「風の便り 」(第146号)

発行日:平成24年2月
発行者 三浦清一郎

「生涯現役・介護予防カルタ」の老年学
-壮にして学べば老いて衰えず、老いて学べば死して朽ちず(*)-

 下関にある高齢者のリハビリ支援グループ「再起会」(永井丹穂子代表)が地道な活動を続けて今年で20周年の節目を迎えます。永井代表から、記念事業に「ロコトレかるた」(ロコモティブ・シンドロームを予防するカルタ)を作りたいので会員さんから文言の「案」を募っているが出そろった段階で、監修を引き受けてくれないか、というご相談がありました。
 筆者は、どうせ作るのなら「森も木も全体を見渡せる」「生涯現役・介護予防かるた」を作りましょう、と提案しました。永井代表は瞬時にお分かりになりました。「そうだった」とおっしゃって、即断でご賛同いただきました。生涯現役を推奨し、健康寿命を延ばそうという趣旨のカルタであれば、これまで筆者が書いて来た「The Active Senior-これからの人生」や「安楽余生やめますか、それとも人間やめますか」の発想と知識が100パーセント生かせます。本年の筆者の執筆計画は大幅に狂いましたが、冬休み中の関心のベクトルは一気に「生涯現役・介護予防カルタ」の作成に傾いたということです。(*佐藤一斎 江戸時代の儒者、「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり、壮にして学べば、則ち老いて衰えず、老いて学べば、則ち死して朽ちず」と書き残した。幕府の昌平坂学問所の「学長」となる。)

1 原因は、理念的には「暮らしの姿勢病」、具体的には「生活習慣病」

 少年の場合も、高齢者の場合も、あらゆる「発達」や「退化」の問題は、現象の上では部分的に現れます。しかし、その原因も影響も常に人間全体のあり方に関わっています。現代の日本は「分業思考」の結果、人間の教育や高齢者の老衰を総合的・全体的に考えることができなくなっていると常々申し上げて来た問題です。
 「分業思考」に囚われる原因は、疑いなく、行政のタテ割り分業や学問の分業化・専門化の弊害だと思います。なぜ保育に教育プログラムを入れないのか?逆に、なぜ教育にもっと保育のような生活体験の機能をいれないのか、と問うて来ました。発達期の幼少年を指導した経験の在る人なら「保教育」の必要は瞬時に分かることですが、日本の行政は分からず、その周りにいる専門家も「分業思考」の故に見えなくなっているのです。それが行政や学問の「たこ壷化」と呼ばれる現象です。
 高齢者問題も同じ「たこ壷」にはまっています。なぜ保健指導と生涯教育を同時平行的にやらないのか、誠に理解に苦しむところです。福祉分野のプログラムを拝見していると、人々の暮らし方にほとんど関係のない、ただただ単純で、愚かとしか言いようのない、部分的なリハビリ体操や介護予防のプログラムが行なわれています。高齢者の生きる姿勢や暮らし方の全部を変えなければならないのに、生活を見ず、人間全体を見ず、人間を分断し、部分化して見る傾向が強いのです。衰えた運動機能や退化する頭の働きだけを取り出して注目し、部分的な対処法が取られます。ロコモティブ・シンドロームの予防には「ロコトレ」だけ、認知症の予防には、生活の実態を離れた「脳トレ」ゲームやお遊びに近い対処法だけが提案されるのはそのためです。
 しかも、当人の「考え方」や日々の「暮らし方」そのものを変えるというところに重点を置かないのでトレーニングの頻度が全く不十分です。年に1回/集中的に2-3日だけとか月に一度程度のゲームや遊びで対象者の生活のあり方や考え方を変えることなどできる筈はありません。もちろん、本人の「介護予防」が不十分に終わることは明らかです。この種の活動は「木を見て森を見ていない」という現象ですが、助長しているのは介護予防等に専門的に関わっている人々です。分業化・専門化が進むと必ず起こる「たこ壷化」の「副作用」です。特に老衰予防の場合、問題の発生原因は生活全体にあり、暮らし方や考え方を総合した生きる姿勢から生じているのです。それ故、高齢者の急速な老衰の原因の源は、理念的には「暮らしの姿勢病」であり、具体的には「生活習慣病」なのです。

2 「生涯現役・介護予防カルタ」の目的

 カルタは、まず遊びであり、ゲームであり、同時に人々を和ませ、会話に導く格好の手段であり、様々な有益情報や教訓を含んだ教材なのです。これらの機能・特性をカルタ調で要約すると、「まず娯楽、仲間づくりの大事な道具、次に脳トレ・認知症予防、教材・教訓・人生指針」という具合になるでしょう。
 カルタの導入目的の第一は、ゲームとしての娯楽とグループ交流や会話の水路付けにあります。しかし、本カルタは「生涯現役・介護予防カルタ」ですから、その最終目的は、高齢者仲間のカルタ取りゲームを通して、高齢期の活力維持に役立つ「暮らし方」を提示する教材としての利用価値を高めることです。暮らしの姿勢や生き方の方針が変われば、廻り回って病気予防や活力維持に資することは疑いないことだからです。

3 高齢者の司令塔は「頭」ですーボケればお仕舞い

 頭がだめになれば誰でも「自分の人生」を失います。就中、高齢者にとっては致命傷です。頭は自己実現のレフリーであり、生きる力の「作戦中枢」であり、人間という複雑な行動体系を機能させる「統合参謀本部」です。健康維持も、社交の展開も、趣味・教養・ボランティアなどの活動もすべて頭の判断と指示によって可能になります。
 「生きる力」の開発や維持には企画が肝要であり、プログラムが不可欠であり、情報収集と分析が欠かせません。全ては「頭」が司ることです。まだ「頭」のトレーニングが進んでいない子どもには大人が指示して人生の目的や目標や日々の暮らし方を指導します。しかし、高齢者は独立独歩の人生を歩いて来た成人ですから、自分のことは自分で決めるのが原則です。それゆえ、「老年学」の第1課題は高齢者の頭脳の働きを維持する方法を提示することです。
 「生涯現役・介護予防カルタ」の最重要課題は、急激な老衰の主要原因は不適切な「暮らし方」や「考え方」にあり、「頭がボケたら自分の人生はお仕舞い」になるということを分かっていただくことです。

3 理性と感情は別物ですが、頭と心は同じものです

 人間の知性には、理性(論理性)と想像力(感性)の2分野があります。日本人は頭は理性、心は感性というように両者を分けがちですが、頭と心は同じものです。知性は、「考えること」も「感じること」も含みます。人間が人間である中枢は「頭」であり、人生の司令塔は「頭」です。
 私たちは「胸を焦がす」と言ったり、「胸が痛む」と言って胸を指しますが、「焦げている」のも、「痛んでいる」のも実際は頭です。それゆえ、頭が司る感情のコントロールが出来なければ、理性の部分の指令塔も機能しないのです。マインドコントロールが恐ろしいのはそのためです。理性と感情を司る頭は人生の海に浮かぶ船のようなものです。感情は「船」のバランスと自家発電の動力源の役目を果たします。感情はエンジンの出力を司り、理性はスクリューや舵のように動力を推進力に変え、運行の目標や方向を決定します。感情が安定しなければ、船の運航を管理する理性も機能しないのです。それゆえ、人間が感情や意欲を失うことは心的エネルギーを失い、人生の動力源を失うことを意味しています。前頭葉摘出手術(ロボトミー)が人間を人間でなくしてしまう結果を招くのは、前頭葉こそが感情を司る頭の中核だからです。

4 感情の安定

 感情のあり方、情緒の自己コントロールをカルタの文言にすることは特別難しいのですが、日常の生活態度や気持ちの持ち方を想定して表現してみました。以下はその数例です。高齢者が活力を維持するためには、暮らしに「前向きの」姿勢が不可欠です。老後はあらゆる面で個人差が大きくなり、「満足-不満足」の思いも、「幸-不幸」の感覚の落差も大きくなります。現状に囚われれば、愚痴の一つも出るでしょうが、どうがんばってももはや過去を変えることはできません。それゆえ、「く」-「愚痴らない、くよくよしない、ひがまない、人の振り見て、わが振り直す」と言わなければならないのです。また、心身の健康を保つためには、ある意味では楽天的に、また別の意味では積極的に自助努力を積み重ねることが不可欠になります。だから、「わ」-「忘れよう、過ぎた昔は、戻せない、あしたはあしたの風が吹く」となります。
 とにかく、高齢者はみんな今日までがんばって生き抜いて来たことはまぎれもない事実です。しかし、もちろん、誰一人、一人で生きられた筈はありません。気持ちの安定を保つためには、世の中と繋がり、他者への感謝や思いやりの気持ちをもつことが極めて重要な働きをします。それゆえ、「ぬ」-「ぬかるみも、時雨れるときも、風の日も、乗り越えられた、感謝忘れず」としました。また、「こ」-「越し方を、一人で生きた、筈がない、心ばかりのわが恩送り」とも書きました。次の世代に感謝の気持ちを返す「恩送り」は日本人の生き方の伝統です。このように介護予防や生涯現役を志して生きようとも、いずれ加齢とともに老衰は進みます。生老病死は人間の必然です。しかも、生きとし生けるものの中で、人間だけが「死の必然性」を自覚しています。それゆえ、美しい晩年を全うしたいと願うことは衰弱と死に向かって降下する自分自身との戦いです。如何に戦うかで個人の矜持や自尊や人生の美学が問われることになります。それゆえ、カルタには、「た」-「発つ鳥の跡を濁さず、われもまた、捨つべきを捨て、断つべきを断つ」と晩年の準備を喚起し、「ち」-「誓います、日々の挑戦、終わりまで、我が晩年をご照覧」と終末に向かっての覚悟を歌いました。

5 人間の基礎と土台は「動物」です。人間の精神が「動物」をコントロールします

 人間は霊長類ヒト科の動物がしつけと教育によって人間になったのです。人間の基礎と土台はあくまでも動物で、動物は人間精神の「容れ物」です。「容れ物」がしっかりできていないと中身がきちんと入りません。子どものしつけと教育は容れ物を鍛えながら、同時に、中身の知性と精神を育てるのです。それゆえ、「半人前」の子どもは、どちらかと言えば、「容れ物」が先で、「中身」が後です。保護者や指導者の教育によって、動物的特性(肉体)を鍛えながら人間的特性(頭)を育てるのです。ところが、「一人前」になると、自己教育が原則になりますから、高齢者は自分で心身の機能を維持しなければなりません。高齢者の場合は、心身の重要度が子ども時代と逆転して、知性がより重要になり、肉体の維持・訓練は知性の命ずるところとなります。高齢者は知性(頭)の衰えを防止しながら、その判断と指示によって、動物的特性(肉体の健康)を維持するようになるのです。高齢者が頭の司令塔を失えば、肉体を維持する知恵も作戦も失うのです。頭を使い続けること、読み、書き、討論、生涯学習が重要なのはそのためです。「荘にして学べば、老いて衰えず、老いて学べば、死して朽ちず」(佐藤一斎)です。子どもは肉体の鍛錬が十分にできないと、集中や持続の力がつかず、学業が遅れます。しかし、高齢者は逆で、頭脳の維持が最重要課題です。頭脳が衰えれば、健康を守ることも、自己の鍛錬を考えることさえできなくなります。「う」-「動かにゃすべて衰える、生涯学習人生分ける、頭は老後の司令塔」なのです。精神が滅べば、必然的に高齢者の肉体も滅ぶのです。「ボケればお仕舞い」とは、そういう意味です。

6 答は自分で探せ

 このカルタは、社交や社会参加や社会貢献を強調しています。老後の仲間は決定的に大事です。だから、仲間の大切さについても、「お」-「老いの日の、友は得難き、宝なり、互いに支え、互いに尽くす」と謳いました。しかし、最後に人生の答を出すのは自分です。自分自身で日々の暮しの心構えや戦略が立てられなければ、老後は加齢とともに急速に衰えるのです。
 暮らしの実務や生き方、人との付き合い方、体力や健康はみな大事ですが、それを決めるのが知性であり、精神です。カルタは,高齢者の日常の活力維持の具体的な方法を提示していますが、精神のあり方に付いては、自分で探し、自分で決めなければなりません。人生の最後をどう生きて、どう死ぬかについて既成の解答があるはずはないからです。それゆえ、「ゆ」-行く道は、神も仏も代われない、誰も代わりに生きられない」としました。基本原則は自立と自己鍛錬です。本カルタの提言は、インスタントな答を探そうとする人の役には立たないかも知れません。総論として自立と社会参画のための自己鍛錬こそが高齢期の活力維持の極意であるという結論から出発しています。自立とは、自分で自分の日々の暮らしの基準と原則を探すという意味です。 

7 カルタの理論的背景

(1) 基本は「考え方」と「暮らしの姿勢」

 上記の通り、高齢者が自分自身の健康・活力を維持するにあたって一番大事なのは老後の「考え方」と「暮らしの姿勢」です。老衰の原因を「暮らしの姿勢病」と言ったのは高齢者の「考え方」-「頭」が問題だということです。
 高齢者の日々の暮らしに明確な「目的」と「目標」があれば、「暮らし方」が決まります。「も」-「目的があなたを磨く、目標があなたを引っぱる、希望も見える」と強調したのはそのためです。また、人生への関心や興味が高齢者の活力を支えます。それゆえ、「こ」-「好奇心、居甲斐、やり甲斐、生きる甲斐、老いてもやる気、冒険心」として高齢者の人生における頭と精神の重要性を最優先に強調しています。
 体力や健康を失うことは辛いことですが、まだ人生を失ったわけではありません。しかし、頭の働きを失えば、「認識すること」、「考えること」、「判断すること」、「決定すること」など、自分を失い、人間の特性を失い、やがて、自身の健康も人生も失います。「生涯現役」を全うしようとする生き方は、自分の人生を失う対極にあります。生涯現役とは、自分自身が最後まで「認識すること」、「考えること」、「判断すること」、「決定すること」を失わず、社会に役立ち続けようとすることです。「生涯現役・介護予防カルタ」は、社会に参画して文字通り「現に」、「役に立つ」生き方を目指しています。そのためにも、生涯の健康を維持し、介護の必要に至らぬよう「頭」の働かせ方に最も重点を置きました。理論的背景には、医学の言う「廃用症候群」の考え方やスポーツ生理学の言う「オーバーローディング法」、心理学の言う生きがい論、社会学の言う「自分のためのボランティア」論などを前提にしています。

(2)「廃用症候群」と「オーバーローディング法」

 標記の概念は医学用語ですが、「使わなければ使えなくなる」、という意味です。英語では、文字通り、Disuse Syndromeと言います。人間の心身の機能は誠に不思議な性質を持っています。使い過ぎると壊れますが、使わないと身体が不要だと判断して、機能が衰退してしまうのです。ほどほどの「負荷」をかけて使い続けることが重要になります。スポーツ生理学では、適切な「負荷」をかけるトレーニング法を「オーバーローディング法」と呼んでいます。自分ができる程度よりちょっとがんばってみるということです。「適切な負荷」の効用については、若者も、高齢者も同じです。
 廃用症候群について、カルタでは、「ヨ」-「読めない、書けない、話せない、歩かなければ歩けない、使わなければ、使えない」と提案しています。英語のいう「Disuse Syndrome」は「使わない症候群」という意味ですから、文字通り、「使わなければ、だめになる」と警告しているのです。また、オーバーローディング法については、「ら」-「楽すりゃ、自身の身が錆びる、がんばらなけりゃ、心も錆びる」とか「な」-「なにごとも、習わにゃできない、日々精進、練習せねば、上手にならぬ」と提案しています。生理学者ルーは、「ルーの3原則」と通称される重要な指摘をしています。すなわち、「人間の持つ機能は①使わないと衰え、②使い過ぎると破壊されるが、③ほどほどの負荷をかけて使えば発達を促し、維持することができる」というものです。ちなみに、「休めば錆びる」とは発明王エディソンの名言「Resting is Rusting」を援用しました。「練習しなければ上手にならない」とは、「やったことのないことはできない」、「教わっていないことは分からない」と合わせて教育学の3原則です。カルタは、予想される高齢者の問題状況を考慮して文言を工夫し、手引書の説明は、背景となる理論や考え方に沿って文言を解説しています。

7 カルタの「情報量」を重視

 全国の大部分の新作カルタが「いろはカルタ」調の簡単な短文でできているのに対し、「生涯現役・介護予防カルタ」は百人一首にならった31文字の短歌調を採用しました。短歌形式を使った最大の理由は、カルタに盛り込むことのできる情報量の問題です。もちろん、具体的な説明が必要だからと言って、くどくなりすぎれば、誰も遊びには使ってくれません。文言の長短やリズムを調節するさじ加減が難しいところでした。
 カルタ文化の伝統と文化を支えて来たのは百人一首です。それゆえ、5-7-5-7-7の短歌のリズムは多くの人々に身近に感じてもらえると想定しました。しかも、短歌調はいろはカルタの倍以上の情報を盛り込むことができます。
 生涯現役論も介護予防論も、身体運動や食育については余り複雑な論理は必要ありませんが、ボランティア論や尊厳死などになると「あなたも進んでボランティア」というだけでは説明が足りません。ボランティア論は日本の言-「情けは人の為ならず」を下敷きにして見ました。いささか字余りになりましたが、他者に寄せる親切な思いは「自分」に返ってくるものだという意味を込めました。「を」-「おかげさま、おたがい様です、人の世は、情けは人のためならず、自分のためのボランティア」ではどうでしょうか。また、少し理屈っぽいのですが、ボランティアを推奨するものとしては、「ほ 褒められて、必要とされ、喜ばれ、元気をもらう、人の世話」としました。また、日常の社交を絶やさない心がけとして「に にこやかに、人と交わる、心がけ、明るく元気、いやごと言わず」と提案しています。「いやごと」というのは不平や文句を意味する長州の方言だそうです。また、「無縁社会」の近所付き合いは難しいことですが、「へ 塀越しに、お隣様に、ご挨拶、木にも花にもこんにちは」や「る 留守の日は、戸締まり、火の元、ご近所に、出かけますので、お願いします」などと意識的にご近所とのコミュニケーションも図ろうと提案しています。
 死期を意識した時の尊厳死論は極めて難しい課題です。多くの高齢者はまだ「リビング・ウイル」という表現を知らないかも知れません。そこで、まず、「ろ」-「老年の整理整頓・遺書・遺産、旅立つ前に、謝辞整える」と提案し、次に、抽象的ですが、「り」-「凛として逝かむとすれば、凛として生きる準備を怠らぬこと」として見ました。しかし、この辺までが31文字の表現限界です。

8 理由を語り、意味を語る

 健康カルタはたくさん作られていますが、「なぜ」とか「どのように」の具体的な説明が不足しています。「毎日運動、1、2、3」だけでは、なぜ運動が大事なのか、どんな運動をするのかは分かりません。しかし、「胸を張り、背筋を伸ばし、大股に、足は第2の心臓だから」と言えば、毎日の散歩のコツが分かり、「歩くこと」の重要性も意味も分かります。また、「階段・段差に気をつけよう」というだけでは、具体的な動作が分かりません。そこで「い 急がない、一度止まって、気を張って、深呼吸して、手すりを持って」と注意を喚起し、「ま 待ち合わせ、急がず、慌てず、駆け出さず、バスも電車も10分前」と暮らしの発想を提案しています。もちろん、上記のように31文字を使っても舌足らずのところが多々残りますが、限度を弁えず、説明調が過剰になってカルタの娯楽性を浸食してはならないと考えました。

9 想定した活用分野
(1) ロコモティヴ・シンドローム予防
① 加齢による運動器障害は高齢社会病

 新しい医学用語ロコモティブ・シンドローム(locomotive syndrome)は高齢社会病です。近年注目されるようになった病名です。日本語では「運動器症候群」と訳されます。高齢者が、「運動器の障害」により「要介護になる」リスクに注目して導入された概念です。高齢期では、自分で動くことができなくなることが一番危険です。カルタでは「転ぶこと」、「動けなくなること」の危険を警告しました。「ね」-「寝たきりは、動かない故、ご用心、ねん挫、骨折、転倒予防」。高齢者が骨折などで寝たきりになると立ち所に筋肉が落ち、使わない関節は固まってしまうと言われています。早めのリハビリが大切なのはそのためです。また、自分でやれるロコトレの具体的方法として、「て」-「手を打って、腕を回して、足腰伸ばし、声張り上げて思い出の歌」を提案しました。筆者は毎日好きな音楽に合わせて自己流のエアロビを工夫して身体を動かします。舞踊をなさる方々がいつまでも若々しいように、毎日の軽運動の効果は抜群です。体操が主食なら音楽はおかずのようなものです。好きな歌や曲ですから身体が自然に動きます。時には声はり上げて歌に合わせてカラオケのように歌います。詩吟の方々と同じように大声で発声することも循環や代謝の体調を整え、練習の後が実に快適です。熟年期に入ると身体を長く使って来た分、各種の運動器障害は多発します。約3-4人に1人が発症するということですから、運動機能を健康に保つことが如何に難しいかを示しています。だからこそ頻度の少ないプログラムは意味がなく、高齢者にとって「ロコトレ」とは、日々の習慣的軽運動が課題なのです。筆者は「音楽体操、日に3回、為すべきを為さざれば、必ず悔いあり」と墨書して壁に張っています。

② 動けなくなるから寝たきりになるのです

 高齢社会は、高齢者が心身の機能を長期間使用し続ける時代を意味します。それゆえ、どの機能も手入れを怠らず、長持ちさせることが大切です。加齢による老衰に加えて、人々の運動不足、不摂生など、健康に害のある生活習慣は、高齢者の骨量、筋量、関節軟骨、椎間板、神経活動などを減少させます。骨粗しょう症、膝関節痛、腰痛などはその結果です。また、筋肉量、血管量、神経活動が減ると加齢性筋肉減少症や神経障害を引き起こし、段々動けなくなると言われています。動けなくなるから動くことが億劫になり、動こうとしないから最後は全く動けなくなり、寝たきりになるのです。医学が言うように、要介護や寝たきりの原因に 「運動器」 の障害が多いのは間違いありませんが、根本の原因は考え方であり暮らし方です。高齢者の心身の健康は医学と同等か或いはそれ以上に教育学や心理学の問題なのです。高齢者自身が、意識して、がんばって、自身に「負荷」をかけ、毎日適度の活動(運動)を続けることが不可欠であると自覚しなければ、月に一度や2度の転倒予防教室や介護予防教室で防げる問題ではないのです。筆者が文言の選択に迷った時、「再起会」の皆さんは具体的な健康法の文言を捨てて、次のような理念的な文言に投票してくれました。嬉しい驚きでした。「か」-「がんばろう、誰かが見てる、がんばれば、最後はあなたがあなたを見てる」。高齢者の最後の生き方を決めるのは、「自分のがんばり」や「自身の生きる美学」なのです。こうした日々の姿勢を「ロコトレ」に適用すれば、先に紹介した「ルーの3原則」の通り、「つ」-「使い過ぎれば壊れるけれど、使わなければ衰える、日々さじ加減、老いのコツ」となるのです。

③「ロコトレ」は介護予防の基本ですが、ロコトレに限らず、老化の防止策は毎日実行するという姿勢が基本です
 
「ロコトレ」は、運動器の機能の衰えを防止する健康法の総称です。毎日の運動はもちろん、日々の暮らし方を工夫して日常生活の自立度を低下させないことが目的です。ロコトレは一番具体的で、一番簡単です。ロコトレを日常化し、習慣化することが、高齢者の老衰防止策を実行する最初の一歩になります。「け」-「健康は、自分で作る、生き甲斐は自分で探す、生涯現役心意気」まで辿り着くことが目標です。

(2) 筋肉・心肺機能の老衰防止トレーニング

 筋肉は正直です。鍛えれば強くなり、怠ければ消えてなくなってしまいます。高齢者に一番危険なのは足腰の筋肉が衰えることです。当然、足腰が弱るとほとんどの活動ができなくなります。活動は、頭も、身体も、気も使いますから、活動ができないということは、全分野にわたって心身の機能が衰えるということです。それゆえ、「き」-「筋肉、関節、心肺機能、気力、活力、希望と意欲、すべて訓練次第です」ということになります。
 筆者が繰り返し強調して来たように、元気だから活動するのではありません。活動するからお元気を維持できるのです。高齢者に対する生涯教育・生涯スポーツ指導は医療や保健に優るとも劣らぬ高齢社会の必須条件です。高齢者が自らの心身を鍛えることは本人自身の健康維持に役立つことはもとより、医療費を減らし、介護費を減らす最善の方法なのです。「シ 趣味・娯楽、お稽古事の仲間居て、活動するから活力が湧く」のです。
 歩かない人は歩けなくなり、読まない人は読めなくなり、話さない人は話せなくなります。おむつを当てれば、段々自分で用がたせなくなることも分かって来ました。中でも、筋肉と心肺機能は一番正直です。筋トレをやめると、筋肉は萎んでしまいます。筋肉が衰えると、代謝のペースも下がると言います。同じ食事をしても太るのはそのためだと言われます。
 歩かない人は歩こうとしない人です。読まない人は読もうとしない人で、話さない人は、最終的に、話そうとしない人なのです。本人の自覚と姿勢が伴わない限り、部分的に何をやってもだめなのです。高齢者の生き方を決めるのは最終的に「暮らしの姿勢」であり、頭なのです。
 スタミナの元は心肺機能です。階段や運動が辛くなったら心肺機能の低下を疑ってみる必要があります。バテ易いというのは、少し身体を動かしただけで息が上ってしまうことをいいます。「はあはあ」と息が上がるのは心肺機能が弱いということです。心肺機能を鍛えるということは、酸素を取る機能を鍛えるということですから、日常の定期的な運動を欠かさないことです。毎日身体を動かし、ほんの少しでいいですからがんばり続けることです。自立の習慣と「負荷」論とボランティアの勧めを組み合わせると「そ」-「それくらい自分でしよう、がんばって、時には人の、お役に立とう」となります。
高齢者のスタミナ維持には、自立や社交を想定して「ほんの少しオーバーローディング法」を続けることが秘訣です。

(3) 趣味・学習・稽古事など生涯学習による脳や活力のトレーニング

 世間では生き生きと老後の活動をなさっている方を「お元気だからいろいろ活動なさっている」と言いますが、実際は逆です。「いろいろ活動なさっているから、いつまでもお元気を保っていられるのです」。活動は、頭を使い、身体を使い、気を使います。「廃用症候群」の概念が指摘している通り、人間の機能は使わないと衰えます。適切に使い続けていると衰えにくいのです。
 なにより、老後の生涯学習は高齢者の「脳トレ」に最適です。「脳トレ」という生涯学習をするのではなく、生涯学習は最高の「脳トレ」であり、生涯スポーツは最善の「ロコトレ」なのです。「脳トレ」や「ロコトレ」は、「木」に過ぎませんが、生涯教育や生涯スポーツは「森」なのです。生涯教育は生涯活力の元だとお考えください。「の 脳トレは、友とおしゃべり、食事会、朗唱、カラオケ、『現役カルタ』、「け 健康は、自分で作る、生き甲斐は自分が探す、生涯現役心意気」なのです。
 しかし、日本社会の問題は、中央・地方の教育行政が、生涯学習を「個人の選択」の問題にして、従来の社会教育をないがしろにしてきたことです。結果的に、生涯学習を「選んだ人」と「選ばなかった人」の間の「生涯学習格差」が拡大しています。「格差」は、頭に出て、身体に出て、気に出ます。それらが「知識格差」、情報格差」、「健康格差」、「交流格差」、「生きがい格差」、「自尊感情の格差」などです。高齢期に入って、活動しなければ、あらゆる心身の機能が衰えるのは当然の結果なのです。「格差」の拡大も当然の結果なのです。「選んだ人」も「選ばなかった人」も確かに国民自身であり、原則的には、彼自身の責任ですが、政治や行政は「選ばなかったあなたが悪いのです」と言って済ませていいでしょうか?教育に関わる政治家や行政職員の優先すべき事業は、選択の失敗に伴う不幸な「格差」を埋めて行くことなのです。

惹かれ合う男と女
男女共同参画の課題-「新しい男らしさ」とは何か

 福山の男女共同参画センター「イコール福山」の講演が2012年の初仕事でした。早めに到着したので、八田所長さんを始め、関係者とゆっくり話をすることができました。
 男女半々ぐらいの職場とお見受けしましたが、お茶を運んで下さったのは一番若い女性職員でした。男女共同参画が看板ですから、デモンストレーションとして案内して下さった中年男性がお茶の係をするかと想像しましたが、案に相違しました。寒い日だったのでさりげなく置いて行ってくれたお茶の温もりが腹に沁みました。
 講演の終わりに、「母のジレンマ」を説明し、自分の息子だけは不自由させずに育てたいと過保護を止められず「変わりたくない男」を育てているのは「母」だと論じました。また、表で「男女共同参画」を口にして、格好を付けていても、「変わりたくない男」をそのまま放置しているのはあなた方「妻」だとも言いました。女性聴衆の怒りがめらめらと立ち昇るような気がしました。
 最後のまとめは、男女共同参画と性別・性差・「らしさ」の問題に移行しました。男女共同参画が実現して、これまでの「古いらしさ」が消滅したとしても、性別はなくなるはずはなく、男は男、女は女で「新しいらしさ」が生まれる筈であると言いました。これまでの「性別役割分業」を否定したところで男女差を解消して「人間性」などという抽象的な概念に人間を還元できないとも言いました。
 ここは「男女共同参画センターだから、お手本に男性がお茶を入れるのかと考えていたら案に相違して若い女性が持って来て下さった。「雰囲気も和らぎ、お茶もおいしかった」と正直な感想を言いました。途端に、「それって、失礼じゃないんですか?」と聴衆のお一人から「ヤジ」が飛びました。若い女の入れたお茶の方が良かったというのは、所詮おまえも「変わりたくないおやじ」に過ぎぬと思ったのでしょうか!会場の空気が険しくなったような気がしました。しかし、ここからが本論です。小生も皆様と同様、従来の「性別役割分業の固定化」には断固反対です。自分でお茶も入れます。人様にも入れて差し上げます。しかし、一般的に、男が女に惹かれるのは自然ではないでしょうか!?男と女が惹かれ合うのは「種の保存」から言っても自然の摂理に適っているのです、と怒鳴り返しました。
 リハビリ中の老女が「今日の担当は若い『イケメン』だといいのにね」、というのと同じです。老女も若いイケメンに惹かれるのです、と言ったら大半は笑って、納得してくれました。相変わらず、男女共同参画の闘志たちは人間存在の自然性を無視して、建前主義で固いですね。男女共同参画を支援する男は、どんな男だったらいいのでしょう?問題は女性自身が納得できる新しい「男らしさの条件」を一日でも早く青少年に提示して彼らに指針を与えていただきたいものです。

「所有」の虐待
虐待の4類型-崩壊した「さじ加減」の常識

 Nobody Owns Me.

アメリカのテレビドラマを見ていたら、「おれの女」だと言い争った二人の男が最後は争いが高じて殴り合いになりました。当事者の女性は「あたしは誰のものでもない(Nobody owns me)」と厳しく言い放ち、二人の男たちに冷たい一瞥をくれて立ち去りました。
 人の性格にもよるのでしょうが、筆者のような年寄りでも一瞬女性の格好良さにしびれました。愛は複雑です。「尽くし足りない私が悪い(大阪しぐれ)」という愛もあれば、「ついて来いとは言わぬのに、黙って後からついて来た(夫婦春秋)」という愛もあります。前者は奉仕の愛、後者は従順の愛とでも言いましょうか。しかし、愛は時に所有であり、支配であり、時に略奪でもあります。かつて、有島武郎は「惜しみなく愛は奪う」(新潮文庫)と恋愛論のタイトルにしました。
 親が子どもを所有した時、その愛情表現の多くは「過干渉」になります。親は養育者であり、保護者ですから、親の愛に対して、通常子どもは無力です。子どもは、上記の女性のようにNobody owns me.(誰も私を所有などできない)と親に言う術は持っていません。そこから所有の虐待が始まるのです。所有の虐待とは「愛で支配する」ということです。「オレの子どもに何をしようと勝手だ」という「おやじ」もいれば、「あたしの子育てに干渉しないで」という母親もいます。彼らは意識しているか否かは別として子どもは自分の「所有物」だと思っているのでしょう。当然、過保護にも過干渉にもなります。悪気はなくても、子どもの自由は認めません。子どもを「所有」することを「やさしい虐待」という人もいます。時々、少年スポーツやブラスバンドの指導者にもこの種の人間がいます。ストーカーの中にもいます。
 筆者のような性格の子どもにはとても耐えられることではありません。筆者もまたNobody owns meという女性のように生きたいのです。

1 成長要素のバランスは生物の条件

 「食育」の基本がバランス論であるように、あらゆる生き物の成長には成長を促す要素とそのバランスが不可欠です。農夫が作物を育てる時、庭仕事の好きな人々が草花を育てるとき、成長要素をバランス良く組み合わせることは常識です。あらゆる植物には陽光も水も、窒素・リン酸・カリのような肥料の3要素などをバランス良く組み合わせることが重要だと私たちは知っています。医者の薬も患者の症状に併せて、調合するのが「さじ加減」の語源でしょう。料理の味付けにも関係があるかも知れません。
 子どもの養育も同じことです。健全な発達に必要な成長の条件を組み合わせてそれらのバランスが極端に崩れないようにすることが重要です。古来、子育ての格言にバランスを強調したものが多いのも「指導のさじ加減」を考慮したものです。例えば、「文武両道」などはその典型です。「よく学び、よく遊ぶ」や「可愛くば五つ教えて、三つ褒め、二つ叱って良き人と為せ」などもそうでしょう。バランスは生物がより良く生存するための基本条件なのです。

2 虐待の4類型

 憎悪に基づく虐待は問題外として、「放任」、「過保護」、「過干渉」という子育て上の「さじ加減」の失敗も、最終的には虐待に行き着きます。放任から過干渉まで、これら3つのケースはいずれも養育条件のバランスを著しく欠いた形態です。したがって、子どもはどの場合でも健全に発達を遂げることは難しくなります。さらに、これらの三状態が極度のレベルに達すると、発達に支障を来すどころか、虐待になります。
 通常の暴力的虐待は憎悪を根源とし、「放任」と「過干渉」を伴う暴言や暴行が主たる内容の虐待です。
 放任は「保護・養育」機能の放棄です。自立・自活のできない子どもにとっては、無言の暴言であり、暴力に匹敵します。「飯を喰わせない」などというのは昔から糧道を断つと言って、生き物である人間にとっては暴力以外の何ものでもないでしょう。
 これに対して、過保護も、過干渉も著しい「暴言」や「暴行」は伴いません。「やさしい虐待」と呼ばれる所以でしょう。  
「過保護」は「甘い毒を与え」、自立のトレーニングを妨げる」「不作為」の虐待です。「過干渉」は「子どもの自由を奪い」、「子どもを支配する」虐待です。

3 放任の酷

「放任」は世話をしない「保護機能の放棄」に繋がります。極端な「放任」は、実質的な「養育放棄」ですから、子どもの世話をしないということです。日本の親は別名保護者と呼ばれ、まだ自立できていない子どもの「保護」を担当することを任務としています。もちろん、保護とは、何度も繰り返し説明して来たように、まだ自立できていない子どもたちに「世話」、「指示」、「授与」「受容」を与えることを基本内容とします。子どもが幼ければ、「保護」なしでは生存が危ぶまれます。極端な放任は「おまえの世話はしない」ということですから、実質は「死ね!」というに等しいことです。一人で生きることのできない子どもにとって過酷な虐待であることは自明でしょう。さしずめ「早寝、早起き、朝ご飯」など生活リズムの指導のできない親は「保護放棄」の虐待の一歩を踏み出しているのです。

4 過保護の「甘い毒」

 極端な「過保護」は、筆者が名付けた「甘い毒」になります。可愛がっているつもりの保護者や爺婆は怒るでしょうが、見ようによっては、過保護も疑いなく「不作為」の虐待です。子どもを「保護」することは、彼らの未来の自立を前提とした過渡的なプロセスです。それゆえ、あらゆる「保護」のプロセスは、自立のための訓練と組み合わせることが重要です。保護をしながら自立のトレーニングをするということです。
 子どものできないことは、世話や指示をしながら、他方では、「自分でやってごらん」、「自分で決めなさい」、という指導を組み合わせて行くのです。養育における保護は、自立への指導と応援を含んでいるのです。それゆえ、自立の指導と困難への挑戦を忘れた保護は応援にはならず、「甘い毒」になります。
 子どもは、「負荷」の大きいトレーニングより、現時点での「甘い毒」の方を好みますから、保護に当たる者が指導しない限り、楽な方を選びます。フロイドが「快楽原則」と名付けた人間の自然です。子どもに限らず人間は特別な条件がない限り「楽」な方、「快適」な方を選ぶということです。
 子どもは自分を見守ってくれる人々の厳しさに打たれ、やさしい指導に励まされて自立のトレーニングに耐えて行きます。過保護とは、自立のトレーニングを伴わない「保護のための保護」を意味しますから、不作為の虐待です。「甘い毒」はやがて子どもの全身に廻って、子どもの体力や耐性を蝕み、ほんの少しの負荷にも耐えられなくなります。保護のための保護も、一見、表面上は、子どもにやさしく見えますが、結果的に、子どもの人生の基本条件を崩壊させることになります。子どもの欲するものを与えて必要なものを与えないのは口当たりのいい「甘い毒」を与え続けるのと同じなのです。

5 所有の虐待

 所有の虐待は過干渉による虐待です。子どもを愛しているのですから、大抵の親は自分が虐待をしているなどとはつゆ思わないでしょう。しかし、子どもは真綿で首を絞められるように自由を認められないのです。
 親の愛が虐待になるか否かは、子どもの性格にもよると冒頭の「囲み」にも書きました。相対的に強い「自我」を持たない子どもは、親の愛だけを感じて、自分が常に拘束されているとは感じないかも知れません。確かに、従順な子、素直な子、反抗しない子という子どももいるのです。しかし、総体的に強い「自我」、明確な「自分」を持っている子どももいるのです。そうした子どもたちにとって、この世には、ありがたいことでも、迷惑なことは沢山あるのです。「愛」もその一つです。
 「ありがた迷惑」も「お節介」も過干渉の変態形です。失敗も成功も、前進も後退も自分で決めようとする人間には、過干渉は「余計なお世話」だということになるのです。
 しかし、相手は親切や愛や奉仕のつもりですから、自己の愛や行為が相手を拘束しているなどという意識はなく、恐らく多くの過干渉者は想像もできないのです。むしろ、いつも「なぜ思いが届かないのか」と苛立ち、もっとこまめに、もっと親切に干渉することになるのです。善意の(?)ストーカー行為を思い出させます。
 相手の親切が干渉だと思ったとき、あるいは愛が支配だと感じ、自分の自由は許されないと思ったとき、子どもも大人も、最後は、「もういい」から「放っておいて」ということになるのです。時に、子どもは親が最も干渉する学業を放棄して不登校になるのです。

§MESSAGE TO AND FROM§ 

 古希を過ぎて季節を刻む時計がますます早くなったように感じております。それに反比例するかのように「やりたいこと」、「やらねばならないこと」が増えて行くようにも思えます。人間の「業」の深さを感じます。先月号のスペースが足りなくなり、お礼が遅くなりました。たくさんの方々から過分の郵送・印刷費を頂戴致しました。激励を無にしないよう「回遊魚」たるべき本領を発揮してがんばります。誠にありがとうございました。
 皆様のご厚情に応え、晩学の成果を上げるべく、体操を欠かさず、読み書きを欠かさず、外に出ない日は大声で漢詩や和歌を朗誦して己の活力の維持に励んでおります。
去る、1月23日、予定より1か月遅れましたが、新刊「熟年の自分史-人生のラストメッセージを書こう」(学文社)を上梓いたしました。ご笑覧いただければ幸いでございます。

御礼-過分の印刷郵送料をありがとうございました。

福岡県宗像市 赤岩喜代子 様
福岡県岡垣町 神谷 剛 様
福岡市 菊川律子 様
北海道札幌市 水谷紀子 様
北九州市 古川雅子 様
福岡県宗像市 岡嵜八重子 様
福岡県朝倉市 手島 優 様
福岡県八女市 杉山信行 様
福岡県小郡市 樋口智鶴子 様
福岡県宗像市 大島まな 様
北九州市 小中倫子 様
福岡県宗像市 牧原房代 様
埼玉県越谷市 小河原政子 様
福岡県宗像市 賀久はつ 様
佐賀県佐賀市 紫園来未 様
北九州市 永渕美法 様
大分県日田市 安心院光義様
福岡県嘉麻市 永水正博 様
福岡県宗像市 田原敏美 様
宮崎県宮崎市 飛田 洋 様
千葉県印西市 鈴木和江 様
佐賀県佐賀市 城野眞澄 様

146号お知らせ

1 第117回生涯教育まちづくり移動フォーラムin大分(「活力・発展・安心」デザイン実践交流会:大分大会)

1 日程:2月25日(土)10:30-26(日)正午まで
2 場所/会場:会場:「梅園の里」
  (大分県国東市安岐町富清2244、TEL0978-64-6300)
3 プログラム:
基調提案:地域と共に育ち、輝く高校生 ~県立国東高校JRCの活動から~
大分県立国東高等学校

第1分科会:学校や地域活動のために子どもと地域住民を繋いだ取り組み:5事例
第2分科会:子どもの体験・交流を充実する具体的な取り組み:5事例

特別講演:無縁社会の発生源と「協働」の方法 三浦清一郎
記念講演:「協育の協働」の動向
~大分県「協育」ネットワーク協議会の設立~、中川忠宣
テーマを語ろう リレートーク/会場参加者による全体討論、ファシリテーター:岡田正彦
4 参加費:500円、宿泊費は別
5 問い合せ先:事務局:大分大学高等教育開発センター;中川忠宣(TEL/FAX097-554-6027)または東国東デザイン会議事務局 冨永六男(TEL0978-65-0396,FAX0978-65-0399)

2 第118回生涯教育まちづくり移動フォーラムin佐賀・勧興公民館

共 催 : 佐賀市勧興公民館、生涯教育実践研究交流会福岡実行委員会
後 援 : 佐賀市教育委員会、佐賀市公民館連合会
日 時 : 平成24年3月16日(金)10:00-16:00
場 所 : 佐賀市勧興公民館(佐賀市成章町3-18)
参加費 : 無 料
プログラム:
午前の部:10:00-12:00
勧興公民館主催:「かささぎ学級」(公開/午前中から参加される方々には勧興公民館が軽食を準備して下さいます。)
講義:「熟年の危機と無縁社会-カギは活動に在り」 三浦清一郎
午後の部:13:30-16:00
インタビュ―・ダイアローグ
『老いの身の一人を生きる』
健康、生きがい、ぼけ防止の態度・姿勢・心構え・実践とは何か

「お一人様の老後(上野千鶴子)」がベストセラーとなり、高齢者の結婚相談事業が「シルバーロマンス産業」としてビジネス化しました。老後の「一人暮らし」が注目を浴びるようになりました。一方で、「無縁社会」の中で孤立化し、引き蘢り、急速に老衰が進む高齢者も目立つようになりました。「孤独死」はその極限の事例です。「老いの身は 二人いてさえ、寂しいものを まして一人をどう生きる」。
今回は、「無縁社会」で一人を生きる老いの身の、健康、生きがい、ぼけ防止のための態度・姿勢・心構え・実践力とは何か、を探ります。

コーディネーター :
古市勝也さん(九州共立大教授)
登壇者 : 香田喬子さん(佐賀市在住者) 
     高木博さん(佐賀市在住者) 
     大石正人さん(太宰府在住者)
     川副孝行さん(佐賀市在住者)
     三浦清一郎さん(宗像市在住)

 ※ 勧興公民館の駐車スペースは、あまり多くないため、できるだけ公共交通機関等でお出で下さい。
問い合わせ:佐賀市勧興公民館、0952-23-6303

編集後記-蒼い空

ああこんな青空だったかと
久々に空を仰ぎます
花があるのに花が見えず
月があるのに月を忘れ
哀れ、こうもなるものか
犬たちがこんなに忠義なのに
粗相ばかりが目について
食育の原稿書きながら
茶漬けばかりを食っています。
あなたはこんなにやさしいのに
愚痴と不平を聞かせました
多忙は心を失います
多くの思いをなくします
年度末です、耳元で
狂想曲が鳴りました

 世間は勝手を許しません。がんばるだけではだめだと言う。自分流もだめだと言う。マグロだろうとADHD大人版であろうと勝手な回遊は許さない。人生に時間割があり、締め切りがあり、ADHD回遊魚の受難です。確定申告は3月15日まで、70歳の運転免許特別講習ももうすぐです。葬儀の後始末は狂気の沙汰で、義理の会議も目白押しです。「風の便り」も約束です。月に一度の宣言です。約束したでしょう。守りなさい。仕事はみんな「契約」です。「しめきり」も「でき」も問われます。正月陽気な回遊魚、終われば暗い年度末。狂想曲が響きます。今じゃ陰気なカタツムリ。追われて今日も一歩ずつ。

がんばれ がんばれ かたつむり

十日のうちに仕上げよと
追われて 歩む かたつむり
約束は約束ですから かたつむり
戻っちゃだめよ かたつむり 
前進あるのみ かたつむり
がんばれ がんばれ かたつむり
つまらなくても世の中です
がまんするのが人生です

かたつむり今日はどこまで行ったやら
日が暮れて明日はどこまで行くのやら
寒気は天に満ち満ちて
夕べの月が出ています
あなたに褒めてもらいたい
一歩ずつです かたつむり
歯を食いしばり かたつむり