発行日:平成23年2月
発行者 三浦清一郎
「生涯学習格差」の異常発生と自己責任論
1 選択の自由と選択結果の学習格差
従来から、社会教育は「3割社会教育」と陰口を叩かれて来ました。必要な教育でも3割の人々にしか届いていないという意味です。国民の学習権から見ても、社会教育に「強制力」は存在しないからです。それゆえ、逆立ちしても、社会教育の「集客力」はパチンコ屋さんには敵わなかったのです。しかしながら、従来の社会教育行政や社会教育活動には専門家集団が関わっていて、学習における「個人の要求」と「社会の必要」のバランスを取るように常に心がけて来ました。特に、公金を投入する社会教育政策においては、時代が何を必要としているか、個人に不可欠な適応・学習課題は何かが「最重要課題」として問われ続けてきました。然るに、「個人の要求」と「社会の必要」のバランスの課題を軽視し、時に、無視するに至った元凶こそが社会教育の生涯学習への転換でした。
生涯学習は市民の選択権をほぼ無条件に保障し、「学習」するか否かの選択も、何を学習するかの判断もすべて市民に委任しました。このことは中身の選択に留まらず、学習が必要か否かの判断も市民に委ねたということです。医療に対比していえば、健康人も病人も区別なく、日常の健康管理や養生を本人の判断に委ねたということです。
生涯学習の普及・浸透に連れて、人々の学習は教育行政や専門家の関与すべき問題ではないという社会的雰囲気が醸成されました。社会的条件の変化が著しい時代において、市民の「学習必要」を放置したということは直ちに重大な副作用をもたらしました。「学習を選択した者」と「しなかった者」、「適切な学習内容を選んだ者」と「選べなかった者」の違いは歴然とした人生の質の格差を生み出したのです。それが「生涯学習格差」です。まず、知識格差が発生し、情報格差も、健康格差も、交流格差も、生き甲斐格差も発生しました。一概には言えませんが、「生涯学習格差」の多くは個人の幸・不幸の格差になったと想像することは自然ではないでしょうか?
間断なき変化の時代に、必要なガイダンスを受けることなく、必要な適応に失敗すれば個人の人生にも、社会の福祉システムにも重大な支障が生じます。生涯学習の前提は、学習者は「成熟した市民」であるということだった筈ですが、その前提は希望的観測に過ぎませんでした。教育上の「勧奨」または「干渉」を排して、市民の自由な学習に任せれば、活気ある生涯学習社会が実現するという期待は幻想でした。学習者が学習の成果を社会に還元して、生涯(学習)ボランティアになるだろうという期待も幻想でした。自由な学習の代償として必然的・不可避的に発生したのが「生涯学習格差」だったのです。すでに、市民の間の「生涯学習格差」は巨大であり、日々拡大しつつあります。特に、教育診断の必要な「患者相当者」において教育処方が不在であるということは本人にとっても社会にとっても重大な不幸を意味していることに気付かざるを得ないのです。
2 生涯学習の自己責任論
-政治・行政の不作為に対する免罪の論理-
生涯学習の選択結果として発生する「格差」の責任を個人に帰してもいいでしょうか。自己責任は個人に選択を委任することの裏側で発生します。「生涯学習の主役は皆さんです」、と言って学習権を市民に渡したということは、建前上、政治にも行政にも学習の失敗の責任は発生しません。
個人の選択の結果として「生涯学習格差」が発生したとしても、自己責任が原則である以上、国も地方自治体も政策の責任を感じることはありません。突き詰めれば、「あなた方が自分の好きなようにやった結果です」と言えば、制度的な結果責任論は発生しないのです。しかし、個人が適切な生涯学習の適応行動を選択しなかった(できなかった)からと言って、政治や行政は市民の自己責任を問うことができるでしょうか?国民は自らの必要課題に対処する専門的な助言や施策のために税金を払って来たのではないでしょうか。
これが医療制度や、病院の問題であれば、仮に病気の原因が患者本人の生活習慣に原因があったとしても、患者に責任があると突き放すことは、決してあり得ることではないでしょう。生活習慣病の大部分はもちろん原理的に本人の自己責任です。だからといって病気の悪化が予想される「患者」に対して、あなたの責任ですから自分で何とかしなさいと言って放置する医師がいる筈はないのです。ひとたび、患者となった病人を放置することは医療の思想でも姿勢でもないことは言うまでもありません。
しかし、国の教育行政も、その指示に従った地方の社会教育行政も、ごく少数の例外を除いて、未だに生涯学習概念に修正を加える事なく「患者相当者」を放置したままです。高齢化への対応も、幼少期の学校外教育も、子育て支援における発達支援も、「学習者」本人や「家庭」に任せて、「教育処方」や「教育的補完」の必要をほとんど無視し続けています。保護者の多くが共働きになった現状でも、日本の政治は、福祉と教育のタテ割り行政の修正を行なわず、結果的に保育機能と教育機能の統合も全く進んでいません。結果的に保育はいわゆる「お守り」をするだけに留まり、幼少期の発達支援を想定した教育プログラムはほとんど存在しないのです。行政からも、学校からも、「家庭よしっかりせよ」というメッセージばかりが発せられています。共働きの家庭が増えれば、保護者が留守がちになるのは当然であり、家庭の養育・教育機能が低下するであろうことは中学生でも想定できることでしょう。国は、一方で、男女共同参画を現代の最重要課題と設定し、女性の就労や社会参画を奨励しながら、他方で、家庭の教育機能の低下を教育的に補完しようとしないのは如何なる判断に基づくのでしょうか?政治や行政の「生涯学習格差」、幼少期の「発達支援格差」などについての現状診断と処方は愚かの一語に尽きると言わざるを得ないのです。
必要とされない孤独、邪魔にされる絶望(NO.2)
-高齢者の不覚と甘えの構造-
133号の続きです。再び友人を見舞われた読者から第2便のお便りを頂き、日本の現実にやり切れない気持ちになりました。前号は、年老いた親が子どもから邪魔にされてリハビリ病院に滞在せざるを得ない絶望を垣間みたお便りでしたが、今回は、健康を回復した高齢者が自宅に帰れないことで、子どもたちへのお怒りのお便りでした。お怒りはシステムにも向けられています。「老健施設を覗けば大家族と核家族の狭間にいた年代のおばあさん達がたむろしています。子供たちも介護保険があるのだから使わねば損とばかりにケアマネ-ジャーの訪問の時は仮病を使わせて介護度の調整をして施設に送り込む。施設は施設で空ベットを作ればたちまち経営に響くので計算をして入所者の循環をスムーズにする。入所費は出来高払いでなく今は確か定額なのでベットが埋まっていればそれで経営に支障はきたさない、体の具合が変化すれば母体になる老人病院に転院させ再度受け入れをして又スタートラインから・・・この循環です。家族も入れておけば安心と見舞いも遠のき、亡くなっても、預けてある年金で処理してください、遺品は捨ててくださいという哀しいケースも出てくるのです」。
高齢社会を誰も「長寿社会」と呼ばなくなった意味がよく分かります。長生きは個人にとっても、社会にとってもむしろ不幸の場合があるのですね。
お怒りはごもっともですが、前から、書き続けて来たように、背景には、自己都合を優先する「自分の時代」の到来と高齢社会の分析が不十分な高齢者自身の不覚と甘えがあります。ご賛同はいただけないと思いますが、後10年もすれば必ず私が申し上げたようになりますのでどうぞ記憶しておいて下さい。
1 若い世代にとって高齢者は安寧の危険要因
病気が完治した高齢者が退院後も家族に歓迎されず、家に戻れず、転々と施設暮らしをすることに、「何たる子どもたち!」というお怒りのお便りを拝見しました。我が身の近未来と重ね合わせて、感想と意見は複雑にならざるを得ませんでした。
私が近年の著書に書いて来た通り、誰もが自己都合を優先する自由な「自分流」の人生が日本社会に到来しているのです。共同体の崩壊と核家族の登場はその走りでした。「自分流」の人生を生きようとする若い世代の生活にとって年寄りは邪魔で、障害物になったのです。
ご指摘のように、高齢者は全般的に若い世代とは価値観が異なり、食べ物の好みが違い、見たいテレビも生活の感覚やスピード感も違います。しかも放っておくと火事や事故や老衰が心配です。もしかすると同居する高齢者の存在は、若い世代の日常の安寧と幸福な生活を破壊する危険要因かもしれないのです。ご存知のように孫の世代には高齢者を「汚い」、「臭い」などと罵る子どもも育っているのです。子どもの背後に親の感性が透けて見えるのではないでしょうか。
また、高齢者自身の方も日本人は大家族から解放されて未だ一世代しか経っていないので自律の覚悟と自立の修行が足りないのです。突き放した言い方になりますが、高齢者の多くは、高齢社会の現実認識が不十分で、いまだ家族への甘えを断ち切れず、愚痴が多く、子どもから離れて暮らす孤独の覚悟ができていないのです。子宝の風土で、親は全力で子どもを育てて来ました。しかし、それは親自身の生き甲斐でもあったのです。「生き甲斐」であったことを忘れて、どこかで「育ててやった恩を忘れたか」と思っていることはないでしょうか。
2 「自分流」はみんな「自己中」
自由で「自分流」の時代は、結果的に、子どもの世代も親の世代も「自己中」です。寂しがる老親を受け入れようとしない子どもたちへのお怒りは分かりますが、高齢者が自立的に生きようとしない限り、新しいタイプの「姥捨て」がこれから日本中で起こるのです。残酷な言い方になりますが、このままでは、人生の最期を愚痴にまみれて哀しく暮らす高齢者が増えることになります。
高齢者に対するアンケート調査の結果を見ると、異口同音に子どもの側で、畳の上で死にたいというのが一番の希望です。それこそ国が推進している在宅介護政策の根拠です。国家にとっては家族の労働力に頼って福祉の「半分」を肩代わりしてもらった方が「安上がり」なのです。しかし、子どもの世代にとって高齢者の介護は大きな「負担」になるのです。特に、男女共同参画の実行ができていない日本社会では、介護の多くが女性の負担になるのです。老いた親の介護のために働き盛りの女性管理職が退職せざるを得ないのはそのためです。
それでもきちんと日本流に子どもを育てて来た方のお子さんは、昔ながらの「親孝行」概念に従って親を引き取って手厚い介護をするでしょう。しかし、すでに両者の価値観もライフスタイルも大きく違ってしまっている以上、同居の親孝行介護が双方の幸せにつながるかどうかは分からないのです。世代間のライフスタイルの違いがほぼ存在しなかった江戸時代の三屋清左衛門ですら、息子や息子の嫁に気兼ねしながら、最後は自分の力で生涯学習や生涯スポーツや社会貢献の中に自分の生き方を見出して行くのです。「三屋清左衛門残日録」の作者藤沢周平は精神の自立した高齢者が子どもの世話になって生きなければならない「幸せ」と「不幸」をない交ぜにして描いたのだと思います。「自分流」とは「自己都合優先を原理とする生き方」です。それは言葉を飾らずに言えばみんな「自己中」だと言うことなのです。
3 高齢者は子どもと離れて暮らせるか
私が亡妻に渡した遺書と尊厳死宣言の文章には、「延命治療」も「自宅介護」もするなと書きました。最近のニュースを思い起こして下さい。行き詰まった夫が妻を殺し、妻が夫を傷つけ、息子が親を殺しています。「自分流」の人生を選択した高齢社会がある種の地獄を見ているのです。
辛くて冷たいようですが、「老いた親は子どもを離れて生きる」ことが新しい時代の高齢者の覚悟であり、国家の政策であるべきだと思っております。「できすぎ君」(ドラえもんに出て来る秀才少年です)のような孝行息子に囲まれて幸せそうに暮らしている老親の例外的な風景だけを見て、高齢者の生き方を決めるわけには行かないのです。幸せそうな三世代同居家族の陰で己を犠牲にした女性が泣いている場合も多いのです。
あなたは「招かれざる客」となって子どもに引き取られる老後をお望みでしょうか!これまでの生き方を拝見する限りお望みではないでしょう。高齢者の最後は子どもと離れて暮らすべきなのです。問題の核心は高齢化だけが一気に加速し、高齢者自身に孤独を生きる文化的覚悟ができていないことです。覚悟の不在が愚痴や不満になって現れているのです。
他者に迷惑や厄介をかけざるを得ないのは人間の最後の定めではありますが、できれば迷惑は最少限にしたいものです。介護を職とする人々が入所者に対して「ものの言い方は丁重でも、心がこもっていない」と、お友達がご不満を漏らしたということですが、そうした批判は高齢者自身の甘えと贅沢というものです。礼節が保たれている限り、必ずどの職業でも「こころ」は守られています。礼節は形ですが、仁でもあります。仁は人間に対する「やさしさ」から発しています。それゆえ、礼節ある限り仁あり、仁ある限り心もあります。次はお友達にそう言ってあげて下さい。
4人の自分-見えない自分が見えて来る自分史の不思議-
1 4人の自分
心理学では有名な話ですが、自分には「4人の自分」がいると言われています。英語では、第1が“Open Self”,第2が“Hidden Self”、第3が“Blind Self”、第4が“Unknown Self”です。これらはジョゼフ・ルフト(Joseph Luft)とハリー・インハム(Harry Ingham)の共同研究による提案です。
第1の自分の訳は「公開されている自分」、第2は「隠している自分」、第3は「自覚していない自分」、第4は「誰も知らない自分」となるでしょう。第1と第2は「自分が知っている自分」です。第3の自分は、自分は気づかないけれど、「他人は知っているかも知れない自分」です。第4の自分は「自分も他人も誰も知らない自分」です。
普通の自分史は第1の自分;「公開されている自分」が書くのですが、問題は自分が知っていて、故意に「隠している自分」;第2の自分の取り扱いです。
他人や家族に知られたくないから、或いは自分自身も思い出したくないので、意識して隠して来たことですから、普通は誰にも言わずに「あの世」まで持って行くのが原則です。この世にはままあることですが、アメリカのベストセラー小説「マディソン郡の橋」のように、残された家族に「実は昔あるところに好きな人がいた」などと死後に真実を告げることもあります。まさしく隠されたパーソナル・ヒストリーというところでしょうが、この種の告白は、正直であっても、意志薄弱で、やさしさの足りない野暮というものでしょう。しかし、借金とか隠し子とかいずれ明らかになって第三者を巻き込んだ問題がある場合は 後に残る人々に迷惑がかかる場合も起こり得ます。こちらは自分史の前に片をつけておくことが鉄則です。人生の終わりに近くなってこの種の問題に「けり」を付けて、書くか書かないかは人によって実に難しい判断になります。自分史作法の原則は、「知ってもらいたい自分」を書くということ以上に、残された人々を不快・不幸にしないということです。
2 自分史の一番難しい問題-自分が知らなくて他人が知っている自分
自分史に限りませんが、日常生活においても第3の自分は一番扱いが難しい問題です。まぎれもない自分がそこにいるのですが、自分には自覚症状も、意識もなく、「他人だけが知っている自分」がいるというのは気持ちの悪いものです。しかし、事実です。例えば「しぐさ」や「くせ」が分かりやすい例でしょう。「無くて七癖」というように、本人に格別の自覚はありません。しかし、他人の注目するところとなります。あいさつ、応対、手紙の返事、長電話等々枚挙にいとまがありません。
体調なども同じです。長時間原稿などを書いていると、俯きの姿勢で胃の中の食い物が異臭を発するときがあります。亡妻はよく“あなた臭いますよ”、と忠告してくれました。ありがたいことではありますが、不愉快な助言にむっとしていると“私の外に誰が言ってくれますか”、と第2弾が飛んで来ます。あなたの書く自分史も他人の目になって自分を振り返る必要があるのです。方法論としては、「人の振り見てわが振り直せ」です。他者があなたに向って発した言葉を客観的に入れておくと、一人よがりの自己中解釈を防ぐことができます。
要は、他者の言動を基準として我が身を分析することが問われているのです。ちなみに、自分が判断する自分の総体は「自分自身観」と言います。逆に、他者が判断するあなたの総体を「パーソナリティ」と言います(*)。
自分史は自分の思う通りに書いていいのですが、他人には別の見方もあると自覚しておいた方が、抑制と分別が効いていて、後に読まれる方々にとって読み易いものになる筈です。自分史が自慢史にならぬための防御の一策でもあります。
(*)判断のフィルターとしての「自分自身観」
成人は過去の経験に基づき、判断や発想の基準となる「自分」というものができ上がっています。この「自分」は判断や発想の主体になります。心理学的には「アイデンティティ」と呼ばれます。アイデンティティは通常「自己同一性」と訳されていますが,「自己と同一の性格を持つもの」と言われても何のことか分からないでしょう。私は自己流ですが,「パーソナリティ(人格)」との区別も含めて「自分自身観」と訳しています(*)。パーソナリティは第三者が見て、判断した自分,「自分自身観」は自分が自分を見て,判断した自分です。
「自分自身観」でも分かりにくいのですが,「自分とは何か?」という質問を自分に発して、「自分で答えた答の全部」ということも出来ます。要するに,人生について,世の中について,美しいものについて,醜いものについて,そして自分について,自分がどう考えているかを答えた答の総体です。
時事教育評論6若者の就職難の教育学的分析
「和橋」に比べれば柔なもんだ!
1 菅総理はなぜ「雇用」と言わなくなったのか。
雇用、雇用と言いながら、実態は中小企業を含めれば、求人数が就職希望者数を上回っているというデータが報道され始めました。つい先頃まで菅総理大臣の最優先課題は1に雇用、2に雇用ということでしたが、雇用の連
乎が止まったのはその事実を知ったからではないでしょうか?
要は、若者たちが選り好みをしているということなのです。問題の背景の一つを作って来たのは近年の教育界です。
2 労働の平準化-均質性と没個性化
人々が求める「やり甲斐」は「成果が上がること」、「能力を発揮できること」、「活動に意義を感じること」、「人々から認めてもらえること」などの総合的結果です。それゆえ、誰がやっても同じことであれば「やり甲斐」が遠のくのは当たり前のことです。対人的な仕事や高度なトレーニングを必要とする専門職業を除けば、恐らく現代の大部分の労働は没個性的なものになったのです。加藤秀俊氏はやり甲斐の根拠を分析して「誰にでもできる仕事ではなく、自分にしかできない仕事だ、と思うから職業生活には張り合いがある」のだと指摘しています。「その職業が、誰にでもできるようなものになってしまったときに、ひとはそれにくだらないという形容詞をつける」。「そして、現代社会はくだらない仕事に満ちあふれている」(*1)と指摘しています。加藤氏の指摘通り、労働の「平準化」はくだらない仕事を社会に溢れさせたということになるでしょう。労働におけるやり甲斐の喪失は当然の帰結だったのです。
(*1)加藤秀俊、生きがいの周辺、文芸春秋、1970年、p.242
3 教育における「個性」の過大評価
個性の一般的定義は、“「個体・個人」に与えられた資質や欲求の特性”ということになります。要は、他者との「差異」の総体です。しかし、「他人と違っている自分」というだけでは教育指導上の「個性」を説明したことにならないでしょう。単純な「他者との差異」を「個性」と等値し,両者を混同したところに近年の教育の混乱の原因があります。近年の教育は個人の感性や欲求を強調し、個性と混同する過ちを犯したのです。
まず第1に,「資質上の違い」だけを問題にするなら、個々の後天的な努力をどう評価するのか、が問題になります。少年期の「他者との違い」は、本人ががんばれば直ちに発生し、その成果は縮小したり拡大したりするからです。努力しない少年が遅れを取るのは当然の結果です。
第2に戦後教育の個性論は、感性や欲求を個性と混同しました。各人の持つ「資質」と「欲求」が混ぜ合わさって「違い」が生じるとすれば、「個性」とは、「欲求の現れ方」、「自己主張」・「自己表現」の「在り方」ということになります。即ち、個性=「自己主張」・「自己表現」となります。しかし、当然、すべての自己主張や自己表現を個性として尊重せよとは誰も言わないでしょう。馬鹿げた自己主張も,端迷惑な自己表現もあり、社会に害をなす反社会的な主張も多々あることは自明だからです。
それゆえ、第3の問題は、すべての個性を肯定的に評価することは出来ない,ということです。子どもの自己中心的な欲求や身勝手な思いこみを個性と勘違いしてはならないのです。
第4に注目すべきは「他者との違い」の構成要因です。
「自分」と「他者」を区別する最も具体的な要因は、知的能力、身体的能力,判断力、適応力、容貌・しぐさ・表現力などあらゆる種類の「能力」です。次の要因は、短気,大胆、優しさ、思慮深さ,のんびりなどの性格的・精神的要因です。まさしく,性格は人それぞれ違うからです。最後の要因は,個人の好みと欲求です。「タデ食う虫も好きずき」で、それぞれに人間の嗜好や相性は異なるのです。
重要なことは,「能力」を「個性」と等値すれば,必ず社会的評価と選別に結びつきます。また、「性格や精神」と「個性」を等値すれば、好ましくない性格の判定やその矯正問題が浮上します。当然、「欲求」と「個性」を等値することも出来ません。反社会的な欲求や嗜好を肯定するわけには行かないことは自明でしょう。「みんな違ってみんないい」という情緒的かつ好意的な発想は,楽観的で耳障りは良いですが、現実の教育場面に適用することは決して簡単ではないのです。それゆえ、「他者との違い」を「個性」として全面承認することは、不適切なだけでなく教育的には不可能なのです。子どもの「感性」や「欲求」を「個性」と等値することは問題外です。
要するに、人間には、いろいろ特性はありますが,それほど際立った個性などというものは、めったにあるものではないのです。際立った「個性」は押さえても延び,教えなくても自ら花をつけるのです。その「花」には、時に、毒すらあるのです。「個性」とは,個人の「特性」と「生き方」の総合として人生の最後にあらわれる「他者との差異」なのです。「個性」とは,自分に与えられた運命的な特性と本人の人生のがんばりとが綾なす総体的な生き方に現れる特性の意味です。しかし、近年の学校が重視した個性教育は思わぬところで副作用を生みました。
(4) 労働のやり甲斐を失わせた適性論
近年の教育では、個性の重視が叫ばれ、多くの場合、個性は「欲求と感性」に置き換えられました。他方、上記の通り、「利便性」追求の結果、多くの労働のプロセスが単純化され、没個性化しました。
個性を重視しながら、個性を喪失した仕事を続けなければならない現代の労働は何たる矛盾を含んでいることでしょうか!多くの人のやり甲斐の探求は悲惨な結果を招くことになりました。自分の欲求や感性にあった仕事だけがやり甲斐に繋がるという仮説に立てば、誰もができる仕事はやり甲斐には繋がらないということになります。しかし、現代の労働の多くは、すでに誰にでもできる労働に分業化され、単純化され、標準化されているのです。「自分でなければならない」という労働に巡り逢うことは至難のわざなのです。
近年、特に、多くの若者が仕事に就いても長続きしないと言われます。原因の多くは彼らの「個性重視」の結果であり、自身の好き嫌いを過大評価した結果です。景気が悪くなると、失業率が社会問題の前面に躍り出ますが、現代の失業は、現実に、仕事があっても仕事が続かないことによる現象だという、事業主の証言をテレビで見ました。十分なトレーニングも受けていず、それだけの能力も備わっていないのに「自分に合った仕事」を探し続ける若者群の存在は、現代の教育病理的な現象です。若者たちの多くが仕事を選り好みすることが失業現象の一因であるとする事業主の証言は一理ある分析と言えるでしょう。
「個性」を「感性」に等値し、好き嫌いの問題とごっちゃにしたのは教育です。子どもの感性の過剰評価・過大評価を蒔き散らしたのも教育です。なかんずく、学校教育であり、その影響を受けた家庭教育です。考えるまでもなく大学を出ていようといまいと、多くの平均的な若者のやることなど誰にでもできることなのです。
若者の多くは己の能力や努力も顧みることなく、「ないものねだり」をすることになったのです。高望みの「ないものねだり」を満足させる方法はありません。平準化された労働で高望みする個人のやり甲斐要求に応えることはほぼ不可能になったのです。
4 「和橋」に見倣え
未だ数は少ないのですが「和橋」と呼ばれる外国で活躍する日本人がいます。「和橋」とは英語で“Overseas Japanese”と呼ばれます。華僑と違って、「和橋」は 「僑」ではなく、「橋」( bridge)を書きます。日本をそして日本人を世界の人々と「和」でつなぎたいという思いを込めているそうです。 それゆえ、 和橋とは活動理念であり、必ずしも特定のグループを意味していません。もちろん、彼らも「華僑」の結束と力強さを見倣うと共に、民族を超えた仲間を募り、世界で生きる日本人を目指そうとしているのです。明日の就職を心配している本人や親御さんには気の毒ですが、就職難で追いつめられれば、柔な現代の若者も思い切って世界に飛び出して行くことでしょう。政府は税金で職を創るような姑息なことをせずに、若者をグローバリゼーションの波の中に放り出せばいいのです。食うためには彼らもまた自分の戦いを戦わなくてはならないのです。小沢征爾氏も小田実氏も我々の世代は皆そうして世界に出て行ったのです。忘れないでいただきたい。現在、就職希望件数より求人数の方が多いのです。大学・短大の進学率が50パーセントを超えた今、採用基準は学歴ではありません。己のやる気と能力です。企業にも当然選ぶ権利はあるのです。当世の親も子どもも「和橋」に比べれば柔なものなのです!
134号お知らせ
1 第108回「生涯教育まちづくり移動フォーラム」in大分(「活力・発展・安心」デザイン実践交流会:大分大会)
(1)プログラム:まちづくり・子育て支援等を中心としたリレートーク、実践発表など福岡と大分のコラボレーションです。
* コミュニティ・スクールの実践(飯塚市立高田小学校)
* 特別講演:「主体性」と「学習」を優先した現代教育の忘れもの
―教育における「不作為」と鍛錬の空白-(三浦清一郎)
(2)日程:平成23年2月26日(土)10:30から27日(日)12:00まで
(3)会場:「梅園の里」:大分県国東市安岐町富清2244(TEL0978-64-6300)
(4)参加費:500円、宿泊・食費別
(5)問い合せ先:事務局:大分大学高等教育開発センター;中川忠宣(TEL/FAX097-554-6027)または東国東デザイン会議事務局 冨永六男(TEL0978-65-0396,FAX0978-65-0399)
2 「NPO幼老共生まちづくり支援協会」が成立
去る1月22日(土)、標記のNPOは、飯塚市前教育長森本精造氏を初代理事長として79名の創設メンバーのご出席を得て船出しました。「新しい公共」の大義のとおり行政との協働が出来るか、少子高齢社会を乗り切る「幼老共生」のステージを創造できるか、が問われています。協会の主催事業として、従来から続けて来た「生涯学習フォーラム」を主催することになりますが、巻頭小論で論じたとおり、「生涯学習概念」の副作用は大きく、日本の社会教育は「社会の必要」を軽視した結果、一気に凋落の傾向を辿っています。それゆえ、これまでの「生涯学習フォーラム」は看板を「生涯教育フォーラム」に架け替え、日本社会の「教育必要」を主題とした研究会として再出発いたします。
しかし、一方、本「風の便り」は、年間契約購読制の原則を守り、あくまでも自覚的・選択的「生涯学習者」を読者に想定していますので「月刊生涯学習通信」のままで参ります。
3 第30回記念 中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会は平成23年5月21日(土)-22日(日)です。前日20日(金)の午後7時からが前夜祭です。
§MESSAGE TO AND FROM§ 遥かな人へ
北海道札幌市 水谷紀子 様
やさしいお便りに札幌時代が甦りました。北海道に限らないのですが、老いて旅が遠くなりました。あなたが日本語を教えてくださっていた頃が夢のようです。温情身に滲みております。あなたもどうぞ戦いをお止めにならぬように。応援しております。
千葉県印西市 鈴木和江 様
この国の男女共同参画の遅々たる歩みに愛想を尽かせたのでしょうか、お世話になった娘はアメリカに定住いたしました。ニューヨーク州の田舎の大学で生き生きと暮らしております。いろいろ評価の指標はあるのでしょうが、日本の女性の社会への参画率は世界94位とのことです。
今年は、中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会が30年の節目を迎えます。これまでの発表は総計741事例になりました。私は5月の大会で総括報告を担当する予定なので既存発表の事例を調べ直してみたら、社会教育も、生涯学習も男女共同参画を推進しようとするプログラムは皆無に近く、実に冷たい分野であることが分かりました。我が娘が国を捨てた決断に納得しております。
北海道札幌市 竹川勝雄 様
夕暮れ時の北海道銀行東京支店を思い出しております。あの頃のご縁でわれわれがこうして老いの戦いの日々を交流していることを人生の不思議と思わざるを得ません。その後博士号は生きていますか。英語の勉強は続けておられますか?私は「むなかた市民学習ネットワーク事業」で、毎週の英語ボランティア講師として指導を続けることで、老若男女の生徒さんに支えられ、今を孤立せずに暮らしています。NHKの「無縁社会特集」を見ていたら、「自分に自立を課した人々が自立の観念に縛られ、他者に助けを求めることができないので孤立するのです」という趣旨の解説がありました。愚かな分析です。自由で、自己中となった日本人は「他者のために働こうとしないから孤立するのです」。「自分のためのボランティア」は間違っていません。あなたの地域活動が廻り始めましたらぜひお聞かせ下さい。
沖縄県那覇市 大城節子 様
30周年記念大会の出版原稿を2月14日に学文社へ提出いたしました。5月には世に出ます。先生に支えていただいて始めた大会に30年の歳月が流れました。術後は養生が大事と聞いております。くれぐれもお身体をご自愛下さい。
広島県廿日市市 川田裕子 様
12月の「廿日市移動フォーラム」の件、日程を押さえました。再会を楽しみにしております。山口の赤田校長、飯塚市の森本前教育長、九女大の大島まな先生などにお知らせいたしました。
東京都 近藤真司 様
がんばれ編集長!ようやく書評らしい書評が載りました。時が来れば解決する問題も多いのが人生。聖書の言うとおり「なにごとにも成る時というものがある」のでしょう。応援しています。
神奈川県葉山町 山口恒子 様
新天地の暮らしはいかがでしょうか。新しい友は必ず公民館やボランティア・グループの中にいるはずです。社会教育は凋落の一途を辿っておりますが、市民が没落しているわけではありません。振り返っても詮無いことですが、“てんとう虫”の時事英語を一度担当したかったものです。御地で同志を見つけることができましたらお話をお聞きしたいものです。
過分の印刷・郵送料を頂戴しありがとうございました
沖縄県うるま市 比嘉弘之 様
(ご友人の分確かに承りました。)
北海道札幌市 水谷紀子 様
東京都 池田和子 様
山口県 長門市 藤田千勢 様
編集後記
一人を生きる、新しく生きる
1 134号とともに世間に復帰します
去る2011年1月25日夕刻、妻のダイアンが「心不全」のため急逝いたしました。前号「風の便り」133号の完成の日でした。国際結婚と異文化間コミュニケーションを共に戦って来た「戦友」を失い寂しい限りです。この間遺品の整理とあと片づけの掃除をしながら一か月間世間との交わりを絶って喪に服しました。友人・知人の皆様には失礼とは存じましたが、喧噪を避け、己の正気を守るため、妻の喪を秘して誰にも明かしませんでした。しかし、籠っていることは故人の望むところではありませんので、134号の発行を機に再び世間に復帰します。生活は一変しましたが、新しく一人を生き抜くことを宣言し、「風の便り」もこれまで通り書き続けることをご報告申し上げます。
事後の処理事項が山ほどあるのですが、一日一つに限定して処理しております。生前彼女がお世話になった方々には別途お礼と報告の私信を差し上げました。
古希を迎え、独りぼっちの暮らしになって、今度は自分の老衰と孤独死を心配する番が廻って来ました。世間にはもとより子どもたちにも大きな迷惑をかけぬようアメリカの娘夫婦と東京の息子夫婦を相手に日々の無事を知らせるために「風の便り」に加えて、「週間:無事の便り」を創刊し、第2号まで送ったところです。
遺骨はわが家に安置し、しばらく一緒に生活をします。次は私の番ですので、練習を兼ねて故人の意志を尊重した葬儀をするよう息子に喪主を申し付けました。クリスチャンを仏教徒の墓に葬るのは不自然ではありますが、すでに亡くなった娘がひとりそこに眠っているので、故人も一緒に入ると生前から言っておりました。国を捨て、文化も半ば捨て、家族を遠く離れ、異国の異教徒の墓に眠ることになるのは誠に不憫ですが、やがて私も参りますので許してもらうことにします。
本人から許可が出なかったので、これまで書かなかったのですが、どこかで、我々が戦ってきた日々を学問的に分析する「国際結婚の社会学」を書いておきたいと考えています。最近、国際結婚に破れた日本の家族が、相手家族の了承も無く、“勝手に子どもを連れ帰る”ということが国際問題になりつつあります。他者の親権を認めない日本人の無知と日本文化の現状が国際化の流れにほど遠いことを伺わせます。
遺骨と暮らし、幻聴と問答をしながら、辛くなると単純労働の掃除と整理に没頭するよう努めております。ゴミ袋を出すたびに胸のつかえも一緒に出したような気がしています。
妻逝きて
花が咲いたと告げる人なく
小鳥が来たと告げる術なし
誰もいぬ野のあげひばり
たからかに
物憂い春を歌う見事さ
繊月に
春は名のみのたそがれを
如何に耐えむと庭清めたり
2 老病孤舟あり
老いて一人になり「老病弧舟あり」と歌ったのは杜甫です。天才詩人が遂にあこがれの洞庭湖に至り、岳陽楼に登って心境を詠んだ詩の一文です。私もまさしく老いて人生の海に漂う小さな舟の如く、目も歯も血圧も病みがちの状況になりました。それでもなんとか自立と自律を貫徹し、新しき日々を生き始める所存です。
前々の著書に書きました通り、私にとって美しき晩年とは「戦う晩年」です。「戦う晩年」とは社会に参画してがんばり続ける晩年です。がんばりを支えるのは人間の精神であり、われわれの意志です。言い方は難しいのですが、衰弱して己を失うまでは、「あるべき命」を生きようと全力を尽くし、老衰の果てに己を失ったあとは「あるがままの命」を他者に委ねて生きることは出来ないでしょうか?それを決めるのもまた精神の働きなのでしょう。
子ども時代から青年期にかけて私たちは「生きる力」の基礎を形成し、その力は人生の経験を通してさまざまに加工して来ました。加工の方法も、結果も「自分流」であったことは言うまでもありません。「生きる力」は、「体力」に始まり、辛さに耐える「耐性」と混じり合って、人生の行動耐性と欲求不満耐性を形成します。この二つの上に、職業生活・社会生活のための学力や規範を積上げました。「生きる力」の最終条件は精神力、意志力、感情値:EQなどと表現される人間性ですが、もちろん、人間性の向上に終わりはなく、完成もありません。小生が論じて来た「生きる力」がこれから試されると考えております。個人に何が起ころうと世間は関係なく流れ、世界の時間も止まることはありません。それゆえ、自分もまた進んで世間に参画し、世界の時間の中で生きて行こうと思います。大言壮語に関わらず途中で挫折をするようでしたらどうぞご遠慮なくお笑い下さい。
新しく生きむとすれば
胸熱く
四季折々の花に逢う
今日はふたたび帰ることなく
誰も代わりには生きられない
彼方の果ては茫々なれど
覇気に輝き行かんかな