「風の便り 」(第126号)

発行日:平成22年6月
発行者 三浦清一郎

学習者は認識者、実践者は探求者-「生涯学習」と「ボランティア活動」は別物です―
6月半ばから北九州市若松区のまちづくり実践研修が始まりました。下旬からは山口県生涯学習推進センターが主催する子育て支援/学校支援の実践研修が始まります。座学で実践者を育てることはできないと繰り返し主張して来ましたが、現行の教育関係者はなかなか理解してくれません。「分かれば態度は変わる筈だ」という信仰に近い教育観が学校を中心にこの国を蝕んでいます。それゆえ、「理解」が「先」で「実践」は必然的にその後に来るかのような錯覚の下に多くの教育研修会が行なわれています。子どもについても大事なことを教えないで自分で気づくのを待つことこそ教育であるという勘違いの下に「学びの共同体」などという教育論が蔓延っています。大半の学問は実際の生活から生まれたのです。それゆえ、実生活に応用することが原則です。また、理論は先人がすでに検証してくれたものが体系化されたものです。学問は人生の試行錯誤を救済し、「分かる迄の時間」を短縮してくれるのです。 教育の原則は明瞭です。やってみなければできるようにはなりません。教えなければやり方は分かりません。練習が向上のカギを握っています。社会教育の研修もボランティアの養成講座も根本から考え直すべき時期に来ているのです。

(1) 分かっただけでは実践者にはなれません
学習者は認識者です。これに対して、実践者は探求者です。認識者の特性はものごとを正確に理解することに重点を置くことです。探求者は活動の目標を実現することに重点を置きます。両者の最大の相違点は行為に要するエネルギーの質と量の違いです。「畳の上の水練」では泳げないし、「口では大阪の城も建つ」と言い習わして来たのは、行為に要するエネルギーの質と量の違いを無視した机上論を揶揄することわざです。通常、学習者と実践者の間には簡単には越え難い「溝」があり、理論と行動のギャップがあります。知行合一とか言行の一致を尊ぶ「陽明学」のような学問が登場したのも、通常、言行は一致し難いものだからなのでしょう。 近年の生涯学習や社会教育行政に関する答申などを読むと、教育行政は、「生涯学習」と「ボランティア活動」を同一線上にある類似の活動であるかのような勘違いをして来た節があります。しかし、「生涯学習」の「知」とボランティアの「行」が簡単に合一して繋がる筈はないのです。基本的に学習者は認識者に留まり、実践に踏み出す気力やエネルギーや動機は学習者に求められるものとは雲泥の違いがあるからです。 「勘違い」の端的な一例は、知識と行動を同一線上に置いて、「生涯学習」を推し進めて行けば、やがて「ボランティア活動」に到達するかのように語っているところです。“勘違い”を正当化して来た論理は人々の学んだ成果は実生活に反映されるはずであるという「学習成果の(社会)還元」論と呼ばれて来ました。「還元論」には「還元されることになるであろう」という楽観論と「還元されるべきである」という「べき」論が混在しています。従来の社会教育や生涯学習は、人間についても、学習についても好意的で、楽観的で、実践の視点を欠落した頭でっかちなものだったのです。 しかし、教育に厳しく結果を問う時代が到来しました。特に、住民主体の生涯学習を公金で支援することについて政治の風当たりは強くなりました。住民が生涯学習に求めたものは、基本的に社会還元とは関係のない「パンとサーカス」だったからです。行政主導型で公金を投入している社会教育や生涯学習プログラムの学習者に対しては、公金を投入した学習の成果を社会に還元すべきであるという財政難時代の教育投資論とも言うべき発想が社会教育行政の前面に出始めました。行政主導型の生涯学習振興策や社会教育にも「費用対効果」の発想が浸透してきたのです。住民の「学習権」などということを主張しても、反対に、住民の「学習成果の還元義務」を主張する人々は希有でしたから当然のことでしょう。従来の社会教育に対する率直な批判者は市民を「税金で遊ばせるな」とまで批判するようになりました。事実、調べれば一目瞭然ですが、生涯学習プログラムは住民の要求を充足する原理に立ったのです。その結果、趣味・お稽古ごとから実益カリキュラムの学習に至るまで生涯学習プログラムは圧倒的に「パンとサーカス」に傾きました。社会教育施設は住民を税金で遊ばせるたぐいのプログラムを提供して来たということです。「事業仕分け」の論理にのせれば、一発で「廃止」の決定がでることでしょう。

(2) 学習と実践の溝
教育の一般論として、学習成果の応用は当然起こり得ます。「応用」の原則とは、獲得した「知識」が当事者の「行動」や「態度」を一定程度変え得るという意味です。しかし、「応用」の原則は応用者の選択に任されるもので、認識者がそのまま実践者に移行する保障は全くありません。すべての応用や実践は、本人の知識の種類により、意欲のレベルにより、応用すべき実践の分野により、実践の難易度の違いによりすべて違ってくるのです。 一方、長年にわたって行政主導型の社会教育を展開して来た日本のプログラムは、通常現場では「承り学習」と呼ばれました。多くの学習者は、プログラム講師のお話を「承って」聞くだけの消極的な認識者に留まったのです。長い時間をかけて形成された学習者の側の受動的な「おんぶにだっこ」の行政依存志向が一朝一夕に変わる筈はありませんでした。学習者の反発を恐れた行政担当者の及び腰は、受講者に「学習成果の還元」を強く説くことも、還元のステージを作る工夫もしませんでした。実践現場においては、生涯学習における費用対効果の発想は、言わば「馬耳東風」の結果となったのです。 行政主導型の社会教育の学習者は「楽な」学習に慣れ切っています。学習のために「身銭」を切ったこともめったにありません。それぞれの「認識」を行動のエネルギーに転換する筈はないのです。認識者が実践者となるためには、従来の社会教育や生涯学習プログラムとは全く異なったアプローチが必要だったのです。 異なったアプローチとは、第1に学習の目的を「実践」に変更すること、第2に参加者を実践に誘う強力な「動機付け」を行なうこと、第3に現実の実践を促すための「実習プログラム」を確実に導入することを意味します。 「承り学習」の認識者が、他者への「貢献行動」を実践するためには、学習目的を「認識」から「実践」に転換し、プログラムの提供視点を「実際にやってみること」を重視したものにしなければなりません。当然、参加者に対する実践への強力な動機付けなしに行動は起こりません。練習のための実習プログラムを伴わない座学が実践者を生む筈はなかったのです。 しかし、筆者が体験し、見聞した大部分の研修は、依頼者の側に上記の条件を欠如した座学に過ぎませんでした。筆者の講義が貧しかったからだと言われればそれまでですが、少なくとも、筆者の講義プログラムから実践者が生まれたことは稀でした。 そこで過去10年、筆者は社会教育の研修プログラムを根本から改め、上記の異なったアプローチを採用した研修方法にやり方を変更しました。依頼主にも、研修目的を「認識」から「実践」に転換し、参加者の側に強力な動機付けを行ない、必ず実習プログラムと抱き合わせるようお願いしました。結果的に、実践者は一気に増加したのです。過去の文中、事例として紹介した「豊津寺子屋」の子育て支援事業、山口県の地域コーディネーター養成講座、北九州市の「若松みらいネット」事業などは最初から実践者を養成することに重点をおいた研修に変更しました。 従来の「やとわれ研修講師」がやって来た講義では、基本的に学習者は認識者に留まったままです。特別なカリスマ講師は別として、学習者が実践に踏み出す気力やエネルギーや動機を講義で生み出すことは至難のわざです。現に、学習者は実践に踏み出すことはなく、学習成果の社会還元は起こりませんでした。 実践者はいろいろな意味において探求者なのです。最大の問題は、人々が正しく「学習」すれば、やがてその成果を「社会還元」の実践に移すであろうという教育の楽観論です。学校教育もそうですが、社会教育も、生涯学習からボランティア活動へという移行論を同一線上で図式的に語って来たのです。結果的に、社会教育行政は、学習が実践に進化するかのような幻想を振りまいたに留まらず、生涯学習ボランティアという概念を多用することで、生涯学習関係のボランティアがボランティア活動の出発点であるかのような錯覚も蒔き散らしました。「生涯学習」の成果は、「ボランティア活動」として社会的に還元される(されるべきである)としたことで、多くの生涯学習関係者に、ボランティア活動はあたかも教育や学習から出発し、その中核が教育分野にあるかのような誤解を振りまいたのです。もちろん、ボランティア活動は人間の営みの数だけ多種多様な形態で存在します。到底、教育分野に閉じ込めることができるような限定的な活動ではありません。教育行政は、人々のあるべき社会還元活動まで、教育分野で行なわれるべきだという行政の縦割り発想に制約されたと勘ぐりたくもなるのです。生涯学習やボランティアのような生活の全分野にまたがる行為についても、専門が「なわばり」になり、分業が「セクト化」するという一つの典型を示しているのです。

(3) 混同の背景、勘違いの理由

「生涯学習」が「ボランティア活動」の前提になり得ると学習と実践を混同したり、生涯学習がボランティア活動に転移するかのような勘違いが起こったのにはいくつかの理由があります。 勘違いの第一の理由は個人を起点とするというところにあります。「生涯学習」も「ボランティア活動」もそれぞれの活動の原点は個人の「自発性」・「自主性」にあります。両者は思想の原点において同じ性格のものである筈だという立論です。 第二の理由は、両者とも活動の結果が「自己形成」に繋がるという指摘です。生涯学習はもとより、ボランティア活動も、活動の過程が必ず何らかの形で本人の向上に貢献し、結果的に、人間の自己形成に深く関わることは疑いのない事実だからです。活動がもたらす教育効果が人間の向上であるという点で共通しているということです。「生涯学習」も「ボランティア活動」も活動や内容の種類と範囲は文化に匹敵するほど多岐に亘っています。しかし、両者は行動に必要とするエネルギーが大きく異なるという点で全く別物です。両者の類似点だけを見て相違点を見なかったので上記のような勘違いが起こったのです。 「生涯学習」は「認識」に重点を置き、「ボランティア」は「実践」に重点を置きます。前者は基本的に自己の知的向上に限定された頭の活動です。それに対して後者は他者を巻き込む可能性の大きい心身を総動員した活動です。活動に要する「負荷」は質の点でも、量の点でも両者は全くの別物です。地域デビューの心得を説いた参考資料には、「知識習得」から「実践行動」へ踏み出しなさいと書いてありましたが、座学から実践へという図式は、教育者のないものねだりにすぎません。「市役所や公民館主催の地域デビュー関係講座に何十回も顔を出す人を時々見かけますが、それ以上に進展がない人が少なくありません」(*)とコメントが付いていましたが当たり前のことです。座学が実践に結びつくことの方が希有なのです。上記に指摘した通り、目的を実践においていないこと、主催者が強力な地域貢献の動機付けを行なっていないこと、実習のプログラムが組み込まれていないことなどが「頭でっかち」の「畳の上の水練」で終わる原因です。
(*)細内信孝編著、団塊世代の地域デビュー心得帳、ぎょうせい、2007年、p.11

「機能快」への注目
小さな町から相談がありました。類似公民館の活性化をどう図るかが課題です。筆者は「機能快」への注目を提案しました。高齢社会の危機は熟年者が「世の無用人」となることです。「無用人」とは社会から必要とされないということです。「無用人」を「有用」にする方法は「たのみごと」をすることです。行政は「お上」の頭を下げて彼らに社会貢献活動を依頼すればいいのです。私たちの「やり甲斐」は、活動や行為に関係します。まずは身近な小さなことから始めればいいのです。たとえば夏休みの宿題サポートから始めるというのはどうでしょうか。それがうまく行ったら、順次、それぞれの特技に応じて工作や料理や習字などの指導に移行して行けばいいのです。人は「頼まれることが好きだ」とはアメリカ下院議長ティップ・オニールの名言ですが、行政と市民との間の問題は「頼み方」にあります。果たして行政職員の熱意、やる気、礼儀正しさ、フットワークの軽さなどは功を奏するでしょうか?社会教育職員の機能はプログラムを作ること、プログラムの実施を促進すること、お金の工面や広報など関係者に社会のスポットライトが当たるようにプロデュースすることです。Programming, Promoting, Producingは社会教育の3P論と呼ばれました。
人間の「やり甲斐」は、①活動の成果、②社会的承認を伴う達成感、③あなた自身の機能快の3要素で構成されています。「やり甲斐」の第1要因は活動の成果ですから、活動の継続を前提とします。行為のないところ,活動のないところに「やり甲斐」は存在しないということです。 また、活動の成果を上げるためには、日々の生活に目標の設定,方法の工夫,実行の努力が不可欠です。目標が達成できれば当初期待した成果を手にすることになります。仕事でも趣味でも,やろうとしたことが、思い通りにやれた時の成果がやり甲斐の第1条件です。 やり甲斐の第2要因は達成感です。もちろん、成果が出た以上,達成感は一人でも実感することはできます。しかし,通常は,第3者の承認や同意を必要とします。ひとりよがりや自己満足では人間の精神の渇きを癒すことは難しいのです。おのれを誇って、自分の生きているうちに、銅像を建てたり,石碑を建立したりする人がいるのも、おのれの事績を世間に見せて,第3者の同意や承認を求める心理です。心理学者は,人々の拍手や賞賛を「社会的承認」と呼んで、人間が生きて行く上での重要な糧であると論じています。独りよがりでは成功を実感できない社会的動物としての人間の性(さが)だということでしょう。 第3の要因は「機能快」です。ドイツの心理学者カール・ビューラーが提唱者であるといわれています。日本では大分前に渡部昇一氏が「人間らしさの構造」(*)で人間らしさを構成する要因の一つとして紹介しています。「機能快」とは、人間が自分の持つ能力を発揮したときの快感を言います。 子どもの発達を見ていると、疑いなく彼らが機能快を感じている場面に遭遇します。走れる子どもは走りたがり,歌えるものは歌いたがります。大人の指導に耐えて、できなかったことができたとき、彼らの顔が輝きます。人間には自分に与えられた機能を発揮したいという欲求が内在し、その欲求が実現できた時に感じる快感です。「できなかったこと」が「できるようになること」も、過去と比べて上手にできたときも、ある種の快感を感じることは日常経験するところです。活動の成功には自分の能力が試され、自分自身が課題に応えて、立派に為し遂げたという己の能力の実感が「機能快」でしょう。 現行の生涯学習振興行政の問題は高齢者が学習する機会はあっても、その技術や能力を発揮する舞台がないことです。まずは小さな町で子どもと高齢者を結んで夏休みの宿題支援から始めて見ようということです。うまく動き始めましたらご喝采!!
(*)渡部昇一、人間らしさの構造、講談社/学術文庫、1977年

-居場所ありますか、必要とされて生きていますか-自分のためのボランティア(新刊まえがきとあとがきに代えて)
ボランティアは「世のため」「人のため」の行いであると多くの本に書いてあります。しかし、控えめと謙譲の美徳でしつけられた多くの日本人は恥ずかしくて普通そんなことは言えんでしょう。自分の行為が「世のため」だと断言することは烏滸がましくも恐れ多いことです。 参考書では、善意は人間の本質でボランティアの精神は昔から日本に存在したという人もいますが,それも思い込みか、勘違いのどちらかでしょう。もし、そうであるなら日本はもう少しましな温かくて暮らし易い社会になっている筈ではないですか!!またボランティアの概念が昔から日本にあった発想だと言うのなら今更なんで外来語の「ボランティア」と呼ぶのでしょう。 まして日本は世界でも有数のボランティア経験者を誇るボランティア先進国であると言うに至っては、勘違いも甚だしい、と糾したくなります。日本社会は現に「自己中」や「勝手主義」に満ち、ゴミ屋敷からいじめ迄「エゴ」丸出しで動いており、少年教育はまさに体力、耐性、向上心のない規範を欠落した次世代を再生産しているとしか思えません。教育は、社会貢献や他者支援を教えず、自分の欲望のためなら他を顧みない「教育公害」を蒔き散らしている感さえ拭えません。社会貢献を推奨する法律も、ボランティアを守る法律も存在しない日本がボランティア先進国である筈などないのです。ボランティア経験者を調査した統計資料は町内会に駆り出される一斉ゴミひろいや草取り奉仕作業をボランティアと勘違いしているのではないでしょうか。 にもかかわらず私自身はなぜささやかなボランティアにこだわり、ボランティア論を書いたのか!?筆者の自問自答の答は「自分のため」だからです。他者貢献を形にして、自分の老後の活動場所を見つけ、ささやかな貢献を通していくらかでも人々に必要とされて生きたいというのが動機です。他者貢献を選んだのは、それ以外に「さびしい日本人」が居場所を見つけ、さびしさを克服し、孤立と孤独を回避して生きる方法が見当たらないからです。

(1) 「共同体の成員」から「個人」へ
日本人は長い時間をかけて伝統的村落共同体の成員から自由な個人へ移行しました。共同体の成員は集団の「共益」のために一致して「労役」を提供し、成員の相互扶助の慣習を守って来ましたが、日本社会が依って立つ産業構造の転換と高度化によって共同体的な暮らしは不要になりました。そのためこれまで共同体が培って来た価値観や慣習は、それぞれの自由と自己都合を優先し始めた個人に対する干渉や束縛に転化してしまいました。日本人は共同体文化を拒否するようになったのです。
(2) 「自分流」は「選択制」、「選択制」は「自己責任」
日本人の生活は、共同体および共同体文化の衰退と平行して都市化し、人々は多様な価値観と感性にしたがって自由に生きる個人に変身したのです。共同体を離れた個人は、それぞれが思い思いに自分流の人生を生きることができるようになりました。自分流の人生を主張した以上、当然、己の生き甲斐も他者との絆も自分の力で見つけなければならなくなりました。人間関係も日々のライフスタイルも「選択制」になったのです。新しい人間関係を選び取ることのできた人はともかく、「選べなかった人」、他者から「選ばれなかった人」は「無縁社会」の中に放り出されます。自身の「生き甲斐を見つけようとしなかった人」や、探しても「見つけることのできなかった人」は「生き甲斐喪失人生」の中に放り出されます。自由も自立も、選択的人間関係を意味し、選択的人生を意味します。日々の生き方を自分が主体的に「選択する」ということは、かならず自己責任を伴い、願い通りの選択は簡単に実現できることではありませんでした。それゆえ、過渡期の日本人の中には自由の中で立ち往生する「さびしい日本人」が大量に発生したのです。本犒が言う「さびしい日本人」とは、共同体を離れ、自由になった個人が、他者との新しい関わり方を見出せず、また、仕事にも仕事以外の活動にも十分な「やり甲斐」を見出せず、孤立や孤独の不安の中で「生き甲斐」を摸索している状況を指します。その「さびしい日本人」が生き甲斐を摸索する中で出会った新しい生き方の一つがボランティアでした。ボランティアは自分自身が人々の中で「必要とされて生きるための」新しい縁の選択なのです。
(3) 信仰実践のボランティアと生き甲斐探求のボランティア
ボランティアはもともと「自発性」や「善意」を表し、欧米文化においてはキリスト教と結合して聖書の言う「隣人愛」の実践として発展して来ました。欧米のボランティアは「神の教え」・「神との約束」を個人のよりどころとして出発しているのです。 これに対して、日本人のボランティアは、信仰の実践でも、特別に神仏と約束した活動でもありません。日本人のボランティアは、個人の主体性と選択に基づく生き甲斐の探求と絆の形成を求める社会貢献活動です。日本にも「おたがい様」や「おかげ様」のように他者支援の類似発想はありましたが、個人を出発点とするボランティアは存在したことがありませんでした。ボランティアは外来文化に由来する発想であるため未だに適切な訳語が定着せずカタカナのまま日本語化したのです。筆者はそれを「日本型ボランティア」と名付けました。 「日本型ボランティア」は、神への奉仕でもなく、他者への施しでもなく、日々の孤立や孤独の不安を回避し、「自分のため」の生き甲斐や他者との絆を摸索する個人の社会貢献活動の総称です。この時、「生き甲斐」の具体的内容は、活動への関心、活動の成果、活動の「機能快」、人々による「社会的承認」などで構成され、人生の「張り合い」を実感できる生き方の総称です。「日本型ボランティア」は「自分のため」の「生き甲斐」を摸索する過程で発見した社会貢献の方法です。換言すれば、「さびしい日本人」は生き甲斐と絆を摸索して試行錯誤した結果、ボランティアという社会貢献活動に辿り着き、人々のために働く「やさしい日本人」に進化したということです。それゆえ、「やさしい日本人」の「やさしさ」とは、共同体を離れた個人が、自由と主体性を駆使して「自分流」と「自己責任」の人生を生き始め、生き甲斐と絆を求めて選択的に行なう社会貢献活動であると言うことができます。
(4) 「さびしい日本人」から「やさしい日本人」へ
しかし、日本型ボランティアが実践する「やさしさ」は、純粋な「他者への奉仕」とは異なります。また、従来の共同体に存在した相互扶助の「やさしさ」とも別種のものです。日本型ボランティアは明らかに「自分のため」の活動を主たる目的にしているからです。共同体の「やさしさ」は集団の共益保護のためのやさしさでした。日本型ボランティアの「やさしさ」は、ひとりひとりの人間が社会貢献の実践を通して「生き甲斐」と「絆」を求めたが故に生み出された「やさしさ」です。      日本型ボランティアを定着させることによって、結果的に、私たちは人間個人を出発点とした「やさしさ」を生み出しつつあるのです。それゆえ、日本人はかつての共同体に存在した集団的「やさしさ」に戻ったわけではありません。日本型ボランティアによって「やさしい日本人」が集団的に「再生」したのでもありません。「やさしい日本人」は、社会貢献活動を実践する個々人の人生に「新生」したのです。それゆえ、日本型ボランティアは、「新しい生き方」とか「もう一つの生き方」とか呼ばれているのだと思います。 高齢社会が到来して、ボランティアはますますその重要性を増しています。子育てや労働を終えた人々にとってボランティアは二度目の人生の新しい生き方の選択肢となったのです。「自分のため」のボランティアを選択して、最後まで社会の役割を果たそうとする姿勢が「生涯現役」の生き方です。「生涯現役」とは、労働からの引退後も、「社会を支える構成員」として社会貢献活動を継続し、最後まで他者との連帯を求め続ける人々の総称です。居場所ありますか、必要とされて生きていますか。「生涯現役」とは「自分のためのボランティア」の究極の形なのです。

§MESSAGE TO AND FROM§
お便りありがとうございました。今回もまたいつものように編集者の思いが広がるままに、お便りの御紹介と御返事を兼ねた通信に致しました。皆さまの意に添わないところがございましたらどうぞ御寛容にお許し下さい。

沖縄県那覇市 大城節子 様
この度は過分の郵送料をお気遣いいただきありがとうございました。今年は2冊目の出版に挑戦し、原稿を出版社に提出したところです。まえがきに代えた文章を巻頭に掲載いたしました。自分のボランティア活動も長いものは20年を迎えます。「風の便り」も10年を越えました。元気の背景、養生の原則は人間の機能を使い続けることだという確信をますます深めております。あなたの新聞インタビュー記事を森本前教育長の紹介で拝見いたしました。ご活躍はお見事なことです。なかなか「引退」は許していただけないだろうと遠くから見守っております。鳩山民主政権も気まぐれでしたが、日本人もまた気まぐれです。沖縄が次の選挙で現代の政治にどのような評価を下すのか興味津々でニュースに耳傾けております。

山口県山口市 西山香代子 様、下関市 田中隆子 様
今回は偶然お二人から対談のご依頼を頂きました。楽しみにしております。お礼申し上げます。ご依頼通りに日程は確保いたしましたのでご報告いたします。私は基本的に日本の「間接表現」文化を尊重する者ですが、時に、婉曲、遠回しに申し上げただけでは通じない人々が登場します。特に、「対談」では苦い体験があります。自己主張の強い物知りが我が物顔にしゃべり通して、不愉快で辛い時間に耐えたことがあります。以来、志願していろいろな会の司会の役を引き受けるようになったのです。わが司会は、「自己中」を制し、発言機会の公平性、時間管理の正確さを維持できるよう、ボクシングの試合をイメージして、敢えてレフリーの権限を行使するように務めて来ました。レフリーは、「駄目なことは駄目」、「止めるときはやめてください」と「直接表現」のルールでのぞまなければなりません。レフリーが機能しない限り、日本の会議は声の大きい「奴」が制します。対談も鼎談も「我」の強いものが突出する危険があります。皆さんの企画にも必ず役目に忠実なレフリーを配置していただきたく事前にお願い申し上げます。

鹿児島県鹿児島市 黒脇丸 陽一 様

ご要望のメルマガは確かに登録いたしました。また、5月の29回大会では折角お出かけいただいたのにゆっくり話ができず残念でした。皆様が事業化した学校支援事業を通して学校に入った地域の方々のその後の活躍ぶりをお伺いしたかったです。各地の学校を廻る中から学校支援活動は時に「招かれざる客」であり、文部科学省の補助予算が終った後はどのように存続できるのか危ぶんでおります。鹿児島市の大会で私の質問に答えて学校の関係者がわれわれは望んで学校を開いたと胸を張った場面がありましたが、果たしてそうした姿勢が今後続いて行くでしょうか。高齢社会の突破口は学校が「幼老共生」を目標とした高齢者の活動ステージを創造することが最も効果的だと信じています。これからの学校教育は高齢者福祉と組み合わせて、高齢者の活動ステージを創造することが不可欠になる筈なのです

大分県大分市 谷村歩美 様

お便りを拝見しました。実に久しぶりの大学生からの手紙です。第100回記念フォーラムにはよくぞ来て下さいました。思ったことを思うように言えない辛さは一生われわれにつきまといます。しかし、あなたの口惜しさが必ずあなたを前進させます。これ迄教えて下さったみなさんのお力が結集して出て来ます。「ビッグフィールド大野隊」を育てて来た川田さんもあなたのさらなる前進を見たいことでしょう。懲りずに機会を作っておでかけ下さい。大分県の大会は2月の最終週末に「三浦梅園の里」(安岐町)でおこなわれます。こちらもスケジュールに入れておいて下さい。

北九州市 仲道正昭 様
過日は100回記念フォーラムにご出席いただきありがとうございました。あなたが始められた社会教育の研究会も十数回を越えたとお聞きしました。今後の社会教育政策はどうあればいいのか、皆様の議論が具体的政策に収斂して来たら是非私たちにも分析の結果と方法をお聞かせ下さい。
福岡県岡垣町 井上英治 様
刺激的な再会でした。質問とそれに対する自分の答を反芻しています。Q:町内会の組織率は90%を超えていますが、これを基盤として新しいまち作りはできるでしょうか?A:できません。町内会はやがて滅びます。時間の問題です。青年団から子ども会まで地縁の組織は壊滅します。Q:なぜですか?コミセン方式も駄目でしょうか?A:駄目です。「選択」の時代が来たからです。活動も人間関係も人生の生き方もすべて個人の選択に基づきます。それが「自分流」の時代です。自己責任の時代です。地縁の人間関係はすべて活動の縁、志の縁などに代わります。Q:行政は地域課題に全部応えることはできません。A:その通りです。Q:どうするのですか?A:地域内にボランティア・グループやNPOを組織して必要な機能を委託し、行政との恊働をシステム化するのです。Q:それでは「やる人」と「やらない人」がはっきり分かれてしまいませんか?A:はっきり分けるためにそうするのです。Q:これ迄の相互扶助や「結い」の精神は滅ぶということでしょうか?A:滅びます。共同体が滅ぶからです。これからは市民の一人ひとりのネットワークの時代に入ります。Q:どうやってそうした事業をシステム化して行くのですか?A:まずは身近の「必要なこと」「できること」を有志で組織化して行くのです。行政は心ある市民に頭を下げて、予算を準備してお願いするところから始めます。始める気になったらまた呼んで下さい。

126号お知らせ
第101回生涯学習フォーラムin福岡
日時:2010年7月11日(日)15時-17時(今回は土曜日ではなく、日曜日です。お間違いなく。)場所:福岡県立社会教育総合センター(092-947-3511)
事例発表:交渉中論文発表:ボランティア「ただ」論の壁-ボランティア受け入れ風土の未成熟(三浦清一郎)
第10x回移動フォーラムinやまぐち
主催と場所と日程だけが決まりました。ご予定に入れていただけると幸いです。
主催:山口県生涯学習推進センター地域コーディネーター養成講座研修生同窓会日程:2010年11月20日-21日(土-日)場所:山口県セミナーパーク(山口市秋穂)

編集後記: 今を生きる
学生時代の友人が寮生活の日々を小説にしました。「融雪期」(山本茂 著、楡影舎、2010年)がそれです。筆者が18-19歳の時のことですから日ごろはほとんど思い出すこともなく忘却の彼方へしまい込んでいた青春でした。公私ともに人生色々ありましたが辛いことも嫌なことも時間の引き出しに仕舞って,未来の目標を語り、過去のことは語らないという信条を己に課して来たので思い出すことも稀でした。一切の同窓会に出席しなかったのも「過去のこと」はもういいと思うことにして来たからでした。 しかし、友人が描いた「融雪期」を読んで、青春はしまい込んでいただけで少しも色あせていないことが分かりました。ものの考え方・感じ方の原形もその頃に形成されたということも実感しました。今70歳になろうとして過去の節目節目の「選択」を反芻することも時にあります。しかし、時は帰らず人生のできごとはすべて「不帰」です。50歳になった時、傲慢・不覚にも十分思い通りの人生は生きたと錯覚して大学を辞め新しい仕事に就きました。人生は「刹那の華」で、過去はいずれ「紺青の海」に還ると思い定めて新しい己の戦場を探しました。自分のために遠く進軍のラッパを聞きたかったのです。大学に入学した頃と同じような「青臭い」青年の思いでした。しかし、新しい仕事もまた「隣りの芝生」で、己を賭けるほどの戦場にはなりませんでした。傷ついた10年を過ごしましたが、振り返れば大学改革に失敗した失意や怒りが今日の生き方に繋がっていると思います。友人の小説はそうした過去の連鎖を思い出させてくれました。すべての過去は今を生きるためにあったのだと思えることは幸せです。年を重ね、今年の花に逢うたびに今を懸命に生きることがどれほど大事であるかを実感しています。親しい人の死を思い、やがて来るであろう自分の死を思い、つくづくと命が惜しいと思います。ああでもない、こうでもないと行きつ戻りつして煩悶した原稿はようやく見切りを付けてペンを置きました。人の世の決断は「見る前に跳べ」ということなのでしょう。過日上京し、学文社の編集長に新刊「自分のためのボランティア」の原稿をお渡して来ました。9月には世に問うことになるでしょう。
暗黒に倒れ伏したるその時の無念を思い眠りがたかり
この世には本望の死はあり得ぬとしみじみ思うかの人倒る