「風の便り 」(第143号)

発行日:平成23年11月
発行者 三浦清一郎

 アメリカへの旅は無事終りました。亡き妻の後始末と長年世話になった方々へのお礼と別れの挨拶を告げました。40年前の母校を訪ね、アパラチア山脈の光り輝く紅葉の海を見ました。テネシー州からメイン州まで山脈の尾根道を走る「蒼い公園道路(Blue Ridge Parkway)」を走りました。今生の見納めと思えば別れがたい風景でした。
 光るすすき
 金色に舞い散る落葉
 精神の風車が周り
 時の女神が踊り
 40年の記憶が巡る
 帰郷は今生の別れ
 最後の10年への旅立ち
 過去は未来の糧となるか
 人生は最後まで試験が続く

アメリカ通信1
 Fight Like a Girl(女の子のように戦え!!)

 アメリカの町の本屋で上記のようなタイトルを大書したピンク色の本を見つけました。筆者の英語の常識でも「変な表現」だと思ったので興味を引かれました。「女の子のように戦う」という言い方は、アメリカの「筋肉文化」の軽蔑的な表現です。取っ組み合いや殴り合いで、喧嘩の出来ない「女々しい」(英語はsissyと言います)男の子を馬鹿にした言い方だったからです。要するに「女の子」の喧嘩は「引っ掻いたり」、「髪の毛を引っぱったり」、「叫んだり」、「泣きわめいたり」するくらいが精々(失礼!最近は違うのかも知れませんね!)で「男の子」のすることではないという意味です。それゆえ、「おまえは女の子のようにしか喧嘩が出来ないのか!」と言われることは「男の子」にとって極めて侮辱的で文化的にマイナスの意味がこもっているのです。
 手に取ってめくってみてタイトルの意味が分かりました。当該の本は乳癌の予防、乳癌と闘うことを推奨する内容の本でした。どこの国でも女性が乳癌の危機におののいていることは同じです。アメリカの女性もそれぞれが孤独で勇敢な戦いを続けているのでしょう。「女は乳癌とこのように戦っているのだ」、「あなたも戦いなさい」というのが、「Fight Like a Girl」のタイトルに込められた意味だと知りました。
 誠に見事な逆転の発想で、乳癌との戦いを推奨する鮮烈なメッセージはもとより、アメリカ流筋肉文化への痛烈な批判も込めたスローガンでもあったことに唸りました。男は「女の子」のように人生の危機に正面から立ち向えるか、と問われていると解釈すれば、本書のタイトルは挑戦のタイトルでもあるのでしょう。アメリカ女性の人生への意欲と姿勢を示す面目躍如たる抜群の発想の逆転、抜群の言語表現センスだと感服いたしました。

アメリカ通信2
日本に来て変質した「生涯学習論」!?

 北九州市の西之原技術監理室長から九女大の大島まな准教授に「生涯学習か、生涯教育か」をめぐる議論の参考資料がないかとご質問があったと聞いていたので資料に当たってみました。幸い北カロライナのウィンストン・セーラムには西南学院大学の姉妹校のWake Forrest大学があります。20年振りでそこの図書館に座りました。
 2日間しかなかったので全ての資料を見たわけではありませんが、答は見つかりました。

1 「生涯学習法1976」の目的は変化に適応する為の「教育の再編成」でした。

 モンデール上院委員(後にカーター政権の副大統領)の提案には次のように書いてありました。この法律の意図は、人生の全時点において国民が変化に適応する為の教育を準備することである。原文は以下の通りです。All of us, regardless of age, encounter a series of demands, and we must shape education in its broadest sense to help us meet these demands.(Richard E. Peterson and associates, Lifelong Learning in America, Jossey-Bass Publishers, 1979, p.294)

上記の下線部は教育の形を変えるという意味です。この法律は既存の高等教育法(Higher Education Act)の修正法として1975年の10月に提出されています。同年の公聴会ではほとんどの証人が賛成しましたが、フォード政権時の国立教育研究所のホッジキンソン所長だけが反対したと記録にあります。理由は当時の教育局や教育研究所の教育責任が曖昧になるというものでした。(同上資料p.294)

2 「教育的支援」を強調せよ

 また、モンデール法の原案を審議した上院の委員会は次の2点を修正したとあります。
 第1は、原案の「Lifetime」を「Lifelong」に変更すること、第2は、教育局の中に屋上屋を重ねて「Office of Lifelong Learning」を作ることはまかりならぬ、ということでした。
 上院委員会の意見は「Lifelong Learningの意味付けにsocial, technological, political and economic な変化に市民が適応することを教育的に支援することであるということを強調せよ、ということでした。下線部の原文は、Role of education assisting citizensです。
 法律の名称に「学習」を使用しても中身の強調点は教育であったということです。
 また、下院の議論では成人・継続教育法が存在するのに新法はどこが違うのかという反対の議論もあったそうです。アメリカの学校の多くはすでに市民に開かれたものになっていました。日本の場合のように、生涯教育(生涯学習)概念を用いて学校を開かせる必要はなかったので、重複法であるという議論は正当であったろうと思います。
 生涯学習論は日本に来て社会教育を浸食し、社会教育が有していた公教育機能を削除し、当時の民主化要求に迎合して「学習」を一人歩きさせたのではなかったでしょうか。

3 生涯学習は生涯プロジェクトであるべき

 最後に、「生涯学習法1976」の成立に尽力したアメリカの教育局(教育省に当たる)のVirginia Smithは、生涯学習は生涯プロジェクトであるべきで、概念や調整機能を意味すべきではない、と指摘しています(同上資料p.300)しかし、日本では彼女が恐れた通りになったのではないでしょうか。
 図書館では次に、オックスフォード大学出版部が出した最新版「The Oxford Handbook of Lifelong Learning, 2011 」を見ました。「教育」か「学習」かの論争は未だに続いていました。不毛な議論を続けることはどこの国の研究者も同じだなと感じましたが、この問題は次号に報告いたします。専門分野の重箱の隅をつつくような議論ですので退屈に思われましたら、どうぞ平にご容赦下さい。

アメリカ通信3
Shut-ins(閉じこもり)の高齢者

 初めて「引き蘢り」または「閉じこもり」の英語を聞きました。Shut-ins というのです。Shut-inはShutout(閉め出す)の反対です。野球では相手に点を与えない「完封」勝ちということですね。Shut-insは別名Homeboundとも言うそうです。こちらはジョン・デンバーの歌に出て来るように「ふるさと方面行き」とか「自宅行き」という意味です。カーナビの「自宅に帰る」と同じ意味です。
 外の用事を終り、または外への興味を失い、思いが自分の家の方ばかりを向いているということです。
 やはりアメリカの高齢者も心身の衰えに伴い、退職後の活動経験の乏しい方々は、ほかのみんなと同じようなペースを保てなくなるので徐々に世間から離れて行くのでしょう。ご近所にもShut-insが相当数いるという話でした。アメリカ在住の義妹は週に一度、自分が通う教会のボランティア組織の一員として、引き蘢りの高齢者を訪ねて話し相手になっているということでした。介護を専門とする担当者は、別に福祉の部門から派遣されているけれど、それだけでは情緒面のケアまでは手が回らないという判断が背景にあるということでした。引き蘢っている本人もその家族もなかなか他人を家の中に入れたがらないという事情はアメリカも日本と共通のようですが、日常の教会活動の歴史が背景にあるということが信用の基盤になっていることは明らかでした。日本の民生委員さんの活動にはそうした文化的背景が存在しないのでご苦労が一層増すのだろうと思いました。プライバシーの尊重については日本以上に厳しいアメリカですが、教会文化が掲げる「汝の隣人を愛せよ」という理念が「個人情報保護法」のような一律的で馬鹿げた法律の跋扈する余地をなくしているのでしょう。町内の緊急時の電話連絡網を作るに際してもいちいち法律を持ち出す愚かな人々の存在を許している以上、日本の高齢者が民生委員さんの助けを得ることはどんなに難しいことでしょうか!
 また、教会活動が万能であるはずはないとしても、日本の仏教(例外はあるのでしょうが・・・)が日常の人々の救済ではほぼ無力に等しいという事実は周りを見れば明らかです。彼我の文化的事情が違うとは言え、日本の宗教人は何をしているのかと考えさせられたことでした。

アメリカ通信4
Play 60(一日60分は外で遊べ)

1 プロスポーツの社会的責任

義弟とテレビの大学対抗アメリカンフットボールの試合を見ていたら、ハーフタイムやコマーシャルの合間に頻繁にPlay 60の文字が出て来ました。あれは、誰がどういう意味を込めているのかと聞いてみたらNFL(全米フットボール協会)が、コンピュータ-・ゲームなどに熱中して外で遊ばなくなった子どもたちを心配してキャンペーンを打っているのだという説明でした。
 子ども達の憧れの的のアメフトのヒーロー達が入れ替わり立ち替わり、“おい、外で遊べよ”と子どもに語りかけるメッセージはさぞ効果も大きいだろうと感心して見ていました。どの時代でも「スター」は文化や教育をリードするモデルの役割を果たして来たのですが、テレビが家庭の中に完全に入り込んだ時代は一層その責任が重い筈です。テレビが承認しているということは、それだけで「世間が承認している」ことと等値されるからです。マスコミの「社会的承認」の機能として広く知られているところです。しかも、テレビ・メディアとテレビ・スターが結合すれば、「選ばれた者」が持つ「地位付与」の機能が増幅され、スターが発信するメッセージはメディアの権威と統合して巨大な説得力を生み出すことになります。NFLはこのことを自覚的に活用して、プロスポーツの社会的責任を果たそうとしていると言って間違いないでしょう。

2 歴史に「if(もし)」はないけれど・・

 野球でもフットボールでも、アメリカのプロスポーツ界がスポーツを通して社会が必要としているメッセージを送ろうとする姿勢は到底日本のスポーツ界の及ぶところではないとかねがね論じて来たところです。今回もNFLは、コマーシャルの時間(NFLの収入減或いは支出増になるであろう時間)を削ってまで、学校や保護者に先んじて子どもの教育的必要に対応しようという姿勢はお見事というしかありませんでした。
 アメリカのプロスポーツでは、試合の前に当代の人気歌手を招待して、それこそ入れ替わり立ち替わりアメリカ国歌やアメリカ讃歌を観客に聞かせ、また一緒に歌います。移民の国はそうしなければならないという事情もあるのでしょうが、プロスポーツ界がその役目を負わなければならないという理由はない筈です。一流の歌手を招いて国歌を歌うというのは、スポーツ・イベントを盛り上げるためだけでない、配慮を感じて来ました。
 歴史に「if(もし)」はないけれど、日本の文科省がもう少し目を世界に向ければ、モデルはあったのです。昨今のAKB48のような、子どもたちに人気のアイドル達を雇って、プロスポーツ界に要請し、あらゆるプロスポーツのセレモニーの一環として国歌を導入していれば、学校の入学式や卒業式で国歌を歌うべきか歌うべきでないかというような不毛なイデオロギー上の争いは早晩消滅していたことでしょう。児童・生徒やその保護者をイデオロギー上の対立に巻き込んだり、教員組合ともめて処罰者を出したり、校長さんの自殺者を出したりすることもなくて済んだかも知れません。スポーツ界や行政が、スポーツのあり方も国を思う気持ちも、文化として国民と一緒に育てて行くものだと理解していれば、自然に国歌を歌う子どもたちを育てることはできた筈だと未だに残念に思います。

3 未知との遭遇

 NFLが心配しているように、アメリカも日本も、子どもの「巣ごもり」現象は似たところがあります。子どもは「自然的存在」なのにほとんど外で遊ばない(遊べない)ようになれば、自分の中の自然的要素をどのように理解する人間が育つのか、壮大な「動物実験」をやっているような気がします。霊長類ヒト科の動物が幼少期に社会的集団の中で自然を素材とした体験活動をしなくなったという社会は人間の歴史にいまだ登場したことがありません。これまで「ヒト科の動物」は社会集団と自然の中の教育と学習を通して「人間」になって来ました。「巣ごもり」をして社会集団にも、自然にも接する機会を喪失し始めた時、子どもに何が起こるのか、人類はまだ知らないのです。遊ばない子ども、遊べない子どもはまさしく人類にとって「未知との遭遇」なのです。

アメリカ通信5
ウオッシュレットとバード・フィーダー
-文化伝搬の不思議-

(1)ウオッシュレット

 アメリカでは義妹夫妻のところで世話になり、何から何まで彼らの助けを得て、亡妻の遺産の処理から大学図書館の調べものまで果たすべきことを全て果たすことができました。今回は彼らの献身的なお世話に報いようと特別のプレゼントを準備して参りました。それが日本文化の生んだウオッシュレットです。
 アトランタの空港の男子トイレにTOTOの小便器があったのでいよいよ日本の衛生機器メーカーもアメリカ南部まで進出して来たかとある種の感慨がありました。40年前、フォード・トラクターのディーラーをしていた義父のところに全く英語の分からないクボタ農機の営業担当が販路の開拓に来た時、筆者もまた日本企業の営業担当になったつもりで胸躍らせて通訳を務めました。恐らく、義父は北キャロライナでも早い方のクボタ農機の代理店だったことでしょう。義父の依頼で大きな横板に英語と日本語でクボタ・ガーデン・トラクター代理店と書いて看板を上げたものでした。小回りの利くクボタのトラクターはアメリカの菜園で人気の商品になったと聞きました。トラクターはアメリカに発する文化だったので、日本製であっても導入に際して心理的な抵抗は全くなかったのでしょう。
 ところがウオッシュレットは話が違いました。アメリカ在住の娘と筆者が二人掛かりでその効用と爽快感を説いたにもかかわらず、義妹夫妻は最後までうさんくさそうに筆者を見つめるだけで最後まで「うん」とは言いませんでした。トイレ文化は、日本製トラクターの導入とは別物のようで、筆者が準備して行った特別プレゼントは不発に終りました。
 日本では長い間手洗いを「ご不浄」と呼んできました。「不浄」とは概念上、清潔ではないところなのです。恐らく何処の家庭でも手洗い用のスリッパは特別で、便所のスリッパを履いて居間に入ることは非常識のそしりを免れないことでしょう。事はすでにトイレの衛生問題ではなく、きれい好きな日本人の文化問題なのです。ホームセンターに並ぶ家庭用品コーナーのトイレ関連グッズの多様さには驚かされますが、これも衛生問題ではなく文化問題なのだと思います。今や、日本の多くの家庭からトイレの衛生問題は消滅しています。むしろ取り散らかした子ども部屋より清潔であると言っても間違いではないかも知れません。しかし、未だに、トイレのスリッパはトイレだけの使用に限定されていることでしょう。
 日本文化が十分に身に付いていない中学生などが学校の便所で「トイレ飯」を喰うという話も知っています。このように事実上、トイレはもはや特別に不衛生なところではないのです。しかし、多くの日本人の感覚には「ご不浄」概念が強く残っているのでトイレのスリッパだけは特別扱いなのだと思われます。「便所掃除」も他の掃除と違って「特別の掃除」になっている筈です。そうしたきれい好き文化の背景の中から生み出されたものがウオッシュレットだったのです。ウオッシュレットはきれい好き日本文化を象徴しているのです。説得しながら我ながら吹き出したのですが、ウオッシュレット文化論は日本人の尻が如何にきれいで、アメリカ人の尻が如何に汚いかを説くはめになりました。義妹夫妻がしらけるのも無理はないですね。最後は、採用すればこの町で「行列のできるトイレ」になるとまで言ったのですが失敗でした。

(2)自分への土産はバードフィーダー

 バードフィーダーとは小鳥にえさをやるえさ台の事です。こちらは逆に欧米の文化的産物のようです。アメリカの住宅街を散歩すると何処のお宅にも洒落たバードフィーダーがあって色とりどりの小鳥が寄って来て餌をついばんでいます。見ているだけでも楽しくなります。筆者のアメリカ時代はいずれも借家でしたが、庭にバードフィーダーを置いて小鳥を招く事はアメリカ生活の楽しみの一つでした。鳥の名前も図鑑を傍らに置いて沢山憶えました。ところが以前日本に持ち帰ったバードフィーダーが老朽化して壊れたので、わが街のお店を探しまわったのですが何処にもありません。恐らく、日本の文化概念に庭で小鳥にえさをやるという楽しみ方が存在しないのでしょう。花鳥風月を楽しむ事は日本の風流と粋を代表する文化精神だと思うのですが、花を作ったり、月見をしたり、風鈴を吊るして風を楽しむことはあっても、鳥を庭に寄せるという事はしないのですね。
 アメリカと日本は時として、お互いにお互いのことを知らないバードフィーダーとウオッシュレットが対話をするようなところがあるのでしょう。異文化間のコミュニケーションはなかなか難しい事なのです。
まずは「論より証拠」だと思い、筆者は、奮発して、赤い屋根の付いた家型の可愛いバードフィーダーを分解して土産にもって帰りました。
 暇ができたら組み立てて餌を入れて庭に置き、友人たちにも披露するつもりです。さて、日本の小鳥は筆者を訪ねて来てくれるでしょうか!?

「脳トレ」の基本は「読み、書き、交流、情報収集」です

 福岡県岡垣町の団塊世代のライフスタイル講座に呼んで頂きました。講義を終ったら「もの忘れ」が多くなったという男性受講者から「脳トレ」の具体的方法についてご質問がありました。
 年をとれば脳の老化は当たり前ですから「もの忘れ」も当たり前ですが、筆者が日常実践している詩歌の音読や朗唱やメル友との交信や「風の便り」の執筆などを紹介するに留めました。説明が足りなかったな、と反省しています。改めて一文を書いてみたという次第です。

(1)「読み、書き、交流、情報収集」

 東北大学の川島隆太先生のご研究以来、脳の活性化法が大部分かって来ました。公文出版からは「痴呆に挑む」という特別養護老人ホームにおける「脳トレ」の実践記録も出ています。「脳トレ」を謳った市販の教材も書店に並ぶようになりました。しかし、日常生活に「読み、書き、交流、情報収集」を日課として組み込んでいらっしゃる方々にとっては、特別のトレーニングは必要ありません。日々、新聞・雑誌・小説などを読み、読んだ事を日記や手紙に書いたり、メール通信の交換をしたりすれば「読み、書き」については十分でしょう。問題は手紙やメールを交換する「交流」の相手がいるかどうか、です。交流とは人間相互のコミュニケーションを意味します。それゆえ、友だちや仲間の存在が非常に重要になります。ところが、高齢期の特徴は過去の人間関係が希薄になり、職場の縁も、地縁も、時に血縁ですら遠くなります。多くの高齢者が近距離に語り合う友もいなくなり、孤立と孤独の中で暮らさなければならないということが起こるのです。交流の相手が居なくなれば、コミュニケーションが取れませんから話す機会も書く機会もなくなるということです。
 高齢者が集団に参加して生涯学習やボランティア活動を続ける事が決定的に大事になります。活動は活動者に「活動の縁」をもたらすからです。「活動の縁」とは、趣味、お稽古事などを通して繋がる「同好の縁」、学習を通して生まれる「学びの縁」、ボランティアや社会貢献を通して結ばれる「志の縁」などがあります。それゆえ、高齢期に活動から遠ざかった人は「出会いの縁」からも遠ざかって、孤立する危険があるのです。

(2)活動が原点

 活動は「目標」と「内容」と「方法」で出来ています。何を達成したいのか、何を目指すのかが目標です。目標の実現のために何をするかが「内容」です。活動を進めるためには、何処で、誰と、いつ、どんな風に、どのくらいお金と時間をかけるのかを決めることが不可欠です。これらを決めて、活動を上手く進めるためには、人に尋ねたり、本を読んだり、インターネットで探したりすることが不可欠です。活動が情報収集や勉強に繋がるのはそのためです。
 活動は人間の生きる力を維持する原点です。就中、労働を離れた高齢者の活力の原点です。結論的に、日々の活動をしている人は「脳トレ」もしているということです。筆者の講演のテーマですが、「お元気だから活動するのではないのです。活動なさっているからお元気を保つことができるのです」。「脳トレ」も、「活力」の維持も全て日常の多彩な活動の中で行なわれているのです。労働を離れ、活動を見つけることができなければ人間の心身は一気に衰え、やがて高齢者は滅ぶのです。医者は「廃用症候群」と呼び、筆者は「負荷の教育」論と唱えています。「安楽な余生」は人間の衰弱を加速するのです。

お知らせとお礼

1 第114回生涯教育移動フォーラムin長崎にご参加の皆様、雨の中を遠路有り難うございました。

 長崎の「草社の会」の皆様の心意気に福岡も大分も佐賀も応えた形になりました。これからは長崎県内を持ち回りにして会場を設定するというお話しでした。1回目の緊張が薄れて2回目以降は難しいものですが、来年の再会を期待しております。

2 第115回生涯教育移動フォーラムin廿日市

 広島の準備は整いました。どうぞ奮ってご参加ください。日時会場は以下の通りです。
日時:平成23年12月10日(土)(13:00-21:00)11日(日)(9:00-12:00)
会場:(発表・協議:広島県廿日市市「市民大野図書館」、交流会:宮浜リフレクラブ) 
主要プログラムについては前号:142号をご参照下さい。

* 山口の「Volovoloの会」は日程だけが決まっております。1/21-22(土-日)です。新年のスケジュールに入れて頂けると幸いです。
* 2012年の最初の「生涯教育フォーラムin福岡」は1/28(土曜日)です。山口の勉強会に続きますが、第31回中国・四国・九州地区生涯教育実践研究交流会の第1回実行委員会とフォーラムを抱き合わせにして同日に行う予定です。
* 例年通り、大分のフォーラムは2月の最終週末(2/25-26)に行なわれる予定ですが、まだ詳細の連絡は届いておりません。

更新の季節がめぐって来ました

 皆様のご支援の賜物で、「風の便り」は、来年2012年には12年目に入ります。元気に書き続けて来たことは、振り返って皆様に蔭に日向に守って頂いたような気がします。インターネットの時代が来ましたが、引き続きわざわざハードコピーを依頼される方々の遠回しの思いやりも察しております。本当にありがとうございました。もちろん、読者は何百人と移り変わりましたが、移り変わることのない読者もいらっしゃることは重々承知しております。重ね重ねありがたくお礼申し上げます。
 筆者も古希を越え、最後の10年を生きると宣言して、新しい一人暮しの日々を生き始めております。「The Active Senior-これからの人生」を書き、「安楽余生やめますか、それとも人間やめますか」を書きました。今年中に「熟年の自分史-人生のラストメッセージを書こう」が出ます。倒れるまでは書き続けますが、途中で倒れることも予想しておかざるを得ません。その時は郵送料も印刷代もお返しできません。恐縮ですが、小生への香典とお諦め下さい。メッセージカードを同封します。今年もお付き合い頂ける方は、ご意見・ご感想などご自由にしたためて2千円を添えてお送り下さい。
 また、メルマガをご希望の方は、その旨を新しいメールアドレスまでお知らせ下さい。

§MESSAGE TO AND FROM§ 

 アメリカから戻りました。若き日の思い出にも40年付き合った彼の地の人々にも今生の別れを告げて参りました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。

山口県長門市 藤田千勢 様

 家出娘の件はあなたの責任ではありません。我慢すること(耐性)を教えなかった現代っ子の教育公害に直面しておられるのです。
 唯一の保護者であるあなたを失えばどんな運命が待っているか彼女も分かっているのです。分かった上で、自分の欲望とあなたのやさしさ(甘さ)を天秤にかけて試しているのです。
 許してやるという判断をなさったとしても、以後は彼女があなたの指示を確実に守る旨の誓約書を書かせて下さい。約束なしでお許しになってはなりません。子どもには、世の中は「おまえの思う通りにはならない」ということを骨身に滲みてわからせることが大事です。不幸な少年期を生きて他人を操作することだけを覚えたのでしょう。彼女はあなたや「児童相談所」と駆け引きをするつもりなのでしょう。私であれば彼女が自分の行動に反省を示すまで「一時保護所」に戻します。「反省」も「約束」も嘘かも知れませんが、形を積み重ねて人間は変わって行くものです。それが「偽善の勧め」です。
 未熟で不幸な娘に「感謝する心」を期待してはなりません。それは人間の最高級の能力です。そんなものが彼女に育っていると思ってはなりません。まずは、「ヒト科の動物」を「人間」に育てる為にはルールと約束を守る社会規範の型を教えるところから始めるしかないのです。
体力も我慢する力もないのに「確かな学力、豊かな心」を求めるのは教育界の絵空事だと申し上げて来た通りです。

長崎県 草社の会の皆様

 大会のご成功おめでとうございました。底力を見ました。日本の社会教育行政は日本が最も教育を必要とした時代に教育を捨てて、市民の自発的学習のみに委ねるという政策転換を行ないました。これからは再度教育重視の再転換を図らない限り、高齢社会を乗り切ることはできません。行政関係者の皆様がこぞってご参加になった第1回大会は極めて重要な意味を持つであろうと期待しています。ありがとうございました。

山口県山口市 上野敦子 様

 報告書を拝見いたしました。大島まな先生から「耐性」研究の話もお聞きしました。上手く進むことを願っています。出来るかぎりのお手伝いをするつもりです。

佐賀県佐賀市 秋山千潮 様

 懐かしいお声を聞きました。私の紹介を名乗って押し掛けた関係者も居たそうでご迷惑でなかったことを祈ります。本人は館長さんの「特別研修」を受けたと大喜びでほくほくでした。
 3月16日は約束通りに参りますが、せっかくですから関先生や鴻上先生とご相談なさって、講座の後、高齢化問題をめぐる勧興フォーラムの開催を企画してはいかがでしょうか?内輪のささやかな会でいいでないですか!ご提案まで。

大分県日田市 財津敬二郎 様

 25周年事業の熱気に打たれました。先生のお元気の秘訣を垣間みた思いがします。小生も熱気に感染して、張り切り過ぎ、いささか喉を痛めました。申し上げたいことが身体の奥から湧いて来る感じでした。何から何までお世話になり誠にありがとうございました。

編集後記
見納めの風景

スタンクリフ通りの朝やけは
毎日散歩の楽しみでした
夜明けの月が白く残り
松や樫や楓が聳え
梢に風が渡ります
風に乗って雁も渡り
日本では見なくなった郷愁の風景です
日射しを受けて一斉に葉が散り
冬支度のリスは芝生に忙しく
家々の庭には魔女や幽霊が並び
窓にはハロウィーン・ランタンが見えます
空は一点の雲もなく
ひわは梢に胸を張り
秋だ、秋だと歌います
亡き妻の後始末は終りました
後三日経てば
私は玄界の海に帰り
あなたはクレモンズの森に留まる
さようならアメリカ
さようなら義妹
不思議な縁に結ばれて40年の歳月を生きたが
もう会うことはないだろう
ようやく寂寥と友となり
ようやく一人に慣れました
日本も菊香のころでしょうか
もうすぐ家郷に帰ります
私を待っている人がいます

 子どもたちがそろい、孫達がそろい、親戚もそろって、10か月遅れの亡き妻の葬儀を終りました。喪主は小生の葬儀の予行演習も兼ねて息子に務めさせました。若い住職と若い息子の息も合ったようで簡素ないい式でした。
 斯くして、小生の本棚から妻の遺骨が消え、妻の写真と犬たちだけの一人暮らしに戻りました。喧噪より寂寥、繁華より静寂、贅沢や洗練より質実剛健・粗衣粗食の生活を選んで暮らしています。学文社から「熟年の自分史-人生のラストメッセージを書こう」の第2次著者校正も上がって来ました。

 年々歳々花相似たり
 歳々年々人同じからず
 されど
 新しく生きんとすれば胸熱く 四季折々の花に逢う
 今日はふたたび帰ることなく 誰も代わりには生きられない
 彼方の果ては茫々なれど   覇気に輝き行かんかな