発行日:平成21年10月
発行者 三浦清一郎
「君は君のままでいいか!?」
-カウンセリングの毒-
過日ある小学校の研究発表会の基調講演を担当しました。校長室へご案内いただく時に廊下の壁に大きくかかれた子どもへの呼び掛けに思わず目がとまりました。そこには次のような事が書いてあったのです。
そのままのあなたがいい
誰かの真似なんかしなくていい
あなたはあなた
それでいい
カウンセリングのいう最近流行の「自己受容」のメッセージなのでしょう。金子みすずの「みんな違ってみんないい」」や「世界にひとつだけの花」というヒット曲の続きでもあります。予定外の事でしたが、講演はこの文言についての批判から始めました。
「誰も代わりには生きられない」、「あなたに変わり得る存在はない」ということは筆者自身も痛感している人間存在の「個体性」です。しかし、それは生物の事実を観察した結果であり、一人ひとりの存在する権利を保障するという法律上の「人権」思想のことです。
しかし、学校教育も、生涯学習も、みんなが頑張って何ものかになろうと努力しているとき、「今のままでいい」という呼びかけはまさに教育の放棄です。何らかの理由によって、自信を喪失し、病的な「鬱」にでもかかっている子どもに対する治療の一環であれば仕方がありません。しかし、育ち盛りの子どもを預かっている学校教育の現場が何たる勘違いでしょうか!
教育は霊長類ヒト科の動物に「社会化」の訓練を施して人間に育てて行く営みです。教育は現状を突破して向上を目指す目標行動です。ましてや「いきいきと表現する子ども」を育てる事を研究の目標にしている学校が、子どもの現状を是認して「そのままでいい」、「向上の努力は必要ない」というメッセージを送るのは、教育の自殺としか言いようがありません。未熟な子どもが「そのままでいい筈はない」のです。今「出来ないこと」は、いつか近い将来、「出来るように」しなければなりません。今「分からない」ことも、やがて「分かるように」しなければなりません。それが教育の使命、なかんずく学校教育の使命です。
発展途上にある大多数の子どもは抽象的な文言では、目標を理解できません。努力の目標は具体的に示さなければならないのです。それゆえ、世界中の幼少年教育は、子どもたちに目指すべき歴史上の人物の事績を教えるのです。学校は、子どもがあこがれるべき具体的なモデルを選んで、その人を目指しなさい、と教えるのです。父でも、母でも、先生でも、先輩でも、もちろん歴史上の人物でもいいのです。学びにおける「モデリング」がそれです。自己教育における「同一視」も同じです。「その人のようになりたい」ということは、憧れや敬意をこめて、「優れた他者」に近づこうとする努力です。「誰かの真似なんかしなくていい」とは何ととんちんかんで、愚かなメッセージでしょうか!!「憧れ」とは「りっしん篇」に「わらべ」と書く、と説明して下さった方がいました。幼少年期は「憧れ」の季節なのです。「誰かのようになりたい」と思う時期なのです。漢字を発明した文化はそのことをよく分かっていたのでしょう。
子どもの努力を奨励し、その挑戦を励まし、彼らの向上を一つ一つ確認して行くのが教師の使命です。向上するということは、現在の自分を否定することから始まります。そのために、最も分かりやすい方法が、自分の尊敬し、あこがれる人をモデルとしてひたすら模倣することなのです。教師自らがなぜ子どもの目標になろうとはしないのでしょうか。世阿弥のいう「まず我が型を踏め、然る後に、我が型より出よ」です。子どもを保護の対象としてしか位置付けない人権論や権利論の影響を受けて、日本のカウンセリングは、「クライアント」に対処する臨床・治療上の教育論を、一般の子ども用に普遍化しているのです。まさに「カウンセリングの毒」としか言いようがないのです。その「毒」を信じて、教育のスローガンとし、自らの使命を忘れている教師は何と愚かなことでしょうか!
少年に呼び掛けて、小学校や中学校の廊下に書くのなら、次のように書くべきです。
君の可能性は未だ試されていない
今の自分に甘んじるな
あこがれの人を選べ
あこがれの人に学べ
あこがれの人がやったように
君も自分に挑戦しろ
君はかけがえのない君であるが
今のままでいい筈はないのだ
君の可能性は未だ試されていないの だ!
戦略なき一生懸命
-学校経営における「訓練された無能力(ヴェブレン)」-
1 学校研究は「努力の証明」
-結果証明の不在-
近年縁あって,ますます多くの学校の指導を引き受けるようになりました。今回は小学校と中学校の指導を引き受けました。学校のご依頼は何時もそうなのですが,研究報告会の総括に伺って、戸惑うことが多いのです。自分は、通常の講演講師とどこが違うのか、何を指導してもらいたいのか、その前に何が問題なのか,どのような「診断」と「処方」を持って学校経営をしようとしているのか、子どもをどのように育てようとしているのか,等々依頼者側の意図が明確でないことが多いのです。
筆者の経験では,上部機関からの補助金を受けて,研究を引き受けた校長先生を除いては、(時には校長先生ですらも)、多くの先生方は,外部評価の存在しない,なれ合いの居心地のいい「村社会」にいます。それゆえ、外部評価に耐え得る組織運営の厳しさや子どもを世間の期待どおりに変容させることの重大さに未だお気付きでないと思うことがしばしばあります。
敢えて,断言すれば,学校の本音は、外部からあれこれ指導なんかしてもらいたくないのです。当該学校の関係上級機関(たとえば指導主事であるとか,教育事務所であるとか,県の教育委員会であるとか)の方々も基本的には教員の仲間うちです。従って、通常、彼らの講評も、“努力と工夫のあとが著しい”というたぐいの“よいしょ”の論評に終始し,玉虫色で、総花的です。掲げた所期の目的は達成し得たのか,否か、子どもは想定どおりに、変わったのか、否かに付いて厳しく追求し、評価することは寡聞にして稀です。
筆者は、補助金を受けて、数年に亘って、体力向上の学校経営をした学校が、子どもの体力を向上させていなかった事例も知っています。その時ですらも、総括評価に登場した教育事務所の指導主事の「美辞麗句」が続き、うんざりしたことを覚えています。この時、講評者の多くは,先生方と一緒に、当該研究事業を企画・指導してきた方々ですから,講評の多くは、自己防衛と身内を意識した“お手盛り”と“手前味噌”の「一生懸命」賛辞論の域を出ないのです。学校研究の多くが、仲間うちの自己満足に終るのは、初めから「結果を問う」という姿勢が欠如しているからです。結果を問わなくていいのであれば、厳しい戦略の吟味は欠如せざるを得ないのです。結果的に,学校経営の評価は,「一生懸命したのか」あるいは「教師の工夫は見られるか」という視点を越えることがなくなるのです。研究事業においてすら、教員の結果責任を問わないとすれば、子どもの停滞を外部要因に責任転嫁する「戦略なき一生懸命」に陥ることは自明なのです。
どこの学校の研究発表資料を見ても,クラスごとの指導案や教材研究のプロセスを列挙し,「目安」や「目当て」を特筆・大書し,教師が如何に努力しているかを示す個別指導記録を載せているだけになります。教員の努力を前面に出せば、子どもが問題行動を起こすのも,成績が上がらないのも,規範が身に付いていないのも,当日の授業に集中できていないことすらも,悪いのは家庭であり、インターネットであり,地域環境であり,地域社会の無関心であり,子どもは現代社会のひずみの結果である、ということになります。こうした「外部要因原因説」こそが,現代の学校を「免罪」してきたのです。そこに「戦略なき一生懸命」を加えれば,「学校は努力を続けているにもかかわらず」「報われない」という「アリバイ」が成立するというわけです。近年、筆者が見聞した大部分の学校経営は,外部指導を極力排除した「仲間内だけが許容する改善努力」に終始しているのです。学校も、学校を指導して来た指導主事群も,その背後にいる教育事務所や教育学部の教員たちも、あいかわらず学校という閉鎖的な村社会の中で,職員会議が許容する範囲の「談合」を繰り返しているだけなのです。昔やったようにしかやれない,仲間うちで許容する範囲でしかやれない繰り返しの方法をヴェブレンは「訓練された無能力」と呼びました。確かに,膨大な時間とエネルギーを割き,先生方も主観的には一生懸命なさっていることは確かです。しかし、研究会で配られる膨大な分量の研究報告書は恐らく誰も読みません。「子どもの現状変える」という明確な戦略と実績報告のない研究報告書を見るたびにヴェブレンの指摘は正しいと思うのです。日産が外部からゴーン社長を受け入れて一気に経営を立て直したような改革は、教育行政も,学校も試したことは稀なのです。筆者は気心の知れた教育長さん方には、「契約条件」を明確にし,現行の学校教員の中から希望者を募って「期限を区切った」「チャータースクール」を試行してみては如何ですか、と提案しているのですが、まだまだアメリカの実験の様子を見ているということなのでしょう。
2 問題は「教える技術」ではありません,「学ぶ姿勢」なのです
学校の研究会を拝見して何時も思うことがあります。問題は個々の教員の「教える技術」ではありません,子どもの「学ぶ姿勢」なのです。換言すれば、「学習規律」が教育の効果を決定する第1要因なのです。
学習者の「学ぶ構え」や「学習意欲」は「指導戦略・指導法」の関数です。本気で学ぼうとしているものは、集中力や意欲が違います。「教え方」や教える方の「熱意」も重要ではありますが、真の問題は、学習の規律を確立する「指導戦略」なのです。学習規律が確立されていない学校では、あらゆる教え方が「空回り」するのです。長年人々の生涯学習に立ち会って来て、年をとれば取るほどそのことがよく分かります。生涯学習は,学習者の意欲なくして成立しないからです。
いまだ学習の動機を持っていない子どもに教える時に、彼らの興味・関心を中核に置く事は重要ですが,常に、興味・関心の側からアプローチを続ければ,やがて興味・関心のあること以外は学ばなくなります。「教え方」を中心に置く考え方の危険性はここにあります。
学校教育には,子どもが興味を持とうが,持つまいが,教えなければならないことは山ほどあり,最初は興味がなくても,やっているうちに興味が湧いて来るものも沢山あるのです。
筆者は,子どものしつけを「回復」し、教える事を「復権」させるということを主張して来ました。子どもの成長・向上において、学ぶ姿勢や学習の習慣は,基本中の基本なのです。学力の「基礎・基本」を強調する学校は沢山ありますが,果たして学習規律の基礎基本を強調する学校はどれほどあるでしょうか?同じように、子どもの「主体性」を強調する学校も沢山ありますが、子どもの「服従」や「教師への畏敬」を標榜する学校はどのくらいあるでしょうか?
学習規律を保とうとする時,最も重要になるのが体力と耐性です。「遊びを続けたくても遊ばない」、「おしゃべりしたくても我慢する」などの「集中」を支えるのは、行動耐性と欲求不満耐性です。学習規律を保つということは,「教える技術」を重視するということではありません。子どもたちに「学ぶ構え」・「学ぶ姿勢」をきちんと育てることを意味しています。筆者が心身の集団訓練から始めるのはそのためです。
そして、子どもの体力と耐性の次に重要な事が二つあります。第一は、「指導者を尊敬させること」、第二は、「学びの型」を教えることです。「指導者を尊敬させること」の基本は、「教えるもの」と「教えてもらう側」の間に、礼節や言葉使いなどの心理的な距離を置くことです。また、学びの型の原則は、「従順」です。教師の指導に従い、モデルのやる通りにやる、時間を守る、静かに坐る,静かに聞く、質問をする,質問に答える,予習,復習、宿題をするなど昔から言われて来たことです。
3 学校経営の戦略とは何か?
組織としての学校はその運営原則において他の通常社会組織と大きく変わるところはありません。また,学校集団は,教育という特別な目的を掲げているとは言え,通常の機能集団と変わるところはありません。それゆえ,組織論一般,運営論一般、通常の企画論,通常の技法や戦術を学校に適用してなんら間違いではありません。
たとえば,組織の目的と一定期限内の達成目標を明確に掲げることは学校に取っても,他の組織に取っても極めて重要です。目的、目標が明確でなければ,与えられた時間で,自らの時間とエネルギーと資源を有効に集中させることが難しくなるからです。もちろん、目標達成の計画立案は,有効で,実行可能でなければなりません。また,計画倒れにならないためには、組織を導くリーダーシップと構成員間のコミュニケーションが不可欠です。目標実現行動の無駄を省き,構成員の意欲や気力を集中させる上で、途中経過を第3者の目で評価してもらうことは,組織に新しい視点や活力を生み出す上でさらに重要です。運営手法としては、マネジメント・サイクルの原理としてすでに多くの組織体に定着している「プラン→実践→評価・調整→修正実践」(PDCA:Plan-Do-Check-Action)の4段階を確実に踏むことです。日常活動では「ホレンソウ」と呼ばれる「報告、連絡、相談」を確実に実行することです。
4 情報公開
-隠し事をしない学校-
学校戦略の3大要素は、「情報公開」、「外部集団との連携」、組織内「PDCA」の実践です。中でも一番重要なのが学校を開くことです。
(1) 情報の公開
-学校の閉鎖体質を一掃する
学校の隠し事は世間の信用を失い、保護者の信頼を破壊します。我が子中心主義のモンスターペアレンツを生んだのは、学校の閉鎖性であり、教員の隠蔽体質です。モンスターペアレンツの自己中の要求に付いても、個人情報を保護した上で、その実態は全関係者に公表するべきなのです。地域の理解を得て、その協力を頂こうとするならば、教師や子どもの問題行動はすべて住民に公開すべきです。もちろん、学校が下した状況診断の結果も、その解決のための処方箋も全て公開すべきです。実態を隠して問題を解決するということは事実上不可能です。特に、社会の常識的規範に照らして、許されないことは全てを公開することです。学校管理職にも、自己満足的な指導に明け暮れて来た教員達にも、最も欠けているのが教育結果に対する「危機意識」なのです。学校は、地域社会の理解を得て、保護者と協力の歩調を取らない限り、教育問題を拡大再生産し続けるのです。
子どもの問題行動を解決し、生活規律や学習の構えを確立できない限り、学力の向上は到底望むことはできません。問題状況の解決は学校単独では難しい時代に入っているのです。
政治もようやく「マニフェスト」の手法を採用する時代になりました。組織体には常にマニフェストにあたる経営方針-経営目標が不可欠なのです。横文字を使って言えば、「ミッション・ステートメント」と呼ばれます。要は、経営体と関係者との契約目標・条件を簡潔に表現した「戦略の説明」です。
学校教育の目標は明確です。それぞれの学校が個別に打ち出したい特性や強調点もあるでしょうが、共通しているのは、「社会規範を身に付けた」・「学力の高い子ども」を育てるということに集約されるでしょう。保護者に知らせるべきは上記の2点を向上させるための具体的な経過情報です。校長のリーダーシップはまず「なにごとも隠さない」ということから始まるのです。
(2) 公開の方法-知らせる手段
「授業参観・学校開放」-「学校便り・学級便り」-「報告会」-「発表会」-「説明会」
i「授業参観・学校開放」
学校は公開の方法に習熟している筈です。第1は、あらゆる機会を活用した学校の開放です。日常の授業参観も、特別研究の公開授業も、施設や機能を地域住民に利用してもらう学校開放などは、手間ひまのかからない現状公開のもっとも有効な手段です。まずは、閉鎖的な学校に外部の人々を入れることから始めるのです。学校は隠し事をせず、住民はいつ行ってもいいんだというルールを確立することが重要です。学校は国民の税金で立てたものであり、施設機能は子どもの活動を想定して工夫してあるのです。学童保育は福祉の事業だから、学校施設の教育以外の目的外利用は認めないなどという管理職はすでに学校のトップに立つべきではないのです。外部の人々に普段の活動を見てもらうことこそが最善の公開なのです。教育以外のサービス業は全部そうしているではありませんか?
もちろん、学校が意図した「公開」には、見ていただく視点を提示することが重要です。たとえば、教職員の礼節、言葉使い、師弟の交流の雰囲気、外部のお客さまに対する子どもの態度、学校環境の整理整頓や美醜の評価を簡単なアンケート様式でお聞きするべきです。ホテルでも、レストランでも、各種のサービス業でやっていることです。
ii「学校便り・学級便り」
手間ひまはかかりますが、定期的な学校からの「便り」は、複雑な問題でも、整理・解説して正確な情報を関係者に伝えることができます。「便り」を蓄積しておけば、学校が直面した問題解決の方法を教育資源として後々活用することも出来ます。日本の学校は他校の失敗や成功の事例から学んでいないように思います。学校は、世間の経験を共用する努力が足りないこともあるでしょうが、学校の閉鎖性は問題状況を開示していないからなのです。
iii「報告会・発表会」
報告会・発表会は、目標の達成度を公表し、保護者、児童・生徒、地域住民など関係者の評価を受けるために開きます。
評価は多角的に、多面的に、多頻度で行なうことで実態がより正確に診断できます。
iv「説明会」
問題状況が発生した時には、間髪を入れず、説明会を開くことが学校の姿勢を示す最良の方法です。説明会の準備には、一番手間がかかりますが、学校の熱意が伝わり、保護者等との双方向のコミュニケーションが可能になります。
5 外部との連携
-頭を下げて力を借りるー
(1) 保護者に頭を下げて力を借りる
学校は、今でも地域の中心に位置しています。「いまでも」というのは、学校の多くが十分にその機能を果たしていない現在においても、という意味です。「子宝の風土」は、「守役」に託して子どもを一人前にするので、子宝の成長を託すべき「守役:学校」を地域の精神的支柱にしようとするのは当然なのです。地域住民の信仰に近い学校への信頼は子宝の風土の最大の特性なのです。学校の統廃合によって、地域の活力が消えて行く現象はすでに多くの過疎地で観察されているのは、地域連帯の象徴を果たして来た精神的支柱が消滅するからなのです。
校長さんを筆頭に、学校の教員達が頭を下げて地域の応援を依頼すれば、必ず地域は応えます。「おやじの会」でも、通常のPTA活動でも、住民一般による学校支援でも、まずは学校が情報を開示し、学校の「志」を示し、子どもたちを向上させる「道筋」と「方法」を提示し、頭を下げて地域の協力を依頼することから始めるべきなのです。
(2) 職員会議の閉鎖性を打破する
学校評議会が出来ても、学校支援会議が出来ても、多くの学校の多くの先生方は、保護者が頻繁に学校に来たり,地域の人を「学校支援」などという名目で自分たちの「聖域」に出入りするのはごめんなのです。
筆者が聞いた限りでは、教員達が考えている地域からの支援は,学校の本務には関係のない「走り使い」のたぐいなのです。いみじくも、中堅の教員が仲間たちと合意した、地域に期待している学校支援の中身は、「掃除」、「マルつけ」、「花づくり」だということでした。この程度であれば,学校に来てもいいが、子どもを指導したり、教室に入り込んだりして、自分たちの領域に干渉しないで、と考えているのです。
それゆえ,現状の支援会議を繰り返しても、指導目的を共有することにはならず、地域との連帯も確立はしません。かくして、各種の学校研究事業は、教員だけがそれぞれに「一生懸命やっています」というアリバイの授業参観と研究報告書づくりに終始するのです。
問うべきは簡単で明瞭です。
子どもの「できなかったこと」は「できるようになった」のでしょうか。いわゆる,問題行動は解決したのでしょうか?子どもは規律や集団行動・共同行動を体得したのでしょうか?それは子どもの演技や発表によって「証明」出来るでしょうか?
先生方の工夫や努力を100並べても,子どもが変わらなければ学校を変革したことにはなりません。「一生懸命やった」という事実をいくつ並べても,子どもも,学校も変わらないのです。原因は「戦略なき学校経営」にあります。そして、筆者のような外部助言者が「戦略」をお示ししようとすると,必ず職員会議で検討しますということになって,協議の結果、「異論もあって、やはりむずかしいようです」ということになり、それで終わりです。全会一致の結論を求め、やる気のない教員に合わせようとする職員会議こそが学校が変われない「元凶」なのです。筆者の経験の中で職員会議をオープンにし、外部の人間の知恵や意見を受け入れて、運営戦略を練ったのは長崎県壱岐市の霞翠小学校だけした。あとは全部落第でした。
(3) 学校の規範を社会の規範に合わせる
戦後日本の学校が一番間違えたことは、世間の規範を学校の規範としなかったことです。時間を守る、礼節を守る、授業に集中する、教えて下さる先生を尊敬するなど学習の規律を維持することが基本です。学校はその単純なことに失敗しているのです。学校の規範を社会の規範と同じようにするためには、教師が根本から考え方を改めるか、教師が出来ない部分を世間の人に助けてもらうしかないのです。
一番大事な家庭学習についても、保護者の協力なしには学習の規律を回復することは出来ないのです。
(4) 外部機関との具体的連携
「霊長類ヒト科の動物」に「説諭」や美辞麗句は通用しません。
子どもは、「霊長類ヒト科の動物」から出発し、社会化によって人間になって行きます。しつけと教育は社会化の基本機能です。それゆえ、社会化の不十分な子ども(人間)は自分の欲求のコントロールが出来ません。言って聞かせて分かるのであれば、人間の世界に法律や処罰は不要なのです。教育上の美辞麗句や説諭は多くの場合、しつけの出来ていない子どもには全く効果がないのです。効果がないことを繰り返せば、指導は信頼を失い、学校の秩序が崩壊します。子どもの問題行動は、児童相談所や警察署と、発達障害は適応指導教室や医療機関と直ちに連携することが不可欠です。特に、子どもの暴力行為や破壊行為に付いては、学校に物理的な処罰が許されていない以上、警察との連携は不可欠です。もちろん、警察にしても、児童相談所にしても、外部機関と連携する方針は、事前に関係者に公表し、周知徹底することが重要です。教育が警察の力を借りることは恥であるという考え方があるようですが、自分たちで問題行動を解決できないまま、多くの児童生徒に迷惑の及ぶことを放置しておくことの方がよほど大きな恥なのです。
他の学校との連携も重要です。小学校は中学校との相互連携、中学校と高校との相互連携は重要です。また、子どもは自らが役割を演じることによって、役割や資質を体得していきます。保育所や幼稚園と組んで遊びの指導や読み聞かせなどをさせることで彼らの自覚は大いに深まります。一方で、子どもの活躍の舞台を準備しながら、他方では、警察と連携して、学校秩序や学習の規律を乱す暴力行為や問題行動には断固とした姿勢で臨むことが大切です。もちろん、これらの活動は、教師全員に周知した校内指導の積上げが前提です。第1は、その場で必ず指導する。第2は学年の関係教師全員で指導する。最後は、管理職を含む学校指導部が指導して、保護者に通知すると言う手順が必要です。予告から結果の報告まで、全てを情報公開することは言うまでもありません。法律上の抗議を回避するためには、個人情報の保護、プライバシーへの配慮は当然おこなわなければなりません。
6 子どもの変容評価
-子どもで見せる現場評価-
(1) 発表会は子どもの晴れ姿を見せる
(2) 集団の「同調」を見せる
(3) 子どもには高い目標を掲げさせて「負荷」をかける
(4) PDCAの中心は目標の達成度評価です
内外の評価者による評価は不可欠です。評価対象は、学校が目指した教育目標に照らして、子どもが変わったか、否かです。
(5) 個人指導よりは集団指導を
-個性よりは協調を-
-主体性より同調を-
現在の学校が、陥りがちの分業や個別指導に囚われてはなりません。生徒指導担当者だけが子どもの問題行動の指導に当たるなどと言うのは最悪の発想です。学校は集団行動のトレーニングの場であり、共同生活の予行演習の場でもあります。全教員は教科指導の前に、生活規律・学習規律の指導者であることを再確認しなければなりません。規律の問題は、全教員が同じ指導基準で、褒めることも、叱ることも実行できなければなりません。許されないことは許されない、やらなければならないことはやらなければならない、ということが規律です。学校規範を掲げ、学習の規律を確立するためには、外部からお招きした指導者を含め、学校に関わるもの全員が指導者にならなければなりません。なかんずく、教員の「全員野球」は絶対不可欠の条件です。ひとたび、指導基準を決めた以上、子どもに対応するときの教員の個人差や価値観の違いを認めないことが管理職の役割です。
(6) 感化論再考
学校集団の「雰囲気(社会的風土と呼ばれます)」ができ上がれば、「感化」や「集団圧力」の機能が作動し、子どもは特別な指導をしなくても、「みんな」そうする-「ぼく」もそうする、という「同調」を始めます。そのようにして、人間社会が持っている常識や不文律ができ上がって行くのです。
誤解を恐れずに言えば、学習規律の確立や生徒指導の根本は、ひとり一人を大切にすることではありません。逆に、学校が要求する規律に例外を認めないことが不可欠です。それゆえ、個人指導よりは集団指導を優先し、一人ひとりの生活環境の背景や個人的事情を認めないことです。その時、初めて、「学校の風土」が形成され、すこしずつ「校風」という見えない「風」が子どもの上に吹き始めるのです。全員の生活規律を確立することが先なのです。
もちろん、引き蘢りや不登校など病的な不適応や耐性の低い子どもには、場面に応じた臨床上の個別指導は必要ですが、その場合ですらも、集団が個人を迎え入れることが出来れば、集団自体が個人を治癒して行くことができます。それが「感化」です。
(7) 学力の診断と重点指導
学力の第1条件は体力です。体力のない子どもは机に向かい続けることが出来ません。第2条件は、集中と持続を保障する耐性です。第3は、他律に従う学習の規律です。第4は、学力不振の実態の正確な診断です。第5が、診断に基づいた重点指導です。「加配教員」(地域の事情に応じて定員以上に教員を配置するシステム)を配置しているところは、時差出勤制を取って学力の不振な子どもの特別指導を組織化するべきです。いくら言っても職員会議も校長さんも教育行政も、時差出勤を制度化できませんね。他の職業分野では時差出勤どころかワークシェアリングまで実施している時代なのですから、要するに、最大の障碍は教育界の「やる気」の問題なのです。子どもの背景を為す環境が問題であると言うのであれば、環境のマイナス面を補う「補修授業」でも、「特別指導」でもするのが世間の常識というものです。「子どもの自尊感情を確立しよう」とか「一人一人の個性を生かそう」とか、「いじめをなくそう」、「差別を根絶しよう」などと教育上のスローガンを何回叫んでも学力は上がりません。学力を上げてやらなければ、子どもは複雑な文明社会で生き抜くことはできません。職業を身に付けて、世間の信用を得なければ差別を跳ね返してゆくことも出来ないのです。しかし、生温い学校の閉鎖性の故に、世間の常識は、学校の常識にはならないのです。なぜ、世間は公立より私立の中学を選ぶのか?それは保護者の公立学校に対する評価の結果ではないのか?教員は自分の問題として考えたことはあるのでしょうか?
生涯学習の未来学
「未来の必要」から論じる
第92回生涯学習フォーラムinふくおか
ようやくフォーラムの討議が軌道に乗ったように思います。報告者の森本精造教育長、司会の大島まな准教授が「未来の必要」から論じるという視点を採用して下さったからだと確信しています。現状のシステムや枠組みを前提として論じている限り、問題を正しく捉えることも、適切な処方を提案することも難しいということがようやく議論の前提になりました。以下は筆者が提出した論文の前半です。
1 分業の固定化・専門の固定化
日本の多くの組織,なかんずく行政組織は、多くの問題を個別化し,専門化と分業化で解決しようとして来ました。ひとたび分業化された解決法は縦割り行政の仕組みの中で必ず固定化して行きます。先例主義はここから始まります。
人々を取り巻く生活課題が変わっても、背景を成す状況が総合化しても、従来の対策は、いつも、分業のたこつぼの中に取り残されてきました。日本のシステムが新しい状況に対応できないのは、分業の固定化・専門の固定化が問題の根源にあります。幼保一元化の問題も,学校の閉鎖性の問題も,高齢者教育も、過疎対策も、子育て支援も、分業化された行政の仕組みや、専門・分化した研究の発想の呪縛から逃れられなくなっているのです。
たとえば,子育て支援と言う以上、「支援」には、「安全の確保」も、「健康の管理」も、「子どもたちの交流」も、「発達支援」の機能も全てが含まれるべきであることは理の当然です。しかし、福祉の保育部門が担当すると決めた途端に、学童保育の分業の枠に閉じ込められることになります。行政分業の枠に囚われると,「保育」以外はやってはいけない、保育以外はやりたくない、という発想に陥るのです。
高齢者の問題も,過疎の問題も,男女共同参画の問題も,行政の担当部局を決めた途端に,担当部局が担当すべきとされている分業化の論理に呪縛されるようになっているのです。もちろん、担当課以外の部局はそっぽを向きます。「オレたちの仕事ではない」という論理、「仕事を増やすな」という論理、「手柄をあいつらにやるな」という論理が一人歩きを始め、他部局の協力は得られないということです。分業化は,ある意味では効率化ですが,別の意味では「セクト化」です。セクト化は「たこつぼ化」です。問題を多角的に見ることをしなくなるのです。総合的な問題、新たに発生した問題を解決できる筈はないのです。
2 行政の分業が発想の「たこつぼ」化を招いた
もちろん、特定の問題には、特定の原因があり、特定の解決法があります。それゆえ、分業化に適した問題の解決法がある事は当然ですが、一方には、分業では解決の出来ない多面的、総合的な問題もあります。日本の政治や行政は、既存のシステムに呪縛され、先例に囚われ、問題は、分業化と専門化で解決できるという信仰に囚われているようです。ひとたびでき上がった分業は,問題別分析に囚われ、木を見て、「森」が見えなくなります。特に新しく浮上した「少子化対策」などの総合的問題には、既存の分業システムでは歯が立つ筈はないのです。ようやく、「少子化担当の国務大臣」を発令するところ迄はきましたが、学校施設の活用は文科省の管轄下にあり、学童保育は厚労省の所管にあり、男女共同参画は総理府が推進しという具合で、担当大臣の下に権限と所管業務を集中させることができないのです。
新しい状況から生まれた新しい問題にどのような解決法が最適であるか,総合的に分析・診断する習慣を失っているのです。行政の分業が発想を「たこつぼ」化し、対応策の分業を固定化しているのです。それゆえ,あらゆる問題は,当該問題に最も近いと想定される行政部門にその解決が委ねられます。行政部門は他の行政部門の機能に助けを求めることは希有のことです。「省益」が一人歩きを始めるのです。文科省の事業は文科省の守備範囲で,厚生労働省の事業はそれぞれの部局の守備範囲でしか,問題設定も,解決策の構想も発想されていません。たとえば,過疎対策です。過疎地に対する総合的対策という意味では,政治も無力,行政も有効な手を打てていません。過疎は急速に進行しています。過疎地には雇用の機会がありません。若者が流出するのは当然です。雇用機会を創り出す思想が無いからです。
事実上,現代の日本では,誰も過疎問題に取組んでいないのではないでしょうか。農林省は,農業分野の特性からしか農村を見ようとしません。国土交通省はいわゆるインフラの観点から,道路とか,ダムという施策しか考えてきませんでした。地方の教育行政にしても,過疎問題や地域文化の問題を無視して,学校の統廃合を生徒数の減少という教育行政の効率の論理でしか考えないのです。
憲法が規定した「居住の自由」がある以上,人口の強制的な移動は不可能です。雇用のあるところに、利便性の高いところに人口は移動します。現代の過疎問題は,交流人口の義務的定期的移動によって解決せざるを得ないのです。唯一の方法は、子どもが少なくなった田舎の学校に、都市部の学校から定期的に子どもを「短期留学」させればいいのです。具体的に論じる事は止めておきますが、子どもの交流は教育上大いに意義があります。そのためには学寮の完備,子どもたちの輸送手段の確保,先生方の出張手当、カリキュラムの学校別自主編成などの工夫が必要になります。換言すれば,学寮整備の「公共事業」が必要になり,都市部と過疎地の交流計画の策定が必要になり,学寮の世話や輸送を担当する新しい雇用を創出する労働政策が必要です。カリキュラムの自主編成を認めるためには、教育行政の地方分権が不可欠ですが、これらを総合的に実行できれば,学校の統廃合を防ぐことができることはもちろん,過疎を止めることができるのです。昭和50年に,当時の国土庁の研究事業として提案された「セカンドスクール構想」には、国土の均衡発展という観点から,教育も,過疎対策も,雇用政策も,地方分権も,公共事業も,多様な分野を組み合わせた知恵があったのです。無視したのは、分業化され、たこつぼ化した当時の縦割り行政です。
民主連立政権は、”不急・不要な“公共事業を停止しようとする英断をしましたが,緊急・不可欠な公共事業の実行を英断して初めて、英断の論理が完結します。過疎対策は待ったなしです。ひとたび、地域の結束と連帯の核となった学校機能を消滅させれば、地域の再生は容易ではありません。「総理府」が機能しなかったのも、「セカンドスクール構想」を顧みることがなかったのも,停滞の根源は、分業が固定化した縦割り行政組織の問題でした。細分化され、分業化された行政の在り方を,建設的に破壊して総合化する発想さえあれば、課題の解決は可能なのです。総合化の戦略は、専門化と分業化の前で窒息しているのです。
3 総合的課題は総合的仕組みを必要とする
問題が総合的であれば,その解決には総合的仕組みが必要になります。
総合的な問題の解決には、「診断」が何よりも大切です。診断の順序を箇条書き的に言うと次のようになります。
「問題」を発見し→問題の背景を精査し→問題間の関連を特定し、→先例や現在の分業システムに囚われず問題解決に必要な仕組みを考える→必要な要素を組み合わせて事業化(プログラム化)する→事業の実施に必要な行政チームを組織化して権限を与える。これだけのことができれば,総合的な事業が,行政の分業を越えて動き出します。
具体例を挙げれば、「むなかた市民学習ネットワーク事業」や「豊津寺子屋」です。飯塚市の「熟年者マナビ塾」もその一つです。スローガンは、事業の性質上,結果的に「一石数鳥」ということになります。なぜなら問題が総合的である,ということは,目標も答も一つではないということです。解決策が複数の要因に亘って総合的でなければ求める答は出ないということです。仕組みの問題が重要になるのはそのためです。
「むなかた市民学習ネットワーク事業」は、総論的には、市民による市民のための生涯学習システムの構想ですが、各論的には、「ボランティアの発掘・養成・研修・活用」であり、「市民教授を活用した社会教育の創造」であり、同様に「学校教育への支援」であり、結果的に生涯学習推進財政の軽減であり、地域内施設の活用であり、「市民交流の促進」による「住民融和の方策」でもありました。
また、「豊津寺子屋」は、家族(女性)のための「子育て支援」であり、子ども自身のための「発達支援」であり、「住民指導者の発掘と養成によるボランタリーなコミュニティ・サービスの創造」であり、「高齢者に焦点化した活動舞台の創出」であり、「世代間の交流の促進」であり、「生き甲斐の創出」であり、「高齢者の活力の維持・存続のための事業」です。学校施設をフル活用することを伴うコミュニティ・スクールの創造でもあります。
「熟年者マナビ塾」の目的も,当然、複合的です。もし、地方政治や教育行政や学校教職員が、現在ほど分業化信仰に陥っていなければ、豊津寺子屋と「学社連携」を同一地平線上に発想したことでしょう。そうなれば、生活科の学習も、総合的学習も一気にその質・量の拡大と高度化につながることは疑いないのです。「学社連携」と言い,「学社融合」と言ったところで教育行政の範囲でしか考えられていないことであり、「市民学習ネットワーク事業」も、「豊津寺子屋」も、既存の分業の仕組みを変えて構造化しなければ、発想できないことなのです。「高齢者の生き甲斐や生きる力を保持する方策」も、「子育て支援と発達支援を組み合わせる方策」も、男女共同参画のまちづくりの政策も、現状の教育行政や行政分業の単一枠の範囲に収まる筈はないのです。
その意味では、臨教審が生涯学習の課題を、当時の総理大臣の下で審議したことは画期的な意義があったのです。生涯教育-生涯学習が文部科学省の分業の枠組みに収まる筈はなかったのです。しかし、総理大臣の下に議論の「場」は設定されても、行政分業の枠組みを変えることはなく、解決すべき問題設定も行なわれませんでした。総理大臣を頂いた折角の総合的検討の機会は、「仕組み」の変更やシステムの弾力化にも至りませんでした。
「むなかた市民学習ネットワーク事業」も、「豊津寺子屋」も、その成功の背景には、総合的な問題は総合的に取り組まなければ達成できない,ということをそれぞれの自治体のトップが理解したという事実があります。政治決断があったが故に可能になった事業です。それゆえ、後日、分野横断的な仕組みと問題の総合性を理解しない「首長」が登場して,現行の行政分業の仕組みに合わせようとしたから、両事業ともに、その潜在的可能性を著しく矮小化してしまったのです。
生涯教育や生涯学習という概念は,人間の一生の時間系列に添って登場する社会的課題や発達課題に対応する「適応」の思想です。変化は生活の全分野に及ぶのですから、教育行政だけで対応できる筈はなかったのです。また、社会教育という呼び名の通り、学校を除く、社会で行なわれる全ての教育活動で行なうことは可能でしたが、社会教育を文部科学省の教育行政の中に閉じ込めて,発想する事も当初から不可能な事だったのです。「社会で行なわれる教育」と「社会教育」とは違うものなのです。しかし,現実の社会教育は文部行政の守備範囲でのみ問題解決が発想されました。それが分業化の論理です。事態が複雑化すれば、行政の守備範囲を超えた対応が必要になる事は日を見るより明らかだったのです。厚生行政には健康教育の必要が発生しました。労働行政には生涯職業教育の必要が生じました。このような明らかな現象を延々と無視して来たところに日本の生涯学習振興策の無謀がありました。そして無策のままに今度は生涯学習振興行政を首長部局に移行させるということが起こって来ているのです。今回の民主連立政権が「国家戦略室」を創設しましたが、組織の原理は、「国家の戦略を総理する」とうことですから、思想的には従来の「総理府」と多く変わるところはないでしょう。唯一の問題は、従来の行政分業を打破して、総合的課題に総合的に対処する発想が可能か、否かが問われることになるのです。
前回福岡県立社会教育総合センターが分析してくれた多くの優れた「交流会」の事例の大部分も,単発の専門化した事業に過ぎません。25年間も続いている宗像市の「市民学習ネットワーク」事業ですら愚かな教育行政が,社会教育と学校教育を分けて考えた結果,市民の優れた人材が学校への関わりを断たれています。分業化した行政は、「たこつぼ」化した発想しか思いつかなくなっているのです。佐賀市の勧興公民館の「コミュニティまつり」の発想が行政分業の「殻」や「枠」を見事に打ち破っているのは秋山千潮館長さんが行政の人ではなく,普通の人間だったからでしょう。そう言う意味では30年近く積上げて来た多くの事例は、個々の試みが優秀であったとしても、行政の分業化に呪縛され,制約された事例が多いのです。
平成22年(2010年)の更新のご案内(第1回)
1 メールマガジンをご希望の方は「風の便りーメールマガジンを希望する」というタイトルで三浦までメールをお送り下さい。平成22年1月号(121号)から「メルマガ」をお送りします。一切の費用は必要ありません。
2 平成22年も、これまで通り「風の便り」の実物(ハードコピー)をご希望の方は郵送料と印刷費の合計年間2,000円をお送りください。
3 12月号は120号になります。お蔭さまで10年元気に書き続けることができました。陰に陽に、お付き合いいただき、ただただありがたく深くお礼申し上げます。メッセージカードを同封します。ご自由に感想をお聞かせ下さい。
4 年をとって、時に体調の不良を感じる時があります。降圧剤の世話にもなり始めました。ボロボロになってもがんばり続ける所存ですが、万一、小生が事故や病いに倒れるなどの場合は、そのまま筆を置きます。頂いた郵送料等の返還はいたしませんが、ご寛容にお許し下さい。
118号お知らせ
1 第93回生涯学習フォーラムin愛媛
中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会に愛媛県のご参加を得た記念とご挨拶を兼ねて愛媛の「地域教育実践研究会21」に合流するフォーラムを企画しました。久々の修学旅行のつもりでご同行下されば嬉しい限りです。
日時:平成21年11月14日(土)13:00-15日(日)12:30まで
場所:国立大洲青少年交流の家
実行委員会事務局:kouma@d6.dion.ne.jp,-080-1995-6001
詳細情報:http://1st.geocities.jp/chiikikyouiku/をごらんください。
2 お詫びと日程の訂正
第94回生涯学習フォーラムinふくおかは忘年例会も兼ねて12/12(土)の予定です。詳しくは次号でお知らせします。(前回は12/19とお知らせしましたが、諸般の事情で一週間繰り上げることになりました。ご迷惑をおかけしましたら、どうぞお許し下さい。)
第1部 論文発表:第92回で飯塚市の森本精造教育長からご発表・ご提案のあった論点を中心に討議を続けます。
テーマは「未来の必要から論じる生涯学習振興政策」(三浦清一郎)です。
第2部 事例研究:報告者は、古市勝也九共大教授、大島まな九州女子短期大学准教授のお二人の予定です
テーマは「未来につなげるべき実践、未来の必要から創造すべき生涯学習のプログラム」です。当面の予定は「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」28年の歴史に学ぶ、を主要テーマとして何回か連続して行なう予定です。
3 第95回生涯学習フォーラムin米子
米子児童文化センターの15周年事業に便乗して、鳥取県西部のみなさまが集まって下さいます。日吉津村(ひえずむら)の橋田先生を中心に計画が進行中です。冬の日本海の温泉を楽しみながら皆さんで語り合おうという計画です。1月30日(土)夜;大交流会、1月31日(日)午後;米子フォーラムの予定です。
4 第5回山口人づくり、地域づくりフォーラム
今年度は、2月13日-14日(土-日)の予定です。関心のある方は山口県生涯学習推進センター(〒754-0893山口市秋穂二島1062、電話083-987-1730)までお問い合せ下さい。
編集後記
読者へのメッセージに代えて
おかげさまで「風の便り」はもうすぐ10年になります。大きな変化の10年でした。大学改革の失敗の無念を晴らそうともがき苦しんだ前半の5年でした。それでも「後に未来はない」とようやく悟り、前だけを向いて生きようと決めた後半の5年でした。長かった10年でもあり、あっという間の10年でもありました。多くの読者と晩年のお付き合いが出来た自分は果報者であります。現在の状況をもって、未来のあり方を決めることはできないということですね。まさしく想像もしなかった10年の展開でした。考えれば考えるほど読者の皆様に支えていただいた10年でした。本当にありがとうございました。
夫れ 天地は万物の逆旅なり
光陰は百代の過客なり
而して 浮生は夢の若し
まさしく夢のごとき10年でした。今年中に新しい著書を出版します。タイトルは「がんばるのやめますか、それとも人間やめますか」としました。もうすぐ古希を迎える自分への問いかけのつもりです。この間、実に多くの社会教育の実践の現場に巡り逢うことができました。自分としては20年が限界であろうと考えていた「中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会」が30年も続くことになるとは望外の喜びです。途中から仲間と始めた「生涯学習フォーラム」も92回を数えました。
「風の便り」は10年一区切りで、筆を置く予定でしたが、ぼろぼろになるまで「がんばって」を書き続けることにいたしました。新著で主張した通り、それが人間の証明であると考えるようになりました。
日常の生きる指針は「The Active Senior」に書いた通り、「読み、書き、体操、ボランティア」です。別名は「負荷の教育論」です。「負荷」をかけ続けている甲斐あって、今のところ、研究の現場に恵まれ、分析も論述も昔に比べて衰えたとは思いませんが、「生きる力」の第1条件であると自ら主張して来た「体力」は確実にかつ著しく落ち始めています。読者の皆様には誠にご迷惑なことでしょうが、もうしばらく筆者の挑戦にお付き合いを頂ければ幸いでございます。あとどのくらい書き続けられるか全く予想も出来ませんが、全力を尽くすことだけはお誓い申し上げます。しかし、無常の人生、不幸にして中途で倒れました場合には、お約束を守れなくなりますが、どうぞご寛容にお許し下さい。
後屈の紅葉を越えた蒼空に
吾を励ますひとひらの雲