「風の便り 」(第152号)

発行日:平成24年8月
発行者 三浦清一郎

「井関」の嘆息
-戦後教育のトラウマ(いまだ克服できない被害者意識)

 山口市井関の学童保育の指導が4か月目に入りました。集団がまとまり、子どもはようやく「締め切り」の意味を理解し、「時間」に反応し、「助け合い」を憶え、「努力すれば拍手や承認によって報われる」という世間の一般原理を学び始めています。彼らの自主性を育てているのはまさしく指導者による「他律」であることを戦後教育は理解していません。
 子どもの主体性や個性だけを優先して「自主性」が育つはずはないのです。表現上、矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、自己制御の能力を未だ獲得していない子どもには「自分でやりなさい」「自分で決めなさい」ということは「他律」で教えるのが基本です。社会の視点に立って、共同生活の「型」を教える:それが和服の型をしつけ糸で止める「しつけ」に当たります。
 外部の参観者が増えて来ると感想や批判の中に戦後教育のトラウマも見えて来ます。戦争がもたらした日本の不幸をすべて戦前の教育のせいにする被害者意識の見方は今も続いているということです。
 戦争や侵略の直接的原因は軍部と政治の暴走であり、弾圧で、教育はその道具に使われたのです。また、間接的には、当時の弱肉強食の侵略的国際情勢の結果であり、それに同調あるいは反発した多くの日本国民の賛同がもたらしたものです。国民自身の戦争責任を棚上げにして、戦前の教育全部を十葉一からげに断罪するのは間違いです。現代の子どもがここまでダメになってもまだそのような見方に留まっているのか、と嘆息せざるを得ない時があります。

1 集団指導は「軍隊教育」か!?

 『びっくりした。よくあれだけ憶えたね!小さい子も大きい子も、子ども達は立派だったね。私たちの子どものころの「軍隊教育」のようだったね。でも暴力的ではなかったですね。感心しました。』
→おばあちゃんいい加減にしてください。集団教育は軍隊教育と同じものではありません。また、世界の軍隊教育が全部「悪」である筈もありません。集団教育の中身と形式は分けてお考えください。あなたがタフで、働き者で、がまん強く育ったのはその頃の教育のお蔭です。現代の日本の教育には江戸時代以来の教育から学ぶべきところが沢山あります。戦後教育のトラウマで自衛隊に入れることに反対者が多いので、止むを得ず新入社員教育では消防学校の鍛錬プログラムに入れるのです。子ども達の朗唱の成果は「軍隊教育」の成果ではありません。江戸時代以来の「素読」と子ども達自身の力を借りた集団指導の賜物です。

2 他律は個性の抑圧で反教育的か!?

 『先生は毅然としていましたね。子どもの機嫌をとっているようじゃ、教えられませんからね。あれでいいんですね。でも、現代の親はいろいろ言うでしょうね。可哀想なところもありますね。』
→親はもちろん、現代の子どももいろいろ言います。「きつい」、「おもしろくない」、「やりたくない」、「やだ」などを連発してさぼります。自分のやりたいことだけをやりたいと主張します。「やかましい!」と一喝すると拗ねてむくれます。親は高圧的で、封建的な指導だと批判します。
 批判は甘受しますが、トレーニングを受けている子どもに可哀想なところなどありません。指導員はみな献身的で、子どもを向上させることで懸命です。現在の井関では、指導者が子どもを圧倒するエネルギ-をもって他律に従わせ、子どもの個々の感情や恣意的な欲求を粉砕しています。集団の指導には「1匹の鬼がいなければならない」と表現しています。「鬼」とは畏怖の対象であり、圧倒的な支配力です。筆者だけが「鬼の役」を果たしています。
 人間関係における非礼もわがままもいじめも断じて見逃さないように努めています。その過程で子ども達の身勝手な言い訳やわがままは一切聞きません。身勝手な欲求は断固抑えこみますが、指導員全員が「庇護の役」を果たしているため、個性を抑圧しているとはまったく考えていません。個性は目標に向う挑戦の過程でこれから徐々ににじみ出て来る筈です。しょうがい児や問題を抱えている子どもも全員一緒に指導します。子ども達の成長を守るためには、「目標を共有する子ども集団」を作り上げることが先決です。そのためには、しつけの出来ていない子どもの「逸脱」を許さないことが不可欠です。子どもの自立や共同を育てる断固たる他律は、教育が教育になるための必然的方法なのです。目標に向って規範を重んじる子ども集団が出来れば、その集団が子どもを育てて行きます。子ども自身が子ども自身を育て始めるのです。自分が自分を教育する自己教育と同じような原理で、高い目標を持った集団が成員の子どもを育てて行くのです。「目標集団」が形成されれば、子どもは集団の目標や雰囲気に「同調」して行くのです。
 指導者がぶれない限り、指導の過程で子どもが個々の特性を表し、与えられた課題を達成して行きます。喜び方も、悔しがり方も、涙に暮れる態度ですらも子どもは個性的です。また、立ち上がって次の段階へ挑戦して行くプロセスこそが子どもの個性の現れだと考えています。
 井関では、他律によって「自分でやれ」と教えます。強制によって「その態度・言葉使いをあらためよ」と教えます。霊長類ヒト科の動物を人間にするためには、鬼の指導者の他律に対する断固たる信念と庇護役の指導員のやさしいこころ配りの両方が基本です。それが社会の視点に立った「型の教育」です。「社会」か「個人」かの2者択一ではなく、「社会」を先に立てた「個人」の教育です。

3 競争は差別か!?

 「成績を張り出すのですか?」(それって差別じゃないんですか?)という嫌みを込めてまた、また教員経験者が言ったと聞きました。子どもの変容を眼前に見ている指導員はもはやこの種の批判に動じなくなりました。成績を張り出すのは「目標」を示し、指導上の「社会的承認」を与えるためです。
 井関はで子ども達に論語は教えていません。しかし、論語カルタでほぼ毎日競争させて来ました。勝負に勝ったものには小さな褒美を出します。子どもの闘争本能に直接働きかけているのです。それゆえ、いろいろ「ハンディ」は工夫するのですが、努力する下級生は上級生に挑戦して勝ちます。
 小さな飴玉一つでも褒美は「努力の証」、「勝ち取ったメダル」に匹敵します。カルタ取りで、私たちが課したたった一つの条件は、「上の句」と「下の句」の全部が正しく言えないと、せっかく取った絵札が自分のものにならないというルールです。だから勝ちたい一心で子どもは覚えるのです。「勝ちたい」という「競争心」が子どもの特性です。この3か月でカルタ遊びに参加した子どもは、1年生まで百句全部言えるようになりました。
 人生は競争です。競争の結果、人生は個人の努力に相応して差別的になります。人の世に、いろいろ不公正も、ちぐはぐもありますが、原則として、努力は報いられると教えたいものです。人生で努力しない子どもはいつかきっと泣きます。
 毎日来ていない子はカルタの経験が当然足りません。勝つことも出来ず、褒美の飴も貰えず悔し涙にくれていますが、とても良いことだと思います。想定した結果がでないのは、「おまえの努力が足りないからだ」ということを教えることもまた重要です。子どもの努力に報いないで「反差別教育」が成り立つはずはありません。出自や性別や容貌のように個人が責任を負えないことで差別することが差別であり、「努力しない者」が「懸命に努力している者」と同じ処遇や特別の処遇を受けることは逆の差別です。
 個性の尊重を一方で謳い、他方で教育結果の平等を求めるのは矛盾です。努力も、資質も違うのに、教育結果は同じであるべきだと主張し、結果の違いを隠そうとするのは偽善です。
 人間の前頭葉連合野に存在する闘争本能を前提とすれば、競争こそが子どもを一気に進化させるエネルギ-発電装置です。スポーツでも芸術でも学術でも、進化の過程で「フェアプレー」を教えるのが世界の常識です。井関はこれからも成績を張り出します。現在は70点以上の合格点をとった者だけを貼り出していますが、やがて全員を貼り出すすことができるようになることが指導者の夢です。

3 大事なことを教え込むことすら出来ない人々がまだ「つめこみ」を批判するのですか?

 少年期の教育において、意味より記憶を先行させることは本当に無意味でしょうか!?
 幼少年教育のキーワードは「適時性」です。特に、記憶はタイミングが全てと言ってもいいくらいです。だから、井関は意味や論理を教えることより記憶を先行させています。伝統的な「素読」の原理です。上質の日本語をすり込むように練習を繰り返しています。カルタ遊びはその舞台装置です。「漢字チャンピョンシップ」のゲームも同じです。一度覚えてしまえば、後々覚えている言葉の意味を教えることははるかに容易になります。それが素読の原理です。戦後教育は、暗誦や素読の素晴らしさを「詰め込み」と言って否定して来ました。誠に愚かなことと言わなければなりません。現代人の語彙の乏しさ、コミュニケーション能力の低さをみれば失った言語能力の大きさが分かります。「適時性」の重要性を忘れ、社会生活の基本すら教えていない人々がまだ「つめこみ」を批判するのですか?大事な時に大事なことを教えていないことの責任は誰が取るのでしょうか?
 世界の天才が生んだ詩歌や叙述を子どもに分からせてから教えるなどということは、教師もその子も天才でない限り、できることではありません。分からないままに教え、分からないままでも覚えてさえいれば、いつかその意味を分かる時がきます。
『まんじゅしゃげ 抱くほど取れど 母恋し』(中村汀女)の情感は子ども自身が親になった時に初めて分かることでしょう。それが「教育的時差」です。

4 不自由と不便が協力と助け合いを生み、放任された自由は自己都合優先と堕落を生む

 のびのび保育の信仰者が管理する子ども集団に行くと疲れがどっと出ます。それは「霊長類ヒト科の動物」の「放牧場」の趣を呈しているからです。喧嘩、騒音、無秩序、非礼の展示場でもあります。放任された自由の必然的結果です。
 どこの国でも、文化でも、自由を優先させることは「自己都合」を優先させることと同じです。「自己都合」を優先させれば、当然、自分が先で、相手は後になります。協力も助け合いも優先順位が落ちます。それゆえ、井関は協力と助け合いを優先させています。好き放題に育って来た子どもには、井関の他律が「不自由」に感じる場面も多いことだと思います。しかし、協力と助け合いを優先し、それが習慣になれば子ども達の共同生活が成り立ち、喧嘩や諍いが激減して行きます。集団の力が伸び、その中で個人の力も伸びて行きます。社会とは元々そうした展望の基に創られた人間組織の筈です。井関は霊長類ヒト科の群れを教育によって子どもの共同生活集団に変えようとしているのです。しょうがいのある子どもに寄り添い、陰に日向に世話を始めた子どもたちがいます。その子どもたちにはいつか教育の金メダルを下げてやりたいと思っています。

5 個別能力優先主義の落し穴
 
 学期中の放課後の子どもには、サッカーをやっている子も、金管のクラブに参加している子もいます。塾やその他の習い事も盛んです。もちろん、午前中は学校です。
 今回、井関の学童では、厳しい集団トレーニングを課したので、理由を構えてその厳しさから逃げる子もいます。親子が「負荷」の小さい「楽な方」を選択するからです。これらの子どもは毎日の「学童」にはやってきません。学校が休みになって午前中が空くとこうした子どもたちは行くところがなく仕方なく「学童」に戻って来ます。夏休みに入って、毎日来ていた子どもと、来ていなかった子どもの「落差」がはっきりして来ました。落差はまず参加意欲に現れ、次に共同生活能力に現れます。
 スポーツや塾で個別能力を育てても、共同生活能力には繋がらないのです。しかし、保護者の中にはあくまでも子どもの「いい分」と「欲求」にこだわり、個別能力を伸ばすことを優先させる方々がおられます。社会規範の習得や共同のトレーニングよりも、宿題やドリルにこだわります。
 秋になったら直ぐ分かることですが、集団生活のルールや共同生活の規範を身に付けた子ども達が学力でも身体能力でも個別能力優先主義の子ども達を簡単に抜きさって行く筈です。
 集団の規範と共同生活の能力を身に付けていない子どもは、何より、他の子ども達と折り合いをつけて仲好く遊ぶことができません。共同生活を学んだ子どもは、仲間や友だちと助け合って、集団の中で幸せになって行きます。弁当の時間も、遊びの時間も、厳しい訓練の時間ですらも楽しくなって行きます。
 このことを現代の保護者にどうお分かり頂くかまだ分かりませんが、結果で証明するしかありません。
 子どもは社会的存在です。社会から切り離して個別の能力を育てても、社会性がなければ、仲間から慕われません。友だちも出来ません。世間に出て孤立し、あっけなく折れます。夏休みに入って、集団のトレーニングに適応できない個別能力優先主義の子ども達の脱落が始まりました。指導員にはさぞ哀しい光景でしょうが、「やる気があろうとなかろうと有無を言わせずさせる」のが「鬼の務め」です。

解説-「生涯現役・介護予防カルタ」

 下関のリハビリサポートグループ「再起会」(永井丹穂子代表)の企画による「生涯現役・介護予防カルタ」の解説書が完成しました。絵の方も8月一杯には完成し、いよいよ印刷に掛かります。また、お披露目を兼ねて来年の1月26日には下関でカルタ大会と講演会も企画されました。併せて、印刷注文の部数を決定するため、カルタの事前注文も受付を開始いたします。メール又ははがきで「風の便り」編集事務局までお申し付け下さい。定価、送料等詳しい情報はカルタの完成を待って再度お知らせいたします。

1 カルタは遊びと教訓の組み合せです
 
 カルタ文化の伝統と文化を支えて来たのは百人一首です。それゆえ、5-7-5-7-7の短歌のリズムは多くの人々に身近に感じてもらえると想定しました。しかも、短歌調は「犬棒カルタ」調のいろはカルタの倍の情報を盛り込むことができます。 
 全国の大部分の新作カルタが「いろはカルタ」調の簡単な短文でできているのに対し、「生涯現役・介護予防カルタ」は百人一首にならった31文字の短歌調を採用しました。最大の理由は生涯現役・介護予防の教材足り得る情報量を確保したいと考えたからです。もちろん、具体的な説明が必要だからと言って、くどくなりすぎれば、誰も遊びには使ってくれません。文言の長短やリズムを調節するさじ加減が難しいところでした。

2 生涯現役・介護予防の基本原理は、「読み、書き、体操、ボランティア」です
 
 体力や健康を失うことは辛いことですが、まだ人生を失ったわけではありません。しかし、頭の働きを失えば、「認識すること」、「考えること」、「判断すること」、「決定すること」などを失います。それは自分を失い、人間の特性を失うことです。自分を失えば、やがて、自身の健康も人生も失います。高齢者が元気に生きるカギは「あたま」にあり、「考え方」にあります。 このカルタが目標とする「生涯現役」の生き方は、「安楽な余生だけを求める生き方」や「何もしようとせず、のんびり暮らしたいという生き方」の対極にあります。
 生涯を現役としていきいきと生きよと命じるのも「あたま」であり、「介護の世話にならずに済むよう、がんばって精進せよ」と命じるのも「あたま」です。
 生涯現役は、社会に参画して文字通り「現に」、「人々の役に立つ」生き方を目指しています。そのためにも、カルタの監修では、生涯の健康を維持し、介護の必要に至らぬよう「頭」を働かせ、老後の活力を維持することに最も重点を置きました。カギになるのは「感謝の思い」、「過去に囚われない前向きの姿勢」、「興味と好奇心と学ぶ姿勢」、「人を喜ばせる行為」、「健康志向」の5つです。
 具体的に為すべきことはたった4つです。「読み、書き、体操、ボランティア」です。たった4つでいいのかとお思いになるかも知れませんが、この4つをあなたの日常に習慣化して行くことは決して簡単ではありません。子どもに「がんばれ」というように、われわれ自身にも日々「がんばろう」と言わなければならないのです。


急がない 一度止まって 気を張って深呼吸して 手すりを持って

(深呼吸が良いのは、階段の昇り降りに限ったことではありません。何か事を始める時には、一度大きく息を吸って、次にお腹から息を吐いて、心身をリラックスして取りかかるのがいいと脳生理学が証明しています。
 階段の昇り降りで,転んだり怪我をしたりすることが多発しています。「階段・段差に気をつけよう」というだけでは、具体的な心構えや動作が分かりません。注意事項は出来るだけ事故の理由を知り、意味を知ることが大切です。階段ですよ,と一度注意を喚起して、深呼吸で気分を和らげ、再び気合いを入れ直して、これまでの自分を過信しないで、かならず手すりを持つようにしてください。思わぬところに事故は隠れている、と皆さんが言っています。)


老年の整理整頓・遺書・遺産、旅立つ前に 謝辞整える

(これは「シンプルライフの勧め」です。辛いことですが高齢期の最後は自分の人生の整理をしなければなりません。遺書や遺産のことはもとより、時には死期を意識した終末医療の際の「尊厳死」宣言を書いておきたいという方もいらっしゃると思います。多くの高齢者はまだ「リビング・ウイル」という表現を知らないかも知れませんが、いわゆる「植物人間」になっても生き続けるか否かはどこかで本人が決めて置かなければならない現代の問題だと思います。)


花を愛で 風に歌って 木を撫でて 一期一会の 縁を忘れず
 
(花鳥風月を愛でるのは日本文化の伝統です。大部分の社会的義務から解放された高齢期は自然を見る目にも余裕ができ、格別な味わいがあります。古人は、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」、と歌っています。「末期の目」でみる自然の美しさを書き残した人もいます。この世に生を受けたことを感謝し、自分の一生を支えて下さった人々の恩を思いながら人生を終わりたいものです。)


にこやかに 人と交わる 心がけ 明るく元気 いやごと言わず

(「いやごと」というのは不平や文句を意味する長州の方言です。人間関係は相互作用です。笑顔には笑顔が、あいさつにはあいさつが返って来ます。気の持ち方でストレスも退散します。前向きに生きれば自分が元気になり、明るく生きれば人を元気にし、人を喜ばせれば,喜びは自分に返って来ます。)


褒められて 必要とされ 喜ばれ 元気をもらう 人の世話

(定年後や子育てを終わった後は基本的に社会の役割や責任から離れます。しかし、何一つ他者や社会に対して役割も持たず、責任も果たしていないということは「必要とされていない」ことに通じます。ボランティアは他者の役に立つことですから、職業以外で唯一人々の感謝や拍手をいただくことのできる活動です。「必要とされること」は「世の無用人」(藤沢周平)の心の救いになるのです。)


塀越しに お隣様に ご挨拶 木にも花にも こんにちは

(自由社会の裏側は「無縁社会」です。人々は自分の関心事に集中し、自己都合を優先します。こちらからご挨拶をしない限り、相手のご返事は返って来ないでしょう。無縁社会の近所付き合いは難しいことですが、とにかくごあいさつから始めるしか方法はありません。
お出かけの時も意識的にごあいさつや簡単な頼み事をすることがご近所コミュニケーションの第1歩です。)


友だちと 週に一度は よく食べて たくさん話し たくさん笑う

(社会的な活動は社交を生み出します。仲のいい友人たちと過ごすひとときは高齢期の至福の時間です。健康にいいことはもちろんです。認知症の予防にも絶好です。茶飲み友達は生活のオアシスです。茶話会や食事会を工夫して見て下さい。)


誓います 日々の挑戦 終わりまで 我が晩年を ご照覧

(美しい晩年を全うしたいと願うことは衰弱と死に向かって降下する自分自身との戦いです。如何に戦うかで個人の矜持や自尊や人生の美学が問われることになります。子どもに「がんばれ」というようにわれわれ自身も活力を維持するため日々の健康実践をがんばらなければならないのです。)


凛として 逝かむとすれば 凛として 生きる準備を怠らぬこと

(「凛として」生きるという中身は人様々です。31文字の表現限界です。具体的な中身を説明することはできません。しかし、多くの方々が,準備怠りなく、最後まで取り乱すことなく,残る人々に迷惑を及ぼさぬように心がけ、感謝の言葉をもって逝きたいとおっしゃいます。その心がけを抽象的に表現すれば「凛として」ということになるのではないでしょうか。「凛として生きる方法」があるわけではありません。最後まで「がんばって生き抜こうとする気持ち」が凛として生きることにつながるのです。)


ぬかるみも 時雨れるときも 風の日も 乗り越えられた 感謝忘れず

(高齢者はみんな今日までがんばって生き抜いて来たことはまぎれもない事実です。しかし、もちろん、誰一人、一人で生きられた筈はありません。気持ちの安定を保つためには、世の中と繋がり、他者への感謝や思いやりの気持ちをもつことが極めて重要な働きをします。人間の脳は不思議な働きをします。普通、幸せだから感謝するとお考えかも知れません。逆です。感謝するから幸せになるのです。「感謝」は人生を変えるのです。)


留守の日は 戸締まり 火の元 ご近所に 出かけますので お願いします

(お出掛けの時は自戒を込めて留守の安全を確認します。「無縁社会」の近所付き合いは難しいことですが、ご挨拶や防犯のお願い事など意識的にご近所とのコミュニケーションを図ろうと提案しています。まずは、自分の働きかけが相手を動かし、人間関係を創って行きます。)


おかげさま おたがい様です 人の世は
情けは人のためならず 自分のためのボランティア

(ボランティア論は日本の言-「情けは人の為ならず」と同じです。いささか字余りになりましたが、他者に寄せる親切な思いは回り回って「自分」に返ってくるものだという意味を込めました。「あなたにお会いできて良かった」、と言ってもらうことが「居甲斐」を支えてくれます。「私のやったことであなたが喜んでくだされば,それが私の喜びになる」というのも脳生理学の証明するところです。)


忘れよう 過ぎた昔は 戻せないあなたがあなたの明日を創る

(心身の健康を保つためには、過去に囚われず、前を向いて生きることが大切です。ある意味では楽天的に、また別の意味では積極的に未来に向かって自助努力を積み重ねることが不可欠になります。小さくても新しい目標を決めれば,必ず「新しい明日」が来ます。「新しい明日」はあなた次第で創れるのです。)


がんばろう 誰かが見てる がんばれば最後はあなたがあなたを見てる

(動かないから動くことが億劫になり、動くことを止めるから最後は全く動けなくなり、寝たきりになるのです。根本の原因は考え方であり暮らし方です。高齢者の健康寿命は、意識して、がんばって、自身に「負荷」をかけ、あなたの目標に向って、毎日適度の活動を続けることが不可欠です。月に一度や2度の転倒予防教室や介護予防教室で防げる問題ではないのです。高齢者の最後の生き方を決めるのは、「自分のがんばり」や「自身の生きる美学」なのです。)


読めない 書けない 話せない 歩かなければ歩けない 使わなければ 使えない

(医学の言う「廃用症候群」とは「使わなければ使えなくなる」、という意味です。英語では、文字通り、Disuse Syndromeと言います。人間の心身の機能は誠に不思議な性質を持っています。使い過ぎると壊れますが、使わないと身体が不要だと判断して、機能が衰退してしまうのです。ほどほどの「負荷」をかけて使い続けることが重要になります。スポーツ生理学では、「オーバーローディング法」と呼んでいます。「現在、自分ができる程度よりちょっとがんばってみる」という意味です。「適切な負荷」の効用については、若者も、高齢者も同じです。)


発つ鳥の跡を濁さず われもまた捨つべきを捨て 断つべきを断つ

(介護予防や生涯現役を志して生きようとも、いずれ加齢とともに老衰は進みます。生老病死は人間の必然です。しかも、生きとし生けるものの中で、人間だけが「死の必然性」を自覚しています。それゆえ、美しい晩年を全うしたいと願うことは衰弱と死に向かって降下する自分自身との戦いです。如何に戦うかで個人の矜持や自尊や人生の美学が問われることになります。「跡を濁さず」とは「シンプルに」、なるべく「迷惑をかけぬよう」という意味です。)


連絡は メモして メモ見て 念のため も一度復唱 再確認

(社会に参画して生きるためには、社会人に要求される正確さや確実さが大事です。メモを工夫することは読み書きを工夫することに通じています。高齢期はあらゆる面で意識的な慎重さと用心深さが身を守ります。)


それくらい自分でしよう がんばって 時には人の お役に立とう

(世間では生き生きと老後の活動をなさっている方を「お元気だからいろいろ活動なさっている」と言います。しかし、実際は逆です。「いろいろ活動なさっているから、お元気を保っていられるのです」。活動は、頭を使い、身体を使い、気を使います。「廃用症候群」の概念が指摘している通り、人間の機能は使わないと衰えます。適切に使い続けていると衰えにくいのです。高齢者のスタミナ維持には、毎日、ほんの少し「負荷」を掛け続けることが秘訣です。)


使い過ぎれば壊れるけれど 使わなければ衰える 
日々さじ加減 老いのコツ

(「ロコトレ」とは、ストレッチやバランス体操のことです。高齢者の運動器の機能の衰えを防止する健康法の総称です。「曲げて」、「伸ばして」、「縮んで」、「跳んで」、とにかく「動かすために」、「動くこと」が大切です。毎日の運動はもちろん、日々の暮らし方を工夫して日常生活の自立度を低下させないことが目的です。ロコトレは一番具体的で、一番簡単です。ロコトレを日常化し、習慣化することが、高齢者の老衰防止策を実行する最初の一歩になります。ロコトレに限らず、老化の防止策は毎日実行する姿勢が基本です。)


寝たきりは 動かない故 ご用心、ねん挫 骨折 転倒予防

(高齢期では、自分で動くことができなくなることが一番危険です。それゆえ、「転ぶこと」が一番危険です。高齢者が骨折などで寝たきりになるとたちまち使わない筋肉は落ち、関節は固まってしまいます。動かなければ、活動が頓挫し、あらゆる機能が低下します。
 動かなければ、動けなくなります。暮らしの中の自損事故にはくれぐれも注意しましょう。)


なにごとも 習わにゃできない 日々精進練習せねば 上手にならぬ

 (教育の原則は「やったことのないことはできない」、「教わったことのないことは分からない」、「練習しなければ上手にならない」の3つです。
 子どもも高齢者も同じです。新型携帯からコンピュータ-まで、新しい時代の新しい課題にいろいろ挑戦してみましょう。
これまでの人生でいろいろなことに興味や好奇心を持っていらっしゃることが、もちろん、一番望ましいのですが、何か始めて見ると興味や好奇心が湧いて来るというのが人間の脳の働きです。どうぞお試し下さい。)


楽すりゃ 自身の身が錆びるがんばらなけりゃ 心も錆びる

 (生理学者ルーは、「ルーの3原則」と通称される重要な指摘をしています。すなわち、「人間の持つ機能は①使わないと衰え、②使い過ぎると破壊されるが、③ほどほどの負荷をかけて使えば発達を促し、維持することができる」というものです。ちなみに、「休めば錆びる」とは発明王エディソンの名言「Resting is Rusting」です。)

胸を張り 背筋を伸ばし 大股に
足は第2の心臓だから

 (健康カルタはたくさん作られていますが、文言が短いため、「なぜ」とか「どのように」の具体的な説明が不足しています。「父さん体操、1、2、3」だけでは、なぜ運動が大事なのか、どんな運動をするのかは分かりません。毎日の散歩のコツが分かり、「歩くこと」の重要性の意味が分かるように表現してみました。自然に触れ、天地の霊気を受けると人間は快感ホルモンの分泌が活発化して幸せになるそうです。だんだん、脳の仕組みが分かって来ているのです。)


動かにゃすべて衰える 生涯学習人生分ける
頭は老後の司令塔

(高齢者は頭の働きを維持することが最重要課題です。頭が衰えれば、健康を守ることも、自己の鍛錬を命じることもできなくなります。「荘にして学べば、老いて衰えず、老いて学べば、死して朽ちず」(佐藤一斎)です。読み、書き、学習を怠らず、頭の働きを守りましょう。)


脳トレは 友とおしゃべり 食事会、朗唱 カラオケ 「現役カルタ」

(老後の生涯学習は高齢者の「脳トレ」に最適です。「脳トレ」という生涯学習をするのではなく、生涯学習こそ最高の「脳トレ」なのです。また、生涯スポーツは最善の「ロコトレ」なのです。例えれば、「脳トレ」や「ロコトレ」は、1本の「木」に過ぎませんが、生涯学習や生涯スポーツは「森」なのです。生涯学習を促す生涯教育は生涯活力の元だとお考えください。公民館やカルチャーセンターを探検し、自分のお気に入りの活動を始めて下さい。それこそが健康活動の第1歩です。)


老いの日の 友は得難き 宝なり、
互いに支え 互いに尽くす

 (新しい出会いは「活動の縁」です。楽しみ事の「同好の縁」、学びの机を並べる「学習の縁」、ボランティアのように人生の指針を共有する「志の縁」などです。老後の仲間は決定的に大事です。仲間こそが老いの日の社交や社会参加や社会貢献を支え、人生を共にしてくれる戦友です。)


愚痴らない くよくよしない ひがまない
人の振り見て わが振り直す

(老後はあらゆる面で個人差が大きくなり、「満足-不満足」の思いも、「幸-不幸」の感覚の落差も大きくなります。現状に囚われれば、愚痴の一つも出るでしょうが、どうがんばってももはや過去を変えることはできません。愚痴や不満は伝染します。
 前向きに、積極的に、愚痴多き人を寄せ付けず、「反面教師」・「他山の石」として暮らしましょう。)


やる気ない 食べたくもない 出たくない
そんな日もある 土いじり

(そんな日もありますね。人間も自然の一部です。土や山川草木に癒されるのは人間の中の自然性が花鳥風月に反応するからなのでしょう。しばらく花鳥風月に親しみ、自然に接していると天地の霊気を感得して、必ずお元気になりますよ。お日様と散歩がストレス解消の妙薬だそうです。)


待ち合わせ 急がず 慌てず 駆け出さず、
バスも電車も10分前 
(運動器傷害(ロコモーション・シンドローム)が起って来ると「急ぐ」こと、「慌てること」が事故の最大原因になります。高齢者は上げたつもりの足が上がらないから躓くのです。骨折したら高齢者の治療は時間がかかり、動けない日々が続きます。動かなければ,心身の各所に「動かないこと」が原因の「廃用症候群」が起きます。とにかく、高齢者はゆとりを持って「時間前行動」が原則です。「急いだり」,「慌てたり」することが怪我のもとです。)


健康は 自分で作る 生き甲斐は自分が探す
生涯現役 心意気

(生涯学習を「選んだ人」と「選ばなかった人」の間の「生涯学習格差」が拡大しています。「格差」は、頭に出て、身体に出て、気に出ます。それらが「知識格差」、「情報格差」、「健康格差」、「交流格差」、「生きがい格差」、「自尊感情の格差」などです。高齢期に入って、活動しなければ、あらゆる心身の機能が衰えるのは当然の結果なのです。健康は自分で守り、生き甲斐は自分で探すしか方法がないのです。)


振り返る 昔を今に 戻せない
始める事にしめきりはない

(高齢者の血縁、地縁、職場の縁は加齢とともに先細りします。楽しい社交が減って来るのは黄色信号です。人との交流が減って来たなと自覚したら、新しい縁を探しましょう。新しい縁は「活動から生まれる縁」です。「同好の縁」、「学縁」、「志の縁」と書いた通りです。「犬も歩けば棒に当たる」ように、「人が動けば『縁』に出会う」のです。)


好奇心 居甲斐 やり甲斐 生きる甲斐
老いてもやる気 冒険心

(体力や健康を失うことは辛いことですが、まだ人生を失ったわけではありません。しかし、頭の働きを失えば、「認識すること」、「考えること」、「判断すること」、「決定すること」など、自分を失い、人間の特性を失い、やがて、自身の健康も人生も失います。人生への関心や興味や冒険心が高齢者の頭の働きを維持し、活力を支えます。)


笑顔10点 感謝が20 我慢30 元気で90 
人に尽くして満点です 

(生涯現役者の心意気をカルタにするとこんな風になるのかな、と思いました。いかがでしょうか?)


手を打って 腕を回して 足腰伸ばし 
声張り上げて思い出の歌

 (ラジオ体操なども大いに効果はあると思いますが,退屈なのが玉に瑕です。そこで例えば、毎日好きな音楽に合わせて自己流のエアロビを工夫して身体を動かしてみてはいかがでしょうか。舞踊をなさる方々がいつまでも若々しいように、毎日の軽運動の効果は抜群です。体操が主食なら音楽はおかずのようなものです。好きな歌や曲ですから身体が自然に動きます。時には声はり上げて歌に合わせてカラオケのように歌うのもいいでしょう。)


ありがとう 笑顔忘れず 失礼します
また会う日まで お元気で

(高齢期は時間も、健康も制約の多い季節です。多くのことは望めず、先のことは分かりません。それゆえ、一期一会が身に滲みます。出会いはありがたく、交わりは淡くなります。せめて明るく再会を約して前向きに行きましょう。)


さびしさに あなたを待ってる 人がいる あなたに会えてよかった と言ってもらえる身の果報

(「お裾分け」は日本の伝統です。自分が元気になったら、その元気を少しだけ他の人々にも分けましょう。気使いは、やさしさのお裾分け、こころ配りのボランティアです。「あなたに逢えてよかった」と言ってくれる人は何人いるでしょうか?あなたが喜べば、私が幸せになるのです。)


筋肉 関節 心肺機能 気力 活力 希望と意欲 
すべて訓練次第です

(歩かない人は歩けなくなり、読まない人は読めなくなり、話さない人は話せなくなります。おむつを当てれば、段々自分で用がたせなくなることも分かって来ました。中でも、筋肉と心肺機能は一番正直です。 筋肉は鍛えれば強くなり、怠ければ消えてなくなってしまいます。筋トレをやめると、筋肉は萎み、肺活量は低下します。筋肉が衰えると、代謝のペースも下がると言います。同じ食事をしても太るのはそのためだと言われます。
 高齢者に一番危険なのは足腰の筋肉が衰えることです。当然、足腰が弱るとほとんどの活動ができなくなります。活動は、頭も、身体も、気も使いますから、活動ができないということは、全分野にわたって心身の機能が衰えるということです。)


行く道は 神も仏も代われない
誰も代わりに生きられない 

(最後に人生の答を出すのは自分です。自分自身で日々の暮しの心構えや戦略が立てられなければ、老後は加齢とともに急速に衰えるのです。このカルタは,高齢者の日常の活力維持の具体的な方法を提示していますが、精神のあり方に付いては、自分で探し、自分で決めなければなりません。人生の最後をどう生きて、どう死ぬかについて既成の答があるはずはないからです。)


目配りし 好き嫌いなく よく噛んで 
味は薄味食養生

(食育は養生の基本です。医食同源とも言われ、健康の元です。その点和食はすべてにバランスがよく、理想的な食事だそうです。塩分を控えめにして、よく噛んで、楽しく食べましょう。)


身だしなみ 戸締まり 火の元 コンセント 財布 携帯 再確認

(出かけるときの自己確認事項です。一人暮しの方々がみんなそうだ、そうだと言っています。部屋の中に張り出し、駅長さんのように「指さし呼称」をして忘れないように注意しましょう。)


趣味・娯楽 孫の手本にボランティア 
週に一度は人のため

(高齢者の活動を支えるのは「仲間」の存在や日常の社交です。仲間がいて、社会とつながっていれば、活動はどんなことでもいいのです。本人の自覚と姿勢が伴わない限り、体操でも、脳トレでも、部分的に何をやってもだめなのです。高齢者の健康寿命を決めるのは最終的に「暮らしの姿勢」であり、頭なのです。)


日々励む 清潔 簡素 身だしなみ
老いも挑戦 我が心映え

(シンプルライフは老いの必須事項です。一人暮しには特効薬です。身の回りの物から人間関係まで、思いきった「断捨離」をして身軽になりましょう。心に決めて思いきって実践することが大切です。)


目的があなたを磨く 目標があなたを引っぱる 
希望も見える

(高齢者が自分自身の健康・活力を維持するにあたって一番大事なのは老後の「考え方」と「暮らしの姿勢」です。高齢者の日々の暮らしに明確な「目的」と「目標」があれば、「暮らし方」が決まります。近い目標を積上げて、遠い目標に至るという原理は昔から変わりません。今日の目標→今週の目標→今月の目標→今年の目標という具合です。)


背を伸ばし 膝の屈伸 ストレッチ 
元気は日々の手入れから

(身体の手入れは、筋、関節、筋肉から始めます。部分的に強くすることより柔軟性を保つことが大事です。バランスを取ることを心がけ、身体の各部分を軽く揺すって力を抜くことも大事です。
 身体が柔らかくなると、転ばなくなり、転んでも大きな怪我をしなくなります。高齢者の手入れは頻度が大切で、毎日することが肝心です。好きな音楽でも聞きながら楽しくやりましょう。)


過ぎたこと 恨めば怒り 忘れれば 
未来と希望 見えて来る

(長い人生ですから、いろいろ思うようにならぬこともありました。しかし、昔の悔いや怒りを忘れないと前へ進むことができません。忘れることは人間に与えられた贈り物です。過ぎたことは過ぎたこと、今を生き、明日のためにがんばりましょう。今週の目標、今月の目標、目標を立てれば「明日」が見えて来ます。)

森 進一の教訓

1 「喉を聞かせる歌」と「訴える歌」

 天気予報を探してチャンネルを廻していたら、古い「日本の歌」の再放送番組に当たりました。森進一が歌っていましたが声がかすれて歌詞が聞こえませんでした。よくよく聞き耳を立ててみると「女が花で、男が蝶よ」と歌い、「花が散るとき、蝶も死ぬ」、「そんな恋です、二人の恋は」というような文句でした。声はかすれ、発音は曖昧でろくに歌詞が聞こえないところも多いのに、やけに説得力があり、天気予報を探すのを中止して、聞き惚れました。満員の会場も森閑としていました。彼は歌っているのではなくて、訴えているのだと感じました。他の歌手のように「声」や「のど」を聞かせているのではなく、聴衆を説得しようとしているのだと感じました。音楽の授業では落第ではなかろうかと思うような語尾のはっきりしないかすれた歌い方ですが、歌詞が心にしみるのは、彼が伝えたいメッセージだけを取り出して強調し、私たちを説得しているからなのでしょう。彼の歌では「歌詞」が大事で、「歌詞」の中の「ある文言」が大事なのだと感じました。その文言の「訴え方」が、彼の歌い方を際立たせているような気がしました。その日、最後に歌った「襟裳岬」も同じでした。「遠慮はいらないから、暖まって行きなよ」と北国の人に言われた気分でした。
 次の、講演は森 進一のようにやって見たいと思いました。理解してもらうことは二の次にして、伝えるべきメッセージを心情的に訴える工夫をすることが大事だと思いました。
 高齢者問題は社会学的に、心理学的に、経済学的に様々な背景があります。これまで研究したのだから多くの事実を分かってもらいたいことは山々です。しかし、分かってもらったところで、会場を出た途端に忘れてしまうのでは、小生の講演は失敗だということでしょう。研究成果や事実の詳細は声がかすれて聞こえなくてもいいのです。多少、論理的説明を切り捨てて、他の専門家に任せてもいいのです。訴えるべき事は、簡単で、明瞭です。
 高齢社会の問題は、単に「老人が増加することではなく」、「何もしない老人が増加」し、「安楽だけを求める老人」が増加することです。そうした老人が増加すれば、医療と介護で現状の福祉財政は確実に破綻します。それゆえ、「何もしない老人になるな」、「安楽だけを求める気楽な退職人生を送るな」と訴えてみます。

 「生きる力」に老若のちがいはありません」。「子どもに頑張れと言うように、高齢者も「頑張ろう」と言わなければなりません」。「成長に精進が要るように、衰弱の防止にも精進が要るのです」。高齢者もがんばれ、高齢者にも精進が不可欠なのだと叫んでみます。
 学問は客観的に追求しなければならないと思いますが、講演は「何を訴え、どう説得するか」が勝負です。多くの歌手が声を聞かせているのに対し、森 進一は歌の文言を聴かせ、歌に託された人生を聞かせていると思いました。私も学問の成果を伝えるのではなく、そこから導き出される生き方を訴えねばならない、と思いました。

2 訴える講演(後日談)

 比較的大きな講演会に呼んでいただきました。研究成果の事実もこれまで通り申し上げましたが、詳細や論理性は可能な限り省いて、エネルギーと時間の多くを訴えに費やしました。森 進一のようにところどころはかすれ声で、ところどころは証明を省いて、訴え、激励し、応援に徹し、乞い願うように話しました。
 「女が花で、男が蝶よ」と歌う代わりに「若者は切磋し、高齢者は琢磨する」と繰り返しました。「花が散るとき、蝶も死ぬ」と囁く代わりに、「がんばらなければ力つき、努力しなけりゃ老いぼれる」と叫びました。
 よかったのではないでしょうか!「風の便り」にたくさんの申込みがあり、小生の書籍も売り切れました。2回目の実験も同じ結果でした。

§MESSAGE TO AND FROM§

福岡県八女市 横溝彌太郎 さま

 八女文化連盟の講演会で、はからずも奥様にお目にかかることができ、おみやげを頂戴いたしました。御礼申し上げます。野球をなさっておられるとかお元気なご様子が彷彿といたしました。この度の水害黒木はまさに大変だったとの状況を関係者からお聞きしました。お見舞い申し上げます。

長崎県平戸市 川辺淑美 様

 「夏の匂い」受け取りました。あなたもお元気そうで何よりです。かぎりなく美しく、泣きたいほどに懐かしい詩です。私も一度はあの「海峡を見おろす丘」に立ったことがあります。「風の通う道」の「草むらに座した」あなたを思い描いて
います。歳月が流れました。「舞い立つ 浅き夏の匂い」がここまで届きました。いつかお供をして「忘れられし近道」を辿ってみたいと思ったことでした。

北九州市 植田武志 様

 夏のお心遣い有り難うございました。先日、「読書会」のOB、OGが集まってくれました。解散以来すでに20年の歳月が流れました。みんな50に近く人生を振り返る季節に入ったということか、と感じました。来年の8/3に大々的な集まりをするそうです。「子どもや孫を語る会には出たくない」、「昔を懐かしむ会にも出たくない」。「未来を語るというのなら出よう」と幹事役の岡村君に言いました。

152号お知らせ

当面3月までの日程だけお知らせ申し上げます。
  
9月15日(土) 第123回 生涯教育・まちづくりフォーラム 福岡県立社会教育総合センター

10月13日(土) 第124回 移動フォーラムin飯塚:「サンビレッジ茜」

11月17日(土)  第125回 移動フォーラムin長崎・平戸

1月12日(土)~13日  第127回 移動フォーラムin益田/島根

2月16日(土)~17日(日) 第8回 人づくり・地域づくりフォーラムin山口

2月23日(土)~24日(日) 第128回 移動フォーラムin大分

3月16日(土)  第129回 フォーラム  福岡県立社会教育総合センター

編集後記
脳生理学が教える人生の逆転

 いよいよ生涯現役論の最終段階にさしかかり、健康寿命の「暮らし方」は前向きの「考え方」で決まるという結論に辿り着き、最終推敲の参考に脳生理学の解説書を何冊か読みました。当然、「脳」と「身体」は繋がっているという事実が重視され、連結の環は「ホルモン」にあることは知っていました。
 人生は気持ちのあり方が健康を左右するとどの本にも書いてありました。読んでいるうちに、最後は、健康が実現し、活動が実現したとして、その結果「幸せ」になるにはどうすればいいのかという疑問に行き着きます。幸せと健康は別のものであり、成功と幸せも別のものです。健康でなおかつ不幸な人はたくさん居り、成功者の中にも不幸な人が沢山いることはわれわれの知るところです。
 反対に、多少の故障はあっても明るく、幸せに暮らしている方がいらっしゃることも知っています。
 幸・不幸の問題は、健康はもちろん、子どもの成長やお金や出世や活動の成功・失敗にも関係します。全部成功したところで不幸だったらどうしようもないではないですか!多くの人生哲学は自分の健康や家族の無事に感謝して生きなさいというのですが、脳生理学が教える人体の不思議を読んでいるうちに「幸せ」と「感謝」の関係は通常私たちが考えて来たことと逆ではないかと思うようになりました。私は、老年学を勉強する中で、世間の言い方を逆転させて「お元気だから活動するのではありません。活動するからお元気なのです」という結論に辿り着きました。活動が心身の機能を活性化することが分かっているからです。
 今回は脳生理学に学んで人生哲学を逆転するべきだと考えました。感謝が先で健康は後、感謝が先で事の成否は後、ではないかと思うようになりました。したがって、「感謝」が先で「幸せ」が後です。平常から感謝を忘れず、人生をありがたいと思う姿勢が習慣化していると、本人を謙虚にし、他者を先にし、困難に学び、みんなと協力するようになります。そうなれば日常生活の問題は深刻化せず、ストレスも最少限で済み、身体にも良く、気持ちにもいいということです。快感ホルモンの分泌もよくなります。脳生理学はそう言っているのです。
 もちろん、今まで通り、健康や幸せはありがたいことですから、人生の恵みを感謝することの大切さは言うまでもありません。しかし、同時に、日々感謝する気持ちを忘れないことが健康や幸せを呼ぶという脳生理学の指摘により一層注目する必要があると思います。老年学の最終章を飾るのはこの原理です。「人生の根本は、幸せや健康だから感謝するに留まりません。感謝の気持ちで暮らしているから幸せや健康になれるのです」。