して生き続ける人々や労働を続けている高齢者を顕彰するシステムが無いのです。認知症の予防も、情緒的で局所的な事だけを言わないで,心身の活動を継続し、人間の全機能に「刺激を与え続けよ」とだけ言うべきです。それがトレーニングの本質だからです。生きる力は全体です。時に、部分的に鍛える必要はあるでしょうが、それだけでは総合的な活力にはなりません。「認知症」予防のみを取り出して、専門分化し、特別扱いする危険性がそこにあります。
言うべきことは、社会的に意義あることに心身の機能を使い続けよ,という一点です。それが、生涯現役という意味であり、生涯現役を続ける方法でもあります。当然,「認知症」を予防する方法もその中に含まれています。これまで書いた「風の便り」も、拙著「The Active Senior」も、如何に読まれていないかを痛感させられた研修でした。
*後日、参考資料として下関市田中隆子さんから「痴呆(認知症)予防教室(増田方式)に関する調査研究報告書(平成17年、高齢社会をよくする女性の会・京都)のご提供をいただきました。報告書を読むと、脳を中心に人間の心身に各種の「刺激」を与えるという方法ですから認知症が始まった患者の治療には一定の効果はあるものと予想できます。しかし、一般の元気な方に対する予防法としては、「総合性」が欠如し、「現実性」が欠落し、社会的活動の推奨、勧誘の配慮が欠如しているので、「局所治療」の批判は避けがたいと思います。また、「刺激」の与え方は、指の運動から始まり、お手玉、風船バレー、シーツ玉入れなど小手先のゲーム性の遊戯処方が続きます。健康に日常生活を送っている大のおとながやれるようなものではないのです。「塊より始めよ」を遵守して、自分たちが実際にやってみてはいかがでしょうか。日々多様な活動に邁進している方々にとって、如何に退屈で、お粗末な方法であるかが体験的に分かる筈です。
「健康」な「今」と「元気」の「その先」-若松研修の教訓-
福祉部門が展開する健康講座の問題は、「健康」な「今」と「元気」になったあとの「その先」を示さないことです。山口研修会での議論と同様、北九州市の若松講座も発想のたこつぼ化、対処療法の局所化という学問の分業の悪影響を重大に受けていました。
先に論じた山口研修の認知症予防にしても,若松研修のグループが企画した“元気になるための講座”にしても、「元気になること」が最終目的化して,健康な「今」や元気になった「その先」で何をするかという「展望」を全く発想していないのです。両講座とも企画をした人々は、それぞれに意気軒昂で、仲間を楽しみ、工夫に挑戦し、企画の成否を論じて実に生き生きしています。彼らには目標があり,期待があり,自信もあります。それぞれの活動が世の中に意義あるものであることも確信しています。それ故に,企画者ご自身はお元気で、生き生きしていられるのです。しかし、彼らが企画する健康講座では、「活力」は社会的活動の賜物であるという単純な事実を看過しているのです。換言すれば、企画者自身のお元気は,自らの社会的活動から得ているのに,彼らの企画する「元気」講座は参加者の社会的活動をほとんど全く視野に入れていないのです。それ故、認知症予防のプログラムは遊戯的、ゲーム的なものに終始し,健康講座は薬草の作り方やスローストレッチ体操に終始するのです。
「元気」な「今」に何をするのか、「元気」になって「その先」何をするのかをなぜ問わないのでしょうか。福祉分野の活動が自己目的化して、現今日本の高齢者を対象とした健康講座は,「健康」の「今」と「元気」になった「その先」を問うことはないのです。「健康」な「今」や「元気」の「その先」を全く考慮しないということは、高齢者は「世の無用人」であり,「保護の対象」であり、彼らの社会的活動は彼ら自身の選択の問題だと伝えていることに等しいのです。果たしてそれで元気を保ち、元気を取戻せるでしょうか?彼らの生き甲斐ややり甲斐は満たされるでしょうか?元気の方法を学んだあと自らの元気を維持して生きて行けるでしょうか?個人は近未来の人生の目標が見えないのに、ストレッチ体操を勤勉に続けられるでしょうか?
絵を書きたい人は絵を書き続けるために健康でいたいのではないでしょうか?山に登りたい人も,その他の趣味や仕事を続けたい人も、現在のあるいは近未来の目標のために「元気」でいたいのではないでしょうか?
さらに、高齢者の社会参画の問題は、個人の要求課題に留まり,個人の選択に任せればいいでしょうか?高齢社会が到来した時点で,すでに社会は高齢者の医療費や介護費で大いに苦しんでいます。高齢者の社会貢献活動を推奨し,顕彰し,彼らの生涯現役を価値とする思想を説かなくていいでしょうか?
すでに病気と戦っている人を対象とした講座ならともかく,お元気な人を対象として,病気予防や活力の維持の局所的な治療法や特定の身体部位にこだわったトレーニング・プログラムだけでは彼らの活力を維持することは出来ません。自分の明日に目標や期待を持たない高齢者は、元気を維持しても一時的な「元気」に留まることは明らかです。健康法は人々の「元気」を構成する要因のごく一部に過ぎません。元気のカギは当人を奮い立たせる活動であり、活動を通して得られる機能快であり,成果であり,人々の共感と拍手です。老衰が加速する「非活動的」高齢者を見れば明らかでしょう。これに対して,「活動的」に社会貢献活動に関わっている山口研修または若松研修の企画者ご自身のお元気を見れば、元気のカギは人生の目標であり、目標実現のために取組む社会的活動であり,そこから得られるやり甲斐であり,機能快であり、周りの方々の社会的承認の拍手と賞賛であることは明らかではないでしょうか?「元気」講座は「元気」の「その先」にある社会的活動への目標や期待を前提に,「元気」の方法を論じることが重要なのです。
「生涯現役」の評価の差異化は正当か
1「世の無用人」を「有用人」にする法
団塊の世代の退職は大量の「世の無用人」の発生を意味しています。「世の無用人」を「無用人」でなくする唯一の方法は、退職者・定年者に社会的な「たのみごと」をすることです。人々に必要とされれば「無用人」はすでに「有用な」人となるのです。「頼み事」は「高齢者支援」でも、「子育て支援」でも、「まちづくり」でも、「環境保全作業」でも、社会的に意味があればなんでもいいのです。要は、労働のシステムから離れた熟年者が活躍できる地域のステージを準備し、活躍のための費用弁償基金を整備し、行政や学校や民間の関係団体が頭を下げてお願いすればいいのです。公共の「たのみごと」を引き受けた瞬間から、「世の無用人」は「有用人」となり、「社会を支える人」に変貌するのです。
2 「生涯現役」とは「社会貢献」の現役
生涯現役者とは「生涯貢献」の意志をもって「生涯活動」を続けようとする人々を言います。生涯現役者は、当然、生涯健康者であり、生涯活動者であり、生涯貢献者であります。但し、「生涯貢献」の意志を持ち続けても、家族の事情によって、あるいはまた、やむを得ざる社会的条件によって、社会貢献の実践が滞ってしまう場合もあるでしょう。それでも、「生涯現役者たるべき者」は、来るべき生涯貢献に備えて、自身の養生と鍛錬を怠らない者をいいます。彼らは、社会貢献から離れているので、事実上、生涯現役者ではありませんが、志を捨てず、備えを怠らないという点で、「生涯予備役」とでも呼ぶべきではないでしょうか。なぜなら、彼らは、社会貢献の志と同時に、体力、耐性、気力、学力、感情値(EQ)など生涯現役者を生涯現役者足らしめる重要条件を保ち続けていることは疑うべくもないからです。辞書によれば、「現役」の対語は「退役」、中間で待機しているのが「予備役」です。
社会参画が「現役」の前提であるとすれば、老後をお元気に生きるだけでは「生涯健康」ではあっても,「生涯現役」ではありません。「現役」とは、現に「役」を引き受けて、社会に関わり続けるという意味になります。当然,社会的「責任」や「役割」を担い続けるという意味を含んでいます。
もちろん、「社会参加」の仕方,「社会貢献の仕方」は,「自分流」でいいのです。人生の多様な経験を考慮すれば,「自分流」にならざるを得ないのです。生涯現役のあり方もそれぞれのやり方でいいのですが,一生懸命生きるだけでも,趣味を楽しんで生きるだけでも,社会との関わりを失えば,「生涯現役」と呼ぶべきではない、と考えます。安楽余生の福祉プログラムや高齢者のための趣味やお稽古ごとの生涯学習プログラムに慣れ切ったに日本人には「酷」に聞こえるかも知れませんが,高齢者の生き方はもはや個人的な問題であると同時に,社会の問題となったのです。高齢者が日々を無為に過ごすか,あるいは自分のやりたいことだけを、やりたいようにやって,楽をして暮らせば,若い世代の負担を増やす一方なのです。
3 「社会を支えている構成員」と「社会に支えられている構成員」
「生涯現役者」は人生の最後まで社会の役に立つことを重視して生きるが故に、「社会を支えている構成員」です。筆者は新しい本を書くにあたって、高齢期に社会貢献を実行に移している方々こそ「一隅を照らす」光であり、「国の宝」(伝教大師)(*)であるという考えを発想の基本に置きました。文明の進化,福祉の充実,豊かになった日本のお蔭で人権も平等もほぼ保障されるようになりました。しかし、それは全て社会を支えている構成員の働きがあっての結果です。それゆえ、障害や老いに関わらず、社会に貢献し続ける方々を正当に評価しないのは問題だと考えています。人権とか平等とか人間の存在に関する普遍的・法律上の価値論を持ち出すと,如何なる理由によっても人間のあり方を「評価・区別」する考え方は「差別」につながると批判されがちですが,「社会を支えている構成員」と「社会に支えられている構成員」は明らかに違うのです。前者がいなければ,後者は存在しようがないからです。これほど自明なことでも、人権論議の過熱した中で「差別主義者」だと言われないかと恐れながら書きました。「安楽余生」論が蔓延り,老後は引退して楽しく暮らすのが当然だという風潮に満たされた日本で,“まだ働け、というのか”と反発が出るだろうとも予想しています。
上記の主張に対して学文社の編集担当者から質問が届きました。質問には、「社会を支えている構成員」と「社会に支えられている構成員」の評価は異なるべきだとして、両者を「どのように区別し、評価するのですか」とありました。質問の背景には「生涯現役」の評価の差異化は果たして正当か、というご意見が含まれていると想定いたしました。
4 生涯現役者の顕彰システムの構築
筆者の考えは変わりません。「社会を支えている構成員」と「社会に支えられている構成員」との評価は違って当然なのです。貢献の意志こそが優れた人間の証明であると言いたいと思います。現代日本は,老いてなお、社会貢献を続ける人々に対する評価が不十分なのです。「社会を支えている構成員」と「社会に支えられている構成員」を区別しないことの方がおかしいのです。彼らは「一隅を照らす国宝」の方々なのです。
労働から離れ、社会との関係を断って,自分だけの生活を主とし,安楽な隠居生活を趣味・娯楽・お稽古事のたぐいで埋めている人々を,「生涯現役」の内に含めなかったのはそのためです。学業にも職業にも関わろうとしないニートのような人々を厳しく批判して来たのも,そのような人々を庇護し続ける家族や社会を批判して来たのも同じ発想からです。社会を支えている人々は、社会から支えてもらっている人の人権も、権利も支えているのです。日本は、一方で、平等や人権の原理の制度化を達成しましたが,他方では、勤労や貢献や奉仕を大切にする心を軽んじていないでしょうか?自己実現や自分らしさが強調される一方、「おかげさま」を忘れ,「一隅を照らす方々」を軽視し,社会を支えている人々の顕彰を忘れているのではないかと恐れます。
編集担当者の質問への答は簡単明瞭です。「生涯現役」の評価を差異化するためには、「生涯現役者」を顕彰し、退職後の社会貢献活動を奨励するシステムを作ることです。一例として『高齢者ボランティア活動基金(仮)』があるでしょう。
東洋哲学者安岡正篤氏は、伝教大師が唱えた「一隅を照らす」人々を、評語化して「一灯照隅 万灯照国」とした、と前号に書きました。評価を区別するためには、『活動基金』の活用によって、「一灯」を掲げるものを社会的に顕彰し、生涯現役を「推奨されるべき」生き方として奨励し続けることです。
「未来の必要」
(30周年記念出版の編集会議が軌道に乗りました。以下は参加者にお願いした協議と分析の視点です。)
1 生涯学習機能の過小評価
政権交替を含め、時代があらゆる面で変化しています。変化は必ずわれわれに新しい状況への適応を要求します。生涯学習もあるいは社会教育も今までの仕組みややり方を全面的に評価し直す時期が来ているのだと思います。
近年の政治は明らかに,社会教育も生涯学習も評価していません。故に,予算が削減され,人員が削減され,公民館を始め社会教育・生涯学習関係の施設も確実に指定管理制度によって行政の直営から外れています。この傾向は今後ますます強まって行くと予想されます。生涯学習概念の登場によって,社会教育は生涯学習と等値され、教育者を主役にする生涯教育の概念は否定されました。行政システムにおいても,社会教育課の看板はほとんど全て「生涯学習課」に書き換えられました。にもかかわらず社会教育法は軽微な部分修正に終始してそのままに放置されました。少子高齢化を始め、時代の緊急課題が噴出する中で,そうした課題に対処すべき、社会教育法に代わる新しい生涯学習を推進する法律も制定されませんでした。また、臨教審時代に別途制定された生涯学習振興法はほとんど全く現実に寄与していません。そのことは、現在、誰一人この法律の存在を論じないことからも明らかでしょう。教育基本法の改正における生涯学習の捉え方は,生涯にわたる“国民の修養”と等値され、技術革新に伴う社会的適応の必然性の視点を完全に欠落しました。生涯学習の必要は国民に修養のためではなく、間断なく発生する社会的条件の変化の連鎖が生み出したものであることを忘れているのです。もっとも重要な教育の基本法においてすら、国民のあるべき生涯学習を立国の条件として認知しなければ、その推進の仕組みや実践の推奨が政治課題、行政課題になる筈はないのです。生涯学習の機能は立法関係者の不勉強の結果、明らかに過小評価されているのです。
2 国民主体と国民放任の混同
更に,基本法の改正は家庭教育に関しても重大な状況判断のミスを犯しました。「早寝早起き朝ご飯」のスローガンに象徴される家庭の教育機能の衰退に直面しているにも関わらず,状況を補完すべき社会教育のあるべき指針は提示されませんでした。学校の閉鎖性や学校外の子どもに対する非協力性も不問に付され、関係分野の連携の「在り方」も謳われる事はありませんでした。驚くべきことに,一方で、家庭の教育機能の重要性を喚起しながら,現状に目をつぶって、過保護の親を過信し、「家庭の自主性」を尊重するという文言が条文に挿入されました。国民の主体性を尊重するということと現状の国民を放置することとが混同されたのです。事、生涯学習に関する限り、教育基本法の改正は,時代の分析と立国の条件を忘れ果て、本質を外した誠にお粗末な条文になったのです。
3 「生涯学習格差」の深刻化
一方、登場した生涯学習の思想と実践は,第1に教育行政の努力、第2に時代が求めた変化の連鎖現象が相俟って、広く国民の間に浸透しました。現象的には,市民が学習の主体となり,学習者の量的拡大、学習課題の範囲の拡大が顕著にみられました。生涯学習はようやく多くの国民の常識の域に達し,日常の実践的課題となりました。しかし,生涯学習概念の導入以来、2つの重大な問題が発生し、進行しました。第1は,学習が「易き」に流れた事であり,第2は「生涯学習格差」が拡大し続けた事です。社会生活上の指針や法律上の規制を課さない限り,人間の行為が易きに流れることは欲求の実現を求める人間性の自然です。生涯学習の選択主体が国民になった時点から,学習の機会と選択の仕組みは教育行政の任務とされながら,学習内容と方法の選択は国民に任されました。その結果,人々の学習は、「社会の必要」から離れ,「個人の要求」を重視したものに傾きました。
社会教育行政が辛うじて保って来た「要求課題」と「必要課題」のバランスは崩壊し,内容・方法の決定にあたって、教育に関わる専門家の参画は一気に低下し、国民の興味・関心は、楽で、楽しい「パンとサーカス」を追い求めるプログラムに集中しました。少子高齢化が進行し,日本国家の財政難が明らかになった今日、“人々の娯楽や稽古事をなぜ公金を使って提供するのか”という政治・財政分野の批判的意見は誠に正鵠を射ているのです。公金の投資が社会的課題の解決に寄与しないのであれば,予算・人員の削減は理の当然の結果だったのです。日本社会がその特徴としてきた「行政主導型」の社会教育・生涯学習の推進施策が失速するのも当然の結果なのです。
もちろん、学習の選択主体となった市民は「選択を拒否する主体」ともなりました。その結果、生涯学習や生涯スポーツを「選んだ人」と「選ばなかった人」との間に巨大な人生の格差が生まれつつあります。変化が連鎖的に続く時代状況は、必ず変化に対する適応の「成否」が問われる時代になります。故に,「生涯学習」の成果が、個人の生活に重大な影響を及ぼすことになるのです。高齢社会において,健康に関する学習や実践を怠れば「健康格差」が生じ,情報化の時代において、情報機器が使えなければ「情報格差」が発生し,人生80年時代において、活動を停止した高齢者には「交流格差」や「やり甲斐」の格差が発生する事でしょう。社会的条件の変化が生涯にわたって連鎖し続ける時代背景を想定すれば,生涯学習によって学んだ事の格差は、社会的課題についても,発達課題についても、個人の適応の成否を分け、人生の明暗を分けることになるのです。「生涯学習格差」の深刻化 が放置されれば,あらゆる分野で社会問題を引き起こす要因に転化することを恐れます。技術革新が続き国際化や情報化が“待ったなし”の条件下で,国民の生涯学習に遅れを取った社会は、産業でも貿易でも立国の条件に遅れを取ることになります。さらに、子育て支援の施策に失敗すれば,未来を支えるべき生産人口は減少の一途を辿ります。高齢者の自立と生涯現役を続ける活力と思想の涵養に失敗すれば,社会は活力を失い,財政負担は次世代の堪え難いものになることは火を見るより明らかです。日本の生涯学習振興行政はこれらの全てに失敗したのです。
4 評価視点の偏向
政治も行政も「パンとサーカス」に走った生涯学習の「負」の結果には正当な評価を下しました。しかし、変化に適応し,立国の条件を形成する生涯教育の「貢献」の重要性を見落としたのです。少子高齢化が引き起こす問題を解決するためにも,国際化,情報化の変化に適応して行くためにも、国民の「適切な学習」が不可欠です。それゆえ、国民の適切な生涯学習の継続こそが立国の条件になり得るのです。教育基本法の改正にも,社会教育法の改正にも,立国の条件となり得る生涯学習振興の適切な指針は盛り込まれませんでした。誰も語ることのない生涯学習振興法も、市民が果たすべき「適切な学習」の中身と方法を問うことはありませんでした。「生涯学習の振興」が立国の条件を形成し,現行行政分野のほとんど全てに関わるという事実にも関わらず,当時の,文部省と通産省のみが参加した「生涯学習の振興」のための法律にどれほどの意味があるのか,その後の政治も,行政も問い返すことはありませんでした。勉強の足りない政治家はもとより,担当官庁やその周りにいる学者達は一体何をしていたのでしょうか。現行行政の縄張りや省益に振り回され,あるべき「仕組み」も,為すべき目標も示されませんでした。生涯学習機能の評価に偏向や怠慢があったと言われても仕方がないのです。
5 指針なき「適切な学習」
民主主義の原則を教育に適用し、生涯学習の選択主体は国民であると突き放した時、各分野の専門家の支援なくして、市民は「適切な学習」に戻ることができるでしょうか。法や政策に示される指針を欠如したまま、生涯学習にふたたび「社会の必要」の視点を導入することは可能でしょうか。生涯学習に「社会の視点」を導入するという事は、現行の国民主体の学習に、諸分野の専門家が発想するあるべき生涯教育の視点を付加することを意味します。
教育基本法や社会教育法など諸法律の改正は、生涯学習の意義と方向を示し,実践の仕組みと指針を提示し,市民に「適切な学習」を推奨することが任務だった筈なのです。確かに、文部科学省も「現代的課題」とか「新しい公共」という視点から、あるべき「適切な学習」を摸索しました。それでも根本において、学習の選択を国民に委ね、滔々たる「要求対応原則」の流れの中では、惨めな失敗に終ることは当初から明らかだったのです。現行の生涯学習が政治の信頼を失ったのも,結果的に、生涯学習推進体制が衰退したのも、政治や行政自身がその真の重要性を理解せず,法も施策もあるべき方向と指針の提示を行なわず、日本の生涯学習が「適切な学習」の選択に失敗したからなのです。
6 「未来の必要」の分析は「未来への提案」を答とする
生涯学習を「未来の必要」から論じるということは、時代が必要とする「適切な学習」とは何か,を論じる事です。「未来の必要」を論じる事は,社会の必要課題を解決するための「あるべき生涯学習」を論じる事です。「あるべき生涯学習」と言った時点で、第1に生涯学習は生涯教育の必要を包含し,第2に現行の行政の枠組みに囚われることなく,第3に学習は国民の選択に委ねればいいのだという発想を捨てなければなりません。この時点で生涯学習施策は政治課題となり、行政施策の優先順位を決定する事業仕分けの対象になるのです。
過去30年の発表事例を整理してみれば、その中のもっとも優れた事例と思われる実践ですら、現状の枠の制約に囚われ,現実の条件に妥協した「過去の実践」の部分修正の事業です。われわれ大会実行委員がまとめた過去3回の記念出版における分析も、これまでの基本は,現状を前提とし,現実の条件を如何に工夫したかを評価の視点に置き,「未来の必要」から事業を論じることはありませんでした。結果的に,ほとんどの事業は行政の縦割り分業に制約され、中央行政が提示する補助金行政に制約され,中央が提示する施策の適否を評価することなく実践を続けて来たのです。30年の実践研究を振り返って,福岡県立社会教育総合センターの調査研究室は追跡調査を実施しました。その結果、優れたモデルと評価された事業も、事業自体が財政上の理由や担当者の交替や状況の変化によって中断されているものが多いことが分かりました。
今回は30年の歴史に学び、蓄積してきた事例を土台にしながらも、事例の現実を分析の出発点にしないことを決めました。代わりに,当該事例が真に未来の必要に応えようとすればどのような実践であるべきなのか,「未来の必要」を評価の視点に置きました。「未来の必要」から見たとき、実践事例はあるべき仕組みの中に位置付けられなければなりません。現状でうまく進めたか,否かではなく,本来どうあるべきなのかを問うことにしたのです。「未来の必要」を分析の出発に置けば,事業分析はあらゆる面で、今後のあるべき方向を理念的にも具体的にも提案しなければなりません。「未来の必要」から論じるということは「未来への提案」を答とするものだからです。30年の実践研究はようやくわれわれの目を開いてくれたような気がします。記念出版は,歴史を振り返り,発表事例を分析の素材にすることは間違いありません。しかし,現状を前提にして“優れたモデル”を抽出したとしても、その解説をして総括に代えることは未来の処方を提案したことにはならないと気付きました。現状の枠に縛られた事例は,数年後の近未来にすら通用しない場合があることは、過去30年の検証によって明らかなのです。過去3回の記念出版は,現存する実態をやむを得ない所与の条件として受けとめ,その範囲で何ができるか,どう工夫すべきに分析の努力を傾けて来ました。
7 30年の蓄積は「未来」を発想する触媒
今回は,過去の優れた事例に依拠して、当該事例が本来目指すべきであった「理想型」の分析と提案にこだわりました。それ故,過去の事例に依拠しながらも,執筆者の新しい発想をどんどん加えて、社会教育も生涯学習もかくかくしかじかの内容と方向で行なうべきであるという提案を行なえるよう全力を傾けました。現状を前提にした場合,システムを改善すれば,簡単に「できること」まで、現状ではできないという答にしてしまいます。
編集会議の議論の過程で、実情論、実態論から遊離すれば,実践の指針にはならないのではないかという悲観的意見も当然出されました。しかし、政権交替によってダム工事を中止することができるように,現行の仕組みを変えることさえ出来れば,生涯学習に生涯教育を加味することも可能であり,ザルのような社会教育法に未来の学習の指針を盛り込むことも十分可能だと考えました。「未来の必要」を論じることは、いまだ実現していない事業の在り方を論じることになりますが,夢物語を回避し,空論を避けるためにこそ実践研究交流会30年の事例の蓄積を活用すべきであると考えました。中・四国・九州の各地で現実と格闘しながら積上げて来た30年の蓄積は「未来」を発想する触媒になり得ると確信しています。
政権が交替し、民主連立政権が掲げたマニフェストは「未来の必要」,「未来との約束」であった筈です。賛否は別として,マニフェストが現実のものとなるまで、その中身は架空の夢物語であると評価されたものも多かった筈です。今、われわれは、政権が交替したとたんに、夢物語であった筈のマニフェストが、国民との契約として、具体的に現実の実践に翻訳されて行く過程を目の当たりにしているのです。
過去は参考にするが,過去の延長線上の部分修正の分析はしないことを本書の方針とします。現状を前提とせず,未来の必要を分析の視点とします。過去の専門化と分業化にとらわれず、未来の必要からあるべき仕組みを総合的に構想します。各執筆者には,過去の実践を素材として,新しい生涯学習の目標と方法を論じていただきました。今、日本社会がおかれている状況、女性がおかれている状況、高齢者がおかれている状況、子どもがおかれている状況、学校の現状をどう変えるべきなのか,今までは出来なかったが,未来は、こうでなければだめだという視点と中身を是非とも提案していただきたいとお願いしました。
執筆は実行委員会が過去の優れた実践事例を抽出し,関係者の評価の視点を集約し、執筆者が草稿に落したものを編集会議で討議の素材とし,各人が提案する追加点と修正点を加えた上で最終執筆を行ない原稿としました。
8 マニフェストの手法
過去3回の記念出版も当然編集会議を経たものではありますが、厳密な編集方針を確認することも,執筆者に指針を守ることを要請することもしませんでした。結果的に,各提案に対する討議は感想のレベルに留まってしまいました。政策の理想型も,プログラムの理想型も、思い切って現状の枠組みを否定してみないと出てこないと気付きました。本書も,政治に倣ってマニフェストの手法を導入しました。賛否は別れても、政治が採用したマニフェストの手法は、提示された「理想型」を国民が選択して現行の仕組みを変えたのです。社会教育も生涯学習も、未来の必要から未来の指針や目標を設定し、あるべき仕組みを想定し,国家の課題、国民の必要に対する処方箋を提示し,国民の選択をせまることが重要なのだと思います。日本の生涯学習は、国民の選択に基づき、楽をして、楽しくやればいいんだという実態が最大の問題です。生涯学習が現状に留まれば,国家は立国の条件を失い、われわれの実践研究の意味は失われ、関係法規の意味も,社会教育行政の存在意義も問われることになるのです。
120号§MESSAGE TO AND FROM§
沢山のお便りありがとうございました。特に,過疎対策と義務教育の農山漁村留学制度の組み合わせに熱い賛同のご意見を頂き喜んでおります。30周年記念出版の編集を「未来の必要」に視点を当てて開始いたしました。小論「未来の必要」はその序文のつもりで書きました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。皆さまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。
北九州市若松みらいネットの皆様、山口ボロボロの会の皆様
懇親会で十分に語り尽くせなかったことを「元気のその先」の小論にまとめました。なぜ、お元気な高齢者まで保護の対象としてみるのか。福祉に蔓延している保護の姿勢が高齢者の活力を奪っていることに憤りを感じながら,断じて自分は健康事業の保護対象にはなりたくないという思いをまとめてみました。
福岡県八女郡黒木町 横溝弥太郎 様
未来を人的資源に依拠し、教育に人生を賭ける傾向の強い日本では、地域に義務教育の学校がなくなれば、若い世代は出て行かざるを得ません。もちろん、だれも子ども連れで引っ越して来る人はいなくなります。それゆえ、地域は優れた義務教育学校を中心に繁栄し、義務教育学校の消滅を機に没落して行きます。歴代の政治はこうした単純な論理を見過ごし、タコつぼ化した教育行政はいまでも国土の均衡発展など一顧だにせずに学校の統廃合を進めております。賢い筈の日本人が何とも哀しいことです。
山口県下関市 永井丹穂子 様
世間広しと言えども、拙著をお歳暮代わりにお使い下さったのはあなたが初めてです。恐縮の限りです。自分を拾いあげて下さった学文社の三原編集長にも約束いたしましたが、今後の一層の精進をお誓い申し上げて感謝の言葉といたします。
ご支援御礼
過分の郵送料ありがとうございました。
東京都 池田和子 様
佐賀県多久市 田島恭子 様
同 林口 彰 様
同 中川正博 様
佐賀県多久市 横尾俊彦 様
長崎市 藤本勝市 様
北九州市 古中倫子 様
福岡県宗像市 赤岩喜代子 様
山口県長門市 藤田千勢 様
宮崎市 飛田 洋 様
120号お知らせ
第95回生涯学習フォーラムin福岡
日時:2010年1月23日(土)15-17時
場所:福岡県立社会教育総合センター(092-947-3511)
発表者;九州共立大学准教授 永渕美法
飯塚市教育委員会指導主事 小林広史
終了後センター食堂において夕食会
第96回生涯学習フォーラムin米子
1月30日(土)18:00-;交流会:鳥取県日吉津村「うなばら荘」
1月31日(日)午後;インタビューダイアローグ
テーマ:「まちづくりと学社連携」、
登壇者:鳥取側2名、福岡側3名(予定)
司会:三浦清一郎
会場:鳥取県伯耆町「鬼の館」13:30-16:30
連絡先:鳥取県伯耆郡日吉津村教育委員会(Tel: 0859-27-0211橋田和久様)
第5回人づくり、地域づくりフォーラムin山口
今年度は、2月13日-14日(土-日)の予定です。関心のある方は山口県生涯学習推進センター(〒754-0893山口市秋穂二島1602、電話083-987-1730)までお問い合せ下さい。
第97回生涯学習フォーラムin若松
参加希望者は「北九州市若松区役所まちづくり推進課:093-761-5321に問い合せをして見学許可を受けて下さい。
みらいネット最終報告会&生涯学習フォーラムin若松
会場:北九州市若松区役所3階大会議室
公開プログラム
■11:30~12:00 【論文提案】三浦清一郎、「やさしい日本人」の再生とボランティア文化(仮)
■12:00~13:00 昼食交流会(お弁当:事務局用意)
■13:00~15:30 【第1部】活動最終報告会
― 休憩10分 -
■15:40~16:50 【第2部】個人別感想、フォーラム参加者の紹介・感想
■ 16:50~17:00 【閉講式】
フォーラム終了後簡単な夕食会を若松で企画する予定です。
編集後記
希望と目標を忘れれば事は成らず、足るを知らざれば、日々は哀しい。故に、感謝して頼らず、望んで怠らぬよう努めて行きたいと思います。今月号をもって「風の便り」は10年、120号となりました。支えて下さった読者の皆様に厚く御礼申し上げます。沢山の方から過分の郵送料を頂戴いたしました。年ごとに読者が入れ替わり、古い読者の反応を失うたびに、ご好意に応え得る研究や仕事をしなかったのではないかと恐れます。1年「更新」の手続きを厳格に守って来たのは、読者の評価は甘んじて受けなければならないという覚悟を貫徹したいと願ったからです。
出発から今日まで、福岡県立社会教育総合センターの歴代の職員の方々にはいろいろ助けていただきました。現飯塚市の森本精造教育長が所長でいらっしゃった時に始めた「生涯学習フォーラム」も94回を終了いたしました。「風の便り」はフォーラム勉強会の広報紙のつもりで続けました。また、この間書き綴ったフォーラム論文の多くは、嘉飯山地方の月刊誌「嘉麻の里」に連載していただきました。仲介の労をお執り下さった正平辰夫東和大学教授、大庭星樹編集長のお蔭です。
徒手空拳で始めた「風の便り」の製作は上記センターの印刷室をお借りして手づくりで行ないました。その行程において編集,印刷,折り込んで封筒に入れる発送作業まで全ての行程に手を貸していただいた九州共立大学の永渕美法准教授の支援がなければ到底続けることは不可能でした。100号まで書いて,初めて,「風の便り」は広報紙から研究誌に重点を移し替えました。これ以上よそ様にご迷惑をかけるまいと,コンピューターのレッスンに通い、自前の編集をするようになり,101号からは,印刷も専門の業者に依頼するようになりました。この頃から「メルマガ」の発信も始めました。今後しばらくは現在の方式で進めることになると思います。
お蔭さまで10年,敢えて、マラソンの折り返し点にあたるものと考えようとしています。数々のご支援本当にありがとうございました。これから先は、体力・気力との勝負です。志半ばに倒れるようなことがありましたらどうぞご寛容にお許し下さい。
加齢とともに,避けがたく心身の衰えを日々実感するようになっています。ますます時間が惜しまれます。花を見て来年の花に逢いたいと思い,紅葉を見て次の年の秋に逢いたいと思います。宮城谷昌光氏の小説の中で荀子が言ったという「積土の山を為さば,風雨興る」という一節に出会って以来,少しでも高い山にするよう研鑽を積んでおりますが,我が積んだ土はまだ小さな丘にもなっていません。せめて丘になるまで生き延びてかすかにでも風の興るのを見たいものと切望しています。
燃え尽きる予感の中を歩み来て
あわれ
今年の師走に至る
菊開き著者校正の届きたり
新しき書を
世に問わんとす
年を経ていよよ赤々咲き誇る
さざんかの下
あこがれて立つ
(沢山の人に支えて頂いて生きました。人は人の間で生きる,ということをあらためて自覚し,ありがたく実感しています。「風の便り」も「フォーラム」も世に問い始めた著書も全て巡り逢った方々との出会いの賜物でした。)
あの人もこの人も
今日を導きて
我が晩年の道をしめせり
いつしかに
120号書き綴り
我が歳月に安らぎを知る
歳月は過ぎての後に
有り難く
120号妻に差し出す
ありがたく言うべきことを探せども
思い当たらず
ただありがたし
今日よりは
新しき日を生きんとす
思いばかりが逸るこの頃
水仙のにわかに伸びて
わが庭に
師走の香り運び来たれり
(ミニチュア・ピンシャーのカイザーとレックスを連れて雨の日も風の日も森を歩きました。お蔭で足腰は鍛えられ,心肺機能もさほどの衰えを感じませんでした。社会的に戦わねばならなかった5年の歳月も病気をすること無く乗り越えました。天が味方をしてくれたと言う思いが強くあります。)
かたわらに赤犬2匹寄り添いて
我が晩年は
華やぎにけり
世は移り吾も年老い
森の木も
枯れて切られて横たわりたり
信仰の身にはあらねど
この歳月
吾を見守る神のおわすか
事故も無く病も得ずに
戦いし
この10年のありがたきかな
(「肩書き」を失い,「世の無用人」となって、いくつもの出版社に体よく断られたわが原稿は、学文社の三原多津夫編集長の一諾によって世に出る道を得ました。著書は、結果的に,「無用人」であった自分に「有用」の証を与えてくれました。もちろん、新しい活動の可能性も拓けました。現場を訪ね、人々の活動を取材して研究成果を世に問うことは、我が晩年の天職と思っています。)
学文社出会いの縁の有り難く
歳月を経て
いよよますます
冬の日に咲き誇りたる山茶花に
こがれて吾も
著書を世に問う
薄れ行く視力恐れて
仰ぎ見る
空のまばゆさ末期の景色
静かにも冬の来しかな
1年のことを為し得て
森を巡りぬ