発行日:平成24年7月
発行者 三浦清一郎
生涯現役・介護予防の老年学
-子どもに「がんばれ」と言うように高齢者にも「がんばれ」と言わねばなりませんー
人生は「連続」しています。「生きる力」に子どもと高齢者の違いはありません。子どもに「がんばれ」といって、年をとったら「がんばらなくていい」ということにはならないのです。少年の場合も高齢者の場合も、「体力」、「耐性」、「学力」、「社会性」、「感受性」など「生きる力」の中身は同じなのに、社会にも高齢者本人にも、基本的な錯角があります。錯覚は「生きる力」に対する「努力の必要性」についての認識のちがいから来ています。
子どもは成長発達の過程にあるので、「がんばれ」も「勉強しなさい」も自然に聞こえることでしょう。しかし、高齢者は、一応、完成した人間です。また、高齢者は子どもと違って、退化・老衰の過程にあります。老いは「衰え」とほぼ同義ですから多くの助言者が「衰え」だけに目を奪われて、「むりするな」、「がんばらなくていい」などと助言するのです。高齢者に対する多くの助言が、子どもに対する助言と異なるのは、人間の「生きる力」の構造と成り立ちをきちんと理解していないからです。
子どもには「日々研鑽」を勧めながら、高齢者に「のんびりマイ・ペース」を勧めるのは典型的な間違いです。定年後の生き方指南書の多くも、「悠々自適」がいいと言い、「ストレスの少ない楽しい生活」を勧めます。それゆえ、高齢者が何かを始めても、「成果や勝負を追い求めるな」と言っています。これらの助言の多くは間違いであるばかりか、場合によっては、高齢者を貶めるものです。衰え行く高齢者を哀れんで保護の対象としてのみ見る助言は、高齢者の自覚的な努力を封じてしまいます。すでに高齢なのだから「がんばらなくていい」、「成果や勝負に拘らなくていい」と助言することは、彼らの活動意欲にブレーキをかけることです。「もう、年だ」と思いこめば、段々年寄りになり、「がんばらなくていいんだ」と思えば、段々がんばれなくなります。自己暗示は恐ろしいのです。まして、権威ある研究者から「がんばらなくていい」と言われれば、高齢者の活動を封じることになります。活動を封じれば、彼らの活力は一気に衰退します。「がんばらなくていい」という助言は有害極まりないのです。
さらに、高齢者は現役時代にがんばったのだから、引退後は「がんばらなくていい」という助言は高齢者を過去の存在に貶めます。この時から、高齢者は心理的に「世の無用人」(藤沢周平)に転落するのです。
助言者の多くが未だ現役の研究者ですから、助言者自身は壮健で、老い衰えて行く両親などを見て哀れみや不安を感じるということが錯覚の原因だと思います。しかし、高齢者の「生きる力」を研究しようとする者は生涯現役を続けている壮健な高齢者をこそモデルにして発言すべきだと思います。
人生は連続しています。「生きる力」も連続しています。老いの過程は、当然、若い時代の発達の過程と色々な点で連続しています。人間の生きる力の保持・存続の方法において老いも若きも異なるはずはないのです。
少年の場合、現に今、発達途上にあるので、「生きる力」を育むためには、相当の努力と精進がいることは誰も疑いません。これに対して熟年の場合は、すでにこれまで「生きて来た実績」があるためその力を維持することに安易で、楽観的になりがちではないでしょうか?衰えを抑制するために 相当の努力と精進がいることは当然なのです。「青雲の志」に精進がいるように、「生涯現役」にも精進は不可欠なのです。
1 個別でしかも細かい助言が多すぎますー「読み、書き、体操、ボランティア」だけでいいのです
執筆に際して多数の健康増進や病気予防の参考書を読みました。第1の感想はどの本も助言の数が多すぎるということです。しかも、多くの助言は細か過ぎます。
これは育児書などと共通の傾向で読者に迷いと混乱をもたらします。専門家は自分の分野で知り得た知識を最大限世間に伝達したいとお考えなのでしょうが、情報や知識も食い物と同じで多すぎれば消化不良や下痢を起こします。多過ぎて何を選んでいいか分からなくなるのは情報社会の最大の悩みです。何十もの助言を並べられても一般人は何が一番大事なのかは分からず、何から始めるかについても戸惑うばかりです。
中には100の助言を並べた本もありますが、どういうつもりなのでしょうか!私たちは「健康学」を学ぶために生きているのではありません。元気に生きて、それぞれの活動を続けたいと思っているだけです。活動が自己実現に繋がればそれ以上望むことはないのです。
生涯現役・介護予防の原則は「読み、書き、体操、ボランティア」の4つで十分です。4つだけでいいのです。これだけでも実際に日々の暮らしに組み込んで続けて行くのは決して簡単ではありません。継続は力なり、と言いますが、継続には努力が必要で、高齢者のがんばりが不可欠です。「がんばらない健康法」とか「だれでもできる健康法」などという本がありますが、安易にできる健康法などある分けがありません。健康を守るためには子どもに勉強しろというように、高齢者にも勉強して下さいと言わなければならないのです。まして、老後の活力を維持し、健康寿命を保つためには、子どもに自己鍛錬を頑張れと言うように、高齢者にも日々の健康実践をがんばれと言わなければならないのです。高齢者の医療費や介護費が国の財政を食いつぶそうとしている今、熟年期の安楽志向の暮らし方が活力維持の最大の敵なのです。高齢社会の医療費や介護費の高騰は単に「老人の増加」に原因があるのではありません。「何もしない老人」や「安楽だけを追い求める老人」の増加に主たる原因があるのです
2 学ばない人は滅びます
生き物の基本は健康と体力です。熟年期はますますその重要度が増します。しかし、考えて見て下さい。健康を維持し、体力を鍛える判断や方法は頭が決定します。子どもに対しては保護者や教育者が指示・督励しなければなりませんが、高齢者は自分で判断し、自分で決定するのです。
人間行動のあり方を決定するのは頭です。日本人は「心にしみる」、「胸を焦がす」とか感情や思いは胸にあるように表現して来ましたが、「心にしみる」のも「胸を焦がす」のも頭の働きです。
脳生理学や精神医学によれば、精神も心の持ち方も頭の働きだと分っています。人生のすべてを判断するのはあなたの頭です。健康の維持も、活力の向上もあなたの頭があなた自身に養生やトレーニングを指示するのです。指示が間違っていれば、養生やトレーニングに失敗します。それゆえ、学ばない人は自分自身に適切な指示を出すことに失敗しがちです。学ばない人は滅びる、という所以です。
高齢期に不可避的に衰えるのは肉体であって、頭は必ずしも同じようには衰えません。頭を鍛えるには勉強を続けるしかありません。簡単にいえば「読み書き」を続けるということです。あなたは自分の老後をどう生きたいのか、決めるのはあなたの頭です。「学ぶ」とは「何をしたいのか」、「どう生きたいのか」、「どんな風に暮らすのか」を自分で決めることです。あらゆる人生の問題の解決には必ず「学ぶこと」が必要です。「読み、書き」はその基本です。
3 「読み、書き」の意味
第1に、筆者の提案する「読み書き」は頭のトレーニングです。「話す」を付け加えても構いませんが、「読み書き」の方がはるかに高度な能力を要求し、「負荷」が大きいのです。それだけ頭の働きを支えるのです。頭が働かなくなれば、人生の計画は全て頓挫します。
「読む」ことさえ続けていれば、健康に関する情報にも、養生に関する情報にも行きあたることでしょう。詩歌の音読などを混ぜれば、それだけで認知症予防です。また、はがきや手紙や日記など「書く」ことさえ止めなければ、人々との交信は続きます。交信は社交の原点でもあります。日々書いていれば、「自分史」なども可能になるでしょう.毎日何かを書いている人からは認知症も退散するでしょう。「日記」や「自分史」を書いている方が認知症になったなどということは聞いたことがありません。情報化時代ですからインターネットのやり取りなども当然読み書きに含まれます。「読み書き」能力を維持することが情報の収集、知識の探求、社交の基本条件です。「ぼけない」原点でもあります。
4 「体操」の効用-健康と頭の若さの秘訣です
第2の体操は体力・持久力・集中力、食欲、気力、気晴らしの原点です。頭の若さを保つ秘訣でもあります。毎日習慣的に身体を動かすことが大切です。近年のアメリカの研究では「運動」こそが頭を若く保つ方法だと言われています。毎日定期的な運動を欠かさない人の認知症の発生率は運動をしない人の半分だという研究結果も発表されています。やり方は自由です。ただし、頻度は重要です。毎日続けることが大事です。好きなことをするのがポイントです。人間、気に入らないことは長続きしません。
筆者は好きな音楽のリズムに併せて、朝夕、自己流のエアロビックスを踊り、犬たちと一緒に「早歩きの散歩」を欠かさぬように努めています。動けなることは避けたいものです。認知症も何とか避けたいものです。認識能力を失い、判断能力を失い、子どもや孫の顔も分からなくなるのは、人生の最大の不幸です。
5 「ボランティア」の効用-人と繋がり、生き甲斐に繋がります
第3に、ボランティアは高齢者の活力と志を社会的に表現できる舞台です。ボランティアの本旨は他者支援、社会貢献の活動ですが、結果は自分に返って来ます。高齢期を充実させる恐らく唯一の生き甲斐や健康の方法でもあります。それゆえ、「自分のためのボランティア」(*)なのです。読み・書き・体操を通して維持している活力を発揮する舞台がボランティアです。もちろん。自営業のように年齢に関わりなく職業に従事できる人は年をとっても是非続けるべきです。職業こそが社会があなたを必要とし、あなたが社会に貢献できる役割だからです。しかし、人生80年時代、多くの職業には定年のきまりがあります。誰でも一定の年齢になれば、後進に道を譲り労働から身を引くことになっています。それゆえ、職業以外で、あなたが他者や社会に貢献し、世の中から必要とされる舞台はボランティアしかないのです。
労働やボランティアが心身の健康にいいのは、社会との関わりがあなたの若さと活力を保っているからです。職業の継続もボランティアの実践もかならず頭を使い、身体を使い、気を使います。社会参画ですからかならず活動の過程で生涯教育や学習の機会をもたらします。当然、交流も社交も含まれ、言葉を使う機会もふんだんにあることでしょう。
生涯現役とは、「社会と繋がって、現に今、役割や責任を果たしつつある」という意味です。それゆえ、高齢期の職業の継続やボランティアの実践こそが「生涯現役」の生き方です。
さらに、ボランティアは他者貢献であり、社会貢献ですから、活動に参加している高齢者は人々の感謝や賞讃の対象になり、かならず「居甲斐」や「やり甲斐」に出会います。
これらの条件が相俟って健康維持に役立つのです。高齢者のボランティア活動は天晴れというに留まらず、健康維持の上からも満点だと言っていいでしょう。惜しむらくは日本の政治や行政に高齢者のボランティアを重視する姿勢が乏しく、高齢者の日常にボランティアを推奨し、支援し、顕彰する予算や仕組みや舞台がほとんど存在していません。当面は個々人の努力で発掘して行くしかないのです。
(*) 拙著、自分のためのボランティア、学文社、2010年
6 答は自分で探すのですー書物の中に答はありません
全ての答はあなたご自身の中にあります。書物の中にはありません。もちろん、本書もあなたがお探しの答ではありません。自分で見つけようと思った時に答が見つかり、力が出ます。読み書き体操はその時の武器です。武器が必要なのは、老後は「衰弱」との戦いだからです。人はそれぞれ置かれた条件が違います。老後はますますその違いが際立ちます。「戦い方」は自分で見つけるしかないのです。
人生は、人に探してもらった答で生きることはできません。結論は自分で出すのです。だからこそ日々の読み書きの習慣が大事なのです。
ただし、人間は「人の間」で暮らしているのですから、社会と切れたらお仕舞いです。単身生活者の研究をしている方が「人慣れ」するコツは「参加慣れ」すること(*)だと指摘していましたが、納得です。「参加慣れ」とは「活動に参加することに慣れなさい」という意味です。活動があなたを孤立や孤独から守り、活力を維持し、老後の元気を保つのです。もちろん、活動の種類も中身も頻度もやり方もあなたご自身が決めるのです。答は自分で探すのです。
(*)石川由紀、なぜか誰も教えない60歳からの幸せの条件-「家族」にも「蓄え」にも頼らない日常術。情報センター出版局、2004年、p.209
7 「暮らしの姿勢」が問題です
-お元気だから活動するのではありません。活動しているからお元気なのです。
少年の場合も、高齢者の場合も、あらゆる「発達」や「退化」の問題は、発生現象上、個別・部分的に現れます。足が弱ったとか腰が痛いとか記憶力が衰えたとか、という具合です。しかし、その原因や影響源を辿って行くと、常に日々の生活全体のあり方に関わっています。すなわち、心身のほとんどの故障は、回り回って「暮らしの姿勢」が原因だと言うことです。
ここで「姿勢」とは「考え方」とその「実践」の両方を意味します。考え方とは、もちろん、「健康志向」の態度や、「人生に対する前向きの発想」を意味します。そして「健康志向」にしても、「前向きの発想」にしても、これらの言葉には、未来の「目標」が含まれ、「やってみたい」、「行ってみたい」、「見てみたい」、「会ってみたい」、「なってみたい」、「もってみたい」など自らの「あこがれ」と「欲求」が連結しています。特に、「前向き」の姿勢と言った場合には、「わくわくする」、「ぞくぞくする」、「がんばるぞ」、「待ち遠しい」、「楽しみにしている」、「いいだろうな」、「ゆめを見ます」などの感情も含まれています。
また、前向きの「実践」とは、目標実現のための「計画」や「努力」のことです。やって見なければ望みは適いません。「未来志向・前向き」の考えを実現するためには、目標に向って実生活で具体的に動き出すことが不可欠です。どんなに素晴らしい考えも実行に移さなければ「絵に描いた餅」だということです。
このように未来に対する「前向き」の考え方を持ち、具体的な目的とその実現を目指して、当面の目標に向かって動き出せば、頭も身体も気も使うので、動くことによって心身の機能が活性化します。すなわち、「前向きの考え方」によって日々の実践が鼓舞され、また、実践によって「考え方」がより具体的で鮮明になって行きます。換言すれば、人間は「暮らしの姿勢」如何で心身が元気になったり、活力を失ったりするということです。
佐藤富雄氏は「口癖理論」と称する自己暗示の方法を提唱して、自分自身に言い聞かせながら前向きの姿勢を維持することを提唱しています。(*)自己暗示とは、フランスのエミール・クエという人物がクエイズムという自己暗示法によって心理療法を行っていたことが起源の一つです。心理学では自己催眠とも言います。自分で、自分を その気にさせる方法と言っていいでしょう。「もう、年だ」と思いこめば、段々年寄りになり、「がんばらなくていいんだ」と思えば、段々がんばれなくなるということです。人間は自分が思っているようになるものなのです。
筆者自身は受験生のように室内の壁や窓に自分が目標とする成果や日々の心がけを墨書して張り出しています。
目立つところに張っているので、標語は毎日見ます。時には、声に出して読んだりもします。恐らく佐藤氏の言う「口癖理論」に通じていると思います。「標語」を張り出すことで、自分の暮らし方のリズムや日々の目標を再確認、再々確認できているのです。もちろん、時々、体調などによって生活リズムは脱線しますが、大きく脱線しないのは、「標語効果」であろうと思っています。こうしたやり方は、標語自己暗示法と呼んでいいのかも知れません。
* 佐藤富雄、「定年する脳しない脳」、Nanaブックス、2009年、pp.104~105
8 人間の生活を分けて考えたら健康の答は出ません
現代の日本は「分業思考」の結果、子どもの教育や高齢者の老衰を総合的・全体的に考えることができなくなっていると常々指摘して来ました。「分業思考」とは部分思考であり、対症思考と言ってもいいでしょう。現象的に現れている問題だけに対応しようとする姿勢です。部分に囚われる原因は、疑いなく、行政のタテ割り分業や学問の分業化・専門分化の弊害だと思います。
例えば、なぜ保育と教育を統合できないのでしょうか?すぐに統合できない理由があるのなら、なぜ保育に教育プログラムを入れないのでしょうか?発達期の幼少年を指導した経験の在る人なら「お守り」も「しつけ」も同時にやらなければならないことは自明でしょう。現場に立ってみれば、総合的な「保教育」による発達支援の必要は瞬時に分かることですが、日本の行政は分からず、その周りにいる専門家も「分業思考」の故に見えなくなっているか、あるいは敢えて見ようとしていないのです。それが行政や学問の「たこ壷化」と呼ばれる現象です。
高齢者問題も同じ「たこ壷」にはまっています。なぜ保健指導と生涯教育を同時平行的にやらないのでしょうか、誠に理解に苦しみます。福祉分野のプログラムを拝見していると、人々の暮らし方にほとんど関係のない、単純・単発で、部分的なリハビリ体操、ロコトレ、脳トレなど介護予防のためと称する数多くのプログラムが行なわれています。
「ロコトレ」は衰えた運動機能だけに注目し、認知症予防は退化する頭の働きだけを取り出して、部分的な対処法が取られます。生活の実態を離れた「ロコトレ」や「脳トレ」ゲームの多くが、単発・単純・お遊びに近い対処法に終わっているのは高齢者の暮らしの全体を考えていないためです。こうした部分プログラムの全部が無駄であるとは言いませんが、部分的なアプローチや対症療法的トレーニングで高齢期の老衰を抑制することはできません。
高齢者の健康や活力を維持するためには、彼らの生きる姿勢や暮らし方の全部を「未来志向」・「健康志向」に変えなければなりません。急激な老衰の原因は「暮らし方」にあるからです。高齢者の暮らし方を見ないで、高齢者の健康を増進することはできません。人間全体を見ず、対症療法のプログラムを提供しても、高齢者の「暮らし方」は変わりません。お元気だから活動するのではありません。活動しているからお元気なのです。
9 自分のやりたいことを見つけることが健康寿命の処方です
民間放送教育協会に所属する33局の制作者が「年を重ねるとは何か」、「自分は何者か」という問いを自分自身に投げかけながら、各地の「様々な人生の軌跡」を取材したものが1冊の本になりました(*)。取材対象は長生きして活動している人が多かったのですが、ドキュメントの総括的結論は「やりたいことはまだまだある」ということになりました。象徴的です。「やりたいことがいっぱいあるので」、未だ生きていたい、未だ死にたくないという意味でしょう。
活動している人はお元気で、お元気な人は未だ人生に目標があるのです。人生観や好みの問題も関係するでしょうが、「やりたいことのある人」は生に執着するということです。逆に、無欲な人はあっさりと逝ってしまうかというと、現代の社会福祉のシステムでは、そうは問屋が卸さないでしょう。お元気を保って「やりたいことはまだまだある」というのは天晴れな生き方なのです。
ここでもまた、お元気だから活動するのではありません。活動しているからお元気なのです。
(*)民間放送教育協会編、やりたいことはまだまだある、PHP、2005年
10 「生活習慣病」-「暮らしの姿勢」が病気の原因を作っているという意味です
「暮らしの姿勢」とは、「考え方」と「日常習慣」のことです。それゆえ、「暮らしの姿勢」を変えるとは、「考え方」を変え、「日常習慣」を変えるということです。高齢者の老衰や病気のほとんどは生活習慣が原因かあるいは生活習慣が引き金になって起るというのが医学書や健康指南書の例外無き指摘です。
中でも、「習慣」とは、食事、運動、睡眠、活動、休息など日常・毎日の行動パターンのことです。行動パターンとは「毎日やっていること」の意味ですから、改善を目指すにせよ、予防を目指すにせよ、「毎日やっていること」を変えるためには、「頻度」と「学習(教育)」が最大の問題です。
健康の維持に関して、「頻度」と「学習(教育)」の目標は、適度の「運動」、適切な「食事」、適度の「活動」、適度の「休養」、適度の「楽しみ」、孤立しない「社交」などでしょう。決して簡単ではりません。これらが実現できなければ、生活習慣病の原因となる肥満、運動不足、アンバランスな食事、過労、過剰なストレス孤独、引き蘢りなどの健康危機をもたらします。健康増進の目標と対策法は「まいにちやっていること」の「改善」なのです。
それゆえ、現今の健康プログラムの最大の問題は教育実習が不足し、その「頻度」は致命的に不足しています。結果的に、当人に自覚を促し、意識を変革し、日々の「暮らし方」を「改善」するにはほど遠い、ということです。
現今のプログラムの多くは個別問題対応型で、当人の「考え方」や日々の「暮らし方」そのものを変えるというところに重点を置いていません。それ故、健康知識つまみ食いの講義だけに終始したり、実習や実践プログラムの場合もトレーニングの頻度が全く足りないのです。年に1-2回とか集中的に2-3日だけとか月に一度程度の介護予防ゲームや遊びで対象者の生活のあり方や考え方を変えることなどできる筈はないのです。もちろん、本人の「介護予防」意識は確立せず、生活習慣の改善が不十分に終わることは明らかです。
この種の活動は「木を見て森を見ていない」という現象ですが、助長しているのは介護予防等に専門的に関わっている人々の発想が専門分化し過ぎているためです。分業の「タコつぼ」にはまっているのです。佐藤万成氏は研究者でかつ臨床医ですが「人体のインフラは血管」であると指摘しています。その血管を若く保つのに最も大敵なのが上記に上げたような運動不足やそれに伴う肥満、過剰なストレス、過剰な喫煙や塩分の摂取、アンバランスな食事などの生活習慣だと言うのです(*)。このような暮らし方を改善して、生活習慣を変えない限り病気の原因と隣り合わせということになるでしょう。「不適切な生活習慣こそが万病の素」と言って過言ではないのだろうと思います。
(*)佐藤万成、遅老遅死のススメ、日本文芸社、平成16年、p.64
11 ボケればお仕舞い―司令塔は「頭」です
頭がだめになれば誰でも「自分の人生」を失います。とりわけ、高齢者にとって「ぼけ」は致命傷です。ぼけとは認知症の一般的表現です。2004年から正式に「認知症」になりました。認知症は後天的な脳の障害です。いったん正常に発達した知能が何らかの理由でその働きを失う状態をいいます。
ボケたら人生を失うというのは、頭が生活の司令塔だからです。頭は自己実現のレフリーであり、生きる力の「作戦中枢」であり、人間という複雑な行動体系を機能させる「統合参謀本部」です。健康維持も、社交の展開も、趣味・教養・ボランティアなどの活動もすべて頭の判断と指示によって可能になります。貝原益軒先生はこのことを江戸時代に実に分かり易く「心は身体の主人であり」、「身体は心の家来である」と説明しています。それゆえ、心を静かにして、身体を動かせば飲食は滞らず、血も気もよく体内を回って病気になることはない、というのです(*1)。
「生きる力」の開発や維持には暮らしの戦略が肝要であり、プログラムが不可欠であり、情報収集と分析が欠かせません。健康の大敵は「無知」である(*2)、という指摘を読みましたが、まさに有益な情報が簡単に手に入るのに勉強しない高齢者は無知故に自分の健康を損ねている場合が多いのです。
何が大事かを学ぶことも、学んだことを基に健康戦略を立てることも全て「頭」が司ることです。高齢者の健康維持政策は生涯教育政策と一体的に運営されなければならない理由がここにあります。
まだ「頭」のトレーニングが進んでいない子どもには大人が指示して人生の目的や目標や日々の暮らし方を指導します。しかし、高齢者は独立独歩の人生を歩いて来た成人ですから、自分のことは自分で決めるのが原則です。それゆえ、老衰防止の最大課題は、高齢者の自覚と学習です。頭もまた筋肉や関節と同じように、意識して毎日トレーニングを続けることが大切です。
外出を止めれば、外へ出ることが億劫になり、ひとに会うことが疲れにつながり、社交が停滞します。読むことを止めれば段々読むことが苦痛になり、書くことを止めたら書けことが億劫になります。話さない人は話せなくなり、声を出さない人は声が出なくなるのです。学ばなければ学べなくなるのです。
頭の働きが急激に衰えるのは、頭を鍛えない日常の「暮らし方」にあるのです。健康を維持するためにも、充実した人生を送るためにも、頭がボケたら司令塔を失い、人生はお仕舞いになるということを理解することが重要です。だから「読み、書き」なのです。
(*1)貝原益軒、松宮光伸訳注、口語養生訓、日本評論社、2000年、p.15
(*2) 佐藤富雄、人生100年時代の生き方健康学、産業能率大学、出版部、p.29-33
世間のルールの適用
-井関にこにこクラブの夏-
山口県山口市井関の子どもの指導で「新しい課題」は順調にできるようになりつつあります。朗唱も身体運動も、英語でさえ順調です。問題は算数や国語のようなすでに何年も経過している教科が課題です。基礎基本を理解しないまま時間が過ぎてしまった子どもが何人かいます。個別に対応するしか方法がありませんが、学童保育では親の選択で、習い事やスポーツ少年団に抜けてしまう子どもがたくさんいるので、継続指導は極めて難しいのです。
それゆえ、われわれはアプローチを学校と逆にしています。逆のアプローチとは「世間のルールを適用する」ということです。われわれの指導法に子どもが慣れてくれば、後に個別指導を導入した時、効果が一気に出ると期待しているのですが、未だ確信は持てず、効果は未知数です。
1 遅れは自分で取戻せ
我々の指導は年齢のちがいを考慮しません。井関の指導は学校教育のルールではなく、世間のルールを採用しています。学年別・年齢別のプログラムや指導方法の区別はしていません。当然、進度の違いも考慮しません。「自分で追いついて来い」ということを原則にしています。それゆえ、下級生は追いつくのに必死です。家で練習をする子も出て来ました。だから、事実、追いつくのです。
世間には、学年別の取り扱いや年齢別課題は存在せず、上級生と一緒のスピードで歩かない子どもは「遊び」には入れてもらえず、「釣り」には連れて行ってもらえないのです。
2 男女の区別は基本的にしません
子ども時代だからこそ、意識的に男女の区別はしません。身体運動で多少の差は出ますが、子ども時代に男女差はほとんど意識する必要はありません。家庭で培われた「女の子意識」を粉砕し、「わんぱくでもいい逞しく育って欲しい」という粗野な「男の子意識」をつぶします。これが出来れば、一気に女子の身体能力は向上し、男子の礼節も向上します。身体能力と礼節が「学ぶ構え」を創ります。
3 個別事情を言い訳にさせない
第3に、これが最も重要な視点ですが、個々の子どもの個別事情は考慮しません。好き嫌いを考慮せず、得手不得手も考慮しません。健康状態を除けば、当日の気分も考慮しません。鍛錬の目的や必要性に付いて、子どもの意見を聞かず、子どもに主張をさせません。プログラムの選択の自由も与えません。通常、世間では与えられる課題は選べないからです。世間とはそういうものだ、と教え、人生もそういうものだと教えます。子どもは気分屋で、わがままですが、世間にわがままは通じず、世間は個別事情を考慮しないと教えます。そうした状況を普通にこなして行くことが無意識の耐性の陶冶に繋がります。子どもは「きつい」筈ですが、「きつさ」を感じさせないのが指導者の腕です。そのためには、日々の子どもの進化を認め、努力を讃えて喜ばし、課題の「負荷」を徐々に上げて行きます。指導者に認められたいと子どもが思うようになれば、一気に練習の効果が現れます。「負荷」を上げて行っても、子どもが挑戦を止めなければ、それもまた指導者の腕というものです。
4 配慮はするが、特別の存在とは認めない
しょうがい児には、しょうがいの程度に応じて配慮をします。特別扱いをするということです。しかし、何でも自分の言い分が通る特別の存在とは認めません。どんな形であれ、プログラムに参加することを強制します。学校教育におけるしょうがい児は普段から特別の教員も付いて手厚く遇されているので自分は特別な存在であると思いがちです。それがちょっとした気分でわがままに転じます。しかし、世間でわがままや特別意識を出せば、生きることが難しくなるでしょう。以前に比べれば、世間も幾分やさしくなっていますが、それでも世間に「特別支援学級」は存在せず、特別支援教師もいません。それゆえ、我々もしょうがいには配慮するが、特別存在としては認めないということを教えます。先ずはおしめを取ることから教えなければならないと思っています。
国際結婚の社会学
異文化の中の死と愛
次女が亡くなったのはおよそ35年前のことです。さっきまで母のお腹を元気に蹴っていた子が1時間後に死んで生まれて来るのは誠に辛い体験でした。次女の死は「胎盤剥離」でした。その日は妻の出産予定日で日曜でした。妻にとっては復活祭の日曜日でした。国際結婚の日々を分析しながら死と愛について文化的な対処のしかたの違いを語ろうとすると、このような私的なことから語り始めなければならないことをあらためて自覚しました。亡妻が「国際結婚の社会学」など書くのは止めなさいといったのはこういうことだったのかと脳天気の自分は今ごろになって気付いているのです。
おはな
生まれて来る子は女と決めて
おはなと付けた
生まれて来た子は髪黒々と
今度はなぜか私に似てた
病院の夜明は長廊下
私は人生の暗い穴を覗いた
生まれて来た子は息をしなかった
おはな、おはなと甲斐なく呼んだ
長い廊下が寒かった
復活祭の日曜は金色の朝日輝いて
辛うじて妻だけ取戻した
1 「死産の子は母に抱かせない」
なぜ病院は異常を訴えて入院を希望した妻を土曜日に返したのだろう。担当医がゴルフに行っていたというのは本当だろうか。なぜ異常を訴える臨月の患者がいるのを知りながら、自分の留守を日本語も英語も話せない外国人の医師に任せたのだろう。なぜ、看護婦長も留守番の医師も帝王切開のような緊急措置を取らなかったのだろう。今でも振り返ると腹が立ち、いろいろ疑問はあるのですが、娘が戻って来るわけではありません。妻と私は泣くだけ泣いてすべてを忘れることにしました。詰問した私に院長が見苦しく震えていたのを憶えています。
死産であったと告げられた妻は死んだ子を抱いて別れを告げたいと切望しました。しかし、病院は「母親の精神の安定を守るため」それは絶対に出来ないと規則を楯に頑強に突っぱねました。我々と病院の間で長い「押し問答」が続きました。
もちろん、筆者は当時の日本のすべての病院の産婦人科にそのような規則があったかどうかを調べたわけではありません。また、アメリカの病院の産婦人科に同じような規則があるのかどうかも調べたわけではありません。
長い時間が過ぎましたが、筆者にとっては、学問のためとは言え、あの日に戻って調べ直す事自体が辛いので、自分の直観で分析する事になります。ただし、埼玉県のこの病院には確かにそういう規則がありました。
あの時「精神の安定」とか「死者との別れ方」は文化が決めるものだと気付いたのです。
妻に病院側の規則と考え方を説明すると、案の定、怒り狂いました。自分の生んだ子に別れを告げる事が出来ない、抱くことも出来ないとはどういう事か、というのです。私ももっともだと思い、できるだけ冷静に病院側と交渉しました。
不幸にも娘は死んで生まれ、その上、娘には会わせてもらえず、別れをつげることも出来ないというのでは、そちらの方が気が狂うと言って妻は泣きました。私は妻の性情を良く知っていましたから、「子別れの式」をした方が妻は落ち着く筈だと確信していました。しかし、病院側は、死産の子を母に抱かせる事は無責任で、母に重大な精神的負荷をかけることになるという説明を繰り返すだけでした。
婦長では埒が明かないので、当直の事務方の責任者を呼んで、妻の身に何が起こっても、私たちが全ての責任を負うこと、必要なら自分が書面で誓約書を書くことなどを条件に赤ん坊を妻の手にひと時だけでいいから抱かせてやってくれと頼みました。
院長に連絡が取れないので仕方のないことだったのでしょうが、彼らは後事を恐れて徹頭徹尾官僚主義的でした。「自分たちは日本の母が後々別れの辛さに耐えられない事実を何度も見ているのだ」、と主張し、規則一辺倒の返事しか出来ませんでした。
私は、「妻は日本の母ではない」。「異なった文化で育った女である」と主張しました。本人が納得できる子どもとの別れをさせなければ、それこそが彼女を精神的に追いつめるのだと説明しました。彼らは全く聴く耳を持ちませんでした。
そうなると最後の手段です。国際結婚を守るために喧嘩早くなっていた私は、妻の予定日に不在となった当番医の無責任な対応を責め、言葉の通じない外国人の医者を当直に残したことを責め、病院側の数々の不手際を数え上げて、訴訟も辞さないと脅しました。簡単でした。
赤ん坊は直ぐ妻の手に戻されました。私も抱かせてもらって別れを言いました。
妻は死んだ子を抱いて何やら話しかけ、何やらつぶやくように歌っていました。その姿は母の原形のようで不信心の筆者にも神々しかったことを覚えています。婦長の心配をよそに1時間ほど抱いた後、妻は涙を拭いて我が子をふたたび婦長の手に委ねました。妻はすっかり落ち着き、あの子は日本人の血が濃いねというようなことを言っていました。以後、何事もなく、妻はこの時の心情はほとんど語らないままあの世に行きました。今ごろ、再会はできたでしょうかね。
2 「一心同体の愛」-「所有の愛」
「所有の愛」というような表現が適切かどうかは分かりませんが、病院の心配の裏側には、日本の母は赤ちゃんと一心同体とでも呼ぶべき心情的絆が存在するということでしょう。それゆえ、赤ちゃんが亡くなるということは、自分の一部が死ぬということになるのかも知れません。それは日本の母にとって耐えられない喪失感であり、病院はそのことを心配していたのだと思いあたります。一心同体の愛とは赤ちゃんが母に心身ともに帰属しているという心理的な感情があるということです。
アメリカではほとんど聞くことのない「親子心中」などもそうした「一体感情」がもたらす親の最終選択ではないかとかねがね考えていました。
親子心中のニュースに触れるたびに、「あれは殺人だと思わない」と妻は私に聞いたものでした。日本人の親の子に対する愛は、よくいえば「一心同体の愛」、悪くいえば「所有の愛」だと思います。「所有している」から一緒に死ねるのだと。
我が子は別人格で、別の存在だと思えば、「親子心中」は客観的には「殺人」にならざるを得ないと思いますが、私を含めて多くの日本人は親子心中を心情的に殺人だとは思わないでしょう。山本周五郎の「赤ひげ」などを読んでいても、同情の声はあっても非難の声は大きくないことに気付きます。親子、特に母子は心情的に一体であり、不幸のどん底に我が子を残して行くに忍びないということでしょう。
親子心中が心情的に受入れられる文化では、母子分離は極めて難しいことになる筈です。亡くなった子どもとの別れも難しくなるのでしょう。病院側の心配の原点はそこにあったのではないかと思います。
日本の子育ての母子関係において、子離れが難しいのも、親離れが問題になるのも心情的に一体化している母と子を分離することが難しいということの現れです。
妻の切望の故に、筆者はこの問題を巡って病院と言い争いましたが、その当時でも、病院側の日本の母の心理状態に対する心配は当たっているだろうと直感的に思っていました。また、「死んだ子は母に抱かせない」という規則の妥当性も一般論としては何となく分かる気がしました。
しかし、同時に、アメリカ人は違うと思い、妻の場合は全く病院が心配しているようにはならないという確信がありました。それは人間の個別存在を認めた「個人」の概念の理解の違いであり、母子は別人格の、別存在であるという妻の発想への確信でした。
アメリカ人の母にも当然、似たような母子一体の愛の感情はあるでしょうが、個人が屹立している文化では、「一体感」は抑制されています。我が子といえども他者であり、その他者を愛するが故に、「一心同体」化したり、愛の故に我が子を所有し、最悪の場合には「親子心中」にまで行くということはほとんど起こり得ないのです。
亡くなったのは子どもであり、どんなに哀しくても、一緒に死ぬほどに自分と子どもを同一視することはしないのです。個人が個別に存在するという原点は妻の中で崩れていないと確信していました。
心情的に冷酷に聞こえることを恐れますが、人権論や個人主義の視点に立てば、子どもの死はあくまでも他者の死であり、別の個人の死です。個人を原点とすれば、無理心中は「殺人」になるのです。それゆえ、「母に死産の子を抱かせるかどうかの問題」は人権や個人主義に根ざす視点であり、文化の問題だと思います。
病院と妻との発想のちがいは、「個人」の概念をどう理解するか、「個の独立性」の問題であると思いました。
あれから35年、個人概念や人権概念が浸透した現代の日本では、恐らく悲しみの中の若い母にも死産の子を抱かせるようになったのではないかと想像しています。これもまた、筆者が現代の病院を調べたわけではないのですが・・・。
3 「所有の子育て」
病院側が心配した母子の強烈な一体感は、後々「子育て」の親子関係に連動して行きます。「親子心中」が象徴する「所有の愛」は「所有の子育て」に繋がります。モンスター・ペアレンツから嫁姑問題にまで繋がります。
男女共同参画を勉強した時、母子一体感情こそが嫁姑の確執を現代に引きずっている元凶であると確信を持ちました。
もちろん、「嫁」といい、「姑」といい、両者の争いの核心は制度上・慣習上の「家」に起因しています。しかし、見逃してはならない心理的要因があります。それが日本の母の子育てです。子宝の風土における子どもは「宝」であり、「宝」を守ろうとする母子関係は親子密着です。母子密着は母子一体の感情に起因しています。母子一体にせよ、母子密着にせよ、緊密な母子関係は母に独特の子育て心理を植え付けます。それを「所有の子育て」と呼んでみました。
法の上では、嫁を抑圧する主要原因と考えられて来た「家制度」が改正され、半世紀以上が経ちました。結婚は「両性の合意」によるという考えも人々の間に広く浸透しています。それにもかかわらず「嫁姑」問題は延々と続いているのです。確執の原因は「家制度」の慣習上の残存だけではないということです。また、結婚は「両性の合意」によるという個人を重視した婚姻の制度の確立も両者の確執の解消にはなっていないということです。
図書館の本棚を見ても、インターネットの「嫁姑問題」の検索をしても、両者の様々な確執とそれに対する助言が並んでいます。中には反感や憎悪を丸出しにした両者の言葉がならんでいます。姑の息子に対する愛情やいらだちが時に異常であるように、妻の夫に対するいらだちも異常に感じます。息子であり夫である男は両者に挟まれて“うろたえ”、“逃げ腰”であるのも特徴的です。
嫁と姑が感情的・心理的に対立する背景には、「家」の観念の残存に加えて、母による「息子の育て方」があると思います。息子であり夫である男が“逃げ腰”になるのも、息子は母に所有され、夫として明確に妻を選択できないからです。
もちろん、嫁と姑という二人の個人が対立する背景には、世代間の生き方の違い、価値観の違いも関係があるでしょう。息子に対する母の過大評価ということもあるでしょう。しかし、そうした副次的要因はどの文化にも、どの風土にもある事です。
それゆえ、筆者は、外国と最も特徴的に異なっている「子宝の風土の子育て」に着目してきました。これまで日本人の養育行動の「特性」に関しては、いろいろな表現で言われて来ました。「過保護の子育て」、「近すぎる母子の距離」、「母子密着の子育て」、「母原病」、「家を前提とした子育て」などが一例です。
これらの特性に共通で、最も特徴的なことは、母が息子(子ども)を心理的に所有している(と思っている)ことです。嫁姑の対立を調べて行くと、嫁の存在に対する姑の恐怖と被害者意識に辿り着きます。被害者意識の発生理由は、母の側の「息子の所有」意識です。それも「占有的所有」意識です。日本文化において、母が子どもを(特に男の子を)情緒的に所有してしまう養育行動が「所有の子育て」です。この「所有意識」こそ、新しく息子の妻となった「嫁」によって侵害されるという恐れを抱かざるを得ない背景です。
4 「息子はくれてやる」
「子どもを所有する」ということの明確な証拠は出せませんが、乳幼児期の「母子密着」は傍証の一つでしょう。母の「子宝」に対する献身と保護の感情も傍証の一つかも知れません。先の「親子心中」への心情的共感なども傍証の一つでしょう。また、男の子(特に長男)に対する差別的な特別扱いや思い入れも、母の所有感を増幅していると思います。男の子を産んだ誉れが母に帰属することは伝統が認めている感性です。
上記のような子育て慣習を通して、母が息子を心理的に所有し続けているという仮説が正しいとすれば、姑の嫁に対する被害者意識の説明が出来ます。一言で言えば、嫁の到来によって、母による息子の「占有」が犯されるということです。特に長男については家制度観念との関わりで、母の息子に対する「所有」の感覚が極めて高いのです。「家」に帰属した母はやがて「家の主人」となる息子を家と同一視します。同一視とは、家を見るように息子を見るということです。自分が守って来た「家」も、その家を守ることになるであろう息子も自らの人生の「証」になるのです。母はその証を他所から来た女に勝手にさせるわけには行かないのです。母にとって「家」も、「息子」も自身の一部であり、延長なのです。どんなにいい嫁であっても、よそ者は自分の「家」にも、「息子」にも帰属させないのです。当然、帰属しないものを受け入れるわけには行きません。
若い世代の「核家族」の選択も、「ばば抜き」の要望も嫁の側からの古い「家」との訣別宣言であったことは言うまでもありませんが、妻の側からの「個人主義」の独立宣言であったと考えればもっと分かり易いのではないでしょうか。
しかし、姑から独立した筈の新しい母もまた自分の息子を所有し続けるとすれば、母の息子への呪縛は続くのです。嫁姑の問題に、主体的で、断固たる息子が登場する事は極めて少ないのはそのためです。息子は母に所有され、基本的にマザコンです。息子の多くは、妻をかばって母に「妻のやり方に干渉しないで!」とは言えません。多くの母は「子離れ」が出来ず、妻に傾いた息子を恨み、自分と息子との仲を裂いた嫁を憎みます。
この時、母に所有されて来た息子は情に流されて、母の嘆きには勝てません。母を捨てて妻の側につくことができないのはそのためです。彼は彼で、結婚後ですらも「親離れ」が出来ていないのです。母は息子を所有し、息子は中途半端に、妻と家と母の3者に帰属しているのです。嫁姑の確執が解けないのも当然ということです。どんな参考書を読んでも、嫁姑問題には抜本的な解決策は存在せず、気持ちのもち方が書かれているだけで、気休め程度の参考にしかなりません。当事者の溜飲を下げるために、読みたい所だけを読み、聞きたい所だけを聞くのが関の山です。お互いの悪口はどの本にも、インターネットにも山ほど出ているのでどうぞご参照下さい。両者の争いを緩和するためには母が「家」を捨てるか、息子を別の女に「くれてやる」しかないのです。
死んだ子を抱いて別れを告げた妻はかねがね言っていました。息子は息子の恋人に熨斗をつけてもらってもらうのだと。そして事実、彼女は言った通りに実行しました。
アメリカに嫁姑問題がないのは、アメリカの母が息子を所有していないからだと思います。愛していても、「所有」していなければ、他者に譲るのはそれほど難しいことではないでしょう。個人主義にとって他者の人格は独立しています。子どもの人格も独立しています。それゆえ、子どもの選択も独立しています。息子(娘)をよその女(男)に「くれてやること」もそれほど難しいことではなかった筈です。成人した子ども達は今、そうした母をどんな風に思い出すのでしょうか。
§MESSAGE TO AND FROM§
お便りありがとうございました。いつものように筆者の感想をもってご返事に代えさせていただきます。意の行き届かぬところはどうぞご寛容にお許し下さい。
山口県長門市 林 義高 様
相変わらずディスクジョッキーがんばっておられることと存じます。井関の発表会に是非お出かけ下さい。放送のネタを差し上げることができると思います。お心遣いありがとうございました。
佐賀県佐賀市 城野真澄 様
お世話になりました。あなたのエネルギ-に感服しております。次は90分講演にして下さい。2時間講演は身の程知らずである、と翌日に思い知りました。「がんばらなければならないが、がんばり過ぎてはならない」が高齢者のルールであろうと思います。
山口県下関市 田中隆子 様
男女共同参画に関する批判のメールを興味深く読ませていただきました。筋肉文化が作り上げてきた男の論理とその中で甘えて来た女の論理が綯い交ぜになっていて現状が良く分るような気がします。先日、福岡県遠賀町で男女共同参画の講演をいたしました。参加者の中に「NPO学童保育協会」の理事さんやその支持者の議員さんがいました。学童保育に教育プログラムを入れるべきであるという運動が全国的に広がりつつあるそうです。いよいよ「私事」として、家庭や女性に押し付けられて来た子育てが「社会の養育機能」であるべきだと考えられるようになりつつあります。これが実現すれば、特別の施策を打たなくても男中心の筋肉文化は中核から崩れて行くでしょう。しかし、そうした動きに抵抗しているのは、学童保育の女性指導員だそうですから事は簡単ではないのです。
150号 お知らせ
1 第122回生涯教育まちづくり実践研究フォーラムin井関
山口の皆さんと協議の結果、山口市井関の「井関元気塾公開発表会」は-8月の移動フォーラムを兼ねることになりました。
日程:平成24年8月18日(土)
10:30-12:30
場所:井関にこにこクラブ(山口市立井関小学校内多目的教室)、〒754-1277 山口市阿知須1639番地、井関小学校内
(1) 朗唱の部
(2) 身体能力・体力向上の部
(3) 読解力向上の部
(4) 自律学習・学力向上の部
参加申し込み先:事前申し込みが必要です。定員50名
井関にこにこクラブ
電話/ファックス:0836-65-1570(14:00以降にお願いします。)
Mail: 上野敦子 様 ajisusya@c-able.ne.jp
編集後記
暗い夜
わが居間には天井に3つの照明があり、フロアに3本のランプが立っている。南と北の窓に向って使い分けている机が1つずつある。机にも1つずつランプがある。節電の夏に相済まぬ事ながら、世間から取り残されて心が暗い夜は全部の灯りを灯す。居間は昼のように明るくなるが未だ心は暗い。憂愁舞い降りても語るべき人は遠い。こういう時はサミュエル・ウルマンの詩を大声で朗誦する。
・・年を重ねただけで人は老いない。
理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、
情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、
こういうものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう・・
失望と不安に苛まれるとエネルギーが枯渇する。ウルマンの言葉にも関わらず、年を重ねただけで人は簡単に老いるのではないか、と思ったりする。明日は農夫のように庭の草を刈ろう。しかし、修行僧のような深刻な顔はしまい。深刻な顔は深刻な心を生み、明るい顔は明るい心を生む。自己暗示の心理学はこのような日のためにあるのだ。
通常の生活で頭は確かに「司令塔」であるが、危機的な状況では霊長類ヒト科の動物に戻ってお日様や自然にふれなければ大地の霊感は取りいれるすべはない。今年の7月はそのような夏を運んできた。